自然数「1」とは何かを議論します。これまで述べたように自然数「1」そのものを人間は直接認識できません。自然数「1」としての性質だけを持つ存在を想像するのも困難です。そのため全く物理的性質をも持たない自然数「1」そのものを、プラトンは自然数「1」のイデアと名付け、超越的なものとしました(1)。これは魅力的な考えで、以前は私自身もプラトン主義者でした。しかし、もしも数のイデアが完全に物理的実体を持たないものであるなら、それが生命に影響を及ぼすことは不可能です。そのためデジタル情報には絶対に物理的実体があり、しかも数としての性質も持っています。
このように考えるとアリストテレスの考え方の方が理にかなっていると思えるようになりました。アリストテレスはイデアに相当するものを形相と呼び、原材料となるものを質料と呼びました(2,3)。例えば青銅の円といった場合、青銅は質料で円は形相となります。この場合、青銅無しに円は存在しませんので、アリストテレスは質料から離れた形相は存在しないと主張しました。この考えを現代的に解釈して、具体例を挙げて説明します。以下の三種類のデジタル情報は全て自然数「1」としての性質を持っています。コンピューターの0と1の2文字、DNAのA,T,G,Cの4文字、アルファベットの26文字です。これらは共通して自然数「1」としての性質を持っていますが、物理的な実体は全く異なっています。そのためイデアを考えたくなりますが、アリストテレスはその必要を認めません。単にデジタル情報の共通の性質を抽象すると自然数「1」になるというだけです。ここで重要なのは、物理的実体を離れた自然数「1」は存在しないということです。ただアリストテレスの形相という考えは、質料を必要とするという点を除けば、ほぼプラトンのイデアと同じ概念です。そしてプラトンの自然数「1」の概念は、物理的性質がないという点を除けば、今でも通用すると思われます。
現在知られている物理的実体のあるものの中で、最も純粋な「1」に近いのはコンピューターのデジタル情報です。コンピューターの内部における1は、そのままでは人間に認識できません。人間に認識できるようにするためには、1という数字をディスプレイに表示しなくてはいけません。そこで初めて人間は1として認識します。他には紙に1という数字を印刷する方法もあります。どちらの場合でも、数字はアラビア数字でもローマ数字でも漢数字でもかまいません。人間はディスプレイまたは紙に表示された数字を見て1を認識します。これは視覚を通じた自然数「1」の認識です。ただしコンピューターの出力は視覚的なものに限りません。例えばスピーカーを用いればイチまたはoneと発音させることも可能です。それを聴いて人間は、聴覚を通じて自然数「1」を認識します。他には点字プリンターを用いれば点字で表示させることも可能です。この場合、人間は打ち出された点字を触って、触覚を通じて自然数「1」を認識します。
このように人間は、感覚を通じて自然数「1」を認識するしかありません。人間の脳神経系が外界からの入力を受けるには感覚器を介するしかなく、そのため感覚によって知覚できないものを人間は直接的には認識できないので、認識の対象には感覚的性質が無くてはいけません。例えば目に見えるか、耳で聞こえるか、臭いがあるか、味があるか、手で触れるかなどです。このような感覚の対象となる感覚的性質が必要です。そのためコンピューターのインターフェイスは人間に合わせてあり、コンピューターは文字や音声による入力を受け取り、音声や文字を出力します。ただコンピューターは人間とのインターフェイスにおいて人間の感覚に合わせているだけで、内部ではデジタル情報を用います。またコンピューター同士は直接デジタル情報をやりとりできます。コンピューターのデジタル情報には感覚的性質が無いという点が重要です。
ここで感覚的性質がないことの利点を明らかにするために、モールス信号について考えてみます。モールス信号は電流を用いるので光の速度で伝達できます。また信号自体もトンとツーの2種類でデジタル情報です。このようにコンピューターのデジタル情報とは共通点が多いのです。ところがモールス信号には音としての性質があり、それは人間の聴覚によって認識されなくてはいけません。ここが大きな相違点になります。
モールス信号はいくら速度を上げても、1分間にアルファベット100文字程度しか送信できません。それに対してコンピューターの場合、電信とハードウェア的に類似した電話回線を通じて、モデムを用いた通信で最高速度が56000bpsで、1秒間にアルファベット7000文字に相当します。コンピューター同士の通信速度としては遅い方ですが、モールス信号より遙かに高速です。このように両者の間には、送られる情報量に大きな差があります。
