野州戦争 第一章
慶応四(1868)年四月十六日〜十七日

〜大鳥圭介率いる旧幕府軍江戸を脱走。小山宿周辺の戦い、知将大鳥、新政府軍を撃破する〜

野州戦争の概略

 鳥羽伏見の戦い以降、初めて行なわれた正規軍同士の大規模な戦闘が野州戦争です。江戸城無血開城に不満を持った幕臣や歩兵の多くは悉く江戸を脱走し、元歩兵奉行大鳥圭介を総督として徳川家霊廟の日光目指し進軍を開始しました。この日光を目指し、野州を進軍する大鳥圭介率いる旧幕府江戸脱走軍(以下「大鳥軍」)と、新政府軍との間に行なわれた諸戦闘が野州戦争です。

 野州戦争の特徴としては、「装備と戦略・戦術の面で旧幕府軍(大鳥軍)が新政府軍を凌駕するという、一般の認識とは異なる事態がたびたび発生した」と、「大鳥軍が策源地を持たない流浪の軍勢だった」の二つが挙げられるでしょう。
 前者については、特に前半の戦いではこの傾向が顕著に現れ、大鳥軍が装備の面で新政府軍を圧倒しました。また総督の大鳥圭介が当時一流の軍事テクノクラートだった事もあり、未だ近代化が不完全の新政府軍を大鳥軍が戦術の点で凌駕する場面が幾多も見られるなど、一般の認識とは異なる戦いが繰り広げられる事になります。
 後者については、戊辰戦争に参加した大半の軍勢は、新政府軍・反新政府軍問わず殆どが、策源地を持つ諸藩兵によって構成された封建軍隊でした。一方、大鳥軍は旧幕府歩兵や親幕派の幕臣勢など策源地を持たない脱走軍により構成されていました。策源地を持たない事により、策源地を持つ新政府軍と比べて補給の点では不利な組織という実情が、特に野州戦争の後半に露呈する事になります。
 このように野州戦争は他の戊辰戦争に比べて異色の戦いでした、しかし上記の通り大鳥軍が封建主義に属さない流浪の集団だった事もあり、記録が諸藩兵と比べて乏しく、一般の知名度が乏しいというのが実情と言えましょう。当サイトでは、そのような野州戦争を、小山宿周辺の戦闘から今市宿での戦闘までを記述させて頂きます。


野州戦争に至るまでの経緯
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徳川慶喜の恭順から江戸城無血開城まで
 鳥羽伏見の戦いの勝利は、新政府内でそれまで主導権を握っていた公議政体派から、倒幕派が主導権を奪う事を意味しました。この倒幕派の主導の元で、新政府は絶対主義による国内統一を目指す事になり、まずは山陽・山陰・四国・九州の西国を平定します。西国を平定して後方の安全を確保した新政府軍は、東海道・東山道・北陸道の三方から江戸に向かい進撃を開始します。徳川幕府の根拠地である江戸の占領と、前将軍の徳川慶喜の討伐がその目標でした。

 新政府軍の動きに対し慶喜は、鳥羽伏見の敗戦から逃げ帰ってきた当初こそ、小栗忠順等が主張する抗戦派を支持していました。しかし聡明な慶喜の頭脳では、幾ら小栗の戦略が優れていても、太平の世に慣れきってすっかり惰弱となった旗本が、果たして薩長の精鋭を主力とした新政府軍に勝てるのかとの疑問が生じます。元々幕府が幕府歩兵を編成したのは、惰弱なくせにプライドだけは高い旗本は西洋軍事訓練が進まないので、町人・農民等を徴募する事にしたのです。しかし西洋訓練を行った幕府歩兵隊をもってしても鳥羽伏見の戦いで新政府軍に敗れたのですから、幕府歩兵の力を熟知していた慶喜としては、旗本を幾ら集めても新政府軍に勝てないと判断します。このように判断すると慶喜は、それまで支持していた小栗を更迭し、代わりに恭順派の勝海舟を登用し新政府に恭順の姿勢を取るようになりました。この変わり身の早い対応こそ、聡明で明敏なものの胆力が無いと言われる慶喜の人間性を表していると言えるでしょう。
 元々慶喜と勝は不仲だった為、慶喜は長い間勝を冷遇していました。しかし旗本では新政府軍に勝てないと判断すると、徳川家の安泰と何よりも自身の命の保証を得る為に、掌を返してそれまで冷遇していた勝を登用して新政府軍との折衝に当たらせます。最後の幕閣(この時期徳川幕府は消滅しているものの、便宜上こう呼びます)の事実上の首班となった陸軍総裁の勝は、東海道先鋒総督府(以下東海道軍と略)と共に東海道を進軍する大総督府と交渉に入りました。この勝や幕臣山岡鉄舟と大総督府参謀西郷隆盛との交渉は有名なので、ここでは割愛させて頂くものの、この交渉により東海道軍による江戸城攻撃は回避され、四月十一日に江戸城は無血開城される事になります。一方上野寛永寺で謹慎していた前将軍慶喜は江戸城無血開城と同じ日の朝、故郷である水戸に旅立ち、その地で謹慎する事になるのです。

大鳥圭介率いる旧幕府江戸脱走軍、日光に向け進軍開始
 江戸城は無血開城される事になったものの、この無血開城を潔しとしない元歩兵奉行の大鳥圭介は、十一日夜に江戸法恩寺で幕府歩兵伝習第二大隊士官の本多幸七朗大川正次郎等と合流した後、彼等と共に伝習第二大隊を率いて江戸を脱走します。この江戸脱走は大鳥達だけではなく、他の歩兵隊や幕臣達などが続々と江戸を脱走する事になりました。脱走した者の内一部は幕臣福田道直に率いられ房総半島に向かったものの(後に徳川義軍府と呼ばれる)、多くは下総の市川宿に集結しており、大鳥もまたこの市川宿に向かいます。
 市川宿は実に多くの軍勢が集結していたものの、これらの軍勢を率いる諸隊長達が弘法寺大林院にて、全軍を率いる主将に恵まれずに軍議をしていた所に、西洋軍事を学んだ元歩兵奉行の大鳥が到着したのですから、諸隊長は大鳥に全軍の総督に就く事を要請します。この要請を受けて大鳥も総督に就く事を了承し、無血開城した江戸の情勢がどのようになるか予断を許さない状況の中、軍勢を一旦徳川家の霊廟である日光に向かわせ、この地で世の中の動きを見定めようと判断しました。
 旧幕府軍の諸隊長が軍議を行っていた地については、同じく市川宿の総寧寺ではないかとも書物に書かれているものの、地元の人からも聞き取りを行なった山崎有信編版の南柯紀行に、弘法寺大林院で軍議が行われたと記述されています。ただし弘法寺大林院自体は、明治22年の火災にて焼失してしまい、現存していません。

