アウラ、覚醒する 第1章 アウラ、ぶち切れる

アウラ、覚醒する


第1章 アウラ、ぶち切れる


 高原にもやっと雪解けの季節がやってきた。

 冬の間はその骨組みだけをさらしていた庭園の木々も一斉に芽吹き、花壇には春の花々が咲き乱れている。

 エルミーラ王女が窓からそのような庭を眺めながら言った。

「ああ、とってもいい天気ね。今日はお庭で勉強しようかしら」

「庭で? まだ寒くないの?」

 そうは言ったものの、アウラもずっと部屋に籠もりっぱなしだったので、やはり外に出たかった。

「庭って言っても離れがあるのよ。大丈夫よ。寒くないわ」

 二人が向かったのは庭園の一角で、国王一家のプライベートエリアとなっているところだ。最初に案内されたときに一度だけ来たが、それからは寒くなったのでずっと来ていない。

 庭の周囲はこんもりとした常緑樹で覆われて、城の中の別世界という風だ。

 中央にはきれいな池があって、その側に小さな離宮がある。

「ここね、お父様のお庭で、他の人は入ってはいけないのよ。だから静かでいいの。夏の間はずっとここでやってるのよ」

 王女はアウラを離宮に案内した。だが冬の間ずっと使っていなかった離宮は、中に入ると湿った感じで、ひやっとしていた。

「やっぱり火を入れないと寒いみたい」

「そうみたいねえ。それにお湯なんかも沸かさないといけないわね」

「じゃあグルナを呼んでくるわ」

「え? だめよ。今日は」

 そう言われてアウラは、今日はグルナは月一の休みだったことを思い出した。

「じゃあ、リモンかコルネを呼んでくるわ」

「だめよ。あの子たち、今日はグルナの分まで仕事しなきゃいけないんだから。いいわ。あたしがやるわ」

 そう言って王女は部屋のセットを始めた。

「そんな! あたしがやる」

「だってアウラ、物の在処、分かってるの?」

「……」

 確かにここに入ったのは初めてだ。全く勝手が分からない。

 それに実際のところ、こういう家事をさせたらアウラより王女の方が遙かに手際が良かった。

 アウラは最初お付きが三人も付いて王女ってなんていい身分なんだと思ったものだが、これは一国の王女としては非常に少ない部類だと知って後から驚いたのだ。

 前述の通りグルナは今は王女の秘書のような役割で、身の回りの世話というよりはスケジュール管理や面会の取り次ぎといったことをやっている。

 リモンは王女の私室の管理が仕事だ。

 だが私室といっても王女の私室だ。それだけで大きな家一軒分ぐらいの広さはある。そこを常に快適に整えておくのだから、一人では足りないぐらいだった。

 だから王女の身の回りの直接の世話はコルネの担当なのだが、彼女はイマイチ頼りない上、その他の雑用もたくさんあった。そのためやはり常に王女の側に控えているというわけにはいかなかった。

 これでやっていけていた訳は、王女が大抵のことは自分で済ませてしまっていたからだ。

 以前にアウラはその理由を尋ねたことがあった。


 ―――王女は一瞬唖然として、それから笑い出した。

「ああ、これ? どうしてかってね、あたし一時期みんなにとっても怖がられたことがあって、侍女がいなかったときがあるのよ。そのときに覚えたの」

「ええ? ミーラのどこが怖いの?」

「だって、そうじゃない? あの王女に侍ったらお嫁にいけなくなるって言われたら、そりゃ怖いでしょ?」

 言われてみれば確かにそうだ。

 アウラは王女本人を知っているし自分自身がそうだから気にもしていなかったが、そうでない者の目から見たら危険人物以外の何者でもない。いくら王女とはいえ、普通の娘ならばそんな女の側で仕えたいとは思わないだろう。

「だからね。あの娘たちが来たときは、それぞれもう大変だったのよ」

 そう言って王女は微笑んだ。

「グルナ達のこと?」

「そう。最初来たのはグルナだったんだけど、彼女家出してきたの」

「家出?」

「そうなのよ。何でも嫌な結婚を強制されたとかで、家を飛び出してここにやってきたの。守衛の家族と知り合いだった関係でお城で雇ってもらえたんだけど、そういうわけだからあたし付きを命じられても文句も言えなくてね、来たときはもうすごい顔してたわ」

