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神奈川における酒造の歴史

神奈川の酒造の始まり

 いつの頃から神奈川で酒造が行われるようになったかは定かでありません。 米作の伝播とともに米を原料とする酒も伝わったかもしれませんが、 平安時代以前の資料で神奈川の酒造にふれたものがないからです。 鎌倉時代の歴史書である吾妻鏡に平安時代末期に東国武士たちが 酒宴をひらいた記録が多く残っているので、 遅くともその頃には、今の神奈川県内で酒造が行われていたようです。

中世鎌倉の酒

・鎌倉時代

 最初に神奈川の酒造のことが資料に現れるのは1252年(建長4年)になります。 吾妻鏡によると、その年の9月、幕府は沽酒の禁制を発しました。 鎌倉中の民家の酒壺37,274壺及び諸国の市の酒の売買を停止させたのです。 (当時は、木桶でなく壺で醸造が行われていました。) そして翌月、酒造を禁じ、酒壺も一軒一壺を除き破却させ、 違反した者を罪科に処すと定めました。 このことから、武家の都となった鎌倉で、 街の繁栄とともに酒造も盛んになっていった様子がうかがえます。

・室町時代

 室町時代になっても、鎌倉公方が関東十ヶ国を治めたため、 鎌倉が関東の中心として栄えました。 酒造業も栄えたようで、1414年(応永21年)に 鎌倉公方足利持氏が円覚寺再建のため、 酒壺に課された税を寄進したという文書が残っています。

 しかし、繁栄を誇った鎌倉も永享の乱や享徳の乱で衰退し、 戦国時代になると後北条氏が小田原から関東を支配するようになりました。 後北条氏が重用した酒は、伊豆の韮崎の豪族江川氏が造っていた江川酒でした。 武田氏を滅ぼした織田信長へ黄金とともに送られた記録などが残っています。

江戸時代の酒造業

・江戸時代の酒造家

 江戸時代、幕府は酒株制度を設け、酒株を持つ者のみが 酒造を行えるようにしました。 鑑札には酒造米高が書かれており、 米の需給調整機能を果たすという一面もありました。 この当時の関東地方の酒造家は、 富裕な地主、近江商人、独立した越後杜氏などが多かったようです。

・小田原の諸白酒

 江戸時代に書かれた誠話採筆という本に、 稲葉正則が小田原藩主であった時、 城下で諸白酒(*)を造らせようとした話がのこっています。 当時の小田原の町では諸白酒が造られておらず、 町の振興のため、大坂の諸白屋から杜氏を招くこととなりました。 招聘を受け、諸白屋の息子である八三郎たちが小田原に下り、 城下の筋違橋町(現在の小田原市南町)に蔵を与えられました。 八三郎は、一緒に連れてきた杜氏とともに上質な諸白酒を造りました。 正則は、八三郎の造った酒だけでなく、その人柄も気に入り、 仕えている女中の中から嫁をとらそうとしました。 ところが、八三郎にはかねてからの出家願望があったため、 その話を聞くと江戸へ逃げて出家してしまったそうです。 今も小田原に残る諸白小路という通りの名は、 八三郎の蔵があったことにちなんでいます。

(*)麹米と掛米ともに白米を使った当時、最先端の酒。

・下り酒の流入

 江戸湾の入り口にある良港であり、 幕府の浦賀奉行がおかれた浦賀には、 各地からの物資が集まるようになりました。 江戸時代も中頃をすぎると、 浦賀から今の神奈川県内に下り酒が入ってくるようになり、 現在も続く他地方の酒との競合が始まりました。

・土平治騒動

 1782年(天明2年)以降、各地で噴火、洪水、冷害などの災害が相次ぎ 凶作が続いたため、天明の大飢饉がおこりました。 疫病や飢餓によって倒れる者が溢れ、 一揆や米屋、酒屋などへの打ちこわしが頻発するようになりました。
 津久井県(後の津久井郡)でも、1783年(天明3年)の串川の洪水によって 少ない田畑が流されてしまいました。 その上、天候不順で養蚕がふるわず、 炭や材木が飢饉による経済の低迷で売れなくなってしまったため、 それらの代金で穀物を買っていた人々の生活は苦しくなりました。 こうした中でも、米屋や酒屋の中には米を買い占めたり、 酒造制限令を守らず密造したりするものがあり、 人々の不満が高まっていきました。 そして、1787年(天明7年)12月24日夜から翌年1月4日までの間に、 米を買い占めているとされた津久井県内の酒屋、米屋など 9軒が打ちこわしにあいました。 騒動後、自ら出頭した牧野村の土平治こと専蔵ら首謀者三人が死罪とされました。 また、打ちこわされた酒屋の内、酒造制限令を破った二人が、 それぞれ江戸払いと諸道具取上の処罰をうけました。
 この騒動以降、津久井県で新たに酒造を行おうとする際には、 県内の村々の同意が必要となったそうです。

明治から昭和初期の酒造業

清酒

明治時代

 江戸時代以来続いた酒株制度が1875年(明治8年)に廃止され、 税金を払えば誰でも酒造を行えるようになりました。 そのため、日本全国で酒造業者が激増し、 神奈川県でも1879年(明治12年)には1,073場もの蔵元が酒造を行っていました。 ですが、1880年(明治13年)に酒を造った時点で課税される造石税が導入されると、 経営体力のない蔵元の撤退が相次ぎ、 1892年(明治25年)には278場まで蔵元が減りました。 その当時、蔵元の場数は全国26位であったのに対して 醸造高は26,949石(4,861kl)で全国43位と低く、 小規模な蔵元が多かったことが伺われます。

