2002年1月1日 トン族の風雨橋
「車を探して、村へ」
朝、寒そうにもやがかかっている。ホテルの5階の窓から下を見ると、下の道には天秤棒で物を担いだ人々が行き交う。道の両側にシートを敷き、店を広げる準備をしている。中国の本当のお正月は春節だが、やはり1月1日はお休みで、市が出る。獅子舞もねり歩くようで、準備をしていた。この小さな町中で一日を過ごすのも、面白いかもしれないけれど、やっぱり村に行ってみたい。
朝はホテルの部屋で、コーヒーを入れ、お茶、柳州で買って食べてなかった粽やらお菓子やらで、朝食。
ホテルのおやじが、200元だというのを、100元にして、車をチャーターした。ミニワゴンの運転手のお兄ちゃんはトン族だという。色白で目がぱっちりとした細身の整った顔の人だ。
ワゴン車は、川に沿って道を走っていく。道沿いに、水車で灌漑をしている箇所を何カ所も見る。どこもかしこも棚田となっているのには感心する。棚田と川からの標高差によって、水車も大小さまざまな大きさのものが作られている。どんな小さな土地でも空き地に放っておかず、棚田として耕されているのには、ほとほと感心した。すごい努力。そして、そんな小さな土地まで耕さないと食べていけないのだろうなぁ・・・人口圧の突き動かす人力のようなものを感じた。
村に到着。程陽郷というトン族の有名な橋がかかる代表的な観光地である。トン族の屋根つきの橋を渡っていくと、橋の両側には、どこの観光地とも同じようにハンディクラフトがかけてあり、つい見てしまう私はおばちゃんたちにどんどん引き留められる。小平はずんずん先に行ってしまう。
運転手さんのお嫁さんがこの村の出身だそうで、彼の案内で、まるで五重の塔のような鐘楼が建っている村の中央広場に行った。そこには十数人の日本人団体観光客が来ていて、トン族の人々が踊りのアトラクションを披露していた。少数民族の村+桂林というツアーらしい。どこでも日本人は来るよなぁと横目で見る。向こうは向こうで、得体の知れない日本人らしき変なのが現れて、あまりうれしそうじゃなかった。私たちとしては、踊りがただで見られてラッキーである。
そこに中井貴一を小柄にしたようなトン族のお兄ちゃんがいた。この貴一氏が英語をぺらぺら話すヤンサンという人だった。彼は私たちに、英語で説明してくれる。このままではガイド料をとられそう・・・としっかりものの小平が「はっきりしとかなくちゃ」と交渉に入るが、村の中の案内、そして、この後行こうと思っている他の村の案内もして50元とのこと。それを40元に値切る。
「トン族の建築は立派」
トン族の家は、本当にがっしりどっしりと建っている。村全体で見るとまるで城塞のようだ。「千と千尋の神隠し」のあの温泉宿は、このトン族の村の作りとどこかしら似ているような気もする。杉の木を使い、一本の釘も使わずに建てるという。ものさしも使わず、竹につけられた印を基に建てるという。
村の入り口にあった観光名所の橋は、風雨橋(フォンユウチャオ)という。風と雨の橋。トン族の村には必ずある橋。風をよけ雨をよけ、そこで人々が語り合う橋。村への入り口。程陽郷は4つの村が集まっている。この馬安村(マーアン)約1000人の人々が暮らし、向こうに見える程陽村には3000人もの人々が暮らすという。村と村の間に、また風雨橋がある。その中ほどには、お堂があり、トン族の神様が奉られている。耳が大きく赤い顔にひげをはやした素朴な木像が見えた。トン族にもシャーマンはいるそうで、病気になると、祈るという。
トン族の家は1軒が4〜5階あり大きいが、大きな建物のわりには、そんなに大勢が住んでいるわけではない。今、中国は一人っ子政策。ただし、少数民族は農作業など人手のかかる生活をしているので、2人まではいいそうである。もちろん、核家族ではなく、3代は同居している。土地は、30年間政府の土地を借りて耕作していいそうである。この辺の山も赤土で木はあまり生えていない。トン族の建物は杉の木を使うのにこの近くでは大きな杉はなさそうだ。植林したばかりの小さいものが見える。村の回りは水田、棚田となっている。
