8月23日(土)ダライヌールの1日
朝5時に起き、5時半オフィス集合という。私たちが行ったのも6時前だったが、誰もいない。まず、運転手のアジマルも来ていない。もう一台レンタルしているピックアップの茶毛のおじさんの車に乗って出発。すると、道の向こうからアジマルがにこにこと歩いてきた。リキシャーが見つからずに遅れたとか。なにやらこんな調子で、みんな集まるのかなぁ・・・と思ったが、結局最後には、遅れた人々も、みんな拾い集められて村に来ていた。こんなところは、アジアだなぁ・・・と思う。
村に行くのに、小麦粉、砂糖、油などをおみやげに買って行く。大勢で押し掛けるから、村に食糧負担とならないように、だそうだが、モンの村に行く時に、肉なんかを買っていくのと同じである。
私はアジマルの隣に乗るのが好きだ。彼は元軍閥の運転手をしていたそうで、あちこちに知り合いが多いようだ。年がら年中、すれ違う車、すれ違う人々に手を挙げて挨拶している。茶色の髪に少し白髪が出ているけれど、ロッド・スチュアートみたいに髪が立っている。アフガンは道が悪い上に、馬鹿でかいトラックがびゅんびゅん行き交う。アジマルは、「えぇ?アニキ、ここでまた追い越しかい?」って感じの所で、ガツガツ、トラックを追い越していく。確かに運転はうまい。しかもカーステレオから響くイランやらアフガンの歌が、どうも闘争心をそそっているようだ。しかし、本当はこんなことで喜んでいてはいけないのだけど・・・・。
さて、結局、私とえりさんとワヒドと、そして、途中で待っていたカビールが一緒に車に乗って行く。ダライヌールまでは車で1時間半ほど。そして、そこから歩いて30分ほどだそうだ。
途中の景色。またまた砂漠のような乾いた景色。その中に土壁で囲まれた砦のような家がある。こんな乾いた中にどうやって住めるのだろうと思う。と、ふと道路の反対側を見ると、畑が広がっていた。不思議な気がした。あちらには水があり、こちらは廃墟?・・と思うと、そうでもないらしく、人が住んでいる様子がある。反対側に畑を持っているのかもしれないが、やっぱり不思議。中は見えない。こうして壁に囲われた中の世界。もしかしたら、壁の中には井戸があったりして、そこには緑も植えられていたりして生活しているのだろうか?・・・そんなことがとにかく見えないのである。
途中、大きな丸石がごろごろしている。山肌の、曲がりくねった褶曲山脈の岩肌とはまるで違う。川だったのだろう。今はただの石ころの大きな河原?だ。水があるときは流れるのだろうか?
山肌の岩だと思っていたが、よく見ると、どうも人の手でたてられたらしい平らな岩が並んでいる。墓標だ。そう気がつくと、あぁ、延々とあるではないか。何も刻んでいないただの石をたてているだけだから、こんな砂礫の山々の中では、自然の景色かと思ってしまう。ダライヌールの村に入っても、村の家々の間に、なんと墓地の多いこと。中には飾られて誰のお墓かわかるものもあるけれど、そうでない、石がただ立てられたものが多い。まるで延々と続く化野念仏寺みたいな光景である。いかに死んだ人が多いということか・・・ただでさえ自然が厳しいのに、殺し合いも絶えない。ここでは、死は遠いものではなく隣あわせなのだ。そんな石をおいただけの墓は、じきに回りの砂礫の山の風景に同化してしまうだろう。人間の人生は、本当にちっぽけなものだ。長かれ短かれ、人は生き、そして、人は死んだら、砂粒に戻っていく・・・・・ただそういうことなのだ。
車を降り、やっと歩けると思うと、うれしい。私もここ数週間のことではあるが、車に乗るか、どこか屋内にいるかの生活だったから、足がなまったように感じる。多少、奇異の目で見られるにしても、やっと同じ空気の中で、人々と接することができるような気分がする。ダライヌールの谷には、畑が一面に作られ緑が美しい。高い青空の下、目に痛いほどの緑が広がる。
スタン村。男の子たちが木陰に並んでいた。青空教室だ。男の子たちは小川近くの木陰のわずかな平らな土地で、女の子たちは、もう少し道を上った木陰で勉強していた。先生たちは全員男。先生たちは、みな立派な髭を生やし、神妙な面もちをしている。哲学者のようでもあり、銃を持たせたらムジャヒディンの戦士になりそうでもある。小学校の先生というイメージではない。特に「絵本のお話」なんて、この人たちがやったら、てんで不釣り合い・・・という感じの人々ばかりだ。
