<ブラボー、クラシック音楽!−曲目解説#7>
モーツァルト「ヴァイオリン協奏曲第3番」
(Violin Concerto No.3, Mozart)

−− 2006.02.15 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2006.03.06 改訂

 ■はじめに − 初心者の耳に馴染み易い曲
 暑い夏の一日に<ヴァイオリン曲>をテーマにし、ヴァイオリンの爽やかな音色を聴いて涼しく成ろう、という趣向で第10回例会(=05年7月14日)ではヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(※1)の『ヴァイオリン協奏曲第3番』をその一つとして採り上げました。この曲は必ずしもモーツァルトの代表作ではありませんが、大変明るく初心者の耳に馴染み易い曲だと思われます。暑くて何も考えたく無い時に聴くには最適です。

 ■曲の構成とデータ
 正式名称は『ヴァイオリン協奏曲第3番 ト長調 K216』 −”Kxx”と言うのはケッヘル番号(※2)− です。曲の構成は
  第1楽章:アレグロ ト長調 4/4 [ソナタ形式]
  第2楽章:アダージョ ニ長調 4/4
  第3楽章:アレグロ ト長調 3/8 [ロンド形式]
という通常の「急・緩・急」の3楽章です。
  ●データ
   作曲年 :1775年(19歳)
   演奏時間:約22〜25分

 ■聴き方 − 軽い気持ちで聴き、輝きを感じ取る
 オーケストラのトゥッティ(=総奏)でディヴェルティメント(=嬉遊曲)風(※3)に始まる第1主題に続いてオーボエとホルンが第2主題を提示し、独奏ヴァイオリンが型通りに引き継ぐ典型的なソナタ形式(※4)のテンポの良い第1楽章に対し、第2楽章は独奏ヴァイオリンが甘美にたっぷりと歌います。第3楽章は軽快なフランス風ロンド(※5)ですが3部構成です。
 型通りの構成ですが、全体として明快な輝きに満ちたメロディー・ラインが”解り易い”曲なので、初めて聴く人でも素直に楽しめます。全楽章の中間部が一時的に短調に転じる部分が、甘さを引き締めている”隠し味”です。

 ■作曲された背景 − フランスのギャラント・スタイル
 モーツァルトは全部で8曲のヴァイオリン協奏曲を書いたとされて居ますが、
  協奏曲 ホ長調            :1766年(10歳)頃
は、既に偽作と判明。又
  協奏曲 ニ長調(第7番)  K271a:1777年(21歳)
  協奏曲 変ホ長調(第6番) K268 :1780年(24歳)頃か?
の2曲も偽作の疑いが濃厚とされて居ます。
 そして本人作曲が確実な残りの5曲のヴァイオリン協奏曲(第1〜第5番)は全て1775年(19歳)の作です。この時期はモーツァルトが父レオポルト(※1−1)に同行してイタリアを始めヨーロッパ各地の演奏旅行の巡業から帰り、生まれ故郷のザルツブルク(※1−2)に腰を落ち着けて作曲に専念し、音楽家として一本立ちして行く転換期に当たって居ます。
 モーツァルトはハイドン(※6)の音楽から、当時ドイツを席巻したシュトゥルム・ウント・ドラング(Sturm und Drang)、即ち「疾風怒涛」(※7)の影響を受けた激情的・悲劇的な短調の交響曲の傑作『交響曲第25番 ト短調』を既に73年(17歳)に作曲して居ましたが、74年の暮れから75年春に掛けて父と共にミュンヘンに赴いた際(※8)に、華美で繊細で単純なフランスのギャラント・スタイル(後述)の音楽に触れると、忽ちそれ迄の作風をがらりと変えてギャラント・スタイルの曲を書き出します(△1)。この辺が”移り気”なモーツァルト(←”新しい物好き”で目移りする)らしい所で、75年春からは交響曲の作曲をせずにセレナーデ(※9)やディヴェルティメント(※3)などの、サロン向けの軽い娯楽音楽を幾つも書き始めます。私がディヴェルティメント風に始まると評した『ヴァイオリン協奏曲第3番』は以上の様な背景から生まれて居ます。聴いた後はディヴェルティメントを聴いた後と同じく、気持ちが明るく成り安らぎます。
 この第3番は第1番・第2番の協奏曲の2〜3ヶ月後に作曲されましたが、第1番・第2番は言わば新様式の習作で、この第3番で初めて独自の新境地を確立することに成功して居ます。

