<ブラボー、クラシック音楽!−曲目解説#11>
モーツァルト「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
(Serenade 'Eine Kleine Nachtmusik', Mozart)

−− 2006.03.21 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2006.04.07 改訂

 ■はじめに − モーツァルトの代名詞
 真夏の第11回例会(=05年8月11日)<モーツァルトの曲>をテーマにヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(※1)の有名な曲ばかりを集めて涼しく成る様に気軽に遣りました。その一つとして曲名・作曲者名など知らなくても誰でも一度は耳にしたことが有る、子供でも聴き知っている『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』を採り上げました。優しさに溢れたこの曲はモーツァルトの代名詞と言える曲で、演奏時間も短く涼を呼ぶ曲としては最適と思われます。
 所謂盆休みの時期で参加者数が心配でしたが、常と変わらぬ人数(=約10名余り)が集まりほっとしたのを覚えて居ます。尤も時間に余裕の有る高齢の方が多いので、盆だからと言って今更田舎に帰る訳でも無いのでした。

 ■曲の構成とデータ
 作曲者に依る演奏規模の指定が無く、通常は弦楽合奏で演奏されますが弦楽五重奏でも演奏され、何れの場合もチェロとコントラバスは同一のパートを演奏します。
 全13曲中最後のセレナーデで、題名の「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」はモーツァルト自身が目録に記述したもので、直訳すると「1つの小さな夜曲」、その名もズバリの「小夜曲=セレナーデ」(※2)で「セレナーデの中のセレナーデ」と言える曲です。通称は『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』ですが、略称の『アイネ・クライネ』で充分通用します。正式名称は『セレナーデ第13番 ト長調 K525「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」』です。”Kxx”と言うのはケッヘル番号ですよ。曲の構成は
  第1楽章:アレグロ ト長調 4/4 [ソナタ形式]
  第2楽章:ロマンツェ・アンダンテ ハ長調 2/2
  第3楽章:メヌエット・アレグレット ト長調 3/4
  第4楽章:ロンド・アレグロ ト長調 2/2 [ロンド・ソナタ形式]
という4楽章ですが、モーツァルト自作の作品目録には第2楽章の前にメヌエット楽章が記されセレナーデ本来の5楽章構成だった様ですが、紛失したのか意図的に削除されたのか不明です。しかし現在の4楽章での統一感は抜群です。
  ●データ
   作曲年 :1787年(31歳)
   演奏時間:約17〜20分

 ■聴き方 − 軽い気持ちで聴く
 この曲も軽い気持ちで聴いて下さい。第1楽章出出しのトゥッティ(=総奏)は余りにも有名で、続いて現れる第1主題はこの楽章だけで無く全楽章中に顔を出します。第2楽章のロマンツェとは元々は中世の恋愛歌を指す用語で、恋人の窓辺で優しく愛を語り掛ける様な名曲です。第3楽章は「メヌエットの中のメヌエット」として有名です。第4楽章はロンド形式とソナタ形式が組み合わされた形式で、最後のコーダ(※3)は「はい、これで終わりますよ」と言わんばかりの予定調和的な明快さです。
 有名なメロディーが盛り込まれた第1〜第3楽章は、しばしば単独でも演奏されポップスにも採用されて居ます。