教室も職員室も当然ないから、ござを敷いて、そこでお茶など出してくれる。
まず、カビールがはじめる。カビールは今日は白い帽子をかぶり、彼もなにやら哲学者みたい。片方の手を胸にあて話しはじめた。何の話をしているのかはわからないが、とにかく落語をやっているのではないことだけは確かだ。神妙にまじめな話をしている。あんまり長い。彼は本箱が届くのを待っているらしい。数ヶ月前に、SVAは学校図書活動用に本箱(開閉式の箱で、中に本が入っている)を配布したのだが、ここは校舎がなく青空教室なので、誰かの家にしまってあり、それを今取りに行っている。図書箱が来たら、彼は絵本の読み聞かせをするのであるが、その前のまじめな話がこう長くては大変だ。
では、先にやりましょう・・と、私が出た。視線が集まる。到着した時からずっと、先生たちも男の子たちもみな、私のことを、「どこか異次元の、受け入れがたい人」という視線で見ていた。物珍しそうな、でも、警戒心のある目つきであった。
私は前に出ると、最初は片言のパシュトゥー語で、「サラームアレイコム、ズマヌム・キヨコディ。ザ・ダ・ジャパナ・ラグレ・イエム・・(こんにちは。私はキヨコといいます。私は日本から来ました)」と挨拶をする。あれ、なんだか、へんてこな人が出てきたぞ・・・とちょっと警戒がゆるむ。「スタソ・キタブナ・フアキーギ?(本、好き?)と聞くと、みんなオォ(はい)と答えてくれる。そして、「ザ・バ・タソタ・ジャパニ・ケセ・ウアヤム(私はみんなに日本の話をします)」というと、オォオォと、子どもたちの目が次第に興味津々の目に変わってくる。
まずは「おおきなかぶ」の絵本を取り出し、ページを開く。おじいさんが植えたかぶを指さして、「アローコシェ(これ、何だろう?)」とパシャイ語ではじめた途端に、空気が一気にゆるむのがわかる。かぶの絵本を引っ張り出したら、もう、うれしそうに大きな目を開き、後ろの子は立ち上がって乗り出している。おもしろいのは先生方で、あの、くそまじめな感じの、木の枝を鞭にしている哲学者や戦士の顔の人々が、笑っているのである。こんな絵本などパシュトゥーの文化と受け入れない!と言われたらどうしようか・・・と思ってきていたのだが、こんなのは見たことがない・・・というように笑っている。髭の校長先生が私の隣に立っていたが、私が言葉につまると、口添えして話してくれるのが、とても協力的でうれしかった。
終わると、みんな、どうすればいいんだ?とばかりにキョトンとしているが、ワヒドが「チャクチェク(拍手)」というと、みんな拍手をしてくれた。「ヌレ・ケセ・アオレ(もっとお話ききたい)?」と聞くと、アオー(うん)と子どもたちは乗り出している。小学生にしてはかなり大きく見えた少年も、ほんとうにうれしそうに見ているのが、嬉しい。やっぱ、通じる・・・同じなのだなぁと思う。不思議。
「さんびきのやぎのがらがらどん」・・・(バトゥーから教わったパシャイ語で、ヤギはガンジャリック。しかし、この地方ではヤギはパイリックだった。同じパシャイ語でも、少し地域が違うだけでも、言葉が違う。そんなわけで、基本単語も間違えてしまったのだが、子どもたちには通じたようであった。)
それから、「ガンピーさんのふなあそび」。間違えだらけのパシャイ語ではあったが、話が終わると、子どもたちの目は、もう全然違う。はじめの警戒心のある目はなくなり、興味津々、楽しいことに期待たっぷりの目になっている。その変わり様が、この地域では本当に顕著にわかる。
カビールは、BBCの絵本、おじいさんがライオンに口が臭いと言ったために、友情を失ってしまった話・・・・をしている。これは40ページくらいある話で、これを話すのもきっと疲れるよなぁ・・・・と思うが・・・・カビールは、子どものためなら、ほんとうに手抜きをしない人のようだ。元、教師だそうで、元々教えたり、子どものために何かするのが、きっと大好きなのだろう。こちらが、途中でお茶をいただき、WFPの援助物資だというビスケットをいただく間もずっと話している。WFPの援助ビスケットは、今は先生などの給料代わりに払われるとか?
