第3章 祓い屋、キターッ!
それから数日後の夜。
英二はおもむろに自室にこもると“ミズキハウス”玄関の光景を思い起こした。
ぴかぴかしたドアの横にあるインターホンを押すと……
『はーい』
と返事がして脳内瑞希がドアを開ける。
『いらっしゃーい』
今日はピンクのワンピースに白いリボンをつけている。
《お邪魔します……》
複雑な気分で英二はミズキハウスに上がりこんだ。
この数日で世界はまた進化していた。
どうしてこうなったかというと―――あの翌朝のことである。
今日は珍しく静かだなと思って英二が瑞希の姿を思い起こしてみると、いきなり彼女がTシャツにノーブラといった格好で寝ていたのだった。
思わず英二が、寝息にゆれる胸の膨らみにポチッとそびえたその頂などを鑑賞していたら、瑞希がぱっと目を覚まし―――そのあとの騒ぎはもうお察しのとおりである。
脳内存在のくせに寝る必要があるのかと問えば、英二が相手してくれないときは暇だから寝ているそうなのだ。
そして親しき仲にも礼儀ありでしょ! とか説教されたあげく、こんな家を作ってやる羽目になったのだった……
《本気でずっとここに居座るつもりかよ?》
すでにこの世界に馴染んでしまっているようなのだが……
―――などといった回想は、瑞希の笑い声で中断された。
《何がおかしいよ?》
『だってやっぱ、反対なのってさー』
脳内瑞希が英二の顔を指さす。
《だから、鏡で見たことしかないし!》
元々この場所での英二は外から見ているだけで、本人自身は存在していなかった。
だが彼女がそれでは落ちつかないと言いだすものだから、自分の分身―――いわゆるアバターをがんばって作り出してみたのだ。
だが普通、自分の姿なんてのは鏡でしか見たことがないものだ。そのため完璧にできたと思ったそれは、彼女から見たら左右が反対になっていたわけだ。
それを修正するのは存外にむずかしく、面倒なので英二は放置していたのだが……
それよりも……
英二はじろっと瑞希の胸を見た。なんかまた前より大きくなってないか?
『……なによ~。エッチ~』
彼女はそう言って思わせぶりに胸を隠すが―――英二ははあっとため息をつく。
この世界の瑞希は英二の意思とは関係なく自由に体を動かせていたのだが、それはとりもなおさず彼の意思とは無関係に体型をも変えられることを意味していたのだ。
彼女がそれに気付いてからというもの、胸のサイズが日に日に大きくなっていく。
そして圭輔ならともかく英二にとっては見るに堪えないサイズにまで膨れあがってしまったため、ついに強制介入を決行したのであった。
そのときのバトルは思いだすのもバカらしいものだった。
―――英二と脳内瑞希の目と目の間に、ばちばちっと強烈な火花が飛んだ。
『はーっ!』《ぬぉぉぉぉ!》
さらには二人の体が金と銀のオーラに包まれ、互いの気合いとともにその領域が拡大していく―――ここは英二の想像力の生み出した空間なので、そんなエフェクトも簡単に可視化できるのだ!
オーラの衝突する場所には輝く界面が形成され、それが二人の意志の強さに相まって前後すると、胸のサイズもF→E→D→E→D→C→D→C―――と変化していく。
『うぬれ……』
《ふっふっふ。舐めてもらっちゃあ困るな。ほれ、そろそろ諦めたらどーだ!》
だがやはりここは英二の脳内であり、彼の影響力の方が大きかった。
そしてついにその胸が初期状態(B)に戻らんとしたその瞬間だ。
『この……あっやだっ!』
と言って彼女がスカートをめくりあげると、黒いなにかちらりと垣間見えて……
《にゃは⁈ く、黒⁈ だと⁉》
集中力をそぎ取られた英二は、彼女の銀のオーラに一瞬にして呑みこまれていった。
あわてて気を取りなおしたときには胸はまたFカップに戻っている。
『ふははははーっ! どーだあ!』
《卑怯者ーっ! 人の弱みにつけこむなんてーっ》
『しゃーないでしょっ! あんたの方が強いんだから。いいじゃないのこのくらいっ!』
《ぬぐうっ!》
この手で来られるとまずい! すごくまずい! というか胸のサイズがどうこうの時点である意味すでに限界状況なのに、そこにパンツの色まで加わっては―――
といった調子で精神力の限界まで戦った結果、双方がいちおう納得の協定ラインが設定されていた。
《でも絶対大きくなってるよな? あれより……》
少しずつサイズを変えていって、そのうち協定を有名無実にする作戦か?
ここで突っ込むべきだろうか? だが証拠を見せろとだだをこねられたらどうする? ここには客観的に長さを測定できるメジャーなどない。うぬぬ、なんて卑劣な……
などと考えていると……
『で、何よ。またあたしの胸に文句つけにきたわけ?』
英二は首をふる。そろそろ本題に入らなければ。
《いや、そうじゃなくって、また来たんだ。回答が》
回答というのは、もちろん先日の質問への回答なのだが……
『あ、そ。今度のはだいじょうぶなの?』
脳内瑞希はしらっとした表情だ。
《分からないって。そんなの。でも一応連絡ぐらいはしてみようかと……》
『はいはい。了解了解』
彼女はもうすっかりやる気を失っている。
だがそれは英二も同様だった。
彼らが懐疑的になっていたのは、次のような経緯があったためだ。
―――質問を出した次の夜、英二が再びノートパソコンを開いてみると一日しか経過していないのにたくさんの返答が書かれていた。
『うわ。はやっ!』
どのくらいで返事がくるのか心配だったのだが―――彼らは勇んで答えを読んだ。
悪い霊に取り憑かれたというのが狐付きのような物だとしたら
まずは精神疾患を疑うべきでしょう
精神科の先生に相談して下さい
症状はどなっているかもっと詳しく書けや。でなきゃ分かるもんも分からん。
あんた俺たちが超能力でも持てるって考えとんのかボケが。
そんな態度で人に訪ねるって失礼だって分かってる?
憑かれましたか。そうですか。私も憑かれてしまいました。なんども憑かれてしまいました。憑かれるととても辛いです。わかります。心配ですよね。でも私はもうだいじょうぶです。そういうのすぐに治る御札がありました。こちらまで。これを買って張ったら本当にすぐ楽になりました。おためしあれ。
http://good.pardon.sellers.con/
どうして悪い霊だと判断しましたか。あなたには霊が見えるのですか。そんな人なら自分で解決できるのではないでしょうか。
多分あなたがそう思い込んでいるだけのように思えます。その子は恋人ではないのですか。ご家族はどう思っているのですか。まずはじっくり話し合いをして下さい。それからちゃんとお医者さんに見せて下さい。霊なんていませんから。このままではおかしな人に騙されてしまわないように注意して下さいね。
病院に行け。おまえがなw
《………………》
『………………なによ。これ?』
《いや、なにって言われても……》
『人が本気で悩んでるってのに、こいつらなに? からかってるの?』
脳内瑞希はぶち切れそうだが、一般人からしたらこっちの方がまともな反応なのでは?
『で、次のページは?』
《え?》
ぶすっとした声にうながされてよく見ると6件中1~5件とあるから、もう一つ答えはあるということだ。
そこで次のページを開くと……
憑き物祓いならこちらへ連絡してみたらどうでしょうか。
http://waritoma.tomonah.araiya.con/
「おおっ!」
『行ってみて。行ってみて!』
《おうよっ!》
英二はそのホームページにアクセスしてみた。
そこには商売繁盛とか医者にも不明な体調不良の際は、などと並んで……
という効能書きが書いてある。
『これっていけるんじゃない?』
《うん。そうだね》
英二たちはその連絡先にメールを送ってみた。
すると翌朝には返事が来て、直接電話してくれと電話番号が書いてある。
そこでその日の晩に英二は恐る恐るその番号にかけてみたのだ。
「あの……メールで連絡しました、高祖っていますけど」
『あ、高祖さんですな。おおきに』
電話に出たのは気さくな感じの関西弁のおじさんだった。
「あの、どうもありがとうございます。それで相談なんですけど……」
『ああ、それでちょっと見させて頂いたんですが、そんな悪いもんでもおまへんがな』
「え? 見たって?」
『霊視ってもんでんがな』
「メールだけ分かるんですか?」
『ま。こうゆうのは高祖さんがわしらにお願いしよって思われた時点でご縁ができますさかいに。悪い奴だとそこでもうこっちの体がぎしぎしいいはじめます』
そうなんだ……
『でもそのお方なあ、決して悪いお方には見えへんでしたが。ま、悪い奴の中にはええもんのふりしてるのもおりますさかい、もっと詳しく見なあかんとは思いますけど。それで、高祖さんのそのお友達の名前やら住所やら、教えてもらえますか? これって職業上の秘密ですさかい、他には誰にも言いまへんから』
英二はうなずいた。そして彼が……
「わかりました。えっとその子の名前は叶瑞希っていって、住所は東磨市の……」
そこまで告げたときだ。
『東磨? そこって福崗県の東磨でっか?』
いきなり祓い屋さんが割り込んできたのだ。
「はい。そうですけど?」
『それじゃ叶さんって……東磨のあの叶さんですか?』
「は? はい。多分」
『そんなお方がどうしてまた憑かれたりしますか? ありえまへんがな?』
「へ?」
どういうことだ?
