<ブラボー、クラシック音楽!-折々の感想#5>
ナポレオン戦争に関わる音楽
[2009年6月の第54回例会]
(Music related to the Napoleonic Wars)

-- 2009.06.03 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2009.07.02 改訂

 ■はじめに - 「古典派及びロマン派特集」について
 私が主宰するクラシック音楽を楽しむ会【ブラボー、クラシック音楽!】09年6月3日(水)の第54回例会<再びロマン派#3:ナポレオン戦争に関わる音楽>と題して企画しました。実はこの日は
  07年9月~08年6月:<ロマン派>シリーズ  (全7回)
  08年9月~09年1月:<古典派>シリーズ   (全3回)
  09年2月~09年6月:<再びロマン派>シリーズ(全3回)
と、約2年間に亘って進めて来た「古典派及びロマン派特集」の最後を飾る「総仕上げ」でした。
 当会の会員の方々がこれ迄一番親しんで来たクラシック音楽はやはり古典派とロマン派が中心 -会員の皆さんが学校などで聴き、又テレビCMなどで聴く曲の殆どがこれ- ですので、そこを確りと聴き今後の栄養にしようという狙いから上記の順に3つのシリーズを始めました。具体的にどんな曲をどの様な順で採り上げて来たかは
  ブラボー、クラシック音楽!-活動履歴(Log of 'Bravo, CLASSIC MUSIC !')
をご覧下さい。
 「総仕上げ」ではロマン派音楽に決定的影響を及ぼしたフランス革命を少し詳しく顧みて、革命の余波に乗り革命の幕引き役を演じたナポレオン1世(※1)のヨーロッパ制覇 -これを歴史教科書ではナポレオン戦争(※1-1)と呼ぶ- に関係する曲を聴くことにしましたが、その意図は後述します。

 ■ナポレオン戦争とは
 巻末の「ナポレオン1世の略年譜」を先ずご覧下さい。【脚注】※1-1に在る様に、ナポレオン1世が第1統領及び皇帝であった1799~1815年の間にフランスがヨーロッパ列強と戦った諸戦争です。主だったもの、次の曲目の解説に関係有るものを挙げると次の様に成ります。

  1799年、「ブリュメール18日」のクーデター(※2~※2-1)
          → 権力奪取
  1806年、ライン同盟 → 神聖ローマ帝国滅亡、大陸封鎖令
  1808年、イベリア半島遠征
  1809年、オーストリアに侵攻
  1812年、ロシア遠征の失敗 → 以後は全て負け戦
  1815年、ワーテルローの戦い敗戦 → セントヘレナ島に配流

 ナポレオンという人は統領に成り遂には「皇帝」に成った訳ですが、この人は根っからの軍人で「戦争が友だち」だった様ですね。曰く「戦争は自然の状態である。」「避けられない戦争は常に正戦である。」と(△1のp246)。

    ◆ナポレオンは反革命
 このテーマの方が私には興味が有りますね。日本人の中にはナポレオンを誤解している人が可なり居てナポレオンを革命の推進者だと考えて居る人が相当数居りますが。下の「略年譜」を見れば明らかな様に、ナポレオンは革命後にクーデターで権力を横取りしてナポレオン1世を名乗り、1世が「皇帝」という名に拘泥ったのは「国王」では反革命が露骨だからです。1世は自ら権力を固定化し世襲の2世・3世(※3、※3-1)を作りました。
 更に2番目の妻(←おっと失礼、皇后でしたな)のマリー・ルイーズ(※4-1)は【脚注】を良く読んで戴ければお解りの通りフランス革命で処刑したマリー・アントワネットの甥(=オーストリアの皇帝フランツ1世)の娘なのです。この時には「自由・平等」の革命精神を踏みにじり世襲の為に”毛並み”の良さにしがみ付いたのです。革命が目指した「世界主義」も何処へやら、1世の起こした戦争は各国のナショナリズムを煽りやがて第一次世界大戦へと繋がって行くのです。
 故に私はナポレオン1世は反革命であると結論付けます。反骨精神が出て居ますなぁ!!