大正時代

 1914年(大正3年)の統計によると、 神奈川県で消費される清酒は約100,000石であったのに対して 県内で製造されるのは約28,000石にすぎず、 灘や伏見などの他県の酒が大きなシェアを占めていました。 (割水前の醸造高は25,457石(約4592kl)) 県内で醸造が盛んであったのは、現在も蔵元がある 足柄上郡、中郡、足柄下郡、愛甲郡、高座郡、津久井郡などの地域でした。 500石以上造る蔵元が6軒しかなく、小規模な蔵元が過半をしめていたようです。
 1924年(大正13年)の統計になると、第一次世界大戦後の不況の影響もあって、 神奈川県の清酒製造場数は全国で五番目に少ない79場まで減少し、 醸造高も四番目に少ない17649石(約3189kL)まで落ち込みました。

県産酒の品質向上

 当時の神奈川県の蔵元は、鉄道で製品を大量に輸送する 酒造先進地と比べると、企業規模や製造量に差があるだけでなく、 醸造技術の面でも遅れをとっていました。 そのため、明治時代末期より、 県産酒の品質を向上させ消費を盛んにするため、 酒造同業組合を中心に醸造指導や講習会、品評会などが行われるようになりました。
 ところが、当初は東京税務監督局から技師を呼んで行う醸造指導を 進んで受けようとする蔵元がなく、税務署が酒造家を勧誘する状況でした。 明治の中頃に、洋式の教育を受けたものの清酒の知識に乏しい若い技師が 各地で腐造を引き起こしたため、醸造指導のイメージがあまりよくなかったようです。 ですが、税務署長の勧めで技師を招聘した高座郡寒川村の酒造家が、 当時最先端の醸造法であった速醸もとの指導を受けて造られたの酒の出来に 満足して速醸もとによる醸造の継続を決めるなど、 少しずつですが県内に新たな醸造技術が浸透していきました。
 品質向上活動の成果が現れたのか、 昭和初期には全国や関東の品評会で入賞する蔵が 現れるようになりました。 その最たるものが「東の誉」を造っていた大矢酒造店醸造所 (後の大矢酒造株式会社)でした。 全国酒類醤油品評会で数回にわたり優等賞を受賞した他、 化学工業博覧会で名誉賞、関東酒類醤油品評会で主席優等賞、 神奈川県酒造組合主催酒類品評会では9年連続主席優等賞を受賞するなど、 神奈川だけでなく関東でも有数の成績をほこりました。 その他にも、現在の相田酒造店が全国酒類醤油品評会で入賞、 石井醸造と井上酒造が関東酒類醤油品評会で入賞するなど、 県産酒の品質は向上していきました。

昭和初期

 第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)、 企業整備令によって多くの蔵が合併や転廃業を強いられました。 神奈川でも転廃業した蔵元や川崎酒造のように3場が合併した蔵元があり、 蔵元の数は20あまりまで減りました。

粕取り焼酎

 2007年現在、神奈川県で清酒の酒粕から粕取り焼酎を造っている蔵元は 黄金井酒造株式会社と久保田酒造株式会社だけですが、 昭和20年代までは多くの清酒蔵で粕取り焼酎を造っていました。 製造が盛んであったのは、当然のことですが清酒の醸造が盛んな地域でした。 昭和10年の資料によると、 株式会社久保田酒造店の粕取り焼酎の生産量が年間4石(0.72kl)、 柏木酒造店の生産量が2石6斗(0.47kl)でした。 清酒製造量がそれぞれ630石(113.65kl)、370石(66.74kl)だったことに比べれば 微々たる量でした。

合成清酒と新式(甲類)焼酎

大和醸造と理研酒

 1919年(大正8年)、伊丹の白雪で知られる小西新右衛門らを中心に 大日本醸造株式会社が創立されました。 工場は高座郡藤沢町大庭(現藤沢市城南)におかれ、 周辺の特産品であった甘藷(サツマイモ)を原料に アルコールや焼酎、清酒混和式の合成清酒を製造していました。 その後、米騒動が起きるなど慢性的に米が不足していた世相を背景として、 1921年(大正10年)には同社敷地内に大和醸造試験所を設立し、 理化学研究所や三共とともに米を使わない合成清酒の研究を始めました。 そして、1923年(大正12年)には大和醸造株式会社が設立され、 大日本醸造の藤沢工場内で理研酒(合成清酒の一種)「新進」の 製造が始められました。 その後、1929年(昭和4年)には大和醸造が大日本醸造を吸収合併しました。(*) 1935年(昭和10年)の資料によると、合成清酒を26,689石(4,814kl)、 焼酎を4,802石(866kl)製産していました。
 理研酒の特許権は大和醸造が持っており、 その製造をほぼ独占していましたが、 1935年に特許が理化学研究所に返還されました。 そのため、特許料を払えば理研酒を造れるようになり、 理研酒が合成清酒の主流となりました。

(*)三楽五十年史および藤沢市史に拠る。 小西酒造及び理化学研究所のウェブサイトの記述に拠ると、 大和醸造が設立された1923年に両者は合併。

昭和酒造

 1935年(昭和10年)、味の素本舗株式会社鈴木商店(現在の味の素株式会社)の 社長であった鈴木忠治が昭和酒造株式会社(現在のメルシャン株式会社)を設立しました。 そして、当時の味の素の原料であった脱脂大豆を使いアルコールを製造するために、 味の素川崎工場の隣接地に川崎工場を竣工させました。 1937年(昭和12年)には、理研酒の特許が開放されたのをうけて 合成清酒「三楽」の製産を開始しました。

洋酒

「神奈川と国産ウイスキー」も参照

東京醸造とトミーウイスキー

 1924年(大正13年)、維新の志士で県知事などを歴任した後に 実業界に転じた武井守正らが東京醸造株式会社を設立し、 高座郡藤沢町藤沢(現藤沢市南藤沢)に工場を置きました。 後に社長となる中村豊雄が、台湾の酒精会社に勤めた経験から 醸造技術に通じており実務を担当したそうです。
 当初は、リキュールや山梨県北巨摩郡登美村に所有していたブドウ園のブドウを使った 甘味果実酒などを製造していましたが、 1937年には日本で二番目の本格的なウイスキーである 「トミー・ウイスキー(トミー・モルト・ウイスキー)」を発売しました。