 かくして江戸を脱走した旧幕府軍(以降大鳥軍と記述します)は、東照大権現の旗を掲げて日光に向け出発します。しかし二千余もの大軍となった大鳥軍が一斉に進軍するのは、当時の道路整備状況や宿場町の関係から不可能と判断した大鳥は、軍勢を三つに分けて進軍させる事とするのです。
 大鳥自らが率い、垣沢勇記が参謀を勤める中軍:幕府歩兵伝習第ニ大隊(大隊長本多幸七郎)と、後軍:幕府歩兵第七連隊(大隊長米田桂次郎、実戦力は6個小隊程)・御料兵(隊長加藤平内、幕府天領からの徴募兵)は鬼怒川西岸の日光東往還(日光東街道)を北上する事となりました。この時大鳥が主街道となる日光街道を避けたのは、無用な戦闘を避けるためと、当時奥羽諸藩の多くが江戸を引き揚げる際に日光街道を利用したため、宿場町が混雑し疲弊していたので、これを避けるためだったと伝えられます。
 会津藩士の秋月登之助を司令とし、元新選組副長の土方歳三を参謀とする前軍:幕府歩兵伝習第一大隊(大隊長は秋月)・桑名藩兵(町田老之丞立見鑑三郎松浦秀八等が指揮)・回天隊(隊長相馬左金吾、旗本による脱走軍)・別伝習隊(会津藩の農兵隊)・新選組等は鬼怒川東岸の街道を北上し、街道沿いの小藩から物資を徴発しつつ日光目指す事になりました。この前軍と中・後軍は宇都宮の地で合流する予定になっており、当初から宇都宮城の攻略を目指していたと思われます。
 また前軍と中・後軍による大鳥軍本隊とは別に、草風隊(隊長天野加賀守、旗本による士官部隊)・貫義隊(隊長松平兵庫守、旗本による刀槍部隊)・凌霜隊(隊長朝比奈茂吉、郡上藩の脱走部隊)の三隊から構成される旧幕府江戸脱走軍も、日光目指して日光街道の北上を開始しました。この三隊は江戸脱走当時は大鳥の指揮下ではなかったものの、後に三隊とも大鳥の指揮下に入る事になるので、当サイトではこの三隊を大鳥軍別働隊と認識しています。

伝習隊について
 大鳥軍の主力となった伝習隊について簡単に説明させて頂きます。旧幕府が西洋式の歩兵を編成しようとしたというのは上記させて頂いた通りですけれども、この西洋式の歩兵隊を編成するに当たっての模範部隊であり、教導隊として編成されたのが伝習隊です。模範部隊であるため伝習隊はフランスの軍事顧問団から直接教育を受けた事により、他の幕府歩兵と比べて連度も高く、また他の幕府歩兵を教育するために士官の質も高い部隊でした。そして他の幕府歩兵の多くが前装施条銃のミニエー銃を装備するのに対し、伝習隊はナポレオン三世から供与された後装施条銃のシャスポー銃を装備するなど、正しく伝習隊は旧幕府軍の最精鋭部隊だったと言えましょう。

      

左:大鳥と本多・大川等が合流した、江戸法恩寺。
中:江戸川の土手に建つ、市川宿関所跡。
右:弘法寺大林院が建っていたと思われる付近の現況。現在は住宅地になっています。


野州世直し一揆と宇都宮藩の救援要請
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 大鳥軍が野州進軍を開始した中、当時の野州は混乱の渦中にありました。当時開国を原因とする物価の急上昇により、日本全国の経済が混乱しており、当然野州内の経済も混乱していました。更に上記の通り、当時の日光街道を始めとする野州内の諸街道は、江戸を退去して自藩に帰ろうとする奥羽諸藩の藩士家族や関係者でごった返しており、街道筋の宿場町はこの対応や賃金未払い等のトラブルにより物心共に疲弊していったのです。
 こうして経済的に疲弊する野州に、当時東上州で発生した世直し一揆が波及する事となりました。三月二十九日に壬生通りの安塚村で発生した一揆は瞬く間に周辺に波及し、特に日光街道を抱える宇都宮藩内で頻発します。一揆勢は日を追う毎に勢力を増して、物価の値下げと人足役の軽減を唱えつつ、また一方で豪農や商家を打ち壊していきました。
 領内を世直し一揆が頻発する状況の中、宇都宮藩は藩主不在という指導者不在の状態でした。当時の藩主戸田忠友は幕府の要職に就いていた経緯から、慶喜の擁護を行なうために二月十九日に京都を目指して江戸を出発したものの、三月十五日新政府から大津宿にて謹慎を言い渡され、領地が世直し一揆が頻発する中も大津宿で足止めされていたのです。
 藩主不在の宇都宮藩領に頻発する世直し一揆は、遂に四月三日には宇都宮宿の北端にそびえる八幡山に、五千とも三万とも伝えられる農民が集結する事になり、眼下の宇都宮城に圧力を加えます。この領内に頻発した世直し一揆に対して、当初宇都宮藩は融和策を取りました。しかし八幡山の占領を受けて、遂に宇都宮藩も武力討伐を決意、八幡山に宇都宮藩兵を派遣させました。派遣された宇都宮藩兵は、八幡山に篭る一揆勢に銃砲撃を加えた為、一揆勢は八幡山から退散したのです。
 八幡山に篭る一揆勢の駆逐には成功したものの、駆逐された一揆勢が領内の各地に出没したため、宇都宮藩兵は一揆に対応するために領内を東奔西走する事になり、結果宇都宮藩もまた疲弊していくのです。このように領内に起きた一揆勢の対応に追われる宇都宮藩の元に、今度は三月下旬に会津藩兵(隊長山川大蔵)が日光街道沿いの今市宿に進駐したとの一報が入りました。藩主不在の中で、藩論を新政府支持に纏め上げた宇都宮藩中老の県勇紀は、この会津藩兵の進駐に対して脅威を感じたものの、ただでさえ領内一揆の対応に疲弊している宇都宮藩に、会津藩兵に対抗する力は無いと判断します。このため三月三十日県自らが、江戸の新政府に救援を懇願するため向かう事になります。
 県の懇願を受けた当時板橋に本営を設けていた東山道先鋒総督府は、江戸と会津藩との中間に位置する宇都宮藩の戦略的重要性を考えて、宇都宮藩への救援軍の派遣を決断します。これを受け香川敬三を主将とする派遣隊が、四月二日に宇都宮に向け出兵する事が決定しました。
 今市宿に進駐した会津藩兵については、会津戊辰戦史に「先つ砲兵隊頭山川大蔵をして其の部下たる砲兵一番隊を引率して、三月十五日若松を発し南方面に向ふ」との記述があります。尚、この砲兵一番隊の隊長については、同書に「三月二十一日大蔵轉じて若年寄となり日向内記之に代わりて隊頭となる」との記述があり、砲兵一番隊の隊長が山川大蔵から日向内記に交代した事が書かれています。