 ■作曲された背景 − 2大オペラの狭間に、
            父の死とベートーヴェンとの邂逅後に作曲
 『アイネ・クライネ』を作曲する前年には、『歌劇「フィガロの結婚」』(1786年作)が大当たりしましたが、若干政治的諷刺を含むこのオペラは初演をした首都ウィーンよりもプラハで熱狂的に迎えられました。因みに、この頃のプラハはハプスブルク家(※4)のオーストリア領 −女帝を退いたマリア・テレジアの長子ヨーゼフ2世(※4−2)が君臨− に組み込まれて居て、プラハは領内の東の都の観を呈して居ましたが、ウィーンに比べれば田舎です。
 年が明けて87年1月にプラハに招かれ、妻コンスタンツェを伴い『交響曲第38番 ニ長調「プラハ」』(1786年作) −それ故に後年「プラハ」と呼ばれる− を手土産に訪れた際に、プラハの巡回劇団の座長パスクワーレ・ボンディーニから次の演目として『歌劇「ドン・ジョヴァンニ」』(1787年作)を依頼されました。これはフリーランスの音楽家として自立したモーツァルト −当時は今日の様な著作権制度や印税制度が確立されて無く楽譜は出版社に1回売り渡して終わりで、モーツァルトは予め聴衆と入場料を募る予約演奏会を開いて居た− にとって願っても無い注文で、台本を『フィガロ』で成功したロレンツォ・ダ・ポンテ(※5)に再び頼み、『ドン・ジョヴァンニ』の作曲に全力を傾ける事に成ります。
 ところで1787年という年は、モーツァルトの身辺に色々予期せぬことが起こり慌ただしい年に成りました。先ず3月半ばに父レオポルト(※1−1)が重病に成りました。モーツァルトとコンスタンツェの結婚(=82年、26歳)に反対して居た父とはそれ以来不和に成って居ましたが、父の病気に対しモーツァルトは4月4日の手紙で最大限の慰めの言葉を述べて居ますが、同時に父の死を予期して居た様でもあります(△1のp124)。続いて4月7日〜20日には16歳のベートーヴェンがボンの田舎から初めて芸術の都ウィーンに出て来て、モーツァルトの門を叩き「一期一会」の面会をして居ます。伝記本では2人の出会いを面白可笑しく書いて在りますが、この時期モーツァルトは父の重病や『ドン・ジョヴァンニ』の作曲で忙しく、2人がどの程度の会話を交わしたのか、モーツァルトがベートーヴェンの資質を知る場面が有ったかどうか −一説に拠るとベートーヴェンはモーツァルトの前で即興演奏をしたという話も在りますが− は定かではありません。4月末頃からモーツァルト自身も病気に成って寝込んで居ます。そして5月28日に父レオポルトは他界しました。
 面白いのは父親が重病に臥して居る時はモーツァルトには珍しく短調の曲を何曲か書きますが、父親が亡くなると重荷を降ろした様に又明るい長調の曲に復帰して居ることです(△2のp119)。この短調の曲の一つが傑作『弦楽五重奏曲第5番 ト短調』で、長調に復帰して『ディヴェルティメント ヘ長調「音楽の冗談」』などを書きます。肉親の不幸の直後に冗談音楽を作曲する深層心理は研究対象として中々興味深いものが有りますよ。ザルツブルクの宮廷楽師であった父は少年モーツァルトをあちこち”どさ回り”の旅に引き摺り回しましたが、要はイベントをプロデュースモーツァルトをプロモートした訳で、その為に父は遂に宮廷楽長には成れませんでした。やがて世事に疎いモーツァルトは父の死を境に段々と経済的窮乏に陥って行く事に成ります。
 モーツァルトは『ドン・ジョヴァンニ』上演の為プラハに向け9月初旬にウィーンを発って居ますので、『アイネ・クライネ』は2大オペラの狭間に父の死とベートーヴェンとの邂逅後の6月頃作曲を開始し8月には完成されて何らかの催しに供された”生活の為”の機会音楽(※6)の筈ですが、何の催しの為に書かれたかは不明です(△2)。しかし小品乍ら堂々たる風格を具えた充実期の傑作です。
 実はウィーンを初訪問したベートーヴェンも母親の容態(=肺病)が悪化したという報せを父から受け取り急いで帰郷しましたが、彼の母もこの87年7月17日に他界して居ます。その5年後の1792年11月にベートーヴェン(21歳)は再び、しかし今度は正式の留学生として晴れてウィーンに出て来ましたが、モーツァルトはその1年前に神に召され、こうして2人の出会いは「一期一会」に終わりました。正に「運命」の悪戯(いたずら)と言うべきでしょうが、ベートーヴェンはそれを恨んで後に『交響曲「運命」』を書いた訳ではありませんよ。

    ◆モーツァルトの死から程無いベートーヴェンの変奏曲
 ところで、1791年のモーツァルトの死から程無い1792〜93年にベートーヴェンは『モーツァルトの「フィガロの結婚」から「もし伯爵様が踊るなら」の主題によるピアノとヴァイオリンのための12の変奏曲 ヘ長調 WoO40』 −WoOとは、ベートーヴェンの「作品番号無しの作品」に対する目録番号− という曲を書いて居ます(△3)。ひょっとしたらこの曲がベートーヴェンがモーツァルトを偲んで書いた鎮魂歌だったのかも知れません。
 ベートーヴェンはこの曲をウィーンで出版しボンに住むエレオノーレ・フォン・ブロイニング嬢に捧げて居ますが、彼女こそベートーヴェンの初恋の人と目されて居る女性です。その様な訳でモーツァルトのオリジナルの「もし伯爵様が踊るなら」とベートーヴェンの『12の変奏曲』を聴き比べするのも面白いですね。興味有る方は是非お試し下さい。
 [ちょっと一言]方向指示(次) ベートーヴェンは1793年11月2日付のブロイニング嬢宛ての手紙と共にこの変奏曲の楽譜を送り献呈して居ます。この手紙の中でベートーヴェンはこの変奏曲を「労作」と呼び、演奏技術を簡単に真似出来ない様にわざと難しく作ったと記し、又彼女に「兎の毛のチョッキ」を編んで貰える果報者に成りたいと吐露して居ます(△4のp19〜23)。

 ■結び − 「泣く子も黙る」名曲
 子供でも知っている『アイネ・クライネ』は寛いで楽しんで戴ければ結構です。「泣く子も黙る」とは元来その”恐ろしさ”故に泣いて居る子が泣き止んで仕舞う様を言いますが、この曲はその”優しさ”故に「泣く子も黙る」名曲です。
 尚、クラシック音楽を楽しむ会【ブラボー、クラシック音楽!】の入会案内ページのBGMは『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』の第2楽章です。ご存知でしたか?
                (*_@)

