野州戦争 第三章
慶応四(1868)年四月二十四日〜五月六日

板垣退助と大鳥圭介、今市の地で激突 〜勇将対知将〜
地図

大鳥軍の日光への逃避行

宇都宮城からの脱出
 四月二十三日の夕方、新政府軍の猛攻を受けてこれ以上宇都宮城の維持は難しいと判断した大鳥圭介は、指揮下の軍勢に宇都宮城から脱出して日光への退避を指示します。かくして大鳥軍は宇都宮城を捨てて日光を目指すものの、新政府軍の追撃が行われる中では組織だった撤退は出来ず、各自バラバラに日光を目指す事になりました。
 大鳥自身も部下を兵を率いて、新政府軍の追撃を避ける為に一旦奥州街道に出て、それから間道に入って日光を目指すと言うコースを辿ります。新政府軍に追われての敗残者としての逃避行にも関わらず、最初に辿り着いた集落では住民から握り飯の歓待を受け驚きます。敗残者の自分達を何故歓待するのか、不思議に思った大鳥は住民に尋ねると、農民とは言えども幕府の恩義に報いる為と答えられ、大鳥も感動するものの、この集落以降に辿り着いた集落では住民が全て遁走しており、総督である大鳥自身が空き家の縁側で眠る事になると言う厳しい逃避行になりました。 
 それでも翌日二十四日、日光街道の宿場町である今市宿に到着。この今市宿は日光街道・例幣使街道・会津西街道の三つが交わる交通の要所であり、また宇都宮〜日光間の宿場町では最大の規模を誇る為、日光を拠点とする為に大軍を収容出来、かつ食料を入手出来る唯一の拠点でした。この為、大鳥自身はこの今市宿に滞陣するつもりだったものの、第二次宇都宮城攻防戦の敗北によりすっかり浮き足立っていた大鳥軍の兵士達は、徳川家の聖地である日光へ向かう事を望み、遂に大鳥もこの兵士達の動揺を鎮める事は出来ず、結局大鳥軍全体が今市宿を捨てて日光に退避する事になります。
 また大鳥自身は今市宿で、日向内記率いる会津藩砲兵隊との共同しての防戦を願っていたものの、日向はこれを断り会津西街道を会津目指して撤退します。会津贔屓はこれを日向の独断として非難するものの、日向にはそんな権限は無く、日向の撤退は会津藩の意向と見るべきでしょう。この時期の会津藩はまだ表向きは新政府軍との交戦を表明していないので、大鳥軍が会津藩外で新政府軍と戦うのは歓迎なものの、新政府軍と既に戦端を開いた大鳥軍が会津藩内に入るのは迷惑と言うマキャベリズムに基づいた思惑を持っていました。このような身分差別に基づく会津藩によるマキャベリズムに、大鳥はこの後も振り回される事になります。
 このような困難な一連のやり取りの中、これまで大鳥を補佐した垣沢勇記本多幸七郎とも負傷の為(垣沢は同じ今市宿に居たものの重傷、本多は軽傷なものの治療の為に本隊を離脱)、相談する相手も居ない大鳥は難儀します。
 『南柯紀行』にて「宇都宮一敗後人心瓦解唯一寸にても退くことを考え敵に近く出ずることを好まず、夫に本多幸七郎ならびに会人垣沢某も深手なれば相談相手もなく甚だ困却せり」との記述があります。
 敗軍の将となった大鳥には他にも難題が降りかかる事になります。第二次宇都宮城攻防戦までの大鳥軍が優位を保てた原因としては、大鳥の用兵手腕も要因と思われるものの、伝習隊の連度の高さと伝習隊が装備していたシャスポー銃の性能の高さが大きかったと思われます。しかしそのシャスポー銃も小山・安塚・宇都宮と続く連戦で弾薬を使い果たし、この日光への逃避行の時点では慢性的な弾薬不足になっていました。これに対しては大鳥も決して手をこまねいていた訳ではなく、宇都宮城入城後に日光でシャスポー銃の弾丸製作を試みたものの、製作した五千発の弾丸は実戦には耐えられなかったと『南柯紀行』に「今すでに五千発位は出来たけれども製作良しからず軍用に供しがたく」と書かれています。この為に大鳥は会津藩士某に、会津藩からの弾薬供与を要請するものの、現時点では弾薬不足の状況に変わりはなく、日光にて集結したと言っても、大鳥軍はとても新政府軍と戦闘が可能な状態ではありませんでした。
 この弾薬不足について大鳥は『南柯紀行』に「弾薬運送の大切なることは曾(かつ)て書物上にても心得居りたれども今般の如き前後混乱の間に当て如何とも為しがたし嗚呼」と記述されています。

兵士・士官の脱走問題

 第二次宇都宮城攻防戦の敗北は、これまで脱落者をあまり出さなかった大鳥軍に、兵士・士官の大量脱走を引き起こす事になります。新政府軍の追撃を受けずに殆ど無事に今市宿に辿り着けたとは言え、脱落者による兵数の低下は大鳥軍の戦力低下に繋がりました。ただ個人的には、一般兵士の脱走は確かにそれはそれで問題でしょうが、それ以上に問題だったのは士官の大量脱走だったと思います。大鳥軍の精強さの理由は上記の通り伝習隊の装備するシャスポー銃の性能(伝習隊以外でも幕府歩兵第七連帯・御料兵・草風隊は悪くても前装施条銃を装備していたので、火力の面では新政府軍と互角以上でした)も大きかったと思われますが、その火力を活かす散兵戦術を可能にした士官の能力の高さが最大の要因だったと推測します。私見となりますが、つまり士官が大量脱走は大鳥軍の機動力の低下につながり、後日の今市宿を巡る戦いで大鳥軍に精彩が欠けるのに繋がったのではないでしょうか。
 士官の大量脱走は大鳥子飼いの伝習第二大隊でも発生します。二番小隊長の浅田惟季の記述によると、三番小隊長の板橋淳次朗、六番小隊長の山角麒三郎、七番小隊長の鈴木鉄三郎の実に三人もの小隊長が日光への逃避行の間に脱走します。伝習第二大隊は8個小隊編成ですから、その半分近い三人もの小隊長が脱落したのですから、伝習第二大隊の戦力低下は明白で、後日田島で再編成したとは言え、もはやかつての精強さを取り戻す事はなかったと考えます。
 大鳥子飼いの伝習第二大隊でさえ、この有様なのですからその他の部隊はより深刻な状況でした。第七連帯は小隊長補佐格の下士官一人の脱走で済んだものの、御料兵に至っては副大隊長格が一人、小隊長が二人、小隊長補佐格が六人脱走と惨憺たるものでした。砲兵隊もまた中隊長と小隊長が一人づつ脱走しています。この脱走者達はは単に脱走するだけでなく、脱走する際に大鳥軍の軍費を持ち去って脱走する場合が多く、士官の人材不足に加えて、大鳥軍の軍費不足にも繋がりました。伝習第一大隊に関しては『谷口四郎兵衛日記』に「薄井蓮次郎ト言者金百両、斎藤登ハ五十両、隊中之軍金持逃脱走」と書かれており、軍費の持ち逃げ脱走が起きたのは判るものの、この両名が士官かどうかは同書を読む限りでは判りません。
 尚、前述の第七連隊・御料兵・砲兵隊に関しては脱走以外にも、第二次宇都宮城攻防戦までの戦いで多くの士官が死傷し、職務を果たせない状況になっていました。この第七連隊・御料兵・砲兵隊の市川宿集結から第二次宇都宮城攻防戦までの戦死負傷、及び脱走による士官の損失数を書かせて頂くと、以下のようになります。
 第七連隊は戦死及び負傷二名(小隊長一人、小隊長補佐一人)、及び脱走一名(小隊長補佐一人)、御料兵が戦死及び負傷三名(中隊長一人、小隊長補佐二人)、脱走九名(大隊長補佐一人、小隊長二人、小隊長補佐六人)、そして砲兵隊が戦死及び負傷五名(中隊長一人、小隊長一人、小隊長補佐三人)、及び脱走二名(中隊長一人、小隊長一人)と惨憺たる状況で、正直組織としての維持が難しいのではないかと思える程の士官を損失しています。特に砲兵隊に関しては、士官の損失も多い上に大砲その物を殆ど失った事により、後の田島での再編成以降ではその名を見なくなります(生き残りは各部隊の直属として分散されたと推測)
 小銃の弾丸不足に関しては、確かに戦力低下の要因なものの、代用の弾丸を使う事で性能が低下したとしても戦闘そのものは可能です。しかし士官・下士官の脱走は代替が利かず、大鳥軍が士官不足による機動力低下から立ち直る事は無かったと私は考えています。

土佐藩兵の追撃軍出発
 話は遡り、第二次宇都宮城攻防戦が行われた四月二十三日、安塚村の戦いの第一報が江戸に伝わります。この第一報は、安塚村戦の緒戦の不利を受けて、軍資金や兵糧を伴っていち早く古河に避難した、土佐藩輜重担当の早川益からもたされたらしく、第一報の時点では安塚村戦でも新政府軍敗北と言う絶望的な戦況でした。この相次ぐ敗報により東山道総督府はすっかり浮き足立ちます。特に参謀の宇田栗園の如きは、岩倉具視の知己と言う経歴から参謀に抜擢された元歌人なので、安塚村戦の敗報を聴いてすっかり狼狽し、土佐藩兵の副司令格の谷干城を呼び出して、谷に東海道総督府に援軍を求めようと相談を持ちかけます。
 谷干城の「東征私記」に、「折節御総督府の参謀宇田栗園倉卒市ヶ谷に来り板垣に面会を乞此日板垣野州形勢聞合の為御総督府に出で留守也余宇田に面会す宇田眉をひそめて云今朝野州出張先きより報知あり云因、土の兵安塚に戦ひ遂に敗走壬生城も賊の為めに落城せりと是れ確報ならされとも勢ひ真に可然右に付東海道総督府へ援兵を乞はん為め参る由右示談の為板垣に面会せんと来る趣余等愕然然るに宇田よりの演舌に兵卒へ聞せ候との記述があります。

 しかし歌人に過ぎない栗田とは違って、後の西南戦争で困難な熊本城篭城戦を戦い抜いただけあって気骨の持ち主である谷は、土佐藩兵の敗報を聞いて、むしろ自藩兵の不甲斐なさを知り逆に憤り、江戸に在留している残りの全土佐藩兵をもって反撃しようと決意します。江戸の尾張藩邸(土佐藩兵の駐屯地)に戻った谷は、土佐藩兵の総督である板垣退助と相談して野州出兵を決定し、二十三日夜半に江戸在留の迅衝隊半大隊(小笠原謙吉三番隊・谷神兵衛四番隊・山地忠七七番隊・吉松速之助八番隊・山田喜久馬九番隊・二川元助十番隊・谷口伝八十二番隊の7個小隊か)と、鳥取藩兵半大隊(佐分利九允隊・本内金左衛門隊・建部半之丞隊・藤田束隊・山根留次郎隊・井上静雄隊の6個小隊)及び家老和田壱岐の手勢を率いて出陣します(宇都宮城救援第四軍)。この二十三日の出兵時の土佐藩兵は、ミニエー銃と弾薬雷管のみを携帯しての出陣であり、衣類や寝具を持たずに出発と言う準備不足の出発となり、いかに板垣や谷の土佐藩幹部が自藩兵の失態に焦っていたかが伝わってきます。
 板垣率いる救援第四軍は日光街道を北上し、二十三日は草加宿に一泊した後、翌日越谷宿にて安塚村戦の敗報が誤報だった事を野州から来た使者によって伝えられます。しかし安塚村戦が敗北だったと言うのが誤報だと知って胸を撫で下ろしたのもつかの間、安塚村戦の翌日二十三日に行われた第二次宇都宮城攻防戦に、物資不足の為に土佐藩兵が参加しなかった為、土佐藩兵抜きで宇都宮城の奪回に成功した薩摩・長州・鳥取の諸藩兵から「土佐のお方は上州ちぢみ、見掛けや強いで、きてよわい」と嘲笑の歌を歌われていると聞いて(谷干城著「東征私記」より)切歯扼腕します。この為に板垣と谷は二十五日に壬生城に到着すると、弱兵の汚名を返上しようと土佐藩兵単独で大鳥軍の追撃を行う事を決意。宇都宮城城下に滞陣する祖父江可成率いる土佐藩兵半大隊にも日光への出陣を命じ、二方向から日光に進軍する事とします。この二部隊は壬生から鹿沼宿を経て今市宿へ向かう板垣と谷が率いる本隊が6個小隊(三番隊・四番隊・七番隊・八番隊・九番隊・十番隊、*十二番隊は壬生に残留)、宇都宮から徳次郎宿を経て今市宿へ向かう祖父江が率いる別働隊が3個小隊(一番隊・五番隊・十一番隊)と北村長兵衛砲兵隊(二番隊と六番隊は安塚村戦の損害により、宇都宮に残留)の編成で今市宿に向かい、二十九日に今市宿に到着します。

