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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

1981年(昭和56年)10月30日建立。 合祀者114柱。(1)

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伊号第十一潜水艦之碑

伊号第十一潜水艦之碑

伊号第十一潜水艦について

伊号第十一潜水艦は第四次補充計画で建造された巡潜甲型(伊九型)の3番艦である。

日本の潜水艦は大正末期から、艦隊に随伴して敵艦隊の索敵、追躡(ついじょう:後から追うこと。追跡。)、漸減にあたる高速力の海大型(海軍式大型)潜水艦と、長躯敵泊地近くに進出し敵艦隊の動向見張り、追躡にあたる巡潜型(巡洋潜水艦)とに分かれて発達してきた。 巡洋潜水艦として最初に建造された巡潜1型は、ドイツの潜水艦技術を取り入れるため、ドイツのゲルマニア社の元潜水艦開発部長テッヘル博士他の技術者を招聘し、その指導下で建造された。 兵装を日本式に改めた以外はドイツのU142型の設計を踏襲し、燃料搭載量を増加し航続力をオリジナルの10ノットで18,000浬から24,400浬に延伸している。 また、最終艦の伊号第五潜水艦では小型水上偵察機1機を搭載した

次級の巡潜2型では、機関出力の増大により水上速力を21ノットに引き上げた。 航空兵装は射出機と小型水上偵察機1機を搭載した。 巡潜3型は潜水戦隊旗艦とするため居住性と通信能力の強化などがなされ、10,000馬力の機関により、海大型に匹敵する水上速力23ノットを得た。 魚雷発射管は艦尾装備を廃止し艦首に6門装備、航空兵装は後甲板に格納筒2基、射出機1機を装備し、水上偵察機1機を搭載した。

無条約時代に突入した1937年(昭和12年)度の第三次補充計画では巡潜3型の発展型として3種類の巡潜型潜水艦が計画された。 甲型は潜水戦隊司令部設備を持ち、水上偵察機を搭載したもっとも大型の巡潜である。 航空兵装は射出機1機を前甲板に装備し、水上偵察機1機を搭載した。 乙型は甲型から潜水戦隊旗艦設備を除いた形式で、若干小形となっている。 航空兵装は甲型と同一である。 丙型航空兵装を持たず、魚雷発射管の数を2門増やし8門とし、魚雷搭載数を20本に増やし魚雷兵装を強化した形式である 丙型は建造を急ぐため巡潜3型の線図を流用した。 これら3種類の巡潜は水上速力23ノットを超え、海大型に匹敵する機動力を得て、ここに海大型は巡潜型に統合されることとなった。

当初の計画では、艦隊決戦において、甲型が子隊の乙型、丙型、海大型を率いて長躯ハワイ近海まで進出し、出撃してくるアメリカ艦隊の索敵、追躡、漸減にあたることになっていたが、開戦後にそのような状況は生起しなかった。 開戦後に竣工した伊号第十一潜水艦は、主としてオーストラリア方面で行動、商船4隻撃沈、オーストラリア軽巡洋艦HOBART撃破などの戦果を挙げたが、1944年(昭和19年)1月、フナフチから、エリス、サモア方面作戦に向かった後、消息不明となり、3月20日フナフチ南方海面で亡失と認定された。(2)(3)

要目(4)(5)

新造時
艦種一等潜水艦
艦型甲型(伊九型)
建造所川崎造船所艦船工場
水上排水量 ※12,434トン(基準)/2,919トン(常備)
水中排水量 ※14,150トン
垂線間長108.40m
全長113.70m
最大幅9.55m
喫水5.36m
主機艦本式2号10型ディーゼル2基、2軸
主電動機特6型2基
蓄電池2号6型×480
出力12,400馬力(水上)/2,400馬力(水中)
速力23.5ノット(水上)/8ノット(水中)
燃料重油:928トン
航続力16ノットで16,000浬(水上)/3ノットで90浬(水中)
乗員100名
兵装九六式25mm連装機銃2基
九五式53cm魚雷発射管門(艦首)
九五式魚雷18本
射出機呉式一号四型1基
航空機水上偵察機1機
安全潜航深度100m
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

