伽藍と境内風景
宗英寺の山門
宗英寺には山門が二つあります。勅使門と言われている門とこの門です。この門は昭和58年に三十九世重興霊仙慧光大和尚が、晋山結制を厳修
した時に落慶法要を行いました。
宗英寺の勅使門(ちょくしもん)
この門は大変古くからある門で、元々は山門として本堂の正面にありました。この門の上部に天皇家の菊の紋が彫ってあります。これは
天皇家の使者を迎えるための門なのです。宗英寺は東京麻布の長谷寺の末寺
でしたのでこのような門が出来たものと思われます。この門は、客殿・庫裡・
開山堂新築工事に伴い2010年6月に解体しました。(老朽化による)
天皇家菊の御紋
勅使門の上部に彫刻された天皇家の門です。菊の紋の裏面には「正日歳慶應第三龍舎丁卯季冬、一抽山宗英寺現住三十世泰岳叟建焉、
助力惣且方中、工匠下石川斉藤菊五郎、 中鉄 三堀榮之助」とあります。
この門は1867年の冬宗英寺三十世泰岳(泰順?)大和尚の時代に建て
られた事が分かります。
如意輪観世音菩薩
如意輪観世音菩薩は人々の願いを意の如くにかなえる「如意宝珠」と、煩悩を打ち砕く「法輪」を持つことが名前の由来。どんな願いもかなえ
るが、特に安産・除難・長寿の功徳があるとされる。
本堂前庭にある十六羅漢像
十六羅漢像とは、最高の悟りを得られた仏弟子様のことで永く現世に住まれ、仏法を護持して下さる方々であります。「羅漢」とは「応供」とも
訳され、昔から多くの供養に応じられ、衆生の苦難を救うと言われています。
本堂前庭にある石造 庚申幢
祠の中の二つの石造が庚申幢です。平成9年横浜市指定石造建造物。本堂改築の時に本堂前より歴代住職の墓域の隅に建てていたが平成10年に
本堂前に小屋をつくり中に収めた。(酸性雨から守るため)両基の竿に
「延宝4年辰 7月13日」の刻銘がある。庚申信仰による造立と思われる。
開基様の墓地
開基様は旗本加藤権右衛門景正大樹院殿一抽宗英大居士平成12年1月墓所を改修整備した。
鎮守堂
毎年3月10日は鎮守祭の日
鎮守堂のことについてはこのページの下の方に詳しく記載しています。宗英寺戦没者慰霊塔
10月10日は慰霊祭の日、戦没犠牲者の遺族の方・住職・役員・梅花講員・一般多数列席の元に厳粛に行われる。
鐘楼堂
宗英寺の恒例行事があるときは必ず梵鐘を撞く。12月31日の除夜の鐘では、夜11時に撞き始め1時には終了している。鐘は誰でも撞くことができるので、
毎年参詣する人が多い。鐘を撞いた後、階段を下りて本堂前庭に来るとお酒
や甘酒・みかんがもらえる。
宗英寺参道
宗英寺参道は元々は砂利道だった。昭和40年ごろから左側に人家が出来、最近になってコンクリートの階段になった。自動車の通る道は参道の右側にあり、
境内まで入れる。
宗英寺野外大壁面佛画
2001年(平成13年)に永森一郎 画伯により製作された。釈迦如来・阿弥陀如来・地蔵菩薩・薬師如来など30体近く描かれ、このほか供華・
四季の花木が描かれている。
六地蔵
山門入り口にある六地蔵は、六道で衆生の苦しみを救うという六種の地蔵。六道とは、衆生がそれぞれの業によって、そこにいって住むことになるという
六つの世界。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上のこと。
くろがね地蔵尊
山門入り口には、左側に六地蔵、右側には、くろがね地蔵尊がある。衆生の悩みや苦しみを救済すとされる。その救いはこの世だけでなく、
亡くなった人の苦しみを救い、浄土へ導くとされる。
宗英寺桃仙人について
写真は桃仙人の立像 下は、桃仙人の故事(由来)
桃仙人の故事
宗英寺聖観音像
宗英寺本堂に祀られている聖観音像江戸中期に製作されたものといわれている。
宗英寺鎮守堂
鎮守堂について
宗英寺山道入り口右側山の中腹に、宗英寺の鎮守堂がある。祠の形態は
宮設造り。拝殿奥の院御排内宮祭神は、道了大権現、秋葉大権現、金毘羅大権現、
近年これに不動明王、白山妙理大権現を加えて五神をを祀ってある。一般には
金毘羅さんとあがめられている。鎮守堂の建立は、明らかではないが寺の創建
時代に建立されたものであると言われている。
文化13年2月10日(1816年)宗英寺23世青山太慶和尚再建。御祭神
の木札裏面に書かれている。
石坂供養等元治2年3月(1865年)造立。手洗鉢元治2年3月。明治35
年(1920年)再建
発起人 鈴木善正 再築資金積立講で再建 大工棟梁 三堀栄之助
奉献 金毘羅大権現の大幟が奉納されている。
昭和47年の改築。昭和47年1月荒廃した社殿及び屋根の改築が宗英寺住職
によって提案され同年11月2日檀信徒の協力で工事施工が行われた。
そして、44年後の平成28年6月に護持会で改修工事が行われ、同年12月3日に
完了しました。この時の工事内容は屋根の銅板葺き替えと基礎をみかげ石で
囲んだ。