大鳥の苦悩
 日光への逃避の間に、大鳥軍に士官・兵士で脱走が相次いだのは上記した通りですが、大鳥自身が日光へ到着した二十五日には、第一次・第二次宇都宮城攻防戦で勇戦した桑名藩兵が、藩主松平定敬が越後領柏崎に到着したと聞いて、藩主の下にはせ参じる為に大鳥軍から離脱します。勇猛果敢な桑名藩兵の離脱は、士官・兵士の大量脱走に苦悩していた大鳥にとって更なる痛手となります。更に追い討ちを掛けるように、重傷で苦しんでいた垣沢が二十七日に戦傷死します。これまで大鳥の片腕として、大鳥を補佐してきた参謀である垣沢の死は大鳥にとって正に痛恨の痛手と言えましょう。
 このような苦悩の中でも、大鳥は自軍の建て直しを図り、日光東照宮に逃げ込んでいた、かつての老中である板倉勝静を訪ね、大鳥軍の首領に就く事を要請するものの、板倉はけんもほろろに大鳥の要請を却下し、逆に大鳥に日光から退散するように命じます。しかし大鳥は日光での抗戦を諦めず、翌二十六日早朝に初めて東照宮に参拝して、決意を改めて行おうとするものの、既に東照宮の御神体等は板倉や東照宮の坊主達によって会津へ持ち去られていたのです。それでも大鳥は、御神体の無くなった東照宮に参拝し、徳川の為に新政府軍との抗戦を続ける事を改めて決意します。
 大鳥の日光参拝については、『南柯紀行』に「神廟は兼て承わりしにも勝る美麗壮観なれども、兵隊進退のことに心を砕き且斯の如き偉大の霊地も最早今日までにて、後来如何なる形勢に還り行くべきやと非泣に堪えずして、そこそこにして神前を下れり」と記述されています。
 尚、板倉が大鳥の要請を却下したのにも関わらず、後に封建諸侯連合である奥羽越列藩同盟の幹部に就任した事から考えると、板倉は新政府軍に交戦するのが嫌だったのではなく、大鳥始め多くが農町民等の身分の低い者で占められた軍勢の首領に就くのが嫌だったのではないかと言う疑惑が生じます。尚、維新後の板倉は宮司等の閑職に就いて晩年を過ごす事となりました。

  

左:日光市観音寺に建つ垣沢勇記の墓。
右:大鳥が日光滞陣時に宿舎としていた、桜本院の現況。

 絶望的な状況にも関わらず、東照宮を後にした大鳥は再び今市宿に向かい、この地で新政府軍を迎撃する態勢を整えます。まず秋月登之助土方歳三などの負傷者を会津へ送る準備を整え、これに伴い人事の変更に着手します。これにより戦傷死した垣沢に代わり、同じく会津藩士である浮州七郎を参謀として、また負傷した本多に代わり、大川正次郎を伝習第二大隊の大隊長とします。江戸脱走時の大川の役職が、伝習第二大隊の八番小隊長だったのを考えると、いかに士官の負傷や大量脱走が多かったとはいえ、小隊長から大隊長へ抜擢されたのですから、いかに大川が指揮官として優れていて、かつ大鳥の信任を得ていたかが判ると思います。
 負傷者の護送や人事の変更をする一方、大鳥が日光・今市宿間に陣地を構築して新政府軍に対して備えてた最中、江戸から陸軍奉行並の松平太郎が日光に向かっているとの使者が到着します。これを受け大鳥は、この日は今市宿に宿陣する事として松平を待ちました。
 翌二十七日に今市に到着した松平は大鳥と会談し、日光からの退去を望んだ松平に対して、大鳥がこの要請を断ったと言うのがこの会談の表向きの顛末ですけれども、実際は松平の大鳥軍への援助がこの会談の目的だったと言えましょう。実際に松平から大鳥へ三千両もの軍資金と、松本良順以下四人の医者が派遣されます。特に松本以下の軍医の派遣は、負傷者に苦しむ大鳥軍にとっては久々の朗報だったと言えましょう(もっとも軍資金三千両については、上記の士官の大量脱走による持ち逃げにより、どこまで大鳥軍の手元に残ったか怪しいものですが・・・)。更に松平は時間稼ぎの為に、日光に迫る土佐藩兵の説得を試みるものの、こちらは空しく失敗します。
 松平の去った後も、大鳥は日光・今市宿間の瀬川村関門に陣地を構築し、草風隊と伝習第一大隊の一部を警戒に配置させる中、善後策を幹部達と会議している二十九日、遂に土佐藩兵が今市宿に到着、かくして今後二ヶ月にも及ぶ大鳥軍と土佐藩兵の戦いが始まる事になります。


瀬川村の戦い:四月二十九日

 四月二十八日、土佐藩兵は本隊が鹿沼宿に、別働隊が徳次郎宿にそれぞれ到着し、いよいよ翌日両軍が今市宿に進出の準備を整えていました。この土佐藩兵の元に上記の通り松平太郎が時間稼ぎの為に訪れたものの、全く相手にせずに、遂に翌二十九日朝、いよいよ両軍は今市宿を目指し出発します。尚、板垣と谷に率いられてきた鳥取藩兵半大隊はこの地で、土佐藩兵と別れて後方警戒の任務に就きました。
 土佐藩兵は今市宿での交戦を覚悟していたものの、意外にも今市宿での大鳥軍の抵抗は無く、同日昼前には両軍とも今市宿に入場し、ようやくここにて土佐藩迅衝隊1個大隊が揃う事になります(ただし前述の通り、二番隊・六番隊・十二番隊は不在)。土佐藩兵が集結した事に気を良くした板垣と谷は、このまま日光への進軍を決意して、谷が先鋒隊として6個小隊(日比虎作一番隊・小笠原謙吉三番隊・谷神兵衛四番隊・宮崎合助五番隊・吉松速之助八番隊・山田喜久馬九番隊)と北村長兵衛砲兵隊を率いて日光街道を進軍します。
 一方の大鳥軍は、前日までに日光街道上に築いた瀬川村関門付近の陣地に本多尚顕率いる草風隊1個小隊相当が布陣し、日光街道南方の山間部沿いに小笠原新十郎率いる伝習第一大隊の内3個小隊相当が布陣します。余談ですが、小笠原は伝習第一大隊の中隊長であり、今まで伝習第一大隊は大鳥と馴染みが薄かったように思えるものの、この戦いで大鳥が伝習第一大隊に直接指示が出来たのは、大隊長の秋月登之助が不在だったからと考えてしまうのは、私のうがち過ぎでしょうか。

 何はともあれ、上記のように草風隊と伝習第一大隊が布陣する瀬川村関門付近の陣地に、谷率いる土佐藩兵は攻撃を開始します。この時の土佐藩兵の布陣は、日光街道上を北村の砲兵隊が先行して、吉松の八番隊と山田の九番隊がその左右を守り、日比の一番隊・小笠原の三番隊・谷の四番隊・宮崎の五番隊がその後方で大きく展開して、日光街道を包囲するように進軍しました。
 戦いそのものは、草風隊と土佐藩兵の先鋒の間で戦端が開かれ、少数にも関わらず草風隊は善戦します。兵数が減ったとは言え、流石はフランス人軍事顧問団に訓練を受けていた精鋭部隊、一時は土佐藩兵の騎兵を討ち倒すなどの戦果を挙げるものの、兵数の差と何より砲兵の不在はいかんしがたく、土佐藩兵の猛攻の前に陣地を放棄して日光に撤退しました。小笠原率いる伝習第一大隊の3個小隊相当も、山間部沿いに土佐藩兵に圧迫を受けた為、こちらも陣地を捨てて日光に撤退。かくして土佐藩兵と大鳥軍の初の戦いは僅か一時間たらずで決着します。

     

左・中:現在の日光街道並木道。
右:瀬川村の戦いの際に撃ち込まれた、並木道の杉の弾痕。


会幕連合軍結成
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土佐藩兵と大鳥軍の止戦工作
 瀬川村関門付近の大鳥軍の前哨陣地を突破した土佐藩兵先鋒隊は、一旦その場で小休止し、休息の後に訪れるだろう日光での本戦に備えていました。そのように小休止していた土佐藩兵の元に、日光山から二人の坊主が駆けてきて、隊長への面会を懇願します。これを受けて先鋒隊の指揮を取る谷干城は、坊主達と面会しますが、その席で坊主達は「大鳥軍を日光から退去させるので、日光への攻撃を控えてほしい」と谷に懇願します。坊主達の懇願に対し、谷は一旦「貴僧らの言い分は判るが、我々も朝命により賊の追討を命じられた以上は、日光山内に賊が篭っているのを知りながら、行軍を止める訳にはいかない」と坊主の懇願を却下しつつも、次いで「しかし東照宮の新廟に火を放つのは我々の本意ではない、我が山内家も三百年前に家康公に大恩を蒙った身なので、家康公の廟所を汚したくはない」と語ります。そして日光山を救いたければ、大鳥に日光山を降りて我ら(土佐藩兵)と決戦するか、または降伏するように坊主達に言い含めて日光山に向かわせます。
 この会見は後に日光を救った美談として伝われており、確かに山内家の家臣として恩義ある家康の廟所を戦火に晒したくないとあったでしょう。しかしそれ以上に、石垣を持つ堅固な要害である日光山に篭る大鳥軍を撃破しようとすれば、土佐藩兵にも相応の損害が出るので、それを避ける為に坊主達の懇願を利用したと言う谷や、土佐藩兵の総督である板垣退助の合理的判断があったと言えましょう。
 一方、坊主達により谷の伝言を聞いた大鳥もまた判断に迷っていました。前述の通り、確かに日光山は堅固な要害だったものの、策源地を持たない日光山では、補給の当てが無い大鳥軍は遅かれ早かれ継戦能力を失い、日光山で玉砕するのは避けれない状況だったのです。この為に当時の大鳥軍内では、日光を放棄して会津藩内に撤退して、会津藩から補給を受けて体制を整えてから、再度新政府軍と交戦しようとする理性派と、徳川家の誇りである日光東照宮に篭り徹底抗戦し、徳川の栄光と共に玉砕しようと言う感情派に二部して今後を議論している最中でした。
 合理的な大鳥としては、「潔く死ぬ事こそ武士道」と言うカビが生えた価値観とは無縁だったので、土佐藩が提示した「日光山を降りての決戦」も「日光山を降りての降伏」のどちらでもない、日光山を会津藩領目指して脱出し、抗戦を続ける事を決定します。かくして二十九日夜半から日光山内の大鳥軍は慌しく準備をし、日光山を会津藩領目指し脱出を開始しました。しかし日光から会津藩領を目指す主要街道である会津西街道は、その起点である今市宿を土佐藩兵に占領されている為使用不可能だった為、大鳥軍は六方沢の間道を越えて日陰村・日向村を経て、会津藩領五十里宿を目指し日光山を後にします。