 ■ヴァイオリン協奏曲の形式を借りて新様式を表現
 こうしてモーツァルトは1775年に一挙に5曲のヴァイオリン協奏曲を書き上げましたが、その後はヴァイオリン協奏曲は全く書いて居ません(偽作の疑いが濃い2曲のみ)。僅かにヴァイオリンとヴィオラの為に協奏曲(K364)や二重奏曲(K423、K424)が有るのみです。その訳は、当時既に”完成された”楽器であるヴァイオリンには興味を失い、”発展途上”の楽器である今日言う所のピアノ −クラヴィーアからピアノフォルテ、そしてピアノへと発達して行く− に興味が移って行ったからです。その証拠にピアノ協奏曲は35歳の最晩年迄書き続けて居ます。
 しかし、これはモーツァルト一人の傾向では無く、前時代のバロック(※10)の作曲家たちが数多くのヴァイオリン協奏曲を生み出したのに対し、モーツァルト以後のベートーヴェン、ブラームス、メンデルスゾーン、チャイコフスキーはヴァイオリン協奏曲をたった1曲 −しかし、そのどれもが傑作− しか書いて無いことから解る様に、時代的傾向だったと言えます。こうして見ると作曲家と言うのは「楽器に対しては征服欲旺盛なテクニシャン」の様です!!
 従ってモーツァルトが75年に集中してヴァイオリン協奏曲を書いたのはヴァイオリンへの興味からでは無く、ギャラント・スタイルの繊細な艶(つや)を表現するのには独奏ヴァイオリンの技巧が際立つヴァイオリン協奏曲という形式が最適と考えたからだ、と私は推測して居ます。

 ■考察 − ロココ様式とギャラント・スタイルの音楽
 (1)ロココ様式の音楽
 18世紀前半〜中葉に開花したロココ様式(※11)は装飾的で貴族的で繊細で洗練された女性好みの様式です。それは大伽藍の様に重々しく荘重壮大で錯綜したバロック様式への反動から生まれた「幾分浮薄なバロック芸術の娘」(△2のp195)と言えます。
 音楽で見るならば、先ず技術的変化としてJ.S.バッハ(=大バッハ)で頂点を極めた複雑な対位法を駆使してポリフォニックな和声(=複数の独立旋律が和音を形成し同時に響く)を延々と響かせる大曲から、ホモフォニックな和声(=1つの主旋律と従属和音)の単純で明快で”手軽”な規模の曲に推移して居ます。この技術的単純化だけなら「前期バロックへ帰れ」という復古主義で終わったのですが、元には戻れない社会的状況の変化が有ったのです。
 音楽の内容に眼を向けると、大バッハの音楽の背後に常に付き纏っていた「神」に代わって、ロココの音楽には世俗的な贅沢趣味が前面に出て居ます。それは音楽を享受する主体がそれ迄の教会から貴族たちのサロンへと移行したことを反映して居るのです。教会で顰(しか)め面して聴く音楽では無く、教養的には軽薄だが美しい貴婦人たちとお茶を飲み乍ら会話や口説きの効果を倍化させて呉れる社交音楽が求められる様に成りました。バロックからロココへの推移は正に「重厚長大」から「軽薄短小」への社会的風潮の変化の反映でした。
 但し、この時代の音楽が世俗化したと言っても所謂クラシック音楽の範疇の曲を享受したのは宮廷や貴族や金持ち階級に限られて居ましたから、決して野卑では無く貴族的雰囲気が濃厚でした。

 (2)ギャラント・スタイルの音楽
 ギャラント・スタイル(gallant style、style galant[仏])とは、ロココの音楽を一層華美に繊細に洗練させた”やや技巧的”な音楽様式で、日本語では艶美様式又は華麗様式と訳されて居ます。尚、ギャラント・スタイルの呼称はロココ絵画の創始者ワトーの渾名「雅宴(フェート・ギャラント)」に由来します。
 フランスのクープラン、イタリアのD.スカルラッティペルゴレージを創始者として、ドイツではテレマンヨハン・クリスティアン・バッハ(=J.C.バッハ、※12)に受け継がれ、更にヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(=W.F.バッハ、※12−1)やカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(=C.P.E.バッハ、※12−2)はそれに新しい表現を加えて多感様式(又は感情過多様式)と呼ばれる前古典派(※12−3)の一派を形成し、後のウィーン古典派の登場を準備しました。
 少年時代モーツァルトは演奏旅行の途中1764年(8歳)にロンドンでクリスティアン・バッハに学んだのが大きく、クリスティアンの膝の上に乗って一緒にチェンバロを弾いたという程可愛がられ、ギャラント・スタイルの洗礼を受けて居ます。この頃作曲された『交響曲第1番』を始めモーツァルトの初期の作品にはクリスティアンの影響が特に顕著で、後の各品からもその影響は消え去っては居ません。従って青年モーツァルトがミュンヘンに於いて、より派手なフランス風ギャラント・スタイルに心躍らせたのも、既に自己の中に在った要素と共鳴したからに他なりません。私はクリスティアン・バッハの作品を聴き比べることをお薦めします。

