第4章 知りすぎた男
「うひょー。こりゃいい!」
丘を上りつめた所でフィンは立ち止まると、思わず声をあげた。
眼前には見渡す限りの銀世界が広がっている。
空は真っ青な快晴で雲一つない。
こんな素晴らしい景色は、一年に一度見られるかどうかだろう。
冷たい空気が肌を刺す―――だがここまで歩いてくる間にフィンはうっすらと汗をかいていた。
そうやって立ち止まったときに触れる冷たい空気の感触は、彼が何よりも好きな感覚だった。
フィンとアウラがこのガルサ・ブランカの居候になってからもう一月近くが経過していた。
その間フィンはずっと図書館に入り浸りで、与えられた客室と図書館を往復するのが日課になってしまっていた。
もちろん彼もたまには外出しようかと考えたこともあった。だが彼らがここに着いた頃はもう秋も押し迫っていた。
またここの客人になってすぐは様々な些事があって、それらが片づいてやっと落ち着いた頃には季節はもう完全に冬になっていた。
高原の冬は厳しい。
ほとんど連日鬱陶しい雲に覆われ、雪が降り続く。
もちろんその程度ならば無理矢理外出できないこともなかったが、うっかりするとすぐに吹雪に吹き込められてしまうので油断ができない。
フィンが育った都もここに似た気候だったので、彼はとてもそんなときに外に出る気にはならなかった。
彼は冬に訪れたこういう好天の日がどれほど貴重かよく分かっていた。
そのため朝起きてこの素晴らしい天気に気づいた瞬間、ピクニックに出かけることにしたのだ。
「で、どこから入るんだ?」
フィンは見晴らし台と呼ばれている、湖のそばにある小高い丘まで行こうと考えていた。
そこから見る景色は絶景で、ガルサ・ブランカの人々の絶好のピクニック場所だという。
しかもその丘はスキーをするのにも適しているそうで、冬でも結構人が来るらしい。
彼が今立っている丘は、ベラに向かう街道上にあった。湖の方に向かうにはどこかこのあたりで脇道に入らなければならない。
「あ、あれか!」
見ると少し先から湖の方へ向かう踏み跡が続いている。こういう日でもしっかり先客がいるらしい。フィンはその踏み跡をたどった。
その踏み跡はかなり多くの人が歩いたようだ。しっかりと踏み固められていて歩きやすい。
それはフィンにとってかなりラッキーだった。昨夜まではずっと雪が降り続いていたのだが、新雪をかき分けて歩くというのはなかなか疲れる作業だ。最近は図書館に籠もりきりで体がなまっている。そんなことになったら体が持つだろうかとちょっと心配だったのだ。
歩いていくと踏み跡はまばらな林の中に入って、そこを抜けるとちょっとした沢筋に出てきた。
その沢は湖に流れ込んでいるようだが、踏み跡は沢を遡る方向に延びている。
《あれ? 道は沢を下ってくんじゃなかったっけ?》
そのときフィンは沢の対岸側にも踏み跡が続いていることに気がついた。よく眺めてみるとずっと上流の方に橋が掛かっているのが見える。
《ん? じゃああそこから戻ってきてるのか?》
対岸の小径までは直線距離では二〇メートルほどだ。だが道沿いに行けばかなりの距離を行って戻ってくることになる。もちろん二〇メートルと言っても、間はかなり深い谷になっているので、普通の人は渡れないのだが……
しかしフィンにはそういう場合の裏技があった。
そこでフィンは精神を集中すると、思いっきり対岸に向かってジャンプした。
体がふわっと浮き上がって、谷を跳び越した―――と思ったのだが、そのジャンプはちょっと足りなかったようだ。
「うわ!」
次の瞬間、彼は斜面の吹き溜まりに飛び込んで、ほとんど腰まで雪に埋まっていた。普通なら脱出するのは大変なところだが、これも彼には余裕だった。
フィンは魔法をかけたままもう一度ジャンプする。するとすぽんと雪の中から抜け出して、今度は丁度踏み跡の上に着地した。
「はは。ちょっと足りなかったな」
フィンは体に付いた雪を払い落とすと、更に先に進んでいった。
久々に快適なハイキングだ。
こういう風に歩いていると、なんだかこの間のアウラと一緒の谷下りが思い出されてくる。
《あれはあれで……結構おもしろかったよな。結果的には》
あのときは本当に谷から抜けられるか分からなかったので、状況を楽しむ余裕はほとんどなかった。だが今思いだしてみると滅多にできない体験だだったと言える。
フィンはあの魔法を覚えてからはよく面白がって山に入り込んでは崖から飛び降りたりしていたのだが、それでも都から比較的近い山で、あんなに深い山岳地帯に入り込んだことはなかった。
《いやあ、結構大丈夫なもんだな。暖かくなったらまた行ってみるかな?》
彼はそんな呑気なことを考えながら歩いていた。
しばらくしてフィンは、ふとこのコースを教えてくれた女官の言葉を思いだした。
《そういえばあの娘、すぐに湖の畔にでるから、それから岸沿いにずっと行くって言ってたよな?》
フィンは脇道に入ってからもうずいぶん歩いている気がする。
だが湖は現れず、道は林の中をずっと続いているのだが……
《……もしかして間違えたか?》
フィンは立ち止まった。戻った方がいいか?
