ノモンハン戦争から学ぶべきこと  
                      2012年3月 Minade Mamoru Nowar

1.辻政信の画策と独断専行

小さな国境紛争から始まった1939年5月−9月のノモンハン戦争(=事件)は、
関東軍(満州駐留の日本軍)の高級参謀に着任した辻政信が、
個人的な戦功をねらって次々と画策し、
大本営陸軍参謀本部を無視して独断専行を重ね、
日本・ソ連の双方に多大な犠牲を出した本格的戦争に発展させたのである。

満州国建国以降、ノモンハン戦争以前の1932年〜1938年の7年間、
満ソ国境においては国境侵犯事件が多発していた。7年間で759件の多きに達する。



1939年3月、辻政信は大本営陸軍参謀本部から関東軍の高級参謀に転属した。

着任した辻政信は、早速、『満ソ国境紛争処理要綱』を作成した。
4月25日、植田謙吉関東軍司令官は、辻政信の進言に盲従し、関東軍麾下の軍司令官、
師団長に、この『満ソ国境紛争処理要綱』を示達した。



この要綱は「満ソ国境ににおけるソ連軍、蒙古軍の国境侵犯に対しては徹底的にこれを
膺懲(ようちょう)する(=戦って懲らしめる)」という、それまでの大本営陸軍参謀本部の
方針、「満ソ国境においては、【侵されても侵さない】、すなわち、国境侵犯事件を
戦争に発展させてはならない」という方針に全く反するものであった。

この紛争処理要綱が示達された直後の5月4日に小さな国境侵犯が起こった。
それが、10日、11日、12日、次々とエスカレートしていった。
ノモンハン戦争の最大原因は、この辻政信作成『満ソ国境紛争処理要綱』であった。

辻政信の進言に盲従し、大本営陸軍参謀本部の方針に100%違反する要綱を示達した
植田謙吉関東軍司令官の方針無視と国際情勢判断力に呆れざるを得ない。

この示達は陸軍刑法第2章第35条及び第38条の擅権(せんけん)の罪に該当する。

それ以上に、辻政信に振り回された大本営陸軍参謀本部の【無知、愚かさ、統制力欠如】には
呆れざるを得ない。

2.無知で愚か−「めくら蛇におじず」の辻政信

出典:若槻泰雄『日本の戦争責任 上』原書房 1995年7月発行 第5頁〜第17頁より抜粋

当時の日本陸海軍が、各国との比較において、自らの戦力をどう考えていたのかを記述した
貴重なな文書資料がある。1939年発刊の『世界国防の現勢』である。西垣新七陸軍大佐など
現役の陸海軍佐官クラスが執筆し、陸海軍の中将が監修し、陸海軍の両大臣が題辞を書いている。
陸軍省情報部、海軍省軍事普及部、憲兵司令部の検閲済の判もあり、いわば陸海軍公認の
権威ある文書資料である。この本が準拠している数字は1937年末のものである。

当時の日本陸軍の仮想敵国はソ連である。航空機はソ連の五・五分の一、高射砲、戦車は
数十分の一ということになる。日本には戦車連隊は二個しかないが、ソ連には機械化師団、旅団、
連隊等が十数個ある。機械化部隊とは戦車隊を主として、これに自動砲兵、自動車化歩兵が
付随したものをいう。そして連隊が複数集まって旅団となり、旅団が複数集まって師団となる。
日本の戦車数はソ連の数十分の一であった。

もう一つ重要な点は自動小銃にである。当時の自動小銃は、通常30発ぐらい自動発射できるのに
対し、普通の小銃は一発ごとに引き金を引き、5発ごとに弾を補充しなければならない。したがって、
自動小銃の効率はすくなくとも小銃の10倍以上はある。自動小銃の方が軽く携帯も便利である。
第二次大戦では欧米各国の歩兵はほとんどすべて自動小銃を装備していた。

日本陸軍は自動小銃を造るよりも、旧式の三八式単発小銃を一挺でも多く造るほうがよいと
自動小銃の研究すら中止していた。

この文書資料には、「列国が近代戦に備えるべく、軍備の強化に全力をあげており、その強化の
内容は、兵器装備上の主要な点を次のように列挙している。
@第一次世界大戦型やその改良型のような旧式兵器の更新
A火力装備、ことに自動火器、火砲の増加と新式化
B機械化兵器、装甲兵器の強化
C対戦車装備の充実
D対空兵器装備の充実
E指揮・連絡・情報に関する兵器の装備
F(略)
G補給機関の完備

これをみると、まるで日本陸軍が今次大戦で暴露した致命的欠陥の反対の事項を全部並べた
ような感がある。大本営の陸軍参謀であった井本熊男は戦後、旧日本帝国陸軍について
「用兵規模、機動力等の観念はだいたいにおいて半世紀遅れ……」と書いているが、正確には
「観念と実態は半世紀遅れ……」とすべきであろう。