 (3)内面性からの反省、そして古典派様式の確立へ
 しかしロココの時代は「幾分浮薄なバロック芸術の娘」を少々甘やかし過ぎた様です。この娘の求めに応ずるが儘に甘さを振り撒き、音楽の外面は明るく華美で繊細な技巧で飾られましたが、内面は単純化・通俗化され精神性は失われました。
 こうした状況の中から過度の「軽薄短小」化への反省が起こり、精神性の回復と新しい時代要請に答えられる普遍的な形式の確立に向かう動きが現れたのも又当然の成り行きです。その努力を静かに推し進めていたのがハイドン(※6)です。その努力はやがて実を結びクラシック音楽史上最高峰の様式、即ちソナタ形式(※4)を中心とする古典派様式(classic style)(※6−1)を打ち立てます。
 ハイドンは『交響曲第94番「驚愕」』(1791年作)に於いて虚栄と退廃の貴族サロンに字義通りの警鐘を鳴らしましたが、ヨーロッパは間も無くパリを震源とするフランス革命 −1789年のパリ市民のバスチーユ牢獄の占拠に始まり、93年にルイ16世マリー・アントワネット王妃が断頭台で処刑される− の大津波に見舞われ新しい時代を迎えます。因みに62年、6歳のモーツァルトはオーストリア継承戦争を戦い抜いた女帝マリア・テレジア(※13)のウィーンの宮殿に招かれ演奏した際、女帝に抱かれキスの祝福を受けたとか、女帝の第9皇女で1歳年長のマリー・アントワネットに「大きくなったらお嫁さんにしてあげる」と言った、という話が伝わって居ます(△1のp34)。

 (4)モーツァルトの性格はロココ的
 モーツァルトが年代的にはロココ末期に生まれたのに対し、ハイドンはモーツァルトより24年前に生まれ年代的にはロココ全盛時代を生きた人でした。しかし生きた年代とは逆にロココ様式の影響を強く受けたのはモーツァルトの方です。その理由として私はモーツァルトの性格が明るく繊細で女性的で、生来「ロココ的性格」であったから、と考えて居ます。そして”移り気”で”新しい物好き”のモーツァルトはハイドンの古典派様式にちゃっかり乗り移り、それを更に発展させ古典派三巨匠の一人と称される様に成りました(※1)。しかし、私たちが今日彼の古典派様式の音楽を聴き、「ここがモーツァルト的だ」と感じる部分はやはり「ロココ的」なのです。
 遺伝的かどうか判りませんが、モーツァルトは子供を数人儲けましたが殆ど生まれて直ぐに死んで居ます、これはモーツァルトの兄弟姉妹と同様です。悲しかったと思いますが、しかし彼の楽曲にはそんな悲しみなど微塵も表れて居ません。
    {この「考察」は06年3月6日に追加}

 ■結び − ”移り気”の記念物
 ”移り気”なモーツァルトはギャラント・スタイルを”征服”して仕舞うと、何時迄もそこに留まることはしません。翌76年に名曲『セレナーデ ニ長調「ハフナー」』を、77年迄に幾つものディヴェルティメントを書き上げると、”宮仕え”に縛られずフリーランスの音楽家を目指して居たモーツァルト −その割には経済観念が欠如して居ますが− は77年にザルツブルク宮廷音楽家を辞して(後に再任)、『歌劇「クレタの王イドメネオ」』(1781年作)の作曲へと向かいます。
 以上の様な意味でモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第1番〜第5番は新様式に熱を上げた「青春の記念碑」であり、”移り気”の記念物なのです。

