野州戦争 第五章
慶応四(1868)年六月二十五日〜六月二十六日)

鬼怒川渓谷の戦い 会津西街道の隘路を巡る攻防戦

鬼怒川渓谷の戦い関連地図
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鬼怒川渓谷戦線の地形について

 鬼怒川渓谷の戦いは野州戦争第三章の舞台となった今市宿から、会津若松に至る会津西街道沿いで行われました。今市宿を出た会津西街道は大桑宿を経てしばらく北上し、鬼怒川を渡ると鬼怒川東岸を北上するのですが、鬼怒川を渡るとすぐに位置していたのが高徳宿でした。高徳宿は東の山地と西の鬼怒川に挟まれた狭い隘路の入り口に位置しており、その後も会津西街道は東側の山地と、西側の鬼怒川に挟まれた渓谷による狭い隘路を通って北上します。高徳宿の次は大原宿、大原宿の次は藤原宿と続きますが、鬼怒川渓谷の戦いでは、この三つの宿場が戦場となりました。高徳宿と藤原宿は共に狭い隘路に位置していましたが、唯一大原宿のみ開けた地形に位置していたのも地形的な特徴です。このように狭い隘路沿いで行われたのが、鬼怒川渓谷の戦いです。

大原宿の遠景。奥の開けた大原宿に対して、手前の会津西街道に入ると細い隘路になっていくのが判ると思います。


会幕連合軍の戦略転換

 鬼怒川渓谷の戦いは、今市宿の戦いに端を発します。閏四月に会津藩領田島宿で結成された会幕連合軍の中で、総督である大鳥圭介が直率する第二・第三大隊は会津西街道を南下して今市宿の占領を目指します。しかし閏四月二十一日と五月六日の二度にわたる今市宿の攻防戦で、板垣退助率いる土佐藩兵に敗れた会幕連合軍第二・第三大隊の損害は甚大で、一旦同じく会津西街道沿いの藤原宿・大原宿・高徳宿に後退しました。
 今市宿攻防戦での会幕連合軍の損害は大きく、死傷者合わせて120名を超えたと伝えられます(*01)。田島宿での再編成時には350名の人員だった会幕連合軍第二大隊(旧伝習第二大隊)の損害は甚大で、隊員数は200名を割り江戸脱走時は八個小隊編成だった同隊も四個小隊に再編せざるを得ませんでした(*02)。損害が甚大だったのは第三大隊(旧幕府歩兵第七連隊・旧御料兵)も同じで、他の部隊に派遣していた同隊の士官や兵士を呼び戻す事態に陥っています(*03)。このような損害から、会幕連合軍はそれまでの方針である今市宿の攻略を諦めて、藤原宿・大原宿・高徳宿等の鬼怒川渓谷の隘路による持久戦に戦略を転換し、白河口の同盟軍の攻勢を待つ事としました(*04)
 どこかの藩に所属している訳ではない旧幕府歩兵には、人的不足を補充する術もないので、総督である大鳥は補充の為に農兵を徴募しようと五月十五日に会津鶴ヶ城へ向かいます(*05)。大鳥の鶴ヶ城城下滞在は五日近くに及び、その間に松平容保や元老中の小笠原長行(奥羽越列藩同盟の参謀に就任)と面会し、今後の方針について意見具申するものの、ことごとく却下されたと述べています(*06)。大鳥は藤原宿に五月二十日に帰還するものの、農兵による徴募は鬼怒川渓谷の戦いには間に合わなかった模様です。ただし農兵の徴募は間に合わなかったものの、尾頭道(塩原街道)の塩原宿に駐屯していた草風隊を呼び寄せて戦力の増強を図りました(*07)
 人員不足に苦しむ会幕連合軍でしたが、食糧難にも見舞われていました。主食の米や、味噌・醤油・酒こそ田島宿から輸送してこれましたが、副食の類いは現地調達するしかありませんでした。しかし農地の少ない鬼怒川両岸の集落から調達する事も出来ず、兵士達自身が鬼怒川の魚を捕ったり、キノコや果てはカエルを捕って食せざるを得なく、兵士の士気は下がっていました(*08)。そのような過酷な環境の中、今市宿攻防戦で活躍した沼間守一が会幕連合軍からを去って会津に向かいます。沼間が去った原因は、大鳥と沼間で意見が合わなかった為と思われますが(*09)、首脳部の離脱は兵士達の士気に更なる悪影響を与えたのではないでしょうか。また大鳥は兵士達の士気低下を防ぐ一方で、地元民の支持を失っては長期戦は不可能だと、兵士達の民衆への乱暴狼藉を防ぐのにも腐心しており、船生宿への放火を指示した会津藩士を罰しています(*10)
 苦悩続きの会幕連合軍だったものの、久々に好事が訪れます、六月初旬に江戸から小銃などが補充されたのです。この時補充された小銃の中には後装銃も含まれていました(*11)。この後装銃がシャスポー銃なのかスナイドル銃なのか、その他の銃なのかは判りませんが、会津藩から補給を受けている以上、これまでゲベール弾やヤーゲル弾で戦っていたと思われる会幕連合軍にとっては心強い物だったでしょう。また後装銃以外の「小銃」も江戸から送られてきたと言うのを考えればミニエー銃と判断して良いかと思います。そして「平等に分配し大に安心せり」と言う記述からも、弾丸雷管もある程度の数は補充されたと思われます。またこの時軍服や乾魚も供与されたらしく、兵士の士気もある程度は回復したのではないでしょうか。
 沼間は前述のとおり会津に去りましたが、会幕連合軍に滞在中に大原宿などに陣地を構築して、防備を固めていました(*12)。このように苦悩続きの会幕連合軍だったものの、六月過ぎには装備についてはかなりの改善がされ、陣地の構築も進み、着実に戦闘準備を進めていたと思われます。そして、これが後の鬼怒川渓谷の戦いの結果に繋がっと思われます。