「えっとそれが……憑いてるのはもしかしたら猫又の霊かもしれなくって」
英二がともかくそう説明すると、祓い屋さんはしばらく絶句する。
『………………猫又……でっか?』
「え? はい……それに関係してるのが立花って子で……」
『たちばなぁぁぁ?』
祓い屋さんの声がなんだか裏返っている。
「あの、えっと?」
『すんまへん』
「へ?」
『この件からは手ぇ退かせてもらいます』
「え? えええ?」
『この界隈で東磨の叶さんや立花さんを知らんかったらやってけまへんがな。それに立花さんがそんなこと、何かの間違いに決まってます』
「え? あの、でも……」
『それって叶さんのところにちゃんと相談されました?』
「え? それは……」
『だったら悪いことは言いまへん。ちゃんとお話しなさい。ほんじゃまたご縁がありましたらよろしゅう』
電話はカチャリと切れてしまった。
………………
…………
……
えっと、これはなんなんだ?
『どういうことよ? これって?』
《要するに……立花って名前にびびって……逃げたってこと?》
『はぁぁぁぁぁ? なに寝ぼけたことを……』
などと言われてもそれ以外にどんな解釈があるというのだ?
英二も瑞希も茫然自失だった。
それから二人がやっと気を取り直して質問サイトを見直してみたら、また別な連絡先が書いてあった。
そこでそちらに連絡をしてみたのだが―――そのときの返事はこうである。
高祖様へ
どのようなトラブルがあったかは存じませんが、普通の人には立ち入ってはならない領域というものがございます。それを踏み越えてしまったらもう戻っては来られません。悪いことは言いませんから、その子のことはお忘れなさい。
『なんなのよーっ? これって!』
《そんなこと言われたって……こういうのはみっちゃんの方が詳しいんじゃ?》
『知らないわよ! そんなの!』
そこで最後はもうダメ元で、三番目にあった怪しい御札のところにもコンタクトしてみたのだが、そこでさえも門前払いされてしまったのである。
要するに“東磨の立花”というのはその界隈ではとんでもない大物で、彼らが相手にしているのはそんな敵だったのである。
二人のテンションがだだ下がりになったのもやむを得なかった―――
『んで、今度のとこってどーなのよ?』
瑞希が投げやりに尋ねる。
《んー、こんな感じかなあ……》
彼女が変わってしまったのですか。それは大変心配でしょうね。
こちらなら相談にのってもらえるかもしれません。
http://ayashii.shukyo.con/
『へー。んで、どーすんのよー』
《一応連絡してみるけど》
『どうせまたアレなんじゃない?』
《とはいってもさあ……》
この作戦がダメとなると本当に手の打ちようがないではないか。
ぶつぶつ言いながら英二はメールを書いた。やりとりの手間を省くために、もう東磨の叶や立花が関わっていることは最初から明記しておく。
《どうせまたダメだろうけど……》
英二も瑞希も結果にはまったく期待していなかった。
ところが翌朝―――なんとOKのメールが返ってきていたのである。
その祓い屋の名は“湯川ミヤコ”といった。
翌日の夕方。
英二は駅前の青木屋という喫茶店でそわそわしながら待っていた。
この店は東磨に古くからある老舗で、外観も内装も昭和の雰囲気を色濃く残している。
店の一階は洋菓子屋になっているが、ここのケーキはわりと有名で県外からわざわざ食べにくる人もいるという。
だがそれゆえにお値段も少々高めだった。
《あー、痛いなあ……》
そうつぶやいた英二に、テーブルの砂糖壺に座っていたミニ瑞希が突っ込んだ。
『だーかーら、謝ってるでしょ? しつこいと嫌われるわよ』
《いや、頭じゃなくって出費の話だって》
『あ、そっちね……』
英二は思わずベッドから落ちてできた額のコブをさすった。
「あたっ!」
まだけっこうズキズキするのだが―――どうしてそうなったかというと、夕べ英二が熟睡している間のことだ。脳内の瑞希がぼけっと考えごとをしていて、そこで思わずいつもの調子で飛び起きようとしたら、なぜか英二の体まで一緒に動いてしまったのだとか。
だが動きが中途半端だったせいでベッドから転がり落ちてしまって、フローリングの床に受け身も取れずに顔面着地したのだった。
それからしばらく英二は床でのたうち回っていたのだが、そのリアルな痛みは彼女にも十分伝わったらしく、これからは気をつけるからと殊勝に謝られていたのである。
そういう痛みは我慢すればすむのだが……
《やっぱり湯川さんの分も僕が払うんだよね……こっちが依頼してるんだし……割り勘とかいったら断られちゃうかなあ……》
『でもあんたお金あるの?』
《ぎりぎりここ払うくらいは……でもそうしたらあと一週間……ううう……》
こればかりは我慢のしようがなかった。
もちろん英二の前には一番安いブレンドコーヒーだけが置かれている。
ミニ瑞希がためいきをつく。
『やっぱアクドとかにしとけばよかったんじゃないの?』
《だってやっぱああいうとこじゃ……》
『ふっ。見栄は身を滅ぼすのよ』
《ってか、ここがいいって言ったのは君じゃないか》
『いい場所なのは確かでしょ? あんたの経済状態までいちいち知らないし』
ぐぬぬぬ。
などと英二がミニ瑞希と言い合っていると、かららんとドアベルが鳴って若い女性が入ってくるのが見えた。
サングラスをして髪は金色に染めている。ちょっときつい感じだが美人といっていい。年齢は二十代の後半といったところだろうか。けっこう化粧は濃いめだが……
その女性は店内を見渡すと、奥のボックスにいた英二に目を止めて軽く手をあげた。
「高祖君?」
「あ、湯川さんですか?」
湯川ミヤコはにっこり笑うと英二の正面に、ちょっと前かがみになって座った。
とたんに彼女の豊かな胸が視界に飛びこんでくる。
英二は思わずごくりと唾をのんだ。
ミヤコの服は胸元が大きくカットされていて、そこから深い谷間が覗いている。
『あん? どうしたのよ? あれじゃおっきすぎるんじゃないの?』
砂糖壺のミニ瑞希がにやにやしながら突っ込んでくるが……
《だってあんな風になってたらそりゃ……》
今まで写真や動画でしか見たことのなかったモノが、すぐそこに圧倒的なリアリティをもって提示されているのだ。そのまごうことなき真実を前にしては、つまらぬ主義主張などはひとえに風の前の塵に同じなわけで……
『もしかしてあそこになんか挟んでもらいたいとか?』
《う、うるさいっ!》
英二は彼女を強制的にミズキハウスに押し込めた。
『こらー。横暴だぞ!』
《テレビで見てろって!》
と、そこでミヤコが英二を興味深そうに眺めているのに気がついた。
「大きい女の人とデートって初めて?」
英二はかっと顔が熱くなる。
「ええっ、いや、まあその……」
「うふ。かわいいわね」
「………………」
胸の谷間に見とれて言葉が出なかったと思われたのだろうか?
いや、かなり実際それもあるのだが―――英二はまだ脳内瑞希のことを話していいのかどうか迷っていた。いきなりそんなことを言いだしたら本当におかしな奴だと思われてしまうかもしれないし、それだけは避けたかった。
そこにウエイトレスがやってきたので、ミヤコがケーキセットを注文する。
《うわ、やっぱセットか……この店じゃ当たり前だよな……》
と、英二が心の中で落涙していると、彼女が向き直る。
「それじゃご依頼の話をしましょうか」
「あ、はい」
「メールは読ませてもらったんだけど、いくつか質問していいかしら」
「あ、はい。もちろん」
ミヤコはにこっと笑う。
「それじゃ……猫又の霊に憑かれたっていう叶瑞希さんなんだけど……」
「はい」
「彼女ってあなたの恋人?」
ぶはっ!
