<ブラボー、クラシック音楽!−曲目解説#5>
チャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲」
(Violin Concerto, Tchaikovsky)

−− 2005.12.27 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2006.01.07 改訂

 ■はじめに − 『第九』の後に聴いた『ヴァイオリン協奏曲』
 この会で最初にピョートル・チャイコフスキー(※1)を採り上げたのが、この『ヴァイオリン協奏曲』でした(04年12月2日の第3回例会にて)。この日は<12月は『第九』>というテーマでベートーヴェンの『第九』を掛けるということは前から予告して有ったのですが、『第九』1曲では時間が余り、偶々会場に寄贈されたLP盤の中にこの曲が在り、運営幹事の上野さんの推薦も有りましたので、『第九』の後にこれを掛けた次第です。通常こういう場合は『第九』の前に置きますが、『第九』の後にチャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』を聴くのも、中々乙(おつ)な感じがしましたね。西洋料理の最後に出て来るデザートの様なもの、私にとっては食後に飲むウォッカ(※2)の様でした。

 ■曲の構成とデータ
 正式名称は『ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35』です。曲の構成は
  第1楽章:アレグロ・モデラート ニ長調 4/4、モデラート・アッサイ
       [ソナタ形式]
  第2楽章:カンツォネッタ・アンダンテ ト短調 3/4
  第3楽章:アレグロ・ヴィヴァチッシモ ニ長調 2/4 [ロンド形式]
という通常の「急・緩・急」の3楽章です。
  ●データ
   作曲年 :1878年(38歳)
   演奏時間:約35〜40分

 ■聴き方 − チャイコフスキー節を楽しむ
 チャイコフスキーはメロディー・メーカーなので、先ずは何も考えずチャイコフスキー節をたっぷり楽しんで下さい。ソナタ形式(※3)の第1楽章は序奏に続いて直ぐに明るいヴァイオリンの第1主題が流れ次にやや憂いの有る第2主題が現れ次第に高潮して行きます。第2楽章はチャイコフスキーらしくヴァイオリンがメランコリックな旋律を歌いますが、突然ティンパニを伴った第3楽章が切れ目無く始まり、ロンド形式(※4)のフィナーレが続きます。主題はロシアの農民の舞踊・トレパーク(※5)から採られて居ます。
 演奏時間も協奏曲としては長い方で高度な洗練と堂々たる風格を具えて居ます。第1楽章の第1主題は明るく始まりますが全体としては”チャイコフスキー的な憂い”に覆われた曲です。何故か?

 ■作曲された背景 − 結婚の短期破綻とフォン・メック夫人との文通開始
 チャイコフスキーは音楽好きな両親の元で生まれ少年時代は作曲を習って居ましたが、両親は法律を彼に学ばせ彼は1859年(19歳)でロシア法務省に就職しました。しかし音楽への愛着は断ち難く60年にアントン・ルビンシュタイン(※6)が創設したペテルブルク音楽院に入学し音楽を学び、63年には法務省を辞めて仕舞いました。ここで彼のドイツ・ロマン派的作曲技法が培われ、それは65年の卒業作品がシラーの詩による『歓喜への頌歌』であったことにも窺われます。
 翌66年(26歳)にはアントンの弟・ニコライ(※6−1)らが創立したモスクワ音楽院の講師として着任します。モスクワ時代は実り多く『交響曲第1番』『序曲「ロミオとジュリエット」』などを作曲、特に74年の『ピアノ協奏曲第1番』や76年の『バレエ音楽「白鳥の湖」』は彼の名を世界的なものにしました。しかし77年7月、37歳の時に教え子アントニーナ・ミリューコワの求婚に根負けした結婚は大失敗で、自殺を企てる程の神経病に成り破綻、単身ペテルブルクへ逃げ帰ります。
 その後スイスに転地療養に赴いた折、ナデージダ・フォン・メック夫人(※7)との文通が始まり年6000ルーブルの年金の申し出に依って再び作曲に没頭する様に成ります。そして77年にメック夫人に献呈した『交響曲第4番』、『歌劇「エヴゲニー・オネーギン」』(78年作)に続き書かれたのが、この『ヴァイオリン協奏曲』(78年作)だったのです(△1)。この曲全体を覆う”憂い”は拭い切れない「心の傷」の無意識な表出かも知れません。初演は1881年12月4日ハンス・フォン・ビューロー指揮のウィーン・フィルに依って行われました。
 [ちょっと一言]方向指示(次) 尚、ドビュッシー1880〜82年の一時期メック夫人のお抱えピアニストを務めた(※7)際に、『交響曲第4番』を夫人と連弾したり作曲した曲をチャイコフスキーに送り批評を仰いだりと、新旧の異質の作曲家が夫人を通して間接的に交流しました(→「ドビュッシー「ベルガマスク組曲」」を参照)。

