野州戦争 第二章
慶応四(1868)年四月十九〜二十三日

〜宇都宮城燃える、北関東の地を揺るがした新政府軍と大鳥軍との宇都宮城争奪戦〜

第一次宇都宮城攻防戦に至るまでの経緯
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香川の援軍要請と、大鳥中・後軍の北上
 小山宿で大鳥圭介率いる大鳥中・後軍に惨敗した香川敬三は、十七日夜には宇都宮城に逃げ戻り、夜間にも関わらず黒羽藩・烏山藩・古河藩等の周辺諸藩に援軍を要請します。また大鳥軍に敗れた事でようやく事の重大さと、自分の身の程を悟ったのか東山道軍にも援軍を求めるのでした。詳しくは後述するものの、東山道総督府からは救援軍が出発したとの報告も入り、香川は救援軍が到着するまで宇都宮城の守りを固める決心をします。また大鳥軍の精強さを身を持って知ったため、香川は援軍を求める手配をする一方で、この大鳥中・後軍が宇都宮城に攻め込んでくるのを何よりも恐れ、大鳥中・後軍の所在地を懸命に探っていました。

 一方香川派遣隊を破った大鳥中・後軍は壬生通りに進路を代え、十七日夜は壬生通りの飯塚宿で宿陣の準備を行なう一方、小山宿の戦いで敵対した壬生藩に詰問の使者を派遣します(壬生城城下は飯塚宿の次の宿場)。壬生藩の藩祖は関ヶ原の際に、西軍の攻撃を一身に受け伏見城で玉砕した鳥居忠元であり、その徳川家忠臣の子孫を藩主とする藩が、幕臣の自分達に敵対した事に大鳥は憤り詰問の使者を送ったのです。
 鳥居忠元の子孫を藩主としていると言っても壬生藩は3万石に過ぎず、大鳥中・後軍が攻めかかれば一たまりも無い小藩に過ぎませんでした。このため壬生藩は小山宿での敗戦後すぐに宇都宮城の香川に援軍を要請します、しかし自分自身の身の安全のみを考える香川は壬生藩の要請を却下して、「いざとなったら壬生城を捨てろ」との指示を下したのです。香川からの援軍を得られない以上、壬生藩としては単独で大鳥中・後軍と対応する事になり、翌十八日朝飯塚宿に何とか城下を通行しないように哀訴懇願する使者を送ります。壬生藩としては前方に大鳥中・後軍が迫り、後方に新政府軍が控える状況では、大鳥中・後軍に味方できないと懇願し、壬生城を避けてくれるのなら道案内もつけるし軍資金も提供すると必死に訴えたのでした。これに対し一刻も早く日光に辿り付きたい大鳥としては、無用な戦闘を避けるために壬生城下を迂回する事は認めたものの、軍資金の提供については、自分達は盗賊ではないと激怒したと伝えられます。
 この軍資金を断った大鳥の態度は立派だったと思うものの、流浪の軍勢を率いる指揮官としては青臭いと言わざるを得ません。冒頭に書いた通り大鳥軍は策源地を持たない流浪の軍隊なのですから、諸藩兵よりも組織を維持するための資金が必要であり、壬生藩が献上しようとした軍資金は大鳥軍に必要な物だった筈です。それを断ったというのは、大鳥は人間としては優れていたとしても、流浪の軍勢を率いる総督としては甘すぎると言わざるを得ません。後述しますが、秋月登之助土方歳三が率いる大鳥前軍は街道筋の小藩から物資を挑発しながら進軍しました。秋月と土方の方が流浪の軍勢である自分達の事を判っていたと言えましょう。
 こうして軍資金を受け取らなかったものの、壬生藩士の道案内を受け大鳥中・後軍は壬生城を迂回して、鹿沼宿を目指します。

 大鳥中・後軍の行方を探っていた宇都宮城の香川は、大鳥中・後軍が鹿沼宿を目指して壬生通りを北上中との一報を得ると、宇都宮藩兵百余名(中老中嶋董九朗が指揮)を鹿沼宿に向かわせて大鳥中・後軍に備えます。このように香川が壬生通りを北上する大鳥中・後軍に気を取られている中、十八日夜半になり大鳥前軍が宇都宮の南東方面に現れたとの一報が突如宇都宮城に入るのです。

大鳥前軍の北上と香川隊の対応

 小金宿で大鳥中・後軍と分かれた秋月登之助と土方歳三率いる大鳥前軍は、街道筋の下妻藩と下館藩を恫喝し、軍資金や物資や人質代わりの人員を挑発しながら鬼怒川東岸の街道を宇都宮目指して北上を続けていました。十八日には大鳥前軍は真岡代官領に到着し、この地で休憩した後に鬼怒川を渡河し十八日夜半には宇都宮城東南の蓼沼村と刑部村で宿陣します。そして蓼沼村の満福寺を本陣に定めると、翌日宇都宮城への攻撃を決定し、その準備に入るのです。

 大鳥前軍が宇都宮城東南に現れたとの報告が入ると、香川は慌てて宇都宮藩の重臣と各藩の諸隊長を集めて軍議を行い、鹿沼宿に派遣した宇都宮藩中嶋隊を呼び戻す一方、大鳥前軍を迎撃する為に夜間にも関わらず宇都宮城を出撃します。しかし関東七名城に数えられる宇都宮城からわざわざ出陣して、野外で大鳥前軍を迎撃した香川の決断には首を傾げざるを得ません。大鳥軍の精強さは身をもって体験した筈ですし、宇都宮城を守っていればいずれ救援軍が来るのですから、有利な篭城戦を選ばず不利な城外への出陣を決心した香川の決断は、勇猛果敢と呼べるものではなく匹夫の勇と言うべきものでしょう。
 しかし香川の決断が幾ら愚かだったとしても、新政府軍の軍監から出陣を命じられた以上は指揮下の諸藩兵は従う他なく、宇都宮城東側を流れる田川を越えて、城下東南の諸村に布陣します。この布陣は「北関東戊辰戦争」によれば梁瀬村に宇都宮藩一番隊(家老藤田左京が指揮)・同藩三番隊(御城代安形半兵衛が指揮)・岩村田藩兵1個中隊相当(井上良蔵隊)が布陣し、梁瀬村東の平松村に軍監平川和太郎が本営を置き、平松村東の桑島村には先程宇都宮城に到着したばかりの烏山藩兵2個小隊(隊長大塚孫八朗)が派遣され、平松村南の砂田村には彦根藩兵3個小隊が派遣されます(ただし小山宿の戦闘で青木隊はほぼ壊滅したので、実戦力は2個小隊に満たなかったと思われます)。平松村の平川は、それぞれの村に布陣した諸藩兵に陣地を構築するように命じるものの、諸藩兵の陣地構築が整う前に夜が明けた為、大鳥前軍の攻撃を迎える事になるのです。

   

左:対岸から見た鬼怒川西岸、大鳥前軍はこの鬼怒川を渡河した。
右:大鳥前軍が宇都宮城攻撃の本陣にした、上三川町満福寺。


第一次宇都宮城攻防戦:四月十九日
地図

大鳥前軍の宇都宮城攻撃開始
 夜が明けた十九日早朝、大鳥前軍は昨日捕らえた黒羽藩士三人を、本陣の満福寺で軍神への手向けとして処刑し、兵士達の戦意を高揚させた上で東照大権現の旗を掲げて宇都宮城への進軍を開始しました。大鳥前軍は先鋒:桑名藩兵、中軍:伝習第一大隊、後衛:回天隊・別伝習隊・新選組等の順番で進軍します。
 大鳥前軍は、当時の宇都宮城に繋がる主要道である桑島村〜平松村〜梁瀬村の香川隊の防衛ラインを避けて間道を進み、彦根藩兵が守る砂田村を急襲します。ただでさえ先日の小山宿での戦いで消耗していた彦根藩兵は、桑名藩兵の攻撃を受けると動揺し、抵抗らしい抵抗をせずに敗走する事になります。彦根藩兵を破った後、大鳥前軍は進路を北に転じ、今度は梁瀬村と平松村に攻撃を開始しました。自藩の居城を守ろうとの意識を持つ宇都宮藩兵は、彦根藩兵とは違い大鳥前軍の攻撃に対し真面目に抗戦します。しかし旧式装備かつ連日の一揆対応で疲弊している宇都宮藩兵では、勇猛果敢に攻めかかる桑名藩兵と、その背後で散開する伝習第一大隊の攻撃に耐えられず、戦線を保つ事が出来ず戦闘開始間もなく宇都宮城目指し敗走します。こうして梁瀬村と平松村が大鳥前軍に攻め落とされると、桑島村に駐屯する烏山藩兵は退路を遮断された事に動揺し、武器を捨て自藩領目指し逃走しました。
 「北関東戊辰戦争」には桑名藩兵の指揮は土方が取っていたと書かれているものの、桑名藩の記録「泣血録」にはそのような記述は見られません。

 城外の戦いで悉く敗れた香川隊は、宇都宮城に逃げ戻り篭城戦の準備を開始します。しかし慌てて逃げ戻ったために、城の東側に流れる田川にかかる梁瀬橋・洗橋・押切橋等の橋を落とす処置もしなかったので、宇都宮城に逃げ込む香川隊を追う大鳥前軍は、これらの橋を渡って宇都宮城に攻撃を開始するのです。
 大鳥前軍が田川にかかる橋を越えて宇都宮城に迫る中、宇都宮城に逃げ込んだ香川隊は篭城戦の準備を始めました。宇都宮藩軍事奉行戸田三左衛門の指揮の元で、宇都宮藩一番隊を始めとする宇都宮藩兵が外郭東部の中河原門と下河原門の守備に就き、鹿沼宿から戻ってきた中嶋隊を外郭西部の城下町に布陣させます。尚、この時宇都宮城には宇都宮藩三番隊・彦根藩兵・岩村田藩兵も篭城していた筈ですけれども、申し訳ありませんが勉強不足の為これらの軍勢がどこに配置されていたかは判りません。