第二次大戦中、日本陸軍の主力である歩兵の訓練の最重点は、射撃・銃剣術・行軍の三つで
あった。射撃は三八式単発歩兵銃をポツン、ポツンと撃つことであり、銃剣術は、その小銃さえ
撃たずに、小銃の先に付けた小さな銃剣で敵を突き刺す白兵戦のためのものであり、行軍は
文字通りただただ歩くことである。

日露戦争どころか、19世紀以前の軍隊、戦国時代の軍隊と基本的には変わらない。
日露戦争後、さらに第一次大戦後、旧日本陸軍の最高指導者たちと高級参謀たちが
必死に取り組まなければならなかったことは、日露戦争時の白兵突撃によるおびただし
戦死者
を出さないように、軍備・兵器を近代化することであったはずである。無知で愚かであった
旧日本帝国陸軍の最高指導者・高級参謀たちの無能・無策・無責任を嘆かずにはいられない。



You Tube:ノモンハン事件研究報告(タイトルはガダルカナル島戦C)


日露戦争の戦死者数25,331人中、15,400人が旅順要塞攻撃で戦死、
負傷者は44,000人にのぼったといわれる。もっとも犠牲者が多かったのが
二百三高地攻略戦での白兵突撃であった。





You Tube:ガダルカナル島戦の悲劇−3回も繰り返された無謀・悲惨な白兵突撃@

You Tube:ガタルカナル島戦の悲劇−繰り返された辻政信の無謀な犯罪的作戦指導B



兵力量に表われた以外に、日本軍には大きな弱点があった。それは火砲の射程が日本軍の方が
短かいので、ソ連軍の砲兵は日本軍の大砲の弾のとどかぬところから打ってきた。

さらに、もう一つの大きな弱点は輸送力であった。日本軍の輸送力が貧弱なため弾薬の量に大差が
あった。日本の砲兵が一発撃つと、ソ連軍からその何倍も返ってくるので、歩兵は砲兵に「射撃を
しないでくれ」と頼んだこともあったという。防衛庁戦史室編纂のノモンハン事件の記述には、
「彼我の兵力、ことに火力差は著大で、ソ連軍の攻撃ぶりはまさしく圧倒という表現がふさわしいもの
であった」、「当時の日本砲兵は対砲兵戦において、ほとんど問題にならなかった」とある。

ソ連軍とは、このような大きな兵力格差・補給力格差が存在していたにもかかわらず、
辻政信の「満ソ国境紛争処理要綱」は、「敵の不法行為に対しては、断固徹底的に膺懲する
ことによりてのみ事件の頻発又は拡大を防止し得ることはソ連軍の特性と過去の実績とに徴し
極めて明瞭なる所以を部下に徹底し、特に第1線部隊においては、国境付近に生起する戦闘の
要領を教育し、いやしくも戦えば兵力の多寡、理非の如何に拘わらず必勝を期す」との
滅茶苦茶な指令であった。

「めくら蛇におじず」という言葉がある。辻政信の心理と行動にぴったりあてはまる言葉である。


三八式歩兵銃
参考情報:栗原俊雄著『シベリア抑留』(岩波新書 09年9月発行)第8頁抜粋:

1945年夏、関東軍は18歳から45歳までの在満邦人男子約20万人を召集した。
【根こそぎ動員】である。関東軍の主な武器は明治38年(1905年)に制式化された
旧式の三八式歩兵銃
であったが、この旧式歩兵銃すら召集兵士全員には行き渡らず、
銃がほとんどない部隊があった。新京では召集令状に「各自、必ず、武器となる
出刃包丁、及びビール瓶2本を携行すべし」とあった。出刃包丁は槍の穂先にする。
中世の武器である。ビール瓶は火炎瓶に転用する。出刃包丁より【近代的】であった。

涙が出てくる。悲しい話である。


日本軍歩兵の進軍光景

資料出所:アルビィン.D.クックス著 『ノモンハン 草原の日ソ戦−1939(下)』
       朝日新聞社 1989年12月発行
 第177頁

3.地図と写真で見るノモンハン−戦うに値しない場所


ノモンハン戦争戦場図



ハルハ河一帯:モンゴルにおいてはこの戦争は【ハルハ河戦争】と呼ばれている。

地図や写真を見ると、軍事の素人(しろうと)であっても、なんで日本軍はこんなところで
戦ったのかと思う。正に、戦うに値しない場所であった。


資料出所:防衛庁防衛研修所戦史室著 『関東軍@ 対ソ戦備 ノモンハン事件』
       朝雲新聞社 1969年発行 第430頁

4.タムサグプラグ攻撃で本格的な戦争へ

6月27日辻政信は大本営陸軍参謀本部の計画中止勧告を無視して、
重爆撃機24機、軽爆撃機6機、戦闘機77機からなる空爆隊に
国境から130キロほども奥深く入ったモンゴルのタムサグプラグ(タムサグ・ポラグ、
タムスク)
空軍基地及びマダット、サンベース空軍基地を攻撃させた。
99機を撃墜、25機を爆破した。基地の半分を破壊した。大戦果であった。

