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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

1980年(昭和55年)5月25日建立。 合祀者128柱。(1)

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軍艦鬼怒慰霊碑

軍艦鬼怒慰霊碑

碑文

軍艦鬼怒慰霊碑

軍艦鬼怒について

鬼怒は、5500トン型巡洋艦の2番目のグループである長良型巡洋艦の5番艦である。 日露戦後の海軍国防方針は、アメリカを主敵とし、来攻するアメリカ艦隊を日本近海での迎撃決戦で撃破するというものであった。 このためには、主力艦隊前方で偵察や索敵、艦隊決戦時に水雷戦隊の嚮導にあたる巡洋艦を多数必要とした。  これに対応して、大正5年度計画で天龍型巡洋艦(常備排水量3,500トン、33ノット、14cm砲4門)2隻を建造した。 続く大正6年の八四艦隊計画では、天龍型と同型の3,500トン型巡洋艦6隻と7,200トン型巡洋艦3隻が計画されたが、3,500トン型は列強の巡洋艦に比して非力であると判断され、引き続く八六艦隊案の策定にあたっては計画の見直しを行い、全ての巡洋艦を5,500トン型に統一して建造することとした。 なお、7,200トン型巡洋艦への統一は建造費の問題があって、断念されたようである。

5500トン型巡洋艦は天龍型の船型を拡大し、砲力と速力の強化を図ったもので、最初のグループである球磨型では14cm砲7門、53cm連装魚雷発射管4基、速力36ノットとされた。 長良型は主砲と速力はそのままに、搭載魚雷を61cmに強化して、連装魚雷発射管4基を装備した。 主砲は列強巡洋艦の15.2cmに対して14cmを採用している。 これは、砲弾重量を当時の日本人の体格に合わせて軽いものにし、単位時間当たりの投射量と砲撃持続時間を確保したかったためである。 また、一号機雷とその敷設装置のため、艦後部の砲はシェルター甲板上に装備とされている。 一号機雷は機雷4個を長さ100メートルの連繋索で繋いだもので、これを敵艦隊前方の海面に投下し、敵艦隊の漸減または混乱を狙ったものであった。  この一号機雷の連繋索を乗り切るために、艦首は水線部で30°の角度で後方に傾斜し、水面下では大きなカーブを描いて艦底に達する形状とされた。 球磨型では、水上偵察機1機が搭載されたが、デリックで海面に降ろして発進させなければならず、アメリカ巡洋艦オマハ型に比べて見劣りするものとなった。 このため長良型は艦橋下部に格納庫を設け、その前方に滑走台方式の発艦装置を装備したが実用性に乏しく、ほとんど使用されなかった。

1930(昭和5年)10月、滑走台の上に呉式二号二型射出機を装備、九〇式一号水上偵察機を搭載した。 1934(昭和9年)4月〜8月末に近代化改装が実施され、滑走台と射出機を撤去、5番砲塔と6番砲塔の間のシェルター甲板上に呉式二号三型射出機を装備した。 また8cm単装高角砲は13mm連装機銃に換装された。 この後、水雷兵装を九三式魚雷(酸素魚雷)16本と九二式4連装発射管2基とにする計画が立てられたが、最後まで実現しなかった。

開戦後は、マレー、ジャワ、西部ニューギニア各地の攻略に参加した。 1942年(昭和17年)3月10日、第二南遣艦隊第十六戦隊に編入されて以降は、短期間の交通破壊戦に就く他は輸送任務や海上交通保護に従事した。 1944年(昭和19年)10月の捷一号作戦時にはフィリピン各地への輸送に従事していたが、オルモックからの帰途、アメリカ軍機の攻撃により、パナイ島北方で被爆沈没した(10月26日)。(2)

艦名

艦名は河川名。 鬼怒川は利根川の支川で、栃木県と群馬県堺の鬼怒沼山(標高2,040m)に源を発し、栃木県塩谷郡藤原町川治地先において男鹿川を合流し渓谷を南下し、茨城県守谷市大木地先で利根川に合流する、幹川流路延長は177km、流域面積は1,761km2の河川である。(3)

要目(2)(4)(5)