 宇都宮城の守りに就く香川隊(主に宇都宮藩兵)に対し、大鳥前軍は先鋒の桑名藩兵と後衛の回天隊・別伝習隊・新選組等は洗橋と梁瀬橋を渡り、外郭東部の中河原門と城東南の下河原門に攻撃を開始しました。尚、攻撃に先立ち大鳥前軍は東部の城下に火を放ったため、瞬く間に城下は火に包まれ、その際城南の英厳寺で新政府軍に捕らわれていた板倉勝静を救出する事になります。また中軍の伝習第一大隊は右翼方面に展開し、外郭北部の大手門と今小路門に攻撃を開始するのです。
 大鳥前軍の放火については、桑名藩の記録「泣血録」に「敵辟易退走、我兵追躡放火城下」との記述があります。

   

左:田川と柳瀬橋の現況。
右:宇都宮城下河原門付近の現況。

      

左:中河原門に至る洗橋の現況。
中:宇都宮城の北から東に流れる、田川の支流である釜川の現況。当時は宇都宮城の水堀の役目も果たしていたと思われます。
右:宇都宮城今小路門付近の現況。

城内の戦い
 城外の戦いでは大鳥前軍に脆くも蹴散らされた宇都宮藩兵も、流石に自分の居城を守る戦いでは奮戦し、攻め寄せる大鳥前軍と外郭の各城門で白兵戦を繰り広げるなど防戦に勤めます。しかし上記の通り一揆の対応で疲弊している宇都宮藩兵は徐々に大鳥前軍に押され、正午頃には中河原門と下河原門が突破され、戦いは外郭を巡る戦いから城内の戦いに移ってゆくのです。
 大鳥前軍は突入した城内にも火を放ち、また伝習第一大隊指揮下の砲兵が放つ砲弾が城内に降り注がれ始めたので、城下だけではなく城内も火に包まれ始めました。宇都宮藩中老の県は開戦当初こそ二の丸に設けられた本営で香川の補佐に当たっていたものの、城内の危機を知ると手勢を引き連れ今小路門方面に向かいます。しかし県が中河原門方面に到着すると、周辺は火に包まれて何も見えない状態であったので、負傷者を収容すると県は二の丸に後退したのです。このように戦況は着実に大鳥前軍有利に傾いていったものの、宇都宮藩兵は二の丸・三の丸の土塀に隠れ必死の防戦を試みます。宇都宮藩兵の防戦に対して、回天隊隊長の相馬左金吾が今小路門を巡る戦いで戦死するなど、宇都宮城の内外で繰り広げられる戦闘は徐々に混戦の模様を示していくのです。
 午後二時にもなると、それまで篭城の指揮を取っていた香川も宇都宮城の固守を諦め始め、宇都宮城を放棄する考えを持ち始めます。これは単に宇都宮城攻防戦の戦況が不利になったという判断だけではなく、香川の頭からは大鳥中・後軍の脅威が未だに離れず、仮に大鳥前軍を撃退して宇都宮城を守りきったとしても、大鳥中・後軍が現れたらどのみち落城するという判断からでした。また宇都宮藩首脳部には未だに会津藩兵の脅威が頭から離れず、この眼前に迫った大鳥前軍の脅威だけではなく、遠く離れた大鳥中・後軍と会津藩兵に対しての恐怖から、遂に香川隊は宇都宮城の放棄を決定します。
 香川隊の脱出は宇都宮藩主の脱出から始まり、藩主忠恕は中老の中嶋に伴われて錦旗と共に親族の館林藩目指し脱出しました。宇都宮藩主の脱出を見届けると、香川は夕方には平川と南部等の士官と共に城を脱出、日光街道を南下して古河藩を目指します。香川が逃亡すると他の新政府軍の諸藩兵も次々に宇都宮城から脱出し、城に残るは宇都宮藩兵だけとなり、宇都宮藩首脳部は城に残り防戦する藩士達に大手門から脱出するように命じたのです。これはこの時点で伝習第一大隊は城北の明神山を占拠しており、これ以上グズグズすれば大手門からの脱出も不可能になるギリギリとの判断だったと言えましょう。外郭の南出丸方面を守っていた戸田三左衛門が二の丸に退いた時には、既に本丸も火に包まれていたという危機的な状況の中、少なくとも宇都宮藩兵はこの脱出の際には犠牲者を出さず大手門からの脱出に成功します。この脱出を見届けた宇都宮藩首脳部が未だ健在だった二の丸御殿に火を放ったため、城内の建物は全て火に包まれ、宇都宮藩首脳部はこれを見届けると一同大手門から脱出したのです。
 宇都宮藩首脳部が、宇都宮城に火を放った記述としては、復古記に収録されている宇都宮藩の記録に「今日ノ恥辱ヲ一洗センニハト、衆議一決シテ、城中ノ兵列ヲ整ヘ、火ヲ我館ニ放チテ自焼シ」との記述があります。

 一方大鳥前軍の方は、城内の火災があまりにも強くなったので、これ以上の前進を諦めて、一旦今朝まで宿陣していた蓼沼村に後退します。大鳥前軍の後退後に宇都宮城の火災は益々酷くなり、風に煽られたその火が西部の城下町にも飛び火したため、それまで戦火から逃れていた材木町等も火に包まれて、日光街道一の宿場町として栄えた宇都宮城の城下町は灰燼と化したのです。

      

左:宇都宮城本丸跡から見た、復元土塁と清明台。
中:同じく復元された本丸の土塁と富士見櫓。
右:宇都宮城が存在していた時から現存する、三の丸土塁跡に立つ大イチョウ。

宇都宮城落城後の、大鳥軍と香川隊の動向
 話は遡り宇都宮城攻防戦が行なわれている十九日日中、大鳥中・後軍は壬生通りを北上中に宇都宮方面から上がる黒煙を見て、大鳥前軍が宇都宮城を攻撃していると判断します。しかしその日は鹿沼宿に宿陣し、斥候からの報告で宇都宮城の落城を知りました。またこの鹿沼宿で大鳥は、間道を進んできた草風隊・貫義隊・凌霜隊の大鳥軍別働隊と再会し、翌二十日に宇都宮目指して出発した際には草風隊と貫義隊も大鳥の指揮下に入ります(凌霜隊は今市宿に移動)。大鳥としては日光を守る拠点として、宇都宮城を用いるつもりだったと思われるものの、宇都宮に到着した大鳥の目に映ったのは灰燼と化した城と城下町であり、とても日光を守る為の策源地としては利用出来ない状況だったのです。逆に戦災に遭った町民の為に、城内に残っていた米を供出する羽目になり、思わぬ支出となりました。また金子や米等の食料こそ落城後の城内から入手出来たものの、大鳥が何よりも期待した銃器や弾丸を城内から鹵獲する事は出来ませんでした。幾ら優れた小銃を所有していても、弾丸や火薬が無ければこれらの小銃は役に立たないのですから、城内に弾丸や火薬がなかったのは大鳥にとって思わぬ誤算だったでしょう。
 やがて前日宇都宮城を攻め落とした大鳥前軍も宇都宮城に到着し、また後述する岩井の戦いで敗れた誠忠隊・純義隊・回天隊残党も宇都宮城に到着し、これにより宇都宮城には幕府歩兵伝習第一大隊・同第二大隊・幕府歩兵第七連隊・御料兵・草風隊・貫義隊・桑名藩兵・別伝習隊・新選組、誠忠隊・純義隊・回天隊の残党による三千近い大軍が集結した事になり、大鳥の指揮の元で宇都宮城の守りに就く事になります。また寄り合い世帯になった事により、大鳥軍の兵士達が町民に乱暴するなど市内の治安が悪化したので、大鳥は蛮行をした兵士達を処刑するなど、市内の治安維持に勤めるのでした。
 大鳥・秋月・加藤の三人が席順争いした事は、「野奥戦争日記」に「是ニ依テ第一頭秋月登之助、大鳥圭介、加藤平内、右三人ニテ席順ヲ争フ事、是ヨリ味方不殘城ニ聚」との記述があります。

 一方宇都宮城を脱出した香川隊は、東山道軍の救援軍と合流しようと古河宿を目指します。これに対し宇都宮藩主藩士一向は血縁の館林藩を目指し、間道を通って逃走します。宇都宮城を脱出した直後はバラバラになって逃走した宇都宮藩士は、落ち武者狩の世直し一揆に怯えながらも、次第に家老・中老である戸田三左衛門・県勇記・藤田左京・鳥居小八郎等の元に集まり始め、翌二十日には佐野藩領で宇都宮藩士は集結する事が出来ました。佐野藩領を後にした宇都宮藩士は館林藩境の渡良瀬川を渡河し、二十日夜ようやく館林城下に到着します。翌二十一日には藩主忠恕も館林城に到着し、忠恕の指導の元で宇都宮藩士は館林藩や東山道総督府からの武器の供与を受けて、居城奪取の為の戦備を整え始めます。しかし宇都宮藩兵が戦備を整えている間に、第二次宇都宮城攻防戦は終わってしまい、宇都宮藩は面目を失う事になるのです。

   