−− 完 −−

【脚注】
※1:ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)は、オーストリアの作曲家(1756.1.27〜1791.12.5)。古典派三巨匠の一人(他はハイドンとベートーヴェン)。幼時から楽才を現し、短い生涯中、6百曲以上の作品を書いた。18世紀ドイツ/フランス/イタリア諸音楽の長所を採って整然たる形式に総合し、ウィーン古典派様式を確立。多くの交響曲・協奏曲・室内楽曲の他、数多くの歌劇を書いた。
 代表作は交響曲「ジュピター(第41番)」「ト短調(第40番)」ピアノ協奏曲「戴冠式(第26番)」、セレナーデ「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、室内楽曲の「クラリネット五重奏曲」、声楽曲の「レクイエム」、歌劇「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「魔笛」など。
※1−1:レオポルト・モーツァルト(Leopold Mozart)は、ザルツブルクの宮廷楽師・作曲家(1719.11.14〜1787.5.28)でヴォルフガング・モーツァルトの父。幼少のヴォルフガングの天分を見出し各地の演奏旅行に同行させる。作曲家としては「おもちゃの交響曲」他の交響曲/協奏曲/セレナーデ/嬉遊曲などを残すが、教則本「ヴァイオリン奏法」が有名。

※2:セレナーデ(Serenade[独])は、[1].思いを寄せる女性の家の窓辺で夕べに歌い奏する音楽。
 [2].18世紀以降のヨーロッパで盛んに成った器楽の形式。多くは管楽/弦楽/管弦楽の為に作った比較的軽い性格の多楽章の楽曲。セレナード(serenade[仏])セレナータ(serenata[伊])小夜曲夜曲

※3:コーダ(coda[伊])とは、楽曲や楽章の終り、又、曲中の大きな段落を締め括る部分。終結部。結尾部。

※4:ハプスブルク家(Habsburger[独])は、中欧を中心とする広大な地域に君臨した家門。ヨーロッパで最も由緒有る家柄の一。1438〜1806年の神聖ローマ皇帝は全てこの家門から出た。皇帝フランツ2世は1804年からオーストリア皇帝としてフランツ1世を名乗る。又、婚姻政策の結果、1516〜1700年スペイン王位を占める。第一次大戦敗北の為、王朝は1918年に崩壊
※4−1:神聖ローマ帝国(しんせい―ていこく、The Holy Roman Empire)は、962年ドイツ王オットー1世がローマ教皇ヨハンネス12世の手で帝冠を戴いて以後、1806年フランツ2世がナポレオンに敗れて帝位を辞する迄続いたドイツ国家の呼称。歴代の国王が神聖ローマ皇帝に即位。中世後期以来、諸侯が独立性を強めた為、大小数多の領邦に分裂、国家としての実体を次第に失った(962〜1806年)。
※4−2:ヨーゼフ2世(Joseph II)は、神聖ローマ帝国の皇帝(1741〜1790、在位1765〜1790)。マリア・テレジアの長子。中央集権的諸改革を行い、民衆を教会の権力や領主権から解放して君主の直接支配下に置こうとしたが失敗した。啓蒙専制君主の一人。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※5:モーツァルトのオペラ・ブッファ(=喜劇的なイタリア歌劇)の代表作とされる『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』『コシ・ファン・トゥッテ』の台本は何れも、イタリア人のロレンツォ・ダ・ポンテ(1749〜1838)が書いて居ます。彼はこうした洒落と諷刺の効いた喜劇的作品に本領を発揮しました。ヨーゼフ2世死後はウィーンを追放され各地を放浪後、アメリカに渡りコロンビア大学でイタリア語を教えました。

※6:機会音楽(きかいおんがく、opportunity music)とは、儀式・慶弔などの特定の機会の為に作曲される音楽。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『モーツァルトの手紙(下)』(柴田治三郎編訳、岩波文庫)。

△2:『モーツァルト』(海老沢敏著、音楽之友社)。

△3:『ベートーヴェン』(大築邦雄著、音楽之友社)。

△4:『ベートーヴェン書簡集』(エーメリヒ・カストナー編、小松雄一郎訳、岩波文庫)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):ベートーヴェン楽曲のWoO番号について▼
資料−合唱幻想曲と第九の歌詞(Lyrics of Chorus Fantasy and Symphony No.9)
モーツァルトとマリア・テレジアのエピソード▼
モーツァルト「ヴァイオリン協奏曲第3番」(Violin Concerto No.3, Mozart)
モーツァルトの短調や経済的窮乏▼
モーツァルト「交響曲第40番」(Symphony No.40, Mozart)
モーツァルトの門を叩いた頃のベートーヴェンについて▼
ベートーヴェンの合唱幻想曲と第九
(Chorus Fantasy and Symphony No.9, Beethoven)

『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』の第2楽章を直ぐ聴いてみたい方▼
ブラボー、クラシック音楽!(Bravo, CLASSIC MUSIC !)
この曲の初登場日▼
ブラボー、クラシック音楽!−活動履歴(Log of 'Bravo, CLASSIC MUSIC !')


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