だが大むねの方向は合っているようだし、見晴らし台は人気の場所なのだから、そこへ行く道が何本もあってもおかしくない。もしかしたらあの女官は景色のいいルートを教えてくれたのかもしれないし……
フィンはもうしばらく行ってみることにした。踏み跡はしっかりしているので、迷う心配もなさそうだ。
そうして彼がもうしばらく進んだときだった。
林の向こう側でずどんというような音がしたのだ。
《ああ? なんだ?》
彼は好奇心に駆られてそのまま進んでいった。
しばらく行くと林が途切れてちょっとした尾根の上に出る。眼下には広い谷間があった。下の方が広い平原になっていて、そこに誰かいるのが見える。その向こうには遠くに大きな建物があった。
《こんな場所で何をしているんだ?》
谷間に四人ほどの人影が見えた。
そのうちの三人は固まって立っていて、一人が少し離れたところにいる。みんな黒い服を着ているが……
と、離れた場所にいた一人が両手を上げると、途端にその上に大きな光球が現れる。
《!!》
その光球はすっと前に飛び出すと反対側の斜面に当たった。
途端にボーンという音がして、真っ白な煙がもうもうと立ち上がる。
煙が晴れるとそこには雪が溶けて大きな穴が空いていた。一部地面まで見えている。
《うわ! すげえ!》
もちろんフィンには何が起こったか明らかだった。
あそこにいる人物は魔法使いなのだ。それも相当ハイレベルの能力者なのは間違いない!
その人物が行ったのは、たぶんフィンがたき火に火を付けるときに行うような魔法だろう。
だがそのレベルが桁違いだ。当たったところが雪だったからいいようなもの、もしこれが別な季節だったら、大火事になっているに違いない。
それを見てフィンは鬱とした気分になった。
「くそ! もうちょっと力があったらな……」
今持っている能力でもそれなりに役に立つことは立つ。ほとんどの人はフィンのような力でさえ持っていない。
だがそれでもこういう力を見せつけられると劣等感に苛まれてしまう。
魔法がちょっと使えるということと一流の魔導師として認められるということは全然違うのだ。
フィンはため息をついて、また歩き出そうとした。と、そのときだった。
『誰だ!』
耳元でいきなり声がしたのだ。
フィンは慌てて振り向いた。だが誰もいない。
元の方向を見ると―――谷間の人々がこちらを見ている。途端にそのうちの一人がふっと浮かび上がるとフィンの方に飛んできた。
「お前は何者だ?」
その男がフィンに叫んだ。
その声には殺気が含まれている。
「え?」
フィンはパニックだった。一体何が起こったのだ?
「どうしてこんな所にいる? お前は誰だ?」
男はフィンの前に着地するとそう尋ねた。
鋭い目でフィンをにらみ付けている。冗談をやっているとは思えない。
「あ、あの、見晴らし台に行こうとしてたんですが?」
「見晴らし台? だったら道が違うだろう?」
「え? やっぱりそうなんですか?」
「何をとぼけている! で、お前は何者だ? 名乗れ」
「え……フィン、フィナルフィンといいいますが」
「なんだと?」
男は驚いたようだ。
その頃には他の者もやってきた。みんな同じような格好をした男だ。
「で、都から来られた方が、どうしてこのような場所にいらっしゃるのだ?」
男の口調がいきなり丁寧になった。どうやら彼の正体を知っているようだが―――その態度は前より更に冷たい感じだ。
そのときにはフィンも、ただならない状況に陥ったことに気がついていた。
「あ、あの、すみません。ここってもしかして……軍の施設か何かですか?」
「入り口にそう書いてあったはずだが?」
フィンは真っ青になった。
「い、いや、そこ通ってないんですよ」
あそこでショートカットしたのはとてつもなくまずかったようだ。
たぶんあの橋の所に、演習場入り口とか何とか書いてあったに違いないのだ。本当の道は沢を下ってそのまま湖に行く方だったのだ。
「なんだと?」
フィンは慌てて状況を説明する。
だがもちろん相手は信用しているという顔ではない。
「ともかくこっちまで来てもらおう」
とんでもないことになってしまった。
だがここで逆らったらますますまずいだろう。フィンは大人しく従った。
それに逃げようったって、相手には空を飛べる奴までいるのだ。どうやって逃げるというのだ?
フィンはそのまま建物の中に連行された。近寄ってみたらそこは兵舎なのがよく分かる。
兵舎の中は暖かかった。だが今のフィンにそんなことを考えている余裕はなかった。
彼が連れて行かれたのは士官室のようだった。
そこには二人の将校らしき男がいた。一人は年取った魔道服に身をまとった男で、もう一人は若い通常の軍服を身につけた男だった。
「パストール様。連れて参りました」
「うむ。ご苦労」
年輩の男が言った。
フィンを連れてきた男は軽く礼をすると戸口の前に立った。
これでそいつを倒さない限りここからは出られない。もちろんフィンはそんなことをする気はさらさらなかったが……
「ル・ウーダ様、ですな?」
フィンは黙ってうなずいた。
「どうしてこういうことになってしまったのかはおわかりでしょうな?」
もちろん彼ももう自分が今、ちょっと洒落にならないぐらいの最低最悪のヘマをしでかしてしまったことには気づいていた。
「は、はい。でも信じて下さい。本当に僕は見晴らし台に行きたかっただけなんです。信じて頂くの難しいと思いますが……」
そう言いながらフィンはさっきの魔導師の魔法を思いだしていた。
高級魔導師というのは今でも国家機密に属する存在だ。
だが彼にとっては魔法という物があまりにも当たり前の存在だったために、逆に盲点になっていたのかもしれない。
もちろん現在はシフラ攻防戦の影響で、以前よりは魔導師の重要性は薄れてきている。だからといって魔導師が用無しだというのは極論に過ぎる。
魔導師の能力は先ほど見たとおりに凄まじいものだ。
ここで偶然フィンが見た魔導師は決して最高級の者ではない。だがそれでも彼一人いれば村や町の一つや二つ焼き払ってしまうことができるだろうし、あの光球一発で何十人もの兵士が倒されてしまうだろう。
このような魔導師が存在する以上、各国は必ずそういう魔導師を軍に抱えている。そして戦いの際にはやはりその魔導師の力が勝敗の帰趨に大きく影響するのだ。
このような訳であるから各国の軍に属する魔導師の数や能力は極秘なのが当たり前だった。
で、まずフィンはその極秘のはずの訓練風景を見てしまったわけだ。これだけでもその場で殺されても文句が言えないほどの行為である。
だがそれ以上の問題があった。というのはフィンが白銀の都出身の魔導師であったという事実である。
「確かにそれは難しい問題ですな」
パストールは眉をひそめながら言った。
「都からわざわざこのような辺鄙なところまでやって来られるだけで、相当珍しいと言わねばなりますまい? そのお方が演習場内部をうろうろされているとは、本当に偶然なのでしょうか?」
フィンは背筋がぞっとした。
彼としては本当に何も考えずに足の向く方にやってきたのだが―――こうなってしまうととても信じてもらえそうもない!
