《保幼新編序》

昔の経典(医学経典)に、10人の成人男性の病を治すより、1人の小児の病を治すほうが難しいという話がある。小児の病を治すことはそれほどに難しいものである。五臓六腑は、脆(もろ)く、嫩(わか)く、生気と血液の循環は、未だ完璧な状態になく、人体のつぼとつぼを結ぶ「すじ」に感ずる脈は軟らかく弱く、極めてわずかに打つ程度である。体力は簡単に落ちたり戻ったり、体温は乍(たちまち)に冷えたり、乍(たちまち)に熱くなったり、口は物を言えず、手はその指で自分の調子の悪い所を示すことができない。また、かりそめにも、その対処方法を考えたりはしない。そこで、最初、小児を診断しようとする者はどうやって処置してよいか迷うものである。終にはどうすることもできずに、ただただ手を重ねて待ち尽くすだけの場合もある。そして、子供の病状が悪化しても、いい加減な処置で済まされるということもある。そんな具合であるから、人々は、自分の家の敷き筵(むしろ)で、頻繁に小児の死に遭(あ)う次第である。こうした事態に私の心はいつも痛む。昨年の秋、僧の正訓(僧の名前か単に正僧の意味かは不明)が来宅し、袖に隠した一冊子を提示して言うには、それは、古(いにしえ)の皇明(大明朝)、成斯文、其の名号は逸しており、無忌先生という風に呼ばれていた方が編集した《保幼新編》という本であるという。病症を論じ、病を制する方(=処方)が記されているが、それは、これまで見た本の中で最も詳細に備わっている。しかし、そのままにしておけば、世の漢方医師達は、それが本としては具わっていても、読み伝わるうちにくしゃくしゃになってしまっているのを見ることになろう。私は、その本がいずれは空しく消えうせてしまう恐れがあることを諭(さと)して、瓶(かめ)や鉢(はち)を揺すぶって(=貯めた金を使って)、この度、(無忌)先生の述べる(小児への)恵みとなる諸々の要となる最上の言葉を、幸いにも剞劂(きけつ=曲がった刀と鑿(のみ))に付す=(梓(あずさ)に上(のぼ)す(=出版する))ことにしたのである。実際のところ、余(自分)は、医学については浅学であり、まだまだ分からぬ点が多い。よって、其の説の浅さ深さを判断することなど到底できず、重ねて、体力も衰えて病で苦しんでいる状況で、すでに老齢ということもあり、時間的余裕も無くなって来てしまった。近頃、古い簏(ろく=竹製の丈の高い衣類・書籍箱)の中ほどに、其の所伝本を見出して思うに、其の説の原典は古い医学経典にあり、それに新方(新しい処方)を以って付加し、文章も削ったり増やしたりし、要(かなめ)となるところを撮(と)り、また、記載事項は広範囲に渉るがゆえ、疾患を調べることが容易で難しさを感じない。運気を調べ、五行を変化させ、陰陽を察し(考え明らかにし)、日時を看て(日時のことも照らし合わせ)、證(病症)に對(たい)し(=きちんと対処し)、輒(たちまち)に效(き)き、まるで、「左契(さけつ)を持つが如し。」である。(債務者の首根っこを押さえたようなものだ。)(・・・下記備考1参照。)今、広く流布する本を入手して家蔵とし、本文を声を出して読んでみると、非学と言っても、医師として治療に当たる者には、一目瞭然。時宜を得て投薬すれば、たとえ死にかかっている赤子(嬰児)であっても、その赤子を俾(たすけ)て生き返らせ、共に慈航(じこう)に登(の)り、同(とも)に寿域に躋(のぼ)るがごとくである。(・・・下記備考2参照。)儒教徒が仏教徒を排斥しようという動きがあり、それが盛んになってきているが、それは、何とも意味無く寂しく空しい話に聞こえる。乃(それがし)は、今、瓶(かめ)の水が枯れかかったごとく、息絶えるまでごくわずかの命ではあるが、此処に渾身(こんしん)の力を振り絞って、衆生の命を延ばす処方を広めることに努める次第である。私は儒教の教えが未だ身についていない未熟者であるが、その代わりに、浮屠氏(仏教徒)として、仏の教えを広めていると謂(い)ってくれる人が誰か居るであろうか。私は、自分の年齢と病状を思うと、もう之(この本)を見ても、(小児の医師として勤めるには)時(とき)遅そしであり、大変辛い気持ちになるが、恥ずかしながら、謹しみ謹しみ序文を認(したた)める。

龍集(りゅうしゅう)乙巳(きのとみ)、七夕(たなばた)、
勿齊病夫(
末期の病人)、盧光履撰ず。


備考1(左契):

昔、証文を作る際、証文を木片に書いて左右に割り、割り符として、右側を債権者、左側を債務者が保管し、必要となった際、合わせてみて、偽造でないことを証した。・・・“契(券)”の使用例:史記・平原君列伝、戦国策・巻二十八・韓三・或謂公仲

備考2(共に慈航(じこう)に登(の)り、同(とも)に寿域に躋(のぼ)る):

「仏の慈悲で、仏と共に苦海から彼岸へ導かれる舟に乗り、長生きできるようになる。」の意。


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