本文へ

三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

禹範善墓碑

清水二丁目の神應院本堂の裏側墓地に、禹範善(ウ・ボムソン、1858年5月〜1903年11月24日)の墓がある。

禹範善墓碑

禹範善は乙未事変で閔妃(ミンピ)暗殺に加わった朝鮮李朝末期の武官である。 武人の家系に生まれ、1876年に科挙の武科試験に及第、黄海道地域に配属された。 1881年には別技軍の参領官となった。 別技軍は1881年5月に五軍営の中から特選した志願兵80名を武衛営に所属させたもので、朝鮮に創設された初めての新式軍隊であった。 別技軍の軍事顧問は日本公使館所属の堀本礼造工兵少尉で、通訳官は武田勘太郎であった。 禹範善はこれに参加してから開化政策に目を開き、金玉均、朴泳考主導の開化派に加担した。

1895年、乙未事変に際しては、指揮下の将兵を率い、日本軍守備隊とともに宮殿に侵入、閔妃刺殺を幇助した。 そのため、逮捕令が下り一時身を隠す。 さらに翌年、親日の金弘集内閣が倒れ、政局が一変したため禹範善は日本に亡命した。

亡命後の禹範善は、東京・本郷で暮らしていた。 38歳のとき、近くの華族宅で奉公していた酒井ナカと結婚、1898年には長男の禹長春(ウ・ジャンチュン)が生まれた。 1903年には呉市に移り住んだが、同年11月24日、「国母報讐(閔妃の復讐)」を掲げる高永根、廬遠明により暗殺された。 この墓は、呉の知人達によって建てられたものである。(1)

長男の禹長春は呉中学校(現呉三津田高校)から東京帝国大学農科大学実科へ進学、後にナタネの品種改良で画期的な成果を上げ、育種学の世界的権威となった。 1950年3月には、釜山の韓国農業科学研究所に招聘された。 これは韓国国内に野菜類の優良な種子の生産技術がなく、特に、キムチに使うハクサイやダイコンの種子不足は深刻な問題だったためである。 着任した禹長春は種子作りや後進の育成に力を注ぎ、5年後に種子の自給体制をほぼ確立した。 この功績により長春は韓国で「キムチの恩人」「農業の父」と慕われている。 渡韓から10年、1959年8月10日、ソウルの病院で禹長春は61年の生涯を終えた。(2)

碑文

碑文は「芸備碑文集 上巻」に依った(3)

周辺地図

アクセス

周辺地図

JR呉駅から広電バス宮原線(路線番号3-1または3-2)に乗車。 「清水一丁目」で下車。
※路線番号4-1は「清水一丁目」を経由しないので注意。

参考資料

  1. 姜健栄.開化派リーダーたちの日本亡命: 金玉均・朴泳孝・徐載弼の足跡を辿る.東京,朱鳥社, 2006,p253-262.(ISBN 4434073699, 9784434073694)
  2. 忘れ得ぬ人々:日韓併合100年/1 農業の偉人、父は国賊.毎日新聞、2010年2月12日
  3. 桜井 照登編.芸備碑文集 上巻.広島,友田誠真堂,1921年,p316-317