デジタル情報という言葉は、非常に一般的に使われていますが、デジタル情報とは何かという問いに対して、今も満足のいく解答は存在しないのではないでしょうか。生命にとって重要な情報系は二つあります。ひとつは遺伝情報であり、もうひとつは神経系です。この二つの情報系から、デジタル情報を定義してみます。デジタル情報とは、自然数で表すことが可能な情報で、生命の生死を決定する可能性を持つものと定義します。これは情報とは何かでの情報の定義と重複しますが、生命の生死に影響するところが重要です。
デジタル情報は必然的に自然数「1」と人間で述べたプラトンの三原則を満たします。神経細胞の活動電位は、ほとんど自然数「1」としての性質しか持っておらず、感覚神経でも運動神経でも同じ信号です。その神経細胞が、どんな神経細胞や感覚器や筋肉に繋がっているかによって、信号の意味は変わってきます。またDNAの塩基にしても、単独のA,T,G,Cは記号としての意味しかありません。A,T,G,Cは、タンパク質をコードする場合は3文字一組でアミノ酸を表しますし、全体の塩基配列の中での位置によって意味は変わってきます。このようにデジタル情報は、単独では記号としての意味しかありませんが、他との関係によっては生物の生死を決定します。例えば、運動ニューロンの神経細胞の活動電位が生死を決定する場面としては、狩猟をしに行って、森の中でばったり虎にあった場合などがあります。虎を銃で撃とうとすれば、一個の小さな筋肉の動きが生死を分けます。一発で仕留めなければ、虎に食べられてしまいます。このように一個の神経細胞の活動電位は人間の生死を決定する可能性があります。
次に、生命にとって決定的に重要である遺伝情報の価値について、仮想的な例を通して考察してみます。人類の祖先が猿から分かれて、樹から降りて二足歩行を始めた頃、まだ人類は上手く走れなかったに違いありません。ところが走る能力は、地上で生活するには大変重要です。肉食獣に追いかけられた時、足の速い個体は逃げ延びる事が出来ますが、遅い個体は食べられてしまいます。速く走るには、神経、骨格、筋肉の変化が必要です。ここで一人の人類の祖先のDNAに点突然変異があり、特定の一個の塩基が変化して、他の個体より走るのが速くなったとします。そして、その個体の生き残る確率が他の個体より、かなり高くなったとします。この突然変異は、瞬く間に集団に広がると考えられます。その結果は人類の走る速度が速くなった。すなわち人類は進化したことになります。それは突然変異が、直接的に遺伝子が自然選択の対象となることによって可能になります。この自然選択の対象に成り得るということこそ、DNAの最大の特徴です。それによって遺伝子とエントロピーで述べたように情報を保存することが可能になり、この例のように進化も可能となります。ただしこれは仮想的な例であり、人間の場合は現実には単純でない場合が多いのです。そこで、より単純な細菌の抗生物質耐性について考察します。
細菌は分裂の速度が速く、突然変異と自然選択によって、ほぼ地球上のあらゆる環境に適応しています。さらに細菌の場合は接合によって情報を伝達できます。接合とは二つの細菌の細胞質が接合橋によって連結される現象です。接合によってプラスミドが、細菌から細菌に伝達されます。プラスミドは低分子量で環状のDNA分子で、細菌の染色体とは別物ですが、特に有名なのは抗生物質耐性遺伝子を含むRプラスミドです(1)。Rプラスミドによって細菌が抗生物質に対する耐性を獲得すると、今まで効果のあった抗生物質が効かなくなります。これは医療現場では大きな問題となっており、今では多数の抗生物質に対する耐性を付与するRプラスミドも存在します。そこには一つのパラドックスがあります。より強力に細菌を殺す抗生物質は自然選択を強化します。例えば非常に強力な抗生物質があったとします。その抗生物質に耐性のない細菌は死んでしまいます。一個のRプラスミドに突然変異が生じて、耐性遺伝子を持つ一匹の細菌が何とか生存出来るようになったとします。そのRプラスミドは多くの細菌に伝達され、さらに耐性遺伝子が少しでも強化される突然変異があれば、その突然変異は急激に広まります。結果的には、強力に細菌を殺す抗生物質はRプラスミドの進化を加速します。おそらく最終的には、強い耐性を持ったRプラスミドが出現し、急激に広まることになります。このようにRプラスミドによる遺伝情報の伝達システムは非常に優秀で、環境が厳しくなるほど情報伝達の速度は速まり、Rプラスミドの進化も速くなります。プラスミドを含む細菌の遺伝情報系が優秀なのは、自然選択を直接利用できることによります。