ワイン

帷子葡萄園と中垣秀雄

 明治維新後、多くの人々が日本でのワイン醸造を成し遂げようと動き始めました。 小田原藩士の子供として生まれた中垣秀雄も 1889年(明治22年)にアメリカへ渡り、 カリフォルニアの葡萄園でブドウ栽培とワイン醸造を6年間学びました。 帰国した中垣は北海道で野生ブドウを使ったワイン醸造に従事した後、 1897年(明治30年)には都筑郡二俣川村(現横浜市旭区)に自らの葡萄園を開設しました。 同時に、橘樹郡大師河原村(現川崎市川崎区)の葡萄園から ブドウを購入しワインの醸造を始めました。 ところが、欧州種のブドウを乾燥地帯に適した欧米式の整枝法で剪定したため、 高温多湿の日本の気候に合わず栽培に失敗してしまいました。
 1902年(明治35年)には岡野欣之助から招かれて 葡萄園を橘樹郡保土ヶ谷町(現横浜市保土ヶ谷区 常盤台公園付近)に移転し、 その農園を帷子葡萄園と名づけました。 栽培するブドウの品種を日本での栽培の実績があるアジロンダックや 岩の原葡萄園の川上善兵衛から取り寄せた米国種としたり、 垣根造りを諦め棚造りにするなど、 それまでの失敗を活かした栽培法をとりブドウの生産は軌道にのりました。 大正の始め頃には、帷子葡萄園のブドウの品種は、 赤ワインがアジロンダック、白ワインがデラウェアになりました。
 中垣は、当時は生葡萄酒と呼ばれた本格的なワインを醸造していました。 しかし、当時の日本人の味覚にはワインの渋みや苦みが合わず、 国産ワインといえば「赤玉ポートワイン」や「蜂印香竄葡萄酒」などの ワインを甘いジュースのように加工したものが一般的でした。 そのため、製品と消費者の嗜好が噛み合わず販売には苦労したようです。 「天然と人工キヽメが違ひ マヅクともキヽメは一番」 (当時、ワインは、今の薬用酒のように医薬品として扱われていた。) という自虐的なキャッチフレーズの広告を新聞に掲載したり、 ブドウの収穫期にブドウ園を一般に開放しブドウの試食やワインの試飲をさせたりして、 自社の本格的なワインと他社ワインの違いを消費者にうったえました。
 製品の銘柄は、「東郷葡萄酒」、「ダイヤモンド葡萄酒」と変遷しましたが、 大正時代には、「皇国葡萄酒」に落ち着いたようです。 1925年(大正14年)の広告によると、 当時の製品ラインナップは、赤生葡萄酒(5年、7年、10年、15年)、 白生葡萄酒(5年、7年)、皇国ポートワイン、白ポートワインなどでした。 原料となる葡萄は、帷子葡萄園(約1万坪)で収穫されたものの他に、 戸塚の名瀬葡萄園(1万坪)、山梨県の日之城葡萄園(約3万坪)のものを 使用していたそうです。
 その後、1933年(昭和8年)には葡萄園を 高座郡大野村鶴間(現在の相模原市南台)の相模原葡萄園に移転しました。 その頃には販売先が官公庁や国内外に広がり、 1942年(昭和17年)には1300石(234kl)以上の生産があったそうです。

 また、大正時代には山梨県に近い津久井郡名倉村と吉野町にも 葡萄酒の醸造をする者があったそうです。

ビール

コープランドとスプリング・バレー・ブルワリー

 日本で最初にビールを造った人物が誰であったのかは、 諸説や伝説が入り交じりはっきりしません。 ですが、最初に日本でビールを造り広く一般に販売したのは 横浜の外国人居留地に住む外国人たちだとされています。 1869年(明治2年)に開業したジャパン・ヨコハマ・ブルワリーは 外国人居留地初の醸造所でしたが1874年(明治7年)頃には廃業してしまいました。 それに次いで1870年(明治3年)に開業したのが、 ウィリアム・コープランドが設立したスプリング・バレー・ブルワリーでした。 天沼のほとりの横浜山手居留地123番(現在の横浜市中区千代崎町)に 醸造所を構えたので製品は「天沼ビヤザケ」とも呼ばれていました。 1876年(明治9年)には、前年にババリア・ブルワリーを開業した エミール・ウィーガント(*)と商事組合を設立し共同経営を行うこととなりました。
 当時のスプリング・バレー・ブルワリーでは、 イギリス風上面発酵ビール(ペールエールやポーターなど)と ドイツ風下面発酵ビール(ラガービールやババリアンビールなど)の 両方を醸造し販売していました。 (下面醗酵ビールは気温が低い冬季のみ醸造。) 醸造したビールを販売するだけでなく、 ビール醸造に必要な物を他の醸造所に販売していました。 また、コープランドの元でビール醸造を学んだ者が 各地でビール醸造に携わりました。
 共同経営者となったコープランドとウィーガントでしたが、 その関係は3年あまりで破綻してしまいました。 ウィーガントは、商事組合の解散と、その財産の分配を求めて裁判をおこしました。 裁判の結果、公売にかけられたスプリング・バレー・ブルワリーを コープランド自身が落札することによって、この問題は解決しました。 しかし、裁判費用がかさんだことなどにより、スプリング・バレー・ブルワリーの 経営は悪化してしまいました。 そのため、1884年(明治17年)にスプリング・バレー・ブルワリーは 破産してしまいました。

(*)横浜外国人居留地最初の醸造所であったジャパン・ヨコハマ・ブルワリーと 三番目の醸造所ヘフト・ブルワリーの醸造技師を勤めた後に ヘフト・ブルワリーの跡地でババリア・ブルワリーを開業した人物。

