野州戦争 第四章
慶応四(1868)年閏四月十五日〜五月二日)

〜那須山麓への会幕連合軍の攻勢、板室宿・大田原城の戦い〜

那須山麓の戦い関連地図
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会幕連合軍の那須山麓への進出

 那須山麓の戦いは、会幕連合軍が閏四月に会津西街道沿いの田島宿で再編成した事に端を発します。総督である大鳥圭介自らが率いる第二大隊と第三大隊は会津西街道を南下して今市宿を目指しましたのは第三章で書いたとおりですが、秋月登之助が率いる第一大隊は会津中街道を東進し閏四月十八日に三斗小屋宿に入りました。秋月の目的が何だったかについては、第一大隊所属の者が書いた『谷口四郎兵衛日記』に「第一大隊大田原方面出張ト成」と書かれている事から、那須山麓の占拠に留まらず大田原まで侵出するのが目的だったと思われます。第一大隊が三斗小屋宿に進出じた時点では、まだ伊地知正治率いる新政府東山道軍が白河城を奪回していないので(そもそもこの時点では、会津藩兵・仙台藩兵による白河城占領すらされていません)、第一大隊の意図が「大田原城を占拠して、これ以上の新政府軍北上の阻止を狙った」のか「早々と新政府に恭順した大田原藩に対しての報復」だったのかまでは判らないものの、大田原城攻撃の意図を持って三斗小屋宿に進出したのは間違いないと思います。
 尚、三斗小屋宿に宿陣した会幕連合軍の編成は、第一大隊(旧伝習第一大隊)を主力に別伝習隊、そして回天隊の残党三十名余名を加えた、凡そ600名弱程度だったと考えます。

  

左:三斗小屋宿の現況。画像では石灯籠の右側に道路がありますが、江戸時代は石灯籠が道の中央に建っていました。
右:三斗小屋宿から板室宿に繋がる山道の途中にある麦飯坂。現在でも難路のこの道を、会幕連合軍は大砲を引いて通ったのです。


新政府軍伊地知隊の北上

 四月二十三日の戦いで、宇都宮城を大鳥軍から奪回した新政府東山道軍は、その後参謀である板垣退助率いる支隊を日光に派遣したものの、同じく参謀である伊地知正治率いる本隊は宇都宮城に留まっていました。そのような伊地知の元に閏四月十一日、奥羽鎮撫総督府参謀の世良修蔵から書状が届きます。「初め奥羽総督之参謀長州人世良修蔵度々白川口へ応援致呉候様申来候得共(伊地知正治日記)」。奥羽諸藩の兵を糾合して会津藩を攻めるのが世良の任務でしたが、奥羽諸藩は戦争を嫌い非協力的だった為に会津討伐は遅々として進まずにいました。この状況を危ぶんだ世良は一旦総督府を白河城に後退させ、東山道軍と合流しての会津討伐を目論みます。その為に伊地知に白河城まで援軍を求める書状を送ったのです。
 世良からの書状が届いた翌々日の十三日、今度は旧幕府真岡代官領の代官山内源七郎から脱走兵が喜連川藩方面に向かっているとの一報が入ります。「閏四月十三日、御料代官山内源七郎ヨリ、下役加藤甚一朗ヲ以御領地内、大島ト申處ニ賊兵三百位相屯シ、喜連川ヘ通行トノ咄ヲ、在所ノモノ承居候由注進候故(伊地知正治日記)」。世良からの救援依頼と、正体不明の脱走軍の存在を知った伊地知は出兵を決定します。伊地知は軍勢を二手に分け、主力の薩摩藩兵一中隊相当(城下士小銃四番隊:隊長川村純義)・長州藩兵一中隊(施条銃足軽第一大隊二番中隊:隊長楢崎頼三)・忍藩兵一小隊(撤兵隊:隊長栗田栄之助)と半小隊(表銃隊:左半隊長三好孫二郎)は喜連川陣屋を目指しました。別働隊の薩摩藩兵一分隊(兵具隊:池上四郎が指揮)・大垣藩兵一小隊(壮士隊:隊長中島武左衛門)・宇都宮藩兵凡そ百名(家老戸田三左衛門が指揮)は那珂川東岸の水戸藩領野口村を目指して、共に十三日に出発します。ただし伊地知自身は宇都宮城に留まっていました。
 別働隊は真岡代官領を通り、その日は那珂川西岸の茂出木村に宿陣。翌日那珂川南岸を川沿いに進んで、野口村にて脱走兵を発見、対岸からの銃撃によりこれを敗走させます。尚、この脱走兵については詳細が判りません。徳川義軍府の残党とも、岩井村の戦いで敗れた純義隊や回天隊の残党とも言われているものの、確定はされていません。ある意味この脱走兵の存在こそ、当時の野州に色々な反新政府勢力が存在していた事の証左かもしれません。
 一方の本隊はさしたる戦いも無く、翌十四日には喜連川陣屋に到着して、ここで正式に喜連川藩は新政府に恭順します。本来は喜連川で脱走兵を待ち伏せするのが伊地知の思惑だったものの、脱走兵が野口で敗走したのを知ると、敵兵を追って北上を続けて十五日には大田原城に到着します。