ちなみに、このスタン村では、昨日結婚式があり、その式で出された肉?があたったとかで、400〜500人もの人々が食中毒で、下痢になっているのだという。中には病院に運ばれた人もいるとか。とんだところに来たもんだ・・・と思う。
さて、男の子の次は、女の子たちの青空教室を訪ねる。女の子たちは、道沿いに固まって、ほんとうにかわいらしく座っていた。青い眼、灰色の目、茶色の目、さまざまの色の目をした女の子たちが、みんな目を輝かせてすわっている。小さな道に、女の子たちの顔、顔、顔・・・・すでに、何か面白いことがあるとわかっているのか、もう期待いっぱいの顔。女の子たちは、私が出ただけで、もうキャラキャラと嬉しいらしい。私もそんな女の子たちの目を見るだけで嬉しかった。女の子たちも、みんなちゃんと答えてくれる。犬はシュリング、猫はオンドレイ・・・ここは、ジャララバードよりもさらにもっと厳しい地域だそうで、家の中でも女性の写真を撮ることも許されなかったし、また、村の写真も女性が見える所で撮ってはいけない・・・と言われたけれど、そんな状況にもかかわらず、女の子たちは、元気だ。それはとても嬉しいことだった。カビールの方は「あかいめんどり」の話をする。
その後、女の子たちは先生に言われて出てきて、本を見ながら、詩のようなものを読んで聞かせてくれた。歌のようにも聞こえた。
その後、先生たちに話を・・・ということで、職員室代わりのゴザに戻る。この先生たちに、いきなりストーリテリングだの、心の世界だの・・・いう話を仕方がないと思い、
「本は利用しないと、開かないと意味がない。小さい子には、先生がぜひ読んであげてください。ラオスも、状況は同じようなのだけれど、移動図書館活動ができてから、子どもたちの学力や、やる気が増えてきたことも多い。ぜひ、ここでもがんばってください」という話をしたのだが、どうなるだろうか?特に、地方では、タリバン時代の影響もあり、絵本に対して戸惑う人々もいるという。
その後、スタン村の村長の家へ。石づくりの道、家・・・急斜面に張り付くように石の家々が建っている。
村長の家の中に通される。まず大きなゲストルームがある。そこに私たち(大勢のアフガン男と、若干2人の日本女)はどやどやとなだれ込むと、絨毯とクッションにどかっと横になった。いえいえ、私とえりさんは一番奥に行き、おとなしくちんまりと座った。私たちは女でも、お客で外国人なので、同じようにサービスしてもらえるけれど、話の仲間には入れてもらえないようで、無視されるそうだ。誰もこちらのことも気にせずに、男たちがあーだこーだと話をしている。
さっき、私の荷物を持ってくれた少年たちがいた。一人はデュカプリオの少年版みたいな、かっこいい14歳くらいの少年で、また、もう一人は赤茶色の髪で、うっすらとはえた口ひげのはえた、背の高い18歳くらいの少年であった。彼らが、その村長の家でも手伝いをしていた。女は顔を見せてはいけないのだから、お客の給仕も男の仕事である。また、もう1人、小さい少年が私の後ろに来て、ハローハローと小声で呼ぶ。私もハローハローとおどけて答えると、彼はいろいろと顔を作っておどけている。
結局、彼らは村長の息子だの孫だの・・・なのである。一番上の子はヘスロウ。真中の少年ヂュカプリオが、リャーカット。そして、おちびが、パラックシールである。三人はいつのまにか、こっちにやってきて話かけてきた。興味津々なのだ。