なぜならここにはもっと根の深い問題があったからだ。
それは大げさでなく、この世界全体の安全保障に関わる問題なのだ。
魔導師が軍において極めて重要な役割を持つことは既に述べたが、もちろん魔導師も人間である。怪我をすることもあれば寿命もある。従ってどこからか定期的に供給されてこなければならない。
しかし彼らがどこにでもいるわけではなかった。
この世界で魔導師の生まれる率が最も高いのは、白銀の都と呼ばれるフィンの故郷と、このフォレス王国の北にあるベラ首長国の二カ所だった。
そしてこの両国には大規模な魔導師養成機関もある。
魔導師とはいくら素質があっても、子供の頃からそれに見合った訓練をしなければその能力が開花することはない。フィンの場合素質があるのが分かったのが遅かったので、それなりに頑張ったにしても結局この程度の力しか持てなかったのだ。
だから他の国で素質が見いだされた子供は、この両国のどちらかに行って研鑽することが普通だった。
従ってこの両国以外の国は、まともな魔導師が欲しかったらこのどちらかから雇い入れるしかなかった。結果としてこの世界の多くの国は、魔導師の出身国によって白銀の都派とベラ首長国派の二つのグループに二分されることになった。
こうして国家間の紛争が起こった場合、当事国同士だけでなく白銀の都とベラ首長国もまたそれに関わることになる。
また逆に各国家は自国魔導師の出身国の意向を全く無視して戦争を起こすのも困難だった。なぜなら実際に戦うのは両国出身の魔導師達なのだから。
このように白銀の都とベラ首長国はこの世界の二大勢力のリーダーという立場であり、遙かな昔から互いに競合する間柄だったのだ。
そしてこのフォレス王国は王妃がベラ出身というのからも分かるように、昔から非常な親ベラ派であり、当然魔導師達もベラ出身である。
その魔導師達の訓練場所に“仮想敵国”出身の魔導師がやってきて訓練風景を見てしまったというのである。話の重要度が違うわけだ。
「で、どのように申し開きなされますかな?」
パストールの口調は穏やかだったが、目は笑っていない。
隣にいる若い士官も同様だ。迂闊なことを言ったりしたらこの場で殺されてしまいそうだ。
《まずい! これはまずい!》
フィンは焦った。こういう場合一体どうすればよいのだ?
だがそのとき入り口から伝令が入ってきた。
伝令はパストールの側にいた若い士官に何事かささやいた。それを聞いて士官は言った。
「パストール殿。王様がル・ウーダ様を城までお連れしろとのことです」
「ふむ。まあ当然だな。それではネブロス殿、案内お願いできるかな?」
「分かりました」
ネブロスと呼ばれた男はフィンの方を向いた。
「それではよろしいですか? 忠告しておきますが、妙な真似はなさらないで下さい」
「も、もちろんですよ」
とりあえずフィンは安堵した。
少なくとも今この場で首をはねられるようなことにはならなくてすみそうだ―――だがそれも城に着くまでのこと。王は本当にフィンの言うことを信じてくれるだろうか?
ともかくそのときはそのときだ。
こうなったら腹をくくるしかなかった。
城に着くとフィンはそのまま王の居室に連れて行かれた。
そこには王の他に二人の人物がいた。
一人はグラヴィス将軍。フィンは彼とは晩餐の時何度か言葉を交わしただけだ。
そしてもう一人はナーザだった。
《じゃあやっぱりあれは嘘じゃなかったんだ……》
このあいだ図書館で彼女が軍の顧問をしている言ったことは嘘ではなかったのだ。
だがそれでもまだ半信半疑な気分だった。
「大儀であったな。ネブロス」
「は!」
まず王はフィンを連行してきたネブロスをねぎらった。ネブロスが敬礼を返すと、横にいたナーザも同様にネブロスに声をかけた。
「まあ。ネブロス様。お久しぶりです。お元気でしたか?」
「え? はい。まあ相変わらずです。ナーザ様こそ、ご健勝でなによりです」
「そんなにかしこまらなくても。前の調子でよろしいのですよ」
「いえ! そうは参りません」
ネブロスはナーザを前に何故か王より緊張しているように見える。
普段なら一体どうして彼がそんなに畏まっているのか観察している所なのだが、もちろん今のフィンにそんな余裕はなかった。
それから王はフィンに向かって問いかけた。
「さてさて、それはそうとル・ウーダ殿。また今回はとんでもないところに行ってしまわれたとか?」
その口調は相変わらず気さくな口ぶりのようだが、その声の奥にはいつもとは違う何か冷たい響きがあった。
「は、はい。まことにもって申し訳ありません。決してその、何と言いますか、スパイ活動をしていたというわけではなく、本当に見晴らし台に行きたかっただけで……」
フィンは弁解を始めた。これは全くの事実なのだが、果たして王は信用してくれるだろうか?
