<ブラボー、クラシック音楽!-曲目解説#12>
シューマン「交響曲第3番「ライン」」
(Symphony No.3, Schumann)

-- 2006.03.29 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)

 ■はじめに - ロマン派初登場
 第6回例会(=05年3月10日)ロベルト・シューマン(※1)の『交響曲第3番「ライン」』を掛けました、本格的ロマン派(※2)の初登場です。この会の人たちはどちらかと言うとドヴォルザークやチャイコフスキーがお好みで既に何度も掛けて来ましたので、バランスを取る為にこの日はバロック音楽や日本人の作品と共にロマン派の交響曲を採り上げた次第です。
 ところでこの日のテーマは<春を感じる曲>です。シューマンにはその名もズバリ『交響曲第1番「春」』という曲が有りますが、この『交響曲「ライン」』は彼の全4曲の交響曲中最も明るい曲で『交響曲「春」』よりも春を感じることが出来、何よりも私が好きな交響曲なのです。題名の様にこの曲はシューマンがライン川(※3)地方の風物に触発されて作った曲(後述)で、湧き出て来る曲想をその儘書き留めた様な生き生きとした躍動感に満ちて居ますが、底抜けの明るさでは無く奥に「渋味と深味」を秘めた如何にもドイツ・ロマン派的な作品です。

 ■曲の構成とデータ
 正式名称は『交響曲第3番 変ホ長調 作品97「ライン」』です。曲は
  第1楽章:生き生きと 変ホ長調 3/4 [ソナタ形式]
  第2楽章:極めて温和に ハ長調 3/4
  第3楽章:速く無く 変イ長調 4/4
  第4楽章:壮麗に 変ホ短調 4/4
  第5楽章:生き生きと 変ホ長調 2/2 [ソナタ形式]
の様に、原語では速度をドイツ語で指定した5楽章構成(←通常は4楽章)です。この様に古典派的形式を少しずつ拡張して行くのがロマン派のスタイルです。
  ●データ
   作曲年 :1850年(40歳)
   演奏時間:約30~35分

 ■聴き方 - 「渋味と深味」を楽しむ
 第1楽章冒頭から強く総奏される明るい第1主題はこの曲全体の気分を代弁するもので、これにオーボエとクラリネットの渋味の有る第2主題が絡み展開して行きます。「極めて温和に」と指定された第2楽章のスケルツォは素朴で長閑(のどか)なライン地方の風景の様です。第3楽章は3つの主題が交互に現れて来ますが日溜まりの様な温もりが有ります。「壮麗に」と記された第4楽章のケルン大聖堂(※4)の荘厳さを表すオルガン風の響きのカノン(※5)には深味が有ります。第5楽章はソナタ形式で最後はファンファーレが鳴り明るいコーダで終結します。
 全体を明るい開放的な気分が支配して居ますが、その奥の「渋味と深味」を味わえれば申し分有りません。

