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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

1989年(平成元年)7月19日建立。 合祀者151柱。(1)

軍艦大井戦没者慰霊碑

碑文

軍艦大井戦没者慰霊碑

軍艦大井について

大井は、5500トン型巡洋艦の最初のグループである球磨型巡洋艦の4番艦である。 日露戦後の海軍国防方針は、アメリカを主敵とし、来攻するアメリカ艦隊を日本近海での迎撃決戦で撃破するというものであった。 このためには、主力艦隊前方で偵察や索敵、艦隊決戦時に水雷戦隊の嚮導にあたる巡洋艦を多数必要とした。 これに対応して、大正5年度計画で天龍型巡洋艦(常備排水量3,500トン、33ノット、14cm砲4門)2隻を建造した。 続く大正6年の八四艦隊計画では、天龍型と同型の3,500トン型巡洋艦6隻と7,200トン型巡洋艦3隻が計画されたが、3,500トン型は列強の巡洋艦に比して非力であると判断され、引き続く八六艦隊案の策定にあたっては計画の見直しを行い、全ての巡洋艦を5,500トン型に統一して建造することとした。 なお、7,200トン型巡洋艦への統一は建造費の問題があって、断念されたようである。

球磨型巡洋艦は天龍型の船型を拡大し、砲力と速力の強化を図ったもので14cm砲7門、53cm連装魚雷発射管4基、速力36ノットとされた。 主砲は列強巡洋艦の15.2cmに対して14cmを採用している。 これは、砲弾重量を当時の日本人の体格に合わせて軽いものにし、単位時間当たりの投射量と砲撃持続時間を確保したかったためである。 また、一号機雷とその敷設装置のため、艦後部の砲はシェルター甲板上に装備とされ、5,6番砲間の上甲板に機雷庫を設けた。 一号機雷は機雷4個を長さ100メートルの連繋索で繋いだもので、これを敵艦隊前方の海面に投下し、敵艦隊の漸減または混乱を狙ったものであった。 この一号機雷の連繋索を乗り切るために、艦首は水線部で30°の角度で後方に傾斜し、水面下では大きなカーブを描いて艦底に達する形状とされた。 さらに、建造中に水上偵察機1機の搭載が決定され、前述の機雷庫が水上偵察機の格納庫に変更された。 しかしながら、射出機が装備されなかったため、水上偵察機はデリックで海面に降ろして発進させなければならず、アメリカ巡洋艦オマハ型に比べて見劣りするものとなった。

大井は1920年(大正9年)11月の第1回試運転でタービン翼が欠損、その後の公試でも事故が続発したため、引渡しが1年近く遅れた。 竣工後も機関の不調に悩まされ、このためか昭和期に入ると早々に兵学校練習艦となった、 この後、1941年(昭和16年)まで、大演習時に赤軍部隊(敵側)に臨時編入される以外は、ほとんどの期間を練習艦任務に従事していた。

1935年(昭和10年)、画期的とされた九三式魚雷(酸素魚雷)が採用されると、本魚雷を多数搭載した重雷装艦を建造し、艦隊決戦時に敵主力艦に対して奇襲攻撃を敢行するという構想が生まれた。 大井は、この重雷装艦に改造されることとなり、1941年(昭和16年)1月〜9月に舞鶴工廠で改装された。 なお、同型艦の北上も、1月〜12月に横須賀工廠で改装されている。 改装の要領は後部主砲3門と魚雷発射管のすべてを撤去、中央部の船楼甲板も撤去した上で上甲板舷側に張り出しを設け、61cm4連装発射管を片絃5基ずつ搭載するものであった。 魚雷の搭載本数は40本で予備魚雷はなかった。

重雷装艦として開戦を迎えた大井であったが、想定されたような艦隊決戦は生起せず、第一艦隊第九戦隊として出撃したミッドウェー海戦でも、戦局になんら寄与せず帰投している。 1942年(昭和17年)8月にガダルカナル戦が始まると、同方面への補給のため高速輸送艦が必要となり、大井と北上はこの任務のために改装された。 大発搭載のため発射管4基を下ろし、機銃を増備した。 以後、南西方面での輸送任務に従事していたが、1944年(昭和19年)7月19日にマニラ西方でアメリカ潜水艦Flasherの雷撃を受け沈没した。 最終時には、発射管は4基にまで減らされていたようである。(2)(3)(4)

