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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

1967年(昭和42年)11月25日建立。 合祀者74柱。(1)

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軍艦加古戦没者慰霊碑

軍艦加古戦没者慰霊碑

軍艦加古について

加古
一等巡洋艦「加古」1937年

「加古」は古鷹型巡洋艦の2番艦である。 古鷹型巡洋艦は、1920年(大正9年)の八八艦隊計画で要求された8,000トン型巡洋艦の発展型である。 古鷹型巡洋艦は、従来の5.500トン型巡洋艦(球磨型、長良型、川内型:14cm砲7門、35〜36ノット)が、アメリカのオマハ級巡洋艦(15.2cm砲12門、34ノット)やイギリスの改バーミンガム級巡洋艦(19cm砲7門、30ノット)に対して非力であるため、これらに対抗するものとして計画されたものである。

主任設計者の平賀譲造船大佐(当時)は、軽量構造の20cm単装砲塔の採用、防御甲鉄と船体構造材との兼用などの徹底した重量軽減を行い、大きさ(基準排水量7,100トン)に比して強力な攻撃/防御力を備えた艦としてまとめあげた。 しかしながら、造船所の力量不足などにより、完成時の基準排水量は7,950トンとなり、速力も要求の35ノットに対し34.6ノットに低下した。

「加古」は、1936年(昭和11年)7月4日〜1937年(昭和12年)12月27日にかけて佐世保工廠で大改装された。 改装の内容は、主砲塔を連装3基とし主砲を20.3cm砲に換装、魚雷発射管の換装と九三式魚雷(酸素魚雷)の塔載、缶の重油専焼化、上構の刷新とバルジの装着などが実施された。 「加古」はこの状態で開戦を迎え、1942年(昭和17年)8月10日、第1次ソロモン海戦の帰途、アメリカ潜水艦「S-44」の雷撃を受け戦没した。(2)

艦名

艦名は河川名。  加古川は、但馬地域と播磨地域の境界に連なる山地の北部に位置する粟鹿山(青垣町)に源を発し、途中篠山川、杉原川、東条川、万願寺川、美嚢川等を合わせながら滝野町、小野市、加古川市等を貫流し瀬戸内海播磨灘に注ぐ、幹川流路延長 96km、流域面積 1,730km2の河川である。(3)

要目(4)(5)(6)(7)

完成時1937年主砲換装後
艦種一等巡洋艦
建造所川崎造船所
基準排水量 ※17,100トン(計画)/7,950トン(実測)8,700トン
公試排水量 ※29,544トン10,507トン
垂線間長176.78m
水線長183.53m183.47m
全長185.17m
最大幅16.55m16.93m
喫水5.56m5.61m
主缶ロ号艦本式水管缶(重油専焼)10基
ロ号艦本式水管缶(石炭・重油混焼)2基
ロ号艦本式水管缶(重油専焼)12基
主機ブラウン・カーチス式オール・ギヤード・タービン4基
推進軸4軸
出力104,000馬力103,390馬力(公試)
速力34.6ノット(公試全力)32.95ノット
燃料重油:1,400トン 石炭:400トン重油:1,858
航続力14ノットで7,000浬
装甲水線76mm、甲板36mm
完成時1937年主砲換装後
兵装50口径三年式20cm単装砲6基
40口径三年式8cm単装高角砲4基
61cm一二式連装発射管6基(固定式)
八年式魚雷24本
50口径三年式二号20cm連装砲3基
45口径十年式12cm単装高角砲4基
九六式25mm連装機銃4基
九三式13mm連装機銃2基
61cm九二式4連装発射管2基
九三式魚雷16本
射出機呉式二号三型1基
航空機水上偵察機1機水上偵察機2機(定数)
乗員627名639名
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン

艦歴

年月日履歴
1922年(大正11年)12月5日川崎造船所において起工。
1925年(大正14年)4月10日進水。
1926年(大正15年)7月30日竣工。 横須賀鎮守府籍に編入。
1926年(大正15年)8月1日第二艦隊第五戦隊に編入。
1927年(昭和2年)3月27日佐伯発。 厦門方面行動。
1927年(昭和2年)5月5日馬公着。
1928年(昭和3年)3月29日有明湾発。 青島方面行動。
1928年(昭和3年)4月9日旅順着。
1929年(昭和4年)3月28日呉発。 芝罘方面行動。
1929年(昭和4年)4月3日旅順着。
1930年(昭和5年)5月27日古仁屋発。 南洋方面行動。
1930年(昭和5年)9月19日横須賀着。
1930年(昭和5年)12月1日第二艦隊第五戦隊よりのぞかれ第二予備艦となる。。
1931年(昭和6年)5月15日横須賀工廠に入渠。
1931年(昭和6年)9月29日横須賀工廠を出渠。
1931年(昭和6年)10月1日横須賀鎮守府籍から呉鎮守府籍へ転籍。
1931年(昭和6年)11月10日呉工廠に入渠。修理。
1932年(昭和7年)5月31日呉工廠を出渠。
1932年(昭和7年)11月1日第一予備艦となる。
1932年(昭和7年)12月1日第二艦隊第五戦隊に編入。
1933年(昭和8年)5月11日呉工廠に入渠。 無線兵装改造工事。
1933年(昭和8年)5月20日第二艦隊第六戦隊に編入。
1933年(昭和8年)6月10日呉工廠を出渠。
1933年(昭和8年)6月29日佐世保発。 馬鞍群島方面行動。
1933年(昭和8年)7月5日馬公着。
1933年(昭和8年)7月13日高雄発。 南洋方面行動。
1933年(昭和8年)8月21日木更津沖着。
1933年(昭和8年)11月15日第二艦隊第六戦隊よりのぞかれ第二予備艦となる。。
1934年(昭和9年)2月1日第一予備艦となる。
1934年(昭和9年)11月10日佐世保工廠に入渠。
1934年(昭和9年)11月15日第三予備艦となる。
1935年(昭和10年)2月25日佐世保工廠を出渠。
1935年(昭和10年)5月20日呉工廠に入渠。 修理。
1935年(昭和10年)7月30日呉工廠を出渠。
1936年(昭和11年)7月4日佐世保工廠に入渠。 改装工事に着手。
1937年(昭和12年)12月27日改装工事終了。 佐世保工廠を出渠。
1939年(昭和14年)11月15日第一艦隊第六戦隊に編入。
1940年(昭和15年)3月26日有明湾発。 南支方面行動。
1940年(昭和15年)4月2日高雄着。
1941年(昭和16年)2月24日佐世保発。 南支方面行動。
1941年(昭和16年)3月3日馬公着。
1941年(昭和16年)6月3日宿毛湾発。
1941年(昭和16年)6月5日名古屋着。
1941年(昭和16年)6月9日名古屋発。 同日、伊勢湾着。
1941年(昭和16年)6月21日伊勢湾発。
1941年(昭和16年)6月23日有明湾着。
1941年(昭和16年)6月27日有明湾発。
1941年(昭和16年)6月30日横須賀着。 同日、横浜に回航。
1941年(昭和16年)7月5日横須賀に回航。
1941年(昭和16年)7月8日横須賀発。
1941年(昭和16年)7月11日有明湾着。
1941年(昭和16年)7月16日有明湾発。
1941年(昭和16年)7月17日小松島着。
1941年(昭和16年)7月21日小松島発。
1941年(昭和16年)7月22日宿毛湾着。
1941年(昭和16年)7月26日宿毛湾発。 同日、別府着。
1941年(昭和16年)8月1日別府発。 同日、佐伯湾着。
1941年(昭和16年)8月13日佐伯湾発。 同日、呉着。
1941年(昭和16年)9月5日呉発。 室積沖に回航。
1941年(昭和16年)9月14日呉に回航。
1941年(昭和16年)10月7日呉発。 室積沖に回航。
1941年(昭和16年)10月19日佐伯に回航。
1941年(昭和16年)11月1日南洋部隊に編入され、豊後水道で訓練に従事。
1941年(昭和16年)11月15日佐伯発。 呉に回航。
1941年(昭和16年)11月19日呉工廠に入渠。
1941年(昭和16年)11月24日呉工廠を出渠。 重油、弾薬、糧食搭載。
1941年(昭和16年)11月25日呉発。 柱島に回航。
1941年(昭和16年)11月30日母島に向け、柱島発。
1941年(昭和16年)12月2日母島着。
1941年(昭和16年)12月4日グアム島攻略作戦のため母島発。
1941年(昭和16年)12月10日グアム島東方海面で攻略作戦を支援。 上陸成功後トラックに向かう。
1941年(昭和16年)12月12日トラック着。
1941年(昭和16年)12月13日トラック発。
1941年(昭和16年)12月16日ルオット着。 ウェーキ島攻略作戦準備。
1941年(昭和16年)12月21日ルオット発。
1941年(昭和16年)12月23日ウェーキ島上陸作戦支援。
1941年(昭和16年)12月25日ルオット着。
1942年(昭和17年)1月7日ルオット発。
1942年(昭和17年)1月10日トラック着。
1942年(昭和17年)1月18日トラック発。 ラバウル攻略作戦支援。
1942年(昭和17年)1月25日艦載機でマヌス島爆撃。