土佐藩兵の日光占領
 大鳥軍が日光を退去した翌閏四月一日、土佐藩兵は日光目指し進軍を開始します。もっとも土佐藩兵は大鳥軍の退去を知らなかった模様で、行軍体制で日光街道上を進軍し、支隊を大谷川北岸沿いに進軍させるなど、大鳥軍との交戦を想定しての進軍でした。
 しかし予想に反し日光山はもぬけの殻であり、日光山は戦火からまのがれる事が出来ました。この日光山が戦火から守られた事に対して、現在も板垣の説得と日光山の坊主達の奔走のおかげと伝えられているものの、実際は上記の通り、板垣・谷と大鳥の両陣営が合理的判断をする為に、東照宮さえ無事ならそれで良いとの坊主達の浅ましい心理を利用した結果が、日光山が戦火から逃れる事に繋がったと言えましょう。実際浅ましい坊主達は、日光に進軍してきた土佐藩兵に、会津領への逃避行に参加出来なかった大鳥軍の傷病者達の存在を教え、これを成敗するように土佐藩兵に懇願したため、動くこともままならない大鳥軍の傷病者達は、なすすべも無く土佐藩兵に殺害される事になります。この行為はかつて大鳥を「東照宮が血で穢れる」と言う理由で追い出そうとした姿勢とは矛盾しており、単に自分達が勤める日光東照宮さえ無事ならば、他人の血が幾ら流れても構わないと言う坊主達の浅ましさを図らずも表す事になりました。
 もっともこのような浅ましい坊主達よりも、板垣の方が役者は上でした。土佐藩兵の後に日光に進駐してきた鳥取藩兵が、土足で東照宮に上がり込んだ事を坊主達だけでなく、日光の住民が眉をひそめた事を知った板垣は、土佐藩兵と鳥取藩兵を引き連れて東照宮に参内し、「自分は官軍参謀としてではなく、徳川に恩義がある山内家家臣として参内したのだから、下臣拝謁の礼をさせてもらいたい」と辞を低くして望んだ為、単純な坊主達はすっかり感激し、見事板垣は日光山の坊主達の人心を掌握する事に成功したのです。
 更に板垣は、前述の鳥取藩兵の蛮行を理由に、鳥取藩兵を江戸へ更迭させる事に成功します。もっとも表向きの理由は、彰義隊が篭る上野攻撃の為の、戦力増強に鳥取藩兵を江戸に参集させたと言うものだったものの、その実は前述の通り鳥取藩兵に安塚村戦の勝利の功績を独占され、「土佐のお方は上州ちぢみ、見掛けや強いで、きてよわい」と嘲笑された事に対する復讐であり、自らの私怨を東照宮での蛮行に対する処分として、公的な手段で処分した所に板垣と谷の怒りと、その手腕が伝わってきます。安塚村戦と第二次宇都宮城攻防戦で土佐藩兵を出し抜いた鳥取藩兵と、その鳥取藩兵を率いる河田景与(左久馬)でしたけれども、最終的には板垣にしてやられる事になります。明治以降の二人の活躍も考えれば、河田よりも板垣の方が一枚上手だったと言う事でしょうか・・・。
 現在も東照宮の麓に立つ板垣の銅像は、板垣が東照宮を救った恩人だったと言うより、板垣が政戦両略の名将と言うのを示す象徴と言えるのではないでしょうか。

東照宮の傍らに建つ板垣の銅像

大鳥軍の逃避行
 話は遡り、二十九日夜半に日光を退去した大鳥軍は、灯りも少ない状況で山道を一路北上します。二千近い大軍が狭い山道をひたすら進んだのですから、その困難さは筆舌に尽くし難い物だったでしょう。しかも土佐藩兵に追撃されるのではないかとの不安の中、大鳥軍は黙々と行軍を続けました。翌閏四月一日未明それまで行軍していた山道から、六方沢の谷底に降り立った大鳥軍の兵士達は、土佐藩兵の追撃の恐怖から開放された安心感と、これまでの行軍による疲労困憊により六方沢の谷底で次々に倒れこんで眠りにつく事になります。
 この日光からの逃避行については、大鳥自身が『南柯紀行』にて次のように書いてくれていますので、読んで頂ければ、私の拙い文よりも大鳥軍の苦労が判ると思います。「日光を出て山路にかかりしところ、雨後にて泥深く始めの間は提灯ありたれども終には蝋燭尽き?尺を弁ぜず、加之多衆の人員なれば前後粉擾陸続として歩を進むること能わず、一歩踏墜せば下は千仞の深谷なれば半丁にては行止り一丁行きては休み、大軍の山道を挙る辛苦喩うるにものなし、別に嚮導というものもなければ只大凡方角を定めて跋渉し、深山幽谷を経て路程凡三里も行きたるに已に夜半の景色なりければ今一里も行きたれば休息せんと、疲れたる脚を引て進み程能き木陰によりて腰を掛け、其傍に落ちたる枯木を拾い集め火を点じ露に湿えるを乾かせしに、最早夜半過ぎにもなりければ何れも疲労し覚えず焚火の囲に団欒して、石を枕とし木の枝を折て褥となし露臥し一睡を為せしに、風の来て樹を吹動す毎に露落ちて顔或は背を濡し屡々夢を覚したり」

  

左、右:六方沢の現況。

 夜が明け目を覚ました大鳥軍は、昨夜から何も食べていない空腹を我慢して(日光篭城時に既に大鳥軍は兵糧不足に陥っていたので、日光脱出時に携行する食料などはありませんでした)、六方沢出口の集落である日陰村に昼頃到着します。腹を空かせた大鳥軍は住民から食料を徴発しようとするものの、山奥の寒村である日陰村には貯蔵している食料などはなく、結局失意のまま大鳥軍は日陰村を去り、鬼怒川を渡河後に隣村の日向村に到着し、この地でようやく食料にあり付き人心地つきます。
 しかしここで思わぬ事態が大鳥軍を襲います、何と日向村に出張してきた会津藩士から、大鳥軍は会津藩領への立ち入りを禁じられ、ここでまた大鳥は会津藩のマキャベリズムに煮え湯を飲まされる事になるのです。この時点ではまだ新政府軍との交戦を決意していない会津藩は、大鳥軍が会津藩領外で新政府軍と交戦するのは歓迎だが、自藩領内に進入するのは許せないと言う独善的な考えを持っており、大鳥軍の自藩領内の進入を拒否します。しかしここで会津藩領内への退避を断れたら死活問題となる為、新たに大鳥軍参謀となった会津藩士浮州七郎を伴った大鳥は出張してきた会津藩士と会談し、とりあえず大鳥軍の五十里宿への移動のみは認めさせたので、翌二日に大鳥軍は五十里宿に到着します。五十里宿では会津藩家老萱野権兵衛が待っており、この会談の結果、遂に会津藩も大鳥軍の自藩領進入を求め、ここに来てようやく大鳥とその指揮下である大鳥軍は、友軍として援軍として迎えられる事になりました。

会幕連合軍結成
 会津藩領への入領を許された大鳥軍は、休息と再編成の為に更に会津藩領を北上、会津西街道最大の宿場町である田島宿を目指しますが、その途中で大鳥にとって運命の出会いとなる山川大蔵との出会いがありました。山川はこの時二十三歳で若年寄に任じられている家老の家系にも関わらず、因循姑息な者が多い会津藩の中では珍しく西洋軍事を学んでおり、身分から大鳥を見下す者が多かった会津藩士の中では珍しく大鳥の能力を正等に評価して、自らが日光口の総督として派遣されたのにも関わらず、大鳥を総督に就任を要請し、自分は副総督に退きました。
 今まで会津藩の因循姑息な対応に煮え湯を飲まされ続けた大鳥にとって、この山川の態度はようやく同士を得れたと感激したらしく、『南柯紀行』で「山川子は当時会藩の若年寄なる者にて両三年前小出大和に従いオロシャに至り西洋文化の国勢うを一見し来りし人にて一通文字もあり性質怜悧なれば君候の鑑裁にて此人を遣わし余と全軍の事を謀らしめんが為に送られたるなろ、余一見共に語るべきを知りたれば百事打合大に力を得たり」と述べています。
 こうして山川と共に田島宿に到着した大鳥は、大鳥軍に久々の休息を取らせると共に、これまでの戦いや脱走により戦力が半減した大鳥軍の再編成に当たります。この再編成の最大の特徴は、これまで寄合所帯だった大鳥軍を4個大隊編成にした事でしょう。
 まず伝習第一大隊の生き残り450名余を第一大隊として、秋月登之助が引き続き大隊長を務めます。そして伝習第二大隊の生き残り350名を第二大隊として、大隊長は前述の通り大川正次郎と、後述しますが鶴ヶ城にて会津藩兵の西洋軍事訓練に当たっていた沼間守一が大隊長に就任します。第三大隊は幕府歩兵第七連隊と御料兵の残存兵力が合併されて編成され、兵力は300名程でした。第四大隊は草風隊と純義隊の残存兵力により構成され、兵力は200名程と伝えられます。
 このように新たに四個大隊編成とされたものの、江戸を脱走した大鳥軍の中には、この四個大隊に含まれない諸隊が多くありました。まず凌霜隊・貫義隊・別伝習隊の三部隊は、四個大隊には組み込まれず元の部隊のまま存続します。この三部隊はこれ以降会津藩の直属部隊のような動きをする為、或いはその為に四個大隊編成からは外れたのかもしれません。次に桑名藩兵は、前述の通り主君を追って越後に転進したので、大鳥軍を離れていました。最後に第一次宇都宮城攻防戦にも参加した回天隊ですが、この部隊だけは所在が不明です。隊長が第一次宇都宮城攻防戦で戦死した事ですし、部隊は四散し、生き残りは他の部隊に編入したのか、とにかく田島での再編成の時点では名前を確認する事が出来ません。
 こうして総督大鳥圭介・副総督山川大蔵の元に会津・旧幕府軍(大鳥軍)の連合軍が結成され、以降会幕連合軍と記述させて頂きます。

  

左:田島陣屋跡の石碑。ただし戊辰戦争時の田島陣屋は別の場所に在りました。
右:田島宿の現況。

沼間守一について
 ここで今市宿攻防戦に当たって活躍する沼間守一について書かせて頂きます。沼間は幕臣の家に生まれながら早くから西洋軍事に通じ、仏陸軍士官シャノアンから直接教えを受けるなど、大鳥圭介と良く似た経歴の持ち主でした。鳥羽伏見の敗戦後も声高に新政府との交戦を叫ぶ沼間は、大鳥のように時期を待つのではなく、新政府軍との交戦に備えて自藩の戦力の西洋化を目指す会津藩家老西郷頼母に、会津藩兵の西洋軍事の教官として招かれ会津に向かいます。よく会津藩に関して書かれた本で、会津藩兵を厳しく訓練した教官と言うのが沼間の事で、因循姑息な会津藩士にとって苛烈な訓練を課す沼間は憎むべき人間でした。単に鬼教官として憎まれるならまだしも、因循姑息な会津藩士は西洋軍事に通じているだけで沼間を長州藩のスパイと疑うようになったので、流石の沼間も会津藩を見限り、丁度大鳥軍が会津藩領田島宿に逃避して来たと聞いたので、これに合流しようと会津鶴ヶ城城下を去って田島宿に向かいます
 沼間と会津藩士の確執については、石川安次郎著の『沼間守一』に「彼れは其の厳格たる訓練に依りて、一旦会津藩の兵士達の怨嗟を買ひ、且つ彼れが長州の間諜なるべしとの飛語の為に一旦会津人の危惧を招きし」との記述があります。
 こうして田島宿に着いた沼間は会幕連合軍に迎えられ、大川正次郎や瀧川充太郎と共に、第二大隊の指揮官に就任し、今市宿を巡る攻防戦では勇戦する事になります。