左:宇都宮市大運寺に建てられた、第一次宇都宮城攻防戦で戦死した岩村田藩兵の墓。
右:宇都宮市台陽寺に建てられた、第一次宇都宮城攻防戦で戦死した宇都宮藩兵の墓。


第一次宇都宮城攻防戦についての考察

 関東七名城の一つに数えられた宇都宮城が、あえなく一日で落城した理由としては「新政府軍の指揮官である香川の軍事的無能」と「篭城戦で主力となるべき宇都宮藩兵の疲弊」が挙げられるでしょう。一般的に宇都宮城は、仮想敵である仙台藩や米沢藩等の奥羽諸藩の侵攻に備えて、北部の守りは堅いものの南東部の防御は弱く、大鳥前軍にその弱点を突かれたので、あえなく一日で落城したと言われています。
 しかし宇都宮城の東方面には田川と言う川が流れており、この田川が宇都宮城の天然の濠の役割を果たしていたので、宇都宮城東方面の守りが弱かったとは言えないと思います。大鳥前軍は宇都宮城東方から攻撃を開始したので、宇都宮城に攻め込むには田川を渡河せねばならず、大鳥前軍はむしろ城攻めには困難な方向から攻撃を開始したと言えましょう。
 では何故、大鳥前軍が容易に宇都宮城を攻め落とすのに成功し、「大鳥前軍は宇都宮城の弱点である東南部から攻め込んだ」と言われているかと言えば、香川が宇都宮城内に撤退の際に、梁瀬橋・洗橋と言った田川に掛かる橋を落とす事を指示しなかった事にあると思います。梁瀬橋・洗橋と言った田川に掛かる橋が落とされなかった為、大鳥前軍は容易に田川を越える事が可能になり、結果電撃戦並みの迅速な城攻めに成功したのです。そのような意味では、田川に掛かる梁瀬橋や洗橋を落とさずにそのままにした事こそ、新政府軍の敗因と言えましょう。
 このように宇都宮城東南部の守りが弱かったと言うのは、正しい評価とは思えません。しかし仮に宇都宮城東南部の守りが弱かったとしても、その弱点を熟知している宇都宮藩兵が守りを固めていれば、それはさほど問題ではなかったと思います。ところが香川が有利な篭城戦ではなく、わざわざ不利な野戦を挑み、これに敗れた後に急いで篭城の指示を下したため、宇都宮藩兵が守りを固める前に大鳥前軍の攻撃が始まってしまったのです。
 仮に宇都宮城東南部の防御力が弱かったとしても、遮蔽物の無い平野での野戦に比べたら、はるかに有利な状況で戦えたのにも関わらず、その有利さを捨てて野戦を挑んだのは、香川の軍事的無能を表しています。去る小山宿の戦闘で、大鳥軍の精強さは身をもって体験した筈なのに、それにも関わらず大鳥前軍の接近を知ると野戦を挑み、結果小山宿の戦闘と同じく大鳥前軍得意の散兵戦術に蹴散らされたのは、香川は学習能力が無いのか、眼前に敵を見ると動揺して的確な判断が出来なくなるのどちらかと言わざるを得ません。
 先程私は香川が宇都宮救援隊の指揮官に選ばれたのは、岩倉具視との関係からではないかと書きました、これは推測に過ぎません。しかし後述する伊地知正治・板垣退助・河田左久馬・大山巌・谷千城といった実戦経験と実績を持つ人物ではなく、軍事的には何の実績も持たない香川を安易に指揮官に任命した東山道軍の見識の甘さこそ、戦略的要所である宇都宮城を失った最大の要因かもしれません。

 本来篭城戦の主力となるべき宇都宮藩兵の消耗もまた、あっけない落城に大きく影響したことでしょう。上記の通り領内の世直し一揆に対応する為に宇都宮藩兵は、第一次宇都宮城攻防戦が行なわれる間際まで領内を東奔西走し、結果第一次宇都宮城攻防戦の際は披露困憊していて、本来の実力を出せなかったのも敗因の一つに挙げられると思います。また田辺昇吉氏は「北関東戊辰戦争」で、前述した宇都宮藩主戸田忠友が大津宿に足止めされた際、忠友率いる宇都宮藩兵百余名も足止めされており、この藩主直属の精鋭百余名が不在だったのも、宇都宮藩の戦力低下に繋がったとの優れた見解を示しています。
 尚、大鳥前軍の兵力が香川派遣隊の兵力をはるかに凌駕していた事こそ、第一次宇都宮城攻防戦の要因だと一般的にはよく言われています。しかし両軍の兵力を比較すると大鳥前軍が700名〜1000名に対し、香川派遣隊は500〜700名程だったと考えられ、多く見積もっても大鳥前軍は香川隊の二倍の兵力に過ぎなかったと思われます。そして倍の戦力差なら、香川隊の主力である宇都宮藩兵が旧式軍制だったとしても、最初から宇都宮城に篭城していれば十分耐えれる状況だったと言えましょう。兵力差や装備の差も敗因でしょう、しかし何よりも第一次宇都宮城攻防戦の主要な敗因は、香川が軍事的に無能だったのと宇都宮藩兵の消耗だったと明記させて頂きます。

 一方宇都宮城を見事一日で落城させた大鳥前軍にも問題が無かった訳ではありません。秋月と土方の戦闘指揮には文句の付けようがないものの、城郭攻防戦の常とは言え、宇都宮城内外に対しての放火にはもう少し配慮がほしかったと思います。何度も書きましたけれども、大鳥軍は策源地を持たない流浪の軍勢なのですから、ただ宇都宮城を奪取すれば良いというのではなく、宇都宮の町を策源地として利用できなければ意味がないのです。しかし宇都宮城は奪取出来たものの、城下町は完全に灰燼と化しており、とても流浪の大鳥軍の策源地としては利用出来ない状況でした。私見となりますが、第二次宇都宮城攻防戦に先立って、大鳥が日光への転進を決意したのは、城下町の焼失により宇都宮の町が策源地として利用出来ないと判断したからではないでしょうか。


新政府軍の宇都宮城救援軍(奪還軍)の派遣と、大鳥軍の壬生城攻撃計画
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東山道軍による宇都宮城救援軍の派遣
 話は遡り、香川敬三から戦況不利の報告と援軍の要請を受けた東山道総督府は、追加の宇都宮救援部隊の派遣を決定します(結果的には宇都宮城奪還軍になりましたが)。香川派遣隊の派遣が決定された時点では、薩摩藩・長州藩・土佐藩・大垣藩・鳥取藩といった主力部隊の出し惜しみした東山道軍も、この追加部隊の派遣決定の時は江戸城無血開城された事もあり兵力に余裕が出来たのか、香川隊の時とは異なり指揮官も軍勢も東山道軍の主力を投入する事になります。
 まず東山道軍内参謀の鳥取藩士河田景与(河田左久馬)を指揮官に任命し、河田の手勢である鳥取藩兵3個小隊(天野祐次隊・支藩石川豊太郎隊・山国隊)、及び佐分利鉄次郎砲兵隊に、幕臣大久保忠告の手勢1個小隊・吹上藩兵半小隊と松本藩兵半小隊による合併1個小隊を加えた変則的な鳥取藩兵半大隊(天野隊・支藩石川隊・山国隊・佐分利砲兵隊・幕臣大久保隊・吹上藩松本藩合併隊)を編成します。この変則的鳥取藩兵半大隊と土佐藩兵5個小隊による半大隊(迅衝隊一番日比虎作隊・同二番小島捨蔵隊・同五番宮崎合介隊・同六番真辺戒作隊・同十一番平尾左金吾隊、及び北村長兵衛砲兵隊)を組み合わせた1個大隊相当の救援第一軍を編成し、河田はこの救援第一軍を率いて四月十七日に宇都宮城目指し出発する事になります。
 余談ながら後の戦況を見ると、河田は鳥取藩・大久保氏・吹上藩・松本藩の兵には指揮権を持っていたものの、土佐藩兵の指揮権は祖父江可成(迅衝隊半大隊司令)が握っており、河田は土佐藩兵に対しての直接的な指揮権は有していなかった模様です。

 しかし救援第一軍の出発後も相次いで敗報が入ってきた事により、東山道軍は更なる増援を決意し、東山道軍参謀を勤める薩摩藩士伊地知正治率いる薩摩藩城下士小銃五番隊(隊長野津鎮雄)、長州藩施条銃足軽第一大隊二番中隊(隊長楢崎頼三)、大垣藩兵2個小隊(中島武左衛門隊・鳥居勘右衛門隊)及び砲1門・忍藩兵1個小隊による救援第二軍を編成し、これを十八日に出発させます。第二軍の出発に続いて、薩摩藩城下士小銃六番隊(隊長野津道貫)・同藩二番大砲隊半座(隊長大山巌、砲四門)、この二番大砲隊の護衛として兵具一番隊分隊(半隊長井上猪右衛門)・大垣藩兵2個小隊(長屋盆之進隊・小出五平次隊)による救援第三軍も編成され、伊地知の指揮下として同じく十八日に出発し、第二軍の後を追いました。

 救援第一軍は出発後の二十日に、古河宿にて宇都宮城から敗走してきた香川隊の敗残兵と出会い、彼等から宇都宮城の落城を知らされます。宇都宮城の落城を聞いた河田は救援第一軍に先を急がせ、小山宿で香川・有馬藤太・南部静太郎等の香川隊の士官達を収容し、彼等の口から宇都宮城落城の詳細と、大鳥軍は次は壬生城を狙うだろうとの報告を受けるのです。この報告を聞いた河田は壬生城を救うため、また壬生城を宇都宮城奪回戦の根拠地にする為に進路を壬生通りに変更して、二十日の午後には壬生城に到着し、この地を本営とします。
 余談となりますが、香川隊の士官の内、有馬は河田救援第一軍の付属となり壬生城に向かいます。一方で香川と南部、そして結城城から逃亡してきた祖式金八朗は指揮官としての適正無しと判断されたのか古河宿に後退し、この地で後方勤務に当たる事になりました。尚、祖式はこの後方勤務でも佐野藩からの過酷な物資供与を命じるなど失態を重ね、遂に東山道軍から更迭され長州藩で謹慎させらる事になります。前線指揮官としても後方勤務担当としても無能だったと言うのが、祖式金八郎という男の正体だったのでしょう。