英二は飲みかけのコーヒーを吹きだしそうになった。
「ど、どうしてですかっ?」
「だって普通、好きでもない子のためにここまでしないでしょ?」
それは確かに核心を突いている。
「ん、まあ、そうですけど……」
「ってことは……片思いなんだ」
げほっ!
もしコーヒーを口にしていたら確実に噴いていただろう。
「い、いや、えーっと、あの、これってそんな大切な質問なんですか?」
あわてる英二にミヤコは真顔で答える。
「もちろんよ。この領域では人と人の縁というのがとっても重要になるの。だから除霊したいっていう彼女とあなたがどんな関係なのかは、知っておかないとまずいのよ」
「…………はい」
英二は赤くなってうなずいた―――すると視界にまたミヤコの胸の谷間が入ってきて、よけいに顔が熱くなる。ミヤコはにこっと微笑むと続けた。
「それで高祖君は、その瑞希さんの人格が急に変わってしまったから、何かに憑かれたと思ったのよね?」
「はい。そうですが」
「でも、女の子って変わるのよ? 特に好きな人ができたりしたら。たとえば……彼女が本当にそのちよこちゃんのことが好きだってことはないの? 女の子同士で思いを秘めてるってだけでも大変なことよね?」
「えっと……」
英二が口ごもった瞬間だ。脳内インターホンのチャイムが鳴りひびく。
彼がそれをONにすると……
『ドアホー! そんなことあるわけないからねっ! 勝手なこと言うんじゃないわよっ!』
英二はちょっと苦笑すると答えた。
「それは多分、ないと思います」
そう答えてしまってから、なぜそう思ったのだと突っ込まれたらどうしようと心配になったのだが……
「そう……」
ミヤコはそう言って微笑んだだけだった。
「で、その元凶が立花さんだってことなんだけど。これ、何かそう思う理由があるの?」
その質問に関しては一応の答えは用意してある。
「多分なんですが……立花さんの方が彼女を好きだったんじゃないかなって。でも相手にされなかったんで猫又を使って無理矢理……とかじゃないかなと……」
それを聞いたミヤコは目を丸くした。
「そんなことをみんなに言ってまわってるの?」
英二は顔から血の気が引いた。
「いえっ! こんなこと言ったの、湯川さんが初めてですっ!」
真っ青な英二を見てミヤコはまた微笑む。
「あまり言いふらさない方がいいわね。間違いなく誤解されるから」
英二はがっくりした。どうやらこれってやっぱりいい病院を紹介してくれるパターンなんだろうか? 主に英二用の……
「湯川さんも僕がおかしいと思いますか?」
英二は思わず尋ねていた。
だがミヤコは即座に首をふったのだ。
「いえ。信じてるわ」
「え? 本当ですか?」
ミヤコは真剣にうなずいた。
「ええ。もちろん。来る前に霊視してきたんだけど、その瑞希さんにはすごく強い霊が憑いているのは間違いないから」
それについては最初の拝み屋さんのときと一緒だが……
「そうなんですか? でも、それじゃ……そんな強い霊を払うのって、大変なんじゃないですか?」
ミヤコの表情が少し険しくなった。
「それはその通りだけど……でも私にも神様がついてらっしゃいますから」
「………………」
これって安心していいのだろうか? 少し前までなら間違いなく怪しすぎてお話にならないセリフなのだが……
でも今はまさにその神様に頼らなければならなくなっていた。
「確かに東磨の立花や王丸ってこの界隈ではよく知られているわ。とても強力な祓い屋一族の名前としてね」
きらりとミヤコの目が光る。
「王丸さんって今はやってないそうなんですけど」
「こちらではね。でも東京の方ではずっと活躍なさってるのよ」
「そうなんですか?」
祓い屋同士、けっこう横のつながりがあるのだろう。
「でも今までそんな悪い噂は聞かなかったんだけど……」
ミヤコはちょっと首をかしげて続けた。
「でも、こういう世界にいたら誰だって闇に堕ちてしまうことはあるしね」
「え?」
闇に―――堕ちる?
「その立花ちよこっていう子があなたと同い年なら、それこそ若さゆえの過ちってこともあるでしょうし……式神とか使い魔はそれ自身は善でも悪でもなくて、使役する者の命に従って動くものだから」
「………………」
ミヤコは少し深刻な顔で続けた。
「相手がそんなだとすれば……少し慎重に事を運ぶ必要があるでしょうね……」
そう言ってミヤコは考え込んだ。
英二はぞっとした。もしかしてえらいことになりつつあるのでは?
「あのそれで……どういうことをするんですか」
英二の問いにミヤコははっと顔を上げる。
それからちょっと言いにくそうなようすで切りだした。
「つまり、その瑞希さんの中に入っている“魔”を追いだして調伏しなければならないんだけど、でもそのためには……」
「はい」
「その瑞希さんご本人に来てもらわないといけないんだけど……」
「え?」
ご本人に来てもらう?
「霊視だけなら遠方からでもできるんだけど、除霊ともなるとさすがにね……」
言われてみればまったく当然の話だった。
「でも彼女を連れてくるって……」
彼は瑞希の遠い親戚にしかすぎないのだ。それがいきなりちよこ抜きで一人で来てくれと言っても怪しまれるに決まっている。
英二は頭をかかえた。
そのようすを見てミヤコが言った。
「もし呼んでも来てもらえないのなら……ちょっと強引な方法に頼るしか……」
「え?」
強引な方法?
その言葉の意味が染みわたるにつれて、体から血の気が引いていった。
「それって……もしかして、その……さらってくるってことですか?」
「分かりやすく言えばそういうことになるかしら」
「でも、それって、その、犯罪ですよね?」
だがミヤコはそんな彼の目をまっすぐ見つめると答えたのだ。
「ええ。そうね」
………………
…………
……
英二は凍りついてしまって言葉が出せなかった。
そんな彼にミヤコが静かに語りかける。
「もちろん。だから、やめるのなら今よ?」
「………………」
英二はうなずこうとした。だが……
「でもそうなれば、彼女を見捨てるってことになるわけだけど……」
………………
…………
……
見捨てる?
その言葉は英二の魂を打ちのめした。
もしここでやめてしまったらどういうことになる?
脳内の瑞希は相変わらず英二の頭の中に居座りつづけることだろう。
それはたしかに迷惑な話だが―――問題はそれだけではない。
まず瑞希の本体だ。彼女は怪物に乗っ取られたままになるわけだが、そんな状態を続けていてだいじょうぶなのか? 元に戻れなくなったりはしないのか?
脳内瑞希についてもずっと今の状態でいられる保証なんてないし……
この先に良い手段が見つかる見込みがあるのならともかく、それがないのならこのチャンスを逃したらダメなのでは?
―――でも、そのために今やろうとしていることは間違いなく……
そんな考えがぐるぐると頭の中を駆けめぐる。
「高祖君」
ミヤコが少し乗り出して英二をじっと見据えていた。
「はい」
「あなたはどうして瑞希さんを救いたかったの?」
「え?」
「恋人でもないのなら、他人としか言いようのない人でしょ?」
「それは……」
口ごもってしまった英二にミヤコが続ける。
「よくあるのよ。街を歩いていたら、悪い物に憑かれて辛そうにしてる人が。私には見えるから。ちょっと祓ってあげればすぐ楽になるのにって思うんだけど……でも、それだけ。こちらからそういうことはしないの」
「どうしてですか?」
「だって、頼まれてないから。そういうことに首を突っ込んだって面倒ごとにしかならないから……だっていきなり祓い屋と称する人がやってきて、あなたに悪い霊が憑いているから祓いなさいと言ってきたら、高祖君ならどうする?」
「………………」
「それにね、『人を呪わば穴二つ』ってことわざは知ってるかしら? お祓いっていうのは、祓う側にもダメージが来るものなの。ある意味私たちは命を削ってやってるのよ」
英二は最初の祓い屋が依頼されるだけで体がぎしぎしすると言っていたのを思いだした。
「そういうものだから普通は報酬もなしに善意だけではやってられないのよ。だから悪霊のせいで転げ落ちていってる人を見ても、知らんぷりをするわけ。ちょっとはアドバイスするかもしれないけどね。で、高祖君……」
「はい?」
「それってどう思う?」
どう思うだって?