 ■作曲された背景 - 精神錯乱の兆候の中で
 シューマンは1810年にザクセン地方(※6)のツヴィカウで文学愛好家で出版業の父と歌が上手な母との間に生まれ早くから楽才を現し、又、バイロンやE.T.A.ホフマンやハイネ、そして特にジャン・パウル(※7、その影響の意味は後で分析します)などの幻想的なロマン派文学に傾倒して育ちました。しかし父の死で生活の安定を願う母の希望で法律を学ぶ為28年(18歳)にライプツィヒ(※6-2)の大学に行きますが、ここでピアノを弾く9歳の天才美少女クララ・ヴィーク(=後の妻、※1)を見初めます。気後れした彼は直ぐハイデルベルク大学 -W.M.フェルスターの戯曲『アルト・ハイデルベルク』で有名なドイツ最古の大学- に転校しますが音楽への夢断ち難く1830年(20歳)母の許しを得て音楽家を志し、再びライプツィヒに戻り当時有名なピアノ教師フリードリヒ・ヴィーク(=クララの父)に弟子入りしますが、右手に無理な負荷を掛け故障 -自分で考案したピアノ速成器具で右手薬指を吊るして他の指だけを動かす訓練をした- したので、作曲で身を立てる決意をしました。
 30~39年(20~29歳)は「ピアノ曲の時代」で彼の最初の作品『アベッグ変奏曲』(30年)を始め『幻想小曲集』(37年)『子供の情景』(38年)『クライスレリアーナ』(38年)など、ピアノ曲ばかり作曲したのはピアノから入った彼としては順当な所です。40年(30歳)は「歌曲の年」で『女の愛と生涯』『詩人の恋』など138曲もの歌曲を一気に書いて居ますが、この年は裁判沙汰の末(←その理由は後述)漸く師ヴィークの娘クララ(※1)と結婚出来た年です。
 41年(31歳)「交響曲の年」で『交響曲第1番「春」』や『交響曲第4番』 -出版順で「第4番」と呼ばれて居ますが作曲順では2番目の作- を書き、小品から大作への転回点と成りました。42年以降は「器楽曲の時代」とも言える時期で『ピアノ五重奏曲』(42年)や『弦楽四重奏曲第3番』(42年)など器楽作品を集中的に書き出します(△1)。43年(33歳)にはメンデルスゾーン(※8)が創設したばかりのライプツィヒ音楽院の教授を1年間務め44年(34歳)にドレスデンに移りますが、この頃から精神錯乱の兆候を見せ始め、その苦しみの中で『ピアノ協奏曲』(45年)や『交響曲第2番』(45年)などを作曲して居ます。
 そして50年(40歳)にライン川東岸のデュッセルドルフ(※9)に転地療養も兼ね指揮者として赴きます。『交響曲第3番「ライン」』はデュッセルドルフに向かう途次のライン地方の風景やケルン大聖堂の儀式の印象を基に書かれた曲で、その気分転換の効果は明るい解放感と成って曲全体に満ちて居ます。

