8月17日(日)カブールへ
朝、昨日の残りのカレーとナンで朝食。今日、私は、イブラヒムと、運転手のアジマルと、設計おじさんのナシェルと一緒に、カブールへ行く。私だけ動き回らせてもらって磯部さんに悪いけれど、うれしい。カブールへ行く途中の道は、現在、日本政府の「退避勧告」指定となっている場所も通るという。今度行くダライヌールもその「退避勧告」地域だという。まぁ、まぁ・・・。
道はほとんどが、砂、砂礫・・・砂漠みたいな様相の山々である。アフガニスタンは思っていたより、ずっと乾いている。ずっと砂漠だ。本当に乾いている。私のこれまでの範疇にはなかった光景だ。乾燥しきった山々。これから先に、木が生えることなんてことも、きっとないだろう。土ではない、砂礫の山々だ。でも、手前に流れている川岸にはトウモロコシ畑が広がり、働いている人々が見えた。逆光の中の笑顔が見えた。いい風景だった。きびしい自然の中のほんの一部、耕す土地を見つけて人々は精一杯耕している。そんなわずかな土地に、彼らの命は支えられているのだろうか?
降りて写真を撮りたかった。でも、いちいち停めるわけにはいかないし・・・と。この壮大な厳しい自然と、そこに生きる人々の姿。長倉さんの写真が思い浮かんだ。一面の小麦畑に立つ少年の写真。あれは、足で歩かなくちゃ撮れない写真だ。長倉さんは、あの髭面で、心も体もアフガン人の中に入り込んでいるからこそ、撮れる写真なのだ。
しかし、ちょっぴしうまい具合に?パンクした。「これがパンシールへの道だよ」とナシェルが窓から指さした、乾いた大地と川の織りなす壮大な光景、その直後、見事に左後輪がパンクした。運がよかったことに?そこは、車の修理屋が集まっているところだった。停車して修理。(あまり、うまい場所でパンクするので、修理屋がわざと釘をまいているんじゃないか?と言う人もいたが・・・)。私が降りると、それこそ回りは、「物珍しい」目でいっぱいになった。私は、「カブールは都会だから、外国人もいっぱいいるし、普通の格好でいいんですよ」と言われたので、普通のズボンにTシャツ、長袖のシャツを羽織っていた。さすがにシャワールとよぶスカーフだけは巻いていたが・・・しかし、ここはカブールではなく片田舎。修理工のおっさんたちは、物珍しげな顔でこちらを観察している。少し親しげな笑いが浮かぶ。こっちも笑うと、髭面がオイオイと手招きして、「撮ってくれ」とばかりに「気をつけー」をする。撮るとにっこりとする。すると、向こうの髭面も手招きをして、「気をつけー」をする。
修理工は2人の少年たちだ。きっと兄弟だろう。同じような顔をしているが、2人とも実に汚い顔をしている。修理でまっくろなのだ。彼らは、きっとまだ12,3歳の少年たちだが、2人だけで修理をしている。イブラヒムに「彼らはまだ少年だよね。でも、働いているね」と言うと、「きっと、戦いで父親を亡くして、兄弟で働いて家族を支えているんだろう」と言う。確かにそうかもしれない。兄弟はにこりともしない。本当にひたすら必死に取り組んでいる。顔がすでに人生の皺を刻んでいる。小さい頃から、必死に必死に大人にまじって生きてきたのだろうか。
イブラヒムが「パンクでついてないね」と言うので、私は「でもね、私はとっても楽しいな。外に出られるんだもの」と言う。イブラヒムは「そうだね、君は、どこでも平気だね」と言った。待っている間、男たちが椅子を勧めてくれた。「シンチャイ・スキ?(お茶を飲むか?)」と言うので、私は一生懸命「シンチャイ、フアキーギ(お茶スキだよ)」と答えた。すると、イブラヒムがあわてて断っていた。見知らぬ人にでもお茶を勧めるのはお客を大切にするアフガンの礼儀であるらしいが・・・それを断るのも礼儀であるらしい。私は、座ったり立ったり動き回っていた。その日、ラッキーかアンラッキーかわからないが、2回もパンクしたおかげで、車の中から別世界を眺めるのではなくて、一歩同じ道の上に立てて、同じ空気を吸えたようで、それだけで私はうれしかった。
