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いにしえに失われた教会を訪ねて

2012年3月

  いまからおよそ450年前、長崎に初めてキリスト教が伝えられてから半世紀ほどの間には、長崎が「小ローマ」とよばれたほど、カトリック全盛の時代がありました。徳川幕府の禁教令によって、美しく立ち並んでいた教会群がいっせいに破却されたのは、1614年、大阪冬の陣があった年です。
  久しぶりの日ざし、思い立って自分で弁当を作り、この破却された教会跡巡りにでかけました。 最初の目的地は長崎県庁です。自宅から中央橋まではバスを利用。バス停から県庁坂を登れば直ぐに県庁正門です。バス停からは歩いて2分です。


サン・パウロ教会&岬のサンタ・マリア教会跡(現・長崎県庁舎)

  1571年、ポルトガル船とポルトガル人がチャーターした唐船2隻が初入港し、長崎の町は南蛮貿易とキリスト教布教の中心地となりました。この新しい長崎の町は、現在の諏訪神社あたりから、まっすぐに海に突き出していた岬の台地の先端部分に最初の町建てが行われました。町作りが進む中、この岬の突端、つまり今の県庁の場所に、フィゲレイド神父によって、ポルトガル人と日本の信者のための小さな聖堂(サン・パウロ教会)が建てられ、この聖堂は「岬の教会」と呼ばれました。
  岬の教会は、その後、幾度か建て替えられ、1601年には長崎最大の教会「被昇天の聖母教会」(岬のサンタ・マリア教会)が建てられました。同時にここには、イエズス会の本部、司教館、コレジオも置かれていました。1614年、禁教令により破壊。
  フィゲレイド神父は、イエズス会の宣教師で、ゴア生まれのポルトガル人。1564年に来日、布教をすすめ、長崎港の水深調査など長崎開港にも大きな役割を果たした人です。日本で活躍した後ゴアに戻り彼の地で没しました。

  県庁坂を大波止側に下ると直ぐに「南蛮船来港の波止場跡」の碑がある。この波止場からは1582年、遣欧天正少年使節の4名(伊東マンショ・千々石ミゲル・原マルチノ・中浦ジュリアン)が巡察師ヴェリニャーノとともに希望に胸ふくらませてローマに向けて旅立った波止場でもありました。 皮肉なことに、切支丹禁令によって、1614年、高山右近などがマニラに、原マルチノがマカオに追放されたのもこの波止場からでした。

  その後、この地には長崎奉行所西役所が置かれ、幕末には海軍伝習所が置かれました。明治維新後は、長崎会議所、長崎裁判所、長崎府と変遷。明治6年(禁教令がなくなった年)長崎県庁となり今日に至っています。


サン・ペドロ教会跡(現・KTN長崎放送局付)

  「南蛮船来港の波止場跡」の碑から金屋町のKTN長崎放送局前に向かう。5〜6分の距離です。途中に致遠館跡の碑を見つけました。致遠館は慶応元年(1865)佐賀藩が開いた英語学校です。校長にはフルベッキが招かれており、副島種臣や大熊重信が学監や教師を務めています。
  場所は特定されていませんが、(碑もありません)このKTN付近にあったといわれているのが、サン・ペドロ教会。慶長12年(1607)に建てられた教会で、ロレンソという日本人宣教師が主任司祭であったそうです。1614年破壊。
  ちなみに日本人で最初に司祭になったのはセバスチャン木村で、元和の大殉教(1622年)で、火刑に処せられています。セバスチャンの祖父は平戸の武士でフランシスコ・ザビエルの宿舎を提供した人とのことです。


ミゼルコルデイア本部と付属教会跡(現・長崎地方法務局)