関谷宿・大網温泉の戦い:閏四月十六日

 大田原藩領関谷宿は、会津西街道中三依宿と会津中街道山田宿を繋ぐ尾頭道(塩原街道)と、大田原道が合流する交通の要所であり、また那須山麓の開けた土地でもあった事から、幕府の役人も使用する宿場町として栄えていました。新政府東山道軍が大田原城に到着した翌日の十六日、この関谷宿に敵兵が居るとの一報が入ったので、長州藩兵と忍藩兵による斥候隊を関谷宿に向かわせます。関谷宿に到着した長忍の斥候隊は、肩口に着けられた錦旗の袖印を外して敵兵に接近、味方かと油断した敵兵に猛射撃を与えて敗走させます。「十六日、賊鹽原邨ニ在ルヲ聞キ、我兵及忍藩兵、僅二十余人関谷宿ニ至リ、錦ノ袖印ヲ隠シ、徳川脱走人ノ姿トナリ、農夫ニ託シ、書ヲ賊ニ致ス、賊兩三人手銃ヲ携ヘ出来ル、僅ニ十歩ニ及ヒ、我兵忽チ聲ヲ発シテ砲撃ス、賊驚走ル(復古記 第十一巻 615頁)
 この関谷宿で新政府軍に敗れた軍勢については、『谷口四郎兵衛日記』に「草風タイ(隊)田嶋口ヨリ責寄大勝利、官兵敗走タル跡タレハ他ノ者捨置タリ」の記述と、『心苦雑記』に「大網は閏四月中、大田原に第三歩兵草風隊が押し寄せ焼き討ちして勝利した」との記述がある事から草風隊と考えて間違いないと思います。田島宿で第四大隊所属となった草風隊ですが(『心苦雑記』の記述は間違い)、同じく第四大隊所属だった純義隊とは別行動を取り、尾頭道(塩原街道)塩原宿に進駐していました。しかし塩原宿は、あくまで尾頭道(塩原街道)の宿場町に過ぎないので、交通の要所である関谷宿を押さえようと、塩原宿から関谷宿に進出したと考えています。
 この草風隊を関谷宿で敗走させた長州藩兵・忍藩兵による斥候隊ですが、敗走した草風隊を追って塩原宿方面に行軍します。やがて塩原宿の手前の大網温泉にて、休息していた敵兵を急襲します。中には温泉で入浴していた兵も居たそうですが、急襲に大いに驚き裸で逃走した兵も居たと伝わります。「賊驚走ル、尾躡シテ直ニ大網陣屋ヲ襲ウ、賊等方ニ温泉ニ浴ス、裸體倉黄、輜重、機械ヲ棄テ走ル(復古記 第十一巻 615頁)」。斥候隊はこれ以上は進まず、大網温泉付近の集落に火を放って大田原城に帰還します。

  

  

左、右:関谷宿の現況。

  

左:大田原道と尾頭道の合流地点である関谷宿の入り口。ここから左に向かうと大田原道となり、画像右から画像正面の道に至るのが尾頭道(塩原街道)になります。
右:関谷宿内に今も残る並木道。関谷宿の戦いの際は、新政府軍がこの道を通ったのかもしれません。

  
左:関谷宿内に今も建つ石灯籠。この常夜灯の石灯籠は嘉永年間に建てられたらしいので、戊辰戦争の際にも関谷宿内に建っていた事でしょう。
右:大網温泉の現況。画像左の崖下に、脱走軍が浸かっていたと言われる温泉が今も残っています。


