8月24日(日)ダライヌール・土塀の中の夜

 昨日のような晩をいったいなんと呼んだらいいのだろう?

 私が迎えたアフガニスタンの、いいえ、これまでの夜の中で、もしかしたら一番平和で静かな夜だったかもしれない。ひっそりと静まりかえる土塀に囲まれた一角。大きな木がしげしげと庭の半分以上を高く広く覆い隠している。その木々の隙間から、星が見える。ちりばめられた星。天の川のことを、ここでは何というのだろう?まるで、隠された城壁の中、もう中世のお城の一角の、さしずめ召使いたちが、夏の夜をつどう空間とでもいったらいいのだろうか?でも、もちろん、私たちはお客であり、この静かな空間についたとたん、お客には一つずつアフガンベッドがあてがわれ、赤い布団と赤い枕・・・ビロードのようなその布団が、さっそく家の人たち・・他人の前に出てくるのはみな男なので、男たちによって運ばれ、庭の一角には、ござが敷かれて、その上にも絨毯と大きなクッションが用意される。

 夜、遠くから聞こえる祭囃子のような歌、笛、太鼓、そして手拍子、人々の歓声。その音は近づいてくるようで、でも、また遠くへ行ってしまい・・・ずっと鳴りやまずに聞こえてくる。あぁ今度こそ来る。もっと近づいてきたら、あの窓のところへ行ってのぞいてやろう。誰がなんといってものぞいてやろう・・・・そう思って、ベッドから起きあがり、そして耳を澄ますと、あれ?音は反対から聞こえる。寝ていると、壁に反響して聞こえてくる音か、なぜか、窓の方から聞こえてくるように見えるのである。

 夢うつつに風に乗ってくるかのような祭囃子を聞き、こんな静かなのに、私は眠れなかった。寝てしまうのがもったいないほどの、気持ちのよさだった。木は時折ザワザワザワと風に音を立て、心地よい風が吹き抜けていった。暑くもなく寒くもない・・・こんな心地よい風の通る木の下で、無限の星を見ながら、寝たことなんてあったかしら?と思う。目を開けると、木の葉が黒い影となり、星明かりでぼぉっと明るい夜空が頭の上に広がる。こんな贅沢すぎるほどの夜に、眠れないよ・・・。こうして、起きていたって十分幸せだな・・・と思っていた。

祭囃子は相変わらず、風に乗って聞こえてくる。近づいては遠のき、また近づいてくる。あれ?なんだ!隣の部屋のテレビから聞こえてくる・・・これは日本の祭囃子じゃないか・・・がっかりした。あれ、と目が覚めた。一瞬のうちに夢を見ていたのだ。まだ、聞こえている。どこかからか、祭囃子の笛や歌、手拍子や太鼓が聞こえている。あぁ、もし、これがどこか他の国だったら、夜道を駆けて、見に行ってしまうかもしれないのに・・・・と思う。

やっぱり、人々はわき出てくるように、きっと、歌ったり踊ったりが好きなんだ。本当は・・・・この辺りの人々はとても厳格で、芸能もおおっぴらには禁じている民族だと聞いたけれど、そうだよ、歌や踊りは禁止しても、禁止なんかしきれないだろうと思う。

 庭に置かれたベッドには、私たち4人が寝ている。

 私たちは、ダライヌールのカライシャーという村のザービッドのおうち(普段、彼はSVAジャララバードオフィスで働いているが、家族が住んでいる)に来ているのだが、着いたのはもう夕方、そして、いきなりの来訪にも関わらず、すぐさま、この土塀の中にベッドが用意されて、私たちは、この木の下で、ここちよい一晩を過ごすことができた。ここへ来るまで、もうついでにジャララバードまで帰ってしまった方がいいのでは・・・と思っていたが、中庭に入った途端の、この静けさと心地よさ。この中庭で一晩を過ごせることを幸せに思った。

 急なお客にもかかわらず、ザービッドの家では、ご飯を用意してくれた。

 かなり遅くなってから、ドディ(パン)、炒り卵のような卵料理、トマトとタマネギの切ったもの。オクラの揚げ煮のようなもの、手作りヨーグルト(ジャーグルト??というようなことを言っていた)、そして、チーズ、庭でなった梨にバナナ、そして、ブドウである。これまで食べた中で一番おいしかったように感じた。そして、とても不思議な気がした。食卓を囲んだのは、ワヒド、アジマル、私、そして、ザービッド、親戚のグララ(SVAのコックさん)、そしてご親戚の白いおひげのおじいさんである。えりさんはすでに寝ている。

