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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

1970年(昭和45年)6月10日建立。 合祀者85柱。(1)

伊号第122潜水艦戦没者慰霊碑

碑文

伊号第122潜水艦戦没者慰霊碑

伊号第122潜水艦について

伊号第百二十二潜水艦は、大正十二年度計画で建造された伊号第百二十一型(機雷潜型)潜水艦の2番艦である。

第一次世界大戦で戦勝国となった日本は、戦利艦として7隻のUボートを得た。 1919年大正8年)6月、横須賀に到着したUボートは、〇一潜水艦(旧U125)、〇二潜水艦(旧U46)、 〇三潜水艦(旧U55)、〇四潜水艦(旧UC90)、〇五潜水艦(旧UC99)、 〇六潜水艦(旧UB125)、 〇七潜水艦(旧UB143)の仮称が与えられ、潜水艦の実験等に利用された。 この中で最も注目を浴びたのは、日本海軍が保有しない新型の機雷敷設装置と、10,000浬を超える航続力および優れた航洋性備えた、大型機雷敷設潜水艦の〇一潜水艦(旧U125)であった。

本型は、U125をほぼコピーした潜水艦で、原型との相違点は備砲と魚雷発射管を日本式に改めたことと、南洋での行動を考慮して冷却機を装備するため船体を若干延長した程度である。 艦尾に2本の機雷敷設筒を装備し、機雷庫には八八式機雷42個を搭載した。 竣工時の艦名は伊号第二十二潜水艦であったが、1938年(昭和13年)6月1日に伊号第百二十二潜水艦と改名している。

開戦時には第六潜水戦隊第十三潜水隊にあり、シンガポール方面で機雷敷設に従事、1942年(昭和17年)に入るとオーストラリア方面での監視任務に従事した。 その後、二式大艇によるハワイ偵察支援(燃料補給)のため、機雷庫をガソリンタンクに改造するなどの工事が実施された(3月21日に呉に帰投したときに実施されたと考えられる)が作戦は実施されなかった。 8月にガダルカナル戦が始まるとソロモン方面へ進出し、偵察や水偵への燃料補給に従事した。 1943年(昭和18年)3月にはラバウルに進出、ラエ輸送に10回従事した。 1943年(昭和18年)9月1日、呉に帰投して以後は内海で練習潜水艦として使用された。 1944年(昭和19年)6月10日舞鶴から七尾湾に回航中、石川県禄剛岬灯台付近でアメリカ潜水艦「スケート (Skate)」の雷撃を受け沈没した。(2)(3)

要目(2)(4)(5)

新造時
艦種一等潜水艦
艦型機雷型(伊二十一型)
建造所川崎造船所
水上排水量 ※11,142トン(基準)/1,383トン(常備)
水中排水量 ※11,768トン
垂線間長82.20m
全長85.20m
最大幅7.52m
喫水4.42m
主機ラウシェンバッハ式1号ディーゼル2基、2軸
主電動機閉鎖通風型2基
蓄電池
出力2,400馬力(水上)/1,100馬力(水中)
速力14.9ノット(水上)/6.5ノット(水中)
燃料重油:225トン
航続力8ノットで10,500浬(水上)/4.5ノットで40浬(水中)
乗員51名
兵装40口径十一年式14cm単装砲1基
.留式7.7mm単装機銃1基
★★十年式53cm魚雷発射管4門(艦首)
6年式魚雷12本
機雷敷設筒2基(艦尾)
八八式機雷42個
安全潜航深度75m
その他1942年(昭和17年)5月、二式大艇のハワイ偵察における燃料補給潜水艦として機雷庫を燃料タンクに改造。

※1:英トン(1.016メートルトン)

艦歴(3)(6)