艦歴(3)(6)

年月日履歴
1940年(昭和15年)4月10日第百三十八号艦として、川崎重工業艦船工場において起工。 
1941年(昭和16年)2月5日伊号第十一潜水艦と命名。 本籍を呉鎮守府と仮定する。 
1941年(昭和16年)2月28日進水。 
1942年(昭和17年)5月16日竣工。 本籍を呉鎮守府と定める。 艦の飛行機定数は、零式水偵1機と定める。 第三潜水戦隊(第六艦隊・連合艦隊)に編入。 戦時編制。 先遣部隊(第六艦隊)第三潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入、内海西部において訓練整備の上、内南洋方面に進出を下令される。 神戸発、内海西部に向かい訓練。 
1942年(昭和17年)5月呉に入港、補給、出撃準備。 
1942年(昭和17年)6月7日呉発、クェゼリンに向かう。 
1942年(昭和17年)6月16日クェゼリンに進出、補給待機。 
1942年(昭和17年)6月17日第三潜水戦隊司令官は将旗を「靖国丸」から当艦に移揚。 
1942年(昭和17年)6月20日第三潜水部隊は、オーストラリア東岸ほかの敵海上交通破壊および、SN作戦に協力支援を下令される。 
1942年(昭和17年)7月1日シドニーを通じる東西線以南の沿岸において行動を下令される。 
1942年(昭和17年)7月8日クェゼリン発、オーストラリア東岸に向かう。 
1942年(昭和17年)7月20日シドニー付近に進出、索敵哨戒。 22:01、ジャービス湾東方の南緯35度00分、東経151度00分において、ギリシャ貨物船「ジョージ・S・リヴァノス(GeorgeS.Livanos、5,882トン)」を雷撃により撃沈。 
1942年(昭和17年)7月21日1:04、ジャービス湾東方の南緯35度23分東経151度00分において、アメリカ貨物船「コースト・ファーマー(CoastFarmer、3,290トン)」を雷撃により撃沈。 
1942年(昭和17年)7月22日0445、ツーフォルド灯台沖10浬付近の南緯36度47分東経150度16分において、アメリカ貨物船「ウィリアム・ドーズ(WilliamDawes、7,176トン)」を雷撃により撃沈。 
1942年(昭和17年)7月26日以降、南緯35度以南において、敵海上交通破壊に当たる。 
1942年(昭和17年)7月27日南緯38度、東経150度付近において、オーストラリア貨物船「クーラナ(Coolana、2,197トン)」を雷撃したが、効果がなかった。 戦果報告は撃沈。 
1942年(昭和17年)7月31日1:50、エバーラード灯台215度25浬において、9,000トン級商船1隻を雷撃、撃沈と報告。 
1942年(昭和17年)8月1日バス海峡から撤収、トラックに向かい帰航。 
1942年(昭和17年)8月7日第三潜水部隊は、先遣部隊(第六艦隊)から除かれ、外南洋部隊(第八艦隊)に編入、アメリカ軍のソロモン反攻に対する作戦に従事。 艦は、搭載魚雷消耗のため、引き続き、トラックに向かい帰航。 
1942年(昭和17年)8月8日外南洋部隊(第八艦隊)は、南東方面部隊(第十一航空艦隊)に編入。 
1942年(昭和17年)8月11日トラックに帰着、補給待機。 
1942年(昭和17年)8月13日第三潜水部隊はガダルカナル島方面の監視、敵艦隊攻撃を下令される。 
1942年(昭和17年)8月20日トラック発、ガダルカナル島方面に向かう。 
1942年(昭和17年)8月21日第三潜水部隊は、南東方面部隊(第十一航空艦隊)から除かれ、先遣部隊(第六艦隊)に復帰、ソロモン諸島方面の敵艦船攻撃を下令される。 
1942年(昭和17年)8月22日第三潜水部隊は、レンネル島西方のB散開線(南緯12度20分、東経159度20分〜158度20分)に配備を下令される。 
1942年(昭和17年)8月24日第三潜水部隊は、サンクリストバル島南方のF散開線(南緯12度20分、東経162度〜163度)に、急速配備を下令される。 
