石見の名将・吉見正頼の画像吉見 正頼  1513〜1588年 享年 76才

(よしみ まさより)

●色が吉見氏・他家、関係

●色が正頼・関係 ●が広頼・関係 ●色が正頼・広頼の関係
まず吉見家の過程を辿るに当って、これだけでは書きとめて置かないと、人によっては見方が変わってくると思うので・・
山口館事件・・吉見信頼
1513年 1歳 吉見頼興の五男として生まれる、その後まもなく津和野興源寺に入り、周鷹(しゅうおう)と名乗りお坊さんになる。
1532年 20歳 父、吉見頼興が亡くなる、享年73歳、兄・隆頼が家督を継ぐ。
1538年 26歳 兄・隆頼が祇園会を復活させ、社殿を改築する。
1540年 28歳 兄・吉見隆頼が亡くなり(享年41歳)、吉見家の家臣達が協議した結果、次男・三男より四男・周鷹が当主に相応しいとの事で家臣が一致団結しその事を主君・大内義隆へ伝えて義隆も承諾する。
周鷹(正頼)は家臣の説得によって還浴し吉見家11第当主・吉見正頼と改め、手腕を振るう事となる。
16ヶ条なる吉見家掟書を発行。
1541年 29歳 正頼が疫病を払う為、「鷺舞」(さぎまい)を舞わせ、祭りを行った。
嫡男・広頼が生まれる。
 
ここで疑問、光栄の文書では吉見広頼は1535年、生まれになっているがそれは間違いである可能性が極めて高い・・理由、1554年正頼の嫡男・亀王丸が人質になっているが、仮に1535年生まれなら二十歳であり、もっと前に元服しているハズだし、しかも初陣が29歳ではあまりにも遅すぎる、津和野物語の資料が1545年と記述してあるしかし、津和野町史が一番信憑性が高く1541年説を書く。
1543年 31歳 大内十三部隊の一員になるが経久の遺作に掴まり敗北、第一次月山富田城の合戦。
1551年 39歳 8月10日 義隆側近・相良武任(さがらたけとう)が吉見正頼の元を尋ね、陶晴賢が謀叛を起こすは確実であり、その時は義隆を助けて欲しいと伝える。
9月1日 陶晴賢の謀反で大内義隆は自害へと追い詰められ死亡する。
10月2日 事件が勃発すると動揺する吉見家を計ったの如く、益田藤兼が吉見家の支城・能登呂山城(のとろさんじょう)を攻めてきたが吉見援軍として下瀬頼定・長嶺氏・上領氏・倉益氏が掛け付けたのでどうにか撃退できた。
 
1552年 40歳 5月 正頼の義理兄・大内義隆を殺した陶晴賢を反逆人と言い、陶晴賢打倒へ立ちあがる、そこで正頼は毛利元就・隆元へ援軍を送ってくれるよう家臣の下瀬頼金を吉田郡山城へ差し向け懇願するが毛利家も家運が掛かっているだけに慎重な対応をし、結局ハッキリした返事は返さなかった。
1553年 41歳 10月 遂に正頼は天下に「陶晴賢打倒」を宣言し大内家から独立する、まず正頼の家臣、嘉年勝山城・下瀬頼定と波多野滋信が進軍し高見原において敵将・町野隆風と戦い勝利し、下瀬頼定は吉部の池田峠でも陶軍を撃退した。
1554年 42歳 3月2日 津和野城三本松の合戦
益田藤兼が諜略戦を仕掛けてきたがこれに屈せず和議にまで漕ぎ着けた。 
1556年 44歳 陶晴賢と講和の後、津和野三本松城を改修し、密かに大内家へ人質へ出されていた広頼を助け出した。(広頼 14歳)
3月 阿武郡吉部、奈古へ進軍。
阿武郡へ進軍し大内軍が守る平山星城(ひらやまほしのじょう)を攻めて城主・町野隆風を降伏させ、続いて嘉年城も攻略し高佐地方も大内軍から奪え返した。
4月 大井郷へ進軍。
家臣・上領頼兼(休世)へ命じて黒谷横山城で益田軍と合戦が行なわれる。
1557年 45歳 正頼は阿武郡へ攻め込み、勢いに乗り山口へ攻め込んだ。
山口館で大内軍の家宝は吉見軍が押収し毛利元就へ献上した模様。
3月 毛利元就へ会い、臣下となる。

