第2章 広がる波紋
「ふむ。なるほどな……」
グルナの話を聞き終えて、さすがのアイザック王も青ざめた顔をしている。それはフィンも同様だった。
「よく話してくれた。グルナ。それでは下がって休みなさい」
グルナは黙って頭を下げると、別な侍女に支えられながら退がっていった。
王宮の広間には、王や城の高官達が勢揃いしている。ルクレティア王妃は話を聞いて寝込んでしまったのでここにはいない。
横に座っているアウラがぴくりと動いた。フィンはずっと握っていた彼女の手をまた握り返す。フィンはアウラの顔を見た。今は少し落ち着いてきているが、彼女のショックは相当なものだ。
グルナの証言によると、事の次第はこんな感じだった。
―――エルミーラ王女一行は白き湖にピクニックに出かけた。
本来ならば女だけの一行というのはあまり安全とは言えない。特にフォレス王国におけるエルミーラ王女の重要性を考えればなおさらだ。だがその場所は城からも近く、今まで何度も行ったことのある場所だった。
またガルサ・ブランカ周辺はアイザック王の尽力で非常に治安の良い状態に保たれていた。
例えばフィン達が来る途中に通ったグラテスは町が城壁で囲まれていたが、これは他国からの侵略に対する備えというよりは、夜盗クラスの襲撃に対する備えと言った方が良かった。しかしガルサ・ブランカにはそのような城壁はない。なぜならここではフォレス軍が警察機構も兼ねており、彼らが日々見回っているおかげで首都付近ではそういった夜盗の類は根絶されていたからだ。
その上、最近のエルミーラ王女にはアウラという凄腕の護衛もついている。今では彼女の腕を疑う者はいない。だから王女が彼女たちだけでピクニックに行くと言っても誰も心配しなかったのだ。
それはともかく行った先で彼女たちは食器を忘れてきたことに気づいた。そのためアウラがそれを取りに戻った。アウラが行けば他の娘が行くより速く行って戻れるためだ。そこでアウラは薙刀をリモンに預けて単身城に戻った。
アウラが行ってからしばらくして、いきなり顔を隠した四人の男達が襲ってきた。
不意をつかれたとはいえリモンは果敢に男達に立ち向かった。彼女はアウラから教わった薙刀の腕はかなり上達していたとはいえ、もちろん実戦の経験はない。しかも四対一だ。その勇気はまさに特筆に値するだろう。しかも彼女は相手の一人にかなりの深手まで負わせたのだ。
リモンは傷つけた男を更に追いつめようとした。しかしそのとき彼女は後ろから別な男に斬られて、肩口から背中にかけて大きな傷を受けてしまった。彼女は振り向きざまその男に斬りかかろうとしたが、そのままよろめいて倒れてしまう。だがそのとき男の手にしていた剣をはじき飛ばしたのだった。
リモンが倒れたのを見て男達はエルミーラ王女に手をかけた。グルナは男を押しのけようとしたが、逆に振り払われて地面に叩きつけられてしまう。その隙に男達は暴れる王女を担いで走り去ってしまったのだ。
グルナが再び気づくと、コルネが自分のスカートでリモンの傷を押さえながらがたがた震えていた。グルナは歩こうとしても歩けなかったので、コルネに人を呼んでくるように言って、代わりにリモンの傷を押さえていた。
それからしばらくしてアウラが戻ってきた。彼女は男達の後を追っていった。しばらくすると下から旅商人が二人助けに来てくれた。彼らがリモンを介抱しているところにアウラが戻ってきた。彼らがリモンを担架で街道まで運び出したところで、ロパスの一隊と出会った―――
その後のことは王宮警備隊長のロパスが証言していた。血だらけのコルネが駆け込んできて、王女が拉致されたこととリモンが斬られたことを告げたこと。彼らが大急ぎで現場に駆けつける途中で、旅商人に担がれたリモン、グルナ、アウラと合流できたこと。現場から彼らも足跡を追ったが、アウラの言ったとおり馬で逃走されて結局行方は分からなかったこと。旅商人達は本当に偶然街道でコルネと会って現場に駆けつけたのだということ。
その後のごたごたはフィンも城の中で見てきたとおりである。
《今度こそアウラは罰せられるだろうか?》
フィンはそう思うと胸が苦しくなった。アウラがあの場を離れていなければ、間違いなくこうはなっていなかっただろう。素人のリモンにやられるような奴らだからアウラの敵ではなかったはずだ。
だがそれもその場にいなければ意味がない。彼女は王女の身辺警護が任務なのだ。その彼女が王女の側を離れてしまったのだから言い訳のしようがない。
そのことについてはアウラが一番責任を感じているようだった。実際さっきからアウラは下を向いたままずっと小刻みに体を震わせ続けている。
《こいつ責任感強そうだからな……》
フィンがその手を握ってやっていなければ、崩れ落ちてしまいそうだ。
《それにしても、ほんの一瞬目を離した隙なのに……》
不運といえるかもしれない。だがフィンはもし相手がこういう隙を狙って待ちかまえていたのだとしたら、隙を見せた方が負けだと知っていた。
フィンがそのようなことを考えていると、王がロパスに尋ねた。
「それでレーチェは見つかったのか?」
「探しておりますが、まだ……」
王女がピクニックに出かけるという情報は、誰もが知っているものではない。かといって城の外でずっと待っているのでは効率が悪すぎる。となれば誰か情報を漏らした者がいる可能性が高いわけだ。