  KTNから県庁通りに戻り長崎地方法務局へ向かう、これまた6〜7分の距離です。県庁正門から歩いてもそんなものです。この地方法務局の地にミゼルコルデイア本部がありました。現在、大音寺坂側に「碑」があります。
  ミゼルコルデイアは、切支丹信徒の奉仕活動組織、ボランティア組織といえばいいのでしょうか。 病院・養老院・育児院などを運営していました。今日の社会福祉施設の先がけです。1583年、日本人切支丹によって建てられ、1614年、長崎の教会がことごとく壊されたときも、この施設は残されました。1619年頃まで存続していたとのことです。この施設は「慈悲屋」とよばれ後世まで語り継がれました。

  大音寺坂の名は、ミゼリコルディア跡地を賜った浄土僧伝誉が大音寺を創建。同寺が1638年に現在地(鍛冶屋町)に移転するまで、この地にあったことに由来します。またこの坂は深堀義士伝、江戸時代の長崎喧嘩騒動発祥の地でもあります。(この顛末は坂の途中に説明版がありますよ)この坂は天満坂とも喧嘩坂坂ともよばれます。
大音寺は、長崎三大寺の一つに数えられた名刹で、フェートン号事件で切腹した長崎奉行・松平図書頭のお墓もあります。


サン・アウグスティン教会跡(現・常盤橋付近)

大音寺坂の石段を下り、SLが飾ってある中央公園の中を通って常盤橋のふもとへ。ここ迄も10分弱です。
  橋のふもとにはサン・アウグスティン教会跡の「碑」が目立たずひっそり建っています。この教会はアウグスチノ会の本部教会で、1612年にベルナンド・アラヤ神父によって建てられました。碑の建つ常盤橋際から観光通りなあたりまでが教会司牧地であったとか。ここも1614年に破壊されています。
  アウグスチノ会に所属した宣教師に、トマス・デ・サンアウグスチノがいます。武士の姿で金の鍔の大刀を持ち、高下駄を履き、海を歩き、神出鬼没の働きをしたという伝説的な金鍔治兵衛です。最後には訴人があって捕縛され殉教しました。彼一人を捕縛するのに長崎奉行・竹中采女正は金30万両を要したとも伝わっています。21世紀になってトマス治兵衛は福者に列せられました。 常盤橋付近は、1945年8月9日、長崎へ投下された原爆、ファットマンの本来の投下目標地点でした。


サン・チャゴ教会跡(現・長崎銀行本店)

  常盤橋から賑橋電停前を通って長崎銀行本店前へ。6〜7分の距離です。「碑」はありません。この銀行本店の建物は、大正時代1938年建築だそうです。重厚でレトロな感じです。
  ここには、はじめミゼリコルディアの病院が建ち、翌年1604年、小さな教会堂サン・チャゴ教会が建てられました。またここには、後にはコレジヨもあったとのこと。この教会で鳴り響いていた鐘は、教会が破壊された後に、どんな経過をたどったのでしょうか、現在、大分県竹田市の中川神社にあるそうです。一度訪ねて現物を見てみたいものです。


サン・アントニオ教会跡(現・長崎市公会堂)

  長崎銀行本店と公会堂は同じ電車軌道に沿って指呼の距離。この公会堂の場所にあったのが、長崎の初代代官、村山等安の息子フランシスコ村山が主任司祭を務めたのたサン・アントニオ教会がありました。村山等安が息子のために1606年に建てたそうです。
  村山等安は切支丹であり長崎を代表する豪商の一人でしたが、既に棄教していた朱印船貿易家、末次平蔵(等安の後の長崎代官)に訴えられて1619年に処刑されました。

 

ちょっと寄り道

  長崎市公会堂横から市役所方向へ坂を上ると市役所別館があり(徒歩で3分とはかかりません)そこがサン・フランシスコ教会跡、さらに諏訪神社方面に歩くと桜町小学校(この間も3分未満)サント・ドミンゴ 教会跡、続いて1分で歴史文化博物館に着く。ここが山のサンタマリア教会跡。県庁から歴史文化博物館まで、まっすぐに歩いてくれば15分から20分もあれば充分です。
  どうですか、なんと教会の密集地ではありませんか。この狭い範囲に賛美歌とラテン語、祈りの言葉が飛び交う様を想像して見てください。かつて長崎が「小ローマ」「日本のローマ」といわれたことも頷けます。


