城市 正雄(じょういち まさたか)
1455〜1551年 享年 97歳
勘助さま人気 |
1455年・・・・1歳 城一正常の次男として生まれる、通称・勘助。
1471年・・・・17歳 大内教幸(道頓)の乱で益田方として初陣を飾り、この戦いで猛戦し豊田二本松城(別名・横田城)の城主・豊田宗尭(とよたむねたか)を打ち取り攻略、安富小倉城の合戦でも多大な軍功を得る。
10代後半〜20代の間は甥・城一兼正(1459〜1530年・益田尹兼の参謀)を補佐し活躍したと伝わる、ちなみに甥の城一兼正は益田平野の水害を防ぐ治水工事を発案した事で有名。
「横田物語」によれば豊田宗尭、以降の当主は豊田二本松城を破棄したらしい。
1478年・・・・24歳 領家仲尭に替わり向横田領を与えられ、向横田の地頭となり居城を向横田片木城(むかいよこたかたぎじょう)から向横田頚ヶ滝城(むかいよこたくびかたぎじょう)へ改名する。
1551年・・・・97歳 1551年9月17日に亡くなる、法名は「哲明」、妻は立原義綱の娘。
晩年は民に農業を自ら進めて教え善政をし、民衆の評判はすこぶる良好の人気武士でとても長生きをしている、領地上、度々、益田氏と吉見氏の戦いに借り出されているが実に益田氏五代(兼尭→貞兼→宗兼→尹兼→藤兼)に仕えて、活躍したと言う。
なお「益田市誌」には城市氏で統一されてあるが、城一氏が地頭を努めた本場の「ふるさと真砂誌」には本家の系統が「城一」で向横田へ移ったのが「城市」と区別するべく改名したらしい、益田市誌より神妙制が高い「真砂誌」の案を採用した、またその後、名字が「城一」では名字と名前の区別が付きづらい点から子孫は「城市」へ改名したのがどうやら本筋である。
勘助際順番帖 ここには城市正雄(勘助)が死亡した1551年から2年後、1553年に本格的な墓ができて以来、2003年に450年を数える、勘助さまを称える祭りの帳面がある |
1912年(明治45年)2月27日 祠を改修し大佐古氏の門へ移す。
1937年(昭和12年)3月11日 大佐古氏は高津川改修工事の為、祠を10番地の1に移転する
1955年(昭和30年)7月 祠が老朽化したので椋木氏が改修する。
1976年(昭和51年)4月16日 石川氏の田圃にある、参道の改修をする。
1978年(昭和53年)5月5日 自分の祖父が霊社を改修する。
1980年(昭和55年)3月23日 霊社の土台が出来る。
1985年(昭和60年)6月2日 勘助さま誕生530年になり、盛大に大祭が行なわれる。
2005年(平成17年)11月5日 勘助さま誕生550年となる。
始祖 | 楠正遠 | → | ・・・・ | → | 初代 | 城一正常 | → | 嫡子 | 城一正延 |
→ | 正常・次男 | 城市正雄 |
城市 正雄 (勘助) じょういち まさたか (かんすけ) 誕生550年 企画
もう一度、勘助さぁを認識しましょう。 2005年11月5日付け
@ 勘助さぁの生まれ・・勘助さまは真砂の原邑で城一正常の次男として生まれました。
A 城一氏は先祖には南北朝の時代から活躍した楠正成などが有名です(皇居に銅像があります)、また城一氏は戦国期には益田重臣の中ではもっとも名が知れ渡った一族でもあり、山口の殿様・大内義隆の遺児・大石義胤や江津の大名・福屋隆兼の娘が落ち延び頼りにするほどの武将でした、一族には益田貞兼(藤兼の曽祖父)の軍師として最強の名を欲しいままにした城一兼正や岡見茶臼山城を授かった城一正賀などがいる名門です。
B 勘助さぁの軍功・・これは石川利保おじーさんが調べ切れなかった部分でもあります、残念ながら九州に進軍した事実は見つかりませんでしたが、1471年に益田軍の先陣に入り横田上野の豊田ニ本松城の城主・豊田宗尭を討ち滅ぼした戦功が向横田頚ヶ滝城の城主しとて入る結果となります。
C 勘助さぁの名字・・現在では城市と名乗る名字は多数いますが、益田周辺では城市と名乗ったのはほぼ間違いなく勘助さぁがはしりではないかと思います、それは本家の真砂・城一氏と向横田・城一勘助が間違わないように名字を「城一」から「城市」と改名したのです、戦国期ではけして珍しい事ではなく有名所では四国・高知の長祖可部氏の分家が香祖可部氏となっています、江戸時代に入ってからは本家・城一氏が名前と苗字の区切りが分かり難いと言った理由から名字を「城市」で統一します、しかし城市の名のはしりが勘助さぁとは現在ではあまり知られていません。
D 勘助さぁの政治・・これは言い伝え通り間違いなく善政を敷いていたと言えるでしょう、地形からしても勘助さぁの時代に現在の向横田の形式が大体固まったと思われます、その昔、戦国期までは頚ヶ滝城と名が示すとおり、川が城を囲むようになっていて突き出る山は人間の首のような形式からこのような名前が付いたと考えられます、それで昔は大佐古氏の家の周辺から水津の捨て溝周辺に抜け後川に合流していたと推測できます、川の向きが江戸時代にはもう現在の形式になっている事は「横田物語」や「ふるさとの歴史と伝説」などであゆ漁を巡っての神田や横田との対立や喧嘩などの騒動で分かります、しかしまだハッキリした事は分からないので調べる余地はありそうです。
以上が最近調べた史料の結果です、これからも勘助祭を盛り上げるうえで細々と続けて行きましょう。
「陰陽散策会」オーナー 向横田上組 眞庭 太樹