実際王女のピクニックの弁当を作ったレーチェという厨房の女が一人、事件後行方不明になっていた。
「ふむ……まともな状態では見つからんかも知れんな」
一同は一様に暗い顔になる。しばらく皆はそうしていたが、やがてコルンバンという名の高官が口を開いた。彼は内政や外交を手広く任されているアイザック王の片腕の一人だ。
「それでエクシーレにはいかが致しましょうか?」
「そう急ぐでない。鑑定はまだ済んでおらぬ」
高官は黙った。
リモンに傷を負わせた男は、反撃されたとき剣を取り落としてそのまま逃げていったのだ。彼はよほど慌てていたのか、落とした剣を回収していかなかった。アウラがロパスに渡したあの剣だ。
そのために呼び出された刀剣商が鑑定を行っている真っ最中なのだ。
だがその剣は素人でも一目見るだけで特別な剣だということが分かる物だった。比較的細身のまっすぐな剣で、柄が少しねじれたような特殊な形をしている。鍔の部分には小さく家紋が彫り込まれている。
この形式の剣はそのあたりの店で簡単に手に入れられる物ではない。これは“名誉の剣”と呼ばれるもので、エクシーレ王国で士官が任命された時に国王より下賜される重要なステータスシンボルなのだ。エクシーレ軍の士官達は命の次にこれを大切にするとも言われている。当然失ったりしたら大失態だし、偽造したりしたら厳罰が待っている。
あの旅商人がアウラにこれを持って行けと言ったのも当然だった。彼らは仕事柄そのことを見知っていたのだ。エクシーレではそのぐらいポピュラーな物だった。
「アイザック王様、恐れながら申し上げます」
鑑定していた刀剣商が顔を上げて言った。アイザック王が黙ってうなずく。
「やはりこれば本物でございます。間違いございません」
一同がざわめいた。
「そうか。手間をかけたな。下がって良いぞ」
刀剣商は王に剣を捧げると、引き下がった。
黙ってその剣を見つめているアイザック王に対して、先ほど口を開いたコルンバンが言った。
「やはりエクシーレでしたか! 奴らめ、この間のことを根に持って……」
だが王はやんわりとその高官の発言を遮った。
「まあ待て。貴公の気持ちはよく分かる。だがここで間違いを犯しては、元も子もないぞ」
フィンも同様の気持ちだった。この状況は何だかおかしい。
人々がざわめくのを静めると、王は一同に向かって言った。
「さて今、この剣がエクシーレの名誉の剣であることは明らかになった。だが貴公らに尋ねたいことがある。もし貴公らがエクシーレの士官だったとしてみよう。貴公らも名誉とはどのようなものかよくご存じのはずだ。さてそこで、上司よりフォレスの王女を誘拐せよとの任務を受けたとする。そんな場合にこの剣を携えていくかな? 果たして?」
それはフィンも同様に感じていたことだ。だが多くの者がうっと息を呑んだ。
「戦いの場において敵の戦士に向かって振るわれるのであれば、この剣もその名に恥じないことであろう。だがこそこそと他国に侵入した挙げ句に、女に向かって振るうのだとしたら、それは果たして名誉なことであろうか?」
一同は返す言葉がない。
更に王はその剣を持ち上げて人々によく見えるようにして言った。
「またこの剣は素晴らしい造りではあるが、実用性というところか見れば今ひとつだな。お前達ならどう思う? もしこういった襲撃に行くのであれば、もっとしっかりした武器を持っていった方がいいとは思わぬか? まあそのおかげでリモンは一命を取り留めたのだが」
人々は顔を見合わせ始めた。王は更に続けた。
「その上これを持っていた男は手負いのリモンに逆襲された挙げ句、これを取り落として逃げていったという。貴公らだったらどう思うかな? 女の侍従に負けてこの剣を奪われたのだぞ?」
誰も何も言わない。
「普通ならば、何はともあれ、剣を奪い返そうとするであろうな。これの意味することはもう分かるな?」
それを聞いて先ほどのコルンバンが言った。
「では……奴らはエクシーレの手の者ではなかったと、そうおっしゃられるのですか?」
「わしはそう考えておる。この件の犯人はいろいろ考えられるが、エクシーレだけは関与しておらぬであろうな」
一同は顔を見合わせた。別な高官の一人が王に尋ねた。
「ではその剣はいずれより?」
「それはわからん。だがエクシーレの士官はたくさんいる。中には金に困った者や、うっかりした者がいてもおかしくはない」
一同はうなずいた。しばらくしてまた別な高官が言った。
「それでは……誘拐者は何者なのでしょうか?」
王は苦笑いした。
「それが分かれば苦労はせぬ。エクシーレ以外の何者かである、ということしか今は分からん」
それを聞いて王宮警備隊長ロパスが言った。
「それではエクシーレには何と伝えましょうか? もう事件の噂は広まっております」
「そうだな……とりあえず事実は伝えておかねばならんだろうな。それに関してはわしが書状を書こう。それからこの剣はその際に持参して、誰の持ち物かは確かめなければならんだろうな」
警備隊長はうなずいた。
「ともかく皆の者は今後、軽挙は慎んでもらいたい。我が国は今未曾有の危機に瀕しているかもしれないのだからな」
その言葉に一同はどよめいた。未曾有の危機? ちょっと大げさすぎるのではないだろうか?