 ■シューマンの評論活動と「ダヴィッド同盟」の分身たち
 一方、父の文才を受け継いだシューマンは楽壇を憂う同志たちと34年(24歳)に雑誌『新音楽時報』(又は『音楽新報』)をライプツィヒにて創刊し評論活動を開始しましたが、その同志が死去したり離散したりで結局シューマン一人で編集・発行する破目に成りました。そこで考え付いたのが「ダヴィッド同盟」という名の”架空の執筆者たち”で、彼等が誌上で討論する形にして内容を面白可笑しく膨らませることに成功して居ます。その”架空の執筆者たち”の主な面々とは、
  直観的・比喩的・ロマン的なフロレスタン
  内省的・分析的なオイゼビウス
  老獪で超然としたラロー先生
などです。特にフロレスタンとオイゼビウスはシューマンの両面性の一翼を担う”分身”と言うべき存在で、この二人に互いの揚げ足取りの議論をさせた後でラロー先生が仲裁者として登場し「青年たちよ、君たちは二人とも間違っている。」と一刀両断させる場面(△2のp26)などは非常に笑え、下手な小説より数10倍面白いと言えます。この「皮肉とユーモア」のアイディアは多分ジャン・パウルの影響と思われます。尚、創刊時には『ピアノ曲「ダヴィッド同盟舞曲集」』も作曲し、この曲の中にもフロレスタンとオイゼビウスが登場します。
 ところで『新音楽時報』創刊時にシューマンが同時代の音楽状況をどう見ていたかは、いみじくも誌上でオイゼビウスに「古典的ともロマン的ともつかない、情けない半眠状態」と言わしめた台詞(せりふ)に端的に表されて居て(△2のp21)、シューマンは34~43年(24~33歳)の約10年間に保守化・形骸化した楽壇に評論活動で果敢に闘いを挑んで行きました。
 しかし、それ以上に特筆すべき事は、この評論雑誌が単なる「批評の為の批評」に終わらずロマン派を担う若くて新しい才能を誌上で紹介し世に送り出したことです。しかもシューマンと音楽性が異なる人でも「才能を才能として」として評価して居ます。「諸君、帽子をとりたまえ、天才だ」(△2のp16)という有名な台詞で紹介したショパン始め、ベルリオーズ(←ドイツでは殆ど無名、祖国フランスでも変人と見做されて居た)、メンデルスゾーンリスト等を紹介して居ます。
 のみならず見落として為らないのは、ベートーヴェンやシューベルトやJ.S.バッハに対し敬意を払い「古典」の復興に力を尽くして居ることです。当時から見ても既に「古典」に成っていた音楽家に対する今日的な評価はシューマンの慧眼に負う所が大なのです。ウィーンでシューベルトの長大な『ハ長調交響曲』(=今日の『交響曲第8番「ザ・グレート」』)を発掘(=38年)したのもその一環で、彼は楽譜を信頼するメンデルスゾーン -シューマンは入院中(後述)に末子にメンデルスゾーンの名フェリックス(※8)を名付ける様言い残して居ます(△3のp192)- に送り、メンデルスゾーン指揮のゲヴァントハウス管弦楽団(※10)がライプツィヒで初演(=39年)を行いました。シューベルトの交響曲との出会いはシューマンの「交響曲の年」への転回の大きな契機に成って居ます。
 こうしてロマン主義が勝利を収め”ロマン派の旗手”に奉られた後はシューマンは暫く評論から遠ざかって居ました -その間にドレスデン、デュッセルドルフに転居- が、デュッセルドルフに新しい才能が来訪すると53年(43歳)に約10年振りに筆を執ります。『新音楽時報』に「新しき道」と題した評論で「時代の最高の表現を理想的に述べる使命をもった人」(△2のp204)と若きブラームス(=当時20歳)を楽壇に紹介し、”ロマン派の旗手”の座を引き渡します。ブラームスこそ今迄の誰よりもシューマンに最も親近性の有る音楽家と直感したのでしょう。しかしその為に謙虚で無口なブラームスは、能弁で自己主張型のワーグナーとの相克の場に立たされる事に成ります。感情や標題や文学性に頼る”行き過ぎたロマン主義”から音そのものへ立ち返れと主張した絶対音楽至上主義者(※11)・即物主義者の毒舌評論家ハンスリックが、ワーグナーを攻撃する方便としてブラームスを支持したのです。因みにハンスリックはシューマンのピアノ曲を演奏し『新音楽時報』を愛読したそうです(△4のp198~199)。

 ■シューマンの晩年とその後
 シューマンはデュッセルドルフに来てから精神病の方は一時小康を保ち3年間指揮者を務めますが、それ以上は続かず辞めて仕舞い遂に1854年2月7日(43歳)、ハイエナの形をしたものが襲い掛かって来て恐ろしくて堪らない」と言って丸でローレライの魔物(※12)に誘い出されたかの如くに突然家から豪雨の中に飛び出しライン川に投身します。この時は通行人に救助されボン近郊のエンデニヒ精神病院に入院しましたが、回復すること無く56年7月29日に苦しみ乍ら46歳の波乱の人生に幕を閉じました(△3のp195、△3-1のp206)。37歳で未亡人と成ったクララは7人の子供(内1人は乳飲み児)を抱え乍らピアノ演奏を熟(こな)して生活を支えました。
 ここで気に掛かるのはシューマンの家系で、3人の兄たちは父の出版業を継ぎましたが姉は精神病に罹り20歳で水死し、何やら後のシューマンを暗示して居ます。クララの父のヴィーク氏が訴訟に成る迄娘クララとシューマンとの結婚に反対した理由はこの辺に在ると思われます。そしてシューマンの第5子の息子も精神薄弱児で遺伝的なものを感じます(△3のp194、△3-1のp206)。
 シューマンの楽曲は揺れ動く情感が特徴ですが、思えば若きシューマンが、「空想性」と「現実の細密描写」という2極分裂を膨大な量の散文の中に並存させたジャン・パウルに傾倒したこと自体が「分裂の兆候」であったと見ることも出来ます。しかし、シューマンの音楽は散文的では無く何処迄も詩的です。
                (-_*)