  私は、公会堂からは、中島川に出て、川沿いを歩き、中川町から旧長崎街道に入り桜馬場中学へ向かいました。春徳寺を先に回るためです。 桜馬場・夫婦川一帯は、貿易都市長崎が誕生する前の長崎の中心集落地域です。この地の豪族、長崎甚左衛門純景は、日本で最初の切支丹大名・大村純忠の重臣であり、その娘婿にあたり、自らも洗礼を受けた切支丹です。この甚左衛門の館があったのが、現桜馬場中学です。甚左衛門が長崎退去の後、1605年からは森田家が長崎村庄屋の任に着き270年間、この地にありました。

  桜馬場中学のグランド横を登ると直ぐに春徳寺です。途中、たばこ栽培発祥の碑がありました。トードス・オス・サントス教会の畑で栽培されたとか。タバコはポルトガル語なんですね。
  次いで、ルイス・デ・アルメイダ渡来記念碑が目に入ります。ルイス・デ・アルメイダはポルトガル人で元は貿易商でしたが、その後イエズス会の宣教師となり私財全てを日本布教に捧げたといわれています。また彼は外科医の免許を持ち、医療活動も行い、日本に西洋医学(南蛮医学)をはじめて伝えた人ともいわれます。長崎を訪れた最初の西洋人であり、長崎ではじめて布教(1567)しました。
公会堂からここまで、遠回りしたこともあり25分でした。


トードス・オス・サントス教会(現・春徳寺)

  長崎におけるキリスト教の布教は、前述のように、イエズス会のポルトガル人宣教師ルイス・デ・アルメイダによって始まります。長崎甚左衛門の招きといわれます。
  アルメイダ来崎から2年、1569年、甚左衛門は、館の近くの廃寺をヴィレラ宣教師に与え、ヴィレラは、ここに教会を建てました。この教会が、トードス・オス・サントス教会です。長崎に建った初めての教会です。後には、有馬にあったセミナリヨや天草のコレジオがここに移ってきました(1592年)。修道院も併設(1602年)されていました。活版印刷も行われたようです。1614年、教会が破脚された後、1640年に春徳寺が移築されました。
  敷地内に教会時代の南蛮井戸が残っています。春徳寺の裏山を唐渡山(トートサン)と呼ぶのは教会の名残だとか。
  春徳寺門前に大楠があり、ここから眺めると、右手側に諏訪神社の本殿、長坂。中央部に県庁通りの住友生命ビル、やや左手には、東山手の海星、その先に、グラバー園、鍋冠山、女神大橋の橋柱も見えます。教会全盛の時代には、長崎の港と町の全てが見渡せた絶景地であったことを改めて実感しました。


サン・フランシスコ教会跡(現・市役所別館)

   春徳寺を離れ、賑やかな新大工商店街を通って諏訪神社下に、神社横の長崎公園には長崎甚左衛門の像がありますが、今日のところは素通りして市役所別館までおよそ20分歩きます。
   1611年、宣教師アスンシオンが、当時クルス町とよばれたこの地に、教会と修道院の建設に着手し、未完のまま他の教会とともに1624年に破壊されました。その跡地に建ったのが牢屋敷です。この桜町牢には、禁令下の日本に帰ってきた宣教師トマス治兵衛が牢番になりすまして入牢中の神父と連絡を取り合ったという逸話ものこっていますが、捕らえられた多くの切支丹が投獄されました。トマス治兵衛も中浦ジュリアンも、捕縛後ここに捕らえられていました。


サント・ドミンゴ教会跡(現・桜町小学校敷地内)