それはモールス信号は人間の耳で聞き取れなくてはならないという制約があるからです。コンピューターのデジタル情報には、人間の感覚による制約が無く、電気信号をそのまま送信できます。そのおかげで、かなり純粋な自然数「1」に近いデジタル情報を得ることが可能になったのです。さらに将来的には、電気信号よりも優れたものが出現すれば、それを信号として用いることも可能です。感覚的性質がないことにより、自然数「1」という形相に対して、より自由に質料を選択出来るからです。このようにコンピューターのデジタル情報は、今後はさらに純粋な自然数「1」に近づける可能性があります。
古代ギリシアにおいては、多くの哲学者たちが議論を繰り返し、人間の認識や思考の根本的な要素として、純粋な自然数「1」という概念に到達しました。ただ古代ギリシャ時代には、感覚的性質がなくて物理的実体のあるものは知られていませんでした。当時の人たちには、そんなものを想像するのも困難だったでしょう。純粋な自然数「1」には感覚的性質がないので、当時の技術水準では、必然的に物理的実体もないという結論になります。そこからプラトンのイデアという概念は生じたと思われ、自然数「1」のイデアに感覚的性質が無いのはその通りです。ただ物理的実体を否定したのは行き過ぎであって、結果的にはアリストテレスの現実的な考えが正しかったのだと思います。
純粋な自然数「1」という概念を形相として考えると、人間の脳には純粋な自然数「1」の質料があるはずで、それは感覚的性質を持たない神経細胞の活動電位であろうと考えられます。数と神経細胞の活動電位で述べたとおり、感覚的性質を持たない活動電位は純粋な自然数「1」に非常に近い性質を持っています。ところが意識はクオリアのない純粋な活動電位を認識できません。そのため感覚的性質を持たない活動電位は、暗示的には純粋な自然数「1」に近いのですが、そこから純粋な自然数「1」、あるいは「1」のイデアという言語的な概念が脳内で形成される過程は不明です。
クオリアによる認識は感覚と神経細胞の活動電位で述べたように、世界の認識を不正確にし、人間の判断を感情的にして間違わせます。ところが一つの利点として、意識が直接的に活動電位を認識できないおかげで、意識は活動電位の物理的性質による制約を逃れることが出来たのではないでしょうか。
もしも人間の意識が、活動電位を直接認識できたならば、世界の認識は正確になり、意識の処理速度も高速になっていた可能性はあります。ただその場合、活動電位の物理的な性質が人間の思考の制約になった可能性はあります。数を表すものとして、認識可能な活動電位を常に使用した場合、他のものを数を表すために用いるという手段に至らなかったのではないでしょうか。
人間の意識が活動電位を認識できないおかげで、人間は数のイデアを考えました。数のイデア自体は誤った概念でも、それは目標になりました。歴史を考えると、数の表し方としてはより簡単に大きな数が表せるように、計算方法はより速く正確にという方向性があります。ところが数のイデアを用いて行われる理想の計算は、エラー率は0であり要する時間も0のはずなので、そこには到達できません。そこを目指して人類は進歩してきたと考えることは可能です。
人類の歴史を遡ると、紀元前3300年頃にシュメールで世界最古の文字が誕生し、同時に数字が発明されました(4)。それにより正確に数を表せるようになり、長く保存も出来るようになりまた。さらに文明が進歩して、インド式位取り記数法とアラビア数字が使われるようになると、筆算が一般的となりまた。その後に計算尺が開発され、計算機も作られました。現在では数のイデアで述べたように、活動電位より遙かに高速なコンピューターの電気信号を人類は計算に用いており、将来はもっと高速な方法を用いることとも可能です。
結論として、プラトンの自然数「1」のイデアという概念を一部修正して、物理的実体はあるが、感覚的性質がない純粋な自然数「1」を、全ての概念の基本と考えます。生命もデカルトの自我も「1」としての性質を持っており、「1」は全ての出発点となります。また形相としての純粋な「1」の脳内における質料は、クオリアを持たない神経細胞の活動電位と考えられます。
参考文献
(1) プラトン:国家, 藤沢令夫訳,岩波文庫(1979)
(2) アリストテレス:形而上学 上, 出隆訳,岩波文庫(1959)
(3) アリストテレス:形而上学 下,出隆訳,岩波文庫(1961)
(4) D.ゲージ:数の歴史,南條郁子訳,藤原正彦監修,創元社(1998)