野州世直し一揆の発祥の地になったと伝えられる、壬生町安塚の磐裂根裂神社


新政府東山道軍の香川隊派遣
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香川派遣隊の進発
 宇都宮藩へ救援軍の派遣を決定した東山道先鋒総督(以降「東山道軍」と略)は、その派遣隊の指揮官に水戸藩士香川敬三が任命されました。しかしこの香川の任命については、香川の能力が評価されたからではなく、岩倉具視の関係から選ばれたのではないかと推測します。元々香川は水戸藩を脱藩後に岩倉の知己を得ており、そしてこの東山道軍の総督と副総督には岩倉の息子が任命されていたのです。もっとも幾ら岩倉の息子達が飾り物の総督に祭り上げられていたとしても、薩摩藩士伊地知正治と土佐藩士板垣退助の両参謀が東山道軍の実権を握っていたので、岩倉の息子達には実権はありませんでした。しかし宇都宮藩からの救援要請があった時点では、江戸城がまだ無血開城されていなく、東山道軍を率いる伊地知や板垣も自らが赴くわけにはいかず、また薩摩藩・土佐藩・鳥取藩・大垣藩といった東山道軍の主力を割けない状況だったのです。東山道軍がこのような状況だったので、岩倉と知己の香川が前述の主力諸藩兵を含まない派遣隊を率いて宇都宮藩に向かう事になったのではないでしょうか。しかし能力ではなく縁故から選んだ人事は、後に派遣軍に大いなる困難を与える事になるのです。
 宇都宮藩救援部隊の人事に対し、東山道軍は司令だけではなく、副指令の人事でも失敗する事になります。派遣軍の出発に際して東山道軍は、長州藩士祖式金八郎を内参謀(朝廷直々の任命ではなく、東山道軍独自の任命による参謀)に任命しました。この祖式は長州藩の普門寺塾にて大村益次郎に士官としての教育を受けており、東山道軍内では長州藩施条銃足軽第一大隊の小隊長に任命されていたので、香川と比べたら軍事に通じていたと言えましょう。しかし軍事に通じていたといっても、祖式は小隊長の教育しか受けておらず、言わば東山道軍は小隊長の器しかない男を内参謀の重職に就けてしまったのです。
 かくして香川と祖式という指揮官としては不安な両名を仰いで、宇都宮藩救援軍(以降香川派遣隊と略)は出発する事になります。尚、香川と祖式以外の士官としては軍監平川和太郎(土佐)・斥候有馬藤太(薩摩)・同上田楠次(土佐)・同南部静太郎(土佐)が任命され、その指揮下として彦根藩兵3個小隊(小泉弥一右衛門隊・渡辺九朗左衛門隊・青木貞兵衛隊)・須坂藩兵1個小隊(小林要右衛門隊)・岩村田藩兵1個中隊相当(井上良蔵隊)・幕臣岡田善長手勢の半小隊による部隊を率いて宇都宮目指して出発しました。

祖式隊の結城派遣と、結城藩の御家騒動
 江戸を出発した香川派遣隊は宇都宮に向かう途中の越谷宿で二手に分かれ、香川率いる本隊は流山で元新選組局長の近藤勇を捕らえる事になります。この近藤の捕縛については、詳細を描いたサイトがたくさんありますので、幣サイトでは割愛させて頂きます。
 一方越谷宿で本隊と分かれた祖式率いる須坂藩兵1個小隊及び岡田兵分隊は、小金井宿で館林藩1個小隊(関口喜兵衛隊)を指揮下に加えて、佐幕派の藩主に占領された結城藩に向かう事になりました。

 当時多くの藩で行なわれたように、結城藩でも尊王派と佐幕派の政争が行なわれていました。しかし結城藩が他の藩と異なったのは、藩主水野勝知自らが熱心な佐幕派であり、藩内の大勢を占める尊王派と対立していた事です。藩主勝知の過剰な佐幕よりの考えに、危機感を覚えた尊王派の家臣達は遂に藩主交代の決断を計り、前藩主勝進の子である勝寛の擁立を試みるのでした。
 尊王派家臣達の動向に危機感を覚えた勝知は江戸藩邸を脱出し、既に脱藩していた佐幕派家臣と合流、更に彰義隊士数十名の援軍を得て藩地結城領を目指します。しばらくは藩主側と結城城在城の家臣達の間で交渉が行なわれたものの、遂に三月二十五日に戊辰戦争史他に例を見ない、藩主自らが自分の居城を攻めるという、結城城の攻防戦が開始されます。尊王派の家臣達は攻撃当初こそは防戦したものの、幾ら思想が違うといっても藩主に刃を向けるわけにはいかないと城の放棄を決意、城に火を放ち江戸に向かい落ちていきました。
 結城城を脱出した結城藩尊王派藩士達は、新政府軍に結城城の奪回を要請し、これを受け祖式率いる別働隊が結城城目指し進軍を開始したのです。