 ■第54回例会で掛けた曲の解説 - ナポレオン戦争に関係有る曲
 (1)ベートーヴェン『交響曲第3番「英雄」』第2楽章
 作曲年は1803夏~04年春。曲が完成し楽譜の表紙にナポレオン・ボナパルトと書き付けたが、1804年5月18日にナポレオンの皇帝即位の報を聞くと「あの男もつまり俗人だった。自分の野心を満たす為、民衆の権利を踏みにじり、誰より暴君に成るだろう」と怒り、表紙のナポレオン・ボナパルトの字を消しました。この2年後に出版されたパート譜の表紙には「シンフォニア・エロイカ(Sinfonia eroica)」とイタリア語で書かれ、同じくイタリア語で「一人の英雄の思い出のために」と書き添えられ、ロブコヴィッツ侯に献呈されました。この "eroica"(「英雄の」という意味)という形容詞が固有名詞的に広まり、この曲の題「英雄(Eroica)」が定着しました。これについては既に「ベートーヴェンの合唱幻想曲と第九」の中で述べて居ますのでご覧下さい。

 (2)チャイコフスキー『序曲「1812年」』
 この曲が書かれたのは1880年で、1812年にナポレオンの為に破壊されたモスクワ中央大寺院の70年振りの再建を祝す為にニコライ・ルービンシュタインから依頼され、1882年夏に初演されました。この時は本物の大砲クレムリンの鐘が打ち鳴らされました。最初厳かなギリシャ正教の聖歌「神よ汝の民を救い」で始まり、フランス国歌やロシア国歌で戦いを表し、最後はロシア軍の勝利と民衆の歓喜に成ります。
 ナポレオン1世は60万と言われる兵力でロシアに攻め込み1812年8月14日にはモスクワを占領しながらシベリアの冬将軍の到来と飢えの為に撤退を余儀無くされ、本国迄帰還したのは僅か5千と言います。「ナポレオンが失った兵士の数は約五十七万人。そのうち三十七万人は戦死、病死または遺棄。残りの二十万人はロシア軍に捕まった。」と在ります(△2のp292)。ロシア軍は冬将軍を計算に入れて撤退する様に見せ掛けフランス軍を誘(おび)き寄せたのです。ロシア軍は撤退の際に馬を井戸に棄てたのでフランス軍は水が飲めなくなり「食べる物は死んだ馬か、腐った野菜──さもなければ、僚友の遺体だった。」という悲惨な状態です(△2のp218)。しかし、ロシア軍も多くの死者を出しました。「ロシア側の死者はあらゆる死因を含め、総計十五万人。負傷や凍傷で肢体不自由になった者は少なくともその二倍はいたに違いない」と(△2のp293)。

 (3)ルージェ・ド・リール『フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」』
 この歌はフランス革命政府のオーストリアへの宣戦布告の知らせがストラスブールに届いた1792年4月25日~翌26日の夜に掛けて工兵大尉ルージェ・ド・リールが作詞作曲しました。その後、テュイルリー宮襲撃の際パリ入城を果たしたマルセイユ義勇軍に依って広められ『ラ・マルセイエーズ』(※5)と成り、更に1795年7月14日フランス国歌と成りました。7月14日はパリ祭(フランス革命記念日)です。

 (4)コダーイ『組曲「ハーリ・ヤーノシュ」』(全曲)
 コダーイ唯一のオペラ(=ジングシュピール)として1927年に作曲されました。パウリニ・ペーラとハルシャーニ・ジョルトが台本作。主人公ハーリ・ヤーノシュは実在の人物で反ナポレオン戦争に参加し実際には一兵卒ですが、帰還後はナポレオンが命乞いし娘のマリー・ルイーズ(←実際にはナポレオンの第2の皇后、※4-1)とハーリが結婚をするという、ハーリの「法螺吹き」振りはハンガリーでは伝説化し大変人気が在ります。ハーリは「くしゃみ」をしてから「法螺吹き」話を始めます。