人々のその思いを代弁して再びコルンバンが尋ねる。
「いったいどういうことでございましょう?」
それに対して王が渋い顔で答える。
「ともかく今回の事件は妙だ。第一に、誘拐者達はかなり計画的に事を進めていた節がある。それなのにいざ事に及んで、このような証拠を落として行くなど、間が抜けすぎているであろう?」
「ということは……」
「そうだ。奴らはわざとこの剣を残していったのだ」
コルンバンはあっと口を押さえた。王はそれを見て続けた。
「そう。わざとなのだ。だとすれば何故奴らはそんなことをしたのであろうな?」
それを聞いて高官は答えた。
「……エクシーレがそれを仕組んだと見せかけようとしたのでしょうか? ということは、エルミーラ様を拉致した連中は、我が国とエクシーレを戦わせようとしている、ということなのでしょうか?」
王はそれを聞いてふっとため息をもらした。
「まずはそう考えねばならないだろう」
人々はそのときやっと事態の重大性に気づいた。王が先ほど未曾有の危機と言ったのは決して誇張ではないのだと。
「だが、まだ腑に落ちんことはある」
王の顔には少し怒りが浮かんでいた。
「もし奴らが本気でそう考えていたのであれば……わしも相当なめられたものだな⁉」
ここまでの展開はフィンにとっては意外ではなかった。犯人達がエクシーレの名誉の剣を落としていったということを聞いて、彼も王と同様の考えに達していたからだ。命の次に大切な剣をそんな仕事に使うはずがない。しかも落としてくるなんてあり得ない話だ。だとすればそれはわざと以外に考えられないのだ。それにフォレスとエクシーレを戦わせることで利益を得られる連中はこの世の中にいくらでも存在するだろう。
要するにこの事件は非常に計画的な事件だったというわけだ。だから犯人達は厨房の女を仲間に引き込み王女のスケジュールを調べてまでこの機会を狙ったのだ。
だがそう考えると少しおかしなところがある。彼らがそこまで計画していたのであればアイザック王のことは全然調べなかったのだろうか?
はっきり言えばこんなトリックは見え透いている。愚鈍な王ならばこの程度の策略でも引っかかってしまうかもしれない。
《あいつだったらヤバかったかもしれないが……》
フィンの脳裏につい先日ベラで遭遇した騒ぎが蘇る。
だがアイザック王はそれとはほど遠い人なのだ。もしこれがフォレスとエクシーレを戦わせるという策だったとして、誘拐者達は本気でこの程度の策略に王が引っかかると思ったのだろうか?
それとも王がエルミーラ王女をある意味“野放し”にしていたところでも見て、王がそれほどの愚者だと思ったのだろうか?
どっちにしても杜撰すぎる話だ。
だとすればこの事件は実はそんな大それた物ではなく、単に身代金目当ての盗賊レベルなのかもしれない。たまたま手に入った名誉の剣を使ってごまかそうとしているだけなのでは?
だがそうならそうでそいつらはよっぽど恐れを知らない奴らに違いない。よりにもよって王女を誘拐するなんて。失敗したら全員首をはねられるのは間違いない。それよりも適した相手はたくさんいるだろうに。その上身代金目当てならば、向こうから何かコンタクトがあるはずだ。だがそれもない。この線も見込みは薄そうだ。
そのとき扉がばたんと開いて兵士が入ってくると、ロパスの横に立った。
「ご報告申し上げます!」
「なんだ?」
ロパスが答える。
「レーチェが見つかりました」
あたりからおおっと声が挙がる。
「なに? どこでだ?」
ロパスの声が厳しくなる。
「西の森で……残念ながら死体で……」
「そうか……」
一同がため息をついた。
「それともう一つ、レーチェの男関係ですが、最近あまり見かけない男とつきあっていたということです」
「その男の名は?」
ロパスの問いに兵士は首を振った。
「分かりません。ただ見た者によると、ベラの訛りがあったそうです」
「ベラだと?」
「はい」
一同は顔を見合わせた。
「他には?」
「以上です」
「ご苦労!」
兵士が礼をして退ると、人々が口々に喋り始めた。
この誘拐団の背後にベラがいるなどということがあり得るのだろうか?
ベラとフォレスは代々友好的な関係を築いてきている。何しろフォレスにはベラ首長のロムルースが前触れなくやってきても構わないし、王女が訪問すると伝えただけで一介の使節を大歓待してくれるところなのだ。
更に現王妃のルクレティアはベラ出身だし、もし前首長達の急逝さえなければロムルースはフォレスの跡継ぎになっていたことだろう。そういった最大の友好国をこのようなやり方で陥れるような真似をして何か得になるのだろうか?