塩野崎村の戦い:閏四月二十一日

 野口村で敵兵を撃破した別働隊も、やがて大田原城に到着し、隣藩の黒羽藩からも家老村上一学も大田原城に到着します。二十日、大田原藩家老大田原数馬・黒羽藩家老村上一学を交えて軍議が行われ、大田原藩領の農民から板室宿方面に敵兵が進出しているとの一報が入った事もあり、板室宿方面の出兵が決定しました。尚、この時点では伊地知は大田原城に到着していないので、この軍議は薩摩藩士の川村純義と、長州藩士の楢崎頼三を中心に行われたと思われます。しかし小藩とは言えども一藩の家老が、朝廷任命の参謀でも軍監でもない、ただの一藩の隊長の元で軍議に参加したのであれば、時代の流れというのを感じられます。
 翌二十一日、大田原城を出発した薩摩藩兵一中隊相当(城下士小銃四番隊:隊長川村純義)・長州藩兵一中隊(施条銃足軽第一大隊二番中隊:隊長楢崎頼三)・大垣藩兵一小隊(壮士隊:隊長中島武左衛門)・忍藩兵一小隊(撤兵隊:隊長栗田栄之助)と半小隊(表銃隊:左半隊長三好孫二郎)の四藩兵は板室宿を目指し出発します。途中の集落である塩野崎村に到着すると、敵兵こそ居なかったものの、住民から脱走兵から兵糧を用意するように申しつけられたと聞き出した為、この地で待ち伏せする事にしました。
 やがて板室宿方面から数名の斥候がやって来たので、四藩兵はただちに斬り捨て(小銃を使うと音が出るので)、更に待ち伏せを続けます。続いて今度は100名ほどの本隊が到着。四藩兵は今度は射撃を行い、これを敗走させます。
 この軍勢については、『谷口四郎兵衛日記』に「廿一日、奈須野村辺ニ進軍スルニ、急ケ塩ヶ崎村ニ襲敵ノタメ対戦ニ及。士官屋代鍋吉負外死傷アリ」と書かれている事から、会幕連合軍第一大隊と思われます。十八日に三斗小屋宿に入った第一大隊ですが、そのまま難路の山道を降って板室宿に入り、大田原城攻撃の橋頭堡として塩野崎村で食料を徴発していた所を、出鼻を挫かれた形と思われます。
 第一大隊を敗走させた新政府軍ですが、この日の内に板室宿に向かっても、到着する頃には日が暮れると判断したので追撃は断念し、この日は塩野崎村に宿陣します。

塩野崎村に建つ薬王寺。この日はこの寺の周辺で戦いが行われたと伝えられます。


板室宿の戦い:閏四月二十二日

 翌二十二日、塩野崎村に宿陣していた四藩兵は早朝から板室宿目指して出発します。一方の会幕連合軍も、前日に新政府軍と交戦した事から、この日に新政府軍の襲来があると想定して、板室宿南の那珂川北岸の阿久戸村に布陣していました。
 この戦いとなった板室古戦場の説明をさせて頂くと、板室宿の南側に那珂川は流れているのですが、この地では那珂川は切り立った崖の谷底を流れています。つまり新政府軍がここを攻めるには、まず谷を降った後で、那珂川を渡河し、更に切り立った崖をよじ登らないと阿久戸村には入れませんでした。一方の会幕連合軍は切り立った崖の上に布陣して、谷底から進んでくる新政府軍を迎撃すれば良いので、典型的な「攻めるに難く守るに易し」な地形でした。

  

左:板室宿の戦い古戦場の遠景。画像中央の崖の下に那珂川が流れています。また画像奥に立つ山の裏側に三斗小屋宿が在りました。
右:那珂川河岸の現況。

 かくして那珂川南岸の油井村に到着した新政府軍は、対岸崖上の会幕連合軍に射撃を開始したものの、崖上に布陣する会幕連合軍に損害を与える事はあまり出来ませんでした。またこの戦いでは新政府軍が所有する大砲は、大垣藩と忍藩の各一門の計二門しかなく、この砲撃力不足からも会幕連合軍の防御ラインを突破出来ずにいました。
 一方の会幕連合軍にとっても、決して有利な戦況ではありませんでした。第三章で書いたとおり、会津藩から補給を受けていた以上は、この時点の(伝習)第一大隊がシャスポー銃を用いていたとは思えず、良くて前装施条銃ながらも球形弾のヤーゲル銃か、もしくは前装滑腔銃のゲベール銃を装備していたと思われます。或いは銃身はシャスポー銃を使いながらも、それでゲベール弾かヤーゲル弾を発射したのかもしれません。いずれにしろ野州戦争の序盤で、火力で新政府軍に対して優位に立った伝習隊も、この戦いでは全兵が前装施条銃のミニエー銃を装備する新政府軍の前では火力で劣っており、この為に地形的には有利な場所に布陣していても、新政府軍の攻撃を撃退する事は出来ずにいました。

那珂川河岸の上流方向を見て。会幕連合軍はこの崖の上の台地上に布陣していたと思われます。

 新政府軍と会幕連合軍が共に決定力に欠ける状況の為、戦局は次第に膠着状態に陥ります。これを嫌った川村は楢崎と相談し、少数による決死部隊による迂回攻撃を試み、薩摩・長州の両藩兵から選抜した約二十名を那珂川上流に向かわせます。その後もしばらく膠着状態は続くものの、迂回部隊が那珂川の渡河に成功し川沿いに北岸を進み、やがて阿久戸村に到着し突入すると戦況は一変します。迂回部隊の突入により、会幕連合軍の戦線が乱れたのを見逃さなかった川村と楢崎の両名は、四藩兵に突入を命令しました。会幕連合軍の射撃が弱まっている間に、四藩兵は那珂川を渡河し、そのまま崖をよじ登り、一気に阿久戸村内に突入します。「廿二日進テ油井邨ノ賊ヲ破リ、アクト邨ニ至リ、水ヲ隔テ賊ト戦ウ、薩長ノ兵二十人許、潜ニ上流ヲ亂シ、繞テ賊背山上ニ上リ夾撃ス、賊狼狽板室ニ走ル(『復古記』第十一巻 639頁)
 台地上の侵入を許したものの、会幕連合軍はすぐに敗走した訳では無く、板室宿と阿久戸村間の台地上で新政府軍と抗戦するものの、地の利を失った会幕連合軍に反撃する力は無く、第一大隊指図役の小笠原新太郎始め多くの戦死者を出した後に昼過ぎには板室宿目指し敗走し、そのまま会津西街道を通って三斗小屋宿まで撤退します。