会幕連合軍の火力について
 かくして結成された会幕連合軍ですが、会幕連合軍について語るに当たって考えないといけない事に、会幕連合軍(旧大鳥軍)の火力についてです。これまでの記事で書いてきた通り、伝習大隊は当時最新鋭の後装施条銃であるシャスポー銃を、第七連隊・御料兵・草風隊は悪くても前装施条銃のミニエー銃を装備していたと思われます。
 会津藩の指揮下に入る事により、会津藩から補給を受けれるようになった会幕連合軍だったものの、当時会津藩が装備していたのは前装滑腔銃のゲベール銃や、一応前装施条銃ながら球弾を使用していたヤーゲル銃でした。つまりシャスポー弾はおろか、当時標準品であるミニエー弾すら会津藩は補給する能力が無かったのです。つまりこの時会幕連合軍に供給されたのはゲベール弾かヤーゲル弾であり、会幕連合軍はゲベール弾かヤーゲル弾、つまり球弾をもって新政府軍に挑まざるを得なかったと考えられます。
 会幕連合軍がこの球弾をシャスポー銃やミニエー銃で無理やり発射したのか、はたまたゲベール銃やヤーゲル銃本体を流用したのかは記録に残っていないので判らないものの、この球弾を使用せざるを得ない時点で、全兵ミニエー銃を装備する土佐藩兵とは火力の点で圧倒的に劣る事になったのは間違いないでしょう。野州戦争の緒戦で大鳥軍が優位だったのは、火力で新政府軍を上回っていたのが大きいと今まで書いてきましたけれども、今市宿を巡る戦いでは緒戦とは反対に、火力で上回る新政府軍に対して、火力に劣る会幕連合軍が挑むと言う、緒戦とは正反対の状況で戦いが行われたと言えましょう。

会幕連合軍の戦略
 田島宿で会幕連合軍の再編成と休息を終えた大鳥は、戦略を立て直し会幕連合軍を四分して再び攻勢を再開します。まず大鳥自らが率いる第二大隊、及び第三大隊は今市宿の再奪取を目指して会津西街道を南下します。次に第一大隊は会津中街道を進軍し那須方面の三斗小屋宿方面に進出し大田原城を狙い、第四大隊は更に二分して草風隊は第一大隊と同じく那須方面の尾頭道(塩原街道)塩原宿に進出します。第四大隊もう半分の純義隊は、会津藩の白河口方面軍に組み込まれて白河方面に進出しました。
 上記の内、那須方面に進出した第一大隊と草風隊、及び凌霜隊が宇都宮城から白河城に至る奥州街道上の中間地点に当たる大田原城を攻撃したのを考えれば、私見ですが大鳥の戦略は以下のような物であったのではないかと考えます。
 まず第二・第三大隊が今市宿を奪取して、西方から新政府軍(東山道軍)の野州の拠点である宇都宮城を西方から圧迫し、第一大隊と草風隊・凌霜隊は大田原城を奪取する事により、宇都宮城と奥州の玄関口である白河城を分断し、そして上記の通り純義隊は、会津藩の白河口方面軍と共に、当時新政府軍(奥羽鎮撫総督府)の拠点だった白河城を奪取します。
 この会幕連合軍が反撃を開始した閏四月中旬当時の新政府軍の動向は、白河城に滞陣する奥羽鎮撫総督府参謀の世良修蔵が、宇都宮城に滞陣する東山道軍参謀の伊知地正治に援軍を要請した事により、伊地知が援軍を率いて大田原城に進出を試みている時期でありました。つまり大鳥の戦略は、宇都宮〜大田原〜白河の新政府軍の戦線を西方から圧迫し、新政府軍の奥羽鎮撫総督府と東海道軍を分断・各個撃破して、遂には野州の戦線から新政府軍を駆逐しようとする壮大な物だったと考えます。
 伊地知が世良の要請を受けて、白河城へ援軍に向かった事に関しては、『伊地知正治日記』に「初め奥羽総督之参謀長州人世良修蔵度々白川口へ応援致呉候様申来候得共」との記述があります。

 しかし大鳥の戦略は壮大でも、実行面では不備が目立ちます。前述の西方から新政府軍の戦線を圧迫する戦略の中で、実際に大鳥が指揮出来たのは今市宿方面に向かった第二・第三大隊のみで、他の戦線の部隊に指示をしたような記述は見られません。白河城に向かった純義隊は、会津藩の白河口方面軍の指揮下に入った模様なので仕方ないにしても、大田原城を狙う第一大隊と草風隊・凌霜隊を指揮出来なかったのは、壮大な戦略と比べると竜頭蛇尾の感があります。四個大隊に再編成をしたと言っても、大鳥が直接指揮出来たのは第二大隊と第三大隊、つまり江戸脱走時の大鳥軍の中・後軍のみであったと言えましょう。そのような意味では四個大隊に再編成したと言っても、江戸脱走時の指揮権の不統一と言う問題を、会幕連合軍は未だに引きずっていたのではないでしょうか。
 このように会幕連合軍全体の作戦実地の面では問題があるものの、今市宿に向かった部隊に関しては、山川が副総督に就いてくれたおかげで、従来大鳥が率いた第二・第三大隊に加えて、新たに会津藩四個中隊相当:朱雀士中二番隊(隊長田中蔵人)・朱雀寄合三番隊(隊長城取新九郎)・朱雀足軽二番隊(隊長桜井弥一右衛門)が指揮下に入ります。後に青龍寄合二番隊(隊長原平太夫)が指揮下に入り、また四個大隊編成に含まれない貫義隊をも指揮下に入れ、以上の兵力をもって大鳥は再び今市宿・日光を守る板垣退助率いる新政府軍(土佐藩兵・彦根藩兵)に挑む事になるのです。

土佐藩兵の今市宿駐屯事情
 大鳥軍の撤退により、今市宿と日光を無血占領した土佐藩兵だったものの、その維持には難儀した模様です。まず前述の通りそれまで同行していた鳥取藩兵を更迭して、扱いやすい彦根藩兵を鳥取藩兵の後任とします。こうして日光守備を彦根藩兵に任せた土佐藩兵は、今市宿守備に専念するものの、想像以上に今市宿は守り難い土地でありました。
 前述した通り、今市宿は日光街道・例幣使街道・会津西街道が交わる交通の要所なので、まずこの主要街道の各入り口に守備兵を配置します。しかし平野に位置する今市宿は街道の入り口を塞いでも、宿場の周囲に幾つもの侵入出来る箇所がある為、結果宿場の周囲十八箇所に歩哨を立てて昼夜監視せざるを得ませんでした。これは11個小隊(迅衝隊一番隊・同三番隊・同四番隊・同五番隊・同七番隊・同八番隊・同九番隊・同十番隊・同十二番隊・断金隊・斉武隊)と北村砲兵隊のみで今市宿を守備しなくてはいけない土佐藩兵にとっては大きな負担で、睡眠時以外は何れかの場所で歩哨に立たなくてはいけない状況に追い込まれました。また連日長雨が降り続ける天候にも関わらず、新政府軍に好意的と言えない今市宿の住民感情を考えれば、一般兵は中々住民の住居の中で寝ると言う事は出来ず、結果天幕を張った屋外で眠らなくてはいけませんでした。ただでさえ歩哨任務がきつい中で、このような過酷な環境で睡眠を取らなくてはいかない土佐藩兵達は確実に消耗していったのです。補給線は確保していたので、食料確保には困らなかったものの、内陸部の今市宿では鮮魚を得るのは難しかったようで、南海育ちの土佐藩兵達は鮮魚を食べれない事にうんざりしていた模様です。
 こうして生命の危機にこそ晒されないものの、連日の歩哨任務による緊張と、食糧事情に対する不満から土佐藩兵はすっかり消耗していきました。このような土佐藩兵の士気を回復する為、閏四月十七日に斥候として三十名程が、今市宿の大谷川北側対岸の大桑宿方面に出発します。この出兵は先ほど士気の回復と言った通り、半ば日頃の鬱憤晴らしを兼ねた出兵だったのですけれども、大桑宿付近で会幕連合軍の斥候と衝突する事になる。この戦いは斥候同士の遭遇戦だったので、お互い損害の無い小規模な戦いで終ったものの、この戦いにより土佐藩兵は会幕連合軍の南下を知り、今市宿滞陣の土佐藩兵に緊張感が走る事になります。

  

左:今市宿本陣が在った辺りの現況。
右:今市宿内を通る当時の会津西街道。


栗原村・柄倉村の戦い:閏四月十九日
地図

 前述の遭遇戦により会幕連合軍の進出を知った土佐藩兵の中では、こちらから進出して会幕連合軍を迎撃しようとの意見が出ます。しかし今市宿から会津藩領に向かう会津西街道沿いの地形がいわゆる隘路状になっている事から、地形を知らない者が隘路を進軍するのは危険と、土佐藩兵を率いる板垣退助は軽挙に反対するものの、谷干城祖父江可成と言った幹部が出兵を主張した為、遂に板垣も彼らの主張に折れて出兵を許可します(他に幹部で出兵に反対したのは片岡健吉だけだった模様)。
 かくして谷と祖父江率いる土佐藩兵4個小隊(迅衝隊四番隊・七番隊・十二番隊・断金隊)が十九日の未明に今市宿を出発し、途中で彦根藩兵2個小隊と合流し会津西街道を北上します。強行に出兵を主張したと言っても、この時点での土佐藩兵は会幕連合軍を甘く見ており、兵士達に弾丸を僅か12発ずつしか携帯させない軽装の出兵でした。大桑宿を経由して進軍した新政府軍は、払暁頃に鬼怒川西岸の山裾に位置する集落である栗原村に到着、山地忠七率いる七番隊を先頭に栗原村に突入し、会幕連合軍の歩哨を蹴散らして同村を占領します。ここで谷と祖父江は兵を二つに分け、谷が率いる迅衝隊四番隊・同七番隊は鬼怒川西岸を小佐越村方面に進軍し、祖父江率いる迅衝隊十二番隊・断金隊・彦根藩兵2個小隊は鬼怒川東岸の会津西街道を北上します。

    

左:大桑宿へ続く、当時の会津西街道の現況。
中:大桑宿の現況。
右:山裾の集落である栗原村の現況。

 一方の会幕連合軍ですが、田島での再編成と休息を終えると、今市宿奪回を目指し閏四月十四日から十五日にかけて田島宿を出発し、会津西街道を南下して藤原宿を前進拠点として目指します。隘路の地形を危険視したのは会幕連合軍も同じで、隘路の出口(新政府軍から見れば入り口)を抑える為に鬼怒川西岸の柄倉村周辺の山頂に朱雀士中二番隊(隊長田中蔵人)を配置し、鬼怒川東岸会津西街道上の徳山宿周辺の山頂に朱雀寄合三番隊(隊長城取新九郎)と貫義隊(隊長松平兵庫)を配置します。これに加えて、地元で徴募した猟師達による狙撃隊も鬼怒川両岸周辺の山頂に配置しており、これらの部隊で隘路の出口を抑える事により安全を確保してから、まずは山川が第三大隊を率いて本営としていた藤原宿を出発し、会津西街道を南下する事になりました。
 このように会幕連合軍の先発隊が隘路の入り口を抑えていた所に、新政府軍は迂闊に侵入し、山頂から射撃を受ける事になったのです。小銃の性能では新政府軍が勝っていたものの、いかんせん山頂から見下ろす形の射撃では、ゲベール銃やヤーゲル銃でも十分射撃が可能で、かつ銃の腕前としては長年鉄砲を扱ってきた猟師隊の者達が抜きん出ていた為、新政府軍はたちまち劣勢に陥ります。正午頃には新たな彦根藩兵1個小隊が小百村経由で援軍に駆けつけてきたものの、会幕連合軍の猛攻の前に劣勢は相変わらず変わらず、また土佐藩兵は弾丸を各自十二発しか携行しなかった事が仇になり、弾薬も欠乏してきたので、慌てて今市宿の板垣に援軍を要請します。