新政府軍 日光・今市宿の守備兵交代と、佐賀藩兵の攻撃計画

土佐藩兵と佐賀藩兵の交代
 閏四月二十一日と五月六日の二度にわたる今市宿攻防戦で、会幕連合軍の攻勢を撃退した土佐藩兵だったものの、土佐藩兵を率いる板垣退助は、攻めるに難し守るに易い鬼怒川渓谷の藤原口の地形を考えて、自分から攻勢に出る事はなく、しばらく会幕連合軍と土佐藩兵は鬼怒川を挟んで睨み合いの状況が続いていました。一方、伊地知正治率いる東山道軍本隊の奮闘により、奥羽越列藩同盟軍から白河城の奪回に成功した新政府軍だったものの、伊地知隊の戦力だけでは白河城を確保するだけで精一杯で、それ以上の攻勢に出る余力はありませんでした。この状況を受けた大総督府は、白河口で攻勢に出る為に精鋭である土佐藩兵を、今市宿から白河口に転進させる事に決定します(*13)
 一方、土佐藩兵が転進した後の今市宿守備担当となったのが佐賀藩兵でした。元々佐賀藩兵は、三月に新たに設置された横浜裁判所の副総裁に任じられた藩主鍋島直大に従って、外人居留地である横浜に駐屯していたのですが、五月七日に大総督府は直大を新たに下野と下総の鎮撫使に任命したので、直大は下野に佐賀藩兵を転進させたのです。これを受けて五月十五日には先発隊となる鍋島鷹之助大隊が今市宿に到着、入れ替わるように土佐藩兵は順次白河口に転進し、十七日には全ての土佐藩兵が今市宿を去りました。

宇キ宮藩兵の再編
 四月十九日の第一次宇都宮城攻防戦にて、大鳥軍の攻撃を受けて居城を失った宇キ宮藩兵だったものの、宇都宮城自体は四月二十三日の第二次宇都宮城攻防戦で奪回する事が出来ました。しかし第一次宇キ宮城攻防戦で大鳥軍に散々に打ち負かされた宇キ宮藩兵は装備の大半を失い、その軍容を立て直す前に新政府東山道軍により宇キ宮城が奪回されてしまい、宇キ宮藩は面目を失う事になります。更に宇キ宮藩兵にとって痛手だったのは、二度にわたる攻防戦で宇都宮城と城下町は戦火により灰燼と化してしまい、居城に戻ったものの、宇キ宮は策源地としての機能を失っていた事です。かくして居城を回復したものの、宇キ宮藩は多くの死傷者を出し、装備も失った藩兵の再編成よりもまず先に、家や家財や財産を失った藩士家族や、領民の救済からまず着手せざるを得なかったのです。この為に宇キ宮藩首脳部は東山道軍や大総督府から、当面の生活資金や食料の貸与に奔走し、藩兵の再編成に着手出来たのは五月になってからでした。五月八日、宇キ宮藩家老県勇記は江戸に行き、宇キ宮藩の窮状を訴えて、更なる金銭や食料の貸与を求めると共に、小銃類の装備の貸与を求めました。これを受けて十四日に大総督府を実質的に率いる大村益次郎(軍務官判事)から、小銃類の貸与を受けました。この時に県が受け取った小銃の種類と数は判りませんが、『戊辰日記』に「ミニエー銃が三十挺」との表記があるので、全てではないにしろミニエー銃が含まれていたのは間違いないと思われます。この大総督府から貸与された装備により、宇キ宮藩の軍容はようやく整う事になり、軍事行動を行うのが可能になったのです。

佐賀藩兵の装備
 後年「薩長土肥」と称される、明治維新の殊勲藩とされる佐賀藩ですが、幕末における活動よりも、その後の戊辰戦争での活躍と、初期の明治新政府に多くの有能な人材を供出した事を評価されて、「薩長土肥」と称されたと思われます。
 そのような多くの軍功を挙げた佐賀藩兵の特徴は装備の優良さです。海外との玄関口である長崎考の警護を任されていた経緯もあり、西洋の最新技術に触れていた佐賀藩兵は、第十代藩主鍋島真直正の指導もあり、早い時期から藩兵を銃隊への編成に切り替えていました。また単に藩兵を銃隊化するだけに留まらず、装備する小銃も最新鋭でした。他の先進的な西南諸藩が前装施条銃のミニエー銃を装備し始めた時に、既に佐賀藩兵は後装施条銃のスナイドル銃やスペンサー銃の調達を始め、戊辰戦争参戦時には全兵ではないものの、多くの兵がスペンサー銃を装備していました。佐賀藩兵の優良装備は小銃だけでもなく、大砲に関しても優れていました。半ば佐賀藩兵の代名詞と言うべきアームストロング砲ですが、破壊力その物よりも射程距離と命中精度の良さが特徴的だったと思われます。何より佐賀藩が優れていたのはこのアームストロング砲や、当時の主流砲の四斤山砲を自製出来た事が佐賀藩の技術力を示していると思います。
 このように藩主の先見性と技術力に裏打ちされた佐賀藩兵は優良装備を誇り、野州に出兵してきたのです。

佐賀藩兵出兵に至るまで
 今市宿の守備を佐賀藩兵と交代する際、土佐藩兵を率いる板垣退助は、佐賀藩兵に「今市の地、前に疊嶂を控ゆ、甚だ進むに利あらす、公等只だ宜しく固守して以て白河口の官軍が蹄を抜き鞭を揚くるの日を俟て、共に興にせよ、若し猶ほ之を察せずして、徒らに軽挙躍進せんか、卒に賊の術中に陥り、悔を他日に貽さんのみ(板垣退助君伝)」と忠告します。しかし『板垣退助君伝』によれば、佐賀藩は板垣の忠告に反して、藤原口への攻撃の許可を白河城に転進した板垣と、江戸の大村に求めたものの退けられたと書かれています(*14)。これが全て事実かは判らないものの、宇キ宮藩家老県勇記の日記に「藤原大原両村ニ賊兵多人数屯集スルヲ以テ本藩ノ兵肥前兵ト軍議シ」と書かれている事からも、藤原口への攻撃は大総督府の指示ではなく、佐賀藩が発案し宇キ宮藩との協議の元実施される事になったと思われます。かくして六月に佐賀藩兵と宇キ宮藩兵による藤原口への攻撃が決定します。