 壬生城に入った第一軍に対し、伊地知が率いる第二軍は常陸岩井村に別の旧幕府軍が駐屯しているのを知ると、これを攻撃するため岩井村に向かいます。この時岩井村に駐屯していたのは純義隊・誠忠隊・回天隊のいずれも旗本により構成された旧幕府軍で、大鳥軍が日光を目指したのに対して、別行動を取り岩井村に留まっていたのです。この旧幕府軍と伊地知率いる救援第二軍は二十日に戦端を開きます。大鳥軍の主力だった伝習大隊とは違い、大半が槍刀部隊だったと言われる純義隊・誠忠隊・回天隊は、戦上手の伊地知率いる救援第二軍の前に鎧袖一触で粉砕され敗走します。大鳥軍とは別行動を選んだ旧幕府軍も、敗走後一部は大鳥軍が占拠した宇都宮城を目指し、この地で大鳥軍の指揮下に入る事になるのです。

 尚、第二次宇都宮城攻防戦には間に合わなかったものの、二十三日には東山道軍参謀を勤める土佐藩士板垣退助率いる救援第四軍が出発します。この第四軍の戦力は鳥取藩兵6個小隊(佐分利九允隊・本内金左衛門隊・建部半之丞隊・藤田束隊・山根留次郎隊・井上静雄隊)、及び家老和田壱岐の手勢と、土佐藩迅衝隊の残兵の合併1個大隊かと思われるものの、土佐藩兵の詳細は不明です(迅衝隊三番隊・同四番隊・同七番隊・同八番隊・同九番隊・同十番隊・同十二番隊の7個小隊と思われます)

大鳥軍、壬生城攻撃を決定
 宇都宮城で合流を果たした大鳥軍は、今後の方針を巡って軍議を行なうものの、中々議論が纏まらないでいました。大鳥圭介自身は「先んずれば人を制するのが兵法の基本」と壬生城を攻略して、宇都宮城と壬生城による防御ラインの形成を主張します。しかし中・後軍の参謀を勤めた垣沢勇記を始め弾丸・火薬の消耗から新政府軍との抗戦は避けて、一刻も早く日光を目指したいとの意見も多く、結局二十日中には軍議は纏まらず、ここにきて意思統一の難しい寄り合い所帯という大鳥軍の欠点が露呈したのです。結局大鳥軍が議論している間に、河田率いる新政府軍の救援第一軍は壬生城への入城を果たしてしまい、更には壬生城北の安塚村に陣地を構築し始める事になります。一方大鳥軍の方は翌二十一日になっても軍議は中々纏まらず、折角宇都宮城を奪取したのに時間のみを浪費していました。このような、いつ終わるともしれない大鳥軍の軍議は二十一日夜に、壬生藩大砲奉行友平慎三郎が宇都宮城を訪れる事により急展開となります。
 河田率いる救援第一軍の入城を許したとはいえ、前述したとおり徳川家の忠臣鳥居元忠を藩祖とする壬生藩には佐幕派の藩士も少なからずおり、また前日の小山宿周辺の戦闘と宇都宮城攻防戦で大鳥軍が連戦連勝したのを見て、「新政府に従っていては御家の大事」と考えたのか、ここにきて友平が大鳥軍に内応を求めてきたのです。大砲奉行であり、壬生城六ケ所の守り口の一つ台宿口の担当である友平の内応は、壬生城攻略の好機と判断した大鳥は強引に壬生城攻撃を決定し、その夜の内に壬生城攻撃部隊を出発させます。
 しかし友平内応の申し出があったとはいえ、一日遅れの決断は新政府軍に陣地構築の時間を与えてしまい、結果大鳥の決断は遅きに失したと言えましょう。また壬生城攻撃部隊の手配と、作戦の立案は行なったものの、大鳥自身は体調不良の為にこの作戦の指揮を取れず、代わりに秋月登之助が指揮を取る事になりました。かくして二十二日未明、宇都宮城から大鳥軍壬生城攻撃部隊が出発します、しかし一日遅れの出発と大鳥の不在は、この壬生城攻略作戦に多大なる影響を与える事になるのです。
 友平慎三郎の内応については、「南柯紀行」に「壬生藩、友平慎三郎来り壬生侵撃の策を建つ依て衆議の上明二十三日壬生城進撃の事を決す」との記述があります。

   

現在は公園として整備されている壬生城跡。


安塚村の戦い:四月二十一日〜二十二日
地図

大鳥軍の壬生城攻撃計画と、新政府軍の対応
 大鳥軍の壬生城攻撃部隊が出撃した二十二日未明の時点では、既に安塚村北端を流れる姿川対岸の幕田村に、幕府歩兵第七連隊と御料兵が本隊に先立ち進駐しており、この先発部隊と合流するために伝習第一大隊半大隊・桑名藩兵・別伝習隊が主力部隊として宇都宮城から出発します。宇都宮から佐野宿に至る街道(「佐野道」とも呼ばれているものの、弊サイトでは栃木街道と記述させて頂きます)を南下して幕田村の第七連隊・御料兵と合流し、正面から新政府軍を攻撃する計画でした。また伝習第二大隊半大隊による別働隊は、新政府軍が布陣する安塚村の東側側面を突くために、栃木街道東方の間道を南下します。更に伝習第二大隊2個小隊(鈴木鉄三郎七番小隊・大川正次郎八番小隊)が本隊と別働隊の左翼を大きく迂回し、直接壬生城に奇襲を仕掛ける計画でした。他に鹿沼宿に駐屯していた会津藩砲兵一番隊(隊長日向内記)と凌霜隊(隊長朝比奈茂吉)も、主力部隊の右翼を大きく迂回して新政府軍の背後を突く約束を取り付けていたのです。
 このように大鳥圭介の壬生城攻撃作戦は、主力部隊で敵を拘束する間に、別働隊により敵の側面と背後を突こうと言う、軍略家の大鳥らしい技巧を凝らした作戦と言えましょう。第三次小山宿の戦いで見せた戦術レベルの(一翼)包囲の規模を大きくした、戦略レベルの(一翼)包囲と呼べると思います。更に会津藩砲兵一番隊と凌霜隊に、新政府軍の背後に回りこませて退路を遮断しようとする迂回でもありました。しかしこのような包囲や迂回を用いた作戦は、無線機が普及している現代ならいざ知らず、部隊相互の意思疎通が難しい当時では困難な作戦でもありました。
 別働隊を敵部隊の後方に回りこませて、敵の後方連絡線を分断する事により、敵の継戦能力を喪失させる事を目標とした攻撃を軍事用語で迂回と呼びます。

 話は遡り、二十日に壬生城に入城した河田景与(河田左久馬)は幕田村に大鳥軍が進駐しているとの一報を聞くと、翌二十一日に山国隊・吹上藩松本藩合併1個小隊・大久保兵1個小隊・土佐藩斥候隊(陸監大石俐左衛門が指揮)、そして嚮導役として壬生藩兵1個中隊相当(隊長高須源兵衛、草莽隊の利鎌隊を含む)を、壬生城北部の安塚村に派遣します。この新政府軍先発隊は栃木街道を北上し安塚村に到着すると、やがて安塚村北端に流れる姿川対岸の幕田村に駐屯する大鳥軍の第七連隊と御料兵が、姿川に掛かる淀橋を渡って安塚村北部に侵入したため、ここで新政府軍と大鳥軍それぞれの先発隊による戦闘が夕方から開始される事になりました。もっともこの戦闘は武力偵察同士の遭遇戦といった模様で、両軍とも殆ど損害が出ないまま夕暮れとなると、大鳥軍の第七連隊と御料兵が淀橋を渡って後退し幕田村に帰還します。
 大鳥軍の先鋒隊を後退させる事に成功した、新政府軍の先鋒隊だったものの、兵力不足を痛感し壬生城に援軍を求める事になります。これを受けた河田は土佐藩兵3個小隊(迅衝隊五番宮崎合介隊・同六番真辺戒作隊・同十一番平尾左金吾隊)を派遣し、増強された安塚村駐屯の新政府軍は陣地構築に当たります。そして山国隊が東は淀橋東側の姿川南岸から、西は亀塚古墳までに哨戒ラインを設けて警戒に当たりました。尚、河田が壬生城に留まり続けた理由としては、どこまで情報が伝わっていたかは判らないものの、「壬生藩内に不穏の動きあり」との情報を河田が掴んでおり、壬生藩の大鳥軍への内応を警戒していたからだと伝えられます。

      

左・中:山国隊が陣地を構築したと言われる亀塚古墳。野州世直し一揆発祥の地と言われる、磐裂根裂神社の敷地内です。
右:安塚村の戦いに際、新政府軍が本陣とした島田邸。