驚くことに、そのリトル・デュカプリオの13歳だか14歳の少年は、すでに婚約しているという。お相手の女の子は年は一つ上だとか・・・・少し照れ気味に言う。「へぇ、14歳にして婚約者かぁ。さすが色男は早いね」などと思ったが、そんな問題ではなかった。いやいや、この彼だけで驚くことなかれ、その下のおちびのパラックシール、小学校3年生も婚約しているのだ。そうか、これは親同士が決めた許嫁なのだ。好きも嫌いもないのだろう。私がいちいち驚くというのに、みんな、当たり前みたいな顔をして、「うん、相手の子の顔も知っているし、話したこともあるよ」という。まだ、子どもだから疑問も何もないのかもしれないが・・・・年頃になったら、あれこれと悩むのかもしれない。おちびのパラックシールのお相手は、今日、お話を聞いたあの元気な女の子たちの中にいるらしい。あんなまだ小さな女の子が、じきに顔を隠し、そして、他人から隠されて、1人の男のものとなり家にこもる。男はすべての外の仕事をする。リャーカットも、次に(もう会うこともないだろうけれど・・・)会う時は、ひげもはえ、結婚しているのかなと思うと、あまりにも、みな時間を急いで生きているような、外を飛び跳ねられる時が短かすぎるような・・・そんな感じがする。
食事は、ウズラ豆の煮豆、おくら、ご飯、ドディなどであった。食事の後、奥の部屋にいる女の人たちのところへエリさんと一緒に行く。女の人たちとさっきの少年たちが、一緒に食事をしていた。あっ、カメラ・・・と、カメラを取ってくると、この村長の息子?か婿だかわからないけれど、さっきからずっと給仕長のようにして、給仕をしていたシリアスな顔の若者に、「女の写真は撮ってはいけない」.と言われた。あぁ、女同士でも駄目なのかぁ・・・とがっかりして、「じゃあ、マシュマン(子ども)は?」と男の子たちをさして聞くと、「マシュマンはいいよ・・・」と言う。それで、マシュマンつまり、すでに婚約済みの坊やたちの写真は撮ったけれど、女性たちの写真はいっさい撮れなかった。もし、もっと仲よくなって、男がいなかったら、どうなのだろう?・・・でも、こんな状況では、たとえ写真を撮ったとしても、その写真を他人に見せることははばかられるし、やはりとても難しい。
「お母さんたちにも、絵本の話がしたいな」・・・というと、リャーカットがすぐにキタブーナ(本)を取りに行ってくれた。彼は英語も結構話すし、勘がいい。かっこいいし・・・こんな子を本当は活動に引き入れられたらいいんだけど・・・と思う。ヘスロウも、見かけが結構クールな割には、いろいろと、言葉をいちいち丁寧に教えてくれた。日本だったら、こんなかっこいい子が私を相手にはしてくれないよなぁ・・・・・
お母さんたちに、パシャイ語で絵本を三冊お話を読む。ヘスロウとリャーカットとが、いちいち通訳してくれるようにまたフォローしてくれる。女の人たちは、なるほどなるほど・・・と頷いては笑っている。お姉さんも、私のパシャイ語(結局、バトゥーのパシャイ語はここのパシャイ語とは、少しずつ違っていた。つまり、ハマベ ヒマペラ パベース?(一緒に行ってもいい?) は、ハマベ ヒマペラ イハーガス?であったし・・・)を、オウム返しのようにイチイチ直してくれた。壁の向こう、ここは斜面であるから、隣の家はこちらを見下ろすような感じになるのだが・・からも女の人たちや子どもたちが顔を覗かせて、私が絵本を語るのを見ている。そこへ、一見赤鬼みたいな村長、つまりこの家のご主人がやってきた。「俺はまだ話を聞いてない」とおっしゃる。そこで、その赤鬼村長相手に、また絵本を話すことになる。せっかくそのために来ているのだから、出し惜しみしてはいけない。
雨が降り出した。私がアフガンに来てから初めての雨。パシュトゥー語で雨をバランというが、パシャイでは?と聞くと、
「ブーコパワシェ。オンシャル アンシャアカン・・・」と一生懸命、ヘスロウが教えてくれる。えぇ?そんなにややこしいの?何度も聞くと、これは「雨がたくさん降っている。樋から水が落ちている」とかそんな意味だそうだ。雨がやんだら、「ウアッシュ ブーコパワシュ」という。
また、リャーカットと彼が、私に一生面名教えてくれたのが、
「シャッペルシャー パチョワー シー (食事の支度ができた) ワライヤ ピー アチャワ シー (肉も用意してあるよ) イット ケェ アマン (さぁ、食べましょう)」