確かにフォレスとエクシーレが戦ってくれればベラにとっては長年の仇敵エクシーレの背後を衝く格好のチャンスになる。
だがそのためフォレスが犠牲になる可能性が大だし、さらにはその陰謀が露見したらフォレスはエクシーレに寝返るかもしれない。そうなったら今度はエクシーレとフォレスの連合軍と戦うことになるなる。余りにもリスクが大きすぎるだろう。
それにそもそもそういう作戦をしたければ、まずは話を持って来るのが筋だ。エクシーレはフォレスにとっても長年の敵だ。ベラが本気でエクシーレを攻略するのであれば、フォレスも協力すると考えるのが普通だろう。
そういうわけでその線はまずありそうもなかった。ベラ出身の男が誘拐団に属していた、それだけのことなのだろう。
一同がそんなことを話しているのを聞きながら、フィンはずっとアウラを気にしていた。彼女はこの会議の間中、ずっと下を見つめたまま動かない。フィンは彼女が心の中で悔やんで悔やんで悔やみまくっていることを知っていた。
フィンは不謹慎だとは思いつつも、早く終わって欲しいと願っていた。
「ともかく、奴らの狙いがまったくもって不明だということが問題なのだ。これでは到底フォレスとして動くことはできん。だからまず貴公らはミーラの居場所を発見することに全力を尽くすのだ。よいな?」
王の言葉に全員が同意した。だがその内の一人が言った。
「ですがいったいどこを探せばよいのでしょう? もし国外に出られていたら、もうどうしようもないのでは?」
一同は不安な顔になる。だがそこに今までずっと黙っていたナーザが言った。
「たぶんその可能性は低いかと思いますわ」
「どうしてです?」
「みなさんもご存じでしょう? 普通の国なら確かにその気になればどこからでも国外に抜けられます。でもフォレスは違います。外に出るための街道は三本しかありません」
フィンはフォレスの地図を思い浮かべた。ナーザの言うとおりここは天然の要害だ。四方を高山に囲まれていて、外部に通じる街道は三本しかない。一つはフィンとアウラがやってきたパロマ峠を越えてグラテスに通じる街道、二つ目がベンダ峠を越えてエクシーレのデルガードに向かう街道、最後にベラの首都ハビタルに向かうエストラテ川沿いの街道だ。
「街道は事件のあと真っ先に封鎖されました。そこでは怪しい者は決して通すな、それから荷馬車の積み荷は全て調べよという指示が出ております。でもまだ何か見つかったという報告はございませんね?」
そう言ってナーザはロパスの方を見た。
「はい。まだそういう報告は」
人々は顔を見合わせた。
「王女様を連れて国外に脱出することにはかなり危険が伴います。この誘拐団はかなり周到に準備をしているようです。街道が封鎖されることはたぶん想定しているでしょう。だとすればほとぼりが冷めるまでエルミーラ様を国内のどこかに隠しておいた方が、発覚の可能性が低いと考えるのではないでしょうか?」
フィンはなるほどと思った。こういう場合、確かに彼女は頼りになる。というよりどうしてこの人は普通にこんなことを考えつくのだ? 王に重用されるのも当然だ。
「もちろん国境も厳重にチェックしなければなりません。隙をついてエルミーラ様を連れ出す可能性はありますから」
それを聞いていた一人が言った。
「あの、街道以外からは本当に出て行けないでしょうか?」
ナーザは少し考え込んだ。
「それはもっと大変だと思いますが……街道以外の経路は現地を知り尽くした熟練した猟師でないと大変危険です。エルミーラ様を担いで通るのは無理でしょうし、エルミーラ様を歩かせたとしても、彼女の足ではどうでしょう? 誘拐団はエルミーラ様をさらった以上は、身に危険が及ぶようなことはしないと思いますが……」
フィンはアウラとここにやってくる途中のことを思いだした。
このあたりの山は険しい。街道をちょっとはずれたらあの調子だ。十分な装備なしに行くのは半ば自殺行為である。
それにあのとき一緒にいたのがアウラだから良かった。何しろアウラの平衡感覚は素晴らしい。フィンが恐る恐る歩くようなところも、平気でひょいひょい歩いていくのだ。困ったのは滝から飛び降りるときだけだ。
彼女の代わりにエルミーラ王女が一緒だったら、あの旅はもっと大変な物になっていたに違いない。はっきり言って王女の運動神経は良いとは言えない。もし彼女と一緒だったら確実に倍以上の時間がかかったことだろう。
そのうえそろそろ季節は秋だ。山の高いところで天候が悪化したら普通に命が危険だ。
奴らが王女をさらっていったということは、生きている彼女が必要だということだ。そうでなければあの場で殺しておけばいい。それ故に奴らは彼女に簡単に危害を加えるはずはないのだ。
ナーザの答えに、発言した高官は恐縮していた。
「申し訳ありません。私の浅慮でした」
「いえ、とんでもありませんわ。あらゆる可能性は考えておく必要があります。もし彼らが山越えで脱出を計ろうとするのであれば、たぶん土地に詳しい者の手引きが必要でしょう。山の猟師達は調べておかないといけませんね」
最後の方はナーザはロパスに向かって話していた。
「わかりました。手配しておきます」
ロパスがそう答えるとまた場は静まりかえった。
それを見て王が言った。
「その他何か考えのある者は?」
フィンも何か他の可能性がないかどうか必死に考えていた。国内にいないとなると、必ずどこかから出ていかなければならない。だが街道ルートはもう押さえられているというし、それ以外はとてつもなく困難だ。後は空を飛んで行くぐらいしか―――空を飛ぶ?