高徳宿・大原宿・小佐越村の戦い:六月二十五日

高徳宿・大原宿・小佐越村の戦い 戦闘要図
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佐賀藩兵の攻撃計画
 藤原口への攻撃を決定した佐賀藩兵は、六月二十三日以下の作戦計画を発令します(『佐賀藩戊辰戦史』より)。
 一:六月二十五日未明より進撃開始のこと。
 一:多久兵は応援のため船生付近まで進軍すること。
 一:宇キ宮藩兵は船生より出兵、藤原の裏手へまわり進撃する。
 一:彦根藩兵に対して、小百方面の出兵を要請する。
 一:本陣は柄倉に置く。
 一:相良十郎太夫を大砲隊総心遣とする。
 一:攻撃に関しては左記(原文は縦書き)の兵員及び大砲を随時配属する。アームストロング砲一門 四ポンド砲一門 ほかに三門、侍隊一隊 手明槍隊一隊 散兵隊ニ隊 足軽隊二隊
 一:弾薬は差しあたり大砲は四十発ずつ、小銃は六十発ずつ用意するが、不足のときは補充する。
 一:火薬類は種別を混同しないように「何々の玉薬」と板札に大書して付けておく。
 一:野戦病院は柄倉に設ける。 

 以上の計画に基づき、六月二十五日未明、新政府軍の佐賀藩兵と宇キ宮藩兵は行動を開始します。新政府軍は二手に分かれ、日光街道大沢宿に駐屯する鍋島監物率いる佐賀藩兵10小隊(石隈兵之助一番隊・徳永伝太二番隊・今泉十郎三番隊・星野惣右衛門四番隊・松井太郎五郎五番隊・古川喜平次六番隊・下村安左衛門七番隊・原口新兵衛八番隊・杉本健五郎撤兵隊・重松善左衛門手明槍隊。以降「鍋島監物大隊」と呼称)は鬼怒川を渡河した後に、日光北街道船生宿に駐屯する宇キ宮藩兵4小隊(桜井壮蔵・角田十郎二番隊、戸田小膳・戸田鑑之進六番隊、大屋兵右衛門・中村文蔵七番隊、向井鐘之助・中神銀之丞九番隊)と合流し、鬼怒川東岸を進軍し高徳宿を目指します。もう一方の日光街道今市宿に駐屯する佐賀藩鍋島鷹之助隊10小隊(以降「鍋島鷹之助大隊」と呼称)は大谷川を渡河後、鬼怒川の西岸の小佐越新道を北上します。

   

左:宇キ宮藩兵が駐屯していた、船生宿の現況。
右:宇キ宮藩兵が進軍した船生宿と高徳宿間の街道。道ばたに建つ石仏群が旧街道である事を表わしています。

会幕連合軍の守備配置
 進軍を開始した新政府軍の佐賀藩兵と宇キ宮藩兵に対して、一方の会幕連合軍の方は、総督である大鳥圭介が前日の二十四日から、山川大蔵との軍議の為に藤原宿より後方の五十里宿に出向いていた為に、各部隊が連携を取った行動をする事が出来ず、農民から新政府軍の接近を知らされた第三大隊(大隊長:加藤平内)単独で新政府軍と戦う事になります。高徳宿〜小佐越村の前線を守る第三大隊の布陣は、隘路の入り口に当たる会津西街道高徳宿に二番小隊と四番小隊、対岸の小佐越村に三番小隊と一番小隊の半小隊、高徳宿東側、つまり隘路入り口の山(便宜上、この山を以降は「高徳寺の裏山」と呼称します)の山頂に一番小隊の半小隊と言う布陣でした。この配置から、第三大隊も第二大隊に習って4個小隊編成に再編成しているのが判ります。

高原宿・小佐越村の戦い
 午前八時頃、監物大隊が高徳宿に到着、同宿を守る第三大隊の二番小隊と四番小隊と交戦を開始します。兵数では圧倒的に不利な第三大隊でしたが、事前に沼間の指導で構築したと思われる陣地に籠もって抗戦したので、数で上回る佐賀藩兵も中々突破出来ないでいました。また高徳寺の裏山の山頂に布陣する、第三大隊の一番半小隊と猟師隊に頭上からも射撃された為、監物大隊の攻撃は遅々として進みませんでした。
 しかし正午頃になると、西古屋村から山中を迂回する為に進んだ監物大隊の2小隊と宇キ宮藩兵4小隊による別働隊が高徳寺の裏山山頂に到着、山頂を守る一番半小隊と猟師隊と交戦し、これを追い払った事により、戦場を見下ろす高徳寺の裏山山頂を占拠します。今までは陣地に籠もり善戦をしていた第三大隊でしたが、山頂を占拠された事により胸壁の内側が直接射撃を受ける事になり、地の利を失った第三大隊は後方の大原宿に撤退します。これを追い、監物大隊も会津西街道を北上しました。
 一方、鬼怒川西岸の小佐越新道を進む鷹之助大隊も小佐越村に到着、同村を守る第三大隊の三番小隊と一番小隊の半小隊と交戦を開始しますが、同村にも陣地が構築されており、鷹之助隊は中々突破出来ないでいましたが、こちらも高徳寺の裏山が占拠された事により、陣地を守る第三大隊が動揺したので、これを追い払って小佐越村を占拠します。鷹之助大隊はその後、再び小佐越新道を北上しました。

   

左:高徳宿周辺の会津西街道の現況
右:高徳寺の裏山から見た、高徳宿の現況

   

左:高徳宿に建つ高徳寺と、高徳寺の裏山
右:高徳寺の裏山の遠景。佐賀藩兵と宇キ宮藩兵による別働隊がこの山を占拠、山頂から眼下の第三大隊の籠もる陣地を射撃した事により、第三大隊は撤退しました。

