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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

1983年(昭和58年)8月9日建立。 合祀者約880柱。

本碑は、1983年(昭和58年)8月9日、京都嵐山美術館に建立。 同館の閉館により、1995年(平成7年)6月20日、白浜御苑に移設建立。 同苑の閉鎖に伴い2002年(平成14年)4月17日 長迫公園に移設。(1)

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航空母艦飛鷹の碑

碑文

航空母艦飛鷹の碑

航空母艦飛鷹について

表1 出雲丸要目
総トン数28.950トン
載貨重量10,415トン
主機タービン2基
出力56,260馬力(最大)、45,000馬力(経済)
垂線間長206.30m
26.7m
深さ13.9m
喫水9.175m(満載)、6.705m(軽荷)
速力24.0ノット(保証)、25.5ノット(最大)
旅客1等:220、2等:120、3等:550

飛鷹は、日本郵船の客船出雲丸を改装した航空母艦である。 出雲丸は大型優秀船舶建造助成施設により建造された客船である。 第一次大戦後の造船および海運不況は昭和初期にその極に達した。 そこで造船業とそれに関連する中小企業の維持振興を図り、新鋭船の建造により後日の海外進出と国防強化のために、三次にわたる船舶改善施設が実施された。 これにより日本の造船・海運界は不況を脱したが、1936年(昭和111年)頃になると世界情勢の緊迫や満州事変の勃発により、造船・海運界への対策は、不況克服から国防強化のための施設実施へと切り替えられることとなった。 このような情勢下で、1937年(昭和12年)4月1日から優秀船舶建造助成施設が実施された。 本施設により、後に特設巡洋艦となった大阪商船の報国丸型や、航空母艦に改装された日本郵船の新田丸型が建造された。

この優秀船舶建造助成施設と同時に、サンフランシスコ航路に配する大型客船に対して助成することが計画され、昭和13年度から大型優秀船舶建造助成施設として実施された。 これは建造費を2,400万円とし、その60%を政府補助とするものであった。 助成を受けるための条件は、全長210m、幅25m以上、速力24ノット、総トン数26,500〜27,000トン、戦時には3ヶ月で航空母艦に改装可能なこと等であった。 これを受けて建造されることとなったのが、日本郵船の橿原丸型2隻で、出雲丸は1939年(昭和14年)3月20日に三菱重工業長崎造船所で、出雲丸は同年11月30日に川崎重工艦船工場(神戸)で起工された。 出雲丸は当時において日本最大の客船となるはずであったが、建造途中の1940年(昭和15年)10月に航空母艦への改装が決定され、翌11月より改装工事に着手した。

隼鷹型の飛行甲板は客船時のプロムナードデッキを延長したもので、2層の格納庫を設けていたが、常用48機+補用10機の搭載機のうち常用8〜9機は露天繋止とされた。  武装は12.7cm連装高角砲6基12門、25mm3連装機銃8基24門を備えていた。 機関は客船時のものをそのまま用いていたが、蒸気条件は圧力40kg/cm2、温度420℃と日本海軍艦艇の中で最高のものであった。 艦橋は煙突と一体化したアイランド型で、これは建造中の航空母艦大鳳に採用予定の構造を、実験を兼ねて取り入れたものである。 速力がやや遅く、弱装甲であったが航空母艦としては蒼龍・飛龍に準ずる能力をもっていた。

出雲丸は1941年(昭和16年)2月10日に買収され、1942年(昭和17年)7月31日に航空母艦飛鷹として竣工、隼鷹とともに、ミッドウェー海戦で喪失した航空母艦の穴埋めとして空母機動部隊の中核を担うこととなる。 10月11日、トラックを発しガダルカナル島攻撃に向かうが、機関故障を起こし引き返し、南太平洋海戦には参加していない。 1943年(昭和18年)に入ると、4月にい号作戦に飛行機隊を派遣した後、横須賀で北方作戦に備えて待機した。 6月10日、横須賀を発しトラックへ進出中、三宅島東方でアメリカ潜水艦Triggerの雷撃を受け航行不能となったが、救援部隊により、自力航行可能となり帰還、横須賀工廠で修理された。 アメリカ空母機の攻撃を受け、サイパン島西方730浬の地点で沈没した。(2)(3)(4)

艦名

艦名の「飛鷹」は漢成語で、空飛ぶ鷹の意。(5)

要目(3)(4)(6)(7)