 ■結び − 「一流の証明」に成る曲
 初演時には第3楽章のトレパークの様なスラヴ民族の香り漂う部分が、当時ウィーン大学教授にして毒舌批評家のE.ハンスリック(※8、△2)に「悪臭を放つ音楽」と酷評された話は有名です −ハンスリックは同じスラヴ族が住むチェコ生まれでユダヤ系なので、この批評は近親憎悪的側面が有ります− が、その後この曲は演奏者と聴衆の双方から認知され、今や一流ヴァイオリニストが必ず演奏する曲、言い換えるとヴァイオリニストにとって「一流の証明」に成る曲に成って居ます。
 [ちょっと一言]方向指示(次) E.ハンスリックの毒舌振りに関するエピソードは色々有りますが、宿敵ワーグナーが作曲した『楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」』の中の嫌味な敵役のベックメッサーはハンスリックがモデルです(△2のp201、△3のp217〜218)。しかもこの役名を独和辞典で調べると "Beckmessarei" という語が在り、その意味は「揚げ足取り」です。批評家も作品中に登場する様に成ったら「一流の証明」と言うべきでしょう。ハンスリックの名は私の「曲目解説」の何処かで再登場すると思いますので、名前を知って置いて下さい。

 第3回例会で掛けたLP盤はダヴィッド・オイストラフ(※9)が独奏を務めた盤ですが、オイストラフは骨太で包容力の有る音色を醸し出す奏者です。それは多分D.オイストラフが若い頃ヴィオラを弾いて居たことに依るのかも知れません。兎に角この曲は技巧の他に力強さも要求され、パワーが無いと神経質でキスキスした音に成って仕舞います。そういう意味でこの盤は名演だと思いました。
 尚、D.オイストラフは上野さんのお気に入りです。彼女のもう一人のお気に入りはピアニストのスビャストラフ・リヒテル(※10)です。上野さんの歳を私に訊いて来る方が偶に居りますが、私は知りません。でもD.オイストラフやリヒテル好みということで、自ずと年齢が判ろうというものです。
                (-_*;)

−− 完 −−

【脚注】
※1:ピョートル・チャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky)は、ロシアの作曲家(1840.5.7〜1893.11.6)。作風はドイツ・ロマン派音楽の系統を引くと共に、情熱・感傷・憂鬱などのスラヴ的特性を示す。交響曲「悲愴」バレエ音楽「白鳥の湖」「くるみ割り人形」「眠れる森の美女」「ヴァイオリン協奏曲」「ピアノ協奏曲第1番」、歌劇「エヴゲニー・オネーギン」など。

※2:ウォッカ/ウォトカ(vodka[露])は、(voda[露](=水)から)ロシア原産の蒸留酒。ライ麦その他から製し、白樺の炭を用いて濾過する。無色/無味/無臭で、アルコール分40〜60%を含む。カクテルにも向く。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※3:ソナタ形式(―けいしき、sonata form)とは、器楽形式の一。ソナタ・交響曲・協奏曲などの第1楽章に主に用いる形式。普通、2つ又は1つの主要主題を持ち、提示部・展開部・再現部から成り、序奏結尾部(コーダ)を付けることも有る。

※4:ロンド(rondo[伊])とは、〔音〕18世紀、古典派時代の基本的な器楽形式の一。主題が同じ調で繰り返される間に異なる楽想の副主題が挿入されるもの。ソナタや協奏曲/交響曲などの最終楽章に多い。回旋曲。輪舞曲。