 結城城奪回を目指す祖式隊は、四月五日には結城藩領に到着し、払暁より結城城へ攻撃を開始します。この戦いでは祖式は戦力を二手に分け、須坂藩兵半小隊・館林藩兵半小隊を大手口に向かわせ、須坂藩兵半小隊・館林藩兵半小隊・岡田兵分隊を搦手口に向かわせました。この祖式隊の攻撃を受けると、勝知以下の佐幕派藩士及び彰義隊は抗戦らしい抗戦もせずに、城を脱出して上総成東の飛び領目指し逃走します。
 結城城を巡る戦いは、このように祖式隊の結城城占領により幕を閉じました。しかしこの結城城を巡る戦いを労無く勝利した事が、祖式隊の慢心に繋がったのではないでしょうか。

      

左・中:搦手口から見た結城城跡。
右:本丸と西館の間に掘られた空掘跡。

香川派遣隊宇都宮藩に到着
 一方の香川派遣隊も四月七日には宇都宮城に到着、前日の六日には前藩主忠恕が大津で謹慎中の忠友に代わり藩主に返り咲き入城した為、宇都宮藩の士気は高まりました。また香川は周辺諸藩に援軍を要請した為、これを受け宇都宮城に壬生藩砲兵隊(高須嘉司馬隊)・笠間藩兵576名(隊長中嶋主税)等の援軍が到着します。これらの援軍を得た香川は早速自ら兵を率いて今市宿に向かい、また有馬に間道を進ませて今市宿に向かわせました。香川率いる軍勢の前進を受けて、今市宿に駐留していた会津藩兵は今市宿から撤退したので香川は当初の任務を果たします。その後香川は余勢を駆って日光に進駐、この地に隠れていた前老中板倉勝静を捕らえる事に成功し、宇都宮城に連行して帰還する事になりました。
 このように当初の任務を成功させ、宇都宮城に在城していた香川の元に、十四日古河藩より大鳥軍が北上中のため援軍を乞うとの要請が入ります。援軍要請を受けた香川は、平川に軍勢を任せて古河藩救援の為に出兵させます。かくして野州戦争の火蓋が切って落とされる事となったのです。


第一次小山宿の戦い:四月十六日
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 古河藩救援の命を受けた東山道軍軍監の平川和太郎は、斥候の上田楠次南部静太郎を伴い、彦根藩兵2個小隊(渡辺九朗左衛門隊・青木貞兵衛隊)・壬生藩砲兵隊(高須嘉司馬隊)・笠間藩兵576名(隊長中嶋主税)の兵力を率いて、四月十五日に古河宿目指し日光街道を南下します。古河宿を目指す平川隊が翌十六日小山宿を通過した際、結城城の祖式金八朗より「結城に敵の大軍(大鳥中・後軍)が迫っているので、援軍を乞う」との援軍要請が入りました。援軍要請を受けた平川は進路を止め、全軍を反転させ小山宿に戻り、小山宿から結城宿に至る結城道に進路を転じて結城目指し進軍を開始します。こうして結城目指して進軍を開始した平川隊の元に、今度は小山宿に放っていた斥候より「小山宿目指し日光街道を北上する軍勢(大鳥軍別働隊)があり」との一報が入りました。
 新たなる敵勢の出現を知った平川は再び自軍を停止させ、再度自軍を反転させ小山宿目指し進軍させます。しかし反転した平川隊が小山宿に到着した時には、既に小山宿の南端には草風隊・貫義隊・凌霜隊による大鳥別働隊が侵入しており、平川は慌てて自軍を展開させ、先鋒を笠間藩兵・壬生藩砲兵隊、後衛彦根藩兵の布陣で行軍を続けました。
 一方大鳥軍別働隊も展開しつつ北上を続けたので、遂に小山宿内で両軍は激突する事になります。この戦いでの大鳥軍別働隊の兵力は、草風隊が百名とも二百名とも言われ、貫義隊が約百名、凌霜隊が47名と伝えられ、総勢250〜350名余だったと思われます。
 これに対し新政府軍は笠間藩兵だけで500名を超えており、戦力の面では新政府軍の方が大鳥軍別働隊を圧倒していました。ただし笠間藩兵は典型的な封建主義軍隊であり、総勢が576名といっても、これには従者や人夫が多く含まれており、足軽以上の純粋な戦闘員(士分)は245名だったと伝えられ、総勢程の戦力ではなかったとも伝えられます。しかし笠間藩兵の実際の戦闘員が245名だったとしても、兵力的には新政府軍の互角以上だったというのが実情でしょう。そしてこの兵力的には互角以上の新政府軍は笠間藩兵が先鋒となり、大鳥軍別働隊に攻撃を開始しました。しかし攻撃を開始した笠間藩兵の大半は具足に身を包む戦国時代と変わらない槍隊であり銃隊は殆ど存在せず、僅かながら存在する銃隊は火縄銃を装備するという旧態依然とした軍勢でした。また水戸藩から供与された大砲を八門保有していたものの、こちらも旧式砲であり、正に戦国時代さながらの軍勢が大鳥軍別働隊に攻めかかったのです。