艦名

艦名は河川名。 大井川は、静岡県静岡市と山梨県南アルプス市・早川町の境にある間ノ岳にその源を発し、静岡県島田市・金谷町で山峡を離れ、以後、島田市、藤枝市、金谷町を南下し、大井川町、吉田町で駿河湾に注ぐ、幹川流路延長168km、流域面積1,280km2の河川である。

要目(3)(6)(7)

完成時重雷装艦改装時
艦種二等巡洋艦
建造所川崎造船所
基準排水量 ※15,100トン
常備排水量 ※15,500トン
垂線間長152.40m
水線長158.53m
最大幅14.17m
水線最大幅14.17m
水線下最大幅
喫水4.80m
主缶ロ号艦本式水管缶(重油専焼)10基
ロ号艦本式水管缶(石炭・重油混焼)2基
主機ブラウン・カーチス式オール・ギヤード・タービン4基
推進軸4軸
出力90,000馬力77,989馬力(公試:北上の値)
速力36.0ノット31.67ノット(公試:北上の値)
燃料重油:1,260トン
石炭:350トン
重油:?
航続力14ノットで5,000浬
装甲水線64mm、甲板29mm、
兵装50口径三年式14cm単装砲7基
40口径三年式8cm単装高角砲2基
53cm六年式連装発射管4基
六年式魚雷16本
50口径三年式14cm単装砲4基
九六式25mm連装機銃2基
61cm九二式4連装発射管10基
九三式魚雷40本
射出機
航空機水上偵察機1機
乗員450名468名(北上の計画値)
その他1936年(昭和11年)〜1932年(昭和12年)頃に主缶を重油専焼に改造。

最終時の兵装は以下
50口径三年式14cm単装砲4基
九六式25mm3連装機銃2基
同連装機銃2基
九三式13mm連装機銃2基
61cm九二式4連装発射管4基
九三式魚雷16本

※1:英トン(1.016メートルトン)

艦歴(4)(8)