さて、その家々の間を縫って、ヤンサンが連れていってくれたのは、油製造所である。村のはずれの小さな小屋から、もくもくと黙々と煙をあげていた。森に生えている(植えている?)油茶樹(ヤオツァースー)という木の実(1センチほどの小さな栗のようなどんぐり)をしぼって油を作るのだ。その実から作った茶油(ツァーヨウ)が、彼らの料理油だという。髪油としてもよいそうだ。村の油はすべて自家製。村の人々はそれぞれが木を持っていて、収穫した実をこの精油所で、油にしてもらうという。数人の男たちが油にまみれて働いていた。小さな小屋は2階建てになっている。まず、上を覗せてもらう。合わせれば畳8帖ほどあろうか、大きな器にたくさんのドングリが入っていて、下から燻されているらしい。燻されたドングリは二階から滑り台を通って下に落ち、殻ごと粉砕される。それを、大きな丸い鉄板と鉄板の間に詰めて、ぎゅぅーっと圧力をかけて、油が絞りだされるのである。金色の油。いい香りがする。
ヤンサンは、村の中にゲストハウスを作った。そこで昼食を食べる。茶油で炒めた炒飯と、卵、野菜炒め。ごはんの粒が大きいような気がした。三江の町中では、長粒米であったが・・もっと柔らかいご飯だった。
午後は、ガイドブックに載っているもう一つのトン族の村を見ようと言っていたのだが、小平が、苗族のところに行こうよ・・・と言ってくれるので、ヤンサンに尋ねる。小平が「この人はね、ラオスのミャオ(モン)の言葉を話すんだよ」と言ったので、ヤンサンはやけに喜んで、私のことを、ミャオの娘・・・とか、ジャパニーズミャオとか呼ぶ。
さて、苗の村は、孟塞(モンザイ)という。トン族と苗族が、川の両側に分かれて住んでいるという。果たして、私のモン語は通じるのだろうか?
「はてしない梯田」
村へ着くまでの道。一山二山越えて行く。なんという天まで続く棚田。梯田(ティーデン)という。山の傾斜が、山頂から谷底までずっと梯田になっている。田植えの後や収穫の頃は、さぞかし美しいだろう。天水田だそうだ。ものすごい傾斜なのに、それが全部段々になり耕されている。全部手で耕して出来上がった景観。お茶が横並びに植えられているところもある。きっと土壌の流出を防いでいるのだろう。稲はもう刈り取られた後だが、その後に野菜を植えているところもある。圧倒される景観。すごい。この人の力のすごさ・・・そんな圧倒される思いとともに、きっと、ここまで耕さないと食べていけないのだろう・・・という中国の莫大な人口が土地にのしかかっているような・・・そんな思いも感じる。平野で土地をもてない人々が、山々まで耕しつくしている。
「モン語は通じない」
孟塞(モンザイ)では、苗族の人々の家は、トン族の家とほとんど同じに見えた。杉の木でできた、大きな4〜5階建ての家々がどっしりとそびえている。ここはあまり観光客も来ない村で、伝統的な様式を保っているそうだ。1階には家畜が暮らしている。私は窓から顔を出した女の人に、モン語で話しかけてみたが、全然通じなかった。まるで一言もわからない。同じような響きにも聞こえなかった。予想はしていたが、きっと、ラオスに移って行った苗(ラオスでモンと呼ばれている人々)とは、全然違う人々なのだと思う。中国では苗という枠でたくさんの民族をひとまとめにしているわけだ。顔もラオスのモンとは違う気がした。
子どもたちは無邪気でやんちゃ。男の子たちが、外部からの変な侵入者(私たち)にくっついてくる。パッと振り向いてカメラを向けるときゃぁきゃあ言って逃げるくせに、またすぐくすくす笑いながらくっついてくる。田舎のいたずら坊主。刈り取った田んぼでは、女の子たちが遊んでいる。一人っ子政策のせいか、これまで他の場所では、子どもが群れて遊ぶ姿をあまり見かけなかったので、なんだかほっとするような気がした。
川のすぐ近くが水田となり、そして、離れると野菜畑、そして、家が建ち並ぶ。
ここ三江は、トン族自治区となっているが、100年前に、トン族と苗族が戦って、そしてトン族が勝ち、トンが川の脇に、そして、苗は山側に住むようになったのだという。トン族が水の利を得たわけである。
同禾(トンルー)という大きな町を通る。漢族もいるというが、ほとんどがトン族。トンの女性はみな白いはちまきをまいている。道沿いで、みかんを1斤(500g)5角(マウ)で買った。街道沿いはあれこれ店で、石造りの家となっている。
トン族自治区といっても、大きいのである。さすが自治区というだけあると思う。