次に神経系について検討します。最初に数と神経細胞の活動電位でも述べたブラックの微生物学の教科書(2)にあるエピソードを記載します。ブラックはアイスランドの間歇泉に硫黄細菌を観察しに行きます。硫黄細菌は硫黄を代謝する細菌で、温泉などに生息します。間欠泉は一定周期で水蒸気と熱湯を噴出しますが、周囲に硫黄細菌が生息している場合が多くあります。間欠泉の近くは100度近い熱湯が噴出しますが、その周辺には最も耐熱性の菌種が生息します。そこから間欠泉の湯が流れ出る流路に沿って、異なった菌種が集まっています。お湯は流れに沿って冷えていきますから、それぞれの場所を至適温度とする菌種が集まっています。このような硫黄細菌の間欠泉への適応は、自然淘汰と突然変異によってなされています。すなわち、より環境に適応した個体が分裂増殖し、環境に適応できない個体は死滅するという事が繰り返された結果です。
ブラックは最も高温の間欠泉の近くで、長く繊維状になっている硫黄細菌の集団を見つけます。一部引用します。「興奮のあまり私は、前触れの蒸気が水面からうなりを上げるのにも構わず、湯に腕を突っ込みました。一体こいつらはどんな手触りなのか知りたかっただけなのですが、それは永遠に不可能というものです。煮えたぎったような沸騰水に、私は思わず手を引っ込めました。」結果的には、目的を達さずに火傷をして、水膨れが出来てしまったのです。ブラックが手を引っ込めたのは、感覚と神経細胞の活動電位で述べた屈筋反射によります。この場合の屈筋反射は、温覚を活動電位に変換するところから始まります。その活動電位の数によって、ブラックは手を引っ込めたのです。これを硫黄細菌の場合と比較します。硫黄細菌の場合、多数の細菌が自然選択によって死滅することにより、結果的に間欠泉に適応しました。ある意味では、細菌の生死によって環境を数値化したといえます。その結果を用いて、自然選択により遺伝子を変化させて、細菌は環境に適応します。それに対して、動物の屈筋反射においては、活動電位によって環境を数値化します。その結果を用いて、運動によって個体の被害を最小限に食い止めます。これは一例ですが、動物は感覚神経によって環境を数値化し、運動によって自分が適応できる環境に移動します。こう考えると、細菌も活動電位も「1」としての性質を持っているので、活動電位は細菌の生死を代行していると考えることが可能です。
最後に現代社会におけるデジタル情報について考えてみます。デジタルシステムの中心はコンピューターですが、コンピューターが扱うのは0と1の二つの数字だけです。最初に開発された頃のコンピューターは計算機であって、数の計算のみをやっていました。しかし、最近のコンピューターは数以外の多くの情報を扱います。最近のパソコンでは0と1は数を表す場合もありますが、多くの場合は単なる記号として扱われます。記号としての0と1は、プラトンの三原則を満たします。第一に分割不能であること、第二にお互いに等しいということ、第三に勝手に変化しないこと。
続いてデジタルデータの価値の違いについて、触れておきます。コンピューターのデジタル情報には、重要なものからあまり重要でないものまで、多くの場合が考えられます。例えば初期のコンピューターは軍事目的で作られました。最初は陸軍の弾道計算を目的に作られ、第二次世界大戦後は水爆の設計に使われました。このような目的に使われた場合、計算結果は直接に人命に影響します。水爆であれば、わずかな計算違いによって、大きく威力が変化するでしょう。この場合は0と1の違いが何万人という敵国の市民の人命に相当します。それに比べると、個人のパソコンには単なる落書きのような情報も存在し、その場合は全く人命とは関係ありません。このようにコンピューターのデジタル情報には、重要なものからほとんど意味のないものまでありますが、少なくとも人命を左右する場合があるという点で、遺伝情報系や神経系に匹敵するものと考えてよいと思われます。
参考文献
(1) N.A.キャンベル・J.B.リース:キャンベル生物学,小林興監訳,丸善(2007)
(2) J.G.ブラック:ブラック微生物学,林英生・岩本愛吉・神谷茂・高橋秀美監訳,丸善(2003)