※5:トレパーク(trepak[露])とは、ロシアの古い舞曲で、活発な2/4拍子で踊る。原義はロシア語方言の「足踏みする」に由来。チャイコフスキーのバレエ音楽「くるみ割人形」、ムソルグスキーの歌曲集「死の歌と踊り」に用いられて居る。<出典:「音楽大事典(平凡社)」>

※6:アントン・ルビンシュタイン(Anton Grigorievich Rubinstein)は、ロシアのピアノ奏者・作曲家(1829〜1894)。ロシアで交響楽運動を起こし1862年にはペテルブルク音楽院を創設した。作曲はドイツ・ロマン派の手法を用い、演奏家としてはリストと並び称される名声を博した。チャイコフスキーの師として知られる。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※6−1:ニコライ・ルビンシュタイン(Nikolai Grigorievich Rubinstein)は、ロシアのピアノ奏者・作曲家(1835〜1881)。アントンの弟。モスクワ音楽院の創立に関わり、初代院長として同音楽院の基礎を固めた。ロシア音楽の発展に努め、ロンドンやパリでロシア音楽を紹介。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
 尚、チャイコフスキーのピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出」はニコライの死を悼んで書かれた曲です。

※7:ナデージダ・フォン・メック夫人(Nadezhda Filaretovna von Meck)は、ロシアの芸術保護者(1831〜1894)でチャイコフスキーの後援者として著名。貴族で鉄道技師のカール・フォン・メック(Karl von Meck、1821〜1876)の夫人。チャイコフスキーのことはモスクワ音楽院院長のN.ルビンシュタインを通じて知り、夫の死後その遺産で1877〜90年迄物質的・精神的に支援したが、その後は疎遠に成った。ドビュッシーも夫人の家庭のピアニストを務めた(1880〜82)。<出典:「音楽大事典」(平凡社)>

※8:E.ハンスリック(Eduard Hanslick)は、オーストリアの音楽学者・批評家(1825〜1904)。チェコ生まれ。法律を学んだ後ウィーン大学で美学と音楽史を講じる一方、新聞に批評を発表し、ブラームスを強く支持した。著書「音楽美論」。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
 補足すると、彼の学説は作品自体の構造と力性に拠る絶対音楽を理想とし、標題や文学的感情移入を排除するもので、当然それは反ワーグナー・反標題音楽・反ロマン派の立場です。しかし感情を抑制し構造に立ち返る態度は、現代の演奏様式の主流を成す「新即物主義」として受け継がれて居ます。

※9:ダヴィッド・オイストラフ(David Fiodrovich Oistrakh)は、ロシアのヴァイオリン奏者(1908〜1974)。モスクワ音楽院教授。第二次大戦後、西欧や日本でも演奏。息子のイーゴリもヴァイオリニスト。

※10:スビャストラフ・リヒテル(Svyatoslav Rikhter)は、ロシアのピアニスト(1915〜1997)。ウクライナ生れ。1960年以後欧米でも活動し著名に成った。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『立体クラシック音楽』(吉崎道夫著、朝日出版社)。

△2:『音楽美論』(ハンスリック著、岩波文庫)。

△3:『音楽史の休日』(武川寛海著、音楽之友社)。

●関連リンク
補完ページ(Complementary):チャイコフスキーの後半生▼
チャイコフスキー「交響曲第6番「悲愴」」(Symphony No.6, Tchaikovsky)
フォン・メック夫人とドビュッシー▼
ドビュッシー「ベルガマスク組曲」(Suite Bergamasque, Debussy)
シラーの詩による「歓喜頌歌」について▼
ベートーヴェン「交響曲第9番「合唱付き」」(Symphony No.9, Beethoven)
運営幹事の上野さん▼
ブラボー、クラシック音楽!(Bravo, CLASSIC MUSIC !)
この曲の初登場日▼
ブラボー、クラシック音楽!−活動履歴(Log of 'Bravo, CLASSIC MUSIC !')


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