大原宿の戦い
 会津西街道大原宿は、高徳宿を出た後しばらく細い隘路が続いた後に、急に開けた土地に位置する宿場町でした。下野側の会津西街道沿いの集落で、ここまで開けた土地は他にはなく、高徳宿と小佐越村で敗れた第三大隊の将兵はこの地に結集します。また新政府軍の攻勢の知らせが届くと、会津西街道高原宿に駐屯していた回天隊と別伝習隊、同藤原宿に駐屯する草風隊が援軍として大原宿に向かいます。
 大原宿にも沼間が指導して築かれた陣地があり、撤退した第三大隊はこれらの陣地に籠もり防戦準備を整えます。やがて監物大隊が到着すると陣地を巡って攻防戦が行われ、特に下原村の陣地では激戦が繰り広げられたと伝えられます。しかし小佐越村を占領した鷹之助大隊が、鬼怒川の対岸からアームストロング砲を含む大砲隊による砲撃を開始すると、戦況は監物大隊の有利となります。ところが、この頃になると草風隊・回天隊・別伝習隊等の援軍も到着し、会幕連合軍も戦線を持ち直しつつあったものの、高徳寺の裏山から山伝いに進軍してきた別働隊が、再び山頂から陣地内を射撃すると、戦況は一転し、午後三時頃会幕連合軍は大原宿を放棄して藤原宿方面へ撤退します。
 大原宿を占拠した監物大隊だったものの、会幕連合軍が撤退した頃には雨が酷くなり、また日が暮れ始めた為に、それ以上の追撃は断念して、会幕連合軍が築いた陣地を破壊して、大原宿内の家屋に放火した後に、再び監物大隊は大沢宿に戻り、宇キ宮藩兵は船生宿に戻って宿陣します。尚、小佐越新道を進んだ鷹之助大隊は、難所である楯岩に阻まれて行軍が遅れてしまい、大原宿の対岸に位置する下滝村に放火した以外は、功績を挙げる事が出来ずに今市宿に帰還しました。

   

左:旧下原村の会津西街道の現況と、立場跡の松。立場が在ったと言う事は、下原村は物資輸送の継立村としての役目を持っていたと思われます。
右:激戦地となった下原村の現況。

   

左:旧大原宿の入り口付近の現在の会津西街道。南側からの大原宿の入り口に当たり、この分岐点を右に進むと大原宿に入りました。
右:旧大原宿と会津西街道の現況。

   

左:鬼怒川西岸に大きくせり出した楯岩。鬼怒川西岸の小佐越新道を進む鷹之助大隊はこの楯岩に阻まれて、中々前進が出来ませんでした。
右:高徳藩の陣屋跡。高徳宿と大原宿は、宇キ宮藩の支藩だった高徳藩領で、高徳宿の北方に陣屋を構えていました。しかし会幕連合軍の攻撃により陣屋は焼失し、現在は陣屋跡に社だけが建っています。

 話は遡り、五十里宿にて山川との軍議中に、新政府軍来襲の報を受けた大鳥は、五十里宿を慌てて飛び出し、指揮のために会津西街道を南下します(草風隊や回天隊に援軍を要請したのもこの頃でしょうか)。しかし五十里川が増水していた為に、中々進む事が出来ずに、ようやく高原宿に到着する頃には、同宿に大原宿から敗走してきた第三大隊の兵士と出会う事になりました。第三大隊の兵士から、戦いの詳細を知った大鳥は、第三大隊の不甲斐なさに憤りつつも(*15)、開けた土地である大原宿は守りに適さないと判断し(*16)、必ず翌日に新政府軍が再来すると判断して、大原宿〜藤原宿間の難所である小原沢の上流にて新政府を迎撃する事を決意します。かくして藤原宿を守っていた第二大隊と草風隊を、小原沢の上流に位置する帝釈天堂が建つ小山(便宜上、この山を以降は「帝釈天の小山」と呼称します)に移動させ、住民を総動員の上に徹夜の突貫工事を行い、同村に陣地を構築して新政府軍の来襲を待つ事になりました。尚、この日の敗戦で損害の大きかった第三大隊は、全兵を高原宿に後退させます。


小原村・滝村の戦い:六月二十六日

小原村・滝村の戦い 戦闘要図
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小原村周辺の地形について
 会津方面に向かう会津西街道は大原宿を抜けると、再び東側を山地、西側を鬼怒川の岸壁に挟まれた隘路を進みました。やがて藤原宿の手前に至ると、山地から流れ出て鬼怒川に注ぐ深い小原沢にぶつかります。現在の国道121号はこの小原沢に橋を架けて北に直進しますが、江戸時代の会津西街道は、小原を避けてモウキ山沿いに東に迂回して、小原沢が渡河出来る浅さの場所まで屈曲します。こうして屈曲した会津西街道は小原村辺りで小原沢を渡河すると、帝釈天の小山沿いに再び屈曲するようにして北進して、藤原宿に入りました。

   

左:モウキ山の遠景。矢印は会津西街道で、開けた大原宿を過ぎた当たりから、細い隘路となった会津西街道がモウキ山に沿って屈曲しているのが判ると思います。
右:モウキ山の麓を拡大。屈曲した会津西街道が、帝釈天の小山に当たって更に屈曲しているのが判ると思います。


会幕連合軍の戦闘準備
 前述のように帝釈天の小山に突貫工事で塹壕を構築した大鳥は、伝習第二大隊(大隊長:大川正次郎)・伝習士官隊(隊長:滝川充太郎)・草風隊(隊長:村上求馬)を以下のように布陣しました。帝釈堂の小山には伝習第二大隊の三番小隊と四番小隊、そして草風隊の半分が守りを固めさせ、帝釈天の小山南東の山に草風隊のもう半分と伝習士官隊が布陣しました。一番小隊の半分が藤原宿から高徳宿へ繋がる間道に布陣し、残りの半分が藤原宿本營を守ります。そして二番小隊を、船生宿からの間道が繋がる三上ノ原村を守らせます(*17)。
 この布陣の特徴は、東側の山地からの迂回攻撃を警戒して、間道に兵力を割いた事でしょう。これは前日の高徳宿と大原宿の戦いでは、東側の山地からの迂回攻撃により損害を受けたので、前日と同じ轍を踏まないように迂回部隊を警戒した布陣になったと思われます。他に戦力としては藤原宿の後方の高原宿には別伝習隊と回天隊が駐屯しました。また前日の戦いで損害を受けた第三大隊も高原宿に引揚げています。

   

左・右:帝釈天の小山に今も残る、会幕連合軍の陣地跡。斜面を削って、段々の塹壕が築かれているのが判るかと思います。

   