年月日履歴
1923年(大正12年)7月19日第四十九潜水艦と命名する。
1924年(大正13年)11月1日伊号第二十一潜水艦と改名。 
1925年(大正14年)2月28日神戸川崎造船所において起工。 
1926年(大正15年)11月8日進水。 
1927年(昭和2年)10月28日竣工。 本籍を横須賀鎮守府と定める。 横須賀鎮守府部隊に編入。
1927年(昭和2年)11月1日第九潜水隊(新編、横須賀防備隊・横須賀鎮守府部隊)に編入。
1930年(昭和5年)12月1日第九潜水隊から除かれる。
1931年(昭和6年)10月15日第十三潜水隊(新編、呉鎮守府部隊)に編入。 本籍を横須賀鎮守府から呉鎮守府に変更。
1932年(昭和7年)10月15日第二予備潜水艦と定める。 
1933年(昭和8年)6月25日第一予備潜水艦と定める。 
1933年(昭和8年)8月25日第二予備潜水艦と定める。 
1933年(昭和8年)11月5日第一予備潜水艦と定める。 
1935年(昭和10年)4月機関の特定修理を実施。
1935年(昭和10年)11月15日第十三潜水隊は呉防備戦隊(呉鎮守府部隊)に編入される。 
1936年(昭和11年)8月1日第一予備潜水艦と定める。 
1936年(昭和11年)10月16日第二予備潜水艦と定める。 
1937年(昭和12年)9月1日第一予備潜水艦と定める。 
1937年(昭和12年)10月20日第十三潜水隊は第四艦隊(支那方面艦隊)付属に編入。 
1937年(昭和12年)11月20日第十三潜水隊は封鎖部隊(第四艦隊)主隊に編入、第四艦隊司令長官の直率下に、支那沿岸の封鎖監視作戦を下令される。 
1937年(昭和12年)12月1日第十三潜水隊は第三潜水戦隊(第四艦隊)に編入。第十三潜水隊は封鎖部隊(第四艦隊)北支封鎖部隊(第四航空戦隊)北支監視部隊(第三潜水戦隊)主隊に編入、各監視部隊の支援を下令される。 
1937年(昭和12年)12月12日〜17日隊は旅順から北支沿岸の監視哨戒に向かい、旅順に帰着。 
1937年(昭和12年)12月19日〜24日旅順から北支沿岸の監視哨戒に向かい、旅順に帰着。 
1937年(昭和12年)12月25日〜26日旅順から北支沿岸の監視哨戒に向かい、旅順に帰着。 
1938年(昭和13年)1月2日第十三潜水隊はB部隊(第四艦隊)制圧隊(鮮海丸砲艦長指揮)に編入、青島攻略の上陸点東方の警戒を下令される。 
1938年(昭和13年)1月2日〜4日旅順から北支沿岸の監視哨戒に向かい、旅順に帰着。 
1938年(昭和13年)1月5日〜6日戦隊は旅順から裏長山列島に移り、作戦打合せ。 
1938年(昭和13年)1月8日〜10日隊は裏長山列島から青島沖に向かい、姜可庄沖に進出して、攻略作戦を支援、警戒。 
1938年(昭和13年)1月28日第十三潜水隊はC部隊(第三潜水戦隊)主隊に編入、芝罘の占拠作戦の全般支援を下令される。 
1938年(昭和13年)1月30日旅順に帰着、待機。
1938年(昭和13年)2月1日第十三潜水隊は北支部隊(第四艦隊)北支監視部隊(第三潜水戦隊)に編入、北緯33度以北の封鎖監視を下令される。
1938年(昭和13年)2月5日〜12日隊は旅順から北支沿岸の監視哨戒に向かい、旅順に帰着。 
1938年(昭和13年)2月14日隊は旅順から北支沿岸の監視哨戒に向かう。 
1938年(昭和13年)2月19日第三潜水戦隊主力は北支監視部隊主隊に復帰。 
1938年(昭和13年)2月21日佐世保に帰着、入渠修理。 
1938年(昭和13年)6月1日伊号第百二十一潜水艦と改名。 6月1日施行。 
1938年(昭和13年)3月16日佐世保から北支沿岸の監視哨戒に向かう。 
1938年(昭和13年)3月16日劉公島に陸戦隊30名を揚陸。 
1938年(昭和13年)3月31日旅順に帰着。 