  

左:阿久戸村の台地上の現況。当時はこの台地上で戦いが行われました。
右:旧阿久戸村内に建つ、戦死者の供養費。会津中街道の道しるべとしても使われ、「左いたむろ 右ろくとち」と彫られています。

  

左:会津中街道と板室宿の現況。今は板室の中心地は板室宿(本村)よりも、板室温泉の方に移っている感があります。
右:板室宿に建つ道標。「左ゆもと道 右会津街道」と彫られています。

 新政府軍は板室宿までは会幕連合軍を追撃したものの、それ以上の追撃は諦めて、会幕連合軍が再度進行してきても策源地や宿陣地として使えないように、板室宿・阿久戸村・油井村の家々に放火した上で大田原城まで帰還します。


板室宿の戦いについての考察

 第一次宇都宮城攻防戦では勇戦した伝習第一大隊が、板室宿の戦いでは有利な地形に布陣した以外に良い所が無かった事については、『戊辰役戦史』でも不思議と書かれていますが、強いて言うならば「火力不足」と「士官不足にいる軍勢としての粘りが無くなった事」と考えています。
 まず「火力不足」については上記したとおりですが、火力不足の為に密集せざるを得ずに、戦闘範囲が狭まったような気がします。もっと火力があれば広く薄く布陣する事が出来たので、そうなれば新政府軍の迂回部隊の接近ももっと早く対応出来たのではないでしょうか。「士官不足」については第三章で書いたとおり、第二次宇都宮城攻防戦後に大鳥軍内において士官・兵士の大量脱走が発生しています。特に士官の脱走は致命的で、部隊の組織としての意思疎通の低下を招き、柔軟性と粘りを失ってしまったと思われます。或いは板室の戦いで密集して布陣せざるを得なかったのは、この士官不足が原因だったかもしれません。加えて、ただでさえ数少ない士官を二人も、塩野崎村・板室宿の戦いで失ったのは第一大隊にとっては致命的な損害だったでしょう。


第二次関谷宿の戦い:閏四月二十三日

 板室宿の戦いが行われた二十二日、大田原城に伊地知率いる後続隊が到着します。世良修蔵が暗殺され、白河城が会津・仙台両藩兵に占領されたとの一報が入ったのは二十日なので、これを知って白河城奪回の為の兵を率いて宇都宮城を出発、大田原城に到着したのが二十二日だと思われます。そして到着した二十二日に、関谷宿に再び敵兵(草風隊)が出没したとの一報が入ると、伊地知は率いてきた後続部隊をすぐさま関谷宿に向かわせます。薩摩藩兵一中隊相当(城下士小銃五番隊:隊長野津静雄)・長州藩兵一小隊(施条銃中間第四大隊一番中隊二番小隊:隊長原田良八)・大垣藩兵二小隊(兼用隊:隊長長屋盆之進、先手組:隊長鳥居勘右衛門)・忍藩兵一小隊(隊長名不明)、以上の四藩兵が関谷宿に向かいました。
 関谷宿には再び草風隊が進出していたものの、新政府軍の接近を知ると関谷宿西側の那須山地の中腹に後退して、ここで防戦を試みます。しかし新政府軍に麓に火を放たれると逃走したので、新政府軍は山を登り攻撃に移り、一里ほど追撃した後に大田原城に帰還しました。「閏四月二十三日、五番隊関谷ヘ押寄候處、賊徒官軍ノ強ヲ恐レ、遙之山路ニ引入、乾ケル木ヲ積テ火ヲ放チ、其後ヨリ覘打候構ニテ待設候得共、我手山根傳ニ四方ヨリ引包打立候故、暫時之間ニ首級三ヲ得、壹里餘追討ニテ引揚候事(『復古記』第十一巻 642頁)

  

左:関谷宿西側に位置する那須山麓。この山に草風隊は布陣しました。
右:山裾に在る愛宕神社の鳥居と石段。この石段は戊辰戦争時には既に存在していたと伝えられます。

  

左:愛宕神社の境内。この愛宕神社は幕末には既に存在しており、「城鍬舞」と呼ばれる二十人程が参加する舞が行われていた事からも、戊辰戦争時に、関谷宿に面した斜面に二十人が展開出来るだけの平地があったのですから、草風隊の内の幾分かはこの境内に布陣したのではないかと推測しています。
右:境内から関谷宿を見下ろして。このように関谷宿を見下ろせる絶好の場所と判って頂けると思います。