 (5)ハイドン『弦楽四重奏曲第77番「皇帝」』第2楽章
 作曲されたのは1797年です。この曲が「皇帝」と呼ばれる訳は第2楽章の変奏が『歌曲「神よ、皇帝を護り給え」』(=俗に皇帝讃歌同年初め作)の旋律を使って居るからです。この頃ナポレオンとオーストリアの関係は緊迫し、ハイドンはイギリスに滞在した経験からオーストリアにも国歌が必要と考え詩人レオポルト・ハシュカが作詞をし、同年2月12日(=皇帝の誕生日)にオーストリア国歌として発表しました。この曲は現在はドイツ国家です。
 1809年5月31日にハイドンは他界しましたが、この時オーストリアはナポレオン軍の占領下に在っ為にハイドンの死は殆ど知らされず葬儀はひっそりと行われました。
                (-_@)

 それにしても「なぜナポレオンは...<中略>...スウェーデン王カール十二世(※6、※6-1)の失敗を十分に研究していながら、同じ轍を踏むなという教訓を無視したのか、百三十年後、ヒットラーがまたまたナポレオンの過ちを繰り返したのはなぜか」という疑問が湧きます(△2のp11)が、私はこれには人間という生き物は「100年前の事実は忘れて行く」というエルニーニョの小定理が潜んで居ると思います。100年前の事は忘れる、100年前を知る人は物故する、事象を見縊(みくび)ったりするのです、それ故に「歴史は繰り返す」のですが。ナポレオン戦争では総勢約200万人の命が失われたと言われて居ます。
 ナポレオンの遺体は遺言に拠って解剖され死因は胃癌とされましたが、砒素に因る暗殺説も有力です。遺骸は1840年にフランスに返還され現在はパリのオテル・デ・ザンヴァリッド(廃兵院)に安置されて居ます。

 ■「古典派及びロマン派特集」回顧録 - 3シリーズの意図
 これで一連の「古典派及びロマン派特集」は終了です。この3シリーズは07年9月5日(水)の第33回例会に於けるメンデルスゾーンの『劇付随音楽「夏の夜の夢」』で幕を開けましたが、この日は新会場ミロホールに引っ越して最初の例会でも有りました。
 この曲の原作は勿論シェークスピア(※7)で彼は時代的にはイギリス・ルネサンスの人ですが、この曲を3シリーズの最初の<ロマン派>シリーズの冒頭に持って来た理由は後のロマン派文学やロマン派音楽はシェークスピアに題材の多くを見出し芸術的霊感を喚起されて居るからでした。以後<ロマン派>シリーズではオーソドックスに所謂巨匠と言われる作曲家を採り上げロマン派音楽が如何に台頭しクラシック音楽の中心を形成するに至ったかを聴いて戴き、最後はモダニズム音楽の旗手ドビュッシーに繋げました(→これについての詳細は感想記事「「ベルガマスク組曲」全曲生演奏」に記しました)。
 次の<古典派>シリーズでは特にハイドン -今年2009年はハイドン没後200年に当たる- に焦点を当てて進めました。ソナタ形式を中心とする古典派の形式美を確立したのはハイドンの大きな功績です。<ロマン派>シリーズで既に一通りロマン派を聴いて来た我々は、幻想や自由な想念を好むロマン派音楽に於いてもハイドンの堅固な形式を骨格にして居ることを体験しましたが、にも拘わらず”楽聖”と崇められるベートーヴェンや”ポップ”なモーツァルトに比しハイドンが採り上げられる機会が不当に少ない現状を鑑み、ハイドンの弦楽四重奏曲や交響曲をじっくりと聴きました。大勢に迎合しない私の反骨精神の表れと言えますが、クラシック音楽を理解し真に楽しむ為にはハイドンは必要不可欠であり土台です。
 <再びロマン派>シリーズでは巨匠以外のロマン派の作曲家を採り上げ、同時にハイドンに回帰したロマン派の楽曲 -例えばグノーやビゼーの交響曲- も聴きました。そして3シリーズの「総仕上げ」としてナポレオン戦争フランス革命も含めて)について概略を喋らせて戴きました。古典派末期のベートーヴェン及び以後のロマン派の音楽は「フランス革命の申し子」であり、その点でモーツァルトと決定的に違うのです。「総仕上げ」の曲としては革命の成果を”横盗り”した反革命者ナポレオン1世に侵攻された側の音楽を集めてみました。勝者の側から見た歴史だけが歴史の真相では断じて無いという思いからですが、これも私の反骨精神の所産です。そしてナポレオンに占領された真っ最中のウィーンでドサクサの中で静かに息を引き取ったパパ・ハイドンの「皇帝讃歌」で3シリーズの幕を閉じました。
 シェークスピアで始めナポレオンで終わらせ中心にハイドンを置いたのには以上の様な私の意図が在ったのですが、それを汲み取って戴くことが出来たなら幸いです。