1942年(昭和17年)8月25日戦場整理のため、日没に至るまで敵を見ない場合には、第三潜水部隊はF2散開線(南緯13度、東経162度40分〜161度40分)に配備の変更を下令される。 
1942年(昭和17年)8月26日旗艦潜水艦の被爆損傷のため、南東方面海域の現地潜水部隊の統一指揮官は、第一潜水戦隊司令官から第三潜水戦隊司令官となる。 
1942年(昭和17年)8月27日部隊とF2散開線に到着、索敵。 
1942年(昭和17年)8月31日第三潜水部隊は、H散開線(南緯11度08分、東経164度52分〜南緯12度20分、東経163度)に、配備の変更を下令される。 艦は、ツラギの158度146浬において、敵10,000トン級貨物船を攻撃、撃沈概ね確実と報告。 
1942年(昭和17年)9月3日戦隊主力(当艦)は、サンクリストバル島南方において、第一潜水部隊も指揮した。
1942年(昭和17年)9月6日インディスペンサブル礁110度135浬において、空母1、巡洋艦2、駆逐艦多数の敵部隊を発見、空母を攻撃したが効果がなく、敵艦の爆雷攻撃を受け損傷、潜航不能の状態となり、トラックに向かう。 旗艦潜水艦(当艦)の損傷離脱のため、南東方面海域の現地潜水部隊の統一指揮官は、第三潜水戦隊司令官から第一潜水戦隊司令官となる。 
1942年(昭和17年)9月7日北上中、敵飛行艇の攻撃を受けた。 
1942年(昭和17年)9月11日トラックに帰着、応急修理。 
1942年(昭和17年)9月13日第三潜水戦隊司令官は将旗を当艦から「靖国丸」に移揚。 
1942年(昭和17年)9月15日トラック発、呉に向かう。 
1942年(昭和17年)9月22日呉に帰着、入渠修理、休養。 
1942年(昭和17年)10月31日先遣部隊直率潜水部隊(第六艦隊司令長官指揮)に編入、内地において修理整備に従事。 
1942年(昭和17年)12月13日第三潜水戦隊司令官は将旗を「靖国丸」から当艦に移揚。 
1943年(昭和18年)1月9日呉発、トラックに向かう。 
1943年(昭和18年)1月15日トラックに到着、補給待機。 
1943年(昭和18年)1月18日先遣部隊甲潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入、ケ号作戦を支援のため28日黎明時までに甲散開線につき、ガダルカナル島南東海面において、敵艦船の攻撃を下令される。 
1943年(昭和18年)1月19日トラック発、ガダルカナル島方面に向かう。 
1943年(昭和18年)1月23日サンクリストバル島東方に進出、索敵哨戒。 
1943年(昭和18年)1月28日甲潜水部隊とガダルカナル島南東方の甲散開線につく。 
1943年(昭和18年)2月7日ケ号作戦の終了により、甲潜水部隊は18:00発動、150度方向に索敵進出、ニューカレドニア島南部において、約10日間、敵艦船を攻撃ののち、トラックに帰投を下令される。 この間、適宜ヌーメアの飛行偵察を下令される。 8:00、南下中の敵空母を雷撃したが、発射直前の錯誤により、魚雷は艦底を通過、効果がなかった。
1943年(昭和18年)2月21日22:45発進、ヌーメアを飛行偵察。 港内に敵戦艦2、空母1、輸送船2在泊、泊地に戦艦1、巡洋艦3、駆逐艦7、輸送船3、泊地外に輸送船4と在泊を報告。 市街北方に飛行場、ピカード岬西に水上機基地らしきもの、いずれも所在機なく、灯火管制なしと報告。 
1943年(昭和18年)3月1日チェスターフィールドを飛行偵察。 揚収時、水偵を破損。 
1943年(昭和18年)3月10日トラックに帰着、整備休養。 
1943年(昭和18年)3月14日先遣部隊甲潜水部隊は編成を解かれる。 先遣部隊第三潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入、オーストラリア東方海域に出撃を下令される。 
1943年(昭和18年)4月2日第三潜水戦隊司令官は将旗を当艦から「靖国丸」に移揚。 