 旧態依然の笠間藩兵に対し、大鳥軍別働隊は凌霜隊が後装施条銃であり、七発連続発射が可能なスペンサー銃を装備していました。草風隊もまたフランス人軍事顧問団に訓練を受けていた事からも後装施条銃か、悪くても前装施条銃のミニエー銃を装備していたと考えられます。貫義隊こそ刀槍部隊だったものの、大鳥軍別働隊は火力の面では笠間藩兵を完全に圧倒していたのです(戊辰戦争時で使われた小銃についての簡単な説明は戊辰戦争時の軍事基礎知識を参照下さい)。
 この火力差を実証するようにいざ戦闘が始まると、凌霜隊と草風隊の猛射撃の前に笠間藩槍隊は次々に倒れ、笠間藩番頭であり主力である槍隊の隊長である川崎忠兵衛が戦死するなど、多くの死傷者を出してその攻撃は頓挫します。笠間藩兵の攻撃が頓挫すると、今度は凌霜隊と草風隊の援護の元で貫義隊が新政府軍に突撃を行います。上記の通り貫義隊は刀槍部隊ですので、凌霜隊と草風隊に比べて火力戦では弱かったものの、全員が剣槍術の師範や達人で構成されていたので白兵戦には滅法強く、この貫義隊の突撃を受け笠間藩兵は総崩れとなりました。この大鳥軍別働隊の攻撃は笠間藩兵を破っただけでは留まらず、笠間藩兵と共に先鋒を務めた壬生藩砲兵隊も蹴散らします。こうして大鳥軍別働隊に蹴散らされた笠間藩兵と壬生藩砲兵隊、そして斥候の上田は、そのまま結城目指して結城道を敗走する事になりました。
 第一次小山宿の戦いに参加した、凌霜隊の記録『心苦雑記』には、この日の戦いの隊列について「味方は益々進み、麦畑へ押し出して散伏隊となって、敵陣への距離が五、六丁と思う時、味方は二手に別れ、貫義隊は小山宿へ寄せて敵の正面に向かった。凌霜隊は、右の方の小山新田という畑に陣取りした」との記述があります。

 笠間藩兵と壬生藩砲兵隊が蹴散らされるのを見た平川は、これ以上の抗戦を諦めて小山宿北部の家々に火を放ち、彦根藩兵を率いて日光街道を北上して逃走します。一方の大鳥軍別働隊の目標はまずは今市宿に出る事でしたので、新政府軍を追撃せずに進路を佐野道に転じて生駒宿に向かったのです。

小山宿付近の日光街道の現況。小山宿での戦いでは新政府軍と大鳥軍が、この街道上で数回に渡って戦闘を繰り広げた。


諸川宿・武井宿周辺の戦い:四月十六日
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 去る四月五日に結城城を占領した祖式金八郎は、四月四日に発生した真岡代官領内の世直し一揆を鎮圧するために、祖式隊の中から館林藩兵半小隊(関口喜兵衛隊)を真岡代官領に派遣するなどの対応しながら、自身は残りを率いて結城城に留まり続けていました。こうして結城城に留まる祖式の元に十五日、旧幕府軍(大鳥軍)が鬼怒川西岸の日光東往還と、鬼怒川東岸の間道の双方から北上中との一報が入ります。報告を受けて祖式は、須坂藩兵半小隊(剣持由右衛門隊)・館林藩兵半小隊(石川喜四朗隊)・岡田兵分隊及び砲一門・結城藩兵若干を日光東往還の武井宿(結城宿と諸川宿の間の宿場)に派遣し、須坂藩兵半小隊(小林要右衛門隊)及び砲一門・館林藩兵若干・結城藩兵若干は鬼怒川西岸の久保田河岸(鬼怒川の渡河地点)を押さえるために派遣しました。
 祖式隊の上記二箇所への派遣は一見理にかなったように思われます、しかし部隊の派遣自体は的確でも、派遣した兵力があまりにも少な過ぎました。祖式の元には大鳥軍がかなりの大軍だという報告が入っていた筈です、その大軍に対しこのような少数の兵を派遣したとしても、それは無謀な計画だと言わざるを得ません。これについては、「そもそも祖式隊が少数なのだから仕方ないのではないか」との意見があるかもしれません、しかし元々が少数の兵力なら結城城に篭って援軍を待つべきで、いたずらに兵力を分散したのは、先の結城城の戦いで勝利した事により祖式が慢心したのではないでしょうか。また大鳥軍の接近を知った祖式が、宇都宮を進発した平川隊に援軍を求めた事が、上記の第一次小山宿の戦いのきっかけとなりましたので、この十六日に繰り広げられた二つの戦いは、共に祖式によって引き起こされたと言えましょう。

 一方で十五日を日光東往還の諸川宿に宿陣した大鳥圭介自身は、そもそも結城に向かうつもりなどはなく、十六日は小山宿に向かう予定でした。そのような大鳥の元に斥候から、諸川宿の次の宿場である武井宿に百名ほどの新政府軍が進駐しているとの一報が入ります。報告を受けた大鳥は、日光東往還を行軍する以上は武井村に進駐する新政府軍との戦いは避けられないと判断し、新政府軍との開戦を決意するのです。
 大鳥は戦いに先駆けて、諸川宿で宿陣した自らが率いる中軍の伝習第二大隊を二つに分け、大隊長本多幸七郎に半大隊を率いさせて小山宿に向かわせ、残りの半大隊(4個小隊)を軍監の滝川充太郎に率いさせて武井宿に向かわせます。また後方の仁連宿に宿陣していた後軍の歩兵第七連隊と御料兵に、諸川宿への前進を命じます。
 武井宿に向かい日光東往還を北上した滝川率いる伝習第二大隊4個小隊は、一番小隊(小隊長山口朴郎)と二番小隊(小隊長浅田惟季)が先行し、三番小隊(小隊長板橋淳次朗)と四番小隊(小隊長天野雲平)が後から続きます。

      

左・中:大鳥中・後軍が宿陣した宿場町の名残を留める、昔ながらの建物が残る諸川宿の現況。
右:滝川率いる伝習隊4個小隊が進軍した、日光東往還の現況。

 大鳥中・後軍の動きに対し新政府軍は、久保田河岸に進駐していた部隊が、鬼怒川東岸の間道を進む大鳥前軍の接近がまだ遠いと判断した事により計画を変更します。まず武井宿に進駐した部隊を更に前進させ諸川宿に目指させ、久保田河岸の部隊も諸川宿に向かう事により、諸川宿での大鳥軍の挟撃を試みます(この計画が祖式の発案だったかは不明)。この計画は戦術としては悪くはないものの、大鳥軍と比べるとあまりにも少ない兵力での挟撃を成功するには奇襲を行なうしかなく、難しい作戦だったというのはその後を見れば明らかでした。
 大鳥中・後軍の挟撃を狙う武井宿の新政府軍が前進を続けたため、武井宿と諸川宿の中間に位置する大戦防(台仙房)と呼ばれる高台で、新政府軍と大鳥軍は激突する事になります。当時の大戦防は木々が生い茂っており、視界が悪かったため流石の伝習隊所持のシャスポー銃も効果を発揮せず、しばらくは膠着状態が続きました。しかし伝習隊一番小隊が、迂回して新政府軍の側面に回りこむ事に成功し、側面からシャスポー銃を猛射撃した事により戦局は一転します。この伝習隊一番隊の猛射撃の前に、火力に劣る須坂藩兵半小隊・館林藩兵半小隊・岡田兵分隊は悉く崩れ去り、館林藩半隊長である石川は戦傷死し、岡田兵は砲を放棄したまま逃走するなど、新政府軍は総崩れとなり結城城目指して敗走しました。

