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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

1987年(昭和62年)9月22日建立。 合祀者506柱。(1)

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軍艦神通戦没者慰霊碑

碑文

軍艦神通戦没者慰霊碑

軍艦神通について

神通は、5500トン型巡洋艦の最終グループである川内型巡洋艦の2番艦である。 日露戦後の海軍国防方針は、アメリカを主敵とし、来攻するアメリカ艦隊を日本近海での迎撃決戦で撃破するというものであった。 このためには、主力艦隊前方で偵察や索敵、艦隊決戦時に水雷戦隊の嚮導にあたる巡洋艦を多数必要とした。  これに対応して、大正5年度計画で天龍型巡洋艦(常備排水量3,500トン、33ノット、14cm砲4門)2隻を建造した。 続く大正6年の八四艦隊計画では、天龍型と同型の3,500トン型巡洋艦6隻と7,200トン型巡洋艦3隻が計画されたが、3,500トン型は列強の巡洋艦に比して非力であると判断され、引き続く八六艦隊案の策定にあたっては計画の見直しを行い、全ての巡洋艦を5,500トン型に統一して建造することとした。 なお、7,200トン型巡洋艦への統一は建造費の問題があって、断念されたようである。

5500トン型巡洋艦は天龍型の船型を拡大し、砲力と速力の強化を図ったもので、最初のグループである球磨型では14cm砲7門、53cm連装魚雷発射管4基、速力36ノットとされた。 長良型は主砲と速力はそのままに、搭載魚雷を61cmに強化して、連装魚雷発射管4基を装備した。 続く川内型では重油消費量を抑えるため、混焼缶比率を高めたことで缶室配置が変わり、4本煙突艦となった。 主砲は列強巡洋艦の15.2cmに対して14cmを採用している。 これは、砲弾重量を当時の日本人の体格に合わせて軽いものにし、単位時間当たりの投射量と砲撃持続時間を確保したかったためである。 また、一号機雷とその敷設装置のため、艦後部の砲はシェルター甲板上に装備とされている。 一号機雷は機雷4個を長さ100メートルの連繋索で繋いだもので、これを敵艦隊前方の海面に投下し、敵艦隊の漸減または混乱を狙ったものであった。  この一号機雷の連繋索を乗り切るために、艦首は水線部で30°の角度で後方に傾斜し、水面下では大きなカーブを描いて艦底に達する形状とされた。 球磨型では、水上偵察機1機が搭載されたが、デリックで海面に降ろして発進させなければならず、アメリカ巡洋艦オマハ型に比べて見劣りするものとなった。 このため長良型以降では艦橋下部に格納庫を設け、その前方に滑走台方式の発艦装置を装備したが実用性に乏しく、ほとんど使用されなかった。

1927年(昭和2年)8月24日、美保ヶ関沖で演習中、駆逐艦蕨と衝突。 蕨は沈没、神通は艦種下部を損傷した。 舞鶴工作部で翌年3月まで修理を行ったが、復旧にあたり艦首をS字またはダブルカーベチャー型と呼ばれる形状とした。 従来の艦首は水面下で大きなカーブを描いて艦底に達するラインを水面上に延長したような形状であったが、凌波性に問題があったため、水面上の形状を水面下と逆方向のカーブとし、フレアをつけたものとした。 1931(昭和6年)11月からの工事で、滑走台の上に呉式二号二型射出機を装備、水上偵察機を搭載した。 神通の近代化改装は1933(昭和8年)11月〜翌年7月に呉工廠で実施され、滑走台と射出機を撤去し、5番砲塔と6番砲塔の間のシェルター甲板上に呉式二号三型射出機を装備した。 また8cm単装高角砲は13mm連装機銃に換装された。 また開戦までに水雷兵装が九三式魚雷(酸素魚雷)16本と九二式4連装発射管2基とに換装された。