1943年(昭和18年)4月10日第三潜水戦隊司令官は将旗を「靖国丸」から当艦に移揚。 第三潜水部隊とトラック発、オーストラリア東岸に向かう。
1943年(昭和18年)5月10日トラックに帰着、整備休養。 
1943年(昭和18年)5月13日第三潜水戦隊司令官は将旗を当艦から「靖国丸」に移揚。 
1943年(昭和18年)6月25日先遣部隊第一潜水部隊(第六艦隊司令長官指揮)に編入、ニューカレドニア方面に出撃を下令される。
1943年(昭和18年)7月1日トラック発、ニューカレドニア方面に向かう。 
1943年(昭和18年)7月20日16:41、エスピリッサント島280度200浬において、オーストラリア巡洋艦「ホバート(Hobart)」を雷撃、魚雷2本を命中させ撃破。 報告はサンフランシスコ型巡洋艦1、駆逐艦3を襲撃、命中3本。 巡洋艦は撃沈と推定。 
1943年(昭和18年)7月25日0:10、ヌーメアを飛行偵察。 ダンペアに巡洋艦2、駆逐艦3、輸送船3在泊、ヌーメア泊地に巡洋艦2、駆逐艦3、輸送船3在泊、ヌーヌア港に巡洋艦4、駆逐艦1、輸送船1在泊と報告。 
1943年(昭和18年)8月11日ヌーメア南方の南緯22度30分、西経165度59分において、アメリカ貨物船「マシュー・リヨン(MatthewLyon、7,176トン)」を撃により撃破。 
1943年(昭和18年)9月13日トラックに帰着、整備休養。 
1943年(昭和18年)9月15日第三潜水戦隊は解隊。 艦は、第一潜水戦隊(第六艦隊)に編入。 艦は、引き続き、先遣部隊第一潜水部隊(第六艦隊司令長官指揮)に編入、内地に帰投、修理整備を下令される。 
1943年(昭和18年)9月18日トラック発、呉に向かう。 
1941年(昭和16年)9月25日呉に帰着、入渠修理、休養。 
1943年(昭和18年)12月3日呉発、トラックに向かう。 
1943年(昭和18年)12月10日トラックに帰着、補給待機。 
1943年(昭和18年)12月18日引き続き、先遣部隊第一潜水部隊に編入、第二戦区において、敵艦船攻撃を下令される。 
1943年(昭和18年)12月19日第二戦区(主として、エリス、サモア、フィジー、トンガ)において敵艦船攻撃のほか、1月中旬までに、フナフチの飛行偵察を下令される。 
1943年(昭和18年)12月21日トラック発、エリス諸島に向かう。 
1943年(昭和18年)12月31日フナフチ島を潜航偵察。 
1944年(昭和19年)1月1日フナフチ島偵察の結果、戦艦等の在泊を報告、消息を絶つ。 
1944年(昭和19年)1月11日フナフチの飛行偵察は2月上旬に延期し、エリス、サモア方面において、敵艦船攻撃を下令される。
1944年(昭和19年)1月15日第一潜水戦隊(第六艦隊)は解隊、艦は第六艦隊に編入。
1944年(昭和19年)3月20日南太平洋方面水域において亡失認定。 
1944年(昭和19年)4月30日除籍。

参考資料

  1. 梶本光義(編集責任者).呉海軍墓地誌海ゆかば:合祀碑と英霊.呉海軍墓地顕彰保存会,2005,p11
  2. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻 潜水艦伊号.東京,光人社,1997,p120-121
  3. ab雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻 潜水艦伊号.東京,光人社,1997,p132
  4. 日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p60,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  5. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p19,52
  6. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編3下.名古屋,ニュータイプ,2005,p662-666