大田原城攻防戦:五月二日

大田原城城下関連地図
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東山道軍の白河城攻撃
 関谷宿での掃討戦の勝利した伊地知は、いよいよ白河城の奪回戦に着手する事を決断。閏四月二十五日に一度目の攻撃を仕掛けますが(第二次白河城攻防戦)、兵力不足と準備不足からこの攻撃は失敗。この為に伊地知は宇都宮城から連れてきた全東山道軍を率いて再度攻撃を開始、五月一日の第三次白河城攻防戦にて見事白河城の奪回に成功します。
 しかしこの攻撃の為に、大田原城に居た東山道軍の兵士を全て白河城に向かわせてしまい、応援に来ていた黒羽藩兵と、大田原藩兵も白河城攻撃の兵站確保の為に大田原城〜白河城間の鍋掛宿や芦野宿に出兵させてしまったので、大田原城の守りは手薄になっていました。第三次白河城攻防戦の翌日の五月二日、その大田原城が手薄になった間隙を突いて会幕連合軍が大田原城に攻めてきたのです。

  

左・右:芦野宿の現況。

  

左・右:鍋掛宿の現況。

会幕連合軍の進軍
 板室宿の敗戦後、三斗小屋宿に退却してした会幕連合軍でしたが、会津藩からの援軍が来た事もあり、再度大田原城攻撃を決意。五月一日に三斗小屋宿を出発し、前回同様に難路の会津中街道の山道を降り板室宿に到着、那珂川を渡河して百村で宿陣します。この日出撃したのは会幕連合軍の第一大隊(隊長:秋月登之助)・回天隊・別伝習隊・会津藩朱雀足軽三番隊(隊長:原田主馬)・同青龍四番隊(隊長:有賀左司馬)・上総飯野藩脱走軍(隊長:森要三)でした。会津藩青龍四番隊については『会津戊辰戦史』に、上総飯野藩脱走軍については『慶応兵謀秘録』に、それぞれこの戦いに参加したとの記述があります。
 翌二日、雨の中、会幕連合軍は二手に分かれて行軍を開始しました。第一大隊・回天隊は蟇沼用水沿いに進み、大田原道に出て、東側より大田原城への攻撃を目指します。会津藩兵二中隊相当・別伝習隊・飯野藩兵は一度関谷宿に入り、そこから日光北街道に出て、街道沿いに南側から大田原城への攻撃を目指す作戦でした。

  

左:三斗小屋宿の現況。
右:三斗小屋宿から板室宿に至る、現在の会津中街道。

大田原藩の戦闘準備
 二日未明に油井村に出していた警戒兵から、会幕連合軍の進軍の一報が届くと、家老大田原数馬を中心に大田原藩兵は防戦準備を始めます。まず前述のとおり伊地知に命じられて出兵していた、鍋掛宿を守っていた阿久津忠義の一番隊と、芦野宿を守る阿久津頼安の二番隊をそれぞれ呼び寄せます。続いて大田原鉄之進率いる三番隊凡そ100名を二つに分け、片方は奥州街道と日光北街道の合流点であり、城下町南方の入り口である新田木戸に配置します。もう片方は大田原道の経塚木戸と、その先の大田原道沿いの石林村にも配置しました。
 しかし兵力の少なさから、大田原城を守り切れるか危ぶんだ数馬は、まだ幼年の藩主ヌ丸(七歳)を搦手門から脱出させ、後顧の憂いがない状態にして会幕連合軍の攻撃を迎え撃つ準備をしました。

石林村・経塚木戸の戦い
 こうして防戦準備を整えた大田原藩に対して、会幕連合軍は攻撃を開始します。大田原藩兵の第一防御ラインは石林村に布かれていたものの、会幕連合軍第一大隊は鎧袖一触でこれを破り、大田原道を進み一気に大田原城城下町に突入します。城下町東端の経塚木戸付近に大田原藩兵は土塁を築いて、会幕連合軍の攻撃を迎え撃ちます。しかし幾ら土塁が在っても火縄銃装備の大田原藩兵では、火力も兵数も会幕連合軍に劣り劣勢に追い込まれます。それでも昼過ぎまでは戦線は保っていましたが、やがて雨が強くなると、大田原藩兵が所有する火縄銃は使えなくなり、城を目指して撤退します。

  

左:乃木神社内に流れる蟇沼用水。この現乃木神社周辺の石林村が、大田原藩兵の第一の防御ラインとなりました。
右:会幕連合軍第一大隊と、大田原藩兵が抗戦した経塚村の現況。画面右手の神社は経塚稲荷神社。

  

左:経塚木戸付近。この画像は経塚村で大田原藩兵を撃破して、大田原道を進み経塚木戸付近に攻めかかる会幕連合軍側の視点から撮影しています。
右:蛇尾川対岸から見た大田原城址の現況。