    

左:柄倉村の現況。画像左側の山地に会津藩朱雀士中二番隊は布陣した。
中:徳山宿の現況・画像右側の山地に会津藩朱雀寄合三番隊と貫義隊が布陣した。
右:会津西街道沿い隘路の遠景。左側の山地が柄倉村付近の山地、右側の山地が徳山宿付近の山地

 今回の出兵に反対していた板垣としては、谷達の援軍要請にそれみた事かと憤慨したものの、援軍を出さない訳にはいかず、自らが3個小隊(迅衝隊一番隊・八番隊・十番隊)と北村砲兵隊を率いて今市宿を出発します。午後二時頃には板垣率いる援軍も到着し、砲兵隊の援護の元に先発隊の収容に成功し、かつ鬼怒川両岸周辺の山頂に布陣する会幕連合軍を圧迫し、ここで戦局は新政府軍優位に転じました。しかしここで二番小隊(隊長小野寺主税)と三番隊(隊長斉藤興一郎)を先鋒とした山川大蔵率いる第三大隊が小佐越村から到着し、新政府軍に攻撃を開始します。この新手を受けて、流石の板垣もこれ以上の進撃を諦めて、大桑宿に放火して会幕連合軍の追撃を断念させた上で今市宿に撤退しました。会幕連合軍の方も、進行経路の大桑宿が放火されたのと、時刻も夕方となった為、これ以上の追撃を諦める事になります。

  

左:大桑宿法蔵寺の山門。法蔵寺の建物その物は土佐藩兵の放火により焼損したものの、この山門のみは放火からまのがれた。
右:今も戦火の傷跡が残る法蔵寺境内の樫の木。

 かくして再編成した会幕連合軍と、板垣率いる土佐藩兵の初陣は会幕連合軍の勝利に終りました。両軍とも人的損害は殆ど無かったものの、この戦いを受けて大谷川北岸が会幕連合軍の勢力圏に入り、大谷川を最前線として両軍は対陣する事になります。このような中で勝利した会幕連合軍は勢いを得て、一気に今市宿の奪取を決断します。一方敗退した土佐藩兵は、会幕連合軍の思わぬ手強さに驚き、今市宿の守りをより固める事になりました。


第一次今市宿攻防戦:閏四月二十一日
地図

 十九日の戦いで勝利を収めた会幕連合軍は、いよいよ主目的である今市宿の奪取を目指して行動を開始します。まずは本営を藤原宿から小佐越村に移動させました。この小佐越村は隘路の今市宿側入り口の栗原村と藤原宿の中間に位置する集落であり、確かに藤原宿に比べれば戦場(今市宿)に近いと言えども、今市宿から小佐越村は直線距離で6km以上離れており、この距離では後述する通り、複雑な作戦を指揮するのは困難と言うのが露呈します。
 何はともあれ、総督である大鳥圭介は小佐越に本営を移し、この地から今市宿攻撃を指示、これを受け今市宿攻撃部隊が小佐越村を出発します。第二大隊(沼間守一瀧川充太郎大川正次郎が指揮)・第三大隊(加藤平内が率いる旧御料兵の半分のみ?)・会津藩朱雀足軽二番隊(隊長桜井弥一右衛門)・貫義隊(隊長松平兵庫)が今市宿攻撃に向かった兵力なものの、土佐藩兵11個小隊と砲兵隊が篭る今市宿攻略を目指すにはやや兵力不足の感がありました。
 この今市宿攻略を目指した会幕連合軍は二十一日午前四時頃に小佐越村を出発後、栗原村付近で二手に別れ、副総督である山川大蔵率いる会津藩朱雀足軽二番隊・貫義隊・第二大隊1個小隊は東に進み、荊沢村付近で大谷川を渡河し、その後森友村方面から日光街道を西進し今市宿を攻撃する手順でした。残りの第二大隊と第三大隊(御料兵)は東へ進み、第三大隊は小百村へ残りこの地を守ります。一方で第二大隊は更に東へ進み瀬尾村付近で大谷川を渡河して、大川率いる2個小隊は日光滞陣の彦根藩兵への備えとして日光街道上に残り、沼間と滝川率いる残りの3個小隊相当が日光街道上を東進し今市宿を攻撃する手順でした。つまり今市宿を東西から挟撃する、諸川宿・武井宿周辺の戦いや安塚村の戦いでも見せた大鳥お得意の分進合撃と言えましょう。
 しかし前述の通り、分進合撃を指揮するには大鳥の本営は戦場から離れすぎ、また東西に分かれた両軍がどのように連絡を取り合うかを決めないまま実施したと思われるなど不安要素が多い中での作戦実施でした。その不安要素が当たるように、大谷川を渡河した左翼軍の山川隊は森友村に到着後、未だ第二大隊1個小隊と合流していまいのにも関わらず、何より右翼軍の動向を確かめないまま、今市宿攻撃に向かい出発します。この点は見敵必中などと言う時代遅れの価値観から会津藩はまだ脱却していないのが現れてしまい、山川率いる朱雀足軽二番隊と貫義隊は、右翼軍が大谷川を未だ渡河していない午前八時頃、今市宿の東側関門目指し殺到します。

    

左:小佐越滝尾神社入り口の鳥居。この鳥居は江戸時代後期に建てられていた物だそうなので、小佐越村に滞陣した大鳥も、この鳥居の前を通った事でしょう。
中:小佐越村の現況。
右:荊沢村付近の大谷川の現況。

 このように不安要素を残したままの攻撃となった山川隊だったものの、今市宿を目指す土佐藩兵もまた無警戒のまま山川隊の攻撃を受ける事になります。19日の敗戦により会幕連合軍の脅威が迫っていたのにも関わらず、土佐藩兵はすっかり油断していました。まず総督である板垣退助が、土佐藩の江戸支藩当主の山内豊誠が壬生宿に土佐藩兵の激励に訪れていた事を受けて、壬生宿に出張中だったので不在であり、谷干城祖父江可成片岡健吉の三人が土佐藩兵の指揮を取っていました。その谷も今市宿の住人から会幕連合軍の動向を知らされていたのにも関わらず、これを信じず朝から宿舎としていた如来寺で部下達と碁をしていたと言う無警戒ぶりでした。この為に今市宿東側関門を守っていたのは小笠原謙吉率いる迅衝隊三番隊しか居らず、この三番隊が守る東側関門に午前八時頃に山川隊は殺到します。朱雀足軽二番隊の1個中隊相当、及び貫義隊の1個小隊と数で勝る山川隊は砲兵の援護も受け、三番隊を圧倒したものの、胸壁に篭る三番隊は粘り強く防戦した為、山川隊も中々関門を突破せずにいました。
 緒戦では油断から主導権を取られた谷を始めとした土佐藩兵司令部だったものの、早くも混乱から立ち直ると東側関門に援軍を送ります。まず宮崎合介率いる五番隊が三番隊の左翼に駆け付け防戦に加わりました。更に谷は吉松速之助率いる八番隊と、病院の警護に当たっていた断金隊を三番隊の右翼に向かわせます。この時点で4個小隊となった土佐藩兵は、1個中隊相当と1個小隊(3個小隊相当)の山川隊を数で上回り、また陣地に篭って防戦した為、土佐藩兵が優位になったと言えましょう。更に上記の通り会幕連合軍がゲーベル弾やヤーゲル弾を用いたのに対し、土佐藩兵は全兵ミニエー銃を装備していたので、火力で劣る会幕連合軍に死傷者が続出し始めます。
 そこに谷神兵衛率いる四番隊が今市宿南東の吉沢村を迂回して山川隊の左側を急襲したので、遂に山川隊は瓦解し、垣沢勇記の後を継いで大鳥の参謀となった浮州七郎を始め死傷者が続出します。特に貫義隊は刀槍部隊だった為か損害が大きく、もはや部隊として存続出来ない程の損害を受けた為、この日の戦い以降貫義隊の名は見られなくなります。このような大損害を受けた山川隊は、這う這うの体で大谷川を渡河して敗走し、東側関門を守っていた土佐藩兵もまた、山川隊を追って森友村付近まで追撃を行います。

    

左:今市宿東側関門付近の現況。右手の並木道が例幣使街道。
中:例幣使街道から見た東側関門付近。
右:吉沢村付近の現況。

 一方今市宿の西側からの攻撃を目指していた会幕連合軍の右翼軍は大谷川の渡河が遅れ、ようやく渡河を開始した状況で山川隊と土佐藩兵の間で行われた銃撃戦の音を聴き既に戦端が開かれたと知り、慌てて大谷川を渡河します。渡河後打ち合わせ通り二手に分かれた右翼軍の第二大隊(伝習第二大隊)は大川率いる2個小隊が街道上に残り彦根藩兵に備え、残りの3個小隊相当を沼間と滝川が率いて今市宿西側の関門に殺到したのは、山川隊が敗走した正午の頃でした。
 西側の関門は山田喜久馬率いる九番隊と二川元助率いる十番隊の2個小隊が守っていたものの、沼間・滝川隊3個小隊相当の猛攻を支え切れず、また予備兵力の殆どを東側関門の援軍に送ってしまったため、一時は谷が本営としていた如来寺まで沼間・滝川隊が突入し、境内内で白兵戦が行われる程の苦戦を強いられます。それでも北村長兵衛砲兵隊が砲撃を開始し始めた事により徐々に戦線を立て直し、今市宿南方の平ヶ崎村を守っていた日比虎作隊率いる一番隊、今市宿の北方を守っていた山地忠七率いる七番隊と谷口伝八が率いる十二番隊、更には支藩兵の斉武隊が駆け付けた事により戦局は一転し、沼間・滝川隊3個小隊相当に対し、土佐藩兵は6個小隊となり西側関門でもまた数で上回る土佐藩兵が優勢となりました。更に東側関門を守っていた吉松率いる八番隊が駆け付けた事が駄目押しとなり、数で凌駕する土佐藩兵が攻勢に転じた為、沼間・滝川隊もまた敗走し、土佐藩兵が追撃に転じた事により勝負は決しました。
 沼間・滝川隊の苦戦を知った大川率いる第二大隊2個小隊や、小百村を守る第三大隊(御料兵)も援軍に向かおうとするものの、時既に遅く既に沼間・滝川隊は敗走しており、大川隊は沼間・滝川隊と共に大谷川を渡河して撤退する事になりました。結局第三大隊(御料兵)がそのまま小百村に留まったのを除けば、残りの部隊は悉く小佐越村に撤退します。尚、後述しますが右翼軍を率いた沼間は、この日の敗因を大鳥の分進合撃のせいと糾弾します。
 一方勝利を収めた土佐藩兵も、今市宿の住民感情を考えると、会幕連合軍が大谷川を渡河して撤退するとそれ以上の追撃は諦め、再び大谷川を挟んでの両軍の対陣が続く事になりました。 

    