1943年(昭和18年)4月2日〜10日隊は旅順から北支沿岸の監視哨戒に向かい、旅順に帰着。 
1943年(昭和18年)4月12日〜25日隊は旅順から北支沿岸の監視哨戒に向かい、旅順に帰着。 
1943年(昭和18年)4月28日〜5月6日隊は旅順から北支沿岸の監視哨戒に向かい、旅順に帰着。 
1943年(昭和18年)5月8日〜9日隊は旅順から北支沿岸の監視哨戒に向かい、旅順に帰着。 
1943年(昭和18年)5月11日〜18日隊は旅順から北支沿岸の監視哨戒に向かい、旅順に帰着。 
1943年(昭和18年)5月20日〜31日旅順から北支沿岸の監視哨戒に向かい、旅順に帰着。 
1943年(昭和18年)6月3日〜10日旅順から北支沿岸の監視哨戒に向かい、旅順に帰着。 
1943年(昭和18年)6月21日〜19日旅順から北支沿岸の監視哨戒に向かい、旅順に帰着。 
1943年(昭和18年)6月20日第三潜水戦隊は解隊。 第十三潜水隊は呉鎮守府部隊に編入。 第十三潜水隊は北支部隊から除かれ、内地に帰投を下令される。 
1938年(昭和13年)6月20日〜22日隊は旅順から佐世保に帰着。 
1938年(昭和13年)12月15日第二予備潜水艦と定める。 
1939年(昭和14年)11月15日第二予備潜水艦を特別役務潜水艦と定める。 
1940年(昭和15年)5月1日特別役務潜水艦を第一予備潜水艦と定める。 第十三潜水隊は第五潜水戦隊(第四艦隊)に編入。 
1940年(昭和15年)5月17日隊は戦隊と南洋方面に向かう。 
1940年(昭和15年)9月22日隊は戦隊と呉に帰着。 
1940年(昭和15年)11月15日第十三潜水隊は第五潜水戦隊(第四艦隊)から除かれ、呉鎮守府部隊に編入。 予備潜水艦を警備兼練習潜水艦と定める。 練習のことに関しては、海軍潜水学校長の指揮を受けることと定められる。 
1941年(昭和16年)5月1日第十三潜水隊は第六潜水戦隊(第三艦隊)に編入。 警備兼練習潜水艦を予備潜水艦に改める。 練習のことに関して、海軍潜水学校長の指揮を受けることと定められたのを解く。 
1941年(昭和16年)5月11日隊は呉から佐伯湾に向かい、艦隊と合同。 
1941年(昭和16年)6月10日第六潜水戦隊は支那方面艦隊海峡部隊(第三艦隊)に編入、温州・履門間の沿岸封鎖を下令される。 
1941年(昭和16年)8月19日呉から南支方面に向かう。 
1941年(昭和16年)9月1日連合艦隊は戦時編制。 
1941年(昭和16年)9月7日呉に帰着。 
1941年(昭和16年)10月1日隊は呉から橘湾に向かい、艦隊と合同。 
1941年(昭和16年)11月5日第六潜水戦隊は南方部隊(第二艦隊)に編入、南方方面の要地攻略作戦の支援を下令される。 
1941年(昭和16年)11月15日第十三潜水隊は南方部隊(第二艦隊)馬来部隊(南遣艦隊)に編入、馬来方面の要地攻略作戦の支援を下令される。 
1941年(昭和16年)11月20日第十三潜水隊は馬来部隊(南遣艦隊)潜水部隊(第四潜水戦隊)に編入、シンガポール海峡の機雷敷設、監視を下令される。 
1941年(昭和16年)11月21日〜27日隊は佐世保から海南島三亜に進出、待機。 
1941年(昭和16年)12月1日シンガポール海峡に機雷敷設ののち、監視哨戒、気象通報を下令される。 三亜からシンガポール海峡東口に向かう。 
1941年(昭和16年)12月2日開戦は8日と下令される。 
1941年(昭和16年)12月7日20:38から22:41までの間に、シンガポール海峡東口の北緯1度40分、東経105度00分において、八五式着底分離式機雷42個を敷設し、21:45および23:37に気象通報に当たる。 のちオランダ潜水艦K17号が触雷と推定される。
1941年(昭和16年)12月8日0:36、気象通報ののち、海峡東方80浬で哨戒。 
