1月29日(日)
硫黄島に遺骨収集派遣団
(貼付け)240129中国新聞「硫黄島に特別収容団の派遣検討 作業加速へ政府職員常駐」
政府は年明けから、太平洋戦争末期の激戦地である硫黄島(東京都小笠原村)に厚生労働省職員を常駐させ、戦死した日本兵の遺骨収容作業を加速させた。年間を通じた取り組みで、集団埋葬地が見つかった場合は、一般ボランティアを含む数十人規模の特別収容団の派遣を新たに検討する方針も固めた。14年3月までに島内全域の調査を終了させる考えだ。
硫黄島の遺骨収容に関する政府の特命チームは昨年、厚労省職員1〜3人を現地に常駐させることを決定。民間作業員約20人とともに今月11日から収容作業を開始した。
現地での作業はこれまで長くても年間2カ月程度だったが、遺骨の劣化が進んでいるため作業を急ぐ必要があると判断した。2月以降は50人体制に増員する方向だ。
米軍側の埋葬記録に関しては米国立公文書館に加え、海軍基地資料館が保有している記録も詳しく調べる。年に1回程度だった遺族による巡礼も12年度は3回、計300人規模で行う。
硫黄島の遺骨収容は、菅直人前首相が10年8月に特命チームを設置して本格化。野田政権は昨年11月、予算や人員の態勢強化を図る「遺骨帰還プラン」を決めた。
日本兵約2万2千人が戦死したとされる硫黄島<(貼付け:木野山)硫黄島の戦いで、日本軍は守備兵力20,933名のうち20,129名(軍属82名を含む)が戦死した。捕虜となった人数は3月末までに200名、終戦までにあわせて1,023名であった。アメリカ軍は戦死6,821名、戦傷21,865名の損害を受けた。硫黄島の戦いは、太平洋戦争後期の島嶼防衛戦において、アメリカ軍地上部隊の損害が日本軍の損害を上回った唯一の戦闘であり、また、上陸後わずか3日間にて当時のD-デイを含むアメリカ軍の各戦場での戦死傷者数を上回った。>で、これまでに収容した遺骨は約9500体にとどまっている。収容作業は1952年に始まったが、約1万3千体が未収容とされる。これまで職員の常駐はなかった。
硫黄島(いおうとう)は、東京の南約1250`にある東京都の一部である。日本は敗戦から7年後の1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し主権と独立を回復し、沖縄返還の4年前、1968年に日本に返還された。
大東亜戦争末期、アメリカ軍は日本本土爆撃の絶好の中継地点となる、日本最南端の日本の領土であった硫黄島を奪いに来た。これが1945年2月29日に始まり3月26日に終わった硫黄島の戦いである。2000年以上の歴史をもつ日本が初めて侵略・占領されることとなるこの戦いは日本にとって絶対に死守すべき領土だった。新聞記事にあるように、2万人を超える日本兵士が降伏することなく玉砕した。
アメリカ軍は、占領すると直ぐに日本本土爆撃のために滑走路を造ったが、日本兵の亡骸を収容することなくその上にすぐコンクリートを流し込んで造った。
今は、海上、航空両自衛隊の基地が置かれているが、返還当時滑走路の西側を2割程度引き剥がして遺骨を収容されたが、残りはそのままで、滑走路の下に明日の日本のためにと玉砕された英霊が眠っている。
「遺骨収容特別派遣」の記事に接し、一日も早い遺骨収容を願い、あらためて、尊い英霊に「ありがとうございました」と感謝の気持ちを捧げたいと思います。
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