 ■結び - 激動の時代へ
 (1)独立戦争/フランス革命/ナポレオン戦争はフリーメーソンが表舞台に
 さて、<再びロマン派#3:ナポレオン戦争に関わる音楽>は如何でしたでしょうか。最後に余り表向きには出て来ない話 -特に音楽関係では- ですが、独立戦争~フランス革命~ナポレオン戦争の時期はフリーメーソン(※8、※8-1)が表舞台に出て活躍しメンバーを倍増した時代です。そもそも「自由・平等」とか「博愛」とか「世界主義」という言葉がフリーメーソン的です。アメリカの独立戦争も然りでJ.ワシントン大統領がメーソンで在った事は有名な事実です。そしてモーツァルトがメーソン(※8)で、K(=ケッヘル番号)471、K477、K623など10数曲が関連の曲です。私はサリエリ(※9)よりもメーソンに依って殺されたとする説の方に興味が有りますね。ところでサリエリの音楽は良いですよ。

 (2)次はモダニズムの音楽
 次は愈々モダニズムの音楽の遣ろうと思って居るのですが。モダニズムの音楽は時代も近いのでどうしても”きな臭い”話が入って来ます。又、時代もそういう”きな臭い”時代です。1860年以降ですね、日本も明治維新が1867年でやがて2つの世界大戦に突入して行きます、世界が大きく動く時代です。

 ナポレオン1世の略年譜(Career of Napoleon I):1769~1821
    (古典派及びロマン派の主な作曲家)

1769年:8月15日フランス領コルシカ島の主都アジャクシオに生まれる。
    (ボナパルト家はイタリア系地主の移民で下級貴族)
1770年:( 1歳)12月16日、ベートーヴェン誕生
        (ハイドン38歳、モーツァルト14歳)
        イギリス産業革命開始
1775年:( 6歳)アメリカ独立戦争開始
1778年:( 8歳)パヴァリア継承戦争開始
1784年:(15歳)10月、パリの陸軍士官学校(砲兵科)に入学。
1785年:(16歳)砲兵士官として陸軍に任官。

▼▼▼フランス革命▼▼▼
1789年:(19~20歳)7月14日、民衆がバスティーユ牢獄占拠し
                フランス革命が勃発。
     9月、コルシカ島に帰省。
     アメリカ初代大統領にワシントンが就任
1791年:(22歳)ジャコバン派に入会。12月5日、モーツァルト死去
1792年:(22~23歳)8月10日革命(テュイルリー宮殿襲撃)を目撃。
          (マルセイユ義勇軍『ラ・マルセイエーズ』を歌いパリ入城)
          9月20日、国民公会で王政廃止し共和制に移行を決定
          9月22日共和制宣言、この日を元年元旦とする革命暦施行
1793年:(23~24歳)1月21日、フランス国王ルイ16世処刑
          6月、ナポレオン一家マルセイユに移る。
          10月16日、フランス王妃マリー・アントワネット処刑
1794年:(24歳)2月、陸軍少将に躍進。
        7月27日「テルミドールの反動」(ロベスピエール派逮捕)
1795年:(25~26歳)7月14日『ラ・マルセイエーズ』をフランス国歌
            に制定(※5)。
          10月、ナポレオン「ヴァンデミールの反乱」鎮定で頭角。
          10月27日総裁政府成立
1796年:(26歳)3月6日ジョゼフィーヌ(32歳、前子爵夫人)と結婚(※4)。
        イタリア遠征軍司令官
1797年:(27歳)1月、ハイドン『歌曲「皇帝讃歌」』を作曲
          → 当時オーストリア国歌、現ドイツ国歌。
        1月31日、シューベルト誕生
1798年:(28歳)5月、エジプト遠征軍司令官