1941年(昭和16年)12月10日〜14日シンガポール海峡東方を撤哨、カムラン湾に帰着。 
1941年(昭和16年)12月15日第十三潜水隊は馬来部隊(南遣艦隊)から除かれる。 南方部隊(第二艦隊)潜水部隊(第六潜水戦隊)に編入、比島方面の要地攻略作戦の支援を下令される。 バラバック海峡に機雷敷設ののち、スルー海ほかを索敵して、ミンダナオ島ダバオに進出を下令される。 
1941年(昭和16年)12月18日〜20日カムラン湾からバラバック海峡に向かい、20日機雷敷設ののち、スルー海に向かう。 
1941年(昭和16年)12月22日パラワン島プエルトプリンセサ沖に進出、索敵ののち、ミンダナオ海に向かう。
1941年(昭和16年)12月24日〜25日ミンダナオ海を索敵ののち、スルー海に戻り、バシラン海峡を経て、ダバオに向かう。 
1941年(昭和16年)12月26日第六潜水戦隊は南方部隊(第二艦隊)潜水部隊(第五潜水戦隊)甲潜水部隊(第六潜水戦隊)に編入、蘭印部隊の作戦に策応して、バンダ海、フロレス海、オーストラリア北水域において、敵艦隊攻撃、海上交通破壊、要地監視、機雷敷設を下令される。
1941年(昭和16年)12月27日ダバオに到着、待機。 
1941年(昭和16年)12月28日第六潜水戦隊の作戦区域は東経117度以東と定められる。 
1942年(昭和17年)1月8日隊はトーレス海峡に機雷敷設ののち、敵海上交通破壊を下令される。 隊はダバオからトーレス海峡に向かう。 
1942年(昭和17年)1月15日トーレス海峡に到着、機雷30個を敷設、バンダ海に向かう。 
1942年(昭和17年)1月18日〜19日ポートダーウィン沖に進出、索敵哨戒ののち、撤哨してバンダ海に向かう。 
1942年(昭和17年)1月19日〜24日バンダ海を撤哨して、ダバオに帰着。 
1942年(昭和17年)2月1日南方部隊潜水部隊指揮官は第四潜水戦隊司令官となる。 
1942年(昭和17年)2月5日トーレス海峡方面に出撃を下令される。 
1942年(昭和17年)2月9日ダバオからトーレス海峡方面に向かう。 
1942年(昭和17年)2月15日トーレス海峡南側に進出、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)2月25日伊号第百二十三潜水艦の機雷敷設作業を掩護。 
1942年(昭和17年)2月26.日トーレス海峡を撤哨して、スターリング湾に向かう。 
1942年(昭和17年)2月28日スターリング湾に帰着。 補給、待機。 
1942年(昭和17年)3月10日第三艦隊は解隊となる。 第六潜水戦隊は連合艦隊に編入。 第六潜水戦隊は南方部隊(第二艦隊)蘭印部隊(第二南遣艦隊)潜水部隊(第六潜水戦隊)に編入、次期作戦準備を下令される。 第十三潜水隊は内地に帰投、整備を下令される。 第十三潜水隊はスターリング湾から呉に向かう。 
1942年(昭和17年)3月15日第六潜水戦隊は南方部隊(第二艦隊)蘭印部隊(第二南遣艦隊)から除かれる。 南方部隊(第二艦隊)潜水部隊(第六潜水戦隊)に編入、次期作戦準備を下令される。 
1942年(昭和17年)3月21日第十三潜水隊は呉に帰着、整備。 
1942年(昭和17年)4月1日呉工廠に入渠、航空燃料補給装置の設置工事。 
1942年(昭和17年)4月10日第六潜水戦隊は解隊。 第十三潜水隊は第六艦隊付属に編入。 第十三潜水隊は南方部隊(第二艦隊)から除かれる。 先遣部隊(第六艦隊)に編入、次期作戦準備を下令される。 
1942年(昭和17年)5月5日連合艦隊第二期作戦部署により、第十三潜水隊はフレンチフリゲート礁ほかにおいて飛行艇等に対する補給任務を下令される。
1942年(昭和17年)5月8日第十三潜水隊は呉からクェゼリンに向かう。 