「あの、ちょっといいでしょうか?」
発言したフィンに一同の顔が向かう。
「ル・ウーダ殿。どういったことかな?」
「えっとですね、魔導師の中には空を飛べる者もいますよね。そういった者が敵の一味にいたとしたら……」
一同がざわめいた。それを聞いて王が言った。
「確かにそういう者もいるが、滅多にいるものではないな?」
「はい。まあ、可能性としてですが。」
王はちょっと考え込んでから、近くにいた魔道服を着た男に尋ねた。
「パストール、どうだ?」
彼はフィンが間違って迷い込んだ魔道軍の施設で出会った男だ。フィンは後から彼がフォレス魔道軍の総帥をしていると聞いた。そして実際にあのとき空を飛んだ男を見ている。
「恐れながら、確かにもし敵にそんな男が混じっていれば、いろいろ便利なのは間違いないでしょう。ただ飛空の魔法はかなり難しいものです」
そう言ってパストールはフィンの方を見た。
「ル・ウーダ殿は羽毛降下の魔法を使えましたな?」
フィンのゆっくり降下できる魔法のことを魔導師仲間ではこう呼ぶこともある。
「え? まあ、はい」
「あれでも途中で気が散ったら大変なことになりますな?」
「それはもちろんです」
フィンはうなずいた。
「飛空の魔法はあれよりもっと難しいのです。羽毛降下の場合はそれだけを考えていればいいのに対して、飛空の場合はそれに加えてどこに向かうかということも考えねばなりません。なぜあの魔法を使える者が少ないかというと、素質がある者でも大抵修行の途中で事故に遭い、それ以来飛べなくなってしまう者が大半だからなのです。それとも都にはそういった者がざらにいるのですかな?」
そう言ってパストールはフィンを見つめた。うっかり微妙な話題に入り込んでしまったようだ。だがこのぐらいならばまだ常識の範疇だ。
「いえ、都でも状況はそう変わりません」
「だとすれば私は敵にそういった男が混じっている可能性は限りなく低いのではないかと考えます。また仮にそういった者がいたとしても、王女を抱えて山越えをするのはまず無理でしょう。ただ危険を冒せば夜中に検問の上を飛び越すようなことは可能かも知れません」
そう言ってパストールは言葉を切った。それを見て王が言った。
「なるほどな。というより、もしそんな敵が相手だとしたら、もはやわしらだけでは対応できないかもしれぬ」
王はそこで言葉を切ってから少し語気を荒げた。
「そんなことは考えたくもない!」
フィンは驚いて謝った。
「申し訳ありません。単なる思いつきですので」
それを聞いて王は首を振った。
「どうして謝られるのだ? ル・ウーダ殿の言われた可能性がないと決まったわけではない。そうではなく、そんなことのできる敵とは戦いたくないと言ったまでだ」
フィンは王の顔を見た。そして思い当たった―――そうなのだ。そういった能力を持つ者は貴重なのだ。フィンはフォレスに少なくとも一名いることは知っているが、どんなに多くとも数名程度だろう。そういった者がたくさんいるところといえば―――ベラか都しかない! 敵の背後にそのどちらかが付いていたら? ベラがそんなことをするはずがないと考えれば残るは都だが―――そんな馬鹿な!
「いや、あの……」
フィンが蒼くなったのを見て王が言った。
「ル・ウーダ殿。考えすぎは体に毒だ。仮定に仮定を重ねていったら、それはもう空想という。まずは地に足をつけて考えなければな」
「は、はい」
確かに王の言うとおりだ。まだ何も証拠があるわけではない。フィンは安堵した。そんなフィンの表情を見て王は言った。
「というわけでだ、今のところ最もありそうなのが国内のどこかにいるということのようだ。皆はその線で探索を進めてくれ。だがもし他の可能性を思いついた者がいたら、私に報告するのだ。どのようなことも構わんからな」
王の言葉に一同はうなずいた。そのあとは明日以降の王女探索に関しての細かい打ち合わせが行われた。それが終わったのは夜も更けてのことだった。
会議終了後フィンとアウラが退出しようとしたときだ。アイザック王が二人を呼び止めた。
「アウラ。それにル・ウーダ殿も、ちょっとこちらに来てくれないか?」
フィンはどきりとした。王はアウラを処罰しようというのだろうか?
二人は王について別室に入ると王の前に立った。
アウラは相変わらずうつむいて震えている。
王は二人を交互に見てから、アウラに向かって静かに言った。
「アウラ。顔を上げなさい」
アウラはびくっとして王の顔を見た。王は厳しい表情をしている。
「今回は大変なことになったな」
「……はい。申し訳ありませんでした……」
アウラは消え入りそうな声で答える。
「アウラ。お前が責任を感じておるのは分かっている。だがそんなに悔やむ必要はない」
アウラは驚いて王の顔を見た。
「え? でも……」
「グルナからも話は聞いている。お前はミーラの命を受けて城に戻ったのであろう?」
「え? いいえ、あたしが言い出したんです……コルネがかわいそうだったから……」
「お前が言い出したということは聞いている。だがそれを認めたのはミーラであろう⁈」
アウラは驚いたように王の顔を見つめて言った。
「違うんです! 私が悪いんです!」
途端に王が厳しい声で言った。
「愚か者!」
アウラはびくっとして一歩退いた。王は黙って手招きする。アウラは再び前の位置に戻った。そんなアウラに王は静かな声で言った。
「あの場で命令を下す立場にいるのはミーラだけだ。お前はミーラの従姉にあたるが、今はミーラの侍従でもある。ミーラの言うことを聞くのは当然だ」
「でも……」
「わかっておる。お前の気持ちは痛いほど分かる。だがこういうことを招いた責任は、全てミーラ自身にあるのだ」
聞いたアウラの目から涙があふれた。
「でも……私が言い出さなかったらミーラはあんなこと……」
王はフィンの方をちらっと見た。フィンは慌ててハンカチを取り出してアウラに渡そうとした。アウラはそれを遮ると自分のハンカチを取り出して涙を抑えた。