 その後ですが、ブラームスはシューマンの恩を忘れること無く、シューマンが投身した時も入院中も死後もシューマン家の為に尽くしました。ブラームスは次第にクララ未亡人に惹かれて行き一時は”危険な関係”に陥り掛けましたが、”大人の愛”を全うし終生独身を通しました。それにはもう一つ訳が有るのかも...。

 ■結び - ライプツィヒの輝き
 シューマンがライプツィヒ(※6-2)で『新音楽時報』を発行し評論活動を積極的に展開した1830年代~40年代前半は、シューマンやメンデルスゾーンが自作を発表するだけで無く、前述の様にシューマンが積極的に新しい才能の紹介と「古典」の再評価を進め、メンデルスゾーンがライプツィヒ音楽院を創設し、又J.S.バッハの『マタイ受難曲』を発掘・演奏したりと、ライプツィヒが音楽の前衛及び古典の復興拠点として輝きを放った時代でした。
 のみならず『新音楽時報』はシューマン死後一旦終刊しましたが20世紀に復刊し今日迄刊行が続いて居ますし、メンデルスゾーンが創設したライプツィヒ音楽院も今日迄数々の人材を世に送り出し -その中には日本の滝廉太郎も居ます- 、ゲヴァントハウス管弦楽団も現在世界屈指のオーケストラとして活躍中です。つまりシューマン全盛時代の「ライプツィヒの輝き」は消えること無く今日迄続き更に発展して居る、ということを最後に記してこの解説を終わります。

-- 完 --

【脚注】
※1:R.シューマン(Robert Alexander Schumann)は、ドイツ・ロマン派の代表的作曲家(1810.6.8~1856.7.29)。歌曲集「女の愛と生涯」「詩人の恋」やピアノ協奏曲を始めとする多くのピアノ曲の他に交響曲などを作曲。又、「音楽新報」を発行。妻クララ(Clara Josephine Schumann、旧姓ヴィーク Wieck)は著名なピアノ奏者(1819~1896)で、作曲家としても活躍。

※2:ロマン派音楽(―はおんがく、romantic music)とは、古典派音楽に対する反動としてドイツに始まった1820~1900年頃のヨーロッパ音楽。強い感情表現を目指し、歌曲標題音楽オペラの発展、楽劇の成立などから、民謡の再発見や国民楽派の成立へと展開、遂にはワーグナー(=後期ロマン派)やドビュッシー(=印象派)に依って古典派音楽の基礎である調性も不明瞭に成り現代音楽へ引き継がれる。代表的な作曲家はウェーバー/シューベルト/メンデルスゾーン/シューマン/ショパン/ベルリオーズ/リスト/ブラームス/ワーグナーら。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※3:ライン(Rhein[独])は、ヨーロッパの大河。スイスのアルプスに源を発し、ドイツとフランスの国境を流れたあとドイツに入り、マイン川・モーゼル川を合わせてオランダに入り、北海に注ぐ。中流部ではライン峡谷を形成。西ヨーロッパで最も重要な内陸水路。長さ約1320km。

※4:ケルン(Köln)は、ドイツ西部、ライン川に沿う商工業都市。交通の要地。ローマの植民都市として成立、8世紀末大司教区を設置、1814年プロイセンに合併。ゴシック式大聖堂は有名。化粧水オーデコロン(eau de Cologne[仏]、「ケルンの水」の意)でも著名。人口96万3千(1994)。フランス語名コローニュ。

※5:カノン(Kanon[独]、canon[英])とは、この場合、〔音〕楽曲の形式、又その技法の一。第1声部旋律を第2・第3などの声部が対位法に拠り忠実に模倣しつつ進むもの。輪唱もその一種。追復曲