左:同じく帝釈天の小山に築かれた陣地跡。この角度から見ると、帯状の塹壕になっているのが判るかと思います。
右:同じく帝釈天の小山の山頂に築かれた指揮官の塹壕跡(?)。大川正次郎か滝川充太郎が入っていたのでしょうか?。


佐賀藩兵と宇キ宮藩兵の出兵
 六月二十五日の戦いで大勝利を挙げた佐賀藩兵でしたが、同じ佐賀藩兵の中でも鍋島監物大隊が戦果を挙げたのに対して、鍋島鷹之助大隊は殆ど戦果を挙げる事が出来ませんでした。この為に同日夜半、鷹之助は監物に翌日の追加攻撃を呼びかけるものの、監物は同日の戦いで配下の将兵が疲れ、また武器衣服も濡れているからと呼びかけを断ったので、鷹之助は自分の大隊単独での攻撃を決意して、宇キ宮藩にも援軍を要請して、翌日二十六日午前八時頃に二手に分かれて進軍を開始します。鷹之助自身が率いる本隊(足軽隊五小隊、手回り隊二小隊、アームストロング砲を含む大砲三門)は前日と同じく鬼怒川西岸の小佐越新道を北上します。一方庄島清左衛門が率いる別働隊(平士一小隊、手回り一小隊、深川隊、木砲二門)は鬼怒川を渡河して東岸に渡った正午頃、斥候に出ていた宇キ宮藩兵一小隊(彦坂孝二郎一番隊)と出会い合流した上で、共に鬼怒川東岸の会津西街道を北上しました。

小原村・滝村の戦い
 鬼怒川東岸の会津西街道を進む別働隊は午後過ぎにモウキ山の麓に到着しますが、ここで会幕連合軍の哨戒兵(伝習隊か草風隊のどちらかは不明)と遭遇。山上から射撃を受けた為、それ以上の進軍を阻まれる事になります。この鬼怒川東岸から銃声がするのを聞いた、鬼怒川西岸の小佐越新道を北上する鷹之助大隊の本隊は対岸に向けて砲撃を開始。これを受けて山上の哨戒兵が後退した為、別働隊は更に会津西街道を行軍します。

   

左:麓から見たモウキ山。会幕連合軍はこのモウキ山に哨戒兵を配置していました。
右:モウキ山の「大べつり」。この辺りはモウキ山の山裾がせり出し、反対側が崖になっている難所で、兵力を散開させる事が出来ずに佐賀藩兵は苦戦します。

   

左:現在はデイサービスセンターになっている、藤原宿の本陣跡。当時大鳥圭介はこの本陣に宿陣していました
右:藤原宿周辺の会津西街道。戦端が開かれたのを知った大鳥は、この道を駆け抜けて小原村を目指します。

 上記したように、モウキ山を過ぎた辺りで会津西街道は、深い谷になっている小原沢を避けるように東側に屈曲して進むようになります。この屈曲の為に会津西街道を進む佐賀藩兵・宇キ宮藩兵による別働隊からは帝釈天の小山に布陣する会幕連合軍の姿を見る事が出来なく、また小原沢に阻まれて散開も出来ないので、浅くなった小原沢を渡れる地点に着いた所で、ようやく間近となった帝釈天の小山を視認する事が出来たのです。一方指揮を執る大鳥は、配下の将兵達に「敵を引きつけた上で攻撃するように」指示していたので、佐賀藩兵・宇キ宮藩兵がようやく小原沢に到着した頃、隠れていた伝習第二大隊による射撃が一斉に行われて、佐賀藩兵と宇キ宮藩兵は大混乱に陥りました(*18)。この時の伝習第二大隊は前述のとおり、後装銃やミニエー銃を装備していて装備が改善されており、その伝習第二大隊が帝釈天の小山と、その南東の山上から十字砲火を浴びせたので、これにはスペンサー銃を装備する佐賀藩兵と言えども対抗するのは難しく大損害を出すことになります。

   

左:モウキ山(右側)の山裾に沿って進む会津西街道。この時点では大きく左に屈曲した先に在る、帝釈天の小山は見えません。
右:小原沢に当たって屈曲した当たりで、ようやく帝釈天の小山(中央の林)が見えますが、小原沢によって散開する事も出来ず、小山に籠もる伝習第二大隊と草風隊の射撃に晒されるのが実感出来ます。

   

左:帝釈天の小山から見た会津西街道。帝釈天の小山の前で大きく屈曲し、帝釈天の小山が死角になっているのが実感出来ます。
右:帝釈天の小山から会津西街道を見下ろして、小山に布陣する伝習第二大隊と草風隊からすれば、狭い隘路を進軍する佐賀藩兵と宇キ宮藩兵は絶好の的だったと言うのが実感出来ます。

 一方で鬼怒川東岸を進んでいた鷹之助大隊の本隊は、難所である楯岩を乗り越え、滝村に駐屯していた少数の会幕連合軍(会津藩兵か?)を追い払い同村を占領していました。同村の和田沼にアームストロング砲を含む砲兵を配置している最中に、再び鬼怒川東岸から激しい銃声がするのを聞いた為、援護のために再び鬼怒川東岸目指し砲撃を開始します。しかし直接照準した砲撃では無く、あくまで銃声を頼りにした砲撃では流石のアームストロング砲と言えども、川岸から離れて山に囲まれた帝釈天の小山に布陣する伝習第二大隊や草風隊に損害を与える事は出来ませんでした。逆に大鳥の指示により高原宿から進出した回天隊が、川岸から対岸目指して射撃を行う事により(*19)鷹之助大隊を牽制する状態になり、窮地に陥る別働隊に効果的に援護が出来ない状態となります。

   

左:小原沢近くの鬼怒川の現況。佐賀藩兵の砲兵は西岸(右側)から、東岸(左側)に向けて川越しに砲撃を行います。
右:佐賀藩兵の砲兵は和田沼、現在のロープーウエイ乗り場辺りから砲撃を行います。

   

左:弾除けの松跡。鬼怒川西岸から行われた砲撃から、会津藩兵がこの松に隠れて逃れたとの伝承があります。
右:弾除けの松の説明板。場所は帝釈天の小山から、会津西街道を更に北上した場所に位置します。