竣工時1944年(昭和19年)6月
マリアナ海戦時
艦種航空母艦
建造所川崎重工艦船工場
基準排水量 ※124,140トン
公試排水量 ※227,500トン
垂線間長206.30m
水線長215.30m
全長219.32m
最大幅26.7m
喫水8.16m
飛行甲板長さ210.3m×幅27.3m
主缶川崎ラ・モント式強制循環缶(重油専焼)6基
主機川崎式オール・ギヤード・タービン2基
推進器軸2軸
出力56,260馬力
速力25.5ノット
燃料重油:4,100トン
航続力18ノットで12,251浬
乗員1,187名
兵装40口径八九式12.7cm連装高角砲6基
九六式25mm3連装機銃8基
40口径八九式12.7cm連装高角砲6基
九六式25mm3連装機銃16基
九六式25mm単装機銃12基
装甲舷側50mm
航空機零式艦上戦闘機21機
九九式艦上爆撃機18機
九七式艦上攻撃機9機
零式艦上戦闘機27機
九九式艦上爆撃機18機
艦上攻撃機天山6機

※1:英トン(1.016メートルトン)、※2:メートルトン

艦歴(8)

年月日履歴
1940年(昭和14年)11月30日「出雲丸」(日本郵船)として、川崎重工艦船工場において起工。
1940年(昭和15年)11月航空母艦改造に着手。
1941年(昭和16年)2月10日買収。
1941年(昭和16年)6月24日進水。 特設軍艦籍に編入。 「飛鷹」と命名。 特設航空母艦に類別。
1942年(昭和17年)7月14日軍艦に編入。 航空母艦に類別。
1942年(昭和17年)7月31日竣工。 第三艦隊第二航空戦隊に編入。
1942年(昭和17年)8月10日神戸発。 同日、小豆島沖着。
1942年(昭和17年)8月11日小豆島沖発。 同日、呉着。
1942年(昭和17年)8月13日呉発。 同日、柱島着。
1942年(昭和17年)8月17日柱島発。 同日、長浜沖着。
1942年(昭和17年)8月20日長浜沖発。 同日、呉着。
1942年(昭和17年)8月22日呉工廠に入渠。
1942年(昭和17年)8月29日呉工廠を出渠。
1942年(昭和17年)9月1日呉発。 同日、祝島着。
1942年(昭和17年)9月4日祝島発。 同日、呉着。
1942年(昭和17年)9月7日呉発。 同日、長浜着。
1942年(昭和17年)9月9日長浜発。 同日、祝島着。
1942年(昭和17年)9月10日祝島発。 同日、呉着。
1942年(昭和17年)9月13日呉発。 同日、大分着。
1942年(昭和17年)9月15日大分発。 同日、祝島着。
1942年(昭和17年)9月25日祝島発。 同日、呉着。
1942年(昭和17年)10月3日呉発。 同日、佐伯着。
1942年(昭和17年)10月4日佐伯発。 トラックへ向かう。
1942年(昭和17年)10月9日トラック着。
1942年(昭和17年)10月11日トラック発。 ガダルカナル島攻撃に向かう。
1942年(昭和17年)10月20日ソロモン東方海面で機関故障を起こし引き返す。 南太平洋海戦には不参加。
1942年(昭和17年)12月5日トラック発。 呉に向かう。
1942年(昭和17年)12月10日佐伯着。
1942年(昭和17年)12月11日佐伯発。 同日、呉着。
1942年(昭和17年)12月29日呉発。
1942年(昭和17年)12月30日徳山着。
1943年(昭和18年)1月14日徳山発。 同日、岩国沖着。
1943年(昭和18年)1月20日岩国沖発。 同日、徳山着。
1943年(昭和18年)1月24日徳山発。 同日、呉着。
1943年(昭和18年)2月2日呉発。 内海西部を行動。
1943年(昭和18年)2月16日呉着。
1943年(昭和18年)2月26日呉工廠に入渠。
1943年(昭和18年)3月4日呉工廠を出渠。
1943年(昭和18年)3月14日呉発。 同日、徳山着。
1943年(昭和18年)3月19日呉発。
1943年(昭和18年)3月20日佐伯着。
1943年(昭和18年)3月22日佐伯発。 トラックへ向かう。
1943年(昭和18年)3月27日トラック着。
1943年(昭和18年)4月1日い号作戦により、飛行機隊をラバウルに派遣。
1943年(昭和18年)4月17日い号作戦終了により、飛行機隊は原隊に復帰。
1943年(昭和18年)5月22日横須賀着。 北方作戦に備えて待機。
1943年(昭和18年)5月25日横須賀発。 木更津に回航。
1943年(昭和18年)6月2日木更津発。 横須賀に回航。
1943年(昭和18年)6月5日横須賀発。 木更津に回航。
1943年(昭和18年)6月7日木更津発。 横須賀に回航。
1943年(昭和18年)6月10日横須賀発。 トラックへ進出中、三宅島東方でアメリカ潜水艦「トリガー (Trigger) 」の雷撃を受け損傷、航行不能となる。
1943年(昭和18年)6月11日救援部隊の協力により、自力航行可能となる。
1943年(昭和18年)6月12日横須賀着。 修理。