「どんな顔?」

「絶対帰ってやるもんか! 変態上等! 好きにしろ! みたいな」

 アウラは吹き出した。あのグルナがそんな顔をするなんて想像もつかない。

「リモンはね、お金を稼がなければならなかったの。彼女のお父さんが急に亡くなって、お母さんもあまり丈夫じゃなかったから、一家を養うお金が必要だったの」

「そうなんだ」

「だから彼女はとにかく一番お給金が高いあたし付きを志願したわけ。でもね、それですぐに嫌な噂を広められて……」

「嫌なって言うと、ああいう趣味があるって?」

「そう。もちろん否定はしたけど、ああいう噂って否定すればするほど広まるでしょ? でも彼女は文句一つ言わなかったわ」

「リモンは本当に我慢強いわよね」

「そういえば、薙刀の練習の方はどう? モノになりそう?」

「リモンは筋がいいわ。それによく練習するし。でもコルネはどうかしら……コルネが来たときはどうだったの?」

「ああ、コルネね……」

 そう言って王女はくすっと笑った。

「まったく今思い出してもおかしくなるけど、彼女ね、最初に来たときにはあたしの部屋の前でびーびー泣いてたのよ。ちょうどそのときあたしは図書館から本を一杯持って帰ってきたところで、彼女あたしが自分でそんなことしてると思ってなかったみたいで、ほら、図書館って奥に行くと埃かぶったりするじゃない。だからあたしも汚れてもいい格好をしててね、だからあたしをグルナと勘違いしたらしいのよね」

「それで?」

「あの子、いきなりあたしに抱きついてきてね『グルナさんですか? あたし騙されたんです。でもやめられないってみんな言うんです。だから王女様に襲われたらどうすればいいんでしょう』なんて言うのよ」

 アウラはまた吹き出した。

「さすがにあたしも面と向かってそんなことを言われたのは初めてだったから、ちょっとかちんときたんだけど、だからあたしね、彼女をぎゅっと抱きしめてね、ああ、今日から入る娘ね? そうなの、貧乏くじだったわね。でもそういう場合はもうどうしようもないから、おとなしくしてるほかないわ。でないと痛いわよ、とか言ってあげたの。そしたら彼女真っ青になっちゃって、で、もうちょっとからかおうと思ってたら、本物のグルナがやって来ちゃったのよ。それであたしが本物の王女だと分かったら、もう完全硬直でね。だって彼女いきなりあたしに抱きしめられてたんだから……とにかくそのときのコルネの顔は一生忘れないわ」

 二人は大笑いした―――


 アウラがそんなことを思い出しながら、王女が部屋を片づけている所を眺めていると、彼女が言った。

「それより、図書館から本を取ってきてくれない? ここからだと少し遠いけど」

「ええ? いいけど。今度はどの本?」

 その仕事なら慣れている。王女は何冊か本の名前を指定した。

 アウラの養父ブレスは彼女に薙刀の使い方だけでなく、読み書きなどもしっかり教えてくれていた。だから彼女は本を選んで持ってくるぐらいなら問題なくできた。

 前はこの役目はコルネがやっていたのだが、彼女だと大抵一冊は間違えて再度取りに行く羽目になってしまうのだ。しかもアウラは足も速かったので、最近はこの役目はすっかりアウラの仕事になっていた。

「分かる?」

「うん。大丈夫」

「じゃあお願いね」

 アウラは図書館に向かった。

 その後ろ姿を見ながら、王女はにこっと笑うと小さくつぶやいた。

「さて……どうなるかしら……」

 それから彼女は裏手の薪置き場に向かった。



 フィンは新たな目標を得たせいもあって、結局その冬中図書館に籠もりっきりだった。

 この日も同様に彼は本に夢中になっていた。

 だから書見台の側にナーザがやってきたことに気づいたのも、彼女の手が前に差し出されてからだった。その手首にはまった見覚えのある腕輪でフィンはそれがナーザだと分かった。