左:今市宿西側関門の現況。右側の杉並木道は当時の日光街道で、左側に見えるのは滝尾神社
中:杉並木道(当時の日光街道)から見た、今市宿西側関門付近の現況。
右:谷干城が本陣とした如来寺。当時の建物自体は今市宿攻防戦で消失しました。


第一次今市宿攻防戦についての考察

 この日の敗因について大鳥は『南柯紀行』にて、「右の戦争敗積せしは戦の罪にあらず我輩謀略の至らざる所より起りたるなり、其故は第二大隊を余り分かち過ぎて勢を殺ぎしにあり、一番小隊を南方に向け、今一小隊を日光の押さえとなし直に敵に当りしは僅か二小隊に過ぎず、南方へ分けし一小隊をも今市と日光の間に出し予備となし置かば、仮令敗るるも殿となるべきに甚だ遺憾なりと謂うべし」と述べています。しかし私としては作戦そのものは優れていたと思うものの、そもそも「投入戦力が少な過ぎた」のと、「火力面で土佐藩兵に劣っていた」のが敗北の要因だったと考えます。
 この日の今市宿攻防戦に参加した会幕連合軍の戦力は第二大隊3個小隊相当(山川隊に参加した1個小隊は、戦闘に参加しなかった為除外)・朱雀足軽二番隊・貫義隊の計6個小隊相当です。これは今市宿を守る土佐藩兵11個小隊及び砲兵隊の半分に過ぎず、幾ら作戦が優れていても倍近い敵を攻撃するのは無理があったと思われます。この日の戦いでは大鳥は小百村に第三大隊(御料兵)、柄倉村に会津藩朱雀士中二番隊をそれぞれ配備して守備に当たらせている等、各地を守らせる兵力に多くを割き過ぎて、実際の今市宿攻撃部隊が少なくなったと言えるのではないでしょうか。また当日の第三大隊(第七連隊)と朱雀寄合三番隊の所在がよく判らない等(或いは本営である小佐越村を守っていたのかもしれません)、当時大鳥が把握していた戦力の内、今市宿攻防戦に投入された戦力があまりにも少ないと感じます。大鳥にとって、この今市宿攻防戦は乾坤一擲の戦いだったのにも関わらず、手持ちの戦力の中で投入した戦力があまりにも少な過ぎたと考えます。
 それでも火力で土佐藩兵を上回っていれば、勝機があったかもしれないものの、上記の通り会津藩から補給を受けていた以上、会幕連合軍はゲベール弾やヤーゲル弾を用いていたと考えられ(それをシャスポー銃やミニエー銃を改造して使用したのか、ゲベール銃やヤーゲル銃その物を使用したのか判らないものの)、全兵ミニエー銃を装備する土佐藩兵に火力で劣っていたのです。
このように兵力でも火力でも自軍を上回り、かつ胸壁に篭る土佐藩兵を、兵数と火力で劣る会幕連合軍が撃破するのは難しかったと言えましょう。

 また主因ではないものの、「士官不足による指導力低下」の与えた影響も大きかったと考えています。特に第二大隊は士官の戦死や大量脱走による士官不足により、かつての精強さを失っていたのではないでしょうか。左右両軍の連携不足は山川隊の先走りが大きかったと思うものの、右翼軍の第二大隊による大谷川渡河が遅れたのは士官不足による指導力低下がもたらしたと言えるかもしれません。かつての伝習第二大隊ならば、大鳥の期待通りの動きをして大谷川を手早く渡河し、山川隊との挟撃を成功させたかもしれません。しかし士官不足の第二大隊には、かつての伝習第二大隊のような機動力を発揮出来なかったと考えます。小山宿周辺の戦いの考察で「大鳥の戦術手腕は伝習第二大隊の存在に依存する」と書きましたけれども、伝習第二大隊がかつての精強さを失い、大鳥の望む機動力を発揮出来なくなった時、大鳥の作戦もまた画餅と化したのかもしれません。


 一方の新政府軍(土佐藩兵)の勝因としては、全兵が同一藩の藩兵だった事による意思疎通の高さと、連携感の強さが主因と断言して良いでしょう。本文で書いた通り、油断していた所を急襲された土佐藩兵は緒戦では完全に主導権を取られてしまいます。しかし次々に援軍に駆け付け、各自が独自の判断で協力して防戦した所などは、寄せ集めの諸藩兵混成部隊では難しく、同一藩の部隊だったこそ実現出来たと言えましょう。
 また吉松速之助率いる迅衝隊八番隊などは、当初は東側関門の援軍に回っていたのに、西側関門に沼間・滝川隊が攻撃を開始すると、今度は西側関門に駆け付け西側関門の防戦に参加する為に東奔西走するなど、第一次今市宿攻防戦では士官の指導力の面でも土佐藩兵の活躍が目立ったように感じます。


第一次今市宿攻防戦から第二次今市宿攻防戦に至るまで
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白河方面と大田原方面の戦局の推移
 ここで第一次今市宿攻防戦から第二次今市宿攻防戦に至るまでの、他の戦線の戦況について書かせて頂きます。
 前述の通り、奥羽鎮撫総督府軍の指揮を取る世良修蔵は、東山道軍参謀の伊知地正治に援軍を要請していました。これは奥羽諸藩の圧力を受けていた世良が、奥州の玄関口である白河城に東山道軍の援軍を受け入れる事により、反撃の足がかりにするつもりだったものの、第一次今市宿攻防戦がおこなれた前日閏四月二十日未明、東山道軍に援軍を要請していた世良が福島藩城下にて仙台藩藩士の急襲を受けて謀殺されます。更にこの世良の謀殺と時を同じくして同日二十日、会津藩と仙台藩の連合軍が白河城に殺到し、白河城の奪取に成功します(第一次白河城攻防戦)。
 こうして「新政府軍の戦線を西方から圧迫する」と言う大鳥の戦略は、奥羽鎮撫総督を率いる世良の謀殺と、白河城奪取により順調な滑り出しを迎えました。これで翌日の第一次今市宿攻防戦でも勝利を収める事が出来たなら、新政府軍の拠点である宇都宮城を北西から挟撃する事が可能だったでしょう。しかし第一次今市宿攻防戦の敗北により、大鳥の戦略は頓挫する事になります。
 更に世良から援軍を要請されていた伊地知が、大総督府の指示を無視して(当時の大総督府は、大村益次郎の着任後まもなく、未だ戦略的な判断の出来ない状況でした)独断により、白河城の救援の為に宇都宮城を出兵します。この伊地知率いる東山道軍は、白河城に向かう途中の塩野崎村や関谷村にて会幕連合軍の第一大隊と草風隊を撃破し(閏四月二十一〜二十三日)、更に北上し白河城に攻めかかります。閏四月二十五日の攻撃(第二次白河城攻防戦)には失敗したものの、五月一日の第三次白河城攻防戦にて三倍もの奥羽越列藩同盟軍を破り白河城の奪回に成功しました。
 伊地知の奮戦で白河城を奪回されたものの、会幕連合軍の第一大隊は白河城と宇都宮城の中間に位置する大田原城を五月二日に急襲します。この大田原城の奪取に成功すれば、白河城と宇都宮城の分断に成功し、白河城を奪取した伊地知率いる東山道軍を孤立させる事が出来たでしょう。しかし第一大隊の攻撃は失敗し、白河城と宇都宮城の補給戦を確保された為、以降二ヶ月も続く白河城攻防戦で伊地知率いる東山道軍は篭城戦を続ける事が出来ました。

 こうして緒戦の第一次白河城攻防戦にこそ勝利したものの、その後の戦いで連敗した事により、大鳥「新政府軍の戦線を西方から圧迫する」との戦略は水泡と化しかけていたのです。

会幕連合軍の戦闘準備
 第一次今市宿攻防戦で敗れたとは言え、大鳥圭介率いる会幕連合軍は継戦能力を失った訳ではなく、第一次今市宿攻防戦敗北の反省から、本営を小佐越村から今市宿に近い小百村に移します。しかし再度今市宿を攻撃する機会を狙っていたものの、第一次今市宿攻防戦後の今市周辺は雨が続き、大鳥としては反撃に移りたくても移れず、伊知地の奮戦により野州・白河口の戦線が新政府軍(東山道軍)有利に傾いていくのを黙って見逃す事しか出来ませんでした。こうして大鳥や会幕連合軍が忸怩たる想いを抱きながら雨が止むのを待ち続ける中、ようやく五月五日夜半雨が止んだのを受けて、会幕連合軍は翌日今市宿を再攻撃するのを決めて戦闘準備に取り掛かります。
 こうして翌日の戦闘に備えていた会幕連合軍ですが、第二次今市宿攻防戦の作戦で一番の特徴は、全軍が一丸となり今市宿の東部関門に攻撃を仕掛けた事でしょう。この全軍が一丸となって攻撃を行うと言うのは、分進合撃を得意とする大鳥の発案ではなく、沼間守一が発案の作戦であり戦力の集中という意味では理にかなっていたと言えるかもしれません。
 第二次今市宿攻防戦時の会幕連合軍の作戦が、沼間の発案だったと言うのは、『復古記第11巻』に収録の「浅田惟季北戦日誌」に「先に吾兵前後ヨリ挟ミ撃テ度ヲ失シ、終ニ功ヲ奏セス、今又我兵ノ進襲スルヲ聞カハ、敵兵必ラス軍ヲ分ツテ備ヘン、故ニ彼カ意表ニ出テ、全軍森友口ノ一面を烈ク攻撃セハ必勝疑無シト云」と沼間が言ったとの記述があります。

  

左、右:小百村の現況。

日光付近の前哨戦:五月一日
 話は遡り、天候不良により会幕連合軍が攻勢に移れず鬱屈たる日々を過ごしていた中、会津藩領五十里宿付近の守備に当っていた青龍寄合二番隊隊長の原平太夫が小百村を訪れ、直接日光を攻撃する事を建言します。大鳥もこれを受け入れ、五月一日に原の率いる青龍寄合二番隊に、浅田惟季率いる第二大隊1個小隊を付けて日光に出陣させます。この作戦の参加兵力は1個中隊相当と1個小隊と言うのを考えると、本格的な攻撃ではなく、後日の第二次今市宿攻防戦に備えた陽動作戦と考えて良いでしょう。上記の通り来るべき第二次今市宿攻防戦では、沼間の主張する今市宿東側に全戦力を投入する事になった事を危惧した大鳥が、土佐藩兵の目を西側にも向けさせる為の誘導作戦として許可したと考えています。
 こうして一日午後に小百村を出発した浅田隊と青龍寄合二番隊は夕方前に、日光山の山裾に設けられた彦根藩兵の陣地に攻撃を開始しました。もっとも青龍寄合二番隊は浅田隊の後方警戒に当っており、実際に彦根藩兵陣地を攻撃したのは浅田隊のみでした。浅田隊は油断していた彦根藩兵陣地に接近し、至近距離にて銃撃を行った為、不意を突かれた彦根藩兵は瞬く間に敗走し、浅田隊は彦根藩兵陣地の占拠に成功します。
 しかしこの陣地を占拠した時点で既に時刻が夕刻だった為か、それとも陽動作戦の為そもそも陣地への攻撃のみが目的だった為か、彦根藩の陣地占領後も占拠した陣地の維持を試みるような事はなく、彦根藩の遺棄した銃砲弾や火薬を水中に投下して使用不可能にした跡に、占拠した陣地に火を放って小百裏に撤退します。
 このように本戦は小規模な局地戦であり、新政府軍・会幕連合軍共に人的損害はほぼ皆無だったものの、板垣率いる土佐藩兵の注意を西側に引き付ける事には成功したので、陽動作戦としては十分成功したかと思われます。