そんなことを問われても……
「確かに間違ってはないですけど……」
「けど?」
「なんというか……釈然としません」
ミヤコはにこっと微笑んだ。
「そうよ。あたしもそう。ずっとそれでいいのかなって考えてきたわ。できる限りのことをしてあげるのが本当は正しいのではって。それが相手にとって、今は望まれないことだったとしても、本当にその人のためになるのならって……」
それからミヤコはさらに体を乗り出して英二を見据える。
大人の女性の甘い香りが英二の鼻をとらえた。
「私はあなたがそう望むのであれば、お手伝いをしてあげられるわ」
「え?」
「あなたの望み……それはなに?」
「………………」
英二の? 望み?
そのとき脳内でチャイムが鳴った。
《なんだよ》
『あんた、マジでやる気?』
なんだか心配そうな声だ。
《え? どうしてだよ》
『いや、だってほら、そんなことしたら……英二君が……』
《だって君、前に立花さんを倒せとか言ってたじゃないか。それよりは……》
『バッカなの? あれってその場の勢いでしょ。でも今度は……』
いつもと違って妙に弱気だ。
そんな彼女の声を聞いて逆に英二は心を決めた。
《わかった。ありがとう》
『ありがとうって……どういうことよ?』
英二は脳内インターホンのスイッチを切ると顔を上げた。
「僕は、瑞希を救いたいん……です」
答えを聞いた湯川ミヤコは満面の笑みを浮かべる。
英二は胸がどきりとした。
それからミヤコは座り直すとコーヒーをすすった。
「そう。分かったわ。それじゃ本格的な作戦を練らないとね」
「作戦、ですか?」
「そうよ。瑞希さんに来ていただくための作戦を考えなきゃ」
そうだった―――だが……
「それで彼女のスケジュールとかは分かる? クラブとか塾に行ったりとかの」
「えっと……分かるとは思うんですが、でも最近どこに行くにしても立花さんが一緒で」
この一週間、英二はずっと暇があれば立花ちよこと瑞希本体の監視を続けていた。
学校ではいつでも多くの学生に囲まれているし、薙刀部の練習にもちよこは付きそっている。行き帰りももちろん一緒だ。休日には相変わらず二人で街中をうろうろして何かを探している。
要するに英二は彼女たちが別々にいる姿を見たことがなかった。
「そうなの……それじゃ夜寝ているところを? でも、番犬とかがいたりするかしら?」
そうつぶやくミヤコを見て英二は蒼くなる。
《それって夜中に侵入する気なのか?》
だがすぐに通学途中で拉致するのも大して変わりないことに気づいて苦笑する。
「二人は夜も一緒みたいで……それに隣が春華おばさんの部屋だって聞いたし」
「それってかなり大変ねえ……」
たとえ決心がついたとしても具体的に実行するとなると話は別だった。
そのときまた脳内チャイムが鳴った。
《なに?》
『いい方法があるわよ?』
「え?」
英二は思わず声を出していた。
「どうしたの?」
「いや、思いだしたことがあったんで……ちょっと待って下さい」
英二はあわてて考え込むふりをする。
《いい方法って?》
『土曜日の夜なんだけど、奥殿でご祈願するのよ』
《ご祈願?》
『うん。本家のご当主がね、しきたりで。で、あたしも跡取りだからやれって言われてんだけど、週三回もなんて面倒くさいじゃないのよ。だから週一回、土曜の夜にしてもらったんだけど。そこだったらちよこでも入って来れないわ』
《どうして入って来れないんだ》
『ご当主が絶対一人でってしきたりなの』
《なんかすごいしきたりがいっぱいあるんだな……》
『本当よ。まったく。肩こっちゃう』
《でも、そんな誰も入れないところにどうやって入るんだ?》
『いや、別に入れないって言っても密室とかじゃないから。あんた覚えない? ママの部屋から奥に延びる廊下があって、行ったら怒られたこと』
《あ、たしかそういえば……》
『あの先は裏庭になってて、奥殿ってそこにある祠なの。その前で祝詞を上げてるだけだから、入ろうと思えば入れるのよ。奥のご神山の方からも』
《あ!》
叶邸の裏山が東磨神社のご神体なのである。なので山全体が一般人立ち入り禁止になっていて―――ならばそちら方面の警備はわりと薄いのではなかろうか?
《でもいいのか? そんな情報教えて》
『なに言ってるのよ! こうなったらしょうがないでしょ! もう怖じ気づいたの?』
《いや、そういうわけじゃないけど……》
いざとなったら女の方が肝が据わるというのは本当らしい……
―――そして英二は顔を上げる。
彼の話を聞いてミヤコはうなずいた。
「まあ、確かにうまくいきそうだけど……よくそんなこと知ってたのね」
「え? いや、叶さんのところにはよく行くんで。お神楽のときとかに。そこで話してるのを聞いて……」
英二はあわててごまかした。
「そうだったの」
ミヤコはうなずいたがまだちょっと納得いかなそうだ。
だがそれよりも英二は別なことが気になっていた。
「でもそれって僕たち二人でやるんですか?」
それを聞いたミヤコが吹きだした。
「私とあなたで? まさかあ!」
「でもそうしたら……」
するとミヤコはちらっとウインクする。
「ま、こんなとき頼りになる知り合いがいるからだいじょうぶよ」
こんなとき頼りになる知り合い? ってどういう人たちなんだ?
英二はますます心配になったが、あまり詳しくは突っ込まないことにした。
それから二人はもう少し細かいことを話し合い、それが一段落したときだ。
「それで今回の謝礼の件についてなんだけど……」
ミヤコがおもむろに切り出した。
英二は硬直した。ついに―――この話題が出てしまった!
「はいぃっ!」
いくら請求されるのだ? 成功すれば瑞希の貯金が十万くらいはあるらしいが―――でも後払いでだいじょうぶなんだろうか?
「あなたのお小遣い、一ヶ月分でどうかしら?」
………………
…………
……
「はい?」
英二は耳を疑った。
「あの、僕の小遣い、一ヶ月、ですか?」
「ええ」
「えっと……あの、僕のお小遣いってその、すごく少ないですよ?」
ミヤコはそれを聞いてにこっと笑うと、胸がぷるるんと震えた。
「ふふ。分かってるわ。でもね、違うのよ。金額の多い少ないではないの」
「でもそれじゃ……」
「世の中には百万円だってはした金の人もいるのよ。でもお小遣いが一ヶ月飛んだら、あなた、どうなる?」
「え? それはまあ……」
想像しただけで恐ろしい。まさに大変、なんてものではない。
ミヤコがまた体を乗り出してきて英二にささやく。
「私が欲しいのはね、その人にそれだけの覚悟が必要な金額、ってことなの」
「あの……ありがとうございます」
英二は定まらない視線で答えた。というか、まっすぐ前を向くとどうしたって彼女の胸の谷間が目に飛び込んできてしまって―――げふんげふん。
ともかくだ。
《なんだかとってもいい人だな……》
こんな親切な人が見つかったというのは、すごく幸運だったのではないだろうか?
ともかくこれできっとうまくいくに違いない。
だとすれば残りの心配は―――ここの支払いだけだ!