安塚村の戦い
 安塚村の新政府軍が陣地構築を進める中、夜が深まる中で天候は急速に悪化し、安塚村周辺には豪雨が降り始めました。豪雨が降りしきる中、大鳥軍の第七連隊と御料兵は二十二日午前二時ごろ再び南下を開始し、再び姿川を越えて警戒に当たる山国隊に猛射撃を加えます。警戒に当たっていたとはいえ、豪雨の為に視界が悪く第七連隊と御料兵の攻撃を突然受けた山国隊は陣地を捨てて後退し、再び安塚村北端で両軍は戦火を交える事になりました。今度は夕方の時と違い、全力で攻め寄せる第七連隊と御料兵の前に新政府軍も苦戦を強いられる事になります。午前四時になると壬生城攻撃部隊の主攻撃部隊である伝習第一大隊半大隊が幕田村に到着し、第七連隊と御料兵に加勢する為に伝習第一大隊半大隊も安塚村北端の戦闘に参加します。戦場に現れた伝習第一大隊半大隊が、お得意のシャスポー銃による猛射撃を開始すると、弱兵の吹上藩兵・松本藩兵・大久保兵などはすっかり動揺し、新政府軍の戦線は辛うじて山国隊と土佐藩兵が支える不利な戦況となりました。特に幕臣大久保氏の手勢1個小隊などは、山国隊の記録によれば伝習隊のシャスポー銃による猛射撃を受けて、恐怖のあまり小銃を投げ出し、頭を抱えて泣き叫んでいたそうです。
 もしこの時大鳥軍の別働隊である伝習第二大隊半大隊が、計画通りに安塚村の東側に到着すれば、新政府軍の戦線の崩壊は必至だったでしょう。しかし技巧を凝らした計画は逆に仇になり、伝習第二大隊半大隊は風雨の中で道案内ともはぐれてしまい、道に迷った末にようやく幕田村に到着したものの、安塚村の側面を突くという作戦は水泡に帰する事になります。しかし安塚村の側面を突くという作戦は失敗したものの、伝習第二大隊半大隊も午前六時には戦場に到着した事によって大鳥軍の攻撃はより苛烈になり、新政府軍の戦線が崩壊するのはもはや時間の問題となりました。

 安塚村苦戦の一報が壬生城に入ると、それまで壬生藩の動向を警戒していた河田も遂に決断して、有馬に壬生城を任せて残存兵力である土佐藩2個小隊(迅衝隊一番日比虎作隊・同二番小島捨蔵隊)及び北村重兵衛砲兵隊と、鳥取藩兵2個小隊(天野隊・支藩石川隊)と佐分利砲兵隊を率いて壬生城から出撃し、安塚村に急行します。河田が残存部隊を率いて安塚村に到着した時には、既に戦線が崩壊しているも同然で、栃木街道を新政府軍の兵士が敗走してくる中、河田は「退く者は斬る」と兵士を叱咤激励し、この叱咤激励と援軍の到着を受けて新政府軍は戦線を建て直す事になります。戦線を建て直した新政府軍は、今度は一転攻勢に移り白兵戦の末に大鳥軍を姿川南岸まで押し返します。これは大鳥軍の主力となった伝習隊が、装備する後装施条銃のシャスポー銃こそ新政府軍にとって脅威だったものの、前述の通り農町民・博徒等による徴募兵によって構成されていたので白兵戦には弱く、河田自らが先頭になって突撃する、士族部隊による新政府軍の白兵突撃を支える事は出来なかったのです。
 河田は大鳥軍を姿川南岸に押し返しただけでは攻撃の手を緩めず、更に攻勢を強めたので姿川南岸で両軍入り乱れての乱戦が繰り広げられる事になり、この乱戦で大鳥軍、特に第七連隊と御料兵は死傷者が増大したため、遂に指揮官の秋月登之助も攻撃を諦めて全軍に撤退を命令します。大鳥軍が撤退すると、新政府軍もこれを追って淀橋を渡り追撃を行なうものの、それまでの自軍の損害の多さから幕田村を占拠すると、これ以上の追撃を諦め、警戒の部隊を幕田村に残すと残りの部隊を一旦壬生城に後退させました。
 一方敗走した大鳥軍は幕田村北部の西川田村に逃げ込み、この地で待機していた桑名藩兵・別伝習隊と合流し、全軍揃って宇都宮城に撤退しました。この敗北はこれまで常勝を続けてきた大鳥軍にとって初の敗北であり、またこれまでの常勝を支えてきた伝習第一大隊・同第二大隊・第七連隊に多くの死傷者を出す事になります。最終的に大鳥軍は兵士が百名弱、士官が十名弱もの戦死者を出した事により、大鳥軍の戦力は著しく低下する事になったのです。

 尚、大鳥軍の迂回部隊である伝習第二大隊2個小隊は、計画通り午前九時には河田が出撃して守りが手薄になった壬生城に到着し、壬生城を守る壬生藩兵は伝習隊の姿を見ると、戦う事無く城内に逃げ込みます。この時点では河田に留守を託されていた有馬が、援軍を求めに小山宿に向かっていたので、壬生城には壬生藩兵しか居なかったものの、大鳥軍に確約していた友平等佐幕派の内応はありませんでした。それでも伝習隊は城下を焼き払おうと城下に火を放つものの、払暁まで降りつづけた豪雨により家々が湿っていた事により、期待した程の戦果は挙げられずに伝習隊2個小隊もまた宇都宮城に撤退します。

      

左:壬生町安塚に建てられた、安塚村の戦いで戦死した大鳥軍の戦死者が葬られた「戊辰役戦死者之墓」
中:宇都宮市幕田町に建てられた、同じく大鳥軍の戦死者が葬られた「戦士十七名霊」
右:壬生町安塚に建てられた、安塚村の戦いで戦死した土佐藩士の墓

   

左:新政府軍と大鳥軍が激戦を繰り広げた、北岸から見た姿川南岸。
右:淀橋上から見た幕田方面の現況。


安塚村の戦いについての考察

 安塚村の戦いは、江戸脱走以来常勝を続けてきた大鳥軍にとって初の敗戦となった戦いです。大鳥軍が敗北した理由としては、まず大町雅美氏が「戊辰戦争」で書かれた「壬生城攻撃の決断が遅すぎた」が挙げられるでしょう。
 前述した通り大鳥自身は、宇都宮城入城後すぐから壬生城攻撃を主張していたものの、寄り合い所帯の難しさから、友平が内応を求めてくるまで、壬生城攻撃を決定する事が出来ませんでした。この大鳥軍が軍議に時間を取られている間に、先に壬生城に新政府軍が入城する事になったのですから、そもそも安塚村の戦いの敗因は、大鳥軍の決断の遅さに帰すると主張されています。
 総督−参謀−軍監といった明確な縦割り組織である新政府軍に対し、大鳥軍は同志的な横繋がりの組織である為に、総督と言っても大鳥には絶対的な権力がある訳ではなく、意思統一には時間が掛かる組織と言う欠点がこの時露呈したのです。この横繋がり故の意思統一の困難さは、後々まで大鳥を苦しめる事になります。
 このように大町氏の説は、大鳥軍の意思統一の遅れから、新政府軍に防御ラインを構築する時間を与えた事を指摘する一方で、意思統一に時間が掛かるという、大鳥軍の組織的欠陥を鋭く指摘しています。この「一日の遅れについて」に対しての指摘は、他の戊辰戦争の研究書では見られない、大町氏独自のの優れた見解と言えましょう。

 他に大鳥軍の敗因としては、「作戦が複雑過ぎた」「作戦立案者である大鳥が不在だった」の二つを挙げさせて頂きます。
 決断が遅きに失したと言っても大鳥が計画した作戦は、軍事用語で言う(一翼)包囲と迂回を組み合わせた優れた作戦でした。しかしこの(一翼)包囲と迂回は成功すれば戦果は大きいものの、無線機の発達した現代ならいざ知らず、部隊間の意思疎通が困難な当時では実行面では困難が伴う作戦だったと言えましょう。当時は部隊間の連絡を伝令に頼っていたものの、この安塚村の戦いは夜間行軍であり、更には激しい風雨により伝令は役に立ちませんでした。結果大鳥が立案した作戦は単なる戦力の分散となり、新政府軍に援軍が来るまでの時間を稼がせる事になったのです。
 大鳥の立案した作戦が失敗した理由としては、この作戦を立案した大鳥自身が体調不調の為に不在だったのも大きいでしょう。もし作戦を立案した大鳥自身が作戦を指揮していれば、風雨の激しい夜間の行軍と言う、当時の状況に合わせての作戦の修正は可能だったかもしれません。しかし実際に作戦を実行したのは作戦を立案していない秋月であり、大鳥ほど西洋軍事に通じていた訳ではない秋月は、状況に合わせて作戦を修正する事が出来なく、結果別働隊との合流を失敗する事になったのです。

 また大鳥はこの日の戦いでも、伝習隊を酷使する事になりました。確かに寄せ集め集団である大鳥軍の中で、大鳥の複雑な作戦を実行可能なのは伝習隊だけであり、本作戦でも主力部隊と別働隊と言う重要な役割を伝習隊に任せたのは止むを得なかったと言えましょう。しかしその為にこの日の戦いでは伝習隊の損害も多く、何よりこれまで伝習隊の活躍を支えてきたシャスポー銃の弾丸・火薬を多量に消費した事により、この戦い以降の伝習隊は弾薬・火薬不足に陥ります。これは先日の宇都宮城攻略時に弾丸・火薬を鹵獲出来なかった事も併せて、この安塚の戦い以降の伝習隊は、かつての精彩を失う事になるのです。


第二次宇都宮城攻防戦:四月二十三日
地図

新政府軍救援第三軍の壬生到着
 話は安塚村の戦いが佳境を迎えていた二十日の朝に遡ります。壬生城で留守を預かっていた有馬藤太は安塚村の戦況不利を聞くと、援軍を求める為に壬生城を出て小山宿方面に向かい、小山宿にて救援第三軍と合流します。元々救援第三軍は、岩井村で旧幕府軍を破った後も北上を続けていた、伊地知正治率いる救援第二軍と合流する計画だった模様だったと思われます。しかし有馬から安塚村の苦戦を聞くと、救援第三軍を率いる野津道貫大山巌は、友軍の危機を救うために進路を変更、全軍を率いて栃木街道を急行して安塚村を目指します。
 ところが救援第三軍が安塚村に到着した時には既に戦いが終了しており、戦闘を終えて壬生城に帰還する河田景与(河田左久馬)率いる救援第一軍と共に、救援第三軍も壬生城に帰還する事になるのでした。
 壬生城に帰還した野津(道)と大山は、河田に対し即時宇都宮城への攻撃を提案します。しかし救援第一軍の予想以上の損害を考えた河田は、兵を一旦休憩させて戦列を整えないと再戦は不可能と、野津(道)と大山の両名の提案を断りました。ところが安塚村に敵軍が居ると思い進路を変更した野津(道)と大山としては血気に逸っていた為、河田の返答を生ぬるいと感じた模様で、救援第三軍単独での宇都宮城攻撃を決意します。
 かくして一夜明けた二十三日早朝、救援第三軍は壬生城を出発し、宇都宮城を南西方面から攻撃するために進軍を開始しました。救援第三軍は栃木街道を北上し宇都宮宿を目指します。