 この期を逃さず、最前列の塹壕に伏せていた草風隊が、隊長の村上求馬の指令により銃剣を着剣して突撃を開始、それに続いて間道の守りに当たっていた浅田惟季率いる一番隊を始めとした伝習第二大隊も突撃を行ったので、小原沢の畔で壮絶な白兵戦が展開されます。勢いが会幕連合軍側にあった上に、純粋にこの戦場では伝習第二大隊・草風隊の方が、佐賀藩兵・宇キ宮藩兵よりも兵力で上回っていた為、佐賀藩兵・宇キ宮藩兵は総崩れになり大原宿方面に向けて敗走しました。これに対して、高原宿から増援に駆けつけた別伝習隊も加わった会幕連合軍は大原宿まで追撃を行い、この為に佐賀藩兵・宇キ宮藩兵は多くの死傷者を出す事になります。大原宿には鷹之助大隊の攻撃を知った監物大隊の内の三小隊が、援軍として向かっていたものの、大原宿から敗走する鷹之助大隊の姿を見て、共に敗走する事になりました。

   

左:小原沢の上流。この後小原沢は深い谷になる為、当時のこの周辺の会津西街道は一人しか通れる道幅しかありませんでした。
右:現在この周辺の会津西街道は戊辰街道として整備され、解説版も設置されています。

 一方この頃、高原宿に残っていた第三大隊の一番小隊と三番小隊が、鬼怒川の龍王峡内の兎跳に橋を架けて鬼怒川を渡り(*20)、小佐越新道を南下して滝村に駐屯している鷹之助大隊の本隊に襲い掛かりました。兵力の上では鷹之助大隊の本隊の方が上回っていたものの、高所を第三大隊に押さえられたのと、或いは鬼怒川東岸での別働隊の敗走を知ったのか、第三大隊の攻撃を受けて動揺し武器を捨てて敗走しました。この時に遺棄された大砲の中にアームストロング砲が有ったのかどうかは議論が分かれる所ですが、かなりの数の小銃と大砲が会幕連合軍に鹵獲されたのは間違いない模様です(*21)。また敗走時に川船で逃れようとした者も居た模様ですが、激流により転覆して犠牲者を出しました。

   

左:龍王峡の現況。
右:兎跳の現況。この川幅が狭まっている場所に、第三大隊は橋を架けて鬼怒川西岸に渡ります。

 かくしてこの日の戦闘は鬼怒川東岸・西岸の両方で会幕連合軍の大勝利に終わりました。会幕連合軍の戦死者は、小原村の白兵戦の際に戦死した、草風隊隊長である村上求馬を含めて三名に過ぎないものでした。ただし戦死者と負傷者を含めて草風隊の損害が多く、小原村の白兵戦が草風隊主体で行われ、かつ激戦だったのを察する事が出来ます。
 一方佐賀藩兵と宇キ宮藩兵の損害は、戦死が佐賀藩兵の小隊長だった嬉野弥平次以下十名を超えます。その中には宇キ宮藩家老県勇記の甥だった、安形靱負太郎(一番隊兵士)の姿もありました。また負傷者は、重傷の宇キ宮藩一番隊司令士である中神璋蔵を始め、両藩兵合わせて二十名近くになりました。この損害に加えて、上記のように佐賀藩兵自慢の装備の多くが鹵獲されたのですから、惨敗と言うべきでしょう。そして野州戦争開戦当初、小山宿周辺で新政府軍に連勝した、あの常勝伝習隊の復活を感じさせるものでした。しかし、この大勝利が会幕連合軍にとって最後の勝利となったのです。

   

左:帝釈天の小山の麓に建つ、小原村の戦いの殉難碑。碑には会幕連合軍・新政府軍双方の戦死者の名が刻まれています。
右:日光市今市の回向庵に建つ、佐賀藩戦死者の墓。


その後の鬼怒川渓谷戦線

 六月二十六日の大敗を受けた佐賀藩兵と宇キ宮藩兵は、もはや単独での攻勢に出る戦意を失い、大鳥圭介が目論んだ「藤原口で持久戦を取り、白河口の好転を待つ」状況は整いつつありました。しかし大鳥の思惑とは裏腹に、板垣退助率いる土佐藩兵の増援を得た白河口の新政府軍は攻勢に転じて、次々に周辺を鎮圧していきました。六月半ばには河田左久馬渡辺清が率いる平潟口軍が常州平潟に上陸、浜通地方を北上して仙台藩兵の戦線の側面を突いて敗走させる事に成功します。
 白河口の戦況が奥羽越列藩同盟軍にとって危機的状況になる中、七月中旬に大鳥は藤原口で新政府軍が攻勢に出る事はないと判断して、第二大隊と第三大隊を交代で鶴ヶ城城下で休養させる事を決めて、七月二十一日に第二大隊を率いて鶴ヶ城城下を目指します。しかし大内宿を発した二十六日昼、会津藩より母成峠の守備に回るように命じられ、そのまま八月二十一日の母成峠の戦いを迎える事になり、大鳥が藤原口の鬼怒川渓谷に戻る事はありませんでした。
 一方の日光・今市宿周辺に宿陣する新政府軍は、上記のとおり六月二十六日の敗戦に懲りて攻勢に出る事はありませんでした。しかし奇しくも母成峠で伝習隊が敗れたのと同じ日である八月二十一日に日光方面の新政府軍を率いる指揮官として、薩摩藩士の桐野利秋が軍監として着任します。こうして今度は桐野利秋率いる日光口支隊が会津西街道を北上して、会幕連合軍と戦闘を繰り広げる事になるのですが、それはまた別の機会に書かせて頂きたいと思います。