−− 完 −−

【脚注】
※1:ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)は、オーストリアの作曲家(1756.1.27〜1791.12.5)。古典派三巨匠の一人(他はハイドンとベートーヴェン)。幼時から楽才を現し、短い生涯中、6百曲以上の作品を書いた。18世紀ドイツ/フランス/イタリア諸音楽の長所を採って整然たる形式に総合し、ウィーン古典派様式を確立。多くの交響曲・協奏曲・室内楽曲の他、数多くの歌劇を書いた。
 代表作は交響曲「ジュピター(第41番)」「ト短調(第40番)」ピアノ協奏曲「戴冠式(第26番)」、セレナーデ「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、室内楽曲の「クラリネット五重奏曲」、声楽曲の「レクイエム」、歌劇「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「魔笛」など。
※1−1:レオポルト・モーツァルト(Leopold Mozart)は、ザルツブルクの宮廷楽師・作曲家(1719.11.14〜1787.5.28)でヴォルフガング・モーツァルトの父。幼少のヴォルフガングの天分を見出し各地の演奏旅行に同行させる。作曲家としては「おもちゃの交響曲」他の交響曲/協奏曲/セレナーデ/嬉遊曲などを残すが、教則本「ヴァイオリン奏法」が有名。
※1−2:ザルツブルク(Salzburg)は、(町の名はドイツ語の「塩(Salz)」と「城(Burg)」に由来)オーストリア西部、ドイツとの国境近くに在る観光/工業都市。人口14万。7世紀建設。798年から1,000年以上も大司教が統治岩塩取り引きなどの商業中心地として栄えた。11世紀のホーエンザルツブルク城ミラベル宮殿、17世紀イタリアルネサンス様式のザルツブルク大聖堂を始め多数の寺院など美しい建物・広場が多く世界で最も美しい町の一つと言われ、歴史地区は世界遺産に登録。機械・電子・繊維などの工業が盛ん。モーツァルトの出生地で毎年夏に国際音楽祭(=ザルツブルク音楽祭)が開かれる。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※2:ケッヘル番号(―ばんごう、Koechel-Verzeichnis[独], Koechel's number)は、モーツァルトの作品(主題)目録番号。オーストリアの植物学者・ケッヘル(Ludwig von Koechel)(1800〜1877)が始めたもので、略作曲年代順に付けられて居る。略号

※3:ディヴェルティメント(divertimento[伊])とは、18世紀後半、特にオーストリアで流行した一種の室内楽組曲。メヌエット/行進曲/舞曲などの楽章から成り、セレナーデに類似。ハイドンモーツァルトがその代表的作曲家。嬉遊曲

※4:ソナタ形式(―けいしき、sonata form)とは、器楽形式の一。ソナタ・交響曲・協奏曲などの第1楽章に主に用いる形式。普通、2つ又は1つの主要主題を持ち、提示部・展開部・再現部から成り、序奏結尾部(コーダ)を付けることも有る。

※5:ロンド(rondo[伊])とは、〔音〕18世紀、古典派時代の基本的な器楽形式の一。主題が同じ調で繰り返される間に異なる楽想の副主題が挿入されるもの。ソナタや協奏曲/交響曲などの最終楽章に多い。回旋曲。輪舞曲。

※6:ハイドン(Franz Joseph Haydn)は、オーストリアの作曲家(1732〜1809)。ハンガリーのエステルハージ侯爵の宮廷楽長。ウィーン古典派三巨匠の一人(他はモーツァルトとベートーヴェン)。ソナタ・弦楽四重奏曲・交響曲の形式を大成して古典派様式を確立し、モーツァルトやベートーヴェンに影響を与えた。作は百曲余りの交響曲、弦楽四重奏曲、オラトリオ「天地創造」「四季」など。「交響曲の父」「弦楽四重奏曲の父」と呼ばれる。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※6−1:古典派音楽(こてんはおんがく、classic music)とは、バロック時代に続く、1720年頃から19世紀初頭の簡潔で自然な様式の音楽。一般に、1780年頃以降のウィーン古典派を指す。それ以前の前古典派には北ドイツ楽派/初期ウィーン楽派/マンハイム楽派等を含む。ウィーン古典派は円熟期のハイドンモーツァルト、中期迄のベートーヴェンに当たり、今日の音楽教育の基礎と成っている。古典音楽。→ソナタ形式。

※7:疾風怒涛(しっぷうどとう)は、シュトゥルム・ウント・ドラング(Sturm und Drang[独])の訳語で、 18世紀後半ドイツに起こった文学革新運動。啓蒙主義の悟性偏重的側面に反対し、社会の旧習を主観的/感情的に激しく批判した。ドイツの劇作家クリンガー戯曲の題名に由来。この時期にゲーテの「若きウェルテルの悩み」シラーの「群盗」などが書かれた。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※8:この旅行は1774年の9月頃に、バイエルン選帝侯マクシミリアン3世 −選帝侯とは当時のドイツに於いて皇帝の選挙権を持つ諸侯を指す− から75年春の謝肉祭にオペラの上演を依頼されて居たからです。モーツァルトは新作の『歌劇「偽の女庭師」』と73年に書いたクラヴィーア協奏曲を携えて74年12月6日にミュンヘンに向けてザルツブルクを発ちました(△1のp58〜69)。このオペラは好評を博しました。