大鳥軍の戦力と、日光への転進準備
 先日の安塚村の戦いでの予想以上の損害に驚いた大鳥圭介は、日光への転進を決意し、この日は朝から日光への転進の準備を行なっていました。この時宇都宮城に在城していたのは、既に二十日に入城した幕府歩兵伝習第一大隊・同第二大隊・幕府歩兵第七連隊・御料兵・草風隊・貫義隊・桑名藩兵・別伝習隊・新選組の諸隊、岩井村の敗戦後に逃亡してきた誠忠隊・純義隊・回天隊の残党、そして安塚村の戦い後に入城した凌霜隊と会津藩砲一番隊も加わり、その戦力は三千を超えていたと思われます。
 三千を越える大軍の日光への転進を援護する為に、日光街道から宇都宮宿に至る入り口である台新田口には御料兵の一部を、栃木街道から宇都宮宿に至る入り口である六道口には伝習隊(第二大隊?)の一部をそれぞれ配置して、新政府軍に対する警戒に当たらせます。六道口には元々関所の木戸が設けられており、大鳥軍はこの木戸を土俵により強化して、更には大砲一門を設置して、新政府軍に対しての警戒に当たっていました。
 第二次宇都宮城攻防戦時に会津藩砲兵一番隊が参加した事については、「会津戊辰戦史」に安塚村の戦い後の記述として「我が藩兵は手を空しくして宇都宮に入り城外に宿陣す」と書かれています。

新政府軍救援第三軍の攻撃開始〜六道口の戦い〜
 大鳥軍が六道口に布陣する中で、救援第三軍は更に栃木街道を進軍し、遂に二十三日午前十時頃両軍は戦端を開く事になります。両軍の戦いは六道口の手前で、それぞれの哨戒兵が接触した事により始まり、序盤は陣地に布陣する大鳥軍伝習隊の優位に戦況は進みました。しかし血気にはやっていたとはいえ、救援第三軍単独での宇都宮城攻撃を決意しただけあって、野津(道)と大山の手腕は優れていました。野津(道)の率いる薩摩藩城下士小銃六番隊の狙撃兵を先行させつつ、その背後から残りの兵を散兵させながら前進させ、その後方から大山率いる同藩二番大砲隊半座が砲撃を行なうと言う見事な攻撃を見せます。流石の伝習隊も、この救援第三軍の猛攻の前では一たまりもなく、大山砲兵隊の砲撃により虎の子の大砲一門が破壊されると、歩兵隊の突撃を受けて鎧袖一触で粉砕され、戦死者の収容も出来ずに宇都宮城目指し敗走する事になりました。
 こうして救援第三軍は、伝習隊を破って見事六道口の陣地を占領します。しかし野津(道)と大山の血気は、六道口の陣地を占領しただけでは収まらず、六道口陣地を橋頭堡にして、宇都宮城への攻撃を続行するのです。しかし三百名に満たない救援第三軍単独での宇都宮城への攻撃は、もはや勇猛果敢を通り越して猪突猛進に過ぎないと言えましょう。

      

左:付近で救援第三軍と大鳥軍の前哨戦が行なわれたと思われる滝権現跡。
中:現在は「六道通り」と呼ばれる六道口の現況。現在は画像のように行き止まりになっているものの、当時は佐野・壬生方面から伸びる街道は、この通りに繋がっていました。
右:宇都宮市六道町付近に建てられた、第二次宇都宮城攻防戦で戦死した大鳥軍の戦死者が葬られた「戊辰戦役戦士墓」。この地は佐野・壬生方面から伸びる街道と、楡木方面からの街道が合流する交通の要所でした。

松ヶ峰門の激闘と、大鳥軍の反撃
 六道口で救援第三軍と大鳥軍が戦闘状態に入ったとの一報を受けた大鳥は、日光転進の準備を中止して、慌てて篭城戦の準備を指示します。「北関東戊辰戦争」によれば、第二次宇都宮城攻防戦での大鳥軍の配置は、北西の大手門から西方の松ヶ峰門に掛けてを伝習第一大隊と同第二大隊が守り、地蔵門から下河原門に掛けてを御料兵と土工兵が守り、中河原門から今小路門に掛けてを草風隊と別伝習隊が守りに就いていたと書かれています。また宇都宮城の北方にそびえる戦略の要所である明神山と八幡山には、桑名藩兵と歩兵第七連隊が布陣しました。この時宇都宮城には他に貫義隊と新選組と凌霜隊、他にも回天隊や誠忠隊の残党も在城していましたけれども、これらの部隊がどこに布陣していたかは不明です。
 尚、この篭城戦に際して大鳥が指揮を取った場所については、「北関東戊辰戦争」では二の丸の玄関櫓ではないかと書かれています。宇都宮藩の資料に、第一次宇都宮城攻防戦の際、香川が二の丸の戦闘指揮所で指揮を取ったと書かれており、或いは同じ場所で指揮を取ったのかもしれません。篭城戦を指揮するには本丸より、二の丸の方が適していたという事でしょうか。もっとも本丸内の建物は、第一次宇都宮城攻防戦で全て焼失しており、戦闘指揮出来るような建築物が二の丸にしか残っていなかったのかもしれません。

 大鳥軍が篭城戦の準備を進める一方で、六道口を占領した救援第三軍は、宇都宮城の外郭に到着し、外郭西部の松ヶ峰門に攻撃を開始します。救援第三軍は街道上を大山砲兵隊と、その警護役である兵具隊が進み、街道右手を薩摩藩城下士小銃六番隊が進み、街道左手を大垣藩兵2個小隊が進む形で攻め掛かりました。勇猛果敢な薩摩藩兵と大垣藩兵だけあって、土塀の影から猛射する伝習隊の射撃をものともせず、空堀を越えて土塀に取りかかります。しかし救援第三軍の猛攻もここまででした、幾ら勇猛果敢な薩摩藩兵と大垣藩兵と言っても、僅か三百名弱では松ヶ峰門や土塀の守りを突破する事は出来ず、逆に伝習隊の猛射撃(この頃はまたシャスポー銃の弾丸も残っていたと思われます)や刀槍部隊(貫義隊か?)の白兵攻撃に阻まれ、多くの死傷者を出す事になりました。士官だけでも兵具一番隊半隊長の井上猪右衛門と城下士小銃六番隊半隊長の岩切彦三郎が戦死、同六番隊長の野津(道)と救援第三軍に同行していた有馬が負傷したのを始め、多くの死傷者を出して救援第三軍の攻撃は頓挫する事になります。
 救援第三軍の攻撃が頓挫したのを見た大鳥は反撃を試み、松ヶ峰門を守っていた伝習隊に逆に打って出るのを命令する一方で、大川正次郎率いる伝習第二大隊の一部と凌霜隊及び会津藩砲兵一番隊二番分隊(組頭遠山寅次郎)を大手門から出撃させ、西部の城下町を迂回させて救援第三軍の背後を突くように指示します。救援第三軍が攻撃する後方では大山砲兵隊が援護射撃を行なっており、更にその背後には両藩兵の輜重隊が待機していましたけれども、この救援第三軍の後方に伝習隊・凌霜隊・会津藩砲兵隊の迂回部隊が攻めかかったのです。予期せぬ迂回部隊の攻撃を受けた救援第三軍の輜重隊は、物資を鹵獲され、更に宇都宮城から放たれた砲撃により弾薬が爆破した事により、救援第三軍は弾丸・火薬・食料等の軍事物資を全て失い、継戦能力を損失する事になりました。
 救援第三軍の危機は軍事物資を失っただけで留まらず、松ヶ峰門からの逆襲と迂回部隊の攻撃により、救援第三軍は東西及び北からの三方面から包囲され、包囲殲滅される危機に陥ります。軍事物資を失い、退路を遮断された事により救援第三軍もこれ以上の攻勢を諦め、大鳥軍に包囲殲滅される前に退却をしようと撤退を開始します。「戊辰役戦史」に『後方の敵に対する突囲」と評される、救援第三軍の撤退も、客観的に見て大鳥軍の三面包囲から、辛うじて脱出出来たというのが妥当な評価でしょう。
 かくして午前十時頃に開戦して以降、昼食も取らずに戦い続けた両軍の戦闘も、午後三時頃に救援第三軍が大鳥軍に撃退される事により、一段落となりました。しかし大鳥軍が休む間もなく、日光街道上に新たな敵軍(救援第二軍)が現れたとの一報が入る事になります。

      

左:救援第三軍と大鳥軍が激戦を繰り広げた、宇都宮城松ヶ峰門付近の現況。
中:宇都宮市報恩寺に建てられた、第二次宇都宮城攻防戦で戦死した薩摩藩兵が葬られた「戊辰薩藩戦死者墓」。
右:復元された清明台櫓から見た、大鳥が指揮を取った場所とも言われる、宇都宮城二の丸玄関前櫓付近の現況。