カブールに近づくと、まるで、北アルプスの頂上あたりのガレ場の、激しい褶曲の岩壁の風景が連なっている・・・そんな風景である。市川さんが「圧巻ですよ」と言っていたが、確かに圧巻だ。ガレの山々の間を縫って、道が上っていく。ところどころに戦車が大きな屑鉄と化し、放置されている。ソ連のものだそうだ。また、自然の石がごろごろしたガレ場かと思って見ていると、石を並べたお墓だったりする場所もある。家々がすでに崩れてしまったものもある。以前は村があったのだろう・・・廃墟と化している。長年の戦争、または干ばつなどでで、移動した場所なのだろうか。砂礫の土地に建てられた、土と石から作られた家は、風化したら、土と石に、そして砂粒に戻っていくのだろう。家の跡も墓も、時間がたてば、この乾いた砂礫の風景の一部に、また飲み込まれてしまうのだろう。土に帰っていくよりも、もっとかさかさした、そして、厳しい印象を受ける。
カーブルは、もっと都会かと思っていたが、それほどでもなかった。カブールでは普通の格好でいいというので、もう、みんなジーパンで顔を出し闊歩しているのか?と思ったら、女性は洋服を着てはいても、シャワールはしていた。外国人レストランでも、シャワールはかけている。確かに外国人は多くいる。日本人の団体も見た。いろいろな人が入っているだけに、外国人が「異物」を見るような目で見られることはない。しかし、町に入るちょっと手前までは、やはり、物珍しげに見る人々だった。
カブールの中心地には、山がそびえている。そんなに高くはないが、首都カブール中心として、かなり存在感がある。乾いた山の斜面に、石の家が並んでいる。かなり、古くからできた住宅地だろう。その麓にある道沿いの建物は、爆弾が的中したのだろう、壁が激しく崩れ落ちたままである。その近くにある学校を指さし、イブラヒムが「これは僕が通っていた高校だったんだ」という。空爆でもう学校としては使えないという。その奥の、やはり、崩れ落ちた建物の一角に、ライラが働くSVAのオフィスが、アフガンのNGO、ネジャットセンターの上にあった。ライラも西洋的な雰囲気の混じった、エキゾチックで知的な女性である。アフガニスタンの人々の顔は本当に不思議だ。民族の交差点なのだろうか?東洋と西洋の血が混じっているせいか、捕らえがたい不思議な魅力がある。
公立図書館につれていってもらう。しかし、入り口の看板を見ると、その図書館Public Libraryの文字よりも、Internetcafeの文字の方が、3倍くらいの大きさにかかれているのだから、今の人々の関心度を表しているようだ。子どもの部屋に行った。そこには、SVAの図書室と同じくらいか、それよりは多いだろうけれど、たくさんのイランの本があった。
ライラの話では、ペルシャ語とダリ語はほとんど一緒だから、イランのペルシャ語の本はそのまま使えるという。この図書館のペルシャ語の本は全部、イランの一人の女性が寄贈したものだそうである。その図書館のスタッフ、(3人の女性がいたが、みんな目の下を真っ黒にする化粧をしていて、全然暇そうに座っていた)を、イランに呼んでワークショップをする計画もあるのだとか・・・・?
