第16回

「イレイザーヘッド」 Eraserhead (1976)

イレイザーヘッド

− リンチのデビュー作にしてひとつの頂点でもある、衝撃の作品をご紹介します。ストーリーはあってないようなもので、ただひたすら悪夢のようなイメージを観客に押し付けてくる映画です。それが不快でなりません。しかしながらその不快感は自分にない物を拒絶したい不快感ではなく、自分の中にある邪悪な部分、心の中に持つ自分自身で否定したい部分を穿り返されるために起こるものなのです。そういうものには誰もが共通に持つものとそうでないものがあると思いますから、彼の作品を見たときに全く理解できない人も多いと思います。私の理解が正しいと言うつもりはありませんし、リンチがそういう意図を持って作っているかどうかも分かりませんが、この映画から受ける衝撃は、それによるところが大きいと思うのです。

− 彼の作品の中の多くから感じ取れるのは、何者かに襲われているという強迫観念です。実体のない何かから襲われる恐怖。この作品は、そういったものを、意図的に分かりにくく作っているようにも見えますが、彼の心の中に持つものが最も多く吐き出された結果としてそうなったと考えられます。自分のあるべき姿と心の奥底にある本当の自分とのギャップから生まれる苦しみ。それをイメージ化することで生まれたのがこの作品ではないでしょうか。そんな彼の心と重なる部分が多ければ多いほど、この作品は見る者にとって不快度と衝撃度が増していくと思うのです。

− リンチの作品の評価の中には悪夢的なイメージや、難解であることそのものを評価しているものも少なくありません。私にはそれらはリンチを評価できないと映画を見る資格がないと言われるのを恐れて、逆に評価することで自分をセンスのある人間に見せたいというだけとしか思えません。自分の中で全く映画を消化できないのに、評価するのはやめて欲しいものです。

− そういった論評に騙されて彼の作品をみてしまった人の中には後悔した人も多いことでしょう。表面的な部分だけを見るならば、彼の作品は気違いじみた非道徳で卑猥な作品でしかありません。そういったものを好む人ならばともかく、道徳的な普通の人から見れば、彼の作品の表に見える部分は理解の出来ないものとなるでしょう。彼の心の叫びを感じ取れなければ時間の無駄です。それはおそらく誰にでも出来ることではありませんし、また出来ることがいいとも思いません。自分の中にもやはりそういう邪悪な部分を持っていなければならないのですから。

デビッド・リンチ

− そしてもう一つの大きな要素として、そういった苦しみだけではなく、その裏に彼の純粋な部分があることを感じ取る必要があります。彼は苦しみから開放されるため、常に救いを求め、心から幸せになりたいと思っているのです。それは、彼の作品の中の多くで、主人公が天使に抱かれながら、死ぬ事によって、心の呪縛から開放され、幸せをつかむという表現で何度も登場します。死をもって幸せを得るという事は逆に生きていては幸せを得られないということで、非常に悲観的な作品ともいえますが、安らかに眠る姿とともになぜか見ている側もその悪夢から開放されていくのです。それは一種のハッピーエンドといえるでしょう。

− 結局リンチ作品全体の話になってしまいましたが、そういったリンチの作品に共通する要素がぎっしり詰まったこのデビュー作はリンチを語る上で見逃すことは出来ない作品だと思います。

− きっと彼はこれからも苦しみつづけることでしょう。そしてその苦しみと願いを映像で表現し続けることでしょう。そして私はそんなリンチの作品が好きなのです。(2003.2.9)

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