 大戦防で新政府軍を撃破した大鳥中・後軍だったものの、本陣としていた諸川宿の東方に、新たなる敵である須坂藩兵半小隊・館林藩兵と結城藩兵若干が現れます。この時大鳥は直属の伝習第二大隊の半分を大戦防に向かわせ、もう半分は小山宿に向かわせていたため、この時点では諸川宿の兵力は殆ど居ない危険な状態でした。しかし大鳥は小山宿に向かった伝習隊半大隊と、仁連宿を出発した第七連隊を呼び寄せた為、新政府軍が諸川宿を突くその前に、防御体制を辛うじて固める事に成功します。そして大戦防に向かった滝川率いる伝習隊半大隊も引き返してきたため、奇襲を狙った新政府軍は逆に撃退され、こちらの部隊も結城目指して敗走する事になります。
 こうして初陣となる武井宿周辺の戦闘で、大鳥中・後軍は見事勝利を収める事に成功しました。しかし初陣だったためか、戦後の収集に手間取り、結局この日も諸川宿に宿陣する事となり、小山宿を目指すのは翌日に延期となるのです。

      

左:大戦防付近の現況。当時この地には物見の松が生えていました。
中:結城市泰平寺跡に建つ、大戦防の戦い後に戦傷死した館林藩半隊長石川喜四朗の墓(右)と、館林藩兵の墓(左)
右:結城市光福寺に建つ須坂藩兵の墓。


第二次小山宿の戦い:四月十七日
(地図)

 平川隊の敗報を聞いた香川は、宇都宮城に残留する香川派遣隊の残りを率いて、平川隊救援の為に出兵します。彦根藩兵1個小隊(小泉弥一右衛門隊)・岩村田藩兵1個中隊相当(井上良蔵隊)・宇都宮藩1個小隊・岡田兵分隊による香川が直接率いる部隊は日光街道を南下して、十七日朝には新田宿に宿陣していた平川隊と合流したのです。平川隊と合流した香川隊は、彦根藩兵3個小隊(小泉弥一右衛門隊・渡辺九朗左衛門隊・青木貞兵衛隊)を先鋒として小山宿目指して日光街道を更に南下、正午頃に小山宿に到着し布陣を開始します。この布陣はまず街道筋に小泉弥一右衛門隊と砲一門、右翼に青木貞兵衛隊、左翼に渡辺九朗左衛門隊が布陣し、その後方に諸藩兵が布陣する形でした。

 一方大鳥中・後軍は、この日は御料兵を先鋒として諸川宿を出発し、小山宿目指して行軍します。こうして小山宿目指す大鳥の元に、斥候より小山宿に新政府軍が布陣しているとの一報が入ると、大鳥は敵の側面を突くために伝習第二大隊二番小隊(小隊長浅田惟季)と八番小隊(小隊長大川正次郎)の2個小隊を別働隊として、結城街道方面に向かわせます。

 やがて前進を続ける御料兵は小山宿に侵入、街道筋に展開する彦根藩兵と戦端を開きます。兵力的には三個小隊の彦根藩兵より、二百名余と言われる御料兵の方が上回っていました。しかし陣地を設けて迎撃の準備を整えていた彦野藩兵に対して、小山宿に侵入したばかりの御料兵はまだ戦闘準備が整っていなかったので、初戦は彦根藩兵の有利に進み、御料兵は後退を余儀なくされます。
 御料兵の危機を知った大鳥は、伝習第二大隊から五番小隊(小隊長大岡新吾)を引き抜き、新政府軍の左翼を突く為に迂回させます。この時彦根藩兵3個小隊は、御料兵の後退に合わせて前進しており、こうして前進する彦根藩兵の左翼に伝習隊八番隊は猛射撃を開始します。伝習隊のシャスポー銃による猛射撃を受け彦根藩兵は混乱し、更にこの時結城街道を進む伝習隊2個小隊が小山宿北端に現れ、新政府軍の左後方から猛射撃を開始しました。
 この攻撃により香川隊の左翼部隊が、大鳥軍の右翼部隊に包囲(一翼包囲)された状況となり、大鳥軍の右翼部隊が左旋回する事によって、香川隊は左翼から急速に瓦解したのです。
 大鳥軍は香川派遣隊の左翼が瓦解しても包囲の手を緩める事はなく、香川隊の右翼に布陣していた彦根藩青木貞兵衛隊は、撤退する間もなく後方を遮断される事になりました。後方を遮断された青木隊は脱出が不可能となり、前後から大鳥軍の攻撃を受け全滅したのです。ただし本隊と別行動をしていた青木隊の一部は生き残り、分隊規模になるものの青木隊という部隊は存続します。
 軍隊と言えども正面と比べて側面(翼)は防御力が弱いので、延翼運動ないし別働隊により、この防御力の弱い敵の翼ないし後方を攻撃して、敵の中枢を攻撃する事を、軍事用語で包囲と呼びます。

 惨敗した香川隊の残存部隊は、宇都宮目指し日光街道を敗走し、大鳥軍の追撃を避けるために、小山宿と新田宿の間に位置する喜沢村に火を放って逃走します。これに対し大鳥は第七連隊に追撃は命じたものの、殆どの部隊は小山宿で一旦休憩を取らせる事になりました。しかし勝利に浮かれる兵士達の中には飲酒して酩酊する者もあり、次の目的地である壬生通りの飯塚宿に中々出発出来ない状況でした。

