宗英寺の歴史
本堂と山門
宗英寺の本堂は開山以来昭和61年までは茅葺屋根の建物でした。
建物の周囲は白壁が塗られていた。下の写真は新墓地(西側の高台)
から撮影したものです。
新編武蔵風土記稿によると、除地、2町8段4畝、村の西にあり、
禅宗曹洞派、江戸渋谷長谷寺末、一抽山と號す、開山仁嶺寅怒元和3年
5月21日寂す、開基は此の村の地頭加藤権右衛門景正なり、法名を
大樹院一抽宗英と云、寛永7年8月卒す、客殿7間半に5間半未、坤の
方に向かう、本尊釈迦木の座像にして長一尺ばかり、と書かれている。
宗英寺は、長谷寺の隠居寺の性格を持っていたらしく、長谷寺の住職が
老年になると宗英寺の住職となった。そのためか身分の高い人の訪れも
あったらしく、小さい山門だが天皇家の紋章が木版に刻印され、勅使門
の体裁を整えている。
開山以来初めての本堂改築
昭和61年11月24日落慶
1596年〜1615年 慶長年代
宗英寺建立(鉄町1783番地)・本尊は釈迦牟尼仏・江戸長谷寺の末寺・一抽山と号す。開山は長谷寺二世 仁嶺寅如 元和3年5月21日寂す。
開基は加藤権右エ門景正寛永7年8月没す。
加藤権右エ門景正の父は太郎右エ門忠景と言って織田信長の家来であった。
影正は慶長7年徳川家康に従いここ、上鉄村と上州佐位群とに米地470石を与えられ、
大阪両度の戦いに従軍して手柄を立てたと記されている。
景正の子正次三代この寺に葬られたが、その子義景以後は江戸牛込田中寺に葬られ
、 第7代景張に至り家事不取締の咎により知行を半減せられた。為に上鉄村の半は代官支配
の領地になったのである。
1602年徳川家康に従って領主、加藤権右エ門景正来る 34歳。
参考 宗英寺開基 加藤権右エ門景正(墓地宗英寺)−−−−−−父は加藤太郎右エ門忠景
(徳川家康に従う) (織田信長の家来)
二代 正次 (墓地宗英寺)
三代 景義 (墓地江戸牛込田中寺)
景義は墓地宗英寺になっていましたが調査の
結果江戸牛込田中寺に修正。
四代 正義 (墓地江戸牛込田中寺)
五代 正隆 (墓地江戸牛込田中寺)
六代 正広 (墓地江戸牛込田中寺)
七代 景張 (墓地江戸牛込田中寺)
八代 正知 (墓地江戸牛込田中寺)
九代 正光 (墓地江戸牛込田中寺)
当時の戸数・村高
村別 年号 戸数(文化) 村高(享和) 村高(文政) 領主
上鉄村 慶長7年より 44戸 280石 280名 加藤権右エ門景正
中鉄村 寛永10年より 12戸 99石 99石 筧三郎佐エ門正重
下鉄村 寛永10年より 19戸 113石(天保) 87石 筧三郎佐エ門正重
1617年 元和3年 5月21日 宗英寺 仁嶺寅怒 寂す。
1630年 寛永7年 8月 加藤権右エ門景正死亡 62歳 第2代正次がその後を継ぐ
墓地は宗英寺。
開基、加藤権右衛門景正、大樹院殿一抽宗英大居士の墓
下の二つの写真は平成12年1月加藤家の墓所を改修整備した。
平成12年2月6日に墓所改修落慶 墓碑建立開眼供養を行った。
下の写真は加藤家の墓所を改修整備した時に発掘された『青銅鏡』です。