しかし、この爆撃によって、ソ連は日本軍の本格的出動があると判断した。
この爆撃を契機に局地紛争は本格的な戦争へと拡大していった。


タムスク(タムサグプラグ、タムサグ・ポラグ)〜ハルハ河西岸・東岸〜ホルステン河一帯

ハルハ河東西

ハルハ河東岸より見た西岸一帯:西岸一帯は東岸より20b〜50b高い台地になっている。
東岸の日本軍陣地からは西岸のソ連軍陣地の状況は見えないが、西岸のソ連軍陣地からは
東岸の日本軍陣地の状況は手に取るようによく見える。




5.日本軍のハルハ河西岸攻撃と敗走

7月2日〜3日辻政信は満州国が国境線と主張するハルハ河にただ一本の
舟橋を架けさせ、戦車80両、砲112門、騎兵隊を含む、総勢約1万人の大部隊に
ハルハ河を渡らせ、西岸の高台にあるソ連軍陣地を攻撃させた。

ソ連軍は186両の戦車、260両の装甲車で猛反撃した。日本軍は当時、
ガソリン・エンジンであったソ連軍戦車・装甲車を火炎瓶攻撃で多数破壊した。

しかし結局、ソ連軍の圧倒的に優勢な火力攻撃に敗れ、
翌4日〜5日、日本軍は、何千人もの戦死者、及び死馬、砲を遺棄して、
ただ一本の舟橋を通ってハルハ河東岸へ敗走した。

橋を使えず溺死した者も少なくなかった。
以後、日本軍がハルハ河西岸に進攻することはなかった。

ソ連軍の被害も大きかった。
ロシア国立軍事公文書館の文書は次のように記録している。

「7月3日から12日の間に、我が部隊は、死者2,103人、負傷者522人、
行方不明者328人、合計2,953人の損失を出した。

戦車は、51台が焼けて破壊された。この他に部分的に破壊された戦車は74台であった。
装甲車は60台が焼かれ、7台が撃破された」
(鎌倉英也著 『ノモンハン 隠された「戦争」』NHK出版 01年3月発行)第177頁


資料出所:防衛庁防衛研修所戦史室著 『関東軍@ 対ソ戦備 ノモンハン事件』
       朝雲新聞社 1969年発行 付図第三




戦車中心のソ連軍の戦略に対して、小銃を担いだ【大和魂】兵士中心の日本軍の戦略
象徴するハルハ河渡河光景。


資料出所:古是三春(ふるぜ みつはる)著 『ノモンハンの真実−日ソ戦車戦の実相』
       (産経新聞出版 09年9月発行) 第19頁及び第235頁

ハルハ河東岸



6.ソ連軍の日本軍殲滅大攻勢

全ての戦車・装甲車のガソリン・エンジンをディーゼル・エンジンに取り替え、
ハルハ河に12本の架橋を行った後、
8月20日、ジューコフが指揮したソ連軍は、
515機の航空機による爆撃、ハルハ河西岸の台地にあり東岸の日本軍
陣地を見下ろすコマツ台地からの重砲による約3時間にわたる砲撃の後、
戦車498両、装甲車385両、火砲・迫撃砲634門、機関銃2,255丁を中心に、
兵員5万7,000名
をもって、ハルハ河東岸のモンゴル領内の日本軍殲滅作戦を開始した。

この作戦のために、ジューコフが準備させた弾薬等の物資は、砲兵弾薬
1万8000トン(野砲弾薬換算約280万発)、空軍弾薬6500トン、
各種燃料1万5000トン、各種糧食4000トン、燃料7500トン、その他の資材
1000トンで、合計5万2000トンであった。
牛島康允(うしじまやすちか)著『ノモンハン全戦史』自然と科学社発行・
星雲社1988年4月発売 第297頁〜第299頁)


これらの大量の戦闘物資の輸送は日本軍に気づかれぬように、
細心の注意を払って行われた。辻政信や関東軍の最高指導者たちは、
ソ連軍の、この大がかりな戦闘準備を夢想だにしていなかった。

銃剣による白兵突撃と火炎瓶による肉弾攻撃という戦国時代の原始的な
戦術発想で、装備とか補給など考えたこともないとすら思われる
辻政信ら関東軍高級参謀たちや、関東軍司令官、第六軍司令官、
第23師団長などの関東軍の最高指導者たちには、全く想像できない
圧倒的な量の戦闘物資をジューコフは日本軍殲滅作戦に投入したのである。