竣工時近代化改装後
1934(昭和9年)
艦種二等巡洋艦
建造所川崎造船所
基準排水量 ※15,170トン
常備排水量 ※15,570トン
垂線間長152.40m
水線長158.53m
水線最大幅14.17m
喫水4.80m
主缶ロ号艦本式水管缶(重油専焼)10基
ロ号艦本式水管缶(石炭・重油混焼)2基
主機ブラウン・カーチス式オール・ギヤード・タービン4基
推進軸4軸
出力90,000馬力(計画)/95,411馬力(公試全力)
速力36.0ノット(計画)/35.454ノット(公試全力)34.2ノット
燃料重油:1,260トン
石炭:350トン
重油:?
航続力14ノットで5,000浬
装甲水線64mm、甲板29mm
兵装50口径三年式14cm単装砲7基
40口径三年式8cm単装高角砲2基
61cm八年式連装発射管4基
八年式魚雷16本
50口径三年式14cm単装砲7基
九三式13mm4連装機銃1基
九三式13mm4連装機銃2基
61cm八年式連装発射管4基
八年式魚雷16本
射出機呉式二号三型射出機1基
航空機水上偵察機1機水上偵察機1機
乗員450名
その他1930(昭和5年)10月、滑走台の上に呉式二号二型射出機を装備。1935年(昭和10年)〜1936年(昭和11年)頃に主缶を重油専焼に改造。

最終時の兵装は以下(推定)。
50口径三年式14cm単装砲5基
40口径八九式12.7cm連装高角砲1基
九六式25mm3連装機銃2基
九六式25mm連装機銃2基
九三式13mm4連装機銃1基
61cm八年式連装発射管4基
この他、25mmおよび13mm単装機銃を増備したものと思われる。

※1:英トン(1.016メートルトン)

艦歴(6)