      ----▼▼▼ ナポレオン戦争の時代 ▼▼▼----
1799年:(30歳)11月9日、ナポレオン
          「ブリュメール18日」のクーデター(※2、※2-1)。
        12月、統領政府の第一統領に就任。→フランス革命終結
▲▲▲フランス革命▲▲▲

1800年:(31歳)3月、フランス国立銀行設立。5月、第2次イタリア遠征。
1802年:(32歳)5月、イタリア共和国大統領に就任。
        5月、レジョン・ド・ヌール勲章制定。8月、終身統領に。
1803年:(33歳)12月11日、ベルリオーズ誕生
1804年:(34歳)5月18日ナポレオン皇帝に即位(第一帝政、戴冠式は12月)
        「ナポレオン法典」制定(※2-2)。
        春にベートーヴェン『交響曲第3番「英雄」』を作曲
        (ナポレオン皇帝就任で献呈を取り消す)
1805年:(36歳)10月、トラファルガーの海戦でイギリスに敗れる。
1806年:(36歳)7月、ライン同盟(※2-3)を結成し南西ドイツを保護下に。
           (兄ジョセフをナポリ王、弟ルイをオランダ王に)
           → 8月に神聖ローマ帝国滅亡(※10)。
        11月、大陸封鎖令(※2-4)。
1807年:(37~38歳)7月、ティルジット条約
             プロイセン(※10-1~※10-3)とロシアに強要。
           → 10月、フィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』を演説
                 シュタインらのプロイセン改革(※10-4)。
1808年:(38歳)5月、イベリア半島遠征
1809年:(39~40歳)2月3日、メンデルスゾーン誕生
          4月オーストリアに侵攻、5月ウィーン入城。
          5月31日、占領下のウィーンでハイドン死去
          12月ジョゼフィーヌと離婚。
1810年:(40~41歳)2月22日、ショパン誕生
          4月、マリー・ルイーズ(18歳)と結婚(※4-1)。
          6月8日、シューマン誕生
          7月、オランダ併合。12月、ロシアが大陸封鎖令を破棄。
1811年:(41~42歳)3月26日、ナポレオン2世誕生。
          10月22日、リスト誕生
1812年:(42~43歳)6月ロシア遠征、9月モスクワ入城。
            遠征失敗し12月に撤退
1813年:(43~44歳)3月ドイツ解放戦争開始。
          5月22日、ワーグナーがライプツィヒで誕生(※11)。
          10月ライプツィヒの戦いに大敗(※11)。
1814年:(44~45歳)4月ナポレオン退位、5月エルバ島に配流
          5月、ブルボン復古王制(ルイ18世即位)。
          9月ウィーン会議開始(対仏同盟側が欧州安定化を議論)。
1815年:(45~46歳)3月、エルバ島脱出しパリに入る。
          6月18日、ワーテルローの戦いに敗戦
            (※2-5、※2-6)。
          10月セントヘレナ島に配流(※2-7)。
      ----▲▲▲ ナポレオン戦争の時代 ▲▲▲----

1821年:(51歳)5月5日、ナポレオン没(セントヘレナ島)。

1824年:(--)ベートーヴェン『交響曲第9番「合唱付き」』を作曲
        5月7日に『第九』初演
1827年:(--)3月26日、ベートーヴェン死去
1828年:(--)11月19日、シューベルト死去
1830年:(--)ベルリオーズ『幻想交響曲』を作曲、12月初演
1833年:(--)5月7日、ブラームス誕生