「ちょっと、フィン。いい?」

「え? ああ、ナーザさん。なんですか?」

 フィンは慌てて顔を上げた。

「今読んでいるの、ラムルスの本かしら?」

「ええ? そうですけど」

「ああ、やっぱりあなたが読んでたのね。探してもなかったから」

「あ、すみません。持っていきますか?」

「いいのよ。そうと分かれば」

「だいたい読み終わったんですが」

 フィンはナーザと一緒にいるのは楽しかった。

 あの日以来、フィンはナーザとは機会を見つけては話をしていた。

 ナーザの知識は豊富だった。アイザック王もそうだったが、彼女はそれ以上に感じられることも多かった。

 フィンはこの冬の間に、国際情勢や軍事戦略のことに関してはナーザやアイザック王と互角に話し合えるぐらいにまで成長していた。

 だがそれもフィンが一人でそうなれたのではない。要所要所でナーザが上手に導いてくれたせいだ。

 フィンは今では心からナーザを尊敬していた。

 そのときフィンはナーザがたくさんの本を抱えていることに気がついた。

「それ、返しに行くんですか?」

「ええ? そうだけど」

「手伝いますよ」

 そう言ってフィンはナーザの手から本を取り上げた。

「あら、ありがとう。そんなつもりじゃなかったのに」

「いえ、いいんです」

 二人は本を抱えて書庫に入っていった。

 書庫の中にはまだ冬の寒さが残っていた。全体がまだひんやりとしている。

「そういえばフィン」

「はい? なんですか?」

「あなた、アウラと一緒に旅してたのよね」

 いきなり不意を突かれて、フィンは本を取り落としそうになった。

「ええ? まあそうです」

「ここではあの子と一番つきあいが長いのはあなただから……」

「あいつまた何かやったんですか?」

「違うのよ。最近少し機嫌が悪いみたいなんで、エルミーラ様が心配してたのよ」

「そうなんですか?」

 昨日見たときはまるでいつも通りだったが……

 アウラはエルミーラ王女とよく図書館にやってくる。一人で本を取りに来ることもある。だがそこでフィンと出会ったら、なぜか必ずにらみ合いになった。

 昨日も一昨日もそうだった。だいたい機嫌がいいっていうのはどういうときのことを言うのだ?

《旅してるときだってずっと陰気な顔ばかりだったし……》

 もちろんフィンは、プライベートなときにアウラが王女に見せる顔がどういうものか知らなかった。

「そうなの。だからあなたが何か知らないかって思ったの」

「いえ、別に心当たりはないですが……」

「だったらいいのよ。気にしないでね」

「はい……」

 二人は持っている本を元の場所に戻していった。

「あら? これは高いわね」

 ナーザが書棚の最上段を見上げて言った。

「あ、脚立を持ってきます」

 フィンは書庫の隅に置いてある脚立を取ってきて、書棚の下に置いた。

「僕が入れましょう」

「いえ、いいわ。何だか本の並びがぐちゃぐちゃになってるみたい。整頓するから……それより下で押さえていてくれる?」

 そう言ってナーザは脚立に登った。フィンは慌てて脚立を押さえた。ナーザのお尻のあたりが目の前にある。フィンは目のやり場に困った。

 そのときナーザがいきなり尋ねた。

「ところであなた、今後のことはもう決めた?」

「ええ?」

 あれからかなり経っている。王は冬は長いと言ったが、季節はもう春だ。

 そろそろ本当に決断しなければならない時だ。

 フィンが一番引っかかっていたのは、やはりこの役割が重すぎることだった。

 都とベラの間を取り持つというのは、並大抵のことではないだろう。果たして彼なんかにできるのだろうか?

 もちろん彼一人で事を進めるわけではないだろう。王やナーザは協力してくれるだろうが、それでもキーとなるのは彼自身なのだ。

 その上失敗したときには一体どういうことになるか想像もつかない―――だとしたらやっぱり出ていった方がいいのだろうか?

 だが出ていくとなると後ろ髪が引かれた。

 ここはとても居心地がいい。それにまだまだ読みたい本はたくさんある。アイザック王やナーザと話をするのはおもしろい。

 それにアウラが―――彼女は完全にこの城の一部にとけ込んでしまっていた。最近はエルミーラ王女の行くところ必ずアウラが付き従っている。王女に大変気に入られているようだ。

《あいつが大した悶着も起こさずに、あんなに大人しくなるなんて……》

 旅に出るとしたならば、当然アウラとは別れることになるが……

 別れる? 別に今までだって一緒に暮らしていたわけではない。ちょっとの間二人で旅していただけではないか。

 この城に来てからは図書館や夕食時に顔を合わせるだけではないか。

 別れるも何も―――最初からそんな関係ではないだろう?