第二艦隊第二水雷戦隊旗艦として開戦を迎えた神通は、ダバオ攻略作戦他の南西方面攻略に従事、1942年(昭和17年)2月27日スラバヤ沖海戦に参加した。 ミッドウェー海戦には攻略部隊護衛隊として参加したが、作戦中止により帰投している。 8月にガダルカナル戦が始まると、トラックに進出、ガダルカナル作戦支援のため8月16日にトラックを発したが、25日にアメリカ軍機の攻撃をうけ前甲板に1発被弾、損傷した。 トラックで応急修理の後、呉に回航され、1943年(昭和18年)1月まで修理がおこなわれた。 1月16日に第二水雷戦隊に復帰した神通は、ガダルカナル島撤収作戦支援に参加、トラックに帰投は同地で待機、訓練に従事した。 6月14日〜19日には、ルオット島への隼鷹飛行機隊の人員、物件輸送任務に従事した。 7月12日にはコロンバンガラ島輸送作戦のためラバウルを発したが、コロンバンガラ沖夜戦で被弾沈没した。(2)

艦名

艦名は河川名。  神通川は、岐阜県飛騨地方の川上岳(かおれだけ:標高1,625.9m)にその源を発し、岐阜県では宮川と称し数々の支川と合流しながら高山市などを流れ、富山・岐阜県境付近では高原川と合流し神通川となる。 その後、神通峡などの山峡の地から富山平野に至り、富山市のほぼ中央を貫流し日本海へ注ぐ、幹川流路延長 120km、流域面積 2,720km2の河川である。(3)

要目(2)(4)(5)

竣工時近代化改装後
1934(昭和9年)
艦種二等巡洋艦
建造所川崎造船所
基準排水量 ※15,195トン
常備排水量 ※15,595トン
垂線間長152.40m
水線長158.50m
水線最大幅14.17m
喫水4.91m
主缶ロ号艦本式水管缶(重油専焼)8基
ロ号艦本式水管缶(石炭・重油混焼)4基
主機ブラウン・カーチス式オール・ギヤード・タービン4基
推進軸4軸
出力90,000馬力(計画)/94,883馬力(公試全力)
速力35.25ノット(計画)/35.1ノット(公試)33.3ノット(川内の値)
燃料重油:1050トン
石炭:580トン
重油:?
航続力14ノットで5,000浬
装甲水線64mm、甲板29mm
兵装50口径三年式14cm単装砲7基
40口径三年式8cm単装高角砲2基
61cm八年式連装発射管4基
八年式魚雷16本
50口径三年式14cm単装砲7基
九三式13mm4連装機銃1基
九三式13mm4連装機銃2基
61cm八年式連装発射管4基
八年式魚雷16本
射出機呉式二号三型射出機1基
航空機水上偵察機1機(定数)水上偵察機1機
乗員452名
その他1932(昭和7年)、滑走台の上に呉式二号二型射出機を装備。1934年(昭和9年)〜1935年(昭和10年)頃に主缶を重油専焼に改造。

1941年(昭和16年)頃に水雷兵装を九三式魚雷(酸素魚雷)16本と九二式4連装発射管2基とに換装。

最終時の兵装は以下(推定)。
50口径三年式14cm単装砲5基
40口径八九式12.7cm連装高角砲1基
九六式25mm3連装機銃2基
九六式25mm連装機銃2基
九三式13mm4連装機銃1基
61cm九二式4連装発射管2基
九三式魚雷(酸素魚雷)16本

※1:英トン(1.016メートルトン)

艦歴(6)