1942年(昭和17年)5月9日機械故障のため、呉に引き返し、同日着、入渠修理。 
1942年(昭和17年)5月12日出渠、出撃準備。 
1942年(昭和17年)5月13日呉からクェゼリンに向かう。 
1942年(昭和17年)5月21日K作戦終了後、レイサン島付近において、水偵等の補給任務を下令される。
1942年(昭和17年)5月23日クェゼリンに到着、補給。 
1942年(昭和17年)5月26日クェゼリンからレイサン島付近に向かう。 
1942年(昭和17年)5月31日第二次K作戦中止となり、レイサン島付近に配備を下令される
1942年(昭和17年)6月4日レイサン島付近の配備につき、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)6月5日第十三潜水隊はミッドウェー東方のA散開線(北緯26度40分、西経179度40分)に配備を下令され、レイサン島付近から西進、A散開線に向かう。 
1942年(昭和17年)6月6日第十三潜水隊はB散開線(西経170度、北緯23度40分〜25度40分)に配備、昼間は潜航待機を下令される。 
1942年(昭和17年)6月7日第十三潜水隊はT散開線(西経180度、北緯22度40分〜25度40分)に配備を下令される。 
1942年(昭和17年)6月8日引き揚げ中の敵機動部隊が、散開線通過の算大のため、第十三潜水隊は警戒を厳重にするとともに、進撃速度を水上14節と下令される。 第十三潜水隊は10日付けで、先遣部隊(第六艦隊)から除かれ、北方部隊(第五艦隊)に編入、アリューシャン方面の作戦を下令される。 
1942年(昭和17年)6月9日第十三潜水隊の北方部隊への編入は取り止めを下令される。 
1942年(昭和17年)6月12日T散開線に到着、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)6月15日撤哨して、内地に帰投、整備を下令される。 T散開線を撤哨し、横須賀に向かう。 
1942年(昭和17年)6月25日横須賀に帰着、入渠修理、整備。 
1942年(昭和17年)7月14日第十三潜水隊は第六艦隊付属から除かれ、第七潜水戦隊(第八艦隊)に編入。 第十三潜水隊は先遣部隊(第六艦隊)から除かれる。 外南洋部隊(第八艦隊)に編入、南東方面において、敵艦隊攻撃、海上交通破壊、索敵監視を下令される。 
1942年(昭和17年)7月16日〜24日横須賀からトラックに進出、待機。 
1942年(昭和17年)7月31日〜8月4日トラックからラバウルに進出、待機。 
1942年(昭和17年)8月7日アメリカ軍のガダルカナル島来攻により、第十三潜水隊は同方面に急行、インディスペンサブル海峡において敵艦船攻撃にあたるとともに、同方面の陸上見張所との連絡を下令される。
1942年(昭和17年)8月8日外南洋部隊(第八艦隊)は南東方面部隊(第十一航空艦隊)に編入。
1942年(昭和17年)8月9日サボ島付近に到着、ツラギ泊地方面の索敵に当たる。 
1942年(昭和17年)8月13日ツラギ南西3kmにおいて浮上偵察中、陸上から野砲および機銃で攻撃された。 被害はなく、退避後、偵察状況を報告。 
1942年(昭和17年)8月15日バニコロ、ラパイ、マネパイの偵察に当たる。 
1942年(昭和17年)8月16日ガダルカナル島所在部隊と、第八艦隊司令部との無線中継。 
1942年(昭和17年)8月20日第十三潜水隊はサンクリストバル島東方に配備を下令される。 ツラギ付近からサンクリストバル島東方に向かう。 
1942年(昭和17年)8月21日第七潜水戦隊は外南洋部隊(第八艦隊)から除かれる。 先遣部隊(第六艦隊)第七潜水部隊(第七潜水戦隊)に編入、ガダルカナル島奪回作戦の支援を下令される。 