年月日履歴
1919年(大正8年)11月24日川崎造船所において起工。
1920年(大正9年)7月15日進水。
1921年(大正10年)10月3日竣工。 呉鎮守府籍に編入。
1921年(大正10年)10月5日第二艦隊第四戦隊に編入。
1921年(大正10年)12月1日第一艦隊第三戦隊に編入。
1922年(大正11年)4月3日馬公発。 香港方面行動。
1922年(大正11年)4月12日横浜着。
1922年(大正11年)6月19日佐世保発。 青島方面行動。
1922年(大正11年)7月4日鎮海着。
1922年(大正11年)8月31日舞鶴発。 シベリア方面行動。
1922年(大正11年)9月10日小樽着。
1923年(大正12年)8月25日横須賀発。 中国沿海行動。
1923年(大正12年)9月5日大阪着。
1923年(大正12年)12月1日馬公要港部附属に編入。
1924年(大正13年)12月1日第一艦隊第三戦隊に編入。
1925年(大正14年)12月1日予備艦となる。
1926年(大正15年)12月1日馬公要港部附属に編入。
1928年(昭和3年)12月10日兵学校練習艦となる。
1930年(昭和5年)12月1日呉鎮守府部隊に編入。 兵学校、潜水学校練習艦。
1932年(昭和7年)1月21日呉発。 揚子江方面行動。
1932年(昭和7年)3月23日呉着。
1932年(昭和7年)9月15日予備艦となる。
1933年(昭和8年)11月15日呉鎮守府部隊に編入。 兵学校練習艦となる。
1934年(昭和9年)11月15日兵学校練習艦となる。
1935年(昭和10年)9月26日本州東方洋上で訓練中、台風に遭遇、損傷(第四艦隊事件)。
1937年(昭和12年)7月28日連合艦隊付属に編入。
1937年(昭和12年)8月20日多度津発。 中支方面行動。
1937年(昭和12年)8月27日佐世保着。
1937年(昭和12年)12月1日呉鎮守府部隊に編入。 兵学校練習艦となる。
1939年(昭和14年)11月15日予備艦となる。
1941年(昭和16年)1月〜9月舞鶴工廠で重雷装艦に改装。
1941年(昭和16年)8月25日呉鎮守府部隊に編入。 潜水学校練習艦となる。
1941年(昭和16年)11月20日第一艦隊第九戦隊に編入。
1942年(昭和17年)1月21日六連発。 輸送船団護衛。
1942年(昭和17年)1月26日馬公着。
1942年(昭和17年)2月1日馬公発。
1942年(昭和17年)2月4日柱島着。 呉へ回航。
1942年(昭和17年)4月23日呉工廠へ入渠。 訓令工事。
1942年(昭和17年)5月9日呉工廠を出渠。
1942年(昭和17年)5月29日柱島発。 ミッドウェー作戦に参加。
1942年(昭和17年)6月17日横須賀着。 補給、整備。
1942年(昭和17年)6月22日横須賀発。
1942年(昭和17年)6月24日柱島着。
1942年(昭和17年)7月9日柱島発。 同日、呉着。 兵器、機関の修理・整備。
1942年(昭和17年)7月24日呉発。 同日、安下庄着。 以降、警戒碇泊諸訓練整備。
1942年(昭和17年)7月25日安下庄発。 同日、柱島着。
1942年(昭和17年)8月5日柱島発。 同日、柱島着。
1942年(昭和17年)8月19日柱島発。 同日、安下庄着。
1942年(昭和17年)8月20日安下庄発。 同日、安下庄着。
1942年(昭和17年)8月21日安下庄発。 同日、柱島着。
1942年(昭和17年)8月26日柱島発。 同日、本浦着。
1942年(昭和17年)8月27日本浦発。 同日、柱島着。
1942年(昭和17年)9月3日柱島発。 伊予灘で訓練。 同日、安下庄着。
1942年(昭和17年)9月4日安下庄発。 同日、柱島着。 警戒碇泊諸訓練。
1942年(昭和17年)9月6日柱島発。 同日、呉着。 整備、補給、休養。
1942年(昭和17年)9月9日呉発。
1942年(昭和17年)9月10日横須賀着。
1942年(昭和17年)9月12日横須賀発。 舞鶴鎮守府第四特別陸戦隊輸送。
1942年(昭和17年)9月17日トラック着。
1942年(昭和17年)10月23日トラック発。
1942年(昭和17年)10月31日ラバウル着。 同日、ラバウル発。
1942年(昭和17年)11月1日ブイン着。 同日、ブイン発。
1942年(昭和17年)11月3日トラック着。 訓練。
1942年(昭和17年)11月20日第九戦隊解隊。
1942年(昭和17年)11月21日トラック発。
1942年(昭和17年)11月26日マニラ着。
1942年(昭和17年)11月27日マニラ発。 陸軍部隊輸送。
1942年(昭和17年)12月3日ラバウル着。
1942年(昭和17年)12月4日ラバウル発。
1942年(昭和17年)12月24日呉着。
1942年(昭和17年)12月28日入渠。
1942年(昭和17年)12月31日出渠。
1943年(昭和18年)1月4日呉発。
1943年(昭和18年)1月5日鎮海着。
1943年(昭和18年)1月7日釜山へ回航。
1943年(昭和18年)1月9日釜山発。 陸軍部隊輸送。
1943年(昭和18年)1月14日パラオ着。
1943年(昭和18年)1月16日パラオ発。
1943年(昭和18年)1月19日ウエワク着。 人員揚陸。