だがフィンは喋りながらもその説得力のなさに自分自身呆れていた。この調子では王に信じてもらおうというのは甘い夢のように思える。
だがアイザック王はフィンの弁解を途中で遮ると、あっさりと言ったのだ。
「その事は既に聞いておる。それに関してはわしはほとんど疑ってはおらぬよ」
フィンはぽかんとして王の顔を見た。からかっているようにも見えない。
「え? そ、それでは」
「それにしても迂闊であったな。知らない場所を歩くときはこれからは良く気をつけてもらいたい」
フィンは心の底からほっとした。何だか知らないが王は信じてくれたようだ。
だがそれにしてもあまりにもあっさりしすぎていないか?
信じてもらえるにしても、もう少しいろいろと突っ込まれると思っていたのだが……
それは横に控えていたネブロスも同様だったようだ。彼は驚きの表情を隠さなかった。
「恐れながら、王様。申し上げたいことが……」
「何かな? ネブロス。こんな簡単にル・ウーダ殿を許してよいかと、そういうことかな?」
王は機先を制してネブロスに問い返す。
「御意にございます」
「ふむ。確かにいきなりこれではお前も説明に困ろうな。だが理由は簡単なのだ。一言で言えばだ、わしはこんな間抜けなスパイは今まで見たことも聞いたこともないからなのだよ」
「は?」
ネブロスは驚いたように王の顔を見た。
「わからぬか? ではちょっと尋ねるが、まず報告では、ル・ウーダ殿は、兵舎に向かって歩いてこられる途中だったと、それに相違ないな?」
「はい。その通りです」
「それから立ち止まって演習を見て、その後お前達に追われても抵抗したり逃げたりせず、おとなしくお前達に付いてきたそうだな?」
「それはその通りです。しかし逃げても無駄だと悟ったからだとも考えられます」
「ふーむではネブロス。ではわしが仮にお前に都の軍隊をスパイして来いと命じたとする」
「はい?」
「だとしたらどうする? お前はフォレスのネブロスと名乗って銀の塔に乗り込んで、演習場に白昼堂々と正面玄関から入り込んで、隠れもせずに演習を見たりするかな? そうして敵に見つかったとしたらおとなしく捕まるかな?」
ネブロスは言葉に詰まった。
「うむ。だが、ル・ウーダ殿のなさったのはまさにそういうことだな?」
「それは……確かにおっしゃるとおりです」
「そういうことなのだよ。だからル・ウーダ殿が都のスパイであるという可能性は、ほとんどあり得ないと言うべきであろう」
「は! 申し訳ありませんでした」
フィンは胸をなで下ろしていた。
だがそれを見透かしたように王はフィンに言ったのだ。
「よいよい。だがまだ終わったわけではないぞ。で、ル・ウーダ殿。少し聞きたいことがあるのだが、それでは貴公はスパイでないとしたなら、一体何者なんだろうな?」
「は?」
あまりの急な突っ込みに、フィンは返す言葉がなかった。
王の口調は相変わらずくだけた感じであるものの、その表情は今や完全に真剣だ。王は続けた。
「これがスパイであったのなら、まだ分かりやすかったのだがな。私が訝しんでいるのは、都の貴族であるル・ウーダ殿がなぜこのような田舎までわざわざやって来られたかということだ」
「しかしそれは以前お話ししたとおりで……」
「うむ。確かにそれは覚えておるが、まだあれで完全に納得したというわけでもない。というわけで一つ尋ねてもよろしいかな?」
「は、はい……」
フィンは背筋が冷たくなってきた。この王は一体どこまで知っているのだろうか?
「あのときル・ウーダ殿は職がないので都を飛び出したと言われたように思うが、確かそうであったな?」
「は、はい。そう言いました」
「だとするとラーヴルあたりでどうして職が見つからなかったのであろう?」
フィンは絶句した。
「ル・ウーダ殿ほどの家柄があれば、あそこならば屋敷でももらえるのではないかな?」
ラーヴルとはアイフィロス王国の首都である。
アイフィロス王国とは都からここに来る途中にある国で、アウラと出会ったトレンテ村はこのアイフィロス王国領だった。
この国は昔から白銀の都とのつながりが深く、ラーヴルには都出身の者がたくさん住んでいる。
平たく言えば、都落ちした貴族の行き先の第一候補がこのラーヴルなのだ。従ってフィンほどの血筋があれば、ここで職を探すぐらいならば簡単なことだった。
「はあ……まあ……」
「だのにル・ウーダ殿はそこを素通りして、ガルサ・ブランカまで来られたわけだ」
「……まあ、確かにその通りです」
「その点がまずよく分からんのだ。だから、できれば本当のところを話して頂きたいのだが、どうであろうか?」
フィンは考え込んだ。
この王は侮りがたい。いい加減な出任せでごまかすのは無理だろう。
だがもしフィンが本当のことを話してしまったとしたらどういうことになるだろう?
