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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

1981年(昭和56年)10月30日建立。 合祀者59柱。(1)

呂号第百四潜水艦之碑

呂号第百四潜水艦について

呂号第百四潜水艦は1941年(昭和16年)のマル臨(○の中に臨)計画で建造された呂百型(小型)潜水艦の5番艦である。

呂百型(小型)潜水艦は、太平洋の離島防御用として計画された小型潜水艦である。 急速建造も考慮されており、川崎造船所泉州工場での建造艦はブロック建造方式により工期1年ほどで完成している。

1943年(昭和18年)2月25日に竣工した本艦は、本来の離島防御には使用されず、北方作戦や中部太平洋での輸送・哨戒任務などに従事した。 1944年(昭和19年)5月16日アドミラルティー諸島北方哨区に向かいサイパンを出撃したが、5月23日 アドミラルティー諸島北方(北緯1度20分、東経149度20分)でアメリカ護衛駆逐艦ENGLANDほかのヘッジホッグおよび爆雷攻撃により沈没した。(2)(3)

要目(2)(4)(5)

新造時
艦種二等潜水艦
艦型小型(呂百型)
建造所川崎重工業艦船工場
水上排水量 ※1525トン(基準)/601トン(常備)
水中排水量 ※1782トン
垂線間長57.40m
全長60.90m
最大幅6.00m
喫水3.51m
主機艦本式24号6型ディーゼル2基、2軸
主電動機特9型2基
蓄電池1号15型×120
出力1,000馬力(水上)/760馬力(水中)
速力14.2ノット(水上)/8.0ノット(水中)
燃料重油:50トン
航続力12ノットで3,500浬(水上)/3ノットで60浬(水中)
乗員38名
兵装九六式25mm連装機銃1基
九五式53cm魚雷発射管4門(艦首)
九五式魚雷8本
安全潜航深度75m
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

艦歴(3)(6)