1943年(昭和18年)6月29日横須賀工廠に入渠。
1943年(昭和18年)9月15日横須賀工廠を出渠。
1943年(昭和18年)10月26日横須賀発。
1943年(昭和18年)10月27日柱島着。
1943年(昭和18年)10月29日柱島発。 同日、呉着。
1943年(昭和18年)11月17日呉発。 同日、平郡島着。
1943年(昭和18年)11月19日平郡島発。 同日、杵築沖着。
1943年(昭和18年)11月20日杵築沖発。 同日、呉着。
1943年(昭和18年)11月24日呉発。 同日、平郡島着。 飛行機を収容。
1943年(昭和18年)11月25日平郡島発。シンガポールに向かう。
1943年(昭和18年)11月29日マニラ着。
1943年(昭和18年)11月30日マニラ発。
1943年(昭和18年)12月3日シンガポール着。
1943年(昭和18年)12月9日シンガポール発。
1943年(昭和18年)12月14日タラカン着。
1943年(昭和18年)12月15日タラカン発。
1943年(昭和18年)12月18日パラオ着。
1943年(昭和18年)12月19日パラオ発。
1943年(昭和18年)12月22日トラック着。
1943年(昭和18年)12月27日トラック発。
1943年(昭和18年)12月29日飛行機の一部をカビエンに派遣。
1943年(昭和18年)12月29日サイパン着。 同日、サイパン発。
1944年(昭和19年)1月1日平郡島沖着。
1944年(昭和19年)1月2日平郡島沖発。 同日、呉着。
1944年(昭和19年)1月18日呉発。 同日、平郡島沖着。
1944年(昭和19年)1月20日平郡島沖発。 同日、柱島に回航。
1944年(昭和19年)1月25日柱島発。 同日、杵築に回航。
1944年(昭和19年)1月27日杵築発。 同日、亀川着。
1944年(昭和19年)1月29日亀川発。 同日、阿多田島着。
1944年(昭和19年)2月1日阿多田島着。 同日、呉着。
1944年(昭和19年)2月28日呉発。 同日、柱島着。
1944年(昭和19年)3月9日柱島発。 同日、安下庄着。
1944年(昭和19年)3月10日安下庄発。 同日、呉着。
1944年(昭和19年)4月2日呉発。 同日、岩国沖着。
1944年(昭和19年)4月12日岩国沖発。 同日、徳山着。
1944年(昭和19年)4月14日徳山発。 同日、呉着。
1944年(昭和19年)4月22日呉発。 同日、平郡島沖着。
1944年(昭和19年)4月26日平郡島沖発。 同日、岩国沖着。
1944年(昭和19年)4月27日岩国沖発。 同日、呉着。
1944年(昭和19年)4月29日呉発。 同日、岩国沖着。
1944年(昭和19年)5月1日岩国沖発。 同日、平郡島沖着。
1944年(昭和19年)5月3日平郡島沖発。 同日、岩国沖着。
1944年(昭和19年)5月6日第六五二航空隊の飛行機を収容。 岩国沖発。 同日、佐伯着。
1944年(昭和19年)5月11日佐伯発。 タウイタウイへ向かう。
1944年(昭和19年)5月12日中城湾着。 同日、中城湾発。
1944年(昭和19年)5月16日タウイタウイ着。 機動部隊と合流。
1944年(昭和19年)6月13日タウイタウイ発。 サイパン島西方へ向かう。
1944年(昭和19年)6月14日ギマラス泊地着。
1944年(昭和19年)6月15日ギマラス泊地発。
1944年(昭和19年)6月19日マリアナ沖海戦に参加。
1944年(昭和19年)6月20日アメリカ空母機の攻撃を受け、サイパン島西方730浬の地点で沈没。
1944年(昭和19年)11月10日除籍。

参考資料

  1. 梶本光義(編集責任者).呉海軍墓地誌海ゆかば:合祀碑と英霊.呉海軍墓地顕彰保存会,2005,p86-87
  2. 日本造船学会編.昭和造船史 第1巻.東京,原書房,1978,p311―316.明治百年史叢書;第207巻
  3. ab雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 7巻 空母隼鷹・飛鷹・瑞鳳型・竜鳳・千歳型・信濃・伊吹・大鷹型・神鷹・海鷹.東京,光人社,1996,p29-35
  4. ab日本航空母艦史.東京,海人社,1994,世界の艦船.No481 1994/5増刊号 増刊第40集,p88
  5. 片桐大自.聯合艦隊軍艦銘銘伝.東京,光人社,2003,p183.(ISBN4-7698-1151-9)
  6. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p7,45,46
  7. 軍艦メカ2日本の空母.東京,光人社,1986,p105
  8. 前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 7巻 空母隼鷹・飛鷹・瑞鳳型・竜鳳・千歳型・信濃・伊吹・大鷹型・神鷹・海鷹.p42