麒麟麦酒の誕生

 スプリング・バレー・ブルワリーの設備や建物などは競売されてしまいましたが、 その跡地で再びビールを造ろうという機運が居留地の外国人などの間で高まりました。 そのため、ジャパン・ブルワリー・コンパニーが1885年(明治18年)に設立されました。 ドイツから購入された設備でドイツ人の醸造技師によって造られた ドイツ風の下面醗酵ビールは1888年(明治21年)に発売されました。 翌1889年(明治22年)にはラベルの麒麟のマークにちなみ 「麒麟ビール」と名付けられました。 当初の日本人株主は三菱の岩崎弥之助だけでしたが、 設立翌年の増資から渋沢栄一や後藤象二郎らも株主に加わりました。 その後、ゼ・ジャパン・ブルワリー・コンパニー・リミテッドへの改組を経て、 1907年(明治40年)には一旦会社を解散する形をとり 国内資本の麒麟麦酒株式会社となりました。 その主力工場となった横浜山手工場ですが、 1923年(大正12年)の関東大震災により壊滅的な被害を受けてしまいました。 そのため、生麦に横浜工場が建設され1926年(大正15年)に竣工しました。 昭和10年の統計によると、横浜工場は一年間に 20,000klのビールと2,300klの清涼飲料水を生産していました。

麒麟麦酒開源記念碑
麒麟麦酒横浜山手工場跡にあるキリン園公園にある麒麟麦酒開源記念碑

中小ビール醸造所

 明治時代の先進的な人たちにはビールが将来性のある魅力的な商品に見えたようで、 数多くの人がビールの醸造に乗り出しました。 神奈川にも「保坂ビール(通称)」「横浜ビール」「大黒ビール」 「光輝ビール」「中谷ビール」などがあったようです。 (「横浜ビール」「大黒ビール」は他社が製造したものに自社のラベルを貼ったもの。) ですが、多くの醸造所は、醸造技術が稚拙であったり、 そもそもビールの需要自体が少なかったりしたために 短期間での閉鎖を余儀なくされてしまいました。 長期間営業を続けることができた醸造所も1901年(明治34年)の麦酒法施行により 造石税を課されることになったことをきっかけに廃業していきました。
 また、比較的高温でも醸造できるイギリス風の上面発酵ビールよりも 当時の日本人の舌にあったドイツ風の下面発酵ビールの需要が高くなったことも 中小資本の醸造所に大きな影響を与えました。 年間を通じて下面醗酵ビールを醸造するには 冷却設備など高額の設備が必須であるからです。 それに加えて、1908年(明治38年)より製造免許基準が設けられて 年1000石以上の生産が義務づけられました。 そのため、新たにビール市場に参入できるのは大規模な資本のある者だけに 限られるようになりました。

東京麦酒

 造石税導入以降も神奈川県内で醸造を続けた醸造所としては、 東京麦酒株式会社の保土ヶ谷工場と日英醸造株式会社の鶴見工場がありました。

 スプリング・バレー・ブルワリーの代理店をしていた金沢三右衛門らが 1878年(明治11年)に設立した発酵社は、 東京都芝区桜田本郷町に工場を置き、 翌1979年(明治12年)「桜田ビール」を発売しました。 当初は、コープランドの弟子である久保初太郎が技師をつとめ、 酵母などもコープランドから購入したそうです。 その翌年の1880年(明治13年)には、工場用地の狭隘と醸造用水の不適を理由に 東京都麹町区紀尾井町へ工場を移転し、 1990年(明治23年)には桜田麦酒会社への社名を変更しました。 紀尾井町(清水谷)に移転してからは年に2500石(約450kl)から 3000石(約541kl)の生産量があり、 明治10年代の後半には国内最大のビール醸造所となりました。 そのため、浅田麦酒(*)とともに国産イギリス風ビールの代表とされていました。
 しかし、その頃から市場に大きな変化が訪れました。 味が濃いイギリス風上面醗酵ビールよりも、 より日本人の好みに合った 味が淡いドイツ風下面醗酵ビールの需要が高まってきたのです。 輸入されるビールもイギリスの「バスペールエール」などから、 ドイツの「ストックビール」へと中心が移っていきました。 国内でも、ジャパン・ブルワリー・コンパニー「麒麟ビール」、 日本麦酒醸造会社「恵比寿ビール」、大阪麦酒会社「旭ビール」など ドイツから輸入した設備で下面醗酵ビールを 通年醸造する企業が市場に参入してきました。 それを受けて、桜田麦酒も1886年(明治19年)以降はドイツ風の下面発酵酵母を使った ラガービールも造るようになりました。
 その後、本格的にドイツ風下面醗酵ビールの製産に乗り出すこととなり、 1896年(明治29年)には桜田麦酒から東京麦酒株式会社へと改組され、 翌1897年(明治30年)に工場を橘樹郡保土ヶ谷町(現横浜市保土ヶ谷区)に移転しました。 工場にはドイツから輸入した醸造設備を導入し、 ドイツ人技師が製造を担当するようになりました。 そして、翌1898年(明治31年)には東京ビールの販売を開始されました。 同時に、ラベルのトレードマークも、それまでの桜から鶏に変わりました。
 ところが、出資者の事業失敗や新たな出資者の死去などがあって 東京麦酒の経営は行き詰まってしまいました。 そのため、1906年(明治39年)には東京麦酒新株式会社と社名を改め、 翌1907年(明治40年)には前年に日本麦酒(株)、札幌麦酒(株)、 大阪麦酒(株)が合併してできた大日本麦酒株式会社に買収されて、 その保土ヶ谷工場となりました。 東京麦酒の生産量は一番多かった1903年(明治36年)で5,233石(944kl)でした。
 日露戦争後の好景気が終わりビールの需要も減ったため、 買収された翌年から保土ヶ谷工場はビールの醸造を止めて、 清涼飲料水の製造とビール瓶などの製瓶のみをおこなうようになりました。 その後は大日本麦酒から分割された日本硝子株式会社の横浜工場となり、 現在、跡地は横浜ビジネスパークとなっています。
 東京ビールの商品名は消えてしまいましたが、 大日本麦酒が1929年(昭和4年)から1940年(昭和15年)まで販売した プレミアムビール「シーズンビール」に 鶏のマークが「COCK BLAND」として用いられました。
 また、1908年(明治41年)以降は、ビールの純国産化を進める大日本麦酒により、 県内でビール用大麦の契約栽培が行われるようになりました。