-- 完 --

【脚注】
※1:ナポレオン1世(Napoleon I)は、姓はボナパルト(Bonaparte)。フランスの軍人・皇帝(1769.8.15~1821.5.5)。コルシカ島の生れ。砲兵士官としてフランス革命に参加。1796~97年イタリア征討司令官としてオーストリア軍を破り、98年エジプト遠征。翌99年クーデターによって統領政府を樹立、自ら第1統領と成り、1802年終身統領、04年帝位に就き第1帝政を開き「ナポレオン法典」を制定。06年にはライン同盟を結成し神聖ローマ帝国の命脈を絶ち、プロイセンを撃破してヨーロッパに覇権を確立するかに見えた(ナポレオン戦争)。しかし、イギリスに対する大陸封鎖は不成功に終り、12年モスクワ遠征の失敗に続いてプロイセン/ロシア/オーストリア連合軍に敗れ、14年退位してエルバ島に流された。15年脱出してパリに戻り帝位に復したが、ワーテルローの戦いに敗れ百日天下に終わり、セントヘレナ島に流されて没。フランスの近代化に貢献。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※1-1:ナポレオン戦争(―せんそう、the Napoleonic Wars)とは、ナポレオン1世が第1統領及び皇帝であった間に、フランスがヨーロッパ列強と戦った諸戦争(1799~1815)。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※2:ブリュメール(Brumaire[仏])は、フランス革命暦の第2月。霧月。
※2-1:ブリュメール十八日(―じゅうはちにち)とは、ナポレオン1799年11月9日(革命暦8年霧月18日)クーデターに拠り総裁政府を倒し、統領(執政)政府を樹立し、自ら第1統領(執政)と成って、軍事独裁権を獲得した事件。
※2-2:ナポレオン法典(―ほうてん、Code Napoleon)とは、民法・民事訴訟法・商法・刑法・刑事訴訟法に関するナポレオン1世制定の法典で1804年に公布。その内、民法がその代表的なもので、フランス近代民法の基礎を成すと共に、日本を含む諸国の民法にも大きな影響を及ぼした。
※2-3:ライン同盟(―どうめい、Rheinbund[独])とは、1806年ナポレオン1世の保護の下に、南西ドイツ領邦諸国が作った連邦。この結果、神聖ローマ帝国は消滅した。ナポレオンの没落と共に解体。ライン連邦。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※2-4:大陸封鎖(たいりくふうさ、Blocus continental[仏])とは、フランス皇帝ナポレオン1世が、1806年11月ベルリン勅令を発し、ヨーロッパ大陸諸国とイギリスとの通商断絶を命じて、経済封鎖を行おうとしたこと。大陸諸国も打撃を受けてフランスから離反し不成功に終り、ナポレオン失脚の一因と成る。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※2-5:ワーテルローの戦い(Waterloo Campaign)とは、1815年6月18日、英のウェリントン将軍の率いる対仏同盟軍が、エルバ島を脱出して復位したナポレオン1世軍をワーテルローで破った戦闘。この結果ナポレオンは最終的に退位し、セントヘレナ島に流された。
※2-6:ウェリントン(Arthur Wellesley, Duke of Wellington)は、イギリスの将軍・政治家(1769~1852)。インドとスペインで戦功を立て、1815年ブリュッヘル統率下のプロイセン軍と協力、再挙のナポレオンをワーテルローに破った。後に政界に入り首相
※2-7:セントヘレナ(Saint Helena)は、南大西洋の孤島。イギリス領。アフリカ南西海岸から西方1900km。面積122㎢。ナポレオン一世流刑の地

※3:ナポレオン2世(Napoleon II)は、ナポレオン1世の子(1811~1832)。母はオーストリア皇女マリー・ルイーズ。1世の後継者に指名されたが各国に反対され、ライヒシュタット公としてウィーンで生活した。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※3-1:ナポレオン3世(Napoleon III)は、名はCharles Louis Napoleon Bonaparte。1世の甥(1808~1873)。二月革命後の1848年大統領に選出。51年クーデターに依って独裁者と成り、翌年帝位に就き第2帝政を開く。イギリスと協力してクリミア戦争でロシアを挫き、一時ヨーロッパに覇を唱えたが、メキシコに遠征して失敗。70年普仏戦争に敗れて退位、イギリスに亡命して没。