日本軍は兵員こそ2万数千人であったが、それまでの戦闘で戦車の大半を失い、
残った戦車も皆引き揚げており、この時は戦場には日本軍戦車は皆無であった。
火砲はわずか100門であった。

火炎瓶を手に、肉弾攻撃で必死に反撃したが、ディーゼル・エンジンの
戦車・装甲車には全く効果なく、圧倒的に優勢なソ連軍の火力攻撃により
日本軍は壊滅し、敗走した。大敗北であった。
日本軍はモンゴルが主張する国境線の外へ完全に追い払われた。



資料出所:アルビィン.D.クックス著 『ノモンハン 草原の日ソ戦−1939(下)』
       朝日新聞社 1989年12月発行
 第7頁


ソ連軍の日本軍陣地攻撃メモ

資料出所:アルビィン.D.クックス著 『ノモンハン 草原の日ソ戦−1939(下)』
       朝日新聞社 1989年12月発行
 第9頁




事実の歪曲より、さらに悪質なのは、捏造(ねつぞう)デッチアゲ情報である。
【大本営発表】として広く知られている旧日本帝国陸軍の捏造(ねつぞう)
デッチアゲ情報の始まりが、ノモンハン戦争についての旧日本帝国陸軍の発表であった。

7.おびただしい日本軍の戦死者、戦傷者

区分 日本軍 ソ連軍
戦死及び生死不明者 8,741人 7,974人
戦傷 8,664人 15,251人
戦病 2,263人 701人
合計 19,668人 23,926人

資料出所:中山隆志著『関東軍(講談社選書メチエ 00年3月発行)第207頁



資料出所:アルビィン.D.クックス著 『ノモンハン 草原の日ソ戦−1939(下)』
       朝日新聞社 1989年12月発行
 第252頁〜第253頁

09年5月、現地調査を行った軍事史研究家・辻田文雄氏
「それは衝撃的な光景でした」とノモンハン戦場の現況について、
「戦争から70年たった現在において、砂の草原には、
戦死した日本軍将兵たちの風化した遺骨や、
赤さびた砲弾の破片や、ビンの破片などが、
足の踏み場もないくらい散乱していた」と語っている。

遮蔽物がない平原のフイ高地では、ソ連軍の猛攻で日本軍は
80%以上が戦死した。だれ一人として降伏しなかった。

田中克彦一橋大学名誉教授は著書 『ノモンハン戦争』の第A頁で
「日本軍は2万人をこえる兵士たちの生命を捧げて・・・」と述べている

作家・半藤一利氏は著書 『ノモンハンの夏』の第343頁で「昭和41年10月20日、
靖国神社でノモンハン事変戦没者の慰霊祭が行われた時、翌日の新聞は
戦没者を1万8,000人と報道している」と述べている。

筆者は、上記のノモンハン戦争の日本軍の死傷者数、1万9,668人や1万9,714人は、
旧日本帝国陸軍が厳重な箝口令と徹底した事実隠ぺいにより偽装した数字であると
思っている。各種資料や、ソ連の詩人・作家、シーモノフの従軍記『ハルハ河の回想』
などから考え、筆者は、生死不明者を含め、戦死者は2万名以上、戦傷者数は
1万人以上、戦死・戦傷合わせて3万人以上と推定している。

この他に、旧ソ連に残留した多数の日本人捕虜未帰還者の存在が確認されている。

牛島康允(うしじまやすちか)氏は著書『ノモンハン全戦史』で
「日本軍の死傷者数に関するソ連の発表数字は実数の約2倍に誇張(こちょう)
されている。日本の発表数字は実数の約半分に粉飾している。そう考えて、
双方の記録を読むと非常にぴったりする」と述べている。筆者も同感である。


8.非道、卑劣な辻政信と関東軍最高指導者たち

辻政信は、個人的な戦功をねらって自分が主導したノモンハン戦争が、
おびただしい犠牲を出して大敗北に終わったことを、誰よりもよく知っていた。

しかし卑劣にも、辻政信と関東軍の最高指導者たちは、
おびただしい犠牲を出して大敗北した責任を、
全て前線の指揮官たちになすりつけた。

生き残った前線指揮官たちに自殺を強要した。

停戦後、捕虜交換によって戻ってきた将校たち全員に自殺を強要した。

これは忠臣蔵の赤穂浪士の切腹(せっぷく)と同じで実質的な死刑である。

関東軍の最高指導者たちは、勇敢に戦った前線指揮官たちと、激しい戦闘中に
負傷して昏睡状況で、自分の意思に反して捕虜になった勇敢に戦った将校たちを、
死刑にしたのである。