※9:セレナーデ(Serenade[独])は、[1].思いを寄せる女性の家の窓辺で夕べに歌い奏する音楽。
 [2].18世紀以降のヨーロッパで盛んに成った器楽の形式。多くは管楽/弦楽/管弦楽の為に作った比較的軽い性格の多楽章の楽曲。セレナード(serenade[仏])セレナータ(serenata[伊])小夜曲夜曲

※10:バロック音楽(―おんがく、baroque music)とは、バロック期の音楽の総称。通奏低音の上に、異質的・対比的効果を生かした楽曲様式が特徴。モンテヴェルディコレルリヴィヴァルディテレマンヘンデルバッハらが代表的作曲家。主なジャンルはオペラ/オラトリオ/協奏曲/ソナタ/組曲など。

※11:ロココ/ロココ様式(―ようしき、rococo[仏][ style])とは、(rocaille[仏]という「貝殻状の装飾モチーフ」に由来)
 [1].フランスのルイ15世時代の装飾様式。バロック様式のあとを受け1723年から60年頃迄流行。曲線過多の濃厚・複雑な渦巻・花飾・簇葉・唐草などの曲線模様に淡彩と金色とを併用。画家ではワトー/ブーシェ/フラゴナールらがその代表。
 [2].ロココ美術の時代様式概念を音楽に適用した名称で、ロココ音楽(music of the rococo, Musik des Rokokos[独])とも呼ばれる。音楽史の上では、バロックと古典派の間の過渡的様式として位置付けられる。概して、18世紀前半宮廷生活を反映した、優美で装飾的な音楽を言い、クープランラモーD.スカルラッティらが代表者。又、ヨハン・クリスティアン・バッハ青年モーツァルトもこの様式に感化された。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※12:ヨハン・クリスティアン・バッハ(Johann Christian Bach)は、ドイツの音楽家(1735-1782)。大バッハの末子。ミラノとロンドンで活躍し、兄のエマヌエル同様に前古典派様式を代表する音楽家としてモーツァルトにも影響を与えた。
 補足すると、クリスティアンは1762年からロンドンに定住し、「ロンドンのバッハ」とも呼ばれます。
※12−1:ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(Wilhelm Friedemann Bach)は、ドイツの音楽家(1710-1784)。大バッハの長男。ドレスデンやハレの教会のオルガン奏者。「ハレのバッハ」と呼ばれた。
※12−2:カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(Carl Philipp Emanuel Bach)は、ドイツの音楽家(1714-1788)。大バッハの2男。前古典派様式の代表者としてハンブルクやベルリンで活躍。
※12−3:前古典派(ぜんこてんは、preclassics)とは、バロック音楽に続いて現れ古典派音楽を準備したマンハイム楽派ベルリン楽派の総称。和声的・単音楽的な新しい様式のソナタ形式を完成させる上に大きな役割を果たした。
<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※13:マリア・テレジア(Maria Theresia)は、オーストリアの君主、神聖ローマ皇帝妃(1717〜1780)。父カール6世の家憲に拠り1740年に即位し、ハプスブルク家の全領土を継承。諸国が反対してオーストリア継承戦争が起り、プロイセンにシレジアを割譲したが、夫フランツ1世の帝位を確保。七年戦争に敗れたが、オーストリアの内政改革に大きな業績を挙げた。女帝の第9皇女がマリー・アントワネット。マリア・テレサ。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『モーツァルト』(海老沢敏著、音楽之友社)。

△2:『音楽の歴史と思想』(H.ライヒテントリット著、服部幸三訳、音楽之友社)。

●関連リンク
モーツァルトの短調▼
モーツァルト「交響曲第40番」(Symphony No.40, Mozart)
オーストリア継承戦争やバロック期のヴァイオリン協奏曲の多産について▼
ヴィヴァルディ「ヴァイオリン協奏曲「四季」」
(Violin Concerto '4 Seasons', Vivaldi)

モーツァルト以後のヴァイオリン協奏曲▼
チャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲」(Violin Concerto, Tchaikovsky)
ギャラント・スタイルの呼称の由来▼
ドビュッシー「ベルガマスク組曲」(Suite Bergamasque, Debussy)
この曲の初登場日▼
ブラボー、クラシック音楽!−活動履歴(Log of 'Bravo, CLASSIC MUSIC !')


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