※4:ジョゼフィーヌ(Josephine)は、ナポレオン1世の最初の皇后(1763~1814)。1794年、前夫ボアルネ子爵が革命裁判で刑死、彼女も投獄されたが政変で釈放され社交界の花形と成る。1796年ナポレオンと結婚。皇位継承者が生まれなかった為に離婚(1809)。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
 補足すると、ジョゼフィーヌはカリブ海のマルチニック島(当時フランス領)の農園主の娘。1783年にボアルネ子爵と離婚。32歳で6歳下のナポレオン(後の1世)と結婚した時は、14歳の男子と12歳の女子が居た。
※4-1:マリー・ルイーズ(Marie Louise)は、ナポレオン1世の2人目の皇后(1791~1847)。オーストリアの皇帝フランツ1世(=マリー・アントワネットの甥)の娘。ナポレオン2世の母。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※5:ラ・マルセイエーズ(La Marseillaise)は、フランスの国歌。1792年4月、フランス革命中のストラスブール守備隊の大尉ルージェ・ド・リール(Claude Rouget de Lisle, 1760~1836)が作詞・作曲。初名「ライン軍の軍歌」。同年8月のテュイルリー宮襲撃の際、マルセーユからの義勇兵がパリ迄の行進中歌い続けて広まる。1795年7月14日フランス国歌に制定。

※6:カール12世(Karl XII)は、(12世)スウェーデン王(1682~1718、在位1697~1718)。ロシアと北方戦争を行い、初めは連勝したが結局は敗れ、バルト海の覇権を奪われた。
※6-1:ポルタヴァ(Poltava)は、ウクライナ東部の都市。鉄道の要衝で、食品工業が発達。1709年ピョートル大帝がスウェーデン王カール12世を破った所。人口32万5千(1993)。

※7:W.シェークスピア/W.シェイクスピア(William Shakespeare)は、イギリスの劇作家・詩人(1564~1616)。エリザベス朝ルネサンス文学の代表者。ストラトフォード・オン・エーヴォンの生れ。青年時代にロンドンに出て初め俳優、後に座付作者として約37編の戯曲を創作。四大悲劇「ハムレット」「オセロ」「リア王」「マクベス」を始め、史劇「リチャード三世」「ヘンリー四世」、悲劇「ロミオとジュリエット」「ジュリアス・シーザー」喜劇「夏の夜の夢」(「真夏の夜の夢」とも)「ヴェニスの商人」、ロマンス劇「テンペスト」、その他に詩集「ソネット集」などが在る。晩年は故郷に隠退して平和な余生を送った。沙翁。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※8:フリーメーソン(Freemason)/フリーメーソンリー(Freemasonry)は、直訳すると「自由な石工」。アメリカ/ヨーロッパを中心にして世界中に組織を持つ慈善・親睦団体。起源には諸説有るが、18世紀初頭ロンドンから広まる。貴族・上層市民・知識人・芸術家などが主な会員で、理神論に基づく参入儀礼や徒弟・職人・親方の三階級組織がその特色。普遍的な人類共同体の完成を目指す。モーツァルトの歌劇「魔笛」などで知られる。フリーメイソン。
 補足すると、「広辞苑」では「慈善・親睦団体」と成って居ますが「現代用語の基礎知識(1999年版)」に在る様に、表向きの単なる「慈善・親睦団体」では無くやはり世界的秘密結社と言えます。起源はローマ時代(一説にはイスラエルの王ソロモンの神殿を築いた)の「石工組合」に在るとされて居ます。18世紀にはやはり秘密結社の薔薇十字団の会員が多数参加し、フランス革命アメリカ建国の原動力に成って居ます。
※8-1:理神論(りしんろん、deism)とは、世界の根源として神の存在を認めはするが、これを人格的な主宰者とは考えず、従って奇跡や啓示の存在を否定する説。啓示宗教に対する理性宗教。17~18世紀のヨーロッパに現れ、代表者はイギリスのトーランド/ヴォルテール/レッシングら。自然神論。自然神教。←→有神論、汎神論。

