12月29日(土)   昆明から南寧へ。寝台車に乗る

「雲南省博物館」

 今日は移動の日。午前中は時間があるので、博物館に行く。

 博物館へのタクシーは、昆明大百貨の裏道を通る。そこは回教の店が並ぶ通りだった。男は白い帽子、女はスカーフをまいたムスリムの人ばかり。ぶら下がった肉は、羊肉なのだろう。マックやケンタッキーもならぶ繁華街のすぐ裏が、古い道筋になっていて、回教の店ばかりなのだ。博物館の帰り、おまんじゅうを一つ買ってみた。0.6元。6角(リウもう)まだ、単位を間違えるが、やっとお芋やお饅頭は、高くても1元だということがわかってきた。黄色いふかし饅頭の中には、ごまアンが入っていて意外なおいしさ。

 博物館は、特別展だったらしく銅鼓が展示されていた。その上には、ちょっとお粗末には思えたが、少数民族の衣装の展示もあった。

 日本人の男性に会う。香港から桂林経由、昆明。そして台湾と回るのだといい、私とほぼ逆コース。もちろん、その人はは空路で動いているが・・・・

「本当に一人で旅行しているんですか?」と、私に2回もきく。その人にとっては、よっぽど女の一人旅は意外なものらしい。「10日間ではじめて日本人と話したんです」と言う。桂林あたりには、もちろん観光客は多いだろうが、一人旅をしていると、団体旅行の人に話しかけるということがないから、そうかもしれない。よっぽど日本語が話したかったのか、もう一回銅鼓の展示を見るから・・・と、私と一緒に二階に上がった。博物館内は、ほんとうに冷え冷えとして寒い。

 その人によると、中国語の説明には、銅鼓は紀元前から様々な民族の間に伝わってきており、どの民族も中原の民の影響をうけている、というようなことが書いてあるという。「なんだか、さまざまな民族も、結局は中原の民の影響を受けていて、根っこは同じなんだ・・・と強調しているというか、民族を一つにまとめていこうとする方向っていうか、同化しようというというか・・・そんな政府の意図が感じられます」と言う。 民族衣装の展示は、どうも古びたお粗末な衣装を、恐ろしく時代遅れの顔をしたマネキンに着せていて、あまりたいしたことはなかった。1階はほとんどが売り物。売店だ。そこに来ている人は、なんと全員日本人。ツアーのようではあったが・・・この雲南省の寒々とした人気のない博物館のお客がほとんど日本人とは・・・・

「南寧行きの列車」

 14:00 チェックアウト。30分ほどコーヒーショップで時間をつぶしてから、タクシーに乗って、火車站(ホウチョージャ:駅)に向かう。運転手は若いお兄ちゃんだが英語は話さない。私は中国語が話せないことがわかっても、それでもよく話しかけてくる。一生懸命、簡単な中国語で言ってくれているらしい。それでもわからないので、あきらめてしまった。しばらく黙った後、「イングリッシュ?」と言い、テープをかけた。よく聞き取れなかったが、中国人が歌っているらしい英語の歌だ。きっと、困って、せめてもサービスなのだろう。

 駅に着くと、私が乗る、広西チワン族自治区・南寧行きの列車・・2006という列車の番号がすでに出ている。まずは、2006という札の立った待合室に入るのである。本を読んでいる金持ちそうな母息子の隣に座ったが、目の前のベンチに座っている親子は、何族かなのだろう。手も顔も日に焼けて真っ黒だ。待合い室のベンチの合間を縫って、物乞いや靴磨きのおばあさんも来る。前に座った色白の男が足を投げ出して磨かせた。おばあさんが磨くと、ホイと金を投げる。たぶん少なかったのだろう。おばあさんが文句を言う。すると「まったく困ったヤツ」といったようなどでかい態度を見せてのまま、渋々札を出した。自分がケチなんだろうに・・・

 16:17 昆明発。明朝 6:39に南寧着。昆明始発。南寧終着。

 私は「軟臥」という、一等の寝台を取っている。コンパートメントは4人。私以外は全部男だった。私は上段。私の下の寝台には、広西チワン族自治区の北海(フーペイ)に住んでいるという大男だ。一生懸命話しかけてくれる。わからん・・・筆談になったが、漢字が略されているので、それでもなかなか通じない。向かいの上段の人は、最初から他人と関わりたくないというように、もう寝てしまった。下段の人は色白の都会人風で、私にも会釈をしたきり、ずっと携帯電話をいじっている。なんだかかっこつけている。北海の大男もゴロリと横になったので、私は、通路に座ってずっと景色を見ていた。中国の寝台は、最初からベッドになっているので、通路にいるか、上段に上がって寝てしまうしかない。