《やっぱりまずいよ……これ》
フィンが答えないので王が更に追及する。
「どうなされた? それとも答えられないような理由がお有りかな?」
これ以上考えている時間はない。フィンは決断するしかなかった。
「あの、有り体に言いますと、まさにその通りなんです」
それを聞いて王は眉をひそめた。
「ほう? やはりな……で、いったいどんな理由なのかな?」
「あの、だから、それはやはり申し上げない方が良いかと……」
「しかしル・ウーダ殿はもう赤の他人というわけではないのだよ」
「は? といいましても、まだ一月ここに滞在させて頂いただけで……」
「そう。一月だ。都のル・ウーダ殿の“敵”に勘ぐられるには、十分な期間だとは思わぬか?」
………………
…………
……
ここに至ってフィンは状況を完全に把握した。
もう既に手遅れだったのだ。
最初に迂闊に自分の名を名乗ってしまった瞬間、こうなることは決定づけられていたようなものだったのだ……
フィンは頭を抱えた。
《いったいどうすればいいんだ?》
アイザック王の心配はもっともだった。
都の貴族がまるで落ち延びるかのようにやってきた―――単に都落ちするだけならば、ラーヴルに行けばよい。そこにも行かずフォレスまでやってくるということは、都に関わる地域から積極的に離れなければならない理由があると考えるのが最も妥当だろう。
そしてフィンにはまさにそれにふさわしい過去がある―――例の世継ぎ早世事件だ。
表向きは世継ぎの君が若くして病没されてしまったため、第二継承者が次期の大皇となったという話だが、勘ぐろうと思えばいくらでも勘ぐれる。
というより実際にそこに秘密があったのだが……
ともかくアイザック王はそういう人物を城に入れてしまったのだ。
これが何を意味するかといえば―――フォレス王国はもう都のトラブルと無関係ではいられなくなったということなのだ。
例えばもし都でフィンの属する一派と別な一派が勢力争いをしていたならば、フォレスは既にフィンの一派に荷担したことになるわけだ。
《…………》
フィンは必死にアイザック王に迷惑をかけないように事を収拾する方法を考えた。
彼は実際に墓場まで持っていこうと心に誓った、漏れたりしたら都に大混乱が起こるのは間違いない秘密を抱えていたのだ。
もし彼がここを何とか抜け出せたとしても、もうフィンがフォレスに滞在したことは事実だ。そうするとフォレスはフィンから秘密を聞いたのではないかと都から疑われることになってしまうだろう。
では今ここで本当のことを言ってしまったら?
そうするとフォレスは事件そのものに直接関与する事になる。一応片はついたことではあるが、それでも一歩間違えば戦争になる危険さえあるかも……
《くそ! 何でこんなことになっちゃったんだよ!》
フィンはあのとき思わず本名を名乗ってしまった間抜けさをとことん後悔した。
あれさえなければ、あれさえなければ……
《あれがなければ?》
フィンの頭に名案が閃いた。
名案と言っても相対的な意味においてだが―――だが今はこれに勝る解決策はないだろう!
そこでフィンは答えた。
「あの、それでは私は出ていった方がいいようです。せっかくのご厚意を頂いたのですが」
王は訝しそうにフィンの顔を見た。
「出ていく? 出ていったからどうなるというのだ?」
「私はここに来なかったということにすれば良いでしょう」
「何だと?」
「要するに全ては無かったことにすれば良いのです」
「といってもル・ウーダ殿は実際に今、ここにおられるのだが?」
「ここには偽物がいたのです」
それを聞いて王は目を見張った。
「私の名を騙った何者かが、王を騙そうとしてやってきたとすれば良いのです。そいつは旅の途中の私に会ったことにしてもいいでしょう。ともかくそいつはすぐにボロを出したので、国外に叩き出したことにするのです」
「なんだと? 本気で言っておられるか?」
「仕方ありません。私もこの時期に旅はしたくありませんが……まあ寒いのには慣れてます」
「ちょっと待つのだ。ル・ウーダ殿」
「でもそうしなければ王様に大変ご迷惑がかかってしまいます。私はそんなつもりでここに来た訳ではないので……」
王はグラヴィスとナーザの顔を見た。二人ともぽかんとして無言だ。
それから王はまた考え込んだが、しばらくして顔を上げると言った。
「だが、そうするとアウラも一緒に放り出すしかあるまいな?」
それを聞いたフィンは蒼くなった。
「お待ち下さい。アウラは関係ありません! あいつ……彼女は本当に来る途中に偶然出会っただけで……」
「だが、騙りと一緒にやってきた女だな? そんな女がどうして信用できるというのだ?」
「でも、本当に彼女は関係ないんです」
「もちろん分かっておる。だがその“作戦”においては、アウラはそう扱わねば矛盾が生じよう?」
「…………」
「ル・ウーダ殿。貴公のお気持ちは大変よく分かった。確かに今の案はなかなかそそられる物があるな。誰もそう傷つかずにうまく事が収まりそうだ……だが、少し面白みに欠けるな」
「はあ?」
面白み? 冗談ではないのだが……
だがそれを察したかのように王はにっこりと笑った。
「で、ル・ウーダ殿はもしここを出ていったのなら、その後はどうなされるつもりなのだ?」
「え? 特に考えてはないのですが……前にも言いましたように、東の果てまで行ってみようかと……」
「そうやってふらふらと彷徨いながら一生を過ごすおつもりか?」
「…………」
「まあ貴公の人生は貴公が決めることであるから、わしがとやかく言う筋合いはないがな。だが貴公は、その“敵”と一戦交えてみる気はないかな?」
「ええ?」
いったいどういうことだ? 訝しげに見返すフィンに王はしれっと答えたのだ。
「フォレスやベラという後ろ盾があったら、大抵のことは不可能ではないと思うがな? どうであろう?」
「あの、しかし……」