1942年(昭和17年)8月22日第十三潜水隊はサンクリストバル島東方に配備を下令される。 サンクリストバル島東方に進出、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)8月23日第十三潜水隊は再び、インディスペンサブル海峡からガダルカナル島付近に配備の変更を下令される。 移動。 
1942年(昭和17年)8月24日呂号第三十四潜水艦とともに、ルンガ泊地の索敵攻撃を下令される。
1942年(昭和17年)8月26日マライタ島テリアリを偵察したが、敵情はなかった。 
1942年(昭和17年)8月29日ガダルカナル島およびサンクリストバル島の中間、北緯11度、東経161度を中心とする15浬圏内に配置を下令される。 
1942年(昭和17年)9月3日第七潜水戦隊はガダルカナル島方面を撤収、ラバウルに帰投を下令される。
1942年(昭和17年)9月6日9月11日以降、特令するまで、インディスペンサブル礁に進出、R方面部隊(第十一航空戦隊)の水偵に対する燃料補給任務を下令される。
1942年(昭和17年)9月7日ラバウルに帰着。 補給、待機。 司令潜水艦を伊号第百二十一潜水艦から当艦に変更。 
1942年(昭和17年)9月9日ラバウルからインディスペンサブル礁に向かう。
1942年(昭和17年)9月14日インディスペンサブル礁に進出、水偵に燃料を補給。
1942年(昭和17年)9月15日インディスペンサブル礁において待機していたが、敵機を発見し潜航退避したため、「聖川丸」の水偵2機のうち1機はショートランドに戻り、他の1機は空戦の被害で不時着。 インディスペンサブル礁において機体を焼却、搭乗員を収容した。 
1942年(昭和17年)9月16日インディスペンサブル礁において水偵2機に給油、待機。 
1942年(昭和17年)9月17日インディスペンサブル礁において水偵に給油、待機。 
1942年(昭和17年)9月18日インディスペンサブル礁において水偵に給油、待機。 
1942年(昭和17年)9月19日インディスペンサブル礁において水偵に給油、待機。 
1942年(昭和17年)9月20日インディスペンサブル礁において水偵に給油ののち、撤収してラバウルに向かう。 
1942年(昭和17年)9月23日ラバウルに帰着、補給、待機。 
1942年(昭和17年)10月4日先遣部隊(第六艦隊)丁潜水部隊(第七潜水戦隊)に編入、ラバウルにおいて修理、整備を下令される。 
1942年(昭和17年)10月8日丁潜水部隊の行動は指揮官所定と下令される。 
1942年(昭和17年)10月21日ラバウルからインディスペンサブル礁に向かう。 
1942年(昭和17年)10月25日インディスペンサブル礁に到着、伊号第二十六潜水艦と交替、水偵に対する燃料の補給に当たる。 
1942年(昭和17年)10月26日インディスペンサブル礁において水偵に補給、待機。 
1942年(昭和17年)10月27日インディスペンサブル礁において水偵に補給、待機。 丁潜水部隊はサンクリストバル島北東海面に散開待機、敵のガダルカナル島増援の阻止を下令される。 
1942年(昭和17年)10月28日インディスペンサブル礁から配備点に向かう。 
1942年(昭和17年)10月30日サンクリストバル海北東海面に進出、索敵哨威。 
1942年(昭和17年)10月31日先遣部隊丁潜水部隊に編入され、第七潜水戦隊司令官の指揮下に引き続き既令任務の続行を下令される。 
1942年(昭和17年)11月6日マライタ島南西方において、4:15、敵部隊と船団を発見したが、制圧攻撃を受け、攻撃の機会がなかった。 
1942年(昭和17年)1l月7日10日以降、インディスペンサブル礁において、対飛行機燃料補給に従事を下令される。 