1943年(昭和18年)1月22日ウエワク発。
1943年(昭和18年)1月25日パラオ着。
1943年(昭和18年)1月25日パラオ発。
1943年(昭和18年)1月31日青島着。
1943年(昭和18年)2月4日青島発。
1943年(昭和18年)2月10日パラオ着。
1943年(昭和18年)2月17日パラオ発。
1943年(昭和18年)2月20日ウエワク着。 物件揚陸。
1943年(昭和18年)2月22日ウエワク発。
1943年(昭和18年)2月25日パラオ着。
1943年(昭和18年)2月31日パラオ発。
1943年(昭和18年)3月3日トラック着。 警泊。
1943年(昭和18年)3月11日トラック発。
1943年(昭和18年)3月15日連合艦隊付属に編入。
1943年(昭和18年)3月17日バリックパパン着。
1943年(昭和18年)3月19日バリックパパン発。
1943年(昭和18年)3月20日スラバヤ着。 訓練、警備。
1943年(昭和18年)4月3日スラバヤ発。 カイマナへ陸軍部隊輸送3回。
1943年(昭和18年)5月16日マカッサル発。
1943年(昭和18年)5月19日ザンボアンガ着。
1943年(昭和18年)5月19日ザンボアンガ発。 人員輸送。
1943年(昭和18年)5月24日スラバヤ着。 人員揚陸、訓練、整備。
1943年(昭和18年)6月11日スラバヤ発。
1943年(昭和18年)6月12日マカッサル着
1943年(昭和18年)6月23日マカッサルで対空戦闘。
1943年(昭和18年)6月23日マカッサル発。 バリックパパン着。
1943年(昭和18年)7月1日南西方面艦隊第十六戦隊に編入。
1943年(昭和18年)7月2日バリックパパン発。
1943年(昭和18年)7月22日スラバヤ着。 警泊
1943年(昭和18年)7月30日スラバヤ発。
1943年(昭和18年)8月1日シンガポール着。
1943年(昭和18年)8月10日入渠。
1943年(昭和18年)8月25日出渠。
1943年(昭和18年)8月30日シンガポール発。 カーニコバルへ人員輸送。
1943年(昭和18年)9月11日シンガポール発。 リンガ泊地へ回航。 訓練
1943年(昭和18年)10月8日シンガポール発。 カーニコバルへ人員輸送。
1943年(昭和18年)10月29日シンガポール発。 ポートプレアへ人員輸送。
1943年(昭和18年)11月3日カビエン着。
1943年(昭和18年)12月1日シンガポール発。 ペナン、サバン交通保護。
1943年(昭和18年)12月25日シンガポール着。 訓令工事、機関整備。
1944年(昭和19年)1月4日リンガ泊地へ回航。 訓練。
1944年(昭和19年)1月23日シンガポール発。 ナンコウリへ人員輸送。
1944年(昭和19年)2月2日シンガポール発。 ペナンよりスラバヤへ海軍部隊輸送。
1944年(昭和19年)2月10日シンガポール着。
1944年(昭和19年)2月18日工作部造船所に入渠。
1944年(昭和19年)2月24日出渠。
1944年(昭和19年)2月27日シンガポール発。 インド洋交通破壊戦に従事。
1944年(昭和19年)3月15日ジャカルタ着。
1944年(昭和19年)3月25日シンガポールへ回航。
1944年(昭和19年)4月1日シンガポール発。 ダバオへ人員輸送2回。
1944年(昭和19年)5月13日パラオ、ソロン間で陸軍部隊輸送2回。
1944年(昭和19年)7月6日スラバヤ発。 南西方面艦隊司令部輸送。
1944年(昭和19年)7月16日マニラ着。
1944年(昭和19年)7月19日マニラ発。 シンガポール回航中、マニラ西方でアメリカ潜水艦Flasherの雷撃を受け沈没。
1944年(昭和19年)9月10日除籍。

参考資料

  1. 梶本光義(編集責任者).呉海軍墓地誌海ゆかば:合祀碑と英霊.呉海軍墓地顕彰保存会,2005,p59
  2. 日本巡洋艦史.東京,海人社,1991,p105-106,世界の艦船.No.441 1991/9増刊号 増刊第32集
  3. ab雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 13巻 軽巡天竜型・球磨型・夕張.東京,光人社,1997,p108-112
  4. ab昭和16年12月1日〜昭和18年3月15日 第9戦隊戦時日誌戦闘詳報(3).アジア歴史資料センター,リファレンスコード:C08030049400. 昭和16年12月1日〜昭和18年3月15日 第9戦隊戦時日誌戦闘詳報,(防衛省防衛研究所)
  5. 日本の川 - 中部 - 大井川 - 国土交通省水管理・国土保全局.https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0503_ooigawa/0503_ooigawa_00.html.2021年2月12日確認
  6. 前掲.日本巡洋艦史.p100,194
  7. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p41,42
  8. 前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 13巻 軽巡天竜型・球磨型・夕張.p130