※6:ザクセン(Sachsen[独])は、サクソン人が居住して居たドイツ中部エルベ川の中流・下流の地方。旧東ドイツ南部のチェコ、ポーランドに接する地域と旧西ドイツの低ザクセンに分れる。919年部族公ハインリヒ1世が開いたザクセン王家が1024年迄代々ドイツ国王と成る。ラテン語名サクソニア。英語名サクソニー。
※6-1:サクソン人(Saxon)は、ゲルマン民族の一部。2~3世紀頃、ラインとエルベ両川間の北部地方に居住し、5~6世紀頃、ドイツ北部を占領、一部はグレート・ブリテン島に侵入、アングル人と共にイギリスの基礎を作った。
※6-2:ライプツィヒ/ライプチヒ(Leipzig)は、ドイツ東部、ザクセン地方の都市。1813年、ここでプロイセンを始めとする同盟軍がナポレオン軍に大勝。書籍出版/楽器製造/国際見本市で有名。ライプツィヒ大学(1409年創立)は、ゲーテ、ニーチェや森鴎外が学んだ所。J.S.バッハ所縁の聖トーマス教会、メンデルスゾーン所縁の世界最古のオーケストラのゲヴァントハウス管弦楽団(1743年創立)が在り、ワーグナーの生地。シューマンも一時住んだ。人口48万1千(1994)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※7:通称ジャン・パウル(Jean Paul)、本名はヨハン・パウル・フリードリヒ・リヒター(Johann Paul Friedrich Richter)。ドイツの小説家(1763~1825)。皮肉とユーモアの混った作品を書く。小説「マリーア・ブーツ先生の生活」「巨人」の他、「美学入門」。

※8:F.メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn)は、ドイツの作曲家(1809.2.3~1847.11.4)。高名な哲学者M.メンデルスゾーンの孫。作風は古典的均斉とロマン的詩趣との円満な融合。作は交響曲「スコットランド」「イタリア」を含む五つの交響曲、劇音楽「夏の夜の夢」、ピアノ小曲集「無言歌」、ヴァイオリン協奏曲など。作曲の他、ライプチヒで指揮者をし音楽学校を設立J.S.バッハの「マタイ受難曲」を復興するなど、多方面に活躍。

※9:デュッセルドルフ(Dusseldorf)は、ドイツ北西部、ノルトライン・ヴェストファーレン州の州都。ケルン北方、ライン川東岸に沿う。商工業の中心地。人口57万2千(1994)。

※10:ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(Leipzig Gewandhaus Orchester[独])は、(名は衣料会館(Gewandhaus)を演奏会場にした事に由来)ドイツのライプツィヒに在る世界最古の歴史を持つオーケストラ。1743年創立メンデルスゾーンが指揮をし発展させた。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※11:絶対音楽(ぜったいおんがく、absolute music[英], Absolutmusik[独])とは、文学的内容・絵画的描写など音楽外の観念や表象と直接結び付いた標題音楽に対し、純粋に音の構築物として作曲された音楽で、例えばバッハのフーガや古典派音楽の交響曲その他ソナタ作品など。19世紀に提示された概念。今日では絶対音楽・標題音楽の2分法は余り用いられない。純粋音楽。絶対楽。←→標題音楽。

※12:ローレライ(Lorelei)は、(妖女の岩の意)ライン川中流の右岸に聳える巨岩及びその岩上に憩う妖女。その歌声に魅せられた舟人が舟諸共に沈むという伝説は、ハイネの詩にジルヒャー(F.Silcher, 1789~1860)が作曲した歌などで有名。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『立体クラシック音楽』(吉崎道夫著、朝日出版社)。

△2:『音楽と音楽家』(シューマン著、吉田秀和訳、岩波文庫)。

△3:『音楽史の休日』(武川寛海著、音楽之友社)。
△3-1:『続・音楽史の休日』(武川寛海著、音楽之友社)。

△4:『音楽美論』(ハンスリック著、岩波文庫)。

●関連リンク
ブラームスがデュッセルドルフに来た経緯▼
ブラームス「弦楽六重奏曲第1番」(String Sextet No.1, Brahms)
ブラームスを支持した評論家のハンスリック▼
チャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲」(Violin Concerto, Tchaikovsky)
ライプツィヒ音楽院に留学した滝廉太郎の第2の故郷▼
2003年・豊後岡城の「荒城の月」
(Moon over the ruined Oka castle, Oita, 2003)

この曲の初登場日▼
ブラボー、クラシック音楽!-活動履歴(Log of 'Bravo, CLASSIC MUSIC !')


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