本文へ

三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

1886年(明治19年)までは入船山に鎮座していたが、呉に海軍鎮守府が置かれることとなり、社地が海軍に接収された。 そのため、1890年(明治23年)に現在地に移転した。

「初め筑紫宇佐島より豊後姫島に御遷座あり、人皇第四十代天武天皇の御宇、白鳳八年姫島より、安藝国栃原村甲手山に天降り給ひ、後、人皇第四十三代文武天皇の御宇、大寶三年八月なかば呉宮原村字龜山に鎮座まします」

画像をクリックすると拡大表示。 戻るときはブラウザの「戻る」ボタンをクリック。

表参道の注連柱

注連柱1

注連柱2

注連柱2

燈籠1

入ってすぐの所に左右二対の灯籠がある。 「献燈」「紀元二千六百年」とあるので、1940年(昭和15年)に奉納されたもののようである。

燈籠1

燈籠2

一の鳥居

このあたりは、かなり急な坂になっている。

一の鳥居1

一の鳥居2

二の鳥居と稲荷神社

二の鳥居は2001年(平成13年)3月24日15時28分頃に発生した芸予地震で倒壊したが、鉄製の鳥居が奉納された。 日本鋼管製である。

二の鳥居の左脇には、稲荷神社がある。 この社は第2次世界大戦中の呉空襲でも焼け残った。  現在のものは老朽化により立て替えられたものである。

二の鳥居と稲荷神社

二の鳥居と稲荷神社

二の鳥居と稲荷神社

燈籠2

二の鳥居をくぐると左右二対の燈籠がある。 

左が呉商業学校、右が呉港中学校の名で1対の燈籠が 奉納されているが、 同じ学校である。 1934年(昭和9年)呉港中学校が藤村富美男を擁して甲子園で全国優勝した記念に奉納された。

燈籠1

燈籠2

本殿

本殿は權現造り、建物全体は本殿、幣殿、拝殿と続く流造りで、丹塗り鉄筋コンクリート造りである。

本殿

本殿

再建記念碑

本殿向かって右側に再建記念碑が2基ある。 一つは、1928年(昭和3年)9月26日に失火により社殿が焼失したものを1934年(昭和9年)に再建したときのものである。 もう一つは、1955年(昭和30年)の再建時のものである。

再建記念碑

再建記念碑
昭和30年の再建記念碑

再建記念碑
昭和3年の再建記念碑

鎮遠號廻航記念碑

日清戦争の戦利艦「鎮遠」が呉に回航されたのを記念して建てられた。 碑文によると鎮遠の主砲弾も飾られていたようである。 後に、太平洋戦時中の金属供出で失われたらしい。

鎮遠號廻航記念碑1

鎮遠號廻航記念碑2

鎮遠號廻航記念碑3

植樹記念碑

中央が「皇紀二千六百年記念」、灯籠の後ろにあるのが「御大典記念」の石碑である。

植樹記念碑1

「明治三十八年一月元旦旅順陥落記念松」。 松自体は既に枯れてしまったようである。

植樹記念碑2

「御大典記念櫻樹」。 昭和三年十一月一日の日付がある。 上部が破損していて、元の形はわからない。

植樹記念碑3

神馬

元々は、1934年(昭和9年)の社殿再建時に神馬が奉献されたが、1944年(昭和19年)に金属供出により失われ、台座のみが残っていた。 1975年(昭和50)年に再び神馬が奉献され、現在に至っている。

神馬

神馬

青銅灯篭

この青銅灯篭は、尾張徳川家から上野寛永寺に奉献されたものである。 それが明治以降、複雑な経緯があって、1956年(昭和31年)に亀山神社に奉献された。

青銅灯篭

青銅灯篭

アクセス

周辺地図

JR呉駅から広電バス宮原線(路線番号3または4)に乗車。 「四道路」で下車。 

JR呉駅から広電バス仁方川尻線/広長浜線/郷原黒瀬線(路線番号11)に乗車。 「四道路」で下車。