1942年(昭和17年)1l月8日サンクリストバル島北東海面を撒哨、インディスペンサブル礁に向かう。 
1942年(昭和17年)11月10日インディスペンサブル礁に到着、水偵に補給、待機。 
1942年(昭和17年)11月11日インディスペンサブル礁において、水偵に補給、待機。 
1942年(昭和17年)11月12日インディスペンサブル礁において、水偵に補給ののち、伊号第十七潜水艦と交替、ラバウルに向かう。 
1942年(昭和17年)11月15日インディスペンサブル礁における補給任務を解かれる。 
1942年(昭和17年)11月16日ラバウルに帰着後、同日、ラバウルからトラックに向かう。 
1942年(昭和17年)11月20日トラックに帰着。 内地に帰投、修理整備を下令される。 
1942年(昭和17年)1l月27日トラックから呉に向かう。 
1942年(昭和17年)12月5日呉に帰着、入渠修理。 
1942年(昭和17年)12月24日第八艦隊は南東方面艦隊に編入。 
1942年(昭和17年)12月28日先遣部隊丁潜水部隊は、第六艦隊司令長官の直率下に入る。 
1943年(昭和18年)1月25日司令潜水艦を伊号第百二十二潜水艦から当艦に変更。 
1943年(昭和18年)1月26日先遣部隊丁潜水部隊指揮官は第七潜水戦隊司令官となる。 
1943年(昭和18年)2月27日南東方面部隊(南東方面艦隊)潜水部隊(第七潜水戦隊)に編入され、作戦補給輸送を下令される。 
1943年(昭和18年)2月12日〜13日呉から佐伯を経て、トラックに向かう。 
1943年(昭和18年)2月20日トラックに進出。 
1943年(昭和18年)2月21日〜25日トラックからラバウルに進出、輸送準備。 
1941年(昭和16年)2月28日司令潜水艦を当艦から伊号第百二十一潜水艦に変更。 
1943年(昭和18年)3月28日〜30日ラバウルからラエ沖に到着、糧食弾薬を揚陸。 
1943年(昭和18年)3月30日〜4月1日ラエ沖からラバウルに帰着、次の輸送準備。 
1943年(昭和18年)4月15日第七潜水戦隊は第八艦隊から除かれ、南東方面艦隊に編入。
1943年(昭和18年)4月15日〜18日ラバウルからラエ沖に到着、兵器弾薬糧食23.5トンを揚陸。
1943年(昭和18年)4月18日〜20日ラエ沖からラバウルに帰着、次の輸送準備。 
1943年(昭和18年)4月23日〜26日ラバウルからラエ沖に到着、兵器弾薬糧食23.5トン、便乗者(人数不詳)を揚陸。
1943年(昭和18年)4月26日〜28日ラエ沖からラバウルに帰着、次の輸送準備。 
1943年(昭和18年)5月1日〜4日ラバウルからラエ沖に到着、兵器弾薬糧食23.5トン、便乗者15名を揚陸。 
1943年(昭和18年)5月4日〜6日ラエ沖からラバウルに帰着、次の輸送準備。 
1943年(昭和18年)5月9日〜12日ラバウルからラエ沖に到着、兵器弾薬糧食23.5トン、便乗者15名を揚陸。 
1943年(昭和18年)5月12日〜15日ラエ沖からラバウルに帰着、修理と次の輸送準備。 
1943年(昭和18年)5月22日〜25日ラバウルからラエ沖に到着、兵器弾薬糧食23.5トン、便乗者15名を揚陸。 
1943年(昭和18年)5月25日〜27日ラエ沖からラバウルに帰着、次の輸送準備。 
1943年(昭和18年)5月31日第十三潜水隊は解隊。 第七潜水戦隊(南東方面艦隊)に編入。 第十三潜水隊司令は司令旗を当艦から撤去。
1943年(昭和18年)6月2日〜5日ラバウルからラエ沖に到着、兵器弾薬糧食23.5トン、便乗者15名を揚陸。 
1943年(昭和18年)6月5日〜7日ラエ沖からラバウルに帰着、次の輸送準備。 
1943年(昭和18年)6月9日〜12日ラバウルからラエ沖に到着、兵器弾薬糧食23.5トン、便乗者15名を揚陸。 