新政府軍救援第二軍の戦闘参加
 伊地知率いる第二救援軍は岩井村で旧幕府軍を破った後、結城城に向けて進軍を続けました。これは第三次小山宿の戦いで敗戦した祖式が結城城から逃走した事により、結城城が不安定な状況になったので、この結城宿の治安を取り戻す為に救援第二軍は向かっていたのです。救援第二軍は二十二日に結城城に到着し、祖式の逃亡以降は不穏な状況だった結城の地に、秩序を取り戻す事に成功しました。
 結城宿の治安を取り戻した救援第二軍は、宇都宮城攻撃の為に翌二十三日午前八時頃、結城城を出発します。復古記に収録されている伊地知の日記によれば、本来伊地知は宇都宮城攻撃を二十四日と考えていた模様です。しかし小山に到着した際に宇都宮方面から銃砲声が聞こえてきた事により、予定に反し既に宇都宮城で戦闘が始まったと判断し、慌てて日光街道を北上して宇都宮城に急行する事になります。この伊地知の日記からも、元々宇都宮城の攻撃は二十四日と計画されていたものの、野津(道)と大山の猪突猛進から二十三日に戦闘が開始されたのではないでしょうか。
 日光街道を急行して北上する救援第二軍は、やがて宇都宮宿の入り口に至る台新田口に到着、この陣地を守る御料兵を鎧袖一触で粉砕します。救援第二軍はその後も北上を続けて宇都宮城に到着、外郭の南出丸及び地蔵堂門に攻撃を開始しました。この南出丸と地蔵堂門から下河原門に掛けては、御料兵の一部(大半は松ヶ峰門に援軍の為に移動していた模様)と土工兵が守りを固めていたものの、救援第二軍の先鋒を務める薩摩藩城下士小銃五番隊(隊長野津静雄)は、この御料兵と土工兵の迎撃をものともせずに南出丸に突入、見事宇都宮城の外郭の突破に成功します。
 この救援第二軍と大鳥軍との戦闘による砲声は、六道口に撤退した救援第三軍の元にも届き、救援第三軍は軍事物資の補給を依頼するための連絡兵を救援第二軍の元に派遣しました。やがて救援第二軍から弾丸・火薬・食料等の軍事物資が届くと、野津(道)と大山は兵士達に食事を取らせる一方で、欠乏していた弾丸と弾薬を補充し、戦列を整えると六道口陣地を出発、再び松ヶ峰門方面に攻撃を開始します。
 一方、南出丸の突破に成功した伊地知は、(伊地知から見て)左翼方面から救援第三軍が援軍に駆けつけたのを見て、自らが率いる救援第二軍を右翼方向に展開させ下河原門や中河原門にも攻撃の手を伸ばしました。最右翼の長州藩施条銃足軽第一大隊二番中隊(隊長楢崎頼三)に至っては、城北まで大きく迂回し城を見下ろす戦略の要所である明神山を強襲、この地を守る桑名藩兵・歩兵第七連隊等を追い出して、見事明神山を占領します。
 新政府軍の救援第二軍の参戦により苦戦に陥った大鳥は、指揮下の部隊を動かして救援第二軍と第三軍のとの防戦に当たる一方で、大川に明神山の奪回を命じました。この命を受けた大川率いる伝習第二大隊の一部は今小路門から出撃して明神山に急行し、八幡山に退いた桑名藩兵・歩兵第七連隊等と協力して長州藩楢崎中隊を追い出し、明神山の奪回に成功します。
 このように新政府軍の救援第二軍が参戦した事により、第二次宇都宮城攻防戦は混戦の度合いを深める事になり、あちこちで一進一退の攻防戦が行なわれる事になります。しかし夕方に河田率いる救援第一軍が戦場に到着した事により、戦局は一気に新政府軍優勢に転じます。

      

左:宇都宮城地蔵堂門付近の現況。
中:明神山の山頂に建つ荒山神社。当時の建物は、二度の宇都宮城攻防戦により焼失しました。
右・宇都宮市報恩寺に建てられた、救援第二軍の主力となった長州藩・大垣藩両藩兵の墓。

新政府軍救援第一軍の戦闘参加と、宇都宮城再落城
 二十二日に野津(道)と大山の翌朝からの宇都宮城への提案を断ったとは言え、河田は宇都宮城への攻撃そのものを否定した訳ではなく、安塚村の戦いでの損害から戦列を整えるのに時間が掛かる事から、二十三日早朝の攻撃は無理と判断しての返答でした。実際に安塚村の戦いでの損害は想像以上に大きく、安塚村の戦いで先鋒を務めた山国隊は実に隊員の二割もの死傷者を出して、即日の戦闘参加などは無理な状況だったのです。大鳥軍に大敗した大久保兵と吹上藩松本藩兵合併小隊もまた、とても戦闘参加出来るような状態ではなく、結果的に河田は鳥取藩兵のみの出撃を決意します。かくして河田は二十三日日午後、鳥取藩兵2個小隊(天野祐次隊・支藩石川豊太郎隊)及び佐分利鉄次郎砲兵隊を率いて壬生城より出発しました。
 鳥取藩兵の単独出兵では心もとないので、河田としては土佐藩兵半大隊の動向が望ましかったでしょう。しかし安塚村の戦いの戦況不利を受け、土佐藩兵の輜重担当が軍資金と物資を持って避難してしまったので、この日の土佐藩兵は動きたくても動く事が出来ず、壬生城で留守を守る事になりました。この土佐藩兵の輜重担当の避難そのものは誤った判断とは言えず、自らの職責を果たしたと言えるものの、この為に土佐藩兵は第二次宇都宮城攻防戦に参加する事が出来なかったのは、土佐藩兵にとっても輜重担当にとっても不幸だったと言えましょう。

 こうして参戦したと言っても、戦場に駆けつけた救援第一軍の戦力は、僅か2個小隊と1個砲兵隊に過ぎませんでした。しかし戦場に到着した河田は戦況をよく判断し、鳥取藩兵を率いて材木町等の西部の城下町を迂回して、明神山を奪還したばかりの大鳥軍の背後を強襲します。思わぬ強襲を受けた大鳥軍は明神山から退いた為、新政府軍が再び明神山を奪取する事になり、今小路門を除き宇都宮城は新政府軍に包囲される事になります(大手門には、明神山を占領した鳥取藩兵の一部が攻撃を開始しました)。
 宇都宮城を包囲されたと言っても、この時点での戦力を考えれば大鳥軍は決して不利な状況ではありませんでした。宇都宮城を包囲する新政府軍は救援第一軍・同第二軍・同第三軍を足しても一千名に足らず、少なく見積もっても二千名は居たと考えられる大鳥軍の半分以下の戦力に過ぎなかったのです。しかし河田率いる救援第一軍が明神山を占領した夕方の時点には、救援第二軍と第三軍は共に外郭を突破して、戦いは既に二の丸と三の丸を巡る城内戦になっていました。この混戦の中で大鳥軍は士官だけでも秋月登之助土方歳三垣沢勇記本多幸七郎、そして大鳥自身が負傷し、兵士にも多くの死傷者を出す状況に追い込まれます。この頃になると、大鳥が二の丸玄関櫓で指揮を取っているにも関わらず、その眼下で勝手に城を脱走する兵士が見られるなど、ここに来て寄せ集めの集団という欠点が露呈します。
 かくしてこれ以上の抗戦は無益と判断した大鳥は、全軍に宇都宮城から脱出して日光に撤退するように命令を発する事になります。尚、この大鳥の撤退命令は、単に戦況の不利を受けただけではなく、前述の通り第一次宇都宮城攻防戦で宇都宮宿が灰燼と化した事により、宇都宮宿は日光を守る上での策源地として利用出来ないと判断した為、その固守に拘らなかったのではないかと思います。
 撤退命令を受けた大鳥軍は、唯一攻撃を受けていない今小路門から次々と脱出し、この時点でも桑名藩兵・歩兵第七連隊が健在の八幡山沿いに撤退して、一路日光を目指します。八幡山に桑名藩兵と歩兵第七連隊が布陣して援護射撃を行なったため、新政府軍の方も撤退した大鳥軍を追撃する事が出来ず、砲撃にて僅かながらの損害を与えたのみに留まりました。しかし追撃戦が出来なかったとはいえ、第二次宇都宮城攻防戦と安塚村の戦いを併せれば、大鳥軍の被害は戦死者だけでも三百名近くに達する事になり、負傷者の数を考えれば大鳥軍はもはや新政府軍に脅威を与える存在ではなくなっていたのです。

   

左:宇都宮市光琳寺に建てられた、安塚村の戦いと第二次宇都宮城攻防戦で戦死した鳥取藩兵と山国隊の墓。
右:救援第一軍が攻撃を行った、宇都宮城大手門付近の現況。

       

左:宇都宮市光琳寺に建てられた、第一次・第二次宇都宮城攻防戦で戦死した桑名藩兵の墓。尚、上記の鳥取藩兵の墓とは、向かい合うように建てられています。
中:宇都宮市常念寺に建てられた彰義隊士の墓。大鳥軍に彰義隊が参加していたとは聞きませんけれども、結城城攻防戦に参加した彰義隊の残党が、大鳥軍に参加したのでしょうか。
右:第二次宇都宮城攻防戦で戦死した、大鳥軍の戦死者が葬られたと伝えられる宇都宮市正行寺。残念ながら大鳥軍が葬られた戦死者の供養塚は、道路拡張の工事により取り壊されたそうです。

宇都宮藩兵の宇都宮城到着と、その後の戦況
 大鳥軍から宇都宮城を奪回した新政府軍は、その夜は薩摩藩兵と鳥取藩兵が城内の警戒に当たり、長州藩兵と大垣藩兵が城下の警戒に当たる形で夜を明かしました。翌二十四日に宇都宮藩兵が宇都宮城に到着すると、新政府軍を代表して伊地知が宇都宮藩兵に宇都宮城を引き渡し、実に四日ぶりに宇都宮城は宇都宮藩士が入城する事になったのです。しかし居城の奪回戦に参加する事の出来なかった宇都宮藩兵の面目は、土佐藩兵以上に丸つぶれとなり、特に第二次宇都宮城攻防戦で多くの犠牲を出した薩摩藩兵に対しては宇都宮藩兵は頭が上がらず、次第に薩摩藩兵に依存する事となりました。
 こうして宇都宮城を手に入れた新政府軍は、この地を東山道軍の事実上の拠点として、伊地知率いる部隊は白河方面に向かい、遅れなせながら宇都宮城に到着した板垣退助率いる部隊は日光に向かう事になり、戦線は白河と日光の二方面に移る事になるのです。