※9:サリエリ(Antonio Salieri)は、イタリアの作曲家(1750~1825)。オペラで成功ウィーンの宮廷楽長と成る。ベートーヴェン/シューベルトら多くの後進を教育。モーツァルト毒殺説は根拠のない伝説。歌劇「ファルスタッフ」「ダナオスの娘たち」など。

※10:神聖ローマ帝国(しんせい―ていこく、The Holy Roman Empire)は、962年ドイツ王オットー1世がローマ教皇ヨハンネス12世の手で帝冠を戴いて以後、1806年フランツ2世がナポレオンに敗れて帝位を辞する迄続いたドイツ国家の呼称。歴代の国王が神聖ローマ皇帝に即位。中世後期以来、諸侯が独立性を強めた為、大小数多の領邦に分裂、国家としての実体を次第に失った(962~1806年)。
※10-1:プロイセン(Preussen[独], Prussia[英])は、元来のプロイセンの地はドイツ北東部、今日のポーランド/ロシア/リトアニアに属し、スラヴ人の居住地であった。13世紀にドイツ騎士団がキリスト教化、ドイツから農民・市民・貴族を多く入植させて独特の領邦を形成した。宗教改革に依りプロイセン公国と成り、1618年にホーエンツォレルン家に受け継がれてブランデンブルク辺境伯領と合併、同家は1701年に神聖ローマ皇帝からプロイセン王の称号を得てプロイセン王国を形成。フリードリヒ大王の時代に強国と成ったが、ナポレオン1世に因って打撃を受けた。その後、鉄血宰相と言われたビスマルクの指導の下に1871年プロイセン王を皇帝とする統一ドイツ(ドイツ帝国)を成立させた。第一次世界大戦の敗戦と革命でホーエンツォレルン家は退位、王国も消滅した。第二次大戦後はその大部分が東ドイツとポーランドとに分割された。英語名プロシア(普魯西)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※10-2:ホーエンツォレルン家(Hohenzollern)は、ドイツの王家。シュワーベン地方の小貴族出身。15世紀初頭ブランデンブルク辺境伯と成って以後、北ドイツに勢力を拡大。1701~1918年プロイセン王、1871年以降はドイツ皇帝を兼ねたが、第一次世界大戦に敗れて1918年に退位。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※10-3:ドイツ帝国(―ていこく、Deutsches Reich[独])は、普仏戦争末期に当たる1871年に成立した、ドイツ統一国家。プロイセン国王ヴィルヘルム1世を皇帝、プロイセン首相ビスマルクを宰相とし連邦制を採った。1918年のドイツ革命でヴィルヘルム2世が退位して消滅。第二帝国。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※10-4:プロイセン改革(―かいかく、Prussia reformation)とは、ナポレオン占領下に、プロイセン王国で行われた行政・社会・経済改革。1807年以来シュタイン/ハルデンベルクらの指導に依り、封建的な農場領主制を廃止、同職組合を近代化して営業の自由を確立、陸軍を刷新、文化面ではベルリン大学を創立。後のドイツ統一の基礎と成った。

※11:ライプツィヒ/ライプチヒ(Leipzig)は、ドイツ東部、ザクセン地方の都市。1813年、ここでプロイセンを始めとする同盟軍がナポレオン軍に大勝。書籍出版/楽器製造/国際見本市で有名。ライプツィヒ大学(1409年創立)は、ゲーテ、ニーチェや森鴎外が学んだ所。J.S.バッハ所縁の聖トーマス教会、メンデルスゾーン所縁の世界最古のオーケストラのゲヴァントハウス管弦楽団(1743年創立)が在り、ワーグナーの生地。シューマンも一時住んだ。人口48万1千(1994)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『ナポレオン言行録』(オクターヴ・オブリ編、大塚幸男訳、岩波文庫)。

△2:『ナポレオン一八一二年』(ナイジェル・ニコルソン著、白須英子訳、中公文庫)。

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