アウラが落ち着いたところで王は言った。
「アウラ、では尋ねようか。それならばお前はどうして自分が城に戻ろうなどと言い出したのだ?」
「ええ?」
「その理由はコルネにあるのではないか?」
王はアウラの目をのぞき込んだ。アウラは目を伏せる。
「ええ? その……」
「顔を上げなさい」
王の言葉にアウラが慌てて顎を上げる。その顔を王はまた見つめた。
「アウラ。コルネが、あの娘がつまらない忘れ物をしなければ、そもそもこのようなことにはなっていなかったのではないか?」
アウラは言葉に詰まった。
「お前の理屈ならば私はコルネを厳罰に処せねばならないはずだな?」
「あの、でも……」
王はアウラの言葉を遮った。
「違うのだ。アウラ。こういうことを言い出したらきりがないのだ。行き着くところはそんな外出を認めたわしの責任になる。だからわしはお前もコルネもどちらも罰する気はない。もし罰するとしたら、お前が詰まらぬことに思い悩んで役に立たなくなったときだ」
アウラははっとして顔を上げた。
「そういうわけでお前には働いてもらう。明日からの探索にはお前も加われ。相手はどのような輩かわからん。そういうときにお前の腕が必要になることもある。わかるな?」
王は再びアウラの顔をじっと見る。
「はい!」
そういったアウラの表情にはもう迷いはなかった。
王はにこっと微笑むと、アウラの頭をなでる。アウラは一瞬ぴくっと体を震わせて驚いたように王を見つめた。
「よし。ならば今日はゆっくり休め。明日からは忙しくなるぞ」
「はいっ!」
これでアウラは今まで通りの調子に戻ったようだ。それから王はフィンに言った。
「そういうわけでル・ウーダ殿、アウラを頼むぞ」
「あ、はい」
王は二人に微笑みかけた。二人は黙って礼をすると、その場を退出した。
部屋を出るとフィンとアウラは同時に大きなため息をついた。それから互いに顔を見合わせて少し笑った。アウラが言う。
「ごめんね。心配した?」
「まあな。ともかく明日からは忙しいぞ。戻ろうか」
「うん」
さっきまでは心ここにあらずといった様子だったアウラが、今ではすっかりとまではいかないにしても元通りのアウラに戻っている。王にしてもナーザにしても、まるで魔法使いのようだ―――そんなことを考えていたらアウラはすたすたと先に行ってしまっている。
フィンは慌てて後を追った。
このようにエルミーラ王女誘拐事件はフォレスを大混乱に陥れた。だがその余波は国内だけに留まってはいなかった。
ここベラの首都ハビタルの首長の館もその一つだった。フィンがロムルースに謁見を行った玉座の間である。ここでは今アイザック王からの急使を迎えて、ベラの高官達が集まって会議が開かれていた。
「……そういうわけで現在アイザック様はデルガードにてフォルマ殿と会見をもたれております。その際に例の剣をお渡しして、その出所を明らかにしようと……」
アイザック王よりの書状を持って派遣されてきていたのは、フォレスでの会議にも出ていたコルンバンである。彼の説明をそこにいる誰もが真剣な面持ちで聞いていた。
当然のことである。エルミーラ王女は小国とはいえベラの最友好国であるフォレス王国の王女であり、次期国王でもある。その彼女がいなくなったのだからその影響はベラにとっても計り知れない。
だが今ロムルースの頭の中にはそういった政治的な重要性といったことは微塵もなかった。
「ティベリウスめ! あの爺はとうとう耄碌したのか?」
ロムルースはコルンバンの報告を途中で遮るとそう叫んで立ち上がった。
コルンバンは驚いて言葉を切った。ロムルースはそれを無視してぐるぐると玉座の回りを歩き始める。ティベリウスとは彼らの仇敵エクシーレ王国の王であるが……
「よりにもよってエルミーラを誘拐するなど、何を考えているのだ!」
そんなロムルースをグリア将軍がたしなめる。
「お館様、どうかお気を静めてください。まだエクシーレの仕業だと決まったわけではございませんが」
「なんだと? 誘拐者は名誉の剣を落としていったということではないか! こんな明白な証拠がどこにある!」
それを聞いてグリアはため息をつくのを堪えた。明白なのはロムルースがコルンバンの説明を何も聞いていなかったことの方だ。
「確かにそのようではございますが、アイザック様はエクシーレはこれには関わっていないとお考えです。犯人が剣を残していったのはあからさまな策略だと。ここはお一つ気を確かに」
だがそれを聞いてロムルースはますます激高した。
「なんだと? ならばどうすればいいのだ!」
「どうすると言われましても。ともかくここは落ち着かれてアイザック様の次の報告をお待ちになるのが良いかと」
「エルミーラがどういう目に合っているか分からない状況で落ち着けだと? ふざけるな! アイザック殿は余計なことに気を回しすぎるのだ! 奴らが名誉の剣を落としていったことは間違いないのだろうが? そんな明白な証拠があるというのに、何をもったいぶっているのだ?」
「ですからお館様……」
ロムルースはもうグリア将軍の言葉など聞いていなかった。
「おのれ! ティベリウス! もう少しはましな奴だと思っていたが、いつからそんな姑息な奴になり果てたというのだ?!」
ロムルースは再びわめいた。高官達は互いに顔を見合わせた。こうなってはもう手がつけられないと言う顔だ。
「恐れながら、ロムルース様」
そのとき一同の少し後ろに控えていた男が口を開く。三十を少し越えたくらいのやや小柄な外交担当の大臣の一人だ。
「何だというのだ! プリムス?」
ロムルースは恐ろしい形相でプリムスと呼ばれた男の顔を睨んだ。
一同は振り返ってプリムスを見るが、その表情には動じている様子はなかった。
「ここで殿下がお怒りになられましても、王女様は戻っては参りませんぞ」
ロムルースは真っ赤になった。だがプリムスはロムルースがわめき出す前に更に続けた。