フィンはあまりのことにやっとこう言えただけだった。だが王はたたみかけた。
「ル・ウーダ殿がどのような秘密を抱え持っているのかは知らぬが、ともかくその秘密を知ったらわしやこの国に迷惑が掛かると思っておられるのはわかる。だが本当にそうかどうかは話して頂かないと分からないことではないかな?」
「しかし話してしまったら……」
「そうだな。後には退けなくなるな」
「……でしたら、その……」
「勘違いしては困るな。ここで選択をするのはわしの方だ。ル・ウーダ殿、貴公ではない、ということだ。そしてわしは、面白い方を選びたいと思っておるのだ」
「…………」
「まあ、面白いというのは少し語弊があるかも知れぬがな。わしも一応国王としてこの小国を預かる身だ。だから時にはいろいろな決断を迫られる。そういう場合おのおのの選択肢を選んだときに得られる利益とリスクを考えることになる。それは分かるな?」
「はい……」
「ル・ウーダ殿の案を採れば、リスクは低い。だが逆に我が国に得られる利益もない。だがル・ウーダ殿に話をして頂けると、最悪の場合は都と事を構えることもあり得るだろうが、それを越えた利益もあるだろう?」
「しかし……」
「それに貴公を偽物だと言って放逐した所で、都が本気ならば真実を調べ出してしまうかもしれぬしな。そうなった場合、ル・ウーダ殿がいてくれた方が遙かにやりやすいとは思わぬかな?」
フィンは考え込んだ。
確かに王の言うことはもっともだった。真実を知りもしないのに、言いがかりだけを付けられたとしたら最悪だ。知っていれば切り返すこともできるだろうが、知らなければ手の打ちようもないわけで……
フィンは本当に王のため、フォレスのための考えるのであれば、もはや話すしか道は残されていないことに気がついた。
「分かりました。それではお話しします。しかしできれば聞かれる方はなるべく少ない方が良いのですが……なにぶんかなり微妙な話なので」
それを聞いて王もうなずいた。
「ふむ。確かにそうだな……ではネブロス。今日はご苦労であった」
「はい」
ネブロスは黙って退出した。
残ったのは王とグラヴィス将軍、そしてナーザだ。
「この三人ならば信頼おけるであろう?」
「は、はい」
疑うつもりはなかったが、王がナーザを外さないのを見てフィンは驚いていた。
彼女はそれほど王から信頼されているということなのだが―――見たところ公務に就いているようにも見えないが、一体どういう立場なのだろうか?
だが今はそんなことを考えている場合ではない。
「それではお話ししますが……多分御察しだとは思いますが、このことはお世継ぎの君であったメルフロウ様のご逝去に深く関わっているのです」
王はうなずいた。グラヴィスとナーザも同様だった。
彼らはそのことは十分予想していたのだろう。
そしてフィンは話しはじめた。
―――フィンの妹エルセティアとお世継ぎの君は幼なじみだった。
世継ぎの君は病弱だった関係で、彼は小さい頃からよく療養のために郊外の別荘に来ていたのだが、この別荘というのが実はル・ウーダ山荘の近くにあった。
彼らは互いに相手の素性を知らずに出会い、仲良くなり、共に遊び回っていたのだ。
フィンの妹が世継ぎに見初められたというのは、そういうわけだったのだ―――
そこまで話してフィンは皆に尋ねる。
「それはそうと皆様は、お世継ぎの君のおられたジークの家と、現大皇のダアルの家の間の確執に関してはご存じだったでしょうか?」
王はうなずいた。
「うむ。多少はな。確かここしばらくはジークの方はかなり困窮していたという噂だが」
「まさしくその通りなのです。この両家は三代に渡って確執を続けてきました。しかし先々代の時代に、ダアルの家の勢力がジークの家を大幅に凌駕しました。この結果、一時期ジークの家はほとんど滅びかけていたんです」
―――しかしその状況が逆転する出来事が起こったのだ。
先代のジークⅦ世と前大皇の長女であるエイジニア姫が結婚したのである。
前大皇には王子がいなかったため、長女であるエイジニア姫に王子が生まれたならば、都の皇位継承ルールではその王子が第一継承者となるのだ。
同様にダアルⅤ世は前大皇の次女、エイニーア姫と結婚した。同様に彼女に王子が生まれたなら第二継承者となる。
そうしてエイジニア姫には世継ぎの君であったメルフロウ王子が、そしてエイニーア姫にもカロンデュールという王子が生まれた。
これはジークの家とダアルの家の力関係は逆転してしまったことを意味していた。
即座にとはいかないにしても、いずれ世継ぎの君が即位したならば、ジークⅦ世は大皇の祖父となるわけで、都の全権力を握ったも同然なのである。
そしてそれを最も恐れたのがダアルの家であった。
彼らはそれまでジークの家に表から裏から数々の嫌がらせを加えてきたのだ。ジークの家がなぜ滅亡寸前の窮状になったかというと、それは何をするにしてもダアルの家からの様々な妨害が入ったからだ―――それはもう常軌を逸していたレベルであった。
だから彼らは当然ジークⅦ世の復讐を恐れたのだ。
実際にそれは間違ってなどいなかった。ジークⅦ世もそうなったらもちろんダアルの家に徹底報復することを心に決めていたのだから―――
「そして……追いつめられたダアルがとうとう行動に出たのです」
そう言ってフィンは王の顔を見た。
「ということは、実力行使かな?」
フィンは黙ってうなずいた。
王達は互いに顔を見合わせた。それからフィンが言った。
「そうです……ダアルの一派はとうとうお世継ぎの君を暗殺してしまったのです」
一同は息を呑んだ。
このぐらいは予想していただろうが、やはり実際に聞かされるとショックに違いない。
「それは間違いないのですか?」
ナーザが口を挟んだ。
「ええ。間違いありません。なぜならそこに私は居合わせたんですから」
再び一同は黙り込んだ。
だがそのときグラヴィスが言った。