土佐藩兵の戦闘準備
 一方の土佐藩兵の方も今市宿の守備に難儀していました。後世の我々は今市宿を巡るニ度の攻防戦の結末を知っているものの、当事者の土佐藩兵としては、第一次今市宿攻防戦で勝利したとは言えギリギリの勝利であり、第一次今市宿攻防戦後、更に今市宿の守りを固めていました。相変わらず今市宿周辺に十八箇所の監視所を設け、更には夜間に二十二箇所に篝火を焚いており、それぞれに哨戒兵を置いていました。この為に相変わらず、寝る時以外は何らかの任務に就いていた土佐藩兵達は草鞋を脱ぐ暇も無く、谷干城の『東征私記』に「兵士草鞋の緒を解くに暇なし足されて殆と溺死人の足の如し」との記述があります。当然このような環境で警戒に当る兵士達が健康を保てる訳がなく、病人が続出、特に酷い者は当時病院が設けられていた壬生宿に護送されました。当時傷病人の護送の為に百挺の駕籠を用意したのにも関わらず、第二次今市宿攻防戦の直前には二十二挺しか残っていなかった程、土佐藩兵の消耗は激しいものでした。
 このような状況を受けて、五月三日には士官達から今市宿を放棄して、宇都宮宿か壬生宿まで撤退すべきとの声が上がるものの、板垣退助はこの申し出を却下して今市宿の死守の姿勢を崩しませんでした。しかしそうは言っても兵士達の士気の低下を恐れた板垣は、今まで禁止してきた飲酒を許可するものの、消耗の激しい兵士達の士気が回復する事はありませんでした。
 兵士と士官の士気の低下に苦しむ板垣の元に、更に宇都宮城からの援軍要請が入ります。上記の通り世良の援軍要請を受けた伊地知は、独断で白河城への救援(実際には奪回)に向かったものの、伊地知が宇都宮城滞陣の東山道軍を率いて出陣すれば、当然ながら宇都宮城の守備兵不足に繋がりました。板垣自身が兵力不足に苦しんでいたとは言え、万が一にも宇都宮城を会幕連合軍に奪取されれば、今市宿は補給線を分断され孤立する事になるので、板垣も背に腹を変えれず、援軍として今市宿に到着したばかりの行宗進之助十三番隊と桑津一兵衛十四番隊を宇都宮城に派遣します。
 何とか宇都宮城守備の問題を解決したのもつかの間、今度は江戸の大総督府から今市宿守備の半数を江戸に送るようにとの命令が下ります。この命令は明らかに現場の状況を無視したものでありました。上記の通り当時の大総督府は西郷隆盛が不在、大村益次郎も着任早々で実権を握っていなかった故の愚作だったと言えましょう。尚、個人的にこのような愚かな指示を下したのは、当時大総督府の実権を握っていた文官の林通顕か、戦下手の海江田信義のどちらかと思っています。
 更に本国の土佐藩首脳部が援軍要請に難色を示し、あまつさえは今市に滞陣する土佐藩兵の引き上げを画策しているとの連絡が入ると、流石の板垣や土佐藩兵首脳部も激昂し、五月一日に谷干城が大総督府と土佐藩首脳部に抗議する為に今市宿を出発し江戸に向かいます。もっとも谷が江戸に向かう道中に大総督府からの命令は取り消され(大村が実権を握った為か)、また壬生宿にて土佐藩兵増援軍を知らせる使者と出会う事になります。この増援軍は高屋左兵衛率いる2個小隊(若尾譲助十五番隊・横田裕造胡蝶隊)と半砲兵隊で、この援軍と出会った事により、土佐藩首脳部に対する疑念も杞憂に終ってしまった為、谷の抗議も空振りに終る事になりました。尚、谷の『東征私記』を読む限り、谷は大総督府の命令を河田景与の差し金と思っていた模様で、板垣・谷等の土佐藩兵首脳部と、河田率いる鳥取藩兵の確執が想像以上に深い物だったと言えましょう。
 『東征私記』に「因頗る軍費金に窮し進退如何ともすへきなし已に大澤駅在陣の節軍中縄百金を餘ずと云事河田より西尾遠州に哀訴せし事あり右に付河田の策にて江戸へ訴へ総督府付を願ひし事疑ひなし此の事伊地知も不知事故因を御呼返は頗る不平なり」との記述があります。

 この江戸からの情報を得た板垣は、宇都宮城を会幕連合軍に突かれる事を恐れ、高屋率いる増援軍に一旦は宇都宮城を経由して今市宿に向かうように小山宿に伝令を走らせます。しかしその後会幕連合軍が大谷川北岸に集結しているとの情報を得るに至り、直接今市宿を目指すようにと増援軍に伝令を走らせます。

 かくして会幕連合軍と土佐藩兵が共に戦闘準備を整える中、運命の五月六日を迎えるのです。


第二次今市宿攻防戦:五月六日
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 五月五日に今市宿再攻撃を決意した会幕連合軍は、小百村の守りを青龍寄合二番隊(隊長原平太夫)に任せて、総督の大鳥圭介と副総督の山川大蔵が残りの全軍を率いて小百村を出発、大桑宿を経由して荊沢村付近で、地元の領民を徴発して設けた橋を渡り、今市宿東方の森友村に到着。この地を本営として、午前八時頃に今市宿への攻撃を開始します。
 この時の会幕連合軍の布陣は、日光街道を進行する主力を第三大隊(大隊長米田桂次郎)が勤め、その第三大隊の右翼に朱雀寄合三番隊(隊長城取新九郎)、左翼に朱雀士中二番隊(隊長田中蔵人)が配置され、副総督の山川が引き手今市宿に攻撃を開始します。また本営が置かれた森友村には大鳥が残り、その手元には第二大隊が予備戦力として残されました。このようにこの日の戦いでは、大鳥も前回のように戦力の出し惜しみはせず、自分が掌握する戦力の大半を投入して戦いに望みました。

 一方の土佐藩兵は、五日夜に会幕連合軍の動きを察知し、翌日今市宿が攻撃を受けるのを覚悟します。土佐藩兵を率いる板垣退助は、上記した一旦宇都宮城に寄った高屋左兵衛率いる増援軍(2個小隊と半砲兵隊)に「明日(六日)正午までに今市宿に到着するように」との使者を送り、今市宿を守る土佐藩兵には会幕連合軍の攻撃に対しては、高屋率いる増援軍が到着次第反撃に転ずるので、それまでは防戦に終始するようにとの指示を下します。尚、この日の土佐藩兵の布陣は東側関門に迅衝隊一番隊(隊長日比虎作)・同十番隊(隊長二川元助)・同十一番隊(隊長平尾左近吾)の3個小隊が布陣。西側関門に迅衝隊七番隊(隊長山地忠七)・同八番隊(隊長吉松速之助)・斉武隊の3個小隊布陣。今市宿の北、会津西街道の大谷川沿いに迅衝隊三番隊(隊長小笠原謙吉)・同四番隊(隊長谷神兵衛)・十三番隊(隊長行宗進之助 *援軍として宇都宮城に送られていたが、呼び返されて、この日は今市宿の守備に当っていた)の3個小隊と北村長兵衛砲兵隊が布陣。今市宿の南方の平ヶ崎村には迅衝隊九番隊(隊長山田喜久馬)が布陣していました。また予備戦力として迅衝隊五番隊(隊長宮崎合介)・同十二番隊(隊長谷口伝八)・断金隊の3個小隊が待機しており、総戦力13個小隊と砲兵隊で今市宿を文字通り四方するようにして布陣していました。板垣自身は上記の通り五日夜の時点で、会幕連合軍の動きをある程度は把握していたものの、五月一日の会幕連合軍浅田隊による日光攻撃の件もあり、今市宿の全周囲布陣の体制を崩す事は出来ませんでした。そのような意味では五月一日の攻撃は陽動作戦としては十分成功したと言えると思います。

 このように土佐藩兵が今市宿の全面守備を続ける中、今市宿の東側関門方面に会幕連合軍が殺到します。前回の第一次今市宿攻防戦の時とは違い、今回は全戦力を東側関門に投入している為、兵力で大きく上回る会幕連合軍は土佐藩兵の防戦を圧倒し、東側関門に肉薄します。しかし前回の戦い以降、土佐藩兵は今市宿の陣地構築を更に進め、さしづめ本戦時の今市宿は半ば要塞化しており、第一次今市宿攻防戦時とは異なる様相を見せていました。この為に土佐藩兵の抵抗を圧倒したとは言え、強化された胸壁を突破するのは難しく、会幕連合軍も土佐藩兵の抵抗を圧倒しつつも陣地を突破出来ないでいました。
 一方の土佐藩兵を率いる板垣もまた判断に悩んでいました。今の戦況が続けば東側関門を突破されるのは時間の問題なものの、会幕連合軍の別働隊を警戒して、他の戦線から援軍を向かわせる事も出来ない状況だったのです。実際小百村を守っていた青龍寄合二番隊が南下して瀬尾村周辺に進出したり、茶臼山に布陣していた猟師隊も山を降りて、大谷川を挟んで土佐藩兵の北川守備隊と対峙するなどの動きを見せた為、板垣も迂闊に他の戦線から兵を引き抜いて東側関門の援軍に向かわす事は出来ませんでした。

  

左:森友村の現状。正面の杉並木道が当時の日光街道で、会幕連合軍の主力はこの杉並木道を通って、東側関門攻撃に向かいました。
右:瀬尾村の現状。

 このように戦局としては会幕連合軍優位で進んだものの、正午頃まで半ばこう着状態が続く事になります。特に板垣としては正午には宇都宮城から援軍が駆け付け、今市宿守備隊と挟撃する腹づもりだったものの、援軍が一向に到着しない事に次第に焦りを募らせる事になります。
 しかし焦りを募らせているのは大鳥も同じで、予備戦力の第二大隊を前線に投入するかで悩んでいました。前線からは第二大隊を投入するようにとの声が届いていたものの、第二大隊を前線に投入した場合、正に板垣が目論んでいた新政府軍の別働隊が現れても対応が出来ない為、大鳥としては躊躇していたものの、沼間守一等の要請に遂に折れ、第二大隊を東側関門の攻撃に投入します。自分達の出番を今か今かと待っていた第二大隊は、沼間や瀧川充太郎大川正次郎の指揮の元で勇敢に奮戦し、東側関門の防備はもはや風前の灯火と化したのです。
 この劣勢を受けた板垣は、遂に今市宿守備の土佐藩兵のみで事態の打開を決断します。幸いにも、土佐藩兵の苦戦を知った日光在陣の彦根藩兵から2個小隊が援軍に駆け付けたため(もう1個小隊は大谷川を渡河し、小百村を襲う姿勢を見せます)、板垣はこの彦根藩兵に西側関門の守備を任せ、これによって生じた余剰戦力を持って反撃を試みます。まず西側関門の守備に当っていた吉松の八番隊の半小隊と断金隊の半小隊を、平ヶ崎村・千本木村・吉沢村と迂回させ、例幣使街道を超えて会幕連合軍の左翼の後方に回り込むように指示します。また山地の七番隊は、この迂回部隊の左を進み直接例幣使街道から会幕連合軍の左翼を攻撃するに指示しします。

  

左:平ヶ崎村の現状。
右:千本木村の現状。

 かくして会幕連合軍が東側関門を突破しようとしていた今正にその時の午後二時頃、土佐藩兵の迂回部隊が会幕連合軍の左翼に襲い掛かります。この土佐藩兵の奇襲を受けた朱雀士中二番隊が瞬く間に崩れ去り、更に主力の第二・第三大隊の左側面に攻めかかった為、それまで怒涛の攻撃を続けていた会幕連合軍の攻勢も遂に止まる事になります。更に彦根藩兵1個小隊の進出により、青龍寄合二番隊と猟師隊の動きも拘束された事を受けた板垣は、今市宿の北側を守っていた小笠原の三番隊と谷の四番隊を前進させ、会幕連合軍の右翼を襲わせます。かくしてそれまでの攻守が入れ替わり、土佐藩兵が会幕連合軍を両翼包囲する状況となります。この土佐藩兵の反撃により、会幕連合軍には死傷者が続出し、第三大隊長の米田桂次郎が重傷を負うなど、士官でも死傷者が続出しました。