「グリア様のおっしゃるとおりです。落ち着かれて下さい。ベラの首長ともあろうお方が、取り乱されてはみっともありません。ほら、コルンバン殿も困っていらっしゃる。まずはお掛けになって下さい」
有無を言わさないプリムスの言葉に何か反論しようとしたものの言葉が見つからず、結局ロムルースは黙って玉座に座った。
「さて、ロムルース様、コルンバン殿はエルミーラ王女様が拉致されたおり、犯人の一人がエクシーレの名誉の剣を落としていったとこう言われました」
「そうだ。だから……」
プリムスはロムルースが何か言おうとするのを遮って言った。
「ではまずここで考えてみましょう。もし仮にエクシーレがこのようなことを行ったのだとすれば、いったいどうしてそんなことをしたかです。その理由とはいったい何なのか?」
それを聞いてグリア将軍が言った。
「プリムス殿。しかしまだエクシーレと決まったわけでは……」
プリムスは答えた。
「はい。もちろんです。でも順を追って考えてみなければなりますまい。アイザック様のお考えは大変もっともですが、それでもエクシーレが犯人に絡んでいないという確証があるわけでもございません。ならばその動機を考察してみても無駄にはなりますまい?」
グリアはうなずいた。そしてプリムスは話し始めた。
「まずエクシーレは長年フォレスを欲しがっております。これは確かです。そのためフォレスとの国境ではいつも紛争が絶えませんでした。まさについこの間にもそういうことがございましたね」
そう言ってプリムスはロムルースを見た。
「ああ。だがあの紛争は終わっただろう? それが何か関係があるのか?」
ロムルースはふてくされて答えた。
「はい。そうです。この間の紛争は終わりました。だから多分今回の事件とは無関係かと」
「いったい何が言いたいのだ? プリムス」
ロムルースはそう言ってプリムスを睨んだ。だがプリムスは涼しい顔だ。
「まあそうお急ぎにならずに。ここで注意すべきことは、エクシーレのやり方です。エクシーレはフォレスを攻略するため、今まではずっと直接的な手段に訴えてきました。それは結局は大して成功はしていないのですが、ともかく今まで彼らは常に軍事的な作戦を採ってきました。ところが今回なぜか急にエルミーラ様の拉致などという手段を採ったことです。これは明らかに不自然ではありませんか?」
「普通に攻めてもだめだからそういった手段を取ったのだろう?」
ロムルースがそう言うとプリムスは首を振る。
「そう考えられないこともありませんが、やはりティベリウス様らしくありません」
「だから奴は耄碌したのだ!」
ロムルースが再び乗り出して叫んだ。だがプリムスは落ち着いて答えた。
「今年私はエクシーレに行ってティベリウス様にお会いいたしましたが、老け込むどころかまだ矍鑠としておられました。少なくとも耄碌はしておられません」
ロムルースは真っ赤になったが事実の前には反論できなかった。
「だったら奴はどうしてミーラをさらったりしたんだ!」
ロムルースは吠えた。プリムスはロムルースを半ば無視するかのように話し続ける。
「そうですね。ティベリウス様がエルミーラ様をさらったとします。だとすればまずそれでどうするつもりなのでしょうか? 本気で王女を人質にして要求を通すとでも? とんでもない。ティベリウス様は誇りを知るお方です。そんな夜盗や山賊のような真似をするぐらいなら、アイザック様の首を取りに単身乗り込んで行かれることでしょう。それにアイザック様に関しても、殿下もよくご存じだとは思いますが、そのような卑怯な要求に簡単に屈するようなお方ではありません。たとえエルミーラ様を盾に取られたとしても、そんな理不尽なやり方にそうおめおめと屈するとは思えません。これがどういうことかお分かりですね?」
そう言ってプリムスはロムルースを見た。ロムルースは答えない。プリムスも答えを期待してはいなかった。
「その結果としては結局全面的な戦いにしかなりません」
そう言ってプリムスは一同を見回した。
「しかしそのような戦いになった場合、これは誰がどう見ても明らかにエクシーレに非がある戦いです。そんな大義名分のない戦いに兵士達が付いて来るでしょうか? 自分の国の国王が他国の王女をさらってきてそれを盾に要求をして、それを拒まれて結局戦いになった……どうですか? そんな王のために戦う気になりますか?」
そう問われて、やはりロムルースは何も答えられなかった。
「どうせ戦いになるなら最初から今まで通りに攻めていった方が、遙かにましではありませんか?」
そう言ってプリムスはロムルースの顔をじっと見た。ロムルースはしばらく黙っていたがついにうなずいた。
「ああ、そうだな」
それを聞いて、反対側に座っていたモルスコ将軍が口を開いた。
「うむ。そういうことであればやはりエクシーレではないということなのだな?」
だがプリムスは首を振った。
「モルスコ様、まだそう判断するのは早計かと……」
「それはどういうことだ? いま貴公はエクシーレには王女を拉致する理由などないと言ったように思ったのだが?」
「はい。確かに言いました。エクシーレにとって戦略的な意味でエルミーラ様を拉致する必然性は全くないと言っていいでしょう。しかしもっと個人的な理由だったとしたらどうでしょうか?」
「それはどういうことだ?」
モルスコ将軍の問いに、プリムスは少し声を落として言った。
「要するに……エルミーラ様ご本人を得ることが目的だったとしたらどうかということです」
それを聞いてまたロムルースが立ち上がって叫んだ。
「なんだと? あの爺がミーラを欲しがっているだと?」
それを聞いてまたプリムスが答える。
「いえ、まだティベリウス様が欲しているかどうかはわかりません。ただあのような行為を実行に移すためには、かなり強力な人物がそう欲していると考えた方がよいでしょうが……」
それを聞いてモルスコが言った。
「ということはプリムス殿、もしかしてセヴェルス王子にエルミーラ様を娶せようとしているとか?」
それを聞いてロムルースが口を挟む。