パシュトゥー語、ダリ語の本というのは、ほとんどない。BBCが印刷したという絵本しかないようである。その他には、古い本では、以前に発行されていた子供向けの雑誌がある。アフガンの話というよりも、外国の子どもの写真が入っていたり、詩とか、翻訳のものが多いとか。自国の文化よりもよそに目を向けた感じの雑誌である。他に、やはりイランで印刷された、読み物の本もある。学校がある時期には子どもたちがくるそうである。貸し出しはしていない。どう見てもアクティブではなさそうなスタッフを見て、ラオスの国立図書館の最初の頃を彷彿とさせた。
アフガニスタンの2つの公用語、ダリ語とパシュトゥ語。イランのペルシャ語とダリ語が近く、パシュトゥ語は異なる言語・・・、そして、ライラの話では、他に39の言語があるという。パシュトゥ語は、パキスタンとの国境をまたぎ、そして、ダリ語は、ペルシャ語の物をそのまま利用できる。これは、ちょっと難しい問題かもしれない。今、カブール、いや、今の政権の中心を握っているのはダリ語文化の人々が中心だという。タリバンがパシュトゥであるから、今、パシュトゥは憂き目にあっている??カブールは、元々ダリ語が中心だったのだろうが、小学校でもパシュトゥ語のクラスは一つだけで、あとは全部ダリ語だとか・・・・
それにしても、イスラムと絵本はつながらないのかと思っていたが、そんなことはなかった。すでに、イランでこんなに印刷物が出ているのならば、絵本を持ち込むことに、何もそんなに神妙にならなくても平気なのかもしれない。それは、一つの安心材料である。
ライラが、「アクバル(ACBAR)」という団体に連れて行ってくれる。これは、まだよくわからないが、モーバイルライブラリーやっているというのである。しかも各県で。箱に200冊ずつ本を入れて届け、そして巡回させているという。どれくらいアクティブなことなのかはわからないけれど、少なくも、すでにそうした活動をやっている団体があるということは、なかなかすごいではないか。対応してくれたおじさんはなかなか誠実そうで、一生懸命説明してくれた。そして、「小さい子は、本を渡しただけでは、読めない。遊びの中で本を取り入れていかないといけないけれど、それができる人は、あまりアフガンにいない。大きい子ならいいけれど、小さい子には、本を渡して、読まないからといって、叱っても仕方ない」とおっしゃった。へぇ・・・と、私は感心したわけであった。高飛車でない、いいことをおっしゃるではないか・・・彼の奥さんは、幼稚園の先生なのだそうだが。
ゲストハウスは、どこもいっぱいで、3軒目にやっと空き部屋があった。他にもゲストハウスをやっている人で、商売になると踏んだらしく、新しく開いたばかりのゲストハウスだそうで、とりあえずベッドを昨日置きました・・・とそういう感じである。明るかったので道沿いの部屋を選んでしまったが、ほこりと音が入ってきた。それよりも、もし何か起こったら、道沿いが一番危ないかもなぁ・・・と今更ながら思ったが、まぁ、今晩だけだから、もういいことにしよう。
ゲストハウスには、私と、今日から半年間滞在するという、フィリピンのADBの専門家のおっさんと、このゲストハウスのマネージャー・・3か月前に、パキスタンから19年ぶりに戻ってきたという30代の背の高いアフガン人の3人がいた。彼の家は、このカブールの地主、名家だそうだ。3人で一緒に食事をしたのだが、彼は自分の悲恋の物語を延々と話し続け、(そういえば、この顔は病んでいるかもなぁ・・・という感じ)、パキスタン人の彼女と彼の恋が実らなかったのは、自由恋愛が許されず、親に従わなくてはいけないという、昔ながらの慣習が生んだ悲劇であり、彼はあきらめきれずに、彼女の名前を千回も壁中に書きまくって、新聞に投書までしたという・・・・
話は興味深くは聞いたが、最後にはうんざりしてきてしまった。きっと毎晩、彼はこの悲劇を語るのかもしれない。それを聞くのも大変そうだな・・・と、これから6ヶ月間このゲストハウスに泊まるという、フィリピン人のおじさんはたいへんだろうなぁ・・・と思った。
それにしても、彼のように元々お金持ちだったアフガン人は、これまで国を離れて、教育を受け、命の危険もなく暮らしていた。そして、今、カブールに戻ってきたばかりだというのに、またいい商売をはじめている。ADBだ、国連だ、NGOだと、外国人がやってきて、ホテルに金を落とす。結局儲かるのは元から金持ち帰国組・・・なのではないか?ずっと国にいて、日々戦い苦しみ、死に直面した人々が、相変わらず貧しくて大変な状況にいる・・・どこでも、あり得る話ではあるが・・・そんなことを思う。
きっと、カブールはどんどん変わるだろう。物も多いけれど、すでに物乞いの人々も多い。そして、外国人がたくさん入り、UNの車がうんざりするほどあった。それを見て、設計のおじさんは「国連は巨大な資金を注ぎ込んでいるけど、ほとんど車と自分たちのスタッフの給料だ」という。そうであろう。
確かにジャララバードのあの頑固さは、一時代前のものである。だが、あぁして守ってきたものがあるということは、なにやらすばらしいようにも思える。しかし、その頑固さの中で見えない部分がよくわからないし、女の立場が本当にどうなのか?そのあたりがよくわからない。確かに女が働くにはハードな地域である、ということは確かであるが、外国人が入って、いきなり批判をするというのもやはり違うだろう。
カブールに来ると、ジャララバードの奇異な人慣れしない光景が、少し懐かしく思い出されるのも、また不思議な気がした。