「どうすればいいかまだ迷ってるんです。期待して頂けるのは嬉しいのですが、私はまだ若輩の身ですし、ご期待に添えるかどうか……」

「そんなことを言ってたら、何も始まらないでしょう? それに王様が今すぐあなたに何かを期待している訳ではありませんよ」

「え?」

 ナーザは脚立から降りてきた。

「今度はそっちにお願いできます?」

「あ、はい」

 フィンは別な書棚の前に脚立を動かした。

 またナーザが脚立に登って、本を戻しだした。

「アイザック様は、あなたの将来性に対して期待されてるんです」

「ええ?」

 フィンは驚いた。

「そうなんですか?」

「アイザック様がお考えになっている計画は、それこそ一朝一夕ではどうにもならないようなものでしょう? まだ十分時間はあります。これからどんどん勉強すればいいんですわ。それにこの冬だけで国際情勢にもずいぶんとお詳しくなられましたわね?」

 それを聞いてフィンは少し嬉しかった。

 旅に出るといっても特にあてがあるわけではない。一人になったらまた昔のことを思い出してしまうだろう。

 もう少し時間をかけてゆっくり勉強していていいというのなら、願ってもない話ではある。

「そういうことで良ければ……でも……」

 フィンがそこまで言ったときだった。

「きゃっ!」

 ナーザが本を入れ終えて脚立から降りようとしたとき、足を滑らせてしまったのだ。

「あ!」

 フィンは慌ててナーザを受け止めた。

 だがその結果―――フィンはナーザの胸にまともに顔を埋めることになってしまったのだった。

 頬に柔らかな胸の感触が伝わってくる。良い香りがフィンの鼻孔をくすぐる。

《え? えっと……》

 フィンはあわててナーザを床に下ろした。

 間近にナーザの顔がある。

 ナーザの切れ長の瞳が驚いたようにフィンを見つめている。

 ナーザの唇は少し開かれていて、そこから白い歯がこぼれている。

《この人が本当に四十過ぎなのか?》

 フィンはそのままふらふらとナーザにキスしてしまいそうになった。

 だが途端にナーザが何かに驚いたような表情をする。

 フィンは自分が何をしようとしたのかに気づいて慌てた。

「す、すみません。いえ、あの……」

《馬鹿野郎! 俺は何やってるんだ?》

 だがナーザはそれには答えない。怒ってしまったのだろうか?

 フィンは再びナーザに謝ろうとした。

 だがナーザの目はフィンを見てはいなかった―――それからナーザはこう言った。

「あら、アウラ。どうしたの?」

 フィンははじかれたように振り返る。

 そこにはアウラが真っ赤な顔をして立っていた。



 アウラはもう少しで大声を上げそうになった。

《こ、こいつら! 誰もいないと思って何やってるのよ!》

 アウラはナーザがあまり好きではなかった。

 理由などない。

 王女からはナーザが立派な人だと何度も聞かされている。そもそもあのロンディーネ事件の時ナーザがもしいなかったら、王女はこの世にいなかったかもしれないのだ。

 またナーザが国王や王妃、将軍といった人達と難しい話をしている場面には何度も出くわした。だからアウラは彼女がすごい人だということは認めていた。

《でも……》

 アウラが王女に同行したり、今日のように本を取りに来るために図書館に来ると、そこには大抵ナーザとフィンが一緒にいたのだ。

 それを見る度に、なぜか腹が立った。

 それでも今までは、単に一緒にいるだけだった。

 閲覧室はそんなに広いわけではない。両方とも本好きなのだから、仕方のないことだと思えば良かった。

 だが今見たものは―――王女に指示された本を探しに書庫に入ってきた途端、目の前でフィンがナーザを抱きしめて、キスしようとしているのだから!