1942年(昭和17年)1月30日ラバウル着。
1942年(昭和17年)1月31日ニューハノーバー島に回航。
1942年(昭和17年)2月4日マーシャル方面へアメリカ機動部隊来襲により、同方面へ急行し、ルオット着。
1942年(昭和17年)2月5日クェゼリン着。
1942年(昭和17年)2月6日クェゼリン発。
1942年(昭和17年)2月10日トラック着。
1942年(昭和17年)2月20日アメリカ機動部隊来攻の報により、トラック発。
1942年(昭和17年)2月22日敵情を得ずトラックに帰投。
1942年(昭和17年)3月2日トラック発。
1942年(昭和17年)3月5日ラバウル着。
1942年(昭和17年)3月5日ラエ、サラモア攻略部隊支援部隊として、ラバウル発。
1942年(昭和17年)3月8日ラエ、サラモア上陸成功。
1942年(昭和17年)3月9日ブカ島クインカロラ着。
1942年(昭和17年)3月10日クインカロラ発。
1942年(昭和17年)3月11日ラバウル着。
1942年(昭和17年)3月14日ラバウル発。
1942年(昭和17年)3月15日クインカロラ着。
1942年(昭和17年)3月17日クインカロラ発。
1942年(昭和17年)3月18日メウエパセージ着。
1942年(昭和17年)3月26日メウエパセージ発。
1942年(昭和17年)3月27日ラバウル着。 重油、生糧品補給。
1942年(昭和17年)3月28日ラバウル発。 ブーゲンビル島攻略作戦参加。
1942年(昭和17年)4月1日ラバウル着。 同日、ラバウル発。
1942年(昭和17年)4月2日カビエン着。
1942年(昭和17年)4月7日メウエパセージ発。
1942年(昭和17年)4月10日トラック着。 整備作業。
1942年(昭和17年)4月30日トラック発。 モレスビー攻略作戦に向かう。
1942年(昭和17年)5月3日ツラギ附近海面に進出。 攻略間接支援。
1942年(昭和17年)5月5日ショートランド着。 重油補給。 同日、ショートランド発。
1942年(昭和17年)5月6日珊瑚海海戦に参加。
1942年(昭和17年)5月9日ショートランド着。 重油補給。
1942年(昭和17年)5月10日敵機動部隊攻撃のため南下。 機動部隊と合同。 索敵したが発見できず。
FALSE(FALSE)5月11日敷設艦沖島の救援に向かうが、沖島は沈没。
1942年(昭和17年)5月12日クインカロラ湾口で座礁した救難船兼曳船雄島の救難に従事。 翌13日離礁。
1942年(昭和17年)5月14日クインカロラ発。 青葉に合同。
1942年(昭和17年)5月16日トラック着。 整備作業。
1942年(昭和17年)5月17日トラック発。 呉に向かう。
1942年(昭和17年)5月22日呉着。 補給、機関整備、修理。
1942年(昭和17年)6月16日呉発。 同日、長浜沖着。
1942年(昭和17年)6月18日長浜沖発。 第十八戦隊と合同、豊後水道での訓練後、23日トラック着。
1942年(昭和17年)6月30日トラック発。
1942年(昭和17年)7月5日ソロモン東方海面を索敵して、キエタ着。
1942年(昭和17年)7月6日キエタ発。 ニューギニア東部基地整備作戦に従事。
1942年(昭和17年)7月22日ラバウル着。 同日、ラバウル発。
1942年(昭和17年)7月26日カビエン着。
1942年(昭和17年)8月7日ガダルカナル島にアメリカ軍来攻来攻の報によりガダルカナル島に向かう。
1942年(昭和17年)8月8日第一次ソロモン海戦に参加。 他艦と共同して重巡洋艦4隻撃沈。
1942年(昭和17年)8月10日カビエンに向かう途中、シンベリ島沖でアメリカ潜水艦「S-44」の雷撃を受け沈没。
1942年(昭和17年)9月15日除籍。

参考資料

  1. 梶本光義(編集責任者).呉海軍墓地誌海ゆかば:合祀碑と英霊.呉海軍墓地顕彰保存会,2005,p43
  2. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 11巻 重巡古鷹・加古・青葉・衣笠.東京,光人社,1997,p25-35
  3. 日本巡洋艦史.東京,海人社,1991,p64,190,世界の艦船.No.441 1991/9増刊号 増刊第32集
  4. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p40
  5. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 11巻 重巡古鷹・加古・青葉・衣笠.東京,光人社,1997,p29-35
  6. 福井静夫.海軍艦艇史(2)巡洋艦・コルベット・スループ.東京,ベストセラーズ,1980,p457-459
  7. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p40
  8. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 11巻 重巡古鷹・加古・青葉・衣笠.東京,光人社,1997,p25-35

謝辞

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