鬼怒川渓谷の戦いの考察

 鬼怒川渓谷の戦いの勝敗を分けた要因として、両日とも高所を押さえた方が勝利したと言うのがあると思います。そのような意味では隘路の戦いでは高所を押さえた方が有利と言うセオリーを実証した戦いだったと言えましょう。
 また激戦となった六月二十六日の戦いでは、確かに大鳥圭介の采配勝ちの印象がありますが、どちらかと言うと佐賀藩兵の自滅の感が強いです。この日の戦いは戦略的判断と言うよりも、前日に戦功を挙げる事が出来なかった鍋島鷹之助が、前日戦功を挙げた鍋島監物に対抗して実行されたと言えましょう。また監物に共同作戦を断られたので、単独攻撃を決意したのにも関わらず、敵軍の主力が居るであろう鬼怒川東岸に割く兵力が少なかった鷹之助の判断には、本当に勝つ気があったのか、それとも監物隊の援軍を当てにしていたのか、その判断には首を傾げてしまいます。しかし実際には監物は鷹之助を全力で助けるような事はせずに、申し訳程度の援軍を出しませんでした。この戦功争いの隙を大鳥に突かれて大敗したと言うのが、この戦いの実本質はないでしょうか。
 しかし相手の隙を突いて戦術的勝利を収めた大鳥だったものの、白河口の同盟軍の敗北により、その戦術敵勝利の価値は泡と化したと言うのも、戦略の戦術に対しての優位性を示した戦いと言えるのかもしれません。

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引用全文

(*01):「五月五日の戦争吾兵の死傷総て百二十三人と●(浅田惟季北戦日誌草稿)」
(*02)「就中、伝習第二の●五十八人故に今存●の弐百人に●●に八小隊を合併して四小隊と為す(浅田惟季北戦日誌草稿)」
(*03)「壹番隊附属大砲隊、元隊、何れも人少により、早速元陣へ立戻るへく旨、日光口総督大鳥氏、副総督結城氏なる者より申来り(中略) 十一日に至り、元隊士官戦死手負等多分に付、遣るへき人なきゆえ、是非共立戻り呉る様ョに付、士卒へ此事をさとし(中略) 大鳥氏云て曰、士官等減す、依て元隊へ帰り、大砲の儀は護衛隊へ渡し、是を中軍の附属と為すへきよし語る(慶應兵謀秘録)」
(*04)「五月九日、総軍藤原、大原の二邑ニ退キ、劇ヲ會城に遣テ之ヲ告令シテ、其兵三百人、一ト先凱旋令ム、止テ此ノ陣營ヲ守ル者ハ、幕兵五百人過す、吾軍持久の策ヲ為スニ寄リ(浅田惟季北戦日誌草稿)」
(*05)「愚按に我兵隊も初めは人数多かりしが、数度の戦にて多く士官兵卒を亡い、追々微勢となりたるゆえ新兵を募らざれば、大勲を建つる力なし、因って会津に到り新規農兵を募る策を立てんとて、五月十五日頃山川大蔵と与に若松に赴きたり(南柯紀行)」
(*06)「会津両君に謁し、種々の愚衷を建議し、板倉小笠原候も日々登城ありて事務を謀らるる由なり、但し矢張因循姑息加之奥羽同盟の事成りしを以て、一体の人心大に弛緩せし形ありて建議せし件々も急には行われず大に失望せり(南柯紀行)」
(*07)「(五月十二日)草風隊大田原口、鹽原村引揚、藤原村へ来り、合兵す(慶應兵謀秘録)」
(*08)「米味噌等は悉く馬背にて田島より運輸し来るなり、酒醤油抔も折々田島より持来りしも、多分は切物にて宇キ宮今市は敵地なれば此地より取る能わず、日々菜は豆の味噌煮にて三度とも変る事なく、折々は鬼怒川の魚を釣り、又は小佐越辺より鶏卵を求め、又は木茸を取り食う他に食料なく、実に前後百日余も斯る深山の寒郷に在り士官は覚悟もあれども、歩兵に至りては日夜山上林間の番兵に労れ少しも心を慰むる興なく色々の不平多く、之を鎮撫説得するには若干の力を費したり(南柯紀行)」「象皆蛙を喰ひ又及ひ蟇鼠を喰ひ以て美味とし(浅田惟季北戦日誌草稿)」
(*09)「彼れは幸ひに重圍を脱して、大原に逃れしも是れより軍議大鳥と合はず、遂に去りて会津に掛けり(沼間守一)」
(*10)「会人某兵を率いて藤原より東方なる村に至り、之を焼き其帰路船生方も半焼払いたるに由り其役を免じたり、右の村落たとえ敵地へ接近し敵手に陥るときは我々に害ありと雖も、無事の農民を虐くし人心を失うを以て之を罰したり(南柯紀行)」
(*11)「六月初めなりしか江戸より横地秀次郎来り兵士の夏服並に元込銃及び小銃を持ち来りし由にて、第一第二第三其外へも平等に分配し大に安心せり(南柯紀行)」
(*12)「沼間其外勉励大原曠原に胸壁三四個築立たり(南柯紀行)」
(*13)「五月六日、野州鎮撫方、肥前侍従ヘ被仰付候、同七日」、肥前侍従、兵隊ヲ帥テ野州ニ赴ク、尤兵隊ハ今市宿土州ト交代、土州ハ大田原ヘ進ムナリ、大総督府命ニヨツテ土州藩ヘ達ス(復古記第十一巻 P692)」
(*14)「既に肥兵等窃かに君(板垣の事)の●言を視て、以て我が奇功を建つるを憚る者と為せしが如く、往々之に服するを肯せず、遂に肥将木白●四郎自ら東都に赴き、軍防判事大村益次郎に面して進撃の合を乞ふ、大村容易に許さず、曰く今市形勢は板垣氏の詳にする所なり、宜しく就て之に計れと、木白已むを得ず、又た去て君を白河に●ひ挙て之を計る、君答へて曰く、足下是を以て余に問はゞ余は只だ向日の事有らんのみ、宜しく白河の官兵が進撃するのを俟ち、而して倶に營を?て発せよと(板垣退助君伝)」
(*15)「猶駕を急がせ高原へ帰り来りし処歩兵体の者追々南方より来るを見るゆえ何者ぞと訪ねしに、第三大隊の兵士にて今朝より大原にて敗軍し此村に引揚げ、則隊長も来り居れりと云余愕然切歯に堪えず隊長に会いしに其の語る処今兵士より聞きし次第に異ならず(南柯紀行)」
(*16)「須臾ニシテ大鳥圭介騎ヲ駆テ凱陣を促テ曰ク、大原村地理悪シク、全捷ヲ得ルコト難シ、小原邑外ノ用地ニ退キ、欺テ敵ヲ隘道ニ導カハ、彼必ス勝ニ乗テ追ヒ追ラン(浅田惟季北戦日誌草稿)」
(*17)「吾軍此時藤原ノ營ニ在ル者、啻傅習第二大隊ト草風隊ノミ、兵総テ三百人ニ過キス、先ツ三番、四番ノ二小隊ヲシテ敵ニ當ヲ令メ。草風隊四十人ヲ前面ノ溝胸壁ノ中ニ伏セテ、敵ノ襲来ルヲ待ツ、其ノ二十人ヲシテ左方ノ山上ニ潜伏セシメ、予カ率タル一番小隊三十人を分ツテ高徳間道の山下を守ラシメ、其四十五人ヲシテ本營ヲ守衛シ、二番小隊ヲシテ三上ノ原ニ備ヘテ、船生ノ間道を守ル(浅田惟季北戦日誌草稿)」
(*18)「間もなく敵の先鋒川向に来り、大砲を放ちながら次第に進み来れども味方格別砲発せず敵愈勢いに乗じて前進し、又本道の方へも追々押し来り互に血戦に及び、敵は多数の強兵なれば容易に辟易する色なく大小砲連々打続て、川向の岸を経て猶奥深く進み我陣の横を撃たんとせしを、我樹陰の胸壁より一斉に小隊打を為せしに由り、大に驚き少し引色見えし故味方猶烈敷打立て(南柯紀行)」
(*19)「敵廿五日戦争勝利に乗て、瀧村、大原村両道へ分れて大小砲を打立襲来る、是故に回天隊瀧村より来る處の敵に喜怒川を隔て當り(慶応兵謀秘録)」
(*20)「四ツ時頃高原の驛へ援兵申越、依て別傅習隊即刻出張す、又第三番隊の内三番小隊、壹番小隊出張す、又兎跳と云所へ假橋を懸け、是より兵を出し、瀧村の後を行敵の後陣を撃んとす(慶応兵謀秘録)」
(*21)「斬首十級、大砲貳門、小銃」三十一挺、帯剣十四腰、弾薬十八箇、籠長持四棹、俘囚二人、其他ノ雑器枚挙ス可ラス(浅田惟季北戦日誌草稿)」