年月日履歴
1922年(大正11年)8月4日川崎造船所において起工。
1923年(大正12年)12月8日進水。
1925年(大正14年)7月31日竣工。 呉鎮守府籍に編入。
1925年(大正14年)8月15日第一艦隊第三戦隊に編入。
1925年(大正14年)12月1日第二艦隊第五戦隊に編入。
1926年(大正15年)3月30日中城湾発。 厦門方面行動。
1926年(大正15年)4月26日佐世保着。
1927年(昭和2年)8月24日美保ヶ関沖で演習中、駆逐艦蕨と衝突。 蕨は沈没、神通は艦首下部を損傷。 舞鶴工作部で翌年3月まで修理。
1927年(昭和2年)9月5日予備艦となる。
1928年(昭和3年)3月1日第一艦隊第三戦隊に編入。
1928年(昭和3年)3月29日有明湾発。 揚子江流域行動。
1928年(昭和3年)4月20日奄美大島着。
1928年(昭和3年)5月10日呉発。 山東出兵に参加。
1928年(昭和3年)6月16日宿毛着。
1928年(昭和3年)12月10日第一艦隊第一水雷戦隊に編入。
1929年(昭和4年)3月29日佐伯発。 青島方面行動。
1929年(昭和4年)4月22日佐世保着。
1929年(昭和4年)11月30日予備艦となる。
1930年(昭和5年)12月1日第一艦隊第三戦隊に編入。
1931年(昭和6年)3月29日佐世保発。 青島方面行動。
1931年(昭和6年)4月5日裏長山列島着。
1931年(昭和6年)12月1日第二艦隊第二水雷戦隊に編入。
1932年(昭和7年)2月6日佐世保発。 第一次上海事変に参加。
1932年(昭和7年)3月7日佐世保着。
1933年(昭和8年)6月29日佐世保発。 馬鞍群島方面行動。
1933年(昭和8年)7月5日馬公着。
1933年(昭和8年)7月13日高雄発。 南洋方面への遠洋航海に従事。
1933年(昭和8年)8月21日木更津沖着。
1933年(昭和8年)11月15日予備艦となる。
1933年(昭和8年)11月27日呉工廠で射出機新設工事。
1934年(昭和9年)7月15日工事完了。
1934年(昭和9年)11月15日第二艦隊第二水雷戦隊に編入。
1935年(昭和10年)3月29日油谷湾発。 馬鞍群島方面行動。
1935年(昭和10年)4月4日寺島水道着。
1935年(昭和10年)11月15日第一艦隊第八戦隊に編入。
1936年(昭和11年)4月13日佐世保発。 青島方面行動。
1936年(昭和11年)4月22日佐世保着。
1936年(昭和11年)9月26日佐世保発。 馬鞍群島方面行動。
1936年(昭和11年)11月21日呉着。
1936年(昭和11年)12月1日第二艦隊第二水雷戦隊に編入。
1937年(昭和12年)3月27日佐世保発。 青島方面行動。
1937年(昭和12年)4月6日有明湾着。
1937年(昭和12年)8月10日呉発。 以後、旅順を基地として11月15日まで北支方面行動。
1938年(昭和13年)4月9日佐世保発。 南支方面行動。
1938年(昭和13年)4月14日高雄着。
1938年(昭和13年)9月20日館山発。 中支方面行動。
1938年(昭和13年)9月27日佐世保着。
1938年(昭和13年)12月15日予備艦となる。
1939年(昭和14年)11月15日第二艦隊第二水雷戦隊に編入。
1940年(昭和15年)3月27日中城湾発。 南支方面行動。
1940年(昭和15年)4月2日基隆着。
1941年(昭和16年)2月26日中城湾発。 南支方面行動。
1941年(昭和16年)3月3日高雄着。
1941年(昭和16年)3月25日有明湾発。 中支方面行動。
1941年(昭和16年)4月4日佐世保着。
1941年(昭和16年)11月26日寺島水道発。
1941年(昭和16年)12月2日パラオ着。
1941年(昭和16年)12月6日ダバオ空襲部隊支援のためパラオ発。
1941年(昭和16年)12月14日パラオ着。
1941年(昭和16年)12月17日ダバオ攻略作戦のためパラオ発。
1941年(昭和16年)12月26日ホロ島攻略作戦に参加。
1941年(昭和16年)12月29日マララグ湾着。 警泊。
1942年(昭和17年)1月9日メナド攻略作戦のためマララグ湾発。
1942年(昭和17年)1月18日マララグ湾着。 次期作戦準備。
1942年(昭和17年)1月26日バンガに向けマララグ湾発。
1942年(昭和17年)1月27日バンガ着。
1942年(昭和17年)1月28日アンボン攻略作戦のためバンガ発。
1942年(昭和17年)2月4日アンボン湾内行動。 上陸作戦支援。
1942年(昭和17年)2月8日ケンダリー着。