年月日履歴
1942年(昭和17年)5月15日呂号第百四潜水艦と命名。 本籍を呉鎮守府と仮定する。 
1942年(昭和17年)7月11日進水。 
1943年(昭和18年)2月25日竣工。 本籍を呉鎮守府と定め、警備潜水艦と定める。 呉潜水戦隊(呉鎮守府部隊)に編入。 呉鎮守府部隊(呉鎮守府司令長官)潜水部隊(呉潜水戦隊)に編入、内海西部において就役訓練に従事。 神戸から呉に回航。 
1943年(昭和18年)4月1日呉潜水戦隊は解隊。 第十一潜水戦隊(第一艦隊)に編入。 戦時編制。 訓練部隊(第一艦隊)第十一潜水部隊(第十一潜水戦隊)に編入され、引き続き、内海西部において訓練に従事。 
1943年(昭和18年)6月5日第十一潜水戦隊から除かれる。 第七潜水戦隊(南東方面艦隊)に編入。 訓練部隊(第一艦隊)から除かれる。 北方部隊(第五艦隊)に編入、アリューシャン列島方面のケ号作戦支援を下令される。 
1943年(昭和18年)6月7日呉発、幌筵に向かう。 
1943年(昭和18年)6月14日幌筵に到着、補給待機。 北方部隊(第五艦隊)潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、キスカ島守備隊の撤収輸送を支援、敵艦隊攻撃を下令される。 
1943年(昭和18年)6月20日幌筵発、A哨戒線(東経170度線上、北緯58度付近)に向かう。 
1943年(昭和18年)6月23日アッツ島西方のA哨戒線に到着、索敵哨戒。 
1943年(昭和18年)6月28日北方部隊潜水部隊哨戒隊(第一潜水戦隊司令官指揮)に編入、ケ号第二期作戦において、洋上哨戒、敵艦隊攻撃を下令される。 アッツ島西方のA哨戒線を撤収、幌筵に向かう。 
1943年(昭和18年)6月30日払暁前、4:45水上航行中、濃霧中を突然雷撃(3本)されたが、いずれも命中しなかった。 
1943年(昭和18年)7月1日幌筵に帰着、補給待機。 
1943年(昭和18年)7月4日幌筵発、A哨戒線(東経170度線上、北緯58度付近)に向かう。 
1943年(昭和18年)7月9日アッツ島西方のA哨戒線に到着、索敵哨戒。 
1943年(昭和18年)7月10日呂号第百五潜水艦と交替して、撤収帰航。 
1943年(昭和18年)7月18日北方部隊(第五艦隊)から除かれる。 先遣部隊(第六艦隊)に編入、内地に帰投、次期作戦準備を下令される。 アッツ島西方のA哨戒線を撤収、幌筵に向かう。 
1943年(昭和18年)7月19日先遣部隊(第六艦隊)から除かれる。 南東方面部隊(南東方面艦隊)潜水部隊(第七潜水戦隊)に編入、南東方面に進出を下令される。
1943年(昭和18年)7月22日幌筵に帰着、補給待機。 
1943年(昭和18年)7月23日幌筵発、横須賀に向かう。 
1943年(昭和18年)7月28日横須賀に帰着、整備休養。 
1943年(昭和18年)8月14日横須賀発、トラックに向かう。 
1943年(昭和18年)8月20日第七潜水戦隊から除かれる。 第五十一潜水隊(第七潜水戦隊南東方面艦隊)に編入。 
1943年(昭和18年)8月21日トラックに進出、補給待機。 
1943年(昭和18年)8月22日トラック発、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)8月26日ラバウルに進出、補給待機。 
1943年(昭和18年)9月4日ラバウル発、ラエの敵揚陸地点の艦船攻撃に向かう。 
1943年(昭和18年)9月6日ニューギニア東岸ラエ沖に進出、索敵。 
1943年(昭和18年)9月17日ラバウルに帰着、補給待機。 
1943年(昭和18年)9月23日ラバウル発、フィンシュハーフェン敵揚陸地点に向かう。 
1943年(昭和18年)9月25日フィンシュハーフェン沖に進出、索敵。 
1943年(昭和18年)9月30日ラバウルに帰着、補給休養。 
1943年(昭和18年)10月9日ラバウル発、ニューブリテン島南岸スルミに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)10月11日スルミ着、輸送物件を揚陸して帰航。 
1943年(昭和18年)10月13日ラバウルに帰着、補給待機。 
1943年(昭和18年)10月16日ラバウル発、スルミに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)10月18日スルミ着、輸送物件を揚陸して帰航。 
1943年(昭和18年)10月20日ラバウルに帰着、補給待機。 
1943年(昭和18年)10月25日ラバウル発、スルミに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)10月27日スルミ着、輸送物件を揚陸して帰航。 
1943年(昭和18年)10月29日ラバウルに帰着、補給待機。 
1943年(昭和18年)10月31日ラバウル発、スルミに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)11月1日スルミ着、輸送物件を揚陸して帰航。
1943年(昭和18年)11月2日4:00撃沈された「川内」の乗員の救助を下令され、ブーゲンビル島ムッピナ岬295度55浬に向かう。 
1943年(昭和18年)11月3日午後、ブーゲンビル島西岸に進出、アメリカ軍の内火艇で漂流中の第三水雷戦隊司令官以下75名(うち戦傷3名)を救助、収容。 
1943年(昭和18年)11月5日ラバウルに帰着、救助人員を揚陸、補給待機。 第三水雷戦隊司令官は将旗を当艦から「五月雨」に移揚。 
1943年(昭和18年)11月9日ラバウル発、スルミに向かったが、南東方面艦隊司令長官から、敵機動部隊の邀撃を下令され、ブーゲンビル島西方に向かう。 
1941年(昭和16年)11月11日ブーゲンビル島西方に進出、索敵。 
1943年(昭和18年)11月12日モノ島150度45浬に、空母2、巡洋艦4、駆逐艦3の部隊が速力20節で行動と報告され、艦はその前程に出て攻撃を下令される。 
1943年(昭和18年)11月13日味方の不時着搭乗員4名を救助、収容。 
1943年(昭和18年)11月23日ラバウルに帰着、補給休養。 
1943年(昭和18年)12月4日ラバウル発、ブーゲンビル島南西方の哨戒に向かう。 
1943年(昭和18年)12月13日ラバウルに帰着、補給休養。 
