1886年(明治19年)までは入船山に鎮座していたが、呉に海軍鎮守府が置かれることとなり、社地が海軍に接収された。 そのため、1890年(明治23年)に現在地に移転した。
「初め筑紫宇佐島より豊後姫島に御遷座あり、人皇第四十代天武天皇の御宇、白鳳八年姫島より、安藝国栃原村甲手山に天降り給ひ、後、人皇第四十三代文武天皇の御宇、大寶三年八月なかば呉宮原村字龜山に鎮座まします(1)」
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二の鳥居は2001年(平成13年)3月24日15時28分頃に発生した芸予地震で倒壊したが、鉄製の鳥居が奉納された。 日本鋼管製である。
二の鳥居の左脇には、稲荷神社がある。 この社は1945年(昭和20年)7月2日の呉空襲でも焼け残った(2)。 現在のものは老朽化により立て替えられたものである。
二の鳥居をくぐると左右二対の燈籠がある。
左が呉商業学校、右が呉港中学校の名で1対の燈籠が 奉納されているが、 同じ学校である(3)。 1934年(昭和9年)呉港中学校が藤村富美男を擁して甲子園で全国優勝した記念に奉納された。
この他にも、軍艦赤城戰死者之碑が建立されていたが、保管その他の関係で、1917年(大正6年)7月19日に江田島の海軍兵学校内に移設された。 この碑は、「赤城」の主砲フィブリール式12cm砲を模ったもので、三菱造船所で鋳造された。 砲底には坂元艦長以下10名の遺骨がおさめられている。(6)
ここでいう「赤城」は、ミッドウェーで戦没した航空母艦「赤城」ではなく、1890年(明治23年)8月20日に小野浜造船所で竣工した、摩耶型砲艦の「赤城」である。 「赤城」は1894年(明治27年)9月17日の黄海海戦で命中弾30発を被り、坂元艦長以下28名の死傷者を出した(7)。 納められている遺骨は、この時の戦死者のものである。
この碑は、海上自衛隊第一術科学校に現存する。
JR呉駅から広電バス宮原線(路線番号3または4)に乗車。 「四道路」で下車。
JR呉駅から広電バス仁方川尻線/広長浜線/郷原黒瀬線(路線番号11)に乗車。 「四道路」で下車。
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