関東軍の最高指導者たちは、あまりにもの悲惨な大敗北の事実の隠ぺいと、
自分たちの【擅権(せんけん)の罪)免れるために
前線指揮官たちと捕虜になった将校たちを死刑にしたのである。

陸軍刑法 抜粋 第2章 擅権(専権)の罪 注:擅権=せんけん=専権


第二次世界大戦において、ソ連軍の最も優秀な指揮官と称えられたジューコフは、
戦後、ノモンハン戦争において、死を恐れずに勇猛果敢に戦った日本軍の前線指揮官と
将校・兵卒を高く評価している。

その忠誠心あふれる前線指揮官たちと将校たちを
関東軍の最高指導者たちは死刑にしたのである。

旧日本帝国陸軍の組織内部において、このような、
人道に反する不正不義
が、公然と、恥じることなく行われた

本来、陸軍刑法によって死刑に処せられなければならなかったのは
大本営陸軍参謀本部の命令を無視して戦争を拡大した辻政信
『満ソ国境紛争処理要綱』を示達した植田謙吉関東軍司令官のはずである。

辻政信人間としてあるまじき極悪非道な行為と、
それを繰り返し許した 旧日本帝国陸軍の組織風土は、
何十年、何百年経っても、徹底的に究明・糾弾されなければならない。

しかしこれとは正反対に、この後、辻政信は参謀本部作戦課に舞い戻り、
今度は太平洋戦争を主導して日本を破滅させた。

辻政信は、人を誑かす(たぶらかす)天才であった。しかし、戦場において、
相手の兵力、補給力を洞察し、自然条件(地形、気象、植物動物の繁殖状況)
仔細に観察して、適切な戦略・戦術を策定する能力を全く欠いていた。
致命的であったのは相手の戦力を把握するという発想が全くなく、
レーダー的情報収集力がなかったことである。

小林英夫・早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授は、
著書『ノモンハン事件−機密文書「検閲月報」が明かす虚実』(平凡社新書09年8月発行)
第54頁で「辻政信は全体的に思いこみの激しい人物だった。
「無謀・横暴・乱暴」をサンボウ(参謀)という人がいるが、この言葉はまさに
辻政信に当てはまる」と述べている。

ノモンハンの悲劇のみならず、ガダルカナルでの悲劇、インパールの惨劇など
辻政信が作戦参謀としての資質を全く欠いていたため、実に数十万人の
日本軍将兵が、無謀な作戦の敗走途上で、戦死、病死、餓死している。

辻政信は昭和戦争敗戦後、5回も国会議員に当選(衆院4回、参院1回)した。
彼の人を誑かす(たぶらかす)天才能力の賜物(たまもの)である。

9.事実隠ぺいは犯罪、不正不義を許すな

事実隠ぺいを犯罪と思わず、不正不義が公然とまかり通った
旧日本帝国陸軍の組織風土
は、何十年、何百年経っても、
徹底的に究明・糾弾されなければならない。

当時の旧日本帝国陸軍全体や、日本政府や、マスコミが、
昭和天皇の憂慮を深く受け止め、
ヒトラー幻想に耽る(ふける)ことなく、
ソ連軍戦車・兵器の優秀さ、ソ連軍戦略の巧みさ、
関東軍高級参謀たちの軍紀違反、そして何よりも
参謀本部の情報収集力のあまりにもの弱さを真剣に反省していれば、
愚かな中国侵略の拡大や、日米開戦を防げたのではないだろうか。

事実は正反対で、旧日本帝国陸軍はノモンハン戦争(事件)に関する
一切の事実を徹底的に隠ぺいした。何らの反省も行わなかった。
ノモンハン戦争(事件)が示した教訓は何一つ生かされなかった。





日露戦争の敗戦教訓に基づいて、ソ連のスターリンは兵器の機械化、大型化に注力した。
とくに戦車王国といわれるほど戦車の大型化と重装備化に力を入れた。

三宅坂から皇居を見下ろしていた大本営陸軍参謀本部

当時の旧日本帝国陸軍は、レーダー的情報収集力強化という意識に欠け、
情報の重要性を認識せず、ひたすら【神州不滅】【皇軍不敗】【大和魂】
【ドイツ必勝】という唯我独尊(ゆいがどくそん)幻想(げんそう)
耽って(ふけって)現実を直視しなかった。
ソ連軍機甲軍団(機械化部隊)の実力を正しく認識しなかった。

戦車だけではなく、重砲、速射砲、機関銃などの
兵器の性能のあまりにも大きい格差に目を向けず、ひたすら、
事実の隠ぺいと国民と兵士の洗脳教育に励んだ。【大和魂】
【敢闘精神】がすべてに優先するという幻想に耽り(ふけり)続けた。

