陸遜の濡れた前髪をすくい上げて目が合った途端、
姫君は可憐な唇を真一文字に引き結び、今にも泣きそうな顔になった。
ガバと陸遜の首に飛びついて肩に顔をうずめた。
ほっとしたらしい。
陸遜はどきまぎしながらもそれを見破られないように、とんとんと姫の背中を叩いてなだめた。いいことを思いついたのである。
「六輔姫様、あなたさま読み書きがお出来になるのではありませんか」
姫は陸遜の肩で首を横に振った。くすぐったい。陸遜の頬は赤い。
「あなた様のお国の読み書きです」
云うと、姫君はようやく額を陸遜の肩から離した。よかった。ちょっとあの姿勢だと本気で沈みそうだったから。
涙と水滴で潤んだ瞳が間近で陸遜を見上げた。こくりとうなずく。
「やはり!」
陸遜の目が爛と輝く。
「あなたはもう後宮に入っているお暇などありません、呉の貿易では多言語を扱える人材が大勢必要なのですから」
「でも、わたくしはこちらの言葉はほとんど読めませんし書くことなど全く。交易のお役には」
陸遜の勢いに気圧されて、姫君は眉根を寄せた。
「読み書きは私が教えます」
きっぱりと言った。
こちらの読み書きを陸遜が教え、彼女の故国の地方との貿易に携わってもらう。彼女は後宮にも遊郭にもおさまらず、朝廷を忙しく歩き回るだろう。もう、少し痛くてひどく気持ち悪く屈辱的な目にあうことはない。
姫君はもう一度陸遜の肩に額をうずめた。
「六輔姫様っ」
「すみません、いやらしい意味で抱きついているのではないのです。ただどうしていいのかわからないのです、お嫌でしたらごめんなさ・・・」
震えていた。
声は消え入るようだった。
水はひどく冷たいのに、自分より頭一つ分小さな身体は温かかった。
彼女に抱きつかれて嫌なことなどひとつもあるものか。
だがさすがに抱きついていただけて嬉しいです、とは正直にいえない。
陸遜は唇を噛んだ。
「お気になさらず。沈んでしまうといけませんし」
「ありがとう・・・」
か細い腕の懸命さに、陸遜は「怖い思いをさせて申し訳ありません」と姫君の耳に頬を寄せた。
実はこの時、陸遜の足は水底にちゃんとついていた。陸遜が手をはなしたらおそらく姫君も普通に水底に足をつくことができる。
でももうちょっとこのまま。
もやが晴れてから陣に戻った。またもびしょ濡れの二人を呂蒙、周瑜が呆れた顔で迎える。茶化されて二人が赤面しているところに尚香が通りかかったのはまったくの偶然であった。
「まあまあ、あなたたちびしょ濡れじゃないの」
「どうも一晩に二度も溺れたそうで」という呂蒙の説明をほとんど聞かず、尚香は「こっちいらっしゃい」と六輔の手を引いた。
「どちらにっ」
「女の子が着替えるのを男が手伝ってどうするのよ」
陸遜はぴしゃりと言い返された。「おまえも着替えなさい」と周瑜が陸遜を促す。
陸遜は暫くの間遠ざかる六輔の背を見送ってから、深呼吸した。
「周瑜殿、呂蒙殿。交易通訳のことでお話がございます」
二人は顔を見合わせた。
孫家の姫から直々に衣装を拝借し永の姫はさっきからずっと頭を下げていた。
「そんなに床に頭こすり付けてたら怪我しちゃうわよー、いいからいいから」
「畏れ多いことにございますれば」
三度目の同じ問答である。
「あら、手の中に持っているのはなあに?」
「え」
床についている手の片方、ぎゅっと握っていた。
手の中を尚香に開いて見せた。
「石?」
「はい」
「あ、怪我してるじゃない」
尚香は薬箱から軟膏をとってきて、畏れ入る娘の手に塗ってやった。
「何から何まで・・・。身に余りまする」
馬超に抱かれた時に握りこんで、自分の爪が食い込んでできた傷だったのでなおさら申し訳なかった。
「いいのよ。この石はなんの石?」
「この石は・・・」と説明しようとしてうまい説明の言葉が見当たらなかった。
くれた人の名もそういえば聞きそびれていたのだ。
ただ思い出すだに心が温かい熱をもって、
頬が和む。
「この石は、一番いい石でございます」
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