車は苗江沿いに走る。川の表面はまるで鏡のように静かで、水面に映る山影が美しい。このような川面に映る山影の美しさで、桂林が有名なのだろう。石灰岩の山だけだったら、列車の窓からもうんざりするほど見えた。道はくねくねと長いが、ラオスの田舎道より舗装はいい。それでも、雨季などの移動は大変かもしれない。苗江のほとりに、大きな木があった。何百年もたっている木で、トン族の神がやどる木だそうである。榕樹(ジョンスー、英語でペンヤン?というそうだ)という木。大きな大きな木であった。
「町の食堂」
夜、町中の食堂で、骨付き肉(排骨)の野菜炒め(10元)と、スープ餃子(2元)を食べる。この辺りで餃子というとほとんどスープ餃子になるようだ。店の肝っ玉母さん的おかみさんが、ちゃきちゃきと働いている。すると、昨日、列車の中で車掌さんにけんかをふっかけていた、あの生意気そうな若者が入ってきた。勝手に店に入ってくると、うろうろしている。
「あれ、きっと息子だよ」と私が小平に言う。「どうしてそんなことわかるのよ・・」
「なんかそんな感じだもの。ドラ息子でもさ、久しぶりに戻ってきた放蕩息子が、お母さんにはかわいいのよ」
ひょろっと背の高い色白の息子にくらべ、お母さんは赤く日焼けしている。でも、大きな目が似ている。息子はあぁ一日遊び疲れた・・・という風に店の中をうろつき回る。
「まったく一日中、どこほっつき歩いてたのよ」「いいじゃんかよぉ。それよりさ、腹減ってるんだよ」「何がいいの?作るからしっかり食べなさい」「あぁ、いいよいいよ。そこの鍋ので・・」(言葉がわからないので、会話はすべて想像)
と、息子は自分で勝手知ったる店の食器を取り出してきて、スープをついで食べはじめる。母はご飯をよそってやり、あれこれと立ち働きながらも、どこかうれしそうに、他のお客さんはよそに、息子の方を振り向いてはあれこれ話す。息子はかったるいな・・・というそぶりをしながらも、母のそばに座り、言葉少なに答えながら、味をたしかめるように飯を食べる。きっと、息子はどこか他の町で勉強しているか働いていて、正月の休み(三が日は休み)に戻ってきているのだ。つかの間の休みだけど、今日は一日、あちこちで爆竹をならしたり、市場をひやかしたり、久しぶりに会う地元の友だちと遊んできたに違いない。母はきっと、昨日列車の中で、息子が車掌をどついて大声あげ、金のことで一悶着起こしたことは知らない。息子は母にはそんな話はしないだろう。息子は食べ終わると、また店を出て暗い町へと出て行った。
(1元=16円)
ホテル代 120 / 橋見学 10x2 =20 / 昼ごはん 15 /車 150(結局、値切っておきながらも、予定よりも長いコースでいいドライバーさんだったので、多く払った)/
ガイド 50(これも値切っておきながらも、よかったので多く払った) / ワイン 38
みかん 0.5 / パン 1/ 夕食 12
406.5(6504 円) 二人分
[紅房子ワインの話]
1月1日の晩も、「お正月だから」ワインをあけた。南寧のデパートで買ったハーフボトル。「紅房子」おいしい!なんともやわらかく、かつ適度に渋みも甘みもあって、「あぁ、これ美味」と、すぐわかるおいしさのワインとでも言おうか・・・・
私たちは顔を見合わせ・・・まだ飲み終わりもしないのに、「ここにも売ってないかなぁ?見に行こうか・・・」と、ジャケットを羽織って、ホテルを出た。正月の元日の晩。店は遅くまで開いている。店の前には爆竹の後の赤い紙くずがたくさん散らばる。ここにはデパートなどというものはない。町の雑貨食料品店を覗く。酒のコーナーに、紅房子はなかった。紅房子のラベルには、高級干紅葡萄酒、1999 中国烟台正大葡萄酒有限公司 とある。16.7元(ハーフ)。ワインコーナーのワインをあれこれ見たが、安めのものは、アルコール度が6度とか低いのである。原料も、葡萄、砂糖・・などとある。アルコール度が15度ほどある原料が葡萄だけのワインとなると値は倍となる。紅房子がなくてがっかりしたが、同じ原産地の張裕干紅というワインを買ってみた、38元。
こうして、私たちは、日々場所を移動するごとに、食料品屋に入り、酒コーナーを覗いて、傑作ワイン「紅房子」を探し続けた。でも、残念なことに、以後、桂林でも、陽朔でも、そして香港でもなかった。こうして私たちは、中国ワイン研究家の一歩を踏み出したのだが・・・・・同時に饅頭研究家でもあったし、お菓子研究家でもあった。もちろん、理論ではなく実践的試食的研究家なのだ。