      

左:小山市常光寺の阿弥陀如来像台座に残る弾痕(伝習隊のシャスポー銃痕?)
中:小山市天翁院に建つ、第二次小山宿の戦いで戦死した、彦根藩小隊長の青木貞兵衛戦死の碑
右:日光街道(右奥)と、結城道(左奥)の合流点の現況、別働隊の伝習隊はこの道を通って新政府軍を包囲した。


第三次小山宿の戦い:四月十七日
(地図)

 香川派遣隊と大鳥中・後軍が小山宿で激突した時、祖式隊は結城城に残留していました。しかし小山宿から両軍が戦闘を繰り広げる銃砲声が聞こえてくると、祖式は結城城に残留する部隊を率いて小山宿目指し出陣します。この祖式の出陣が大鳥中・後軍を小山宿で挟撃しようとする、事前に香川と相談した上での出兵だったのか、それとも小山宿から銃砲声が聞こえて突発的に出兵したのかは判りません。しかし結果的に祖式隊は、香川派遣隊に勝利を収めて油断していた大鳥中・後軍を急襲する事になるのです。
 香川派遣隊を撃破した大鳥は、部下を慰労するために小山宿で一旦休憩を取らせる事にしました。しかし大鳥軍の兵士達は休憩だけに留まらず、酒を飲み始め、果ては酩酊する者が多発する状況になります。昨日今日の戦いで勝利を収める原動力となった伝習第二大隊は、確かに当時最新鋭のシャスポー銃を装備して、隊長の命令の元で一糸乱れぬ小隊運動を行なう優れた軍勢でした。しかしその兵士の大半は職にあぶれた博徒や無宿人が占めており、精強なものの品行が非常に悪い、統率の難しい軍勢でもあったのです。このため香川派遣に勝利した大鳥軍がすっかり気が緩み、飲酒し酩酊する者が続出するという、未だ戦地にいる軍勢としてはあるまじき醜体を見せる事になります。

 このように小山宿ですっかり油断していた大鳥軍を、結城城を出撃した祖式隊が急襲します。この日の祖式隊は当初からの指揮下だった須坂藩兵1個小隊(小林要右衛門隊)・館林藩兵半小隊(石川喜四朗隊)・岡田兵分隊に、昨日の第一次小山宿の戦いで破れて結城城に敗走してきた笠間藩兵の残存部隊も加わっており、小山宿の大鳥軍目掛けて、まずは須坂藩と笠間藩の砲兵隊が砲撃を開始します。
 祖式隊の接近を知らずに酒にうつつをぬかしていた大鳥軍は、砲撃を受けてすっかり取り乱し、逃げまとう兵士と小銃を持ち立ち向かおうとする兵士で小山宿内はごった返しの大混乱となりました。しかし大鳥軍が混乱に陥ったのにも関わらず、昨日大鳥軍に惨敗した祖式隊は大鳥軍を恐れて歩兵の投入を躊躇します。ようやく祖式隊が、須坂藩兵と館林藩兵を小山宿に向かわせた時には、既に大鳥軍は混乱から立ち直り展開を終えており、この時もまた須坂・館林の両藩兵に猛射撃を浴びせて撃退します。尚、急襲当初に行なった祖式隊の砲撃も、信管の調整を失敗した事により、大鳥軍を混乱させた以上の被害は与えられず、結局この戦いでも大鳥軍の人的損害は殆どありませんでした。
 しかし人的損害は少なかったものの、開戦時の砲撃を受けて荷駄が逃走した事により、軍事物資を多数失う事になります。中でも仏式の背嚢は長期戦を戦う為の装備だったので、この背嚢を失った事により、野州戦争も後編となり長期戦になるに従い、大鳥軍の継戦能力を低下させる事になりました。しかし背嚢は失ったものの、勝利を収めた大鳥軍は壬生通りの飯塚宿目指して小山宿を後にしたのです。

 一方の祖式隊は斥候の上田楠次が戦傷死したのをはじめ、この日も大損害を多数の死傷者を出し、また笠間藩の大砲を始め多くの小銃機械等を遺棄して全軍結城方面に逃走します。しかし祖式隊の敗走は結城城では止まらず、祖式自身は僅かな供回りを引き連れて古河宿まで逃亡しました。このため遅れて敗走してきた笠間藩兵に至っては、結城城に祖式が不在だったため自藩の飛び領である真壁陣屋に逃走したのです。

            

左:結城市光福寺に建つ、第三次小山宿の戦い後に戦傷死した、新政府軍斥候の土佐藩士上田楠次の墓。
中:小山市光照寺に建つ、第三次小山宿の戦いで戦死した、笠間藩士海老原清右衛門の墓。
右:小山宿脇本陣跡。第二次小山宿の戦いで勝利した大鳥は、隣の本陣に本営を置いたと伝えられます。