(*)競売されたスプリング・バレー・ブルワリーの設備を購入した 浅田甚右衛門が東京府下多摩郡中野村(現東京都中野区)に開いた醸造所。 初めはコープランドの弟子村田吉五郎を技師としたが、 後に同じくコープランドの弟子の久保初太郎を桜田麦酒から引き抜いた。

日英醸造と寿屋

 1919年(大正8年)に設立された日英醸造は鶴見に工場を置き、 翌1920年(大正9年)には「カスケードビール」を発売しました。 アメリカの禁酒法により余剰になった設備を輸入して使用したそうです。 しかし、1923年(大正12年)の関東大震災によって 貯蔵中のビールなどに大きな被害を受け経営が悪化してしまいました。 そのため、酒税を滞納してしまい1928年(昭和3年)には 工場が競売にかけられることとなりました。 競売の結果、株式会社寿屋(現在のサントリー)が落札し、その鶴見工場となりました。 そして、当時、寿屋の山崎工場長であった竹鶴政孝が工場長を兼ねることになりました。 寿屋は、買収翌年の1929年(昭和4年)に「新カスケードビール」を発売し、 1930年(昭和5年)には「オラガビール」を発売しました。 「オラガビール」は他社のビールの販売価格が38銭程度だった時代に 定価を29銭(翌年から25銭)としたり、 大々的に広告宣伝活動を行うなど、積極的な販売政策をとりました。 その結果、生産高は1929年の18,275石(3297kl シェア2%)から 1933年には32,325石(5821kl シェア3.2%)にまで増加しました。
 「新カスケードビール」はオリジナルの瓶を使用していましたが、 「オラガビール」は、コストカットのために麒麟麦酒の空き瓶を使っていました。 ですが、その瓶に麒麟麦酒の「KB」という商標があったため 麒麟麦酒から訴えられて敗訴してしまいました。 そのため、判決が出た後はグラインダーで 「KB」の文字を消した瓶を使用することになりました。
 その後、寿屋の経営上の都合もあり、 1934年に鶴見工場は大日本麦酒に売却され、 新たに設立された東京麦酒株式会社の工場となりました。 東京麦酒の株式は大日本麦酒と麒麟麦酒が設立した麦酒共同販売株式会社に譲渡され、 大日本麦酒と麒麟麦酒から同数の役員が派遣されました。 昭和10年の統計によると、 一年の生産高は大瓶2,272,224本(633ml換算で約1438kl)、 小瓶161,424本(334ml換算で約54kl)でした。 その後、1944年には企業整備令によって廃業を余儀なくされ、 工場は沖電気株式会社に売却されました。 戦後は妙高企業株式会社の製氷工場となりましたが、 現在は車両置き場として使われているようです。

旧日英醸造鶴見工場
旧日英醸造(株)鶴見工場(2007年3月撮影)

戦後の神奈川の酒造業

清酒

 戦後、戦時中の企業整備令で転廃業を余儀なくされた蔵元が 再び酒の醸造を行おうと動き始め、 1954年(昭和29年)には全国清酒旧基本石数返還期成同盟が結成されました。 神奈川でも久保田酒造や泉橋酒造が醸造を再開しました。 ですが、酒造を再会するための条件が厳しく、断念した蔵元も多かったようです。

「丹沢ほまれ」の誕生

 昭和40年ごろになると、ほとんどの中小の蔵元が大手酒造会社に いわゆる桶売りをするようになっていました。 当時の酒造米は、昭和11年の酒造高を基準にして各蔵元に配給されていました。 そのため、大手酒造会社では、販売力に比べて割り当てられる酒造米が少なく、 足りない分を桶買いで補っていました。
 ところが、1969年(昭和44年)産の米から、 酒造米は配給制度から自主流通米制度に移されることになり、 各蔵元は自由に酒造米を買えるようになりました。 1973年(昭和48年)までは過渡的措置として、 大手酒造会社が生産数量を自主規制することになりましが、 桶売りをしていた多くの蔵元は、それまでに桶売りにしていた分を 自社の銘柄で販売する先を見つけるか、 他の蔵との合併又は転廃業し補助金を貰うかの選択を迫られました。 神奈川でもいくつかの蔵元は、この時期に廃業してしまいました。
 こうした中で1973年に発売されたのが、共同銘柄酒「丹沢ほまれ」です。 当時の厚木税務署管内にあった8場の蔵元と 地元の酒販組合が協力し販売されたもので、 8軒の蔵元の酒を国税局鑑定官の品質検査を受けた上でブレンドした製品でした。 二級酒ながら一級酒並にアルコール度数を高めたことや、 おりからの地酒ブームにのったことにより、 1982年には780klも出荷するまでになりました。 そのため、丹沢ほまれ発売前は合計生産量の40%を桶売りに頼っていましたが、 発売後は8場の内、6場が桶売りをしないですむようになりました。 丹沢ほまれの成功をうけて、他の地域でも「大山泉」や 「酒匂川」、「一夜城」などが発売されました。 往時ほどの勢いはなく、ブレンドもされていないものの、 現在でも黄金井酒造が製造した「丹沢ほまれ」が酒販店の店頭に並んでいます。

「神奈川物語」の発売と県産米

 1994年、神奈川県の蔵元の共通銘柄「神奈川物語」が発売されました。 この酒は、各蔵元が同じ米を使い、同じ規格で醸造した酒を 同じ銘柄で販売するというものでした。 ラベルも同じデザインのものですが、 右隅に製造した蔵元の銘柄も表示されました。 主な規格は以下の通りでした。