主な参考文献(第一章から後第五章まで通じて)

『戊辰役戦史』:大山柏著、時事通信社
『復古記 第10巻・11巻』:内外書籍
『三百藩戊辰戦争辞典』:新人物往来社編

『北関東戊辰戦争』:田辺昇吉著、松井ピ・テ・オ印刷
『戊辰戦争』:大町雅美著、雄山閣
『下野の戊辰戦争』:大嶽浩良著、下野新聞社
『那須の戊辰戦争』:北那須郷土史研究会編、下野新聞社
『栃木の街道』:栃木県文化協会

『薩藩出軍戦状 1・2』:日本史籍協会編
『伊地知正治日記』:静岡郷土研究会(維新日誌第2期第2巻収録)
『板垣退助君伝』:栗原亮一編纂、自由新聞社
『谷干城遺稿』:島内登志衛編纂、靖献社
『流離譚』:安岡章太郎著、新潮社
『土佐藩戊辰戦争資料集成』:林英夫編、高知市民図書館
『鳥取藩史 第1巻』:鳥取県編、鳥取県立図書館
『鳥取県史』:鳥取県編
『鳥取県郷土史』:鳥取県編、名著出版
『鳥取市史』:八村信三編、鳥取市役所
『丹波山国隊史』:水口民次郎著
『山国隊』:仲村研著、中公文庫
『佐賀藩戊辰戦史』:宮田幸太郎著、マツノ書店
『幕末維新の彦根藩』:佐々木克編、彦根市教育委員会
『大垣藩戊辰戦記』:鈴木喬著、鈴木文庫
『北武戊辰小嶋楓処・永井蠖伸斎伝』:小島慶三著
『戊辰日記』:県勇記著、東大史料編纂所データーベース
『宇都宮藩を中心とする戊辰戦史』:小林友雄著、宇都宮観光協会
『維新と大田原藩』:益子孝治著、大田原風土記会

『南柯紀行・北国戦争概略衝鉾隊之記』:新人物往来社
『大鳥圭介伝』:山崎有信著、マツノ書店
『北戦日誌』:浅田惟季著
『慶応兵謀秘録』:静岡郷土研究会(維新日誌第2期第2巻収録)
『野奥戦争日記』:静岡郷土研究会(維新日誌第2期第2巻収録)
『谷口四郎兵衛日記』:新人物往来社(続新撰組史料集収録)
『野州奥羽戦争日記』:山口県毛利家文庫
『別伝習書記』:伊南村史第3巻資料編2収録
『沼間守一』:石川安次郎著、大空社
『陸軍創設史』:篠原宏著、リブロポート
『幕府歩兵隊』:野口武彦著、中公新書
『会津戊辰戦史』:会津戊辰戦史編纂会
『泣血録』:中村武雄著
『鶴ヶ城を陥すな〜凌霜隊始末記〜』:藤田清雄著、謙光社

『下野史料 第38号』:下野史料保存会
『下野史談 第2巻2号』:下野史談会
『栃木県史 通史編5・6』:栃木県史編纂委員会編
『栃木縣史 第8巻 戦争編』:下野史談会
『宇都宮市史 第五巻近世史料編 2』:宇都宮市史編纂委員会編
『宇都宮市史 第六巻近世通史編 1』:宇都宮市史編纂委員会編
『小山市史 通史編2』:小山市史編纂委員会編
『壬生町史 通史編2』:壬生町編
『笠間市史 上巻』:笠間市史編纂委員会編
『結城市史 第5巻』:結城市史編纂委員会編 
『いまいち市史通史編3』:今市市史編さん委員会編集
『日光市史下巻』:日光市史編さん委員会編
『真岡市史第7巻』:真岡市史編さん委員会編
『鹿沼市史 通史編近現代』:鹿沼市史編さん委員会編
『塩原町誌』:塩原町史編纂委員会編
『大田原市史 前編』:大田原市史編纂委員会編
『藤原町史 通史編』:藤原町史編纂委員会


参考にさせて頂いたサイト
幕末ヤ撃団様内「戊辰戦争兵器辞典」
天下大変 -大鳥圭介と伝習隊-様内 記事全般

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