3月21日 毛利元就は正頼を山口侵攻で最大功労者と称え、宴を模様した。

3月22日 正頼は第一軍功者として、攻略した阿武軍全部と厚東・佐波郡の一部を元就から任される。
正頼は佐波郡、下徳地・10石米を東福寺の師僧に交付
1563年 51歳

正頼の嫡子・広頼が初陣を向え、共に尼子義久を攻め、馬潟原(まがたばら)にて本田氏を討ち取る。(広頼 23歳)

1570年 58歳 正頼は佐波郡、下徳地の御坂八幡宮を再建した。
1571年 59歳 正頼、大友軍と赤間関で戦う。
1572年 60歳 足利義昭に正頼の宝・大鷹を進上する(この大鷹は正頼が日向から入手した黄色大鷹である)
1574年 62歳 広頼の嫡男・元頼が生まれる。(広頼 34歳)
1577年 65歳

正頼・広頼、四国の讃岐へ出陣。(広頼 37歳)

1579年 67歳 広頼、備後・美作へ出陣する。(広頼 39歳)
1582年 70歳

広頼の次男・広長が生まれる。(広頼 42歳)

1582年 70歳 正頼・広頼は備中高松城を救援する為へ出陣。(広頼 42歳)
これが正頼、生涯最後の出陣だと言う。

 
戦国時代の意気盛んな武士の横顔が見える様である、ライバルの益田藤兼は43歳で実質、合戦とは遠ざかり、以後の戦は息子の元祥に任せているが、元々病弱な広頼に合戦を全て任すのは酷と思っていたのか正頼は70歳まで合戦でも指揮を取っている、ちなみに鬼神・経久は75歳、中国地方で最高齢で戦場で戦った男は、応仁の乱で細川勝元の軍で大活躍し「鬼吉川」の異名を取った吉川基経は90歳と言う高齢で元就初陣・有田合戦に出陣すると言う、まさに戦国の武将には老いが関係なかったのだろう、大病さえしなければ合戦に向ったとは今の時代では考えられない。
1586年 74歳 九州征伐において、広頼は吉川元春・小早川隆景と共に島津の属城・香春獄城を攻め攻略した。(広頼 46歳)
羽柴秀吉から九州出兵の命が出るも毛利輝元が「初詣で行方不明」と書いた書状があり輝元なりに老臣・正頼を労わっていた事が分かる。
1587年 75歳 広頼は小田原城攻めへ参加する、毛利水軍に加わり下田・韮山城へ攻撃を加える。(広頼 47歳)
1588年 76歳 5月22日 正頼は萩指月城で亡くなる、後に墓は大井串山へ移された。(享年 76歳)
 晩年は萩指月城へ移り、余生を送っていた、その活躍から晩年には毛利輝元へ様々な助言をして吉見家の地位を安定へ導いた。

吉見正頼の花押

石見武将の能力

蒼天禄

政治

統率

智略

吉見 正頼

69

50

75

吉見 広頼

62

32

43

(吉見 正頼の花押。)             


                                       戻ります。


吉見氏
兄・高津氏の祖 吉見成世
7代 吉見成頼 8代 吉見信頼
次男 吉見宗頼 次男・9代 吉見頼興 長男 吉見成興
三男・大野原 吉見弘景 枕瀬 岸田頼貞 次男・10代 吉見隆頼
広石 吉見成廉 三男・坊主 伝法寺威俊
朝倉 吉見頼安 四男・坊主 東光院周信
五男・11代 吉見正頼
六男・家老 吉見頼盛
七男・矢 富 吉見頼員
八男・指 月 吉見頼実
九男 吉見範弘
落胤・大 井 伊藤頼俊

12代・嫡男 吉見広頼 13代 吉見元頼
次男・14代 吉見広長
頼員の子 吉見隆宗 長女 吉見矢野子
吉川広家の三男、養子・15代 吉見就頼
頼実の子 吉見頼重