1943年(昭和18年)12月26日ラバウル発、スルミに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)12月28日スルミ着、揚塔ののち、ダンピール海峡の哨戒に向かう。 
1943年(昭和18年)12月30日ダンピール海峡に進出、索敵哨戒。 
1944年(昭和19年)1月4日ラバウルに帰着、補給休養。 
1944年(昭和19年)1月13日ラバウル発、ニューギニア北岸ガリに向かう。 作戦輸送。 
1944年(昭和19年)1月18日19:30、ガリ着、第五十一師団に対する補給物件、糧秣弾薬衛生材料約5トンを揚陸、ラバウルに向かう。 
1944年(昭和19年)1月22日ラバウルに帰着、補給待機。 
1944年(昭和19年)1月内地に帰投、修理整備を下令される。 
1944年(昭和19年)1月31日ラバウル発、トラックに向かう。 
1944年(昭和19年)2月3日トラックに帰着、補給待機。 
1944年(昭和19年)2月9日トラック発、呉に向かう。 
1944年(昭和19年)2月17日南東方面部隊から除かれ、先遣部隊第一潜水部隊(第六艦隊司令長官指揮)に編入、次期作戦準備を下令される。 呉に帰着、入渠修理、休養。 
1944年(昭和19年)2月28日先遣部隊(第六艦隊)第十一潜水部隊(第十一潜水戦隊)に編入され、引き続き、内地において修理整備に従事。 
1944年(昭和19年)3月1日第七潜水戦隊は、南東方面艦隊から除かれ、第六艦隊に編入。 
1944年(昭和19年)3月31日パラオ東方に進出、配備は後令と下令される。 アメリカ機動部隊が、前日からパラオに来襲。 
1944年(昭和19年)4月2日呉発、パラオ東方に向かう。 先遣部隊第二潜水部隊(第六艦隊司令長官指揮)に編入、パラオに来襲のアメリカ機動部隊の邀撃を下令される。 
1944年(昭和19年)4月4日アメリカ機動部隊の北上を警戒して、出撃した潜水艦は、90度300浬の掃航索敵を下令される。 
1944年(昭和19年)4月6日サイパンを経由して、トラックに進出を下令される。 転針して、サイパンに向かう。 
1944年(昭和19年)4月7日先遣部隊第二潜水部隊は編成を解かれる。 艦は、先遣部隊第一潜水部隊(第六艦隊司令長官指揮)に編入、トラックに進出を下令される。
1944年(昭和19年)4月9日サイパンに到着、補給待機。
1944年(昭和19年)4月10日アメリカ機動部隊を邀撃のため、トラック南方に進出を下令される。 サイパン発、トラック南方に向かう。 
1944年(昭和19年)4月13日トラック南方の配備につく。 撤収して、トラックに帰投を下令される。 
1944年(昭和19年)4月18日トラックに到着、補給待機。 アメリカ機動部隊が、トラック南方430浬に発見と報告された。 
1944年(昭和19年)4月20日直ちに出撃、カビエン・ニニゴ北方の哨戒を下令される。 トラック発、アドミラルティ諸島北方の赤道付近に向かう。 
1944年(昭和19年)4月21日Z一号作戦発動を下令される。 
1944年(昭和19年)4月22日メレヨン南方赤道付近に配備を下令され、転針移動。 
1944年(昭和19年)4月25日先遣部隊(第六艦隊)第七潜水部隊(第七潜水戦隊)に編入、ニューギニア北方の敵機動部隊の動静偵察と邀撃を下令される。 
1944年(昭和19年)4月29日メレヨン付近に配備の変更を下令される。 北上して、配備を移動。 
1944年(昭和19年)5月1日第七潜水部隊乙潜水部隊(呂号第四十一潜水艦長指揮)に編入、
1944年(昭和19年)5月2日撤収してサイパンに帰投を下令される。 メレヨン東方を撤収、サイパンに向かう。 
1944年(昭和19年)5月3日あ号作戦命令を下令される。 
1944年(昭和19年)5月8日サイパンに帰着、補給休養。 
1944年(昭和19年)5月14日隊は、第七潜水部隊甲潜水部隊(第五十一潜水隊司令指揮)に編入、アドミラルティ諸島北方において、敵機動部隊と攻略部隊の哨戒、偵察、邀撃を下令される。 
1944年(昭和19年)5月15日第五十一潜水隊司令は、司令潜水艦を呂号第百五潜水艦から当艦に変更。 
1944年(昭和19年)5月17日サイパン発、ナ散開線(ムッソウ島北方の北緯1度、東経152度付近)に向かったが、以後、連絡がなく、消息を絶つ。 
1944年(昭和19年)5月22日ナ散開線付近に進出したものと推定される。 
1944年(昭和19年)5月23日通信情報によれば、艦はアメリカ哨戒機に発見されたようであり、配備を135度方向に60浬移動するよう下令される。 アドミラルティ諸島北方(北緯1度20分、東経149度20分)でアメリカ護衛駆逐艦「イングランド( England)」ほかのヘッジホッグおよび爆雷攻撃により沈没。
1944年(昭和19年)5月28日甲潜水部隊は、西に100浬のB散開線に配備を下令される。 
1944年(昭和19年)5月30日B散開線の北端に配備を下令される。 
1944年(昭和19年)6月3日6日零時、撤収して、トラックに帰投を下令される。 艦は依然として消息がなく、未帰還となる。 
1944年(昭和19年)6月25日カロリン諸島南方水域において亡失認定。 
1944年(昭和19年)8月10日除籍。

参考資料

  1. 梶本光義(編集責任者).呉海軍墓地誌海ゆかば:合祀碑と英霊.呉海軍墓地顕彰保存会,2005,p131
  2. ab雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 20巻 潜水艦伊号 伊400型 改甲型 潜高大 潜補 丁型 呂号 波号 特殊潜航艇他.東京,光人社,1997,p73
  3. ab前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 20巻 潜水艦伊号 伊400型 改甲型 潜高大 潜補 丁型 呂号 波号 特殊潜航艇他.p97
  4. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p18,53
  5. 日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p76,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  6. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編3下.名古屋,ニュータイプ,2005,p730-734