「あら、アウラ。どうしたの」

 その上ナーザは平然とアウラに向かってそう呼びかけたのだ。

 それを聞いて、アウラは頭の血管が切れそうになった。

 途端に慌ててフィンが振り向いた。

「ア、アウラ?」

 アウラはぎろっとフィンをにらんだ。

「あ、あの、これは……」

「何よ!」

「ナーザさんが足を滑らせて……」

「あ、そう」

 アウラはどすどすと二人の横を通り過ぎると、書棚から言われた本を抜き出して、そのままきびすを返した。

 二人はまだ同じ場所に立っている。

 アウラは黙って横を通り過ぎた。フィンはまだ何か言いたそうだったが、アウラはその方を見もしなかった。

 書庫を出た途端にアウラは駆け出すと、そのまま一目散に王女のいる離宮まで走っていった。

 戻ったときには王女はだいたい部屋の準備を終えていた。

 暖炉には丁度火が入ったばかりのようで、まだ薪がくすぶっている。

「んん? ……どうしたの?」

 アウラは思いっきり息が上がっている。

「なんでもないの。この本でしょ」

「ええ、そうね。ありがとう。でも、どうしたの?」

「なんでもないのよ。ちょっと走ってきただけなの」

「そう……」

 王女は内心笑いをこらえるのに必死だったのだが、アウラはそんなことに気づく余裕はなかった。

「それじゃ後で、リモンとコルネに言っといてくれる? 今日はお茶はここでするって」

「分かったわ」

 王女はそう言うと、離宮に入ってアウラの持ってきた本を広げた。アウラはそれを確認すると、庭園に出た。

 そのためアウラは、その後王女が肩を震わせて笑っていたことに気づかなかった。


 アウラは庭園の中央に立った。

 それから背負っていた薙刀を抜き放つと、中段に構える。

 冬の間は屋内で練習しなければならなかったので、どうしても遠慮がちになった。置いてある彫像や絨毯などに傷を付けたりしたら大変なことになる。

 だがここならば思い切り振り回すことができる。

 アウラはそれからずっと素振りを続けた。

 体を動かしていればさっき見た物を忘れることができると思ったのだ―――だがどちらかというとそれは逆効果になった。

 アウラの薙刀の先には、いくら追い払おうとしてもナーザとフィンの抱き合っている姿が現れるのだ。彼女がいくらそれを切り裂いても、何度でもまた元に戻ってしまう。

 アウラはまるで狂ったように素振りを続けた。

 気がついたらへとへとになっていた……

 アウラは呆然として、池の側に座り込んだ。

《どうして?》

 彼女はそのまましばらく、無言で池の面に映る自分の姿を見つめていた。

 そのときだっ。アウラの背後で人の気配がしたのだ。

「誰?」

 アウラはその人影に向かって鋭い声で言った。

「あ、怪しい者ではございません!」

 そう言いながら現れたのは、あのバルグールだった。

「ここは立ち入り禁止のはずでしょ?」

 アウラはそう言ってバルグールをにらみつけた。どうしてこんなときに、よりにもよってこんな奴がやってくるのだ?

 だがバルグールは慌てた風もなく、薄ら笑いを浮かべながら言った。

「それは重々承知しております」

「だったらさっさと出て行きなさい」

「アウラ様がそうおっしゃるのなら、もちろんそういたします」

 だがそう言いつつも、バルグールはいっこうに出ていく気配はない。

「何やってるのよ?」

「いえ、アウラ様をこんな間近で拝見できて、大変光栄だと思っていたのです」

「ええ?」

「それにしてもあなたはお美しい……」

 そう言いながらバルグールは逆にアウラに近寄ってきた。

 昔ならその場で一刀両断していた所だが、今ではアウラももう少し辛抱強くなっていた。

「寄らないでよ!」

「どうしてそんなお顔をなさるのです?」

「…………」

 バルグールはアウラが絶句した意味を取り違えたようだ。

「あなたはご存じないのですか? ご自分がどれほど美しいか……男なら誰でもあなたの美しさには見惚れてしまいます。エルミーラ様が大輪の花だというのであれば、あなたは野を駆ける鹿のようだ。あなたが立っているだけで、私の心は痺れます。あなたが歩いているだけで、私は生きていて良かったと無上の喜びを感じるのです」

 アウラは怒るというよりもあきれ果てていた。

 だがバルグールはアウラがそれ以上拒否しない理由を、勝手に勘違いした。

「アウラ様、実は今日私が忍んで参りましたのは、ただあなたにお会いしたかったからなのです」

《五》

 アウラの頭の中で、カウントダウンが始まった。

「もちろんこのお庭は、王様と王女様専用の庭であることは承知しております。でもそのような禁忌も、あなたに会えるという喜びの前には何の障害にもなりません」

《四》

「私は今アウラ様を目の前にして、その思いをますます強めております。これほどまでに、これほどまでに素晴らしい方だとは……」

《三》

「あなたは私の魂を虜にしてしまわれました。もう私の目にはもうあなたしか映っておりません」

《二》

「寝ても覚めても思うのはあなたのことばかり。このまま遠くからあなたを見つめるだけの生活は、地獄です!」

《一》

「ですから、あなたを、あなたをこの手に抱きしめるためならば、この命差し上げても惜しくはございません!」

 そう言ってバルグールはアウラの手を取って抱きしめようとした。

 胸の傷が再び開いてしまったような気がした。