吉見 広頼 時代 1541〜1612年(以後は広頼の年齢記入していく。)

1592年 52歳 3月 朝鮮出兵の際、広頼は病弱だったので、嫡男・元頼が向う。(元頼 18歳)
4月13日 元頼は肥前名護屋へ到着した、その後、壱岐・対馬を経て釜山へ向った。

5月3日 元頼、釜山へ到着する。

1593年 53歳 1月26日 元頼は京城(朝鮮)に行き、毛利元康と共に開城府口で明軍4万あまりと交戦し撃退した。(元頼 19歳)

4月2日 日本全軍は朝鮮軍と講和が始まり日本へ引き上げた。

1594年 54歳

広頼の嫡男・元頼が亡くなる、享年20歳、家督は弟・広長が継ぐ。(広長 13歳)
 
元頼が早死にしたのは広頼からすれば大打撃だった、実質、広頼は病気がちだったので家督を長い年は継いでいない、それだけに自分に代わってという意味でも元頼に期待していたが、早死にしてしまった、この死には元頼の母方が半狂乱したと言われるぐらい吉見家へ暗雲を立ち込ませた、そして問題の当主・広長が登場するのである。

1597年 57歳 2月 吉見広長は第二次・朝鮮出兵のさい毛利秀元の隊に入り、吉見家臣・下瀬頼直と共に出陣した。(広長 16歳)
8月 南原(朝鮮)で激戦になり孤立した吉見広長を下瀬頼直が奮闘し救出した。
9月5日 稷山で総功戦が行われ、撤退を始めた敵を吉見広長は追撃し活躍。
12月22日 蔚山城の戦いで浅野幸長が守っていた城を朝鮮軍4万5000人が包囲したが毛利秀元が援軍に掛けつけ包囲網を打ち破った戦いでも吉見広長は活躍、豊臣秀吉から「朱印状」を貰う。
1598年 58歳 11月、吉見軍は津和野へ帰還する。(広長 17歳)
1599年 59歳 長門一国が毛利秀元へ与えられたのが納得できない吉見広長は出家した、やむを得ず病気がちの広頼が再び家督を継ぐ、広長は安芸で監視の元、謹慎させられる。(広長 18歳)
 
実に突発的な行動を取る広長に困惑する吉見家臣団と父・広頼は大変困ったらしい、こじ付けとは言え、毛利直轄軍に属する吉見一族である、病弱で療養していた広頼がこの年齢でまた当主の座に返り咲くとは思ってもいなかったろう、病弱ながらも広頼は表向きの政治をこなしていく。
1600年 60歳 関ケ原の合戦では毛利秀元の軍へ従い、広長は進軍した。
1604年 64歳 謹慎処分が解かれたま広長はまたも出家し吉見の本領はついに途絶える、しかし父、吉見広頼の隠居領1139石が与えられていた為、お家断絶とはならずにすむ。(広長 23歳)
1612年 72歳 広頼が亡くなる、享年72歳。
 
病気がちとは言え、長寿をまっとうした広頼、晩年は妻の死、嫡男の死、次男の短慮行動と様々な難題へ悩まされとても幸せとは言えない一生だったが、腐らず、吉見家を後押しした行動は並大抵ではない根気が必要であったと思われる。
吉川広家から養子を貰い、家督を吉川政春に継がせ吉見就頼と名乗らせた、その後、毛利の名字を名乗り、大野毛利氏として吉見家の血筋は残る。
 
吉見広頼は実に短慮な行動をする息子・吉見広長に吉見家を継がせるのを危惧し、それならばと毛利の重臣・吉川家から養子を貰い安定政権を目指すのである。

吉見 広長の時代 1582〜1618年(以後は広長の年齢記入していく。)

1617年 36歳 吉見広長は放浪したのち帰還し毛利輝元へ許され吉見家を継ぐ。
1618年 37歳

広長は「輝元毒殺疑惑」が持ちあがり不穏な動きを見せ、一家と共に自害する、享年37歳。
 
父・吉見広頼が危惧したように吉見家は断絶してしまった、家督を吉川家の養子へ譲っていたのは紛れもなく正解であった、少なくとも血筋は大野毛利家として残ったからである。

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