年月日履歴
1921年(大正10年)1月17日川崎造船所において起工。
1922年(大正11年)5月29日進水。
1922年(大正11年)11月10日竣工。 呉鎮守府籍に編入。
1922年(大正11年)12月1日第二艦隊第五戦隊に編入。
1923年(大正12年)2月18日呉発。 南洋方面行動。
1923年(大正12年)3月23日横須賀着。
1923年(大正12年)8月25日横須賀発。 中国方面行動。
1923年(大正12年)9月4日呉着。
1923年(大正12年)12月1日予備艦となる。
1924年(大正13年)10月9日館山発。 遠洋航海。
1924年(大正13年)10月20日佐世保着。
1924年(大正13年)12月1日第一艦隊第三戦隊に編入。
1925年(大正14年)3月30日佐世保発。 秦皇島方面行動。
1925年(大正14年)4月5日旅順着。
1926年(大正15年)3月30日中城湾発。 南支方面行動。
1926年(大正15年)4月26日佐世保着。
1927年(昭和2年)3月26日佐伯発。 青島方面行動。
1927年(昭和2年)3月26日呉着。
1927年(昭和2年)5月14日予備艦となる。
1928年(昭和3年)12月10日第二艦隊第二水雷戦隊に編入。
1929年(昭和4年)3月28日呉発。 中支方面行動。
1929年(昭和4年)4月3日旅順着。
1930年(昭和5年)5月17日古仁屋発。 南洋方面行動。
1930年(昭和5年)6月19日横須賀着。
1931年(昭和6年)3月29日福岡発。 青島方面行動。
1931年(昭和6年)4月5日旅順着。
1931年(昭和6年)12月1日予備艦となる。
1932年(昭和7年)11月1日警備艦兼海軍兵学校練習艦となる。
1933年(昭和8年)8月16日館山発。 南洋方面行動。
1933年(昭和8年)8月21日木更津沖着。
1933年(昭和8年)11月15日予備艦となる。
1934年(昭和9年)2月2日呉工廠で特定修理に従事。
1934年(昭和9年)11月15日警備艦兼海軍機関学校練習艦となる。
1935年(昭和10年)11月15日第二艦隊第二水雷戦隊に編入。
1936年(昭和11年)4月13日福岡発。 青島方面行動。
1936年(昭和11年)4月22日佐世保着。
1936年(昭和11年)8月4日馬公発。 厦門方面行動。
1936年(昭和11年)8月6日高雄着。
1936年(昭和11年)12月1日第一艦隊第八戦隊に編入。
1937年(昭和12年)3月27日佐世保発。 青島方面行動。
1937年(昭和12年)4月6日有明湾着。
1937年(昭和12年)8月10日佐世保発。 中支方面行動。
1937年(昭和12年)11月23日呉着。
1938年(昭和13年)4月9日佐世保発。 南支方面行動。
1938年(昭和13年)4月14日基隆着。
1938年(昭和13年)9月20日館山発。 中支方面行動。
1938年(昭和13年)9月28日佐世保着。
1938年(昭和13年)10月9日馬公発。 南支方面行動。
1938年(昭和13年)11月17日呉着。
1939年(昭和14年)3月22日鹿児島発。 北支方面行動。
1939年(昭和14年)4月2日佐世保着。
1939年(昭和14年)11月15日予備艦となる。
1940年(昭和15年)11月1日特別役務艦となる
1940年(昭和15年)11月15日警備艦兼海軍兵学校練習艦となる。
1941年(昭和16年)4月10日連合艦隊付属第四潜水戦隊に編入。
1941年(昭和16年)11月20日岩国沖発。
1941年(昭和16年)11月26日三亜着。 警泊。
1941年(昭和16年)12月4日三亜発。 マレー上陸船団を間接護衛。
1941年(昭和16年)12月11日カムラン湾着。
1941年(昭和16年)12月13日カムラン湾発。 第二次マレー上陸船団護衛。
1941年(昭和16年)12月17日ミリ方面輸送船団を間接護衛。
1941年(昭和16年)12月26日カムラン湾着。 警泊待機。
1942年(昭和17年)1月5日カムラン湾発。 マレー上陸船団護衛。
1942年(昭和17年)1月9日カムラン湾着。 警泊待機。
1942年(昭和17年)1月16日イギリス艦隊迎撃のため、カムラン湾発。
1942年(昭和17年)1月19日カムラン湾着。 待機。
1942年(昭和17年)1月29日カムラン湾発。 レド航空基地へ人員輸送。
1942年(昭和17年)2月11日カムラン湾着。 警泊待機。
1942年(昭和17年)2月17日カムラン湾発。 名古屋丸護衛。
1942年(昭和17年)2月24日スターリング湾着。 重油補給。
1942年(昭和17年)2月24日スターリング湾発。 ジャワ攻略作戦支援。
1942年(昭和17年)3月1日敵機の攻撃により至近弾をうける。
1942年(昭和17年)3月6日スターリング湾着
1942年(昭和17年)3月10日第二南遣艦隊第十六戦隊に編入。
1942年(昭和17年)3月17日スターリング湾発。
1942年(昭和17年)3月18日マカッサル着。
1942年(昭和17年)3月25日マカッサル発。