土曜日。ついに計画実行の夜がやってきた。
「それじゃ行ってきます」
「行ってらっしゃい」
なにも知らずに送り出してくれる母の姿に、英二は心が痛んだ。
この夜の彼は天文部に誘われて、学校で泊まり込みの観測会に参加するという触れ込みになっているのだ。
《うう、ごめんなさい……》
そのために親の許諾書まで偽造してみたりして―――なんだかどんどん転落していっているような気がするが……
「はあ……」
ため息をつきながら英二は、自分がこういうことにはまったく向いていないことを再認識していた。
やめるならまだ遅くはない。まだ引き返すことはできる。
『ねえ、英二くん』
そのとき自転車のハンドルに座っていたミニ瑞希がふり返る。
《なに?》
『やっぱりやめる?』
‼
彼女にも英二の動揺が分かるのだろう。同じ体に同居しているせいか、言葉にならない互いの気持ちが漏れ伝わってきてしまうこともあるのだ。
瑞希がそう言うのなら……
英二は思わずそう答えてしまいそうになって、それから首をふる。
違うだろう? これは彼が決めたことなのだから。
《いや、行くよ》
『……ありがとう』
そう。ここでやめるわけにはいかないのだ。そんなことになればいつまでも彼女はこの実体のない姿のままなのだ。
その体を取り戻してやると心に決めたのだから。
―――英二はそう自分に言いきかせると、待ち合わせの場所に自転車を走らせた。
国道沿いの駐車場に着くと、手はずどおりに紺色のワゴンが停まっていた。
あたりに人気はない。
自転車を置いて示し合わせた合図をすると、すっとワゴンの扉が開く。その中に英二は恐る恐る乗り込んでいった。
「おう。時間どおりだな」
助手席に座っていた角刈りでやたらガタイのいい男がふり返る。
「はいぃ……」
英二は中の男達を見て縮み上がった。
《マジ、ヤクザじゃないのか? この人たち……》
『あははは。右の人とか、入れ墨入ってない?』
《ひぃぃ!》
全員、英二より二回りは体が大きくて、逆らったりしたらひと捻りでくびり殺されてしまいそうだ。
彼が乗り込んだのを確認すると助手席の男が携帯で電話する。
「ミヤコ様ですか。こっちは準備できてます……ああ、わかりました。それじゃ」
男が運転手にちらっと目配せすると、車はすっと動き出した。
《これでもう……あとには退けないんだよな……》
ルビコン川を渡ってしまったというやつだ。
ワゴンはしばらく国道を走っていたが、やがて畑の間の狭い農道に入っていく。続いて雑木におおわれた急斜面沿いになり、終端にはちょっとした空き地があった。
ワゴンが停止すると乗っていた男達がみんな降りていく。
「ここでいいんだな?」
角刈りの男が英二に尋ねる。
「はいぃ」
英二はうなずいたが声が裏返ってしまった。
すると男がぽんと英二の肩を叩いて笑いかけた。
「ボウズ。落ちつきな。彼女を助けるんだろ?」
「え? あ、はい……」
「こういうときはまず深呼吸しろや」
「あ、はい……」
英二は言われるままに深呼吸する。少しは緊張が収まってくる。
「で、入り口は?」
「えっと……」
英二は懐中電灯を点けると、森の斜面につけられた踏み跡をさした。
「そこの小道を入っていくとそのうち柵があって、その先です」
このあたりは叶邸の裏手付近で、子供の頃よく遊び回ったところだった。
「よし」
角刈り男がうなずいた。
英二は頭の中で作戦を反芻していた。
ここから入っていくと叶邸の裏山に出る。途中に鉄条網の柵があるがそれ以上の障害はない。鉄条網を切ってしまえばもう叶邸内だ。
時刻は七時四十分。八時になれば瑞希が一人で奥殿に出てきて祈願をはじめるはずだ。
男達はそこから彼女を連れて川向こうの廃工場に向かう。そこで湯川ミヤコが除霊の準備を整えて待っている手はずだった。
瑞希の体に憑いている霊さえ祓ってしまえば脳内瑞希が体に戻れるだろう。そうなってしまいさえすればあとは、何とでもできる。
《とはいってもなあ……》
果たしてそんなにうまくいくのだろうか?
湯川ミヤコが言うには、除霊はときに何時間もかかることがあるという。
その間に見つかってしまったら……
祈願の時間は十五分ほどだというから、三十分以上たって戻らなければさすがに怪しまれるだろうし、いなくなったことが分かれば警察に連絡がいくことだろう。
《警察……?》
今さらながらに英二は事の大きさに体が震えてくる。
と、それまで英二の肩の上で黙っていたミニ瑞希がぴょんと手の上に飛び降りてきた。
『英二くん』
《え?》
彼女は親指を上げると……
『がんばれ!』
と、微笑んだ。
その姿になぜか英二の心が和む。
《サンキュ》
気づいたら体の震えも収まっている。
「それじゃそろそろ時間だな」
「はい」
角刈り男の言葉に英二は小さくうなずいた。
それから英二はミニ瑞希を部屋に戻すと、男達を案内して踏み分け道に入っていった。
道といってもほとんどケモノ道のようなものだ。
藪をかき分けながら斜面を登りきると鉄条網の柵で行き止まりになっている。
子供の頃は体が小さいからその下をくぐり抜けて行き来したりしたのだが、さすがに今の彼らには無理な話だ。
そこで男の一人がワイヤーカッターを出すと手際よく鉄条網を切っていった。
それからまた英二が男達を率いてその先の斜面を下っていく。
《こっちでいいんだよね》
『そうそう。そこから左よ』
中に関しては彼女が知り尽くしていた。ここは東磨神社のご神域なのだが、彼女には単なる子供のころからの遊び場所なのだ。
森はすぐ尽きて叶邸が見えてきた。
「あそこです」
英二が裏庭の祠を指さすと、ちょうど瑞希らしい人影が出てきたのが見えた。
「よし。それじゃお前はここで待ってな」
そう言いのこして男達は行ってしまった。あんなに体が大きいのに、ほとんど物音が聞こえない。本当にこういうことのプロらしい。
取り残された英二は急に心細くなってきた。
《だいじょうぶかな……》
『だいじょうぶよ。きっと……』
と、そのときだ。後ろからかさかさっという何かが歩くような音が聞こえた。
「え?」
ふり返った途端、明るい光で目がくらむ。
そして……
「こんなところで何してるのかな? 高祖英二君?」
尋ねてきたのは―――警察官だった。
市の郊外にある東磨工業団地。
バブルの頃にはある程度のにぎわいを見せていたこの場所も、不況になって以降ほとんどの企業が撤退してゴーストタウンと化していた。
そんな廃工場のひとつ、普段なら人っ子ひとりいないはずのその場所に、今日はなぜか明かりがゆらゆらと灯っていた。
使われなくなったフロアの中央に護摩壇が作られて、井桁に組んだ薪の中には炎が高く燃え上がっている。
壇の前には人がひとり横になれそうな場所がしつらえてある。
周囲には高い燭台がいくつも置かれて、全体がしめ縄で囲われている。
護摩壇の前には白装束の女―――湯川ミヤコが御幣を手にして待っていた。
「ふふふ。さあ、宴の始まりよ……」
ミヤコは上機嫌でつぶやいた。
「いつぞやはいいようにしてやられたが……」
今回はおもしろいほどに上首尾だ。
本来なら叶家の令嬢になど近づくことさえできないはずなのだ。
だからあのお目出たい高校生に出会えたのは、それこそ神のお導きなのだろう。
あの―――喫茶店でコーヒー代を払ってやっただけで涙目になっていた少年のことを考えたら、まったく笑いが止まらない。
こんなまたとないチャンスを与えてくれるとは!
東磨―――かつては倒魔ヶ里とも呼ばれたこの地を統べる者。叶一族。
その名はもはやこの業界では伝説の域に達している。
その叶の令嬢に憑き物がついたなど、にわかには信じがたい話だった。
だがあの少年の言うとおり、叶瑞希には本当になにかとんでもない物が憑いていた。立花の猫又であってもおかしくないほどの強力な何かが……
ということは、叶家で内紛でもあったのだろうか。
立花一族というのはずっと叶の配下だったはずなのだが。
だがそれが反逆して、娘を支配されてもどうにもできない状況なのだとしたら……
「それを落としてやったとなれば……」
そうすれば叶本家にこの上なく大きな貸しを作ることになるわけだ。
それがどれほどの価値を生み出すことか……
「ふふ……今にみてなさい?」
我が身に降ろした神の存在をミヤコは感じとる。
このお方がいて下さる以上、相手が何物であれ負ける気がしない。
湯川ミヤコはほくそ笑んだ。
「それにしても、いったいどうやってかぎつけたことやら……」
あの少年に霊は見えていない。
それなのに彼女がなにかに憑かれていることを―――間違いなく極秘にされていたことだろうに、それをあちらこちらに言いふらしていたのだ。
おおかた片思い相手を立花ちよこに取られたと思って、逆上してそんな妄想をしたというあたりが真相だろうが……
でもまぐれ当たりがホームランになることだってある。
ともかくあの娘さえ押さえてさえしまえば、あとはどうにでもなる。
「ふっ。いつぞやの礼、たっぷり返させてもらうわ!」
ミヤコがそうつぶやいて口の端を歪ませた―――と、そのときだった。
「にゃんだ。あのときの小娘かにゃ?」
彼女があわててふり返ると―――そこにはセーラー服姿の少女が立っていた。
背のあたりで切りそろえられた黒髪に護摩の炎がてらてらと反射して、その中央からミヤコを見つめるその瞳は……
《金色……だと?》
背筋に冷たいものが走る。
「立花か!」
それを聞いた少女が―――笑った。
ミヤコはかっと目を見開くと印を結んで真言を唱えはじめる。
「なんの! お前ごとき……ナウマク・サマンダ・バザラダン……」
だがその途端に護摩の炎が一挙に燃えあがり、火の粉がぱっと散ると立ててあった御幣に燃え移ったのだ。
「ああっ!」
ミヤコはあわててその火を消すが―――護摩の炎が再び大きく燃えあがると、今度はその炎が真っ黒で巨大な猫の姿に変貌した!