さて、雨が上がったので、男たちについて散歩に行く。村の回廊のような道を通り、そして山を上る。日本の山の森林限界を超えた、上のガレ場のような道である。私は、靴がいささか心許ないのであるが、バトゥーは、私のことをオバハンだと思っているので、「歩けるかい?」などと聞く。クソォとは思うけど、強そうな口答えをして、転んだ日にゃあ恥ずかしい。「だいじょうぶだと思うよぉ〜」と笑っておく。道を上ると、ここ、そこ、向こう・・・に村が見える。村は山のふもとに、そのひとかたまりが、やはり一つの砦のように見える。ナシェルが、「村の人を近くから撮ってはいけないよ」と言う。女を撮ってはいけないということだ。遠くならいい?と聞くと、それはいいそうだ・・・ヘスロウは、自分を撮ってくれ・・と格好をつけ、そして、草を背負ったお年寄りが通ると、「なぜ撮らないんだ」と言う。こういう状況では、男とはいえ、やはり遠慮してしまう。
斜面を登ったところで一休み。結構な急斜面である。そこで急に、エリさんが、きっと疲れと不調と日射と心労と、あれこれ重なったのだろうけれど、急に座り込んでしまった。彼女が信頼するアフガンスタッフがついていたし、私たちは先に行ってくれ・・・と言われたので、下で待っていたけれど、待てど暮らせど降りてこない。
しばらく待ってから、さすがに私も、これを放っておいてよいのだろうか?と思い、斜面を上り返した。すると、「だいじょうぶ」とは言うものの、腕を抱えられて歩こうとしても、めまいがひどいらしく、立っていられないようだ。しばらくすると、ベッドを持って村の人がやってきた。ベッドを担架代わりにして運ぼうということだ。彼女をベッドに寝かせ、そして落ちないように縛る。私が頭からかぶっているシャワールを貸せという。これは、本当に珍しいことらしい。外国人だからいいだろうと思ったのかもしれないが、非常事態だったのだ。しかし、この地方で、女性のシャワールを貸せというのは、誰かのふんどしを脱がせて、紐代わりに使うのと同じようなことだろう(ちょっと違うか?でも、この地方ではめったに人前で取るものではない)・・・ということで、私の黄色いシャワールで、彼女をベッドに縛りつけた。そして、えっさほいさ・・と、まるで山道を行く早籠みたいに、村の男たちはものすごい勢いで山道を降りだしたのである。SVAのアフガンスタッフが続き、野次馬の村の人々が続き、私も遅れまいと走った。いったいどこへ向かっているかもわからなかったが、とにかく、みんな走る。かなり走っても着かないので、これは村長の家に向かっているのではない・・・ということはわかった。村から離れるあたりで、男が白いシーツのような布を持って私を追いかけてきた。「かぶれ」という。さすがに、シャワールなしのこのままでは外に出せないのだろう。そこで、私はシーツのような布をかぶって走る。私の前には、村の若者が走っていて、あっちだこっちだ・・・と道を指示してくれた。川を渡る時も、この石、あの石・・・と指示してくれた。こうして、ベッドを担架がわりに担ぎ飛脚みたいな勢いで走る4人に続き、アフガン人の男スタッフが追いかけ、村の野次馬たちが走り、私も遅れまい・・・と走り・・・・ダライヌールの山道・・・日本の高山の山道みたいな道を、みんなバタバタわいわい!!「どうしたんだ?」「死人か?」「いや、外国人が倒れたらしいぞ」・・・・野次馬、野次馬・・・・と走って、車が止めてある下の村まで走り降りたのだった。たいへんな思いをした彼女には、とっても悪いけれど、私は、こうして山道をみんなと一緒に走れたのは、気持ちよかった。それにしても、さすが山の人である。あんな山道をベッド担いで、疾走するのだから・・・・・
実際には、かなりの疲れと日射と不調によるものだったと思われ、比較的早く回復したけれど、でもその時は、意識がもうろうとしたような感じで、心配であった。車でジャララバードまで戻るのかと思ったが、もう暗くなっていたので、山をしばらく下った村にある、SVAのショキドールであるザービッドのおうちに泊まることになったのであった。
はてさて、長かったようで短かったダライヌールの1日。