  1. 種別は純米吟醸酒
  2. 原材料は県内産の酒造好適米「若水」のみ
  3. 精米歩合は55%
  4. 火入れは瓶詰め時のみの生貯蔵酒
  5. アルコール度数は13.0〜13.9度

「神奈川物語」を販売している蔵元が1997年には7場、 2007年現在では金井酒造店しかないように 神奈川物語自体は成功したとは言えません。 ですが、県産米をつかった地酒の醸造は神奈川物語の発売以降、一層盛んとなり、 今日では多くの蔵元が県産米で醸造した商品を販売しています。

 1970年以降、徐々に蔵元の数は減ってきたものの、 現在でも神奈川県では15場の蔵元が清酒を販売しています。

乙類焼酎(粕取り焼酎)

 第二次大戦後、いわゆるカストリ(粗悪な密造酒)と 混同されたことによるイメージの悪化や 独特の香りが時代に合わなかったことなどにより、 全国的に粕取り焼酎の生産量が減少しました。 神奈川でも昭和20年代までは多くの蔵元で粕取り焼酎が製造されていましたが、 昭和50年頃になると久保田酒造のみとなってしましました。 その後、1982年(昭和57年)に減圧式蒸留器を導入し 製造を再開した黄金井酒造を加え、 現在、神奈川で粕取り焼酎を造っているのは2場となっています。 また、黄金井酒造は2007年より米焼酎を発売しました。

甲類焼酎と合成清酒

大和醸造 藤沢工場→メルシャン 藤沢工場

 戦後の食糧難の中、米を使わない合成清酒の需要は伸びました。 ですが、世情が落ち着き清酒の生産量が多くなると市場は収縮し始めます。 そのため理研式の合成清酒の先駆けであり出荷量が全国6位であった大和醸造も、 1961年に1位の三楽酒造(現メルシャン)に吸収合併され、 その藤沢工場となりました。
 合併後の工場再編により川崎工場へ合成清酒と焼酎のラインが移され藤沢工場は 洋酒専門の工場となりましが、 川崎工場の閉鎖に伴い再び焼酎や合成清酒のボトリングがなされるようになりました。

メルシャン 川崎工場

 1941年(昭和16年)に昭和酒造(株)から 社名を変更した昭和農産加工株式会社は、 1946年(昭和21年)から川崎工場で 甲類焼酎「三楽」(合成清酒と同銘柄)の製造を開始しました。 1949年(昭和24年)には社名を製品の銘柄と同じ 三楽酒造株式会社と改称しました。 その後、幾たびかの社名変更を経つつもメルシャン川崎工場では 合成清酒や甲類焼酎などの製造や瓶詰めが行われてきました。 しかし、2004年に藤沢工場に工場機能を移転し工場は閉鎖されました。

メルシャン川崎工場跡とロジスティックコントロールセンター
メルシャン川崎工場跡とロジスティックコントロールセンター(2007年4月撮影)

寿屋 藤沢工場→森永醸造 藤沢工場

 東京醸造の藤沢工場を落札した寿屋は、落札の翌年1956年(昭和31年)に 工場を改修し操業を始めたものの、 1958年(昭和33年)にはラインを新設した多摩川工場に移しました。 翌1959年(昭和34年)には、藤沢工場に合成清酒の製造設備を完成させ 合成清酒「千代田」の製産を始めましたが、 同年の暮れには工場を森永醸造株式会社に譲渡しました。 森永醸造は、藤沢工場で合成清酒「千石」や焼酎などを造りましたが、 1960年代後半に工場は閉鎖され 跡地は西友藤沢店(現在はOKストア藤沢店)になりました。

洋酒

「神奈川と国産ウイスキー」も参照

 1949年(昭和24年)に酒類の配給制が終わり、 翌1950年(昭和25年)に雑酒(洋酒)の価格統制が撤廃されると 数多くの企業が洋酒の製造へ参入していきました。 神奈川でも小田原市国府津の鈴木酒造店が造った「BlueBells」や 横浜市戸塚区に工場があったミュンヘンビール株式会社の「ミュンヘンビール」 などの名前がみられます。 ですが、参入企業の増加は競争の激化を招き、多くは昭和30年代に姿を消します。

東京醸造

 「トミーウイスキー」の東京醸造は、寿屋とニッカに次ぐ ウイスキーメーカーとして戦後をむかえました。 1950年(昭和25年)ごろより三級ウイスキーを中心にウイスキー市場が拡大すると、 1951年(昭和26年)に「トミーモルトウイスキー白ラベル」を発売しました。
 ところが、洋酒業界の競争の激化から経営不振に陥ってしまい、 1954年(昭和29年)には酒税を滞納したため東京国税局に差し押さえられてしまいました。 そして1955年(昭和30年)には、工場が競売に付され倒産してしまいました。

サントリー 多摩川工場

 競売された東京醸造の藤沢工場を落札したのは寿屋(現サントリー)でした。 寿屋は落札した藤沢工場のオートメーション化などの改装に着手し、 翌1956年(昭和31年)から赤玉ポートワインや ウイスキーなどのボトリングを開始しました。
 しかし、早くも2年後の1958年(昭和33年)には 川崎市に多摩川工場の第一期工事を落成させ、 設備やラインを藤沢工場から移転させました。 翌年には第二期工事のリキュール工場が竣工し操業を始めました。 サントリーは2002年まで多摩川工場で 製品のブレンディングやボトリングをしていましたが、 栃木県の梓の森工場にラインを移管して工場を閉鎖しました。 跡地には、サントリー商品開発センターが建てられました。

メルシャン 藤沢工場

 1961年、三楽酒造は、藤沢の大和醸造を吸収合併しました。 翌年には「オーシャンウイスキー」を造っていたオーシャン株式会社も吸収合併し、 社名を三楽オーシャン株式会社と変えました。 旧大和醸造の藤沢工場は1966年に洋酒専門の工場となり、 「オーシャンウイスキー」等のブレンディング、 ボトリングなどを行うようになりました。