10.無知で愚かであってはならない

1931年の満州事変によって昭和天皇から実質的な統治権、統帥権を
簒奪(さんだつ)して日本国を乗っ取った旧日本帝国陸軍は、その後、
満州国を建国し、国際連盟を脱退して国際的に孤立した。
日中戦争を拡大させ国力を消耗した。ノモンハン戦争(事件)で、
日本は戦車王国・ソ連の機甲軍団に大敗した。

日本陸軍によるノモンハン戦争の大敗北の事実隠蔽は、その後の日本政府の
判断を誤らせ、太平洋戦争の惨禍に繋がった。

日本は、日独伊三国軍事同盟の締結をすべきではなかった。さらに
ドイツとソ連との戦争の推移を見守り、対米開戦をしなければよかったのである。
仏印と中国本土から撤退して、満州は守って、時間稼ぎをすべきであつた。

外務省の内部資料によると、1941年6月22日のドイツのソ連領侵攻で始まった
独ソ戦争について、日本の外務省と陸海軍のこの時点での予測は、
ドイツ勝利・ソ連敗北と、スターリン政権の崩壊
ということであった。


原文拡大図→大島駐独大使、建川駐ソ大使の報告書

この両大使の完全に誤っていた予測により、
ドイツ熱に犯され、ドイツの大勝利を確信していた日本陸軍は
中国侵略拡大を止めず、
日独伊三国軍事同盟を締結して、
太平洋戦争に突入して日本を破滅させた。

無知で愚か」とはどういうことかを、具体的に示したのが
旧日本帝国陸軍の最高指導者たちと高級参謀たちであった。

無知で愚かな」者たちが国家権力を掌握して、自国民のみならず、
諸外国の国民にも塗炭(とたん)の苦しみを与え続けた罪は重い。

11.ノモンハン戦争から学ぶべきこと
第一は、
情報収集を徹底的に行い現実を直視しなければならないということである。
ひとりよがりの思い込みにふけって現実を見失ってはならないということである。

敗北や失敗の原因は情報不足と判断ミスと考え、視野を広げ、視点を変えて観察し、
違う立場からも考えて、情報収集努力を倍増し、より多くの人の意見を吸収消化
しなければならないということである。

ノモンハン戦争において、軍事面において特筆すべきことは、
ソ連の戦車・航空機のカイゼン製造能力と大量の戦闘物資の輸送能力である。

わずか3か月の短い期間に、ソ連の戦車と航空機は著しくカイゼンされた。
開戦当初、日本軍の火炎瓶攻撃で簡単に炎上した戦車はすべてディーゼル・
エンジンに変えられた。旋回飛行能力が劣っていた航空機もカイゼンされた。

シベリア鉄道から数百キロ離れたノモンハンに5万2000トンもの戦闘物資を
送り込むということは、元来、情報音痴の辻政信や、頭がついていたのかと
疑われる植田謙吉関東軍司令官らには想像もできないことであった。
このソ連の驚くべき輸送能力は、1945年8月の日ソ戦争(ソ連の対日参戦)時に
おいてもいかんなく発揮された。

1945年8月8日、極悪非道なスターリンはヤルタ協定を守って、日本に宣戦布告し、翌8月9日、
三方面から満州に侵攻した。ソ連軍の地上軍の戦力は3軍合計で、戦車・自走砲 5,250輌、火砲・迫撃砲 
24,380門であった。飛行機は5,171機に達していた。関東軍(満州に駐留していた日本軍)の戦力は、
戦車約200輛、火砲・迫撃砲 約1,000門 であった。戦闘可能な飛行機は約200機であった。
ザバイカル方面軍は1945年8月時点では、世界最強の戦車軍団であったと思われる。装備は戦車・自走砲2,359輌、
火砲・迫撃砲8,980門であった。砂漠を横断し、大興安嶺山脈を越えて、10日間で満州西部全域を制圧して、長春、瀋陽に
入城した。世界戦史上、特筆すべき快進撃であった。ちなみに関東軍が保有していた戦車はわずか200輌であったといわれる。
関連サイト:日ソ戦争 地図・ソ連の歴史教科書

これに対して、日本軍は、カイゼンも、新規補充もなかった。
戦闘にあたって、敵軍に倍加する戦闘物資を補給するという発想は皆無であった。
旧日本帝国陸軍は、戦国時代のように、占領地の住民の食糧を強奪して自給自足
するということを本気で考えていたのである。
戦闘に当たっては、戦闘物資や食糧を補給するという常識が欠如していた。

太平洋戦争においても、旧日本帝国陸海軍の最高指導者たちと、
高級参謀たちは、米国が、ソ連の数十倍の、航空機、航空母艦、戦車等の
カイゼン製造能力を持っていることを全く考えなかった。山本五十六でさえ、
緒戦で米太平洋艦隊の主力を撃破すればなんとかなると思っていたのである。