1943年(昭和18年)6月12日〜14日ラエ沖からラバウルに帰着、次の輸送準備。 
1943年(昭和18年)6月21日〜23日ラバウルからラエ沖に到着、兵器弾薬糧食23.5トン、便乗者15名を揚陸。 
1943年(昭和18年)6月23日〜26日ラエ沖からラバウルに帰着、次の輸送準備。 
1943年(昭和18年)6月29日〜7月2日ラバウルからラエ沖に到着、兵器弾薬糧食を揚陸。 
1943年(昭和18年)7月2日〜4日ラエ沖からラバウルに帰着、次の輸送準備。 
1943年(昭和18年)7月6日〜9日ラバウルからラエ沖に到着、兵器弾薬糧食を揚陸。 
1943年(昭和18年)7月9日〜11日ラエ沖からラバウルに帰着、補給、待機。
1943年(昭和18年)8月7日〜10日ラバウルからラエ沖に到着、兵器弾薬糧食を揚陸。 
1943年(昭和18年)8月10日〜12日ラエ沖からラバウルに帰着、補給、待機。
1943年(昭和18年)8月19日〜23日ラバウルからトラックに到着。 補給。 
1943年(昭和18年)8月20日第七潜水戦隊から除かれる。 呉鎮守府部隊に編入。 警備潜水艦と定められる。 
1943年(昭和18年)8月25日第十八潜水隊(呉鎮守府部隊)に編入。 警備潜水艦に、練習潜水艦の役務を兼ねさせ、練習のことに関しては海軍兵学校長の指揮を受けることと定められる。 トラックから呉に向かう。 
1943年(昭和18年)9月1日呉に帰着、入渠修理。 
1943年(昭和18年)12月1日第十八潜水隊は呉潜水戦隊(呉鎮守府部隊)に編入。 海軍兵学校長の指揮を解かれ、練習兼警備潜水艦と定める。 第十八潜水隊は呉鎮守府部隊呉潜水部隊(呉潜水戦隊)に編入。 乗員養成の任務を下令される。
1944年(昭和19年)1月31日第十八潜水隊は解隊。 第十九潜水隊(呉潜水戦隊)に加えられる。 
1944年(昭和19年)2月17日司令潜水艦を伊号第百五十九潜水艦から当艦に変更。 
1944年(昭和19年)5月1日司令潜水艦を当艦から伊号第百五十五潜水艦に変更。 
1945年(昭和20年)4月20日第十九潜水隊は解隊。 第三十三潜水隊(呉潜水戦隊・呉鎮守府部隊)に加えられる。 
1945年(昭和20年)5月25日大竹から舞鶴方面に向かう。 
1945年(昭和20年)6月1日穴水に到着、待機。 
1945年(昭和20年)6月10日穴水から舞鶴に向かったが、以後、消息を絶つ。 石川県禄剛岬の120度6浬付近、北緯37度29分、東経137度25分において、アメリカ潜水艦「スケート(Skate)」の雷撃(2本)を受け沈没。 
1945年(昭和20年)9月15日除籍。

参考資料

  1. 梶本光義(編集責任者).呉海軍墓地誌海ゆかば:合祀碑と英霊.呉海軍墓地顕彰保存会,2005,p14-15
  2. ab雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻 潜水艦伊号.東京,光人社,1997,p9
  3. ab前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻 潜水艦伊号.p14
  4. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p19,52
  5. 日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p40,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  6. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編2.名古屋,ニュータイプ,2004,p148-158