1942年(昭和17年)3月27日アンポン着。
1942年(昭和17年)3月30日アンボン発。 西部ニューギニア各地の攻略掃蕩に従事。
1942年(昭和17年)4月1日フアクフアク着。 陸戦隊揚陸。
1942年(昭和17年)4月4日ソロン沖着。 陸戦隊揚陸。
1942年(昭和17年)4月7日テルナーテ着。 陸戦隊揚陸。
1942年(昭和17年)4月8日ジャイロ着。 陸戦隊揚陸。
1942年(昭和17年)4月12日マノクワリ着。 陸戦隊揚陸。
1942年(昭和17年)4月15日モミ着。 陸戦隊揚陸。
1942年(昭和17年)4月17日ナビレ着。 陸戦隊揚陸。
1942年(昭和17年)4月19日サルミ着。 陸戦隊揚陸。
1942年(昭和17年)4月21日マノクワリ着。
1942年(昭和17年)4月23日マノクワリ発。
1942年(昭和17年)4月26日マカッサル着。
1942年(昭和17年)4月28日マカッサル着
1942年(昭和17年)4月29日スラバヤ着。
1942年(昭和17年)5月1日スラバヤ発。
1942年(昭和17年)5月10日呉着。
1942年(昭和17年)5月21日入渠。
1942年(昭和17年)5月28日出渠。
1942年(昭和17年)6月5日呉発。
1942年(昭和17年)6月11日タラカン着。 重油搭載。
1942年(昭和17年)6月12日タラカン発。
1942年(昭和17年)6月14日スラバヤ着。
1942年(昭和17年)6月20日スラバヤ発。
1942年(昭和17年)6月21日バタビヤ着。
1942年(昭和17年)6月29日バタビヤ発。
1942年(昭和17年)7月1日パンジエルマシン着。
1942年(昭和17年)7月2日カビエン着。
1942年(昭和17年)7月3日マカッサル着。
1942年(昭和17年)7月7日マカッサル発。
1942年(昭和17年)7月8日スラバヤ着。
1942年(昭和17年)7月24日スラバヤ発。 ベンガル湾交通破壊戦に従事。
1942年(昭和17年)7月27日シンガポール着。
1942年(昭和17年)7月28日シンガポール発。
1942年(昭和17年)7月29日サバン着。
1942年(昭和17年)7月30日サバン発。
1942年(昭和17年)7月31日メルギー着。 警戒待機。
1942年(昭和17年)8月9日メルギー発。 交通破壊戦の編成を解く。
1942年(昭和17年)8月10日サバン着。
1942年(昭和17年)8月11日サバン発。
1942年(昭和17年)8月12日ペナン着。
1942年(昭和17年)8月18日ペナン発。
1942年(昭和17年)8月18日シンガポール着。
1942年(昭和17年)8月19日シンガポール発。
1942年(昭和17年)8月21日スラバヤ着。
1942年(昭和17年)8月23日スラバヤ発。
1942年(昭和17年)8月24日マカッサル着
1942年(昭和17年)8月25日マカッサル発。
1942年(昭和17年)8月26日スターリング湾着
1942年(昭和17年)8月29日スターリング湾発
1942年(昭和17年)8月31日マカッサル着
1942年(昭和17年)9月8日マカッサル発。
1942年(昭和17年)9月9日スラバヤ着。
1942年(昭和17年)9月11日スラバヤ発。
1942年(昭和17年)9月12日バタビヤ着。
1942年(昭和17年)9月13日バタビヤ発。 陸軍部隊輸送。
1942年(昭和17年)9月16日アンポン着。
1942年(昭和17年)9月17日アンポン発。
1942年(昭和17年)9月20日ラバウル着。
1942年(昭和17年)9月21日ラバウル発。
1942年(昭和17年)9月22日ショートランド着。
1942年(昭和17年)9月22日ショートランド発。
1942年(昭和17年)9月29日バリックパパン着。
1942年(昭和17年)10月1日バリックパパン発。
1942年(昭和17年)10月2日スラバヤ着。
1942年(昭和17年)10月10日スラバヤ発。 海上交通保護。
1942年(昭和17年)10月14日クーパン着。
1942年(昭和17年)10月15日クーパン発。
1942年(昭和17年)10月16日マカッサル着。
1942年(昭和17年)10月28日マカッサル発。
1942年(昭和17年)10月29日バリックパパン着。
1942年(昭和17年)10月30日バリックパパン発。
1942年(昭和17年)11月1日アンボン着。
1942年(昭和17年)11月2日アンボン発。
1942年(昭和17年)11月3日フアクフアク着。
1942年(昭和17年)11月8日フアクフアク発。
1942年(昭和17年)11月14日アンボン着。
1942年(昭和17年)11月24日アンボン発。
1942年(昭和17年)11月24日ワイヒンガ湾着。
1942年(昭和17年)11月30日ワイヒンガ湾発。 チモール島海面に出撃。 対空戦闘。
1942年(昭和17年)12月2日ワイヒンガ湾着。 訓練。
1942年(昭和17年)12月11日ワイヒンガ湾発。
1942年(昭和17年)12月12日マカッサル着