ガダルカナル、北ボルネオ、インパールの惨劇に具体的に見られるように
食糧を補給するという最低限の常識すら欠如していた。

ましてや、まともな情報を何一つ持っていなかった、5.15事件
2.26事件を起こし、中国侵略を遮二無二進めた陸海軍の若手将校たちは、
彼我の、武器のカイゼン製造能力格差という発想は誰一人持っていなかった。
戦闘物資と食糧の補給能力という発想は誰一人持っていなかった。

陸軍士官学校、陸軍大学、海軍兵学校、海軍大学での
幹部教育に大きな欠陥があったのである。



第二は、
情報は文書化、あるいは音声化・映像化して、再三再四、繰り返して検討しなければ
有効に活用できないし、共有することもできないということである。

従って、トップ・役員をはじめ、幹部たちの作文能力が低く、
情報を文書化できない組織は、意思疎通(コミュニケーション)が悪く
一体感・相互信頼感が低い

ノモンハン戦争・戦後、旧日本帝国陸軍が行った事実隠ぺいは、
3万人以上の犠牲者の命をかけた情報貢献を無にし、
【国の戦略決定】を誤らせた犯罪であった。

第三は、
官公庁、自衛隊、地方自治体等の公的組織において、旧日本帝国陸軍のような、
事実隠ぺい犯罪と思わず、不正不義が公然とまかり通る組織風土の存在を
許してはならないということである。

しかしなから、戦前と比べて大きくカイゼンされてきたとはいえ、日本の中央、
地方の官公庁のは事実隠ぺいは根深い。都合が悪くなれば、公文書さえ
廃棄してしまう。毎日新聞(朝刊)10年2月26日第1面は『省庁「密約」今も』との
大きな見出しで中央官庁間の密約の横行を報じたが、その中で、
「公開されると困る書類は廃棄した」との某省幹部の証言を報じている。

風土とは土壌・地形・気候を全体としてとらえた自然環境のことである。
恵まれた日本の風土と大きく異なり、アフリカやアラビアの砂漠の風土では
種をまいても植物は育たない。

組織風土とは組織において人々が働くための、人間関係構造、ルール、
行動慣習、思考様式、価値観、意思決定
を全体としてとらえた組織環境
のことである。企業の組織風土を砂漠のような不毛地帯にしてはならない。

日本の経済成長を支えてきたトヨタ、松下、ホンダ等の企業の組織風土
社会に貢献する人財を数多く育ててきた。

これとは大きく異なり、一攫千金を至上とした米国の投資銀行・
リーマン・ブラザース等のマネー・ゲーム企業組織風土
米国のビジネス・スクールを出た優秀な経営修士から
実に多数の金融詐欺師を生み出した。社会に大きな惨禍をもたらした
マネー・ゲーム企業は害虫・害獣集団であった。

これらの金融詐欺師たちによる金融工学詐欺は、米国、欧州の
金融機関を半身不随にして、金融危機=経済のメルトダウンを引き起こした。

大金を懐にいれて、金融詐欺師たちはいち早く遁走して姿を眩ました。
しかしながら、金融危機=経済のメルトダウンのため、世界各国は
大不況に陥り、大きな経済的ダメージを蒙った。

特に、まじめに働いていた数千万人の労働者に、失業という惨禍をもたらした。
現在、世界各国で多くの人々が、金融工学詐欺に起因する企業の崩壊、
消費沈滞、設備投資不振などによる経済的惨禍に苦しんでいる。

関連サイト:藤原正彦教授『日本人の誇り』読後感

研究資料:
三野正洋大山正『ノモンハン事件 日本陸軍 失敗の連鎖の研究』
(ワック 01年6月発行)第156頁〜第161頁より要約抜粋

自分たちの失敗を闇に葬り去るため、前線指揮官に自決(自殺)を強要した


戦場において3人の前線指揮官が戦死した。3人の前線指揮官が自決(自殺)した。
森田  徹大佐 歩兵部隊 戦死   山県武光大佐 歩兵部隊 戦場で自決(自殺)
東八百蔵中佐 歩兵部隊 戦死   伊勢高秀大佐 砲兵部隊 戦場で白決(自殺)
染谷義雄中佐 砲兵部隊 戦死   梅田恭三少佐 砲兵部隊 戦場で白決(自殺)

戦闘が終わったあとの前線指揮官たちの処遇は不正不義そのものであった。

関東軍の首脳部は、軍法会議で事実を調べて敗因を究明糾弾することなく、
何らの弁明を聞くことなく、一方的に、前線指揮官たちに自決(自殺)を強要した

生還した前線指揮官たちに対し、関東軍の首脳部は、十分な事情聴取も行わずに、
個室に閉じ込め、弾丸を装填(そうてん)した拳銃を渡したのである。

関東軍の首脳部は、自分たちの方針の誤り、判断ミス、間違った命令による
大敗北を、徹底的に【闇に葬り去る】ために、文字通り、「必死に死闘した」
前線指揮官たちと将校たちに大敗北の責任を押しつけたのである。