「そのような所に居合わせて、良く生きておられましたな?」
当然の疑問だろう。
「そうなんです。これからが問題なんです」
一同はフィンの顔を見た。
《そうなんだよ……ここからが問題なんだ……》
フィンは軽く深呼吸すると続けた。
「私と妹が生きていられたのは、実はカロンデュール様ご本人に助けて頂いたからなのです」
「何と? どうしてまたカロンデュール様は、貴公らだけを助けたのかな?」
王の問いにフィンは答えた。
「いえ、私たちだけが助けられたのではありません。カロンデュール様はメルフロウ様も含めて全て助けるつもりでした。お世継ぎの君に関しては間に合わなかったのです……そのとき私にもっと力があれば……」
フィンはそう言って下を向いた。
王達は無言でフィンが続きを始めるのを待った。フィンは口を開いた。
「先代同士は確かに憎みあっていました。しかしお世継ぎの君とカロンデュール様本人同士は、共に家の確執のことなど考えてもいなかったのです。というのはそのとき既に、カロンデュール様とお世継ぎの君の妹君は約束を交わした間柄だったからです」
それを聞いて王が尋ねた。
「お世継ぎの君の妹君というと、現大皇后様ですな?」
「はい。ですからカロンデュール様ご本人には何の野心もなかったことは確かです。事件はカロンデュール様のあずかり知らぬ所で計画され、実行されたのでした。こうしてお世継ぎの君のお命が奪われた訳なのですが……実はご存じかもしれませんが、お世継ぎの君はご病気でした。実際、その当時すでにかなりお悪く、持ってあと数年と言われていました」
「何と……そんなにお悪かったのか?」
「はい……ジーク様がティアと……あ、私の妹の方です。ティアとお世継ぎの君の結婚を急いだのはそう言うわけがあったんです。なるべく早く結婚して、世継ぎが産まれるようにと。そのためお世継ぎの君は自らの亡き後のことは常々考えておられたのだと思います。だからお世継ぎの君は凶刃に倒れたにも関わらず、いまわの際にカロンデュール様に正式に継承権をお譲りなされたのでした……」
そこでフィンは小さくため息をついた。
「こうして本当だったら都を二分した騒動になるところが穏便に収まりました。この事件を境に、ダアルの家もジークの家も先代は隠居されました。お世継ぎの君の病死の裏にはこういった経緯があったのです……」
一同は黙ってうなずいた。
「そういうわけで私は命長らえることができたわけです。従いまして、都で職を得ようと思えば、実はいくらでもあることはあるんです。あのような秘密を知っている以上、大皇様のお近くにいた方がいいですし、当然大皇様の全面的なバックアップが期待できますから……」
一同は納得した表情だ。
だがそこでフィンは大きく首をふる。
「しかし、それはちょっと私には耐えられなかったのです!」
急に言葉の調子が変わったことに驚いて、一同ははっとした表情でフィンを見た。
そしてフィンは彼らに向かって辛そうな声で話し始めた。
「何故って……私の見ている前で殺されたんです! 私は大好きだったんです。奴らはそんな、何の罪もないフロウを……いや、メルフロウ様を、殺したんです!
なのに何事もなかったのです……あの場で戦って死んだ方がよかったかもしれません。一番堪えるのは……カロンデュール様にはいっさい罪がないことです。全ては彼の与り知らぬ所で計画されたものでした。そしてフロウは病死と言うことになりました……奴らの手で殺されてしまったというのに……
だから、都にはいられなかったんです。大皇様のお姿を見る度に、本当はあそこにいるのはフロウのはずだったと、そういう想いばかりがわき上がってくるのです。カロンデュール様が悪くないことは分かっています。でもそれならば私は誰を憎めばよいのでしょうか?
それでも最初はなんとか我慢していました。でもそのうち心の中の憎しみが、段々抑えられなくなってきて……いつ爆発してもおかしくないような気がして……ともかくそういうわけで、これ以上都で大皇様の姿を見ていたくなかったんです。そしてできるだけ遠くに行きたかった……大皇様の噂さえ来ないような所に……行きたかったんです」
フィンは一気に語り終えた。
しばらくは誰も口を開かなかった。
それからアイザック王がおもむろに言った。
「なるほどな……確かにそれは滅多なことでは口には出せない話だ。ル・ウーダ殿。よくぞ話して下さったな」
フィンは黙ってうなずいた。
だがそのときグラヴィス将軍がつぶやくように言った。
「しかし私にはにわかには信じがたいのですが……」
フィンは顔を上げると答えた。
「そう言われても仕方ありませんね。証拠を出せと言われても出す物は何もありません。一応腰にそのとき受けた傷跡がありますが……お見せしましょうか?」
「ははは。それには及ばぬ。確かにわしも半信半疑だが、まずはル・ウーダ殿の言われたことを信じたいと思う」
フィンは安堵のあまりへたり込みそうになった。
「あ、ありがとうございます。感謝します」
「うむ。それから今後はこういうこともあるので、出かけられるときには案内を付けられた方が良いな」
「は、はい……」
王のいうことはもっともだ。自由が制限されてしまうのはすこし痛いが、こんなトラブルをまた起こすぐらいならそっちの方がぜんぜんましだ。
「それにしても、おお、もう夕方になっておるな。せっかくの良い天気だったのに、こんな事で潰れてしまったのは大変残念であっただろう?」
「え? いえ、その」
「まあともかく大変大儀であった。十分体を休めてくれ」
「はい……」
こうして王との予期せぬ会見は終わった。
フィンが退出した後、王は難しい顔でグラヴィスとナーザに語りかけた。
「うーむ。それにしても大変な事になったようだ。さてさて、どうしたことやら」
それを見てグラヴィス将軍が言った。
「王様はル・ウーダ殿の言われたことを信じておいでなのですか?」