1942年(昭和17年)12月28日マカッサル発。
1942年(昭和17年)12月29日スラバヤ着。
1942年(昭和17年)12月31日スラバヤ発。
1943年(昭和18年)1月2日シンガポール着。
1943年(昭和18年)1月3日入渠。
1943年(昭和18年)1月9日出渠。
1943年(昭和18年)1月19日シンガポール発。
1943年(昭和18年)1月21日スラバヤ着。
1943年(昭和18年)1月23日スラバヤ発。
1943年(昭和18年)1月24日マカッサル着
1943年(昭和18年)1月27日マカッサル発。 名取を護衛
1943年(昭和18年)1月31日シンガポール着。
1943年(昭和18年)2月2日シンガポール発。
1943年(昭和18年)2月5日マカッサル着
1943年(昭和18年)2月6日マカッサル発。
1943年(昭和18年)2月8日アンボン着。
1943年(昭和18年)2月9日アンボン発。
1943年(昭和18年)2月12日スラバヤ着。
1943年(昭和18年)2月21日スラバヤ発。 陸軍部隊輸送。
1943年(昭和18年)2月22日マカッサル着
1943年(昭和18年)2月23日マカッサル発。
1943年(昭和18年)2月27日カイマナ着。 陸軍部隊揚陸。
1943年(昭和18年)2月27日カイマナ発。
1943年(昭和18年)2月28日カブイ着。 陸戦隊揚陸。 警泊、訓練。
1943年(昭和18年)3月9日カブイ発。
1943年(昭和18年)3月13日タラカン着。
1943年(昭和18年)3月15日タラカン発。
1943年(昭和18年)3月16日マカッサル着
1943年(昭和18年)4月12日マカッサル発。
1943年(昭和18年)4月13日スラバヤ着。
1943年(昭和18年)4月25日スラバヤ発。
1943年(昭和18年)4月27日シンガポール着。
1943年(昭和18年)4月30日シンガポールで修理、整備作業に従事。
1943年(昭和18年)5月13日シンガポール発。
1943年(昭和18年)5月14日リンガ泊地着。
1943年(昭和18年)5月15日リンガ泊地発。
1943年(昭和18年)5月17日ジャカルタ着。
1943年(昭和18年)5月20日ジャカルタ発。
1943年(昭和18年)5月21日スラバヤ着。
1943年(昭和18年)5月29日スラバヤ発。 陸軍部隊揚陸。
1943年(昭和18年)5月30日マカッサル着。
1943年(昭和18年)5月31日マカッサル発。
1943年(昭和18年)6月2日アンボン着。
1943年(昭和18年)6月3日アンボン発。
1943年(昭和18年)6月10日バボ〜ブラ〜バチャンをへて、マカッサル着。
1943年(昭和18年)6月23日マカッサルで爆撃をうけ至近弾により小破。
1943年(昭和18年)6月24日マカッサル発。
1943年(昭和18年)6月25日スラバヤ着。
1943年(昭和18年)6月25日スラバヤで修理、整備作業に従事。
1943年(昭和18年)7月20日スラバヤ発。
1943年(昭和18年)7月21日マカッサル着。
1943年(昭和18年)7月22日マカッサル発。
1943年(昭和18年)7月23日タラカン着。
1943年(昭和18年)7月24日タラカン発。
1943年(昭和18年)7月27日馬公着。
1943年(昭和18年)7月30日馬公発。
1943年(昭和18年)8月2日呉着。 修理、整備作業。
1943年(昭和18年)8月17日入渠。
1943年(昭和18年)8月27日出渠。
1943年(昭和18年)9月25日再入渠。
1943年(昭和18年)9月29日出渠。
1943年(昭和18年)10月14日呉発。
1943年(昭和18年)10月16日軸受焼損のため、引き返す。
1943年(昭和18年)10月19日呉発。
1943年(昭和18年)10月26日シンガポール着。 整備作業。
1943年(昭和18年)11月4日シンガポール発。 同日、リンガ泊地着。 訓練。
1943年(昭和18年)11月26日リンガ泊地発。 同日、シンガポール着。
1943年(昭和18年)11月30日シンガポール発。 海上交通保護に従事。
1943年(昭和18年)12月2日マラッカ着。
1943年(昭和18年)12月7日マラッカ発。
1943年(昭和18年)12月8日ペナン着。
1943年(昭和18年)12月11日ペナン発。
1943年(昭和18年)12月12日サバン着。
1943年(昭和18年)12月13日サバン発。
1943年(昭和18年)12月21日ジャカルタ着。
1943年(昭和18年)12月23日ジャカルタ発。
1943年(昭和18年)12月24日スラバヤ着。
1943年(昭和18年)12月25日スラバヤ発。
1943年(昭和18年)12月27日タラカン着。
1943年(昭和18年)12月30日タラカン発。 早鞆を曳航。
1944年(昭和19年)1月8日シンガポール着。 警泊、整備、補給。
1944年(昭和19年)1月16日シンガポール発。 同日、リンガ泊地着。 訓練。