私は、どうしてこのアフガニスタンの山の村の中庭で、このひげの濃い顔をした男たちと、こうして食卓を囲んでいるのだろう?世の中で一番あり得ないことが起こっているような感じがした。土塀の中、ランタンの暖かなそして控えめな明かりの中、この、きっとつい最近まで、戦士であったかもしれない彼らと・・・・この女性が社会に出ることをとても嫌うこの地域で、その男性たちと、こうして曲がりなりにも談笑しながら、食卓を囲んでいるなんて、とっても、不思議だな・・・と思った。でも、私は、このひげの男たちに親しみを感じた。人間は、こんなに違うと思っても、きっとどこかではつながることができるのだろう・・と思った。もちろん一瞬の出会いには過ぎないし、もちろん、SVAの関係があってからこそ、こうして私が来ているのだけれど・・・でも、この一番見かけはたいへんに怖そうな男たちと、こうして一緒に食卓を囲む、そんな時を過ごせて幸せだと感じ、そして、そう思えてうれしいな・・・と思った。

 

 また、私が昨晩、夢みごこちにに見ていた土壁の向こう側は、壊されている。それはソ連侵攻時代に、大きな爆弾によって破壊されたものだそうである。ここは、たくさんの攻撃にあったのだという。よく見ると、ほんとうだ。土壁が壊されたまま残っている家のなんと多いことか・・・多くの人が亡くなった。ソ連侵攻といっても、人々が一番憎んだのは、ソ連側についたアフガン人だそうである。実際に殺し合いをするのは、アフガン人が多かったそうだ。ソ連兵の方は、まぁ、他人の国のことだし、送られてきて仕方なく戦っていた面もあるのかもしれないが、ソ連兵の方は、あまりひどく人を殺さない(といっても殺すんだろうけど)ので、捕まえると捕虜にして帰国させたそうだ。しかし、ソ連側についたアフガン兵は、女子ども皆殺しにするようなむごい殺し方をするので、捕まると、必ず殺されたそうだ。そんな話を聞くと、きっとソ連の人は少しほっとするかもしれないけれど、大国の罪深さを感じた。その大国のばらまいた争いに巻き込まれ、同じ国の人々が敵味方に分かれ、我がこととして日々敵対することとなったのだ。元々、同国の人々だけに、憎しみと悲しみが増幅してしまったのだろう。

 そして、この私が、昨晩、この上ない平和を楽しんだ土壁の向こうにある木では、3人の捕まったタリバン兵が、首を吊られて殺されたという。そんな日々が、つい数年前まであったのだ。

「アフガンは20年以上戦争が続いていたんだよね?」と言うと、「26年かな?」と、ワヒドは言う。彼はこれまでの人生のほとんどを、戦時下で過ごしてきたのだ。

ワヒド一族の故郷はコナールだが、彼自身はコナールには住んだことがないそうだ。カブールで生まれ、そして隣国パキスタンで長く過ごしている。今、彼はアフガニスタンに戻ってきたが、家族はみな外国に移り住んでいる。人々は戦争に巻き込まれ、難民になり・・・故郷を離れ・・・または、故郷の土に、砂粒になった。

また、元々、この土地内でも、砦同士の争いは当たり前にあったのだろう。そう思うと、銃を持っている姿を今もよく見かけるけれど、銃を持つのが当たり前でずっときた人々なのだと思う。だから、砦の中に女を隠しているのだろうか?

 次第に光線を増しつつある朝の光に、大きな木の陰が土壁に映し出されていく。やはり、静かで平和な空気が流れていた・・・・数年までそんな戦々恐々とした日々があったことが、どうしても私には実感できなかった。この今のつかの間の平和が、ほんとうの平和につながるのか、それとも、今が、ほんとうにつかの間なのか、わからないけれど、これ以上、この土壁を壊し、あの石の墓標をこれ以上、増やしてどうするのだろうか?それでなくても、ここで生きていくのは十分に厳しい。


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