「大筋は正しいのではないかな?」
「先ほども申し上げたとおり、私にはちょっと」
「ふむ。では何故信じられんのだ?」
「それは……ちょっとあまりにも何と言いますか……」
「話が大きすぎると、そういうことかな?」
「仰せの通りでございます」
「それは確かにその通りだとわしも思う。だが、あれはほとんど嘘ではあり得ないのだが」
そういって王は笑った。
「は?」
グラヴィスは混乱している。王は説明を始めた。
「では、ル・ウーダ殿の言われたことを思いだして見よ。あれが真実ならばわしらはとんでもない秘密を知ってしまったことになるな? この秘密は使いようによっては、とてつもない利益をもたらしてくれるかもしれないし、我が国の破滅につながるやもしれん」
「はい……まことにその通りです」
「そのようなことをル・ウーダ殿は、知らずに話していたのだろうかな?」
「いえ、それは多分違うと思いますが」
「そうだ。ル・ウーダ殿はこの話の重大性を良く把握しておられたのは間違いない。だからこそ最初は話さないでいいようにと、ひたすら努力されておった。今すぐここを出ていくとまで言われたのだ。グラヴィス。お前はこの時期の旅は好きかな?」
「いえ、滅相もございません」
「そうだろう? 要するにル・ウーダ殿は、最初はそうまでして隠そうとしていたのだ」
「それは……そうです」
「なぜそうしたかというと、やはりあの話が真実だったからだとするのが最も自然であろう?」
「それは、確かにその通りです……」
グラヴィスはまだ少し納得がいかない風であった。それを見て王は微笑んだ。
「うむ。ではあの話が完全なほら話だったとしよう。ならばル・ウーダ殿は一体何を考えておったのだろうな?」
それを聞いてグラヴィスはちょっと考えてから王に言った。
「例えば……我が国と都の間で紛争を起こさせるため、とかは考えられないでしょうか?」
それを聞いて王が眉をひそめる。
「ふむ。そういった陰謀があるのだと?」
「はい。こういった偽情報を与えて、われらの迂闊な行動を引き出そうとしているとも考えられますが……」
「だが、そうすると、ル・ウーダ殿は今日、わしにこの嘘を吹き込むために、わざわざ演習場に入り込んだと、そういうことになるわけだな?」
グラヴィスはうっと言葉に詰まった。
「一歩間違えたら首を失ってもおかしくない行動だが……そういうことをしたければ他にいくらでももっとましな方法ありそうだがな。ル・ウーダ殿は一体どうしてわざわざこんな愚か極まりない方法を採ったのだろう?」
「はい……」
「それにそれだと、出ていくなどという提案は余計だったな? あれはあれでなかなか良い方法ではある。どうしてわしらが断ると分かっていたのだろうな?」
「…………」
「こういう仕事をしていると人を疑うのが癖になってしまうな。グラヴィス」
「申し訳ございません」
「いや、いいのだ。きれい事だけではやってはいけん。だが、ル・ウーダ殿に関しては、わしは信頼してもいいと思っておる。もちろんもうしばらくは監視の目ははずせないが」
「承知しました」
グラヴィスが納得したので、王はナーザの方を向いて言った。
「というようにわしは考えているのだが、このあたりナーザ殿はどうであろうか?」
「そうですわね。私も王様の意見に賛成ですわ。どう見てもル・ウーダ様は誠実なお方だと思います。それにアウラ様がル・ウーダ様と一緒にやって来たというのもポイントですわね」
「それはまたどういうことかな?」
王とグラヴィスは訝しそうな顔をした。それを見てナーザは言った。
「実は彼女、ものすごい男嫌いなんです。男に触れられただけで気分が悪くなってしまうぐらいで。ほら、アウラ様のお披露目の時に、彼女が具合悪そうでしたでしょう? あのとき彼女は大量の男に手を握られて卒倒しかかってたんですよ」
「なんと、また……男嫌いだとは、ルクレティアからも聞いていたが、それほどとは……」
「ですからその彼女に信頼されるというのは、ル・ウーダ様の人徳がいかに優れているかという証だと思いますわ」
それを聞いてグラヴィス将軍が首をひねった。
「そういうものなのでしょうか?」
「こういう場合、女の勘というのもなかなか役に立ちましてよ」
そう言ってナーザは微笑んだ。それを聞いて王が言った。
「だがそれにしてもあの二人は一体どうなっておるのだ?」
「それが私にもよく分からないんですの」
「先ほどアウラも一緒に叩き出そうかと言ったときのル・ウーダ殿の慌てぶりは、なかなかおかしかったが」
「まったくそうでしたわね」
「ル・ウーダ殿ならば触れられても大丈夫なのかな?」
「さあ……そういう場面は見たことがありませんが……」
「アウラの方の素振りはどうなのだ?」
「よくにらんでおりますわ」
それを聞いて王は吹き出した。
「にらむ? そうか。にらんでおるか……」
「それはそうとアウラ様の男嫌いは、少しどうにかしなければとは考えております」
それを聞いて王が笑いながら言った。
「だったらル・ウーダ殿と仲立ちして差し上げるか?」
「それは良い考え……かもしれませんわね」
そういってナーザも笑った。その時グラヴィスが口を挟んだ。
「あの、それで今回の件は結局不問ということで処理してよろしいですか?」
「うむ。そうだな。まずル・ウーダ殿の侵入の件に関しては不問だ。今回のこれで十分反省されることだろう。だが今後外出されるときは、誰か同行者をつけるように。誰も手が空いていなければ、外出は許可しないように」
グラヴィスはうなずいた。
「といっても、これからの季節、いつ外出できるかはわからんがな……それと今回聞いた話であるが、これは決して他言無用だ」
グラヴィスとナーザは黙ってうなずいた。
「まったく……事もあろうに、お世継ぎの君が暗殺されていたなどと……都というのもなかなか住みにくい場所のようだ」
そう言って王はため息をついた。