1944年(昭和19年)1月21日リンガ泊地発。 同日、シンガポール着。
1944年(昭和19年)1月23日シンガポール発。 陸軍部隊輸送。
1944年(昭和19年)1月25日ポートプレア着。 同日、ポートプレア発。
1944年(昭和19年)1月27日ペナン着。
1944年(昭和19年)1月28日ペナン発。 途中より北上を曳航。
1944年(昭和19年)1月31日シンガポール着。 整備、補給。
1944年(昭和19年)2月7日シンガポール発。 同日、リンガ泊地着。 訓練。
1944年(昭和19年)2月22日リンガ泊地発。 同日、シンガポール着。
1944年(昭和19年)2月27日シンガポール発。 インド洋交通破壊戦に従事。
1944年(昭和19年)3月3日ジャカルタ着。
1944年(昭和19年)3月6日ジャカルタ発。
1944年(昭和19年)3月6日バンカ着。 訓練。
1944年(昭和19年)3月14日バンカ発。
1944年(昭和19年)3月15日ジャカルタ着。 交通破壊戦の編成を解く。
1944年(昭和19年)3月19日ジャカルタ発。
1944年(昭和19年)3月20日バンカ泊地着。
1944年(昭和19年)3月25日シンガポールへ回航。 整備、補給。
1944年(昭和19年)4月2日シンガポール発。 輸送作戦に従事。
1944年(昭和19年)4月4日バリックパパン着。
1944年(昭和19年)4月5日バリックパパン発。
1944年(昭和19年)4月7日ダバオ着。
1944年(昭和19年)4月13日ダバオ発。
1944年(昭和19年)4月17日サイパン着。
1944年(昭和19年)4月23日サイパン発。 陸軍部隊輸送。
1944年(昭和19年)4月27日トコベイ着。 同日、トコベイ発。
1944年(昭和19年)4月28日ダバオ着。
1944年(昭和19年)4月30日ダバオ発。
1944年(昭和19年)5月1日タラカン着。
1944年(昭和19年)5月5日タラカン発。 日邦丸船団護衛。
1944年(昭和19年)5月10日バリックパパン着。
1944年(昭和19年)5月15日バリックパパン発。 船団護衛。
1944年(昭和19年)5月21日タラカン着。
1944年(昭和19年)5月31日タラカン発。
1944年(昭和19年)6月1日ダバオ着。
1944年(昭和19年)6月2日ダバオ発。 渾作戦陸軍部隊輸送。
1944年(昭和19年)6月4日ソロン着。
1944年(昭和19年)6月5日ソロン発。
1944年(昭和19年)6月8日アンボン着。
1944年(昭和19年)6月9日アンボン発。
1944年(昭和19年)6月11日バチャン泊地着。
1944年(昭和19年)6月14日バチャン泊地発。
1944年(昭和19年)6月27日マカッサル着。
1944年(昭和19年)6月28日マカッサル発。
1944年(昭和19年)7月1日シンガポール着。
1944年(昭和19年)7月12日入渠。
1944年(昭和19年)7月19日出渠。
1944年(昭和19年)7月24日シンガポール発。
1944年(昭和19年)7月25日リンガ泊地着。
1944年(昭和19年)8月7日シンガポール発。 マニラ、パラオ、セブへ輸送作戦を行う。
1944年(昭和19年)9月25日リンガ泊地で訓練に従事。
1944年(昭和19年)10月21日リンガ泊地発。 マニラへ向かう。
1944年(昭和19年)10月23日青葉被雷により、曳航してマニラ着。
1944年(昭和19年)10月24日マニラ発。 マニラ湾口で敵機の攻撃をうけ、死傷者47名。 船体被害なし。
1944年(昭和19年)10月25日ミンダナオ海で敵機の攻撃をうけたが損害なし。 カガヤン着。 陸兵を乗せて、カガヤン発。
1944年(昭和19年)10月26日オルモック着。 陸兵揚陸。 同日、オルモック発。
1944年(昭和19年)10月26日パナイ島北方で被爆沈没。
1944年(昭和19年)12月20日除籍。

参考資料

  1. 梶本光義(編集責任者).呉海軍墓地誌海ゆかば:合祀碑と英霊.呉海軍墓地顕彰保存会,2005,p44
  2. ab雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 14巻 軽巡長良型.東京,光人社,1997,p80-88
  3. 日本の川 - 関東 - 鬼怒川 - 国土交通省水管理・国土保全局.https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0303_kinugawa/0303_kinugawa_00.html.2021年2月12日確認
  4. 日本巡洋艦史.東京,海人社,1991,p108,195,世界の艦船.No.441 1991/9増刊号 増刊第32集
  5. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p41,42
  6. 前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 14巻 軽巡長良型.p104