1942年(昭和17年)2月9日ケンダリー発。
1942年(昭和17年)2月10日アンボン着。 次期作戦準備。
1942年(昭和17年)2月17日クーパン攻略作戦のためアンボン発。
1942年(昭和17年)2月21日クーパン着。
1942年(昭和17年)2月24日クーパン発。
1942年(昭和17年)2月25日マカッサル着。 同日、マカッサル発。
1942年(昭和17年)2月27日スラバヤ沖海戦に参加。
1942年(昭和17年)3月4日クラガン沖着。
1942年(昭和17年)3月12日マカッサルへ回航。
1942年(昭和17年)3月15日マカッサル発。
1942年(昭和17年)3月23日呉着。
1942年(昭和17年)3月28日呉工廠に入渠。
1942年(昭和17年)4月6日呉工廠を出渠。
1942年(昭和17年)4月19日ドーリットル空襲により、アメリカ機動部隊攻撃のため、呉発。
1942年(昭和17年)4月23日呉着。 訓練、整備作業。
1942年(昭和17年)5月21日呉発。 ミッドウェー攻略部隊護衛隊として参加。
1942年(昭和17年)5月25日サイパン着。 作戦準備。
1942年(昭和17年)5月28日サイパン発。 ミッドウェー海戦参加。
1942年(昭和17年)6月13日トラック着。
1942年(昭和17年)6月15日トラック発。 輸送船団護衛。
1942年(昭和17年)6月21日横須賀着。
1942年(昭和17年)6月24日柱島へ回航。
1942年(昭和17年)6月28日横須賀へ回航。 整備作業。
1942年(昭和17年)8月11日トラックへ向け横須賀発。
1942年(昭和17年)8月15日トラック着。
1942年(昭和17年)8月16日ガダルカナル島作戦支援のためトラック発。
1942年(昭和17年)8月25日アメリカ軍機の攻撃をうけ前甲板に被弾1発。
1942年(昭和17年)8月28日トラック着。 応急修理。
1942年(昭和17年)9月25日呉鎮守府部隊に編入。
1942年(昭和17年)10月2日呉に向けトラック発。
1942年(昭和17年)10月8日呉着。 修理、整備作業。
1942年(昭和17年)11月29日呉工廠に入渠。
1942年(昭和17年)12月28日呉工廠を出渠。
1943年(昭和18年)1月10日諸公試のため出動。
1943年(昭和18年)1月16日第二艦隊第二水雷戦隊に編入。
1943年(昭和18年)1月18日カビエン着。
1943年(昭和18年)1月24日トラック着。 警泊。
1943年(昭和18年)1月31日トラック発。 ガダルカナル島撤収作戦支援。
1943年(昭和18年)2月9日トラック着。 警泊、訓練。
1943年(昭和18年)6月14日トラック発。 隼鷹飛行機隊の人員、物件を輸送。
1943年(昭和18年)6月16日ルオット着。 輸送物件を揚陸。
1943年(昭和18年)6月17日トラックに向けルオット発。
1943年(昭和18年)6月19日トラック着。 訓練、整備作業。
1943年(昭和18年)7月8日ラバウルに向けトラック発。
1943年(昭和18年)7月10日ラバウル着。 対空戦闘に従事。
1943年(昭和18年)7月12日ラバウル発。
1943年(昭和18年)7月12日ショートランド着。 同日、ショートランド発。
1943年(昭和18年)7月12日コロンバンガラ沖夜戦で被弾沈没。
1943年(昭和18年)9月10日除籍。

参考資料

  1. 梶本光義(編集責任者).呉海軍墓地誌海ゆかば:合祀碑と英霊.呉海軍墓地顕彰保存会,2005,p56
  2. ab雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 15巻 軽巡川内型・阿賀野型・大淀・香取型.東京,光人社,1997,p22-28
  3. 日本の川 - 北陸 - 神通川 - 国土交通省水管理・国土保全局.https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0411_jintsu/0411_jintsu_00.html.2021年2月12日確認
  4. 日本巡洋艦史.東京,海人社,1991,p108,195,世界の艦船.No.441 1991/9増刊号 増刊第32集
  5. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p41,42
  6. 前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 15巻 軽巡川内型・阿賀野型・大淀・香取型.東京,光人社,1997,p37