新田木戸・城下町南方の戦い
 同じ頃には城下町南方の戦線も、会津藩兵の攻撃により崩れ始め、三番隊長の大田原鉄之進が城下町内の正法寺付近で戦死した事により、こちらの守備兵も城目指して撤退します。尚、大田原藩兵は城内に撤退する際、「時の鐘」と呼ばれる鐘を打ち鳴らしたので、町民達は会幕連合軍が殺到する前に避難する事が出来、人的な損害は少なかったと言います。ただし城下町の家屋自体は、会幕連合軍が火を放った事により城下町は灰燼と化しました。

   

左:奥州街道と日光北街道が合流する、大田原城下町南方の玄関口である新田木戸跡の碑。
右:新田木戸跡の現況。画像右の道が奥州街道、左の道が日光北街道で、この場所で合流して画面正面の大田原宿内に入ります。新田木戸はまさにこの正面に存在していたと思われます。

  

左:南側から大田原宿を見て。会津藩兵はこの道を辿って大田原城を目指しました。
右:大田原宿下町跡の碑。

  

左:大田原鉄之進が戦死した付近に建つ正法寺。
右:正法寺北東に建つ金灯籠。この金灯籠は経塚木戸から大田原城大手門に至る道と、新田木戸から大手門に至る道の合流地点に建てられており、当時はこの場所でも攻防戦が行われたと考えられます。尚、金灯籠自体は戊辰戦争時から建っていたものの、太平洋戦争の際に軍に供出されてしまった為、現在建っているのはレプリカです。

  

大手門付近の現況。

  

大手門跡と時報鐘跡の説明板。

大田原城攻防戦関連地図
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大田原城の戦い
 かくして大田原藩兵は城内に後退し防戦を開始、この頃には呼び戻ししていた一番隊と二番隊も大田原城に到着し、大田原藩兵は総出で大田原城の防衛戦に当たります。しかし大田原藩兵が城内に退却した事により、会幕連合軍も大田原城で合流出来、一番隊と二番隊が戻ってきたと言っても、まだまだ会幕連合軍の方が大田原藩兵を三倍近く兵数で上回っていました。その数の優位を活かした攻撃で、第一大隊は大久保門を突破、会津藩兵の一部も清水門を突破した事により、戦いは城内戦に移ります。

  

左:金灯籠から更に奥州街道を北上すると、大田原城の横を通り蛇尾川に至りますが、江戸時代の奥州街道この場所で強制的に左に曲がります。
右:またこの場所で強制的に右に曲がる、クランク状のいわゆるカギ道でした。これは城下を攻めにくくする為の構造で、大田原城攻防戦でも効果を発揮したと思われます。

  

左:この辺りの奥州街道沿いは江戸時代中は寺町と呼ばれ、当時は寺が密集していました。
右:寺町を抜けると、道は再びクランク状になります。このクランク状の左右には、江戸時代中は土塁と木戸が在ったとされ、これ以上の敵軍の阻止を阻む構造になっていました。

  

先ほどの木戸を超えると、城内に続く大久保門に繋がる道が在ったとされています。画像のどちらかの道が大久保門に繋がる道だと思いますが、判りませんでした。

  

左:清水門付近の現況。
右:大久保門と清水門の間に位置する華陽門付近の現況。この華陽門を抜けて二の丸に繋がる坂下門に至るのですが、ここでもクランク状のカギ道が見られます。

  

左:二の丸の南側、大田原城の最南端に位置する稲荷曲輪跡。
右:稲荷曲輪跡から見下ろした大田原市市街。

坂下門の戦い
 会幕連合軍は三の丸と西の丸も攻め落とし、坂下門に殺到します。この坂下門はいわゆる枡形のキルゾーンになっており、大田原藩兵は関ヶ原の戦いの際に徳川家康から与えられた「権現筒」と呼ばれる大筒まで持ち出して防戦を続行、会幕連合軍に犠牲を強います。また組頭早川永宣も土塁上から太刀を振るって、会幕連合軍の侵入を阻止するものの、会幕連合軍も攻撃を諦めず、猛攻を続けた為に早川は戦死し坂下門も落ちた為、残るは二の丸と本丸だけとなりました。

  

左:坂下門跡を見下ろして。敵軍が直進出来ない枡形状になっているのが判ります。
右:本丸〜二の丸間の堀切跡。

両軍撤退
 大田原城の落城も間近と思われた夕方、突如城内の作事小屋が轟音を立てて爆発します。これは白河城の戦いに備えて、作事小屋に集めておいた火薬類が、会幕連合軍が火を放った為に引火したからでした。二の丸内に攻め込み大田原城を落城寸前まで追い詰めていた会幕連合軍でしたが、この作事小屋の爆発の頃になると、これ以上攻撃を続けて大田原城を奪取しても、損害の多さから大田原城を保つ事が出来なくなると判断して、大田原城から撤退を開始しました。谷口四郎兵衛日記によれば、この判断は会幕連合軍の一部が勝手に戦場を離れて、関谷宿に撤退してしまった事による兵力不足も影響したように思われます。「吾兵入城スルト雖少兵タレハ、フセク不能ヲ知リ、其上砲兵余兵皆半先ニ、城ヨリ三里放ル関屋村ニ行テ待(谷口四郎兵衛日記)」