第二次宇都宮城攻防戦についての考察

 それまで戦略的に攻勢を続けていた大鳥軍が、守勢に回る事となる戦局の転換が行なわれたのが、第二次宇都宮城攻防戦の特徴と言えましょう。この戦局の転換は、両軍の補給の優劣により行なわれたと考えています。

 江戸脱走以来、大鳥軍は常に戦略的攻勢を続けていました。この攻勢は大鳥の軍事手腕が優れていたのが大きかったのはもちろんの事、伝習隊を始めとした幕府歩兵が、大鳥の軍事理論を実行出来たのも、大鳥軍の優勢を支えた大きな理由だったと言えましょう。伝習隊を始めとした幕府歩兵の連度が高かったのが、大鳥の軍事理論を実現出来た理由の一つでした。しかし何よりも新政府軍と互角以上の火力を有していた事こそが、大鳥軍が戦略的攻勢を続けられた要因だったと考えます。
 もっとも大鳥軍の火力が優れていたとしても、その優勢を継続するには、戦闘で消費した弾丸・火薬・雷管等の軍事物資の補充が必要でした。しかし策源地を持つ新政府軍とは違い、流浪の軍勢である大鳥軍には、戦闘で消費した軍事物資を補充する手段が無く、どれだけ装備が優れていたとしても、いずれはジリ貧となるのが明白だったのです。
 大鳥軍が宇都宮城の奪取を目論んだ理由としては、日光を守るには戦略の要所である宇都宮城を欲したのもあったでしょう。しかし策源地を持たない流浪の軍勢である大鳥軍が、策源地として宇都宮城を欲したというのが一番の理由だったと思われます。ところが第一次宇都宮城攻防戦で手に入れた宇都宮城に、大鳥自身が入城した際、城内には期待していた弾薬等は残っておらず、大鳥が望んだ弾薬等の補充は出来ませんでした。それどころか第一次宇都宮城攻防戦で生じた火災により、城下は灰燼と化しており、宇都宮宿はもはや策源地としての機能を失っていたのです。宇都宮城を手に入れる事には成功したものの、補給面の不安は依然解消されていないと言うのが、当時の大鳥軍の実情だったでしょう。これについては大鳥自身が、後に南柯紀行にて「弾薬運送の大切なることは曾(かつ)て書物上にても心得居りたれども今般の如き前後混乱の間に当て如何とも為しがたし嗚呼」と、大鳥軍が補給に苦しんでいた事を語っています。
 それでも大鳥は、あえて攻勢に出る事により補給面での不利を挽回するのを試みました。しかし安塚村の戦いで破れた事により、継戦能力を失なう事となったのです。こうして継戦能力を失った大鳥軍にとって、策源地としての機能を失った宇都宮城は固守する存在ではなく、そもそも継戦能力を失った大鳥軍に、宇都宮城を固守する事は不可能だったと考えます。

 一方、新政府軍が宇都宮城の奪回に固執したのは、大鳥軍に奪取された宇都宮城を放置するのは、新政府軍の沽券に関わるというのが一番の理由でしょう。しかし潜在的な理由としては、江戸より西は全て策源地だったと言える新政府軍は、(個々の藩の財政を度外視すれば)補給の面では心配が無いので、策源地としての機能を失った宇都宮城を、あくまで江戸と会津の中間に位置する戦略上の要所であるという軍事的な視点で見る事が可能であり、戦略的な価値から宇都宮城の奪回を目指したと考えます。

 このように第二次宇都宮城攻防戦は、策源地としての機能を失った宇都宮城を、補給に劣る大鳥軍は固守出来ず、補給に勝る新政府軍が奪回したという、最終的には補給の優劣が勝敗を決したと言っても過言はないでしょう。
 実際戦術の面では、むしろ新政府軍の失策が目立ち、宇都宮城攻撃に際して戦力分散の愚を犯し、一歩間違えれば各個撃破され全滅する危険性を孕んでいました。幸い継戦能力を失っていた大鳥軍には、新政府軍を各個撃破する余力は無く、それどころか大鳥が指揮をする眼下で兵士達が逃亡する状況に陥っていたのです。戦術の面では新政府軍の失策が目立ったのも、第二次宇都宮城宇都宮城攻防戦の特徴と言えましょう。

 しかし戦術の面では失策が目立っても、最終的には補給に勝る新政府軍が補給に劣る大鳥軍から、宇都宮城の奪回に成功します。これは物量の差、補給の優劣が勝敗を決める近代戦の特徴を示しており、中世の戦いから近代戦に至る過渡期の戦争である戊辰戦争を象徴する戦いであったと言えましょう。
 結局この敗戦以降、それまで戦略的攻勢を続けていた大鳥軍は、戦略的守勢を取らざるを得なくなります。また補給手段の無い大鳥軍は、この戦い以降奥羽越列藩同盟の実質指揮下に入る事になり、補給手段を得た代わりに、独立した武装集団としての立場を失う事になりました。この第二次宇都宮城攻防戦後も、新政府軍と大鳥軍は今市の地で戦う事になります。しかし今市宿の戦いは、あくまで新政府軍と奥羽越列藩同盟軍の戦いの付属でしかなく、新政府軍と大鳥軍との戦いは、この第二次宇都宮城攻防戦で終了したと言っても過言ではないでしょう。そしてその勝敗を決したのは、何度も書いたとおり補給の優劣だったと考えます。

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主な参考文献(第一章から後第五章まで通じて)

『戊辰役戦史』:大山柏著、時事通信社
『復古記 第10巻・11巻』:内外書籍
『三百藩戊辰戦争辞典』:新人物往来社編

『北関東戊辰戦争』:田辺昇吉著、松井ピ・テ・オ印刷
『戊辰戦争』:大町雅美著、雄山閣
『下野の戊辰戦争』:大嶽浩良著、下野新聞社
『那須の戊辰戦争』:北那須郷土史研究会編、下野新聞社
『栃木の街道』:栃木県文化協会

『薩藩出軍戦状 1・2』:日本史籍協会編
『伊地知正治日記』:静岡郷土研究会(維新日誌第2期第2巻収録)
『板垣退助君伝』:栗原亮一編纂、自由新聞社
『谷干城遺稿』:島内登志衛編纂、靖献社
『流離譚』:安岡章太郎著、新潮社
『土佐藩戊辰戦争資料集成』:林英夫編、高知市民図書館
『鳥取藩史 第1巻』:鳥取県編、鳥取県立図書館
『鳥取県史』:鳥取県編
『鳥取県郷土史』:鳥取県編、名著出版
『鳥取市史』:八村信三編、鳥取市役所
『丹波山国隊史』:水口民次郎著
『山国隊』:仲村研著、中公文庫
『佐賀藩戊辰戦史』:宮田幸太郎著、マツノ書店
『幕末維新の彦根藩』:佐々木克編、彦根市教育委員会
『大垣藩戊辰戦記』:鈴木喬著、鈴木文庫
『北武戊辰小嶋楓処・永井蠖伸斎伝』:小島慶三著
『戊辰日記』:県勇記著、東大史料編纂所データーベース
『宇都宮藩を中心とする戊辰戦史』:小林友雄著、宇都宮観光協会
『維新と大田原藩』:益子孝治著、大田原風土記会

『南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記』:新人物往来社
『大鳥圭介伝』:山崎有信著、マツノ書店
『北戦日誌』:浅田惟季著
『慶応兵謀秘録』:静岡郷土研究会(維新日誌第2期第2巻収録)
『野奥戦争日記』:静岡郷土研究会(維新日誌第2期第2巻収録)
『谷口四郎兵衛日記』:新人物往来社(続新撰組史料集収録)
『野州奥羽戦争日記』:山口県毛利家文庫
『別伝習書記』:伊南村史第3巻資料編2収録
『沼間守一』:石川安次郎著、大空社
『陸軍創設史』:篠原宏著、リブロポート
『幕府歩兵隊』:野口武彦著、中公新書
『会津戊辰戦史』:会津戊辰戦史編纂会
『泣血録』:中村武雄著
『鶴ヶ城を陥すな〜凌霜隊始末記〜』:藤田清雄著、謙光社

『下野史料 第38号』:下野史料保存会
『下野史談 第2巻2号』:下野史談会
『栃木県史 通史編5・6』:栃木県史編纂委員会編
『栃木縣史 第8巻 戦争編』:下野史談会
『宇都宮市史 第五巻近世史料編 2』:宇都宮市史編纂委員会編
『宇都宮市史 第六巻近世通史編 1』:宇都宮市史編纂委員会編
『小山市史 通史編2』:小山市史編纂委員会編
『壬生町史 通史編2』:壬生町編
『笠間市史 上巻』:笠間市史編纂委員会編
『結城市史 第5巻』:結城市史編纂委員会編 
『いまいち市史通史編3』:今市市史編さん委員会編集
『日光市史下巻』:日光市史編さん委員会編
『真岡市史第7巻』:真岡市史編さん委員会編
『鹿沼市史 通史編近現代』:鹿沼市史編さん委員会編
『塩原町誌』:塩原町史編纂委員会編
『大田原市史 前編』:大田原市史編纂委員会編
『藤原町史 通史編』:藤原町史編纂委員会


参考にさせて頂いたサイト
幕末ヤ撃団様内「戊辰戦争兵器辞典」
天下大変 -大鳥圭介と伝習隊-様内 記事全般

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