親鸞聖人の歩まれた道・念仏は無碍の一道なり(歎異抄)

(本文中は尊称を省く)

誕生・正安3年(1173)
平家全盛の頃である(牛若丸は15歳)・・・藤原貴族の末流、日野氏、父は日野有範・母は源氏の正流、八幡太郎義家の孫娘、吉光女といわれる(伝)・
京都伏見区日野西大道町に「日野誕生院」があります。産湯の井戸とか、近くには日野家の墓もあります

出家・養和元年(1181)・・・源平合戦始まる・御年9歳 (青蓮院・京都市東山区粟田口)
天台宗「青蓮院l得度、もう夕暮れであったところから、導師をつとめた後の天台座主「慈円師」が 「もう今日は遅いから明日の朝にしよう」 といったところ、少年は 「明日ありと 思う心のあだ桜 夜半の(に)嵐の吹かぬものかは」 という歌を読んでその場で剃髪したという。9歳の少年の歌かどうかは特に研究資料があるわけではないでしょうが、ただ戦乱のさなか、わずか9歳で名門の子弟が出家するにはそれなりの時代背景と優れた精神性を感じ取ることができます。現在でも浄土真宗の得度式は夕方本堂を暗くして蝋燭の明かりのもとで執り行われています

修 行
「範宴(はんえん)」の名で一説には天台宗の少僧都(しょうそうず)まで出世したとの説や小説等にあらわされているが、比叡山で29歳まで修行されたと言われることは間違いなさそうである。20年間の修行生活の中で結局仏教の極みである「悟り」が得られなくて山を降りるわけであるが、その間、漢文の経典に限らず梵語にも通じていたことが後の著作に垣間見えることができます。
浄土真宗西本願寺では、大正時代に発見された親鸞の妻「恵心尼公」が残したお手紙から、若き親鸞は「比叡山の堂僧」であったことが知られている。そこで念仏修行をされていたことが伺われます。

下 山
29歳まで修行に満足できなかった親鸞は京都の町に下りて、六角堂に篭り人生の指針を求め百日の祈願をします。
そこで95日目の暁、救世観音の夢告を受けたと言われます。
「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」 という詩が残っています。まさに男性としての宿業を物語る場面です。
ここから浄土真宗の「肉食妻帯」の在家仏教がはじまるといってもいいでしょう。ただ親鸞の煩悩を即セックス願望に結びつけるのは乱暴ですから碩学のお書物に触れていただきたいと思います。

法然門下に入る
浄土真宗で「雑行を捨てて本願に帰す」のは、人間の煩悩は自力の修行では絶対になくならないと言う強い懐疑が言わせた言葉です。そこで既に山を下りて念仏の布教をしていた良師「法然」に出会うわけです。

結 婚
法然門下には行ってから越後流罪の間に親鸞聖人の結婚問題があります。当時出家者に許されなかった結婚にあえて踏み切ったまでの伝説は色々議論もされ史実を探ろうとする人達も沢山いますが、ここでは推測の域を出ていないということだけは申し上げておきましょう。問題は親鸞は何回結婚したかと言うことですが、確証が得られているのは先述の恵心尼公だけと言ってもいいでしょう。最初の結婚は「玉日姫」という説もあり、関東「稲田の御坊」では「玉日姫」の墓もあり「玉日姫」と「恵心尼公」は同一人という碑文もありますが史実は疑わしいところです。

越後へ流罪
ここでは先ず新潟県上越市のホームページ・偉人辞典・偉人探訪を訪問してみましょう。居多が濱など親鸞聖人のゆかりの写真が沢山紹介されています。もし親鸞がこのとき結婚していたと言うことになると流罪の地に妻を同道するか?と言う疑いも出ます。
逆に恵心尼と結婚したのは越後の地ということになると、法然に許された結婚相手は誰か?と言う疑問になるわけです。しかし親鸞を語る上でこんなことはあまり重要なことではないとも考えられますがいかがでしょう?興味本位で推測するならば私は「玉日姫」は実在の人で親鸞の長男、善鸞大徳の母という結論が望ましいと思っています。

関東時代
越後で流罪を赦免された親鸞聖人は関東に移住します。理由はいろいろいわれますが、後で詳しく記しましょう
まず、肩をほぐすために 「親鸞伝説」 を織り交ぜながら関東二十四輩の紹介を順次してゆきます。

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