ドーバー酒造 厚木工場

 1980年には、ドーバー洋酒貿易株式会社の子会社ドーバー酒造株式会社の 厚木工場が竣工され、菓子用洋酒などが生産されています。

ワイン

 ワインの副産物である酒石酸が潜水艦などのソナーの材料となるため、 戦時中は県内でもワインの醸造が奨励されました。 そのため終戦直後には藤沢、茅ヶ崎や川崎などのブドウ園でも ワインの醸造が行われていました。 ですが、それら小規模なワイナリーは1960年代には 醸造を止めてしまいました。

皇国葡萄酒

 戦後、皇国葡萄酒株式会社(帷子葡萄園)は 当時のワイン市場の主流であった甘味果実酒に力を入れるようになりました。 1951年(昭和26年)頃には、「赤玉ポートワイン」の寿屋、 「蜂ブドー酒」の神谷酒造(株)(現在の合同酒精(株))、 「大黒葡萄酒」の大黒葡萄酒(株)(後のオーシャン(株)) に次ぐワインメーカーとなっていました。
 ですが、激しい競争の中、経営状態は良くなかったようです。 1954年(昭和29年)には酒税滞納で東京国税局に差し押さえられ、 競売にふされてしまいました。 その時は営業を継続できたものの、1957年(昭和32年)には再び 滞納処分として東京国税局によって公売にふされてしまいました。 そのため、本社を元の帷子葡萄園から相模原葡萄園に移し、 社名を相模醸造株式会社、銘柄も「ピノーワイン」と変えて 営業を続けました。 しかし、相模醸造は昭和40年ごろに廃業してしまいました。

ゲイマーワイン

 フランスで洋裁を学んだ戸田康子は 1930年(昭和5年)に東京の丸ビルに洋装店を開き、 翌年、フランス留学の際に知り合った南仏プロヴァンスのブドウ園の息子 マーセル・ゲイマーと結婚しました。 戦後、夫妻は知人が経営に失敗したブドウ園を買い取り、 1952年(昭和27年)に相模原市大野台にゲイマーぶどう園 (後のゲイマーワイン株式会社)を開きました。
 ブドウ園は約4万5千坪の敷地があり、 フランスから取り寄せた欧州種のブドウを フランス流の株造りにして栽培していました。 当初は、88種類のブドウを栽培していましたが、 日本の気候に合ったセーベル系(赤ワインと白ワイン)と カベルネソーヴィニヨン系の(赤ワイン)の約10種類が残りました。 栽培したブドウで、「MUIDOR」という銘柄の赤ワインと白ワイン、 「CARTAGENE」という銘柄の赤と白の甘味果実酒、 「EAU_DE_VIE」という銘柄のブランデーを造っていました。
 ブドウ園では毎年秋に在日フランス人協会が主催する ヴァンダンジュ(収穫祭)が開かれ、 フランス大使夫妻以下、多くの人々が集まり賑わったそうです。
 夫のマーセルが亡くなった後、ブドウの作付け面積が約2万坪に縮小されたものの ブドウの収穫と醸造を続けられました。 しかし、康子も亡くなり十数年経った2004年にブドウ園は閉園してしまいました。 そのため、ブドウの栽培から醸造、瓶詰めまで行うシャトーは、 神奈川県からなくなりました。

ゲイマーぶどう園1 ゲイマーぶどう園2
ゲイマーぶどう園(2007年11月撮影) 閉園から約3年経っていたが、草刈りなどの手入れがされていた。

メルシャン 藤沢工場

 1961年(昭和36年)にメルシャンワインの日清醸造(株)、 翌年に大黒葡萄酒のオーシャン(株)を吸収合併した 三楽オーシャン(株)(現メルシャン(株))は、 ワイン製造のトップ企業となりました。 その藤沢工場では、輸入ブドウ果汁を使った醸造、 国産ワインや輸入ワインのボトリングなどが行われています。 そのため、意外なことかもしれませんが、 2006年度(平成18年度)の神奈川県における果実酒の製成数量や課税移出数量は 山梨県に次いで多く、国内二位のワインの産地となっています。

ビール

麒麟麦酒 横浜工場

 1949年(昭和24年)、過度経済力集中排除法により 70%を越えるシェアをしめていた大日本麦酒は 朝日麦酒株式会社と日本麦酒株式会社(後のサッポロビール(株))に分割されました。 そのため、ビール業界は、朝日麦酒、日本麦酒、麒麟麦酒の三社体制になりました。 新規に参入できた企業も、ビール酒造免許の最低製造数量基準のハードルが高かったため、 宝酒造(後に撤退)とサントリーだけでした。 旧大日本麦酒の二社が分割の後遺症に苦しみ、 新規参入の企業が伸び悩む中、麒麟麦酒はシェアを伸ばし続け、 1972年にはシェアが60%を越えました。
 横浜工場も麒麟麦酒の主力工場として生産をし続け、 1961年(昭和36年)には製瓶工場の跡地に第二工場が完成しました。 1988年(昭和63年)からは、操業を続けながらの リニューアル工事が行われることになり、 1991年(平成3年)に新工場が完成して操業を開始しました。 現在でも、横浜工場は年間で50万kLもの生産能力を持つ 神奈川県下最大のビール工場として操業を続けています。
 1991年(平成3年)の横浜工場リニューアル工事完成の際、 敷地内に明治時代の醸造所の外観を模した建物の パブブルワリー・スプリングバレーが開業しました。 店内には小規模醸造設備が設けられて、 オリジナルのビールが醸造されています。

パブブルワリー「スプリングバレー」
パブブルワリー「スプリングバレー」

地ビール

 1994年の酒税法改正によりビールの最低製造数量基準が 2000kLから60kLに引き下げされました。 それをうけて、いわゆる地ビールの生産が始まりました。 神奈川でも多くの企業がビール醸造に参入しましたが、 ビールの泡のように消えていった醸造所も多くありました。 2007年現在、7軒の醸造所が神奈川で地ビールを造っています。