本能的な恐怖がわき起こる。
「おのれぇ! 臨・兵・闘・者……」
彼女は反射的に九字を切りはじめた。
だがその炎の黒猫はミヤコのそんな印などまったく意に介さず……
「あー、とっとと帰れなのにゃ」
と、爪でミヤコを軽く一掻きした。
「んぎぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
体からがっくりと力が抜けて、そのまま地面に崩れおちる。
それを横目に少女は悠然とその場を去っていった。
遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。
カタカタカタカタ……
英二は警察署の殺風景な取調室にいた。
パイプ椅子にテーブル、小さな窓には鉄格子がはまっていて、天井の蛍光灯の端が少し黒ずんでチカチカし始めている。
彼の前には中年の刑事が座って手元の書類を眺めている。
カタカタカタカタカタカタカタカタ……
そしてずっと聞こえ続けているこの音は、英二の体が震えるのに合わせて古くなったパイプ椅子がきしんでいる音だった。
どれだけここに座っていたのだろう? 英二の頭の中はまさに真っ白だった。
と、刑事が見終わった書類をとんと揃えると、顔を上げて英二に言った。
「ちょっと軽率だったねえ。高祖君」
「はいぃ……」
心ここにあらずと言ったようすで英二が答える。
「誘拐っていうのはけっこう重い罪なんだよ? 最悪、無期懲役もありえるんだから」
「ムキィチョーエキィ? デスカァ?」
声が完全に裏返っている。
「今回の事件じゃなあ。形式的にしろ、君がそれを依頼して実行にも荷担したって立場になっちゃうわけで、これってもう犯罪の首謀者ってことになるよね?」
それを聞いた英二の背筋が冷たくなっていく。
「ハンザイノォ……シュボーシャァ……デスカァ?」
そのまま魂が抜けてしまいそうだ。
だが刑事はまた手元の書類を眺めると、白丸眼で怯えきった英二に言った。
「でもまあなんだ? その動機っていうのが、叶さんのお嬢さんが悪い霊にとり憑かれてしまったから、お祓いしてもらいたかったってことで?」
「はひぃ……」
「それでネットを通じて湯川ミヤコに依頼したってわけだよね?」
「はひぃ……」
刑事はクスッと笑った。
「実はなあ、湯川ミヤコってうちじゃわりと有名な人物でな。いわゆる新興宗教の教祖様ってやつで。もちろん日本じゃ信教の自由は保証されてるから、何を信じようと教えようと勝手なんだけど。でもその信者の集め方ってのがえげつなくって。それでマークはしてたんだが、なかなか尻尾を出さなくてな……」
「はぁ……」
「でもまあ今度ばかりは言い逃れできんだろうな。住居不法侵入、略取誘拐の現行犯とくればな。それに叩けばホコリはたくさん出てきそうだし、まあ結果オーライってわけだ」
刑事はにやっと笑った。
ということは?
「あの……それで僕は……」
英二がおずおずと尋ねると刑事はうなずいた。
「ああ。君はまだ未成年だし、ネットの書き込みとか、他の依頼についてももう裏は取れてるし、うっかり悪い奴らにだまされて知らずに協力させられたってことで、不起訴処分が妥当だろうね。前科にはならないからそこは安心していいぞ」
「えっと……それってその……」
「ああ。要するに無罪放免ってことだ」
むざい? ほうめん? 要するにお咎めなしということなのか?
それを実感したとたんに、体の力ががくんと抜けた。
「はあ……ありがとうございました……」
英二は礼をした勢いでごつんとテーブルに額をぶつけてしまった。
「おい。だいじょうぶか?」
「はひぃ……らいじょうぶ、れす」
はあ―――よかった。
頭の中はただそれだけだ。あんなことをしでかしてしまったというのに……
と、そんな英二にまた刑事が尋ねた。
「でも高祖君。どうして彼女に何かが憑いちゃったなんて思ったんだい?」
「え? それは……」
英二は口ごもる。彼がそう確信した理由を話すとなれば、それは脳内瑞希のことを話さねばならないのだが……
だが刑事は英二の答えを期待していたわけではないようだった。
「いやな、私だって霊魂の存在を信じてないわけじゃないんだよ?」
「え? 刑事さんがですか?」
英二が驚いて尋ねると、刑事はにやっと笑って答えた。
「はは。それがな、私もここに配属されるまではそんなの信じてなかったんだがね」
ここに配属されるまで?
「実は、何度か立花さんには捜査協力してもらったことがあるんだよ。迷宮入りしかかった失踪事件でな。そのときはぶっちゃけ署長の頭を疑ったもんだがね」
「はあ……」
「ところがやってきた神主さんが遺体の場所をぴたりと当ててくれてなあ」
「ええぇ?」
「もちろんそんなこと公表なんてできないから、発表じゃ山菜採りにいった地元の人が見つけたとかにするんだけど」
マジですか?
「だから公費ではあまり謝礼とかも出せなくて。それで署ではお神楽のときとかに全面協力するってことでね」
英二はちょっと納得した。東磨神楽のときには力仕事におまわりさんがいっぱい手伝ってくれるのは確かなのだ。
「で、今回も、何か怪しい奴が叶のお嬢さんを狙ってるかもしれないって、立花のお嬢ちゃんに頼まれてねえ」
「それって、立花ちよこ……さん?」
「ああ。彼女も若いけど、もしかしたらお父さん以上かもなあ」
な、なんだってーっ!
「その彼女に、最近お嬢さんを霊視してくる奴が妙に多くなって、その中に阿武迺教に関係してるのがいたって言われてな。そこって前に摘発したヤバい宗教団体なんだけど。それで張ってたら湯川ミヤコが現れてな。駅のカメラに写ってたんだよ。あの女は前はそこの信者だったんだ」
「えっと……そんなことも分かっちゃうんですか?」
「彼女が言うには、その摘発には雷ちゃんも参加してたそうだから」
「雷ちゃん?」
「立花さんのところの猫又なんだそうだ」
「………………」
「そこでミヤコを尾行していたら、君と駅前でなにやら密会してるじゃないか。で、今度の話につながるわけで」
「………………………………」
「だからこうやって今では心霊現象は存在するって信じてたりもするんだけどね」
それから刑事はまたにやっと英二の顔を見る。
「でもたいていの場合は“ただの気のせい”なんだからな?」
「え? はあ……」
英二が口ごもっていると唐突に刑事が尋ねた。
「高祖君。君って叶のお嬢さんが好きだったのかい?」
ぶはっ!
「ど、どして、その……」
毎回毎回、同じことを聞かれてしまうのだろう?
「はは。いいっていいいて。私もあのお神楽は見させてもらったけど、素敵だったね。おじさんも若返っちゃいそうだったよ。あはは」
「はあ……」
「でもね。人ってのは変わっていくものなんだから。ずっと君のイメージどおりでいてくれるわけじゃない。だから認めてあげないと。それが彼女の選んだことなんだろう?」
それってもしかして例の告白騒ぎのことだろうか?
とたんに頭の中でまたチャイムが鳴る。
『だーかーら、違うっていってるでしょうがっ!』
などと暴れられても正直どうしようもないのだが。
刑事は英二が悩んでいると勘違いしたのか、ふっと立ち上がって英二の横に来ると、ぽんと肩を叩いた。
「だったら思い切って君の気持ちを伝えてみたらどうだ?」
「はいぃ?」
いきなりなんですか?
「話しもせずに、相手が君の気持ちに答えてくれないなんてどうして分かるんだ?」
「え? それは……」
「それで当たって砕け散っても、そんな痛みはすぐに消えるさ。心おきなく次がはじめられるってことだしな。でも、勝手に自己完結してたってなにも始まらないぞ?」
………………
…………
……
自己完結していても、始まらない?
その言葉はなぜか英二の胸にぐさりと突き刺さった。
「そんなふうに迷ってる奴が、ああいう詐欺師の一番のカモになるんだ。悪霊なんかよりも生きてる人間の方がよっぽどたちが悪いんだからな?」
「……はい」
英二はがっくりうなだれた。
「それとだな、もう一つ……」
「はあ」
「湯川ミヤコの乳な、あれ偽物だから」
ぶはぁぁぁぁっ!