  

左:二の丸跡
右:二の丸から本丸に繋がる土橋。二の丸側の出口には冠水門、本丸側の入り口には台門が在りました。

 会幕連合軍が攻撃を諦めて撤退したので、大田原藩兵が城を守りきったのかと言えばそうではなく、会幕連合軍の攻勢をこれ以上支える事は出来ないと判断した大田原藩首脳部は、これ以上の防戦を諦めて、少数の警戒兵を城内に残す他は搦手門から脱出させます。蛇尾川を渡河して対岸の中田原山に藩兵を集結させて、夜襲により大田原城を奪回するのが目的だった模様ですが、大田原藩兵もまた一時的大田原城から撤退した形になりました。「城中司令使勢兵差置、一旦総勢、城地裏寅卯之方中田原山ヘ引揚、賊軍擧動ニ寄、再戦夜軍ノ用意罷在候處(『復古記』第十一巻 678頁)」

  

左:本丸跡の現況。
右:本丸土塁跡。

  

左:本丸跡から大田原市市街を見下ろして。
右:本丸跡から蛇尾川を見下ろして。

    

左:本丸の北に位置する、北の丸跡。大田原藩兵はこの北の丸を経て、搦手門から脱出しました。
右:搦手門付近の現況。

 かくして大田原城攻防戦は、攻撃側は大田原城の攻略を諦めて撤退し、防御側も大田原城の死守を諦めて撤退すると言う、戊辰戦争史でも珍しい「両軍撤退」との結末となりました。翌三日には撤退していた大田原藩兵が大田原城に戻り、再び「時の鐘」を打ち鳴らした事により避難していた町民も戻ってきたので、かろうじて大田原藩は領内の支配権を失わずに済んだのです。
 そして大田原城を攻め落とせなかった会幕連合軍は、再び三斗小屋宿に戻り、以降は二度と那須山麓から出てくることはなかったので、那須山麓の戊辰戦争は終わりを告げたのです。三ヶ月後の八月には、今度は新政府軍が三斗小屋宿に攻め込むのですが、それはまた別の機会に書かせて頂きたいと思います。 

  

  

左:板室宿側の三斗小屋宿入り口の現況。
右:同入り口付近に建つ、戊辰戦戦争戦死者の墓。


大田原城攻防戦の考察

 会幕連合軍が大田原城を落城寸前まで追い詰めたものの、結局落とせなかった事の理由としては、前述した(伝習)第一大隊の戦力低下が大きかったと思われます。この戦いでは第一大隊がシャスポー銃を持っていなかった事も影響しているかもしれませんけれども、そもそも相手の大田原藩兵が装備するのは火縄銃だったのですから、ヤーゲルやゲベールでも十分火力で優勢だった筈です。しかし第一大隊が大田原藩兵を火力で圧倒出来なかったのは、この日の戦いが雨中で行われたのが影響したのではないでしょうか。火縄銃にしろゲベールにしろヤーゲルにしろ、前装式な以上は雨には弱く、発射出来なければ幾ら火縄銃よりも射程が長くても意味が無かったと考えます。
 また各小隊を有効に指揮する士官不足が大きく影響していると思います。当時士官を補充するのは難しく、特に特定の藩の正規兵ではない幕府歩兵にとっては不可能だったと言えましょう。この士官不足が、かつての大鳥軍のお家芸だった小隊毎の機動戦を実現出来なくなった理由だと考えています。
 そして兵数で勝る会幕連合軍が少数の大田原藩兵を圧倒出来なかった事に関しては、会幕連合軍の戦意を疑ってしまいます。これは前述の『谷口四郎兵衛日記』に書かれていたように、友軍が大田原城を攻撃する中、勝手に戦場から離脱する兵が少なからず居た事からも察する事が出来ます。大田原城を占領しても、これを保持する兵力が居ないから攻撃を辞めたと『谷口四郎兵衛日記』に書かれていますが、一方で勝手に戦場離脱した兵が居た事は、結束力の弱さが露呈してしまったと言えましょう。
 結局の所、弾薬にしろ人員にしろ自前で調達する事が出来なく、また藩と言う権力の影響下に存在しないが為、窮地に陥ると結束力が弱くなると言う、流浪の軍勢である大鳥軍(会幕連合軍)の弱点が全て出てしまったのが敗因と言えるのではないでしょうか。もっとも、この結束力の弱さについては奥羽越列藩同盟軍全体の欠点と言えるでしょうが...。