「何だと? エルミーラをよりにもよってあんな男に……」
しかしその時グリア将軍が言った。
「お待ち下さい。仮にそうだとして、どこの王族がいきなり他国の姫をさらってくるような真似をするでしょうか? もしこれがエクシーレからの正式な申し入れをフォレスが拒否した後となればまだそういった解釈もできるかも知れませんが、そのような話は聞いたことがありません。そうですよね。コルンバン殿」
いきなり話を振られたコルンバンは慌ててうなずく。
「もちろんです。そのような申し入れはまだどこの国からもございません」
それを聞いてグリアが続ける。
「でしたらまずは普通に求婚されればよろしいわけです。政略的な意味だけから言えば、これは両国に非常に益のある結びつきと言えます。その上、私が先日フォレスに行ったおり、エルミーラ様ご本人からセヴェルス様は王女様の婿候補に入っていることを聞いております。まかり間違えばそれが成立してしまうことだって……」
後の方は少しグリアの口が滑ったようだ。一同は呆気にとられて彼の顔を見ている。
「まさか、エルミーラ様がそんなことを?」
モルスコ将軍の言葉に、グリアが慌てて答えた。
「いえ、政略結婚の相手としてなら、当然セヴェルス様もあり得るとそういった話で」
それを聞いて一同は納得した。言われてみれば当然の話だ。そして一同は黙り込んだ。
やがて口を開いたのはプリムスだった。彼はまだふてくされているロムルースに向かって言った。
「というわけで、エクシーレには王女様をさらう理由はほとんどないということになりますね」
ロムルースはプリムスを睨みつける。プリムスは少し呆れたという表情をして言った。
「あと思いつくとすれば何でしょうか? まさか若返りの生け贄にするなどということはないでしょうしね」
そう言って彼は笑った。一同から小さな笑い声が上がる。
というのはこの地方には『新月の夜に東の帝国の廃墟にて高貴なる処女の血を捧げよ。さすれば黒き女王が現れて年老いた者に再び若さを与えてくれるであろう』という伝承があったからだ。
プリムスはそれを踏まえて少々場を和ませようとしたのだろうが、さすがにこの場では少々不謹慎だった。笑い声はすぐフェードアウトしてまた沈黙が場を支配した。
プリムスも少々滑ったことに気づいて、ばつが悪そうに咳払いすると話を続けようとした。
「ですので私もアイザック様の意見同様……」
そのときだった。いきなりロムルースが横の侍従に尋ねたのだ。
「新月はいつだ!」
「は?」
いきなり訊かれてその侍従は少し慌てた。一同も呆気にとられてロムルースを見る。
「新月はいつだと訊いている!」
それを聞いて別な侍従が答えた。
「あ、あと十日ほどはございますが……」
そのやりとりを聞いて、プリムスが慌てて口を挟んだ。
「殿下! あれは迷信でございます。ティベリウス王がそんな理由でエルミーラ様をさらうなどあり得ません!」
「馬鹿者! 手遅れになってからでは遅い!」
「でも殿下!」
「考えてみればそうではないか! お前達! 考えてみろ! このあたりで最も高貴な娘はだれかとな! それはエルミーラ以外にはおらんだろうが!」
一同は開いた口がふさがらない。確かにそれは事実なのだが……
「ティベリウスの奴はエルミーラを生け贄にして若返るつもりなのだ」
「ですから殿下、あれは迷信だと」
プリムスが蒼くなっている。
「迷信? そりゃそうだ。だがそれで若返れる可能性があるのならそうするのではないか? やってみて損はあるまい? ティベリウスはそう信じているのだ。そうに決まっている! だからミーラをさらったのだ! そうか、それでアイザック殿がミーラを取り返しに行ったら返り討ちにする気だな? 一石二鳥というわけか?」
「ロムルース様、すこしその……」
だがロムルースはもう誰の言葉も聞いていなかった。
「俺は決めたぞ! モルスコ! 出陣の支度をしろ!」
それを聞いて全員が慌てた。
「殿下! どうなさるつもりです」
「お、お待ち下さい。いったい何を」
一同が口々にいさめる中、ロムルースは叫んだ。
「決まっている。エクシーレに侵攻する! 行ってミーラを取り返すのだ! そんな迷信ごときでミーラを殺させることなど断じて許さん!」
「お館様、おやめ下さい。ですからそんな確証はどこにもございません。行くにしてももっと調査しないといけません」
そう言うプリムスの懇願をロムルースはにべもなく蹴った。
「やかましい! これが本当だったらエルミーラはあと十日の命なのだ! 悠長に調査などをしていられるか!」
ロムルースは立ち上がった。
「出陣だ! エクシーレに出陣だ!」
「お館様。ともかくお気をお鎮めに!」
そう言いながらモルスコ将軍がロムルースの前に立ちはだかる。だがロムルースは剣を抜いて彼に突きつけた。
「事は急を要するのだ! これ以上四の五言うならここで叩ききるぞ!」
場に沈黙がおりた。誰も何も言えない。そしてついにモルスコが諦めたように言った。
「分かり申した」
モルスコは真っ青な顔をしてぶるぶる震えている。
それを聞くとロムルースは呆然とした高官達を残して部屋から駆けだしていった。
残された高官達は互いに顔を見合わせた。
「何ということになってしまったのだ?」
グリア将軍がつぶやいた。
「わ、私があんなことを言ったせいで……」
プリムスも真っ青だ。その彼に声をかけたのは大臣のロスカだった。
「ともかくプリムス殿、できればお館様をお止めしてくれ。お主が一番お館様の扱いに長けておるでな。だがああなってはもう手がつけられんとは思うが……」
「は……」
それを見て今まで口を挟むことのできなかったコルンバンが尋ねた。
「あの、ロスカ様、私はいったい……」
「ああ、コルンバン殿。ともかくアイザック様には見た通りをお伝えしてくれ。我々もできうる限りのことはするが……」
「はい。承知しました……」
こうして事態はフォレス国内の事件から、ベラ、エクシーレ、フォレス三国間の国際問題へと発展しつつあった。