   1609年、モラーレス神父を責任者とするドミニコ会が薩摩を追われる際、京泊(現・鹿児島薩摩川内市)にあった教会を解体移築するする形で、この地に教会を建てました。土地は代官・村山等安が寄進しました。この教会も5年後の1614年に破壊されました。破壊の際にこの教会にあった聖母像は海外に持ち出され、「日本の聖母」と呼ばれ現存するそうです。
   教会跡は、長崎代官屋敷として、末次氏が密貿易で追放されるまでの4代、次いで幕末まで高木氏が居住しました。
   ここは、勝山遺跡として発掘調査され、教会時代、末次時代、高木時代のそれぞれの遺物が出土し、発掘跡も保存され「サント・ドミンゴ教会跡資料館」になっています。教会時代の地下室跡、当時の石畳、たくさんの花十字紋瓦、メダイやクルスは歴史のロマンを感じさせます。 高木代官の時代の寛文の大火(1663)で焼かれた陶器もありましたよ。


山のサンタマリア教会跡(現・歴史文化博物館)

   サント・ドミンゴ教会跡資料館の斜め前、長崎歴史文化博物館のイベント広場に「碑」があります。 1590年初頭の頃、小さな聖堂から始まり貿易都市としての町の発展と共に規模も拡大していきました。1600年代に入ると墓地も持つ大きな教会となり、ポルトガル人と日本人との間に生まれた宣教師が司祭を勤めたそうです。(本当に国際都市だったんですね)ご多分に漏れず徳川幕府の禁令で破壊されました。 その後、この地には長崎奉行所立山役所が建ち幕末まで存続しました。現在、歴史文化博物館の奉行所ゾーンには、禁令時代の踏み絵、高札、ころび証文などが展示されています。


サン・ジョアン・バウチスタ教会跡(現・本蓮寺)

  歴史文化博物館からは、西勝寺(南蛮ころび伴天連忠庵の名が記された、ころび証文下書きを所有する)前を通り、長崎駅方向へおよそ20分弱で本蓮寺に着く。
  南蛮ころび伴天連忠庵は、日本で20年にわたって布教を続けたポルトガルの宣教師、日本管区長代理クリストファン・フィレイラです。1633年、穴吊の刑で棄教、沢野忠庵に改名し宗門目明かしとなった人です。
  1592年に、ポルトガル人のカピタンの寄付によってサン・ラザロ病院が、まずこの地に建ちました。ついで、フランシスコ会のサン・ジョアン・バプチスタ教会が併設されました。
  1606年には日本人司祭が就任しています。1614年に他の教会と共に破壊されましたが、病院はハンセン病の専門病院として1619年まで存続しました。病院と教会の跡に本蓮寺が建立されました。この本蓮寺も長崎三大寺の一つにあげられた格式あるお寺です。現在、病院で使用されたといわれる南蛮井戸が残っています。中は深く抜け穴があるといわれています。
   幕末、海軍伝習所に学んだ勝海舟が、この寺の塔頭(大乗院)に寄宿していました。シーボルトも再来日の折り、一時、塔頭(一乗院)にいたそうです。

 

26聖人殉教地

  本蓮寺の直ぐそばに西坂公園があり、二六聖人殉教地があります。 今日の散歩の最終地、豊臣秀吉の時代、まだ長崎がカトリックの黄金時代に起きた、日本で最初の殉教者たちの祈念碑です。
公園には二六聖人像の他、資料館があり、また殉教地碑やリスボン生まれの宣教師、ルイス・フロイスの小さな記念碑もあります。

  ルイス・フロイスの最大の功績はザビエルにはじまる日本布教の歴史、教会史「日本史」を編纂したことです。織田信長や豊臣秀吉とも接見しました。フロイスの最後の仕事は、ここ西坂で処刑された二六人の殉教をイエズス会総長に書き送ったことです。まもなく長崎のコレジオで没しています。
  当時、教会(聖堂)は、このほかにも当時の高麗町(現鍛冶屋町)あたりに韓国人のためのサン・ロレンソ教会が、現・山王神社そばにはもう一つのサン・ラザロ病院と聖堂が、浦上にはサンタ・クララ聖堂などがあったと記録されています。
今日のお弁当は、小春日和の、この公園のベンチでいただきました。