参考資料:


出典:近藤史人著 『藤田嗣治−「異邦人」の生涯』 講談社 2002年11月発行
第189頁〜第192頁
1940年9月のある日、藤田のアトリエに一人の軍人が訪ねてきた。
白髪で、軍人には珍しい穏やかな表情を浮かべた初老の訪問者は、
陸軍中将・荻洲立兵(おぎすりゆうへい)と名乗った。予備役に編入されて
内地に帰ったばかりだという。

「実はある事件について絵を描いていただきたくて参ったのですが……」
簡単な挨拶をすませた後、荻洲中将は、低い声で意外な事実を語りはじめた。
事件とは、前年引き起こされたノモンハン事件のことだった。

ノモンハン事件は満蒙国境で日本軍とソ連軍が衝突した事件である。
事件のきっかけは、外蒙古軍と満州軍との小規模な衝突だった。
外蒙古を援助するソ連軍に対し、陸軍中央部は全面的衝突に発展することを
警戒し、局地的に解決する方針を示していた。

ところが関東軍の強硬派が大部隊を動員してソ連を攻撃、
本格的な戦闘に突入したのである。日本軍は、予想以上に強力な
ソ連機械化部隊の前に惨憺(さんたん)たる敗北を喫した。

「戦車対人の戦闘だった」といわれるほどの圧倒的な物量差に、
戦死者は2万人近くに及んだといわれている。

敗北の責任を負い、関東軍司令官をはじめ主立った参謀は更迭された。
荻洲立兵中将もその一人で、退役後内地に帰還していたのだった。

藤田にとっては初めて聞く事件の全容だった。大陸では圧倒的な勝利を
重ねていると信じていただけにしばらくは言葉も出なかった。
陸軍は、国民に対して敗北の事実をひた隠しにしていた。

日中戦争が膠着化する中、世論を刺激することは何としても
避けなければならなかったのである。

荻洲中将が藤田に軍の重大な秘密をうち明けたのは、
軍も了解済みのことだったのかどうかは、わかっていない。
背景には、藤田が同じ陸軍軍人の息子であることへの
信頼もあったろうと推測されるが、それにしてもノモンハン事件
絵にするとなるとさまざまな障害が予想された。にもかかわらず、
荻洲が絵の制作を依頼したのは、何としてもかなえたい理由が
あったからだった。

「国民に知られるのは避けなければならないのですが、
これは個人的な依頼です。戦死した部下の霊を慰めるため
ぜひとも絵を描いてほしいのです」

荻洲は、画料には自らの恩給を充てるつもりだとも語った。
戦死した部下のためにと懇々と話を続ける初老の軍人の熱のこもった
依頼に藤田は心を動かされた。

荻洲は、絵のためにはどんな協力も惜しまなかった。
藤田の了承を得ると、ただちにノモンハンへの取材旅行を手配した。
九月から十月にかけて藤田は新京を経て満蒙国境に向かうと、
ホロンバル草原、ノロ高地、ハルハ河と、戦場の跡を
くまなく取材した。事件は一年前のこととはいえ、
なおソ連軍との緊張関係が続く国境での取材を通して、
藤田は作品の構想を練り上げていった。

帰国後も、荻洲中将は制作中のアトリエにしばしば訪れた。
銃の持ち方やベルトの締め方など事細かく注文をつけるばかりでなく、
必要とあれば、若い兵士を連れてきて庭でポーズをとらせることも
いとわなかった。

藤田も荻洲の熱意に押されるようにノモンハン事件の絵に没頭していった。
翌年の一月、父嗣章が亡くなったとの知らせが藤田のアトリエに
もたらされた。88歳での大往生だった。日本での暮らしを
陰になり日なたになり支えてくれた父の死は大きな衝撃だったが、
藤田は悲嘆の涙が乾く間もなく絵筆をとり制作に打ち込んだ。

第193頁
私はこの絵に関する新しい事実をNHKスペシャルの取材で初めて
知ることになった。荻洲中将の四男照之が、今まで誰にも話せなかった
という意外な事実を語ってくれたのである。

照之によると、実はこの時期、藤田はノモンハン事件を題材にした
もう一枚の絵を描いていた。その絵は残念ながら終戦の混乱の中で
失われてしまったが、しばらく荻洲家に飾られていたという。

照之は病気で声帯を切除したため、取材は筆談で行うことになった。
もう一つのノモンハン事件の絵はどのようなものだったのか、
メモ用紙に描いていただきたいとお願いした。

若い照之の心に鮮烈な印象で焼きつけられていたその絵には、
すさまじい光景が描かれていた。



以上