「なぁ、結婚しよーよ」

また、突然 閃いたのだろうか。

ソファの上でコロコロと転がって、ぬいぐるみと戯れる姿を振り返った。


彼はいつも突然だ。

しかもそれが必然であるかのような物言いであるから、

思わず頷いてしまいそうになる。



『 あんた、泣きたいんだろ 』



初めて交わした言葉もやはり断定的だったので、一瞬それは事実であると錯覚しかけた。

しかしすぐに文章として意味を理解すると訳が判らず、問い掛けるように青年を見上げた。

短い髪をツンツンと立てハッキリした二重の目は我が強い。

細身だが身長は私より10cm ほど高いだろうか。年下なことは間違いない。

苛立った彼は帰れと、帰って寝ろと冷えた暗がりに私を追い出して、

私は閉められた扉を目の前に唖然とした。


頭は一連の事柄についていかなかった。

数分前まで私は、少し落とした照明の下で自分の男を眺めていたのだ。

それなのになぜ今は寒い外気に晒されながら茫然と突っ立っているのだろう？


「寒…」

それだけは認識できた。

中へ戻ろうか、ちらと考えたが、興味をなくしていた。

楽しそうに話していた恋人は、温かい室内で変わらず笑っているはずだ。

今回のライブの企画をした女性と。

心惹かれていることに、本人は気づいていないかもしれない。


はぁ。

白い溜息が出る。



　　　　　帰ろう。



帰って、寝よう。

獣の目をした彼が言ったように。




その日のお風呂は、なぜだかとてもふわふわと温かくて

柔らかい湯けむりに安堵して身体から力が抜けた。


少しずつ離れていく二人の心を、どうしたら良かったのだろう。

大学で出会って、ふたりで大事に大事に育てた恋だった。

就職して会う時間が減って、社会に出て別々に成長するお互いに繋がりは薄れ、

心さえ薄れてしまった。連絡を取るのさえ億劫になっていたのだ。


ある日、彼の彼女を見る目に気がついた。そして穏やかに見つめる自分に気がついた。



私たちの恋は、終わっていた。




　　　哀しいのは、失った恋にだ。

失った温かさを恋しく悼んでいる。彼を失ったからではない。

幸せだった時間を惜しんで、哀しいのだ。

これからはあの女性とその時間を持つだろう。



睫毛の蒸気は水滴となり、目を閉じると、すうと流れた。

合わせて、後から後から自然に溢れた。



浴室の温かい霧は、身体に浸透して、

いつまでも私を泣かせた。