 森友村で指揮する大鳥としては、ここで予備戦力を投入して戦線の建て直しを計りたかったものの、前述の通り既に予備戦力の第二大隊を前線に投入してしまっていたため、崩れ去る自軍の両翼を黙って見逃す事しか出来ませんでした。大鳥にとっては更に悪い事に、午後三時頃には板垣待望の高屋左兵衛率いる増援軍が、日光街道を進軍し大鳥の後方に現れます。宇都宮守備に当っていた迅衝隊十四番隊(隊長桑津一兵衛)に同行をせがまれた為、戦場に到着するのが遅れた高屋率いる増援軍だったものの、十四番隊を加えた事により、戦力は増強され3個小隊(十四番隊・十五番隊・胡蝶隊)及び半砲兵隊となっていました。前述の通り本部要員くらいしか居ない大鳥の司令部は、この高屋率いる増援軍の攻撃を受けると一たまりも無く崩れ去り、大鳥自身も命からがら大谷川を渡河して敗走する事により、会幕連合軍はまず本営が壊滅する事になります。
 土佐藩兵に両翼包囲されつつも、それまで何とか戦線を保っていた会幕連合軍だったものの、後方の本営が壊滅した事により、言わば裏崩れとなりました。前面・左右両翼・後方から攻撃された会幕連合軍にはもはや組織的な撤退は出来ず、各自がてんでばらばらの状態で敗走する事になり、第三代隊長の米田を始め、士官でも多くの死傷者を出して敗走します。前線で指揮していた沼間は、この裏崩れに対して大鳥を批判するものの、流石の沼間にもこの裏崩れを止める事が出来ず、結局沼間もまた敗走する事になりました。
 石川安次郎著「沼間守一」に、「大鳥は敗走して行く所を知らすと、須藤大ひに驚き、再び沼間隊の苦戦せる所に赴き、大鳥の既に敗走せるを告ぐ、沼間大ひに憤慨して曰く、大鳥何者ぞ、我が戦機を誤れりと、直ちに速退の令を下し、大谷川を乱れて走る」との記述があります。
 尚、沼間はこの敗戦で余程大鳥に腹を立てたらしく、第二次今市宿攻防戦後に部下を率いて大鳥の元を去り、庄内藩へ向かいます。

 土佐藩兵は敗走した会幕連合軍を追って、大谷川を渡河しての追撃を試みたものの、増水した大谷川を渡河する事は出来ず、暫くは大谷川越に銃砲撃を行っていたものの、午後五事頃には雨がまた降ってきた為、これ以上の攻撃を諦め今市宿に後退します。

    

左:今市宿如来寺に建つ「戊辰役戦死者供養塔」
中:今市宿回向庵に建つ土佐藩戦死者の墓
右:今市宿杉並木道沿いに建つ、「無名戦士の墓」。会幕連合軍の戦死者が埋葬されたと伝えられる和尚塚に建てられています。

 一方、命からがら大谷川を渡河して戦線を脱出した会幕連合軍は損害があまりにも多く、もはや攻勢に移る事など出来ず、かろうじて守勢が可能な継戦能力しか有してなかった為、小百村はおろか小佐越村すら保持する事は出来ず、会津西街道沿い隘路の奥地である藤原宿まで撤退します。
 これに対し土佐藩兵は翌日大谷川を渡河し、会幕連合軍が利用した栗原村・大桑宿・小百村・小佐越村等の大谷川北岸・会津西街道沿いの集落を放火して、会幕連合軍がこれらの集落を使用出来ないようにしました。

 こうして凡そ二ヶ月もの間、今市宿を巡って二度もの激戦を繰り広げた会幕連合軍と土佐藩兵だったものの、二度の敗北により、もはや会幕連合軍には隘路から進出して攻勢に転じる余力はありませんでした。そして二度の勝利を収めた土佐藩兵もまた、会幕連合軍が隘路から出てくる事はないと判断すると、これまで在陣した今市宿を引き払い、伊知地正治が守る白河城の増援の為に、白河城に転進します。
 尚、板垣は会幕連合軍に隘路から出てくる余力はないと判断したものの、継戦能力を失った訳ではなく、地形の複雑な隘路内に攻め込むのは危険と、後任の佐賀藩兵に告げるものの、板垣の判断が正しかった事を佐賀藩兵は身を持って知る事となるのです。


第二次今市宿攻防戦についての考察

 第一次今市宿攻防戦の敗戦を受けた大鳥は、その作戦を反省し、沼間の建策を受け入れて今市宿東側に兵力を一点集中しての攻撃を行います。その攻撃に先立ち今市宿西方の日光への陽動作戦を行い、土佐藩兵の注意を西方に向かわしての作戦実施だった為、今市宿東側に集中攻撃を受けても、土佐藩兵を率いる板垣も中々他の戦線の兵を東側に送る事が出来ませんでした。これに対して戦力の集中により、兵力面でも優勢となった会幕連合軍は東側関門を突破寸前に追い込むなど、前回の反省を踏まえた大鳥の作戦は、土佐藩兵を凌駕したと言えるのではないでしょうか。
 しかしそれにも関わらず、結局会幕連合軍が今市宿東側関門を突破出来なかったのは、やはり「火力面で土佐藩兵に劣っていた」のを克服出来なかったと言えましょう。戦力の集中により、東側関門を巡る戦いでは、兵力的に優勢となった会幕連合軍とは言え、対する土佐藩兵が篭る今市宿も、第一次今市宿攻防戦後更に強化され、半ば要塞化の域に達していました。幾ら兵力で凌駕していたとは言え、ゲベール弾やヤーゲル弾を使用する会幕連合軍では、この要塞化された今市宿の防衛ラインを突破する事は出来ず、結局会幕連合軍の攻勢は力尽きたのです。

 一方土佐藩兵の勝因としては、上記の通り「火力面の優勢」「今市宿の要塞化」は勿論の事ですが、この第二次今市宿攻防戦では、土佐藩兵を率いる板垣の決断力が勝敗に与えた影響が大きかったと言えましょう。戦闘前日に部下に語った通り、板垣としては高屋率いる増援軍が到着するまでは守勢に徹し、増援軍が到着次第反撃に転ずると言う構想を抱いていた模様です。その構想通り緒戦から防戦に徹していた土佐藩兵だったものの、予定していた時間になっても一向に増援軍は到着せず、逆に大鳥が予備戦力である第二大隊を投入した事により、東側の関門は陥落寸前に陥りました。
 もしこの時板垣が前日の構想に拘り、増援軍が到着するまで守勢を続けていたら今市宿も陥落した事でしょう。しかし板垣はこの苦しい戦況の中、彦根藩兵の援軍により余裕が出た戦線から兵力を抽出し、この余剰戦力に会幕連合軍の左翼を包囲させる事により、戦局を逆転させる事に成功します。更にはようやく到着した増援軍と挟撃する事により、会幕連合軍を壊滅させたのです。
 そのような意味では、「火力面の優勢」と「今市宿の要塞化」が土佐藩兵勝利の要因だったのは間違いないものの、最後に勝敗を分けたのは板垣の決断だったと言えるのかもしれません。後年天才的野戦軍司令官と称される板垣ですが、この第二次今市宿攻防戦での決断が、板垣の評価に与えた影響は大きいと思われます。

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主な参考文献(第一章から後第五章まで通じて)

『戊辰役戦史』:大山柏著、時事通信社
『復古記 第10巻・11巻』:内外書籍
『三百藩戊辰戦争辞典』:新人物往来社編

『北関東戊辰戦争』:田辺昇吉著、松井ピ・テ・オ印刷
『戊辰戦争』:大町雅美著、雄山閣
『下野の戊辰戦争』:大嶽浩良著、下野新聞社
『那須の戊辰戦争』:北那須郷土史研究会編、下野新聞社
『栃木の街道』:栃木県文化協会

『薩藩出軍戦状 1・2』:日本史籍協会編
『伊地知正治日記』:静岡郷土研究会(維新日誌第2期第2巻収録)
『板垣退助君伝』:栗原亮一編纂、自由新聞社
『谷干城遺稿』:島内登志衛編纂、靖献社
『流離譚』:安岡章太郎著、新潮社
『土佐藩戊辰戦争資料集成』:林英夫編、高知市民図書館
『鳥取藩史 第1巻』:鳥取県編、鳥取県立図書館
『鳥取県史』:鳥取県編
『鳥取県郷土史』:鳥取県編、名著出版
『鳥取市史』:八村信三編、鳥取市役所
『丹波山国隊史』:水口民次郎著
『山国隊』:仲村研著、中公文庫
『佐賀藩戊辰戦史』:宮田幸太郎著、マツノ書店
『幕末維新の彦根藩』:佐々木克編、彦根市教育委員会
『大垣藩戊辰戦記』:鈴木喬著、鈴木文庫
『北武戊辰小嶋楓処・永井蠖伸斎伝』:小島慶三著
『戊辰日記』:県勇記著、東大史料編纂所データーベース
『宇都宮藩を中心とする戊辰戦史』:小林友雄著、宇都宮観光協会
『維新と大田原藩』:益子孝治著、大田原風土記会

『南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記』:新人物往来社
『大鳥圭介伝』:山崎有信著、マツノ書店
『北戦日誌』:浅田惟季著
『慶応兵謀秘録』:静岡郷土研究会(維新日誌第2期第2巻収録)
『野奥戦争日記』:静岡郷土研究会(維新日誌第2期第2巻収録)
『谷口四郎兵衛日記』:新人物往来社(続新撰組史料集収録)
『野州奥羽戦争日記』:山口県毛利家文庫
『別伝習書記』:伊南村史第3巻資料編2収録
『沼間守一』:石川安次郎著、大空社
『陸軍創設史』:篠原宏著、リブロポート
『幕府歩兵隊』:野口武彦著、中公新書
『会津戊辰戦史』:会津戊辰戦史編纂会
『泣血録』:中村武雄著
『鶴ヶ城を陥すな〜凌霜隊始末記〜』:藤田清雄著、謙光社

『下野史料 第38号』:下野史料保存会
『下野史談 第2巻2号』:下野史談会
『栃木県史 通史編5・6』:栃木県史編纂委員会編
『栃木縣史 第8巻 戦争編』:下野史談会
『宇都宮市史 第五巻近世史料編 2』:宇都宮市史編纂委員会編
『宇都宮市史 第六巻近世通史編 1』:宇都宮市史編纂委員会編
『小山市史 通史編2』:小山市史編纂委員会編
『壬生町史 通史編2』:壬生町編
『笠間市史 上巻』:笠間市史編纂委員会編
『結城市史 第5巻』:結城市史編纂委員会編 
『いまいち市史通史編3』:今市市史編さん委員会編集
『日光市史下巻』:日光市史編さん委員会編
『真岡市史第7巻』:真岡市史編さん委員会編
『鹿沼市史 通史編近現代』:鹿沼市史編さん委員会編
『塩原町誌』:塩原町史編纂委員会編
『大田原市史 前編』:大田原市史編纂委員会編
『藤原町史 通史編』:藤原町史編纂委員会


参考にさせて頂いたサイト
幕末ヤ撃団様内「戊辰戦争兵器辞典」
天下大変 -大鳥圭介と伝習隊-様内 記事全般

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