 歴史にIFは禁物ですが、もし会幕連合軍が大田原城を攻略していれば、白河戦線にある程度の影響を与えたと思います。確かに前日に伊地知が白河城を攻略しており、仮に大田原城が落城して奥州街道の補給線が分断されたとしても、黒羽藩からの補給ルートは健在なので、すぐに白河城の補給が潰えると言う事はないでしょう。しかしこの時点で宇都宮城や黒羽城に残存する兵力単独では大田原城を奪回するのは難しいので、今市宿に居る板垣支隊が来るまでは大田原城で奥羽街道の補給線の分断は続けられたでしょう。そうなれば少なからず後の、奥羽越列藩同盟軍による白河城攻撃に影響を与えたと思いますので、この会幕連合軍による大田原城攻撃が失敗に終わった事による、白河戦線に与えた影響は決して少なくなかったと考えます。そしてその攻撃失敗が、半ば会幕連合軍の自滅が原因なのを考えると、語弊がある言い方ですが「勿体ない戦いだった」と思ってしまう次第です。

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主な参考文献(第一章から後第五章まで通じて)

『戊辰役戦史』:大山柏著、時事通信社
『復古記 第10巻・11巻』:内外書籍
『三百藩戊辰戦争辞典』:新人物往来社編

『北関東戊辰戦争』:田辺昇吉著、松井ピ・テ・オ印刷
『戊辰戦争』:大町雅美著、雄山閣
『下野の戊辰戦争』:大嶽浩良著、下野新聞社
『那須の戊辰戦争』:北那須郷土史研究会編、下野新聞社
『栃木の街道』:栃木県文化協会

『薩藩出軍戦状 1・2』:日本史籍協会編
『伊地知正治日記』:静岡郷土研究会(維新日誌第2期第2巻収録)
『板垣退助君伝』:栗原亮一編纂、自由新聞社
『谷干城遺稿』:島内登志衛編纂、靖献社
『流離譚』:安岡章太郎著、新潮社
『土佐藩戊辰戦争資料集成』:林英夫編、高知市民図書館
『鳥取藩史 第1巻』:鳥取県編、鳥取県立図書館
『鳥取県史』:鳥取県編
『鳥取県郷土史』:鳥取県編、名著出版
『鳥取市史』:八村信三編、鳥取市役所
『丹波山国隊史』:水口民次郎著
『山国隊』:仲村研著、中公文庫
『佐賀藩戊辰戦史』:宮田幸太郎著、マツノ書店
『幕末維新の彦根藩』:佐々木克編、彦根市教育委員会
『大垣藩戊辰戦記』:鈴木喬著、鈴木文庫
『北武戊辰小嶋楓処・永井蠖伸斎伝』:小島慶三著
『戊辰日記』:県勇記著、東大史料編纂所データーベース
『宇都宮藩を中心とする戊辰戦史』:小林友雄著、宇都宮観光協会
『維新と大田原藩』:益子孝治著、大田原風土記会

『南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記』:新人物往来社
『大鳥圭介伝』:山崎有信著、マツノ書店
『北戦日誌』:浅田惟季著
『慶応兵謀秘録』:静岡郷土研究会(維新日誌第2期第2巻収録)
『野奥戦争日記』:静岡郷土研究会(維新日誌第2期第2巻収録)
『谷口四郎兵衛日記』:新人物往来社(続新撰組史料集収録)
『野州奥羽戦争日記』:山口県毛利家文庫
『別伝習書記』:伊南村史第3巻資料編2収録
『沼間守一』:石川安次郎著、大空社
『陸軍創設史』:篠原宏著、リブロポート
『幕府歩兵隊』:野口武彦著、中公新書
『会津戊辰戦史』:会津戊辰戦史編纂会
『泣血録』:中村武雄著
『鶴ヶ城を陥すな〜凌霜隊始末記〜』:藤田清雄著、謙光社

『下野史料 第38号』:下野史料保存会
『下野史談 第2巻2号』:下野史談会
『栃木県史 通史編5・6』:栃木県史編纂委員会編
『栃木縣史 第8巻 戦争編』:下野史談会
『宇都宮市史 第五巻近世史料編 2』:宇都宮市史編纂委員会編
『宇都宮市史 第六巻近世通史編 1』:宇都宮市史編纂委員会編
『小山市史 通史編2』:小山市史編纂委員会編
『壬生町史 通史編2』:壬生町編
『笠間市史 上巻』:笠間市史編纂委員会編
『結城市史 第5巻』:結城市史編纂委員会編 
『いまいち市史通史編3』:今市市史編さん委員会編集
『日光市史下巻』:日光市史編さん委員会編
『真岡市史第7巻』:真岡市史編さん委員会編
『鹿沼市史 通史編近現代』:鹿沼市史編さん委員会編
『塩原町誌』:塩原町史編纂委員会編
『大田原市史 前編』:大田原市史編纂委員会編
『藤原町史 通史編』:藤原町史編纂委員会


参考にさせて頂いたサイト
幕末ヤ撃団様内「戊辰戦争兵器辞典」
天下大変 -大鳥圭介と伝習隊-様内 記事全般

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