アサヒビール 神奈川工場

 2002年には、前年にビールと発泡酒を含めたシェアでも麒麟麦酒を抜いた アサヒビール株式会社が南足柄市に神奈川工場を竣工させました。 大田区にあった東京工場の機能を移転させたもので、 年産15万kLの生産設備をもっています。

発泡酒

合成麦酒→発泡酒の登場

 第二次大戦中には、米だけでなく、 ビールの原材料である大麦の供給も不足しました。 そのため、大麦を使わないビール風の飲料「合成麦酒」の研究が 大日本麦酒などを中心になされました。 合成麦酒の原材料は甘藷(サツマイモ)とホップであり、 現在のいわゆる第三のビールに相当するものでした。
 戦争が終わると、最低生産量などの参入障壁の高いビールではなく、 発泡酒と名前を変えた合成麦酒に参入する企業が現れるようになりました。 発泡酒に一定量までの麦芽の使用が認められるようになったことや、 ビールよりも参入コストと税金が少ないことも追い風になりました。 また、様々な発泡酒(合成麦酒)製造法が発明されました。
 神奈川に関係した企業としては、前述のミュンヘンビール(株)がありました。 「ミュンヘンビール」といってもドイツ風のビールではなく、 果実酒にホップを加え炭酸を添加した発泡酒だったそうです。 その他には「ミリオン・ビーヤ」を販売した太洋醸造株式会社がありました。 政治家や財界人が出資して設立された太洋醸造は、 1951年(昭和26年)から横浜市鶴見区の東京麦酒の元工場で試験醸造を行った後に 東京都台東区へ工場を移転し本格的な製産をはじめました。 しかし、発泡酒に参入した企業の多くは、数年で撤退を余儀なくされました。

 三楽オーシャン(現メルシャン)は 将来のビール業界への参入をにらんで、発泡酒の仮免許を取得し 技術者をドイツへ派遣しました。 しかし、先にビールに新規参入した宝酒造やサントリーの苦戦をみて 計画を白紙撤回してしまいました。

現代の発泡酒

 長い間、発泡酒は酒税法で定義されているものの、 販売している企業がない休眠状態にありました。 (アサヒビールが1984年(昭和59年)に「アサヒビールカクテルBE」、 サッポロビールが1986年(昭和61年)に東海四県限定で 「ビヤカクテル バンブー」を発売しましたが、 短期間の販売で終わっています。) しかし、1994年(平成6年)にサントリーがホップスを発売したことにより、 低価格ビール風飲料として蘇ることになりました。 現在、神奈川では麒麟麦酒の横浜工場とアサヒビールの神奈川工場で ビールより低価格な発泡酒が造られています。
 また、県内の地ビールの醸造所の中には、 果実やスパイスなどを使うため、日本の酒税法上はビールでなく 発泡酒と表示しなければならない製品を醸造しているところもあります。


参考文献
酒造組合中央会沿革史 編者:日本酒造組合中央会沿革史編集室
神奈川県史 通史編3近世(2) 通史編6近代・現代(3) 編者:神奈川県
茶・煙草・清酒・麦酒・清涼飲料水ニ関スル調査
 (明治前期産業発達史資料 別冊96(2)) 編者:鉄道省運輸局(明治文献資料刊行会)
神奈川県工場要覧 編者:神奈川県工場協会
神奈川県工場名簿 編者:横浜商工会議所
誠話採筆 上(神奈川叢書第二編)
日本の酒 著者:住江 金之
全国酒類醸造統計表 著者:高崎 脩助
久保田百五十年史 編者:長田 美里居
うまい酒と酒税法 編者:三木 義一
藤沢市史 第六巻 通史編 編者:藤沢市史編さん委員会
酒類産業30年 戦後発展の軌跡 編者:醸造産業新聞社編集局
新版 世界の酒事典 著者:稲保 幸
大日本洋酒罐詰沿革史 編者:風戸 弥太郎
大日本洋酒缶詰沿革史 編者:日本和洋酒缶詰新聞社
大日本麦酒三十年史 編者:濱田 徳太郎
麒麟麦酒五十年史 編者:麒麟麦酒
麒麟麦酒の歴史 戦後編 編者:麒麟麦酒広報部社史編纂室
麒麟麦酒の歴史 続戦後編 編者:麒麟麦酒広報部社史編纂室
麒麟麦酒の歴史 新戦後編 編者:麒麟麦酒広報部社史編纂室
ビールと文明開化の横浜 編者:麒麟麦酒株式会社
サッポロビール120年史 編者:サッポロビール広報部社史編纂室
ASAHI 100 編者:アサヒビール株式会社社史資料室
たかがビールされどビール 著者:松井康雄
ヒゲと勲章 著者:竹鶴政考
ウイスキーと私 著者:竹鶴政孝
三楽50年史 編者:三楽株式会社
サントリーの70年 1やってみなはれ 2みとくんなはれ 編者:サン・アド サントリー株式会社
洋酒のアウトライン 著者:中村 豊雄
東京商業会議所会員列伝 編者:山寺 清二郎
明治期の多摩川流域におけるビール業の研究 著者:牛米 努
新装版 ビール・地ビール・発泡酒 著者:大草 昭
相鉄瓦版第116号 編者:相模鉄道株式会社
  (国産ビールは横浜から始まった 著者:くさまとしろう)
相鉄瓦版第130号 編者:相模鉄道株式会社
  (相鉄線沿線にみる文化事始め 著者:くさまとしろう)
保土ケ谷史 編者:保土ケ谷区郷土史刊行委員部
神奈川県園芸発達史 著者:富樫 常治
ワイン入門 著者:片方 善治
世界のワイン5 日本 U.S.A. オーストラリア 編者:日本テレビ
人、夢に暮らす 著者:足立 倫行


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最終更新日2008年3月12日