 列車にはたくさん乗務員(服務員という札をつけている)が乗っている。女の人も多い。紺のブレザーに赤いネクタイをしてなかなかおしゃれなのだが、さて、列車が動き出すと、そのたくさんの乗務員がそそくさと、鍋のようなでかいホーローカップを片手に、ぞろぞろ列をなして食堂車に向かって行く。そして、今度は食べ物の入ったホーローをもち、またぞろぞろと戻ってきた。まず、客より何より自分たちの食事が先なのだ!!

 中国の人の食欲は見習いたいほどすばらしい。遠慮していては生きていけない。昆明の食事時、人々がそのでかいホーローカップを持って道路を歩き回っていた。つまり、自分のホーローカップを持って店に行き、ご飯とおかずを入れてもらうのだ。温かい食事がその場で持ち帰れて、便利かもしれない。鍋のようなホーローカップを片手に通りを闊歩している人々や、ガァーっと店先でかっこんでいる人々の姿は、やっぱりたくましかった。

 外の景色は赤土・・・本当にレンガ色の赤土。木はお情けくらいに生えているだけ。土地も果てしなく広いが、驚くのはその果てしなく広い赤土が延々と耕されていることである。その広大な赤土の畑に、鍬を振り下ろしている人の姿が見える。これは人力で耕したものだ。この果てしない景色は人力で作られている景色なのだ。自力で耕して生きていかなくては、食えないのであろう。この乾いた・・・緑のない・・・自然の恵みは何一つ期待できないような景色。・・・森や自然と共存している、という風景ではない。厳しい。

 かつては自然豊かな大地だったのだろうが、はるかなるむかしから大勢の人々が、利用し取り尽くし、そして、今もその土地を耕し格闘しているのだろう。

 水牛が歩いている。水田・・・棚田らしいのに、豆が植わっている。水稲を作った後に豆を植えているのだろうか?天水田の棚田?その裏作として、豆を植えているのだ。果てしなくその景色が続く。豆が果てしなく植わっている。

 家は土と同じ赤いレンガ。または赤土で塗り固められたような家。ところどころ小高いところに城塞のように村が見える。いったい何族の村なのだろう? やぎを追う少年。耕耘機を運転している男。赤ん坊をおぶって畑に立ちつくす女。鍬をふるう人・・マルコメのような子どもが走っている。天秤棒を担ぐ若い女・・・・すべて赤土の中。赤土の家に住み、そして、赤土の家の壁には、乾いたトウモロコシがたくさんぶらさがっている。どこまでも赤く乾いた大地。その大地にゆらぐ豆の細い蔓。

 果てしない光景・・・そして、この果てしない景色に植えられた豆を消費する人々がいるのだ・・・中国のとてつもない人口・・・・

 「シーリン」と、お父さんが子どもに言い、窓の外を指さす。石林(シーリン)。カルスト地帯だ。石がまるで林のように林立している。奇妙な光景。観光地である。私が刺繍を買ったサニ族のおばさんたちはこのシーリンから来ていると言っていた。こんなところに住んでいるのだろうか? 

 暗くなりはじめた。私は、上段のベッドに上がり込み、パンの残りとピーナッツと、そして缶ビールで夕食をとった。これでいいや。腹いっぱい食べなくても・・・明日起きたら、きっと広西チワン族自治区の南寧なのだろう。

 

 私は移動をはじめた。

 少しずつ、日本に帰っているんだ。

 ラオスから日本に帰ってみたかった

 大地と海を通って・・・

 この広い・・・ラオスと日本の間に広がる大地・・

 そして、きっとその向こうに広がる海・・・・

 地球のつながりの中で、

 私は何かに出会いたいのだろう

 それが何だかは、まだわからないけれど・・・・

                                (1元=16円) 

タクシー(博物館往復)20 /博物館入場  5 /タクシー 駅へ 10 /お昼(麺)4      ビール、ピーナッツ 10

                                49元(784 円)