「手配写真じゃよくてBカップってとこだったのになあ。はっはっは」
とどめの一撃でHPが全てけし飛んだ英二の背中を、刑事がまたぽんと叩く。
「よっしゃ。分かったなら頑張れよ?」
「はひぃ……」
なにをぐぁんばれといふのだらう……
「じゃあ行ってよし。もう戻ってくんじゃないぞ?」
「はひ……」
ドラマのようなセリフに送られて取調室をあとにした英二は、まさに生ける屍だった。
と、頭の中にチャイムが響く。
《うん。おかしいだろ? 笑っていいよ》
『ちょっと、なに言ってるのよ?』
《笑いたきゃ笑えって。あは、あははは、あはははは》
それからがっくりと頭を落とす。カラ元気さえ出てこない。
『違うんだって。英二くん』
《なにが?》
『だから、その、ごめんね。本当に』
《え?》
英二は思わず聞き返していた。
『な、なによ。あたしが謝ったらそんなにいけないわけ?』
《いや、そうじゃなくって……ありがとう》
でも、彼女のせいではないのだ。間違いなくこれは自分でまいた種なのだ。この程度で済んで本当によかったのだ―――ともかく今はそれ以上のことは何も考えられない。
英二は再び大きくため息をつく。
警察署の廊下をそんなようすでとぼとぼ歩いていると、ふっと立ち塞がった人影がある。
「高祖君」
顔を上げると……
「立花さん?」
それはセーラー服姿の立花ちよこだった。
どうしてここに? と尋ねそうになって、さっきの刑事の話を思いだす。
今回の逮捕劇が彼女の通報から始まったのだとしたら、彼女がここにいて当然だった。
立花ちよこは冷ややかな眼差しで英二を見据えた。
「これで分かったでしょ? 半端な気持ちでこの領域に近づいたらどういう目にあうか」
「え? ああ……うん」
「これに懲りたらもうあんなことはしないで。お願い」
いったいどう返答したらいいのだろう?
ところがそこでちよこはポシェットからいきなり携帯電話を取り出すと、戸惑う英二に向かって差しだしたのだ。
「え?」
「後で聞きたいこともあるから、メアド教えて」
「え?……うん」
英二は反射的に自分の携帯を出すと彼女とメアド交換を行った。
電話帳にちよこの番号とアドレスが登録される。
かわいい女の子とのメアド交換―――本来なら最高に心躍るイベントのはずなのに、今回だけはちっとも嬉しくない。
英二はいまメアドを交換した少女を見た。
《けっこうかわいいんだよな……ちょっと怖いけど……》
圭輔がご執心になるのは理解できる。
だがこのときの英二が感じていたのはもはや、畏怖の念とでもいうべきものだった。
《いったい何者なんだ? 立花さんって……》
その瞬間だった。ちよこがぱたんと携帯を閉じると顔を上げる。
それからまっすぐ英二の瞳を見つめると―――少し視線が泳ぐ。さらにちょっと伏し目がちになって―――再びまっすぐに彼の目を見た。なにか決意したような表情だ。
「あの、高祖君」
「あ、はい」
い、いきなりなんなんだ?
「それでも……」
そこで彼女が少し言いよどんだ。
「それでも?」
「高祖君はそんな目にあっても、まだ瑞希さんのことが気になるの?」
はいぃ?
思わず英二は目を見張る。
まだ瑞希が気になるかだって? だがその答えは明白だった。
あのとき湯川ミヤコに『自分は瑞希を救いたい』と言ったとき、結末がどうであれその思いに間違いはなかったと今でも信じている。
英二はうなずいた。
「それは……うん。しょうがないし」
気になってしまうものはしかたがないのだ。
だが―――そんなことを聞いてどうしようというのだ?
ところがその答えを聞いたちよこの頬にぽっと紅がさすと……
「だったら……彼女の面倒、みてもらえる?」
………………
…………
……
は? いま何と言った? 彼女は?
ここでの“彼女”っていうのは文脈上もちろん、叶瑞希本人のこと以外には考えられないわけで―――すなわちリアル瑞希の? 面倒を見ろ、だと?
英二が返答に窮しているとちよこはいきなり頭を下げて、
「別に今すぐ返事してくれなくていいから。それじゃ」
そう言い残してすたすたと去っていってしまった。
《………………》
英二はその後ろ姿をただ見つめていた。
『おっのれーっ! 立花ちよこーっ! 国家権力まで動かすとか、貴様いったい何者なんじゃーっ!』
翌日の夜、英二の脳内では瑞希がまた暴れまわっていた。
今日が日曜だというのはまさに不幸中の幸いだった。おかげでとりあえず昼までは寝ていられたわけで―――というか立ち上がる気力も出なかったのだが。
しかしそのあと父にはさんざん説教されて、母はそばでずっとマジ泣きで、今月の小遣いなしの刑を宣告されて、やっと解放されたと思ったらもう夜である。
「はあ……」
英二は大きくため息をついた。
《みっちゃんも聞いてたんでしょ? 立花さんのとこ神霊捜査もやってたって》
『聞いてたわよっ! だからこうして考えてるんじゃないの! あいつをどうやってやっつけるか!』
やっつけるって―――なんだかもう手段と目的がひっくり返ってないか?
それにそもそも英二たちにできることがあるのだろうか?
なにしろ今回の計画は最初っからバレバレで、何から何まで立花ちよこの手の内で転がされていたようなものなのだから。
そんな相手に抗うなんて、まさにネズミが猫に突っかかるようなものではなかろうか?
だとしたらやはりここは……
《やっぱさあ、一度立花さんに話してみたらどうかなあ》
だがその意見を脳内瑞希は即座に否定した。
『却下、却下、却下、却下、却下ぁぁぁぁぁ! どうしてラスボスに相談しなきゃならないのよ! あんた魔王に世界の半分もらって満足するタイプなわけ?』
《いや、だからまだそうって決まったってわけでもないし……それに彼女、悪い子みたいには見えないんだけど》
『あん? あんたまだ人を見かけで判断したらダメって学習してないわけ? もうちょっとで一生刑務所だったんでしょ? どこまでお目出たいのよっ!』
無期懲役ってそういうことだったっけ? というのはともかく……
《そりゃそうだけど……》
瑞希はもう完全にちよこが黒幕だと思い込んでいるようだ。
『おーのーれーっ! 立花ちよこーっ! やっぱ乳のでかい奴は悪人じゃーっ! ゆえにお前は極悪人じゃーっ!』
瑞希が吠えまくっている横で英二は考えた。
―――ともかくこれで一つ明らかなのは、脳内瑞希問題の解決について、話は完全に振り出しに戻ってしまったということだった。
「はあ……」
出てくるのはため息ばかりだ。
『あん? なに暗くなってるのよ』
《そりゃそうだろ? この先どうすればいいか考えたらさあ》
『そんなの決まってるじゃない!』
《どうすればいいんだ?》
と、訊かれてから瑞希は考えこむ。
『だから………………ほら、正義と愛と友情、みたいな?』
あ、やっぱ……
《素晴らしい意見、ありがとう……はあ》
『あん? あんたノリ悪いわよ?』
こんなときにノリがいい方が変なのではないのか?
こうなったらもう一度、最初っから考え直してみるのがいいのかもしれない。
―――そういえば彼女が英二の脳内に現れたのは、八幡宮でのお化け井戸騒ぎがあった日の夜だった。今まであまり気にしていなかったが、もしかしてあの事件が何か関係していたのでは?
そこで英二は瑞希に尋ねてみた。
《えっとみっちゃんさあ、宮地さんの方に何か関係ありそうなこと、なかった?》
ところが瑞希はそれを聞いてぽかんとした顔になる。
『宮地さん? って?』
《は? 友達でしょ? あの神社で待ち合わせてた》
瑞希は考え込むと、はっと思いだしたように答える。
『……ああ、そうそう。宮地さん。みやっちじゃないの。で、彼女がなんなのよ?』
友達だったんじゃないのか? 英二は不審に思いながらも話を続ける。
《いや、だからあの神社での騒ぎと関係あったりしないのかなって思って。あのとき立花さんが落としたカバンをお祓いしなきゃ、とか言ってたじゃない》
『ああ、そんなこともあったわねえ……それで?』
《いや、それでって言われても。ちょっと気になっただけで》
例えば落としたカバンに本当に何かが憑いていて、それが今回の騒ぎの原因になったのだとしたら―――って、あのカバンの持ち主は宮地さんだったわけだし、それなら怪物に憑かれるのは宮地さんでなければならなかったわけで。
あの場に役者は一応そろってはいたのだが、やっぱり関係ないのだろうか?
《それじゃいったいどうしたら……》
そのときだ。
彼はもう一つの別な、しかし至極真っ当な疑問に思い当たってしまったのだ。
このみっちゃんって―――本当に本物なんだろうか?