小山宿周辺の戦闘についての考察

 小山宿周辺の戦闘は野州戦争始まりの戦いであり、概略にも書いた通り鳥羽伏見の戦い以降初めて行なわれた、正規軍同士の大規模な戦闘です。四回に渡り行なわれた小山宿周辺の戦闘は、いずれも大鳥中・後軍の勝利となり、軍制・装備・戦術ともに大鳥軍が新政府軍香川隊を凌駕していた故の勝利と言えましょう。
 まず両軍の軍制とついては、新政府軍香川派遣隊が東山道軍編成当時からの参加藩である彦根藩こそ全兵小銃隊化されていたものの、他の東山道軍進発後に恭順した諸藩兵は、多くが軍制の近代化が遅れており、笠間藩兵に至っては戦国時代さながらの旧態依然の軍制でした。一方の大鳥軍は、慶応年間に幕府がその命運を託して編成された旧幕府歩兵隊が中核を占めており、小隊毎の軽快な部隊運動が可能な近代軍隊だったのです。
 装備についても、香川隊がせいぜい彦根藩兵が前装施条銃であるミニエー銃を装備し、それ以外の諸藩兵がゲベール銃や下手をすれば火縄銃を装備していたのに対し、大鳥軍は伝習隊と凌霜隊が、連続発射が可能な後装施条銃のシャスポー銃とスペンサー銃をそれぞれ装備しており、その他の第七連隊・草風隊・御料兵などが悪くてもミニエー銃を装備していたと考えられます。このように軍制と装備の両面で大鳥軍は、香川隊を圧倒していたのです。
 また戦術の面でも両軍の指揮官の手腕には隔たりがありました、新政府軍の香川が無意味な兵力の分散の愚を数回にも渡って犯したのに対し、大鳥は諸川宿周辺の戦いと第二次小山宿の戦いで、伝習隊を本隊から分離させて別行動を取らせて見事に勝利を収めるなど、両者の戦術手腕には天地の差があったと言っても過言ではないでしょう。これは能力からではなく、岩倉との関係から抜擢されたと思われる香川と、西洋軍略を学び軍事の理論を理解していた大鳥の経歴の差と言えます。どうも世間では大鳥は理屈倒れと思われがちですけれども、それが誤解だというのは上記の記事で誤解だと理解して頂けるでしょうし、何より理論を学ばずに実戦で手腕を発揮できるほど軍事は簡単なものではないというのを明言させて頂きます。
 このように大鳥が卓越した手腕を発揮した、小山宿周辺の戦いでしたけれども、大鳥に問題がなかった訳ではありません。大鳥の戦術手腕が卓越していた例として挙げた、諸川宿周辺の戦いと第二次小山宿の戦いでの大鳥の戦術手腕は優れていたものの、両戦闘で勝利の原動力となったのは共に伝習第二大隊です。確かに大鳥の戦術手腕は優れていたと言えましょう、しかしその複雑な戦術理論を実行できるのは大鳥軍の中で伝習隊しか居なく、結果大鳥は小山宿周辺の戦い以降も伝習隊を多用、言い換えれば酷使する事となり、結果伝習隊の消耗は激しくなる事になるのです。そして伝習隊が消耗する事は、大鳥がその戦術手腕を発揮出来なくなる事を意味しました。
 そのような意味では大鳥の優れた戦術手腕は、伝習隊の存在に依存するという欠点を持ち、その後の戦闘ではこの欠点が露呈するようになります。

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主な参考文献(第一章から後第五章まで通じて)

『戊辰役戦史』:大山柏著、時事通信社
『復古記 第10巻・11巻』:内外書籍
『三百藩戊辰戦争辞典』:新人物往来社編

『北関東戊辰戦争』:田辺昇吉著、松井ピ・テ・オ印刷
『戊辰戦争』:大町雅美著、雄山閣
『下野の戊辰戦争』:大嶽浩良著、下野新聞社
『那須の戊辰戦争』:北那須郷土史研究会編、下野新聞社
『栃木の街道』:栃木県文化協会

『薩藩出軍戦状 1・2』:日本史籍協会編
『伊地知正治日記』:静岡郷土研究会(維新日誌第2期第2巻収録)
『板垣退助君伝』:栗原亮一編纂、自由新聞社
『谷干城遺稿』:島内登志衛編纂、靖献社
『流離譚』:安岡章太郎著、新潮社
『土佐藩戊辰戦争資料集成』:林英夫編、高知市民図書館
『鳥取藩史 第1巻』:鳥取県編、鳥取県立図書館
『鳥取県史』:鳥取県編
『鳥取県郷土史』:鳥取県編、名著出版
『鳥取市史』:八村信三編、鳥取市役所
『丹波山国隊史』:水口民次郎著
『山国隊』:仲村研著、中公文庫
『佐賀藩戊辰戦史』:宮田幸太郎著、マツノ書店
『幕末維新の彦根藩』:佐々木克編、彦根市教育委員会
『大垣藩戊辰戦記』:鈴木喬著、鈴木文庫
『北武戊辰小嶋楓処・永井蠖伸斎伝』:小島慶三著
『戊辰日記』:県勇記著、東大史料編纂所データーベース
『宇都宮藩を中心とする戊辰戦史』:小林友雄著、宇都宮観光協会
『維新と大田原藩』:益子孝治著、大田原風土記会

『南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記』:新人物往来社
『大鳥圭介伝』:山崎有信著、マツノ書店
『北戦日誌』:浅田惟季著
『慶応兵謀秘録』:静岡郷土研究会(維新日誌第2期第2巻収録)
『野奥戦争日記』:静岡郷土研究会(維新日誌第2期第2巻収録)
『谷口四郎兵衛日記』:新人物往来社(続新撰組史料集収録)
『野州奥羽戦争日記』:山口県毛利家文庫
『別伝習書記』:伊南村史第3巻資料編2収録
『沼間守一』:石川安次郎著、大空社
『陸軍創設史』:篠原宏著、リブロポート
『幕府歩兵隊』:野口武彦著、中公新書
『会津戊辰戦史』:会津戊辰戦史編纂会
『泣血録』:中村武雄著
『鶴ヶ城を陥すな〜凌霜隊始末記〜』:藤田清雄著、謙光社

『下野史料 第38号』:下野史料保存会
『下野史談 第2巻2号』:下野史談会
『栃木県史 通史編5・6』:栃木県史編纂委員会編
『栃木縣史 第8巻 戦争編』:下野史談会
『宇都宮市史 第五巻近世史料編 2』:宇都宮市史編纂委員会編
『宇都宮市史 第六巻近世通史編 1』:宇都宮市史編纂委員会編
『小山市史 通史編2』:小山市史編纂委員会編
『壬生町史 通史編2』:壬生町編
『笠間市史 上巻』:笠間市史編纂委員会編
『結城市史 第5巻』:結城市史編纂委員会編 
『いまいち市史通史編3』:今市市史編さん委員会編集
『日光市史下巻』:日光市史編さん委員会編
『真岡市史第7巻』:真岡市史編さん委員会編
『鹿沼市史 通史編近現代』:鹿沼市史編さん委員会編
『塩原町誌』:塩原町史編纂委員会編
『大田原市史 前編』:大田原市史編纂委員会編
『藤原町史 通史編』:藤原町史編纂委員会


参考にさせて頂いたサイト
幕末ヤ撃団様内「戊辰戦争兵器辞典」
天下大変 -大鳥圭介と伝習隊-様内 記事全般

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