ここまで彼は彼女の言葉を信じて、立花ちよこが敵だとして行動してきた。
だが実際に彼女と話してみると何かそぐわない。
彼女は正直怖いが―――でもすごく誠実な雰囲気もたたえているのだ。
それに対して脳内の彼女の方はどうだろう?
『ぬぉーっ! ちよこゆるすまじぃぃぃっ! うがーっ!』
………………
…………
……
どうして―――彼女が本物だと信じていたのだろう?
その決定的な理由は、彼の脳内に彼女が現れたその翌日、偶然にしてはタイミングの良すぎる告白騒ぎがあったことだ。
でもそれって別な説明もできるのでは?
英二には霊能力などないから、いまの瑞希本体が化け猫に乗っ取られていると言われても確認するすべはない。
祓い屋さんも瑞希には強い何かが憑いているとは言ったが、それが立花の猫又かどうかなんて確かめようがない。
だとしたら元々瑞希はそういう強い心の持ち主で、本気でちよこに告白してスッキリしていて―――そして何かヤバい奴にとり憑かれているのは英二の方だったりして?
なにしろ、あのカバンを井戸から引き上げたあと最初に触れたのが誰かといえば……
………………
…………
……
《いやいやいやいやまてまてまてまて……》
『?』
脳内瑞希はワガママで傍若無人でお世辞にもかわいい娘ではないが、でもちよこに誠実さを見たように、この瑞希はとても“まっすぐ”だと感じていた。
だからこそ今まで信じて来られたわけだし……
その彼女が嘘をついているわけではないにしても―――では、全てを彼に話してくれているのだろうか?
何か重大なことを黙っていたりしないのか?
《………………》
英二は思った。
彼女には反対されるだろうが、やはり一度立花ちよこに相談してみた方がいいのではないだろうか? 脳内瑞希が誤解しているだけというのも、ものすごくありそうな話だし……
ちよことはメアドを交換しているからいつでも連絡はつけられる。
それに……
英二は少し心動かされていた。
もちろんちよこのあの申し出に対してなのだが……
要するにそれって、ずっと瑞希のそばにいてくれってことだよな?
そんなことを言われて、心動かさずにいられる者なんているのだろうか?
確かに―――まさに魔王が世界の半分を提示してきたようなものなのだろうが……
ミズキハウスのベッドの上で瑞希は丸くうずくまっていた。
怖かった……
こうして一人になるといつも不安に苛まれていたが―――今日はとりわけ怖かった。
目を開いて部屋を見わたす。
すべてが曖昧で、まるで夢の中のような光景だ。
英二が意識していないと世界はこうなってしまう。
『どうなるのかしら……あたし』
もし自分の体に戻れなかったら、いったい彼女はどうなってしまうのだろう?
その答えに彼女は薄々感づいていた。
溶けて消えてしまうのだ。
英二が見ていてくれなければ、彼女の姿もまた曖昧で空気のようだ。
それに気づいた瞬間、心臓がぎゅっと掴まれたような気になった。
怖い……すごく怖い……助けて欲しい……だれか……
今まではまだだいじょうぶだったのに、今はなぜかとにかく怖い。
どうしてこんなに怖いのだろう?
瑞希はぎゅっと自分の膝を抱きしめた。
そのときどこかから懐かしい声が聞こえた。
『………………瑞希』
あたりを見回すが誰もいない。
『伽奈おばあちゃん? どこなの?』
『おまえの中さ。いつもずっと見守ってあげてたんだよ』
その声に胸の中が温かくなった。
瑞希は尋ねた。
『ねえ伽奈おばあちゃん。あたしどうしたらいいの?』
声は答えた。
『そうさねえ。やっぱりずっとここで仮暮らしってわけにもいかないねぇ』
『仮暮らし?』
『ああ。だって今の瑞希は、英二君の好意で置いてもらってるんだろ?』
好意⁈
『いつまでもそれにすがってはいられないよねぇ』
………………
…………
……
言われてみたら―――まさにそうだった。
呼ばれたわけでもないのに彼女は英二の頭の中に居座っているのだ。
彼がそれを許しているのは、まさに“好意”のゆえにとしか言いようがないのでは?
『それじゃ……もし英二君の好意が……あたしから離れていったら?』
『そりゃあ、ますますここには居られなくなるってことさ』
当たり前だった。
当然至極の結論だった。
それに気づいたとたんに目の前が真っ暗になったような気がした。
『じゃあ、あたしはどうすればいいのよ?』
『それは瑞希、自分で考えるしかないね』
『ええ? そんな!』
『だいじょうぶ。瑞希ならできるよ』
『おばあちゃん!』
―――そこで目が覚めた。
目が覚める?
そもそも起きているとも寝ているとも分からないここで?
瑞希は再び曖昧な光景を見渡した。
それから自身の姿を見おろす。
輪郭が少々ぼやけていてもよく分かる。
英二が嫌がるのがおもしろくって胸のサイズをずいぶん大きくしてしまったが。
でも本当は元よりちょっと大きいくらいがお気に入りだったのだ。
笑いが込み上げてくる。
『何してるのかしら……』
少々はしゃぎすぎていたことは自覚している。
だが、そうでもしていないと不安なのだ。
自分が自分ではなくなっていくような気がして―――自分が“叶瑞希”だということをひたすら主張し続けていないと、そのまま消えていってしまいそうな気がして。
『英二くんって……あたしのことをどう思っているのかしら……』
途端にかっと体が熱くなった気がした。
『じょ、冗談じゃないわ。そんなのって……あははは』
無理だ。絶対それだけは無理だ。あり得ない!
だって―――それにほら、英二は最初は湯川ミヤコの胸に、そのあとはちよこの言葉に思いっきり動揺していたではないか!
『男なんてHができればなんでもいいんだから! あっははっ!』
………………
…………
……
自分の言葉に本人が落ち込んでしまう。
そうなのだ。
だってあちらには触れて確かめることができるリアルな体があるというのに、この自分にはどうなのだ?
そんな彼女がいったい何をしてやることができるというのだろう?
『そうなったら……』
一体どうなってしまうのだ?
彼が、彼の心があちら側に行ってしまったとしたら―――彼女はもうずっとここに一人ぼっちということなのか?
そして誰にも看取られることもなく、ただここで消えていく運命だというのか?
『いやよ! そんなっ!』
だが、今の彼女に本当にいったい何ができるというのだ?
再び、恐ろしい孤独と恐怖が彼女を包み込む。
‼
そのとき彼女の心にひらめいたものがあった。
『って……まさかこれが目的?』
立花ちよこ。あいつがどうして英二に瑞希の面倒を見ろなどと言ったのか、その理由をずっと考えてきたのだが……
もしかして彼女はとっくの昔に英二の中の瑞希に気づいていたのでは?
彼女はこの領域のエキスパートなのだ。
だとしたら―――気づいていないという方がおかしいではないか!
ならば同様に“瑞希を消す方法”を知らないはずがないではないか‼
そうなのだ。英二の心を瑞希の本体に向けてしまえば、この脳内の自分が消えていくことが分かっていて―――それが彼女の目的だったのだとしたら?
『お・の・れ……』
なんて卑劣なやつ!
腹の底から怒りがわき上がる。
自分の手はいっさい汚さずに、彼女だけを消し去ることができるのだから……
その怒りの炎が、孤独や恐怖の闇を一挙に焼きつくしていった。
『そんなこと……許さないんだから……』
ならばもう―――“最後の手段”しかない!
だがそこで瑞希は躊躇した。
なぜならその“手段”は英二を完全に巻きこんでしまうことになるからだ。
少なくとも今までの彼は親切だった。
こんな彼女のワガママを文句は言いつつもみんな聞いてくれた。
でも……
今日寝る前になにやら考え込んでいたようだが、間違いない。彼は無断でちよこに相談しようとしている。
そんなことになったらあのお目出たい彼のことだ。あっという間に籠絡されてしまうことだろう。そして―――すべてが終わる。
『そうよ。だからその前に……』
英二は心を決めたのだ。
彼は脳内の彼女ではなく、実在の彼女を選んだということなのだ。
当たり前ではないか。
どうしてそうでないなんて思えていたのだろう?
ならばもう英二には頼ってはいられない。
この手で何とかしなければ……
あのときはこの世界の羽のような身体に慣れきっていたせいで、驚いてひっくり返ってしまったのだが―――本来、体というのはあれくらい重たい物だったはず。
『ふふ! 立花ちよこ。お前の勝手にはさせないからねっ!』
眠っている高祖英二の体がぴくりと動いた。