消えた王女 第5章 邪悪な意図で来た男

第5章 邪悪な意図で来た男


 それが起こったのは、ナーザとアウラが出発してから数日後のことだった。

 フィンはあれから毎日王と共に行動をしていた。その日も夜遅くまでずっと会議につきあって、フィンはくたくたになっていた。

《うう! 王様っていうのは大変な仕事だな!》

 国内の探索を取り仕切っていたナーザがベラに潜入してしまったので、王の仕事は前以上に増えていた。明日もまた朝早い。さっさと寝ておかなければ。そう思ってフィンは早々にベッドに入った。

 だがいざ眠ろうと思うとうまくいかなかった。体は疲れているというのになぜか目が冴えてしまっている。

 フィンはしばらくベッドの上でごろごろしていた。アウラがいないとベッドもやたらに広い。

 彼女がいたときは非常に微妙な距離を取らざるを得なかった。そのため別な意味で緊張して寝られなかったのだが、そういったものがなくなったにも関わらず、どうしてこんなに寝られないのだろう?

 フィンはぼうっとアウラの出発のときの姿を思い出した。

 ナーザとアウラは朝早くに旅芸人の格好をして城の裏手から旅立とうとしていた。あの後フィンは彼女とほとんど話す暇さえなかった。

 踊り子風の格好をしたアウラは新鮮な姿だった。だがそれをからかう気にはとてもなれなかった。フィンは彼女をしっかりと抱きしめるとささやいた。

「絶対帰って来いよ」

「うん」

 そしてフィンは彼女にキスをした。フィンは彼女をそのままずっと抱きしめていたかった。だがそれは叶うことではない。

 それから彼は二人が旅立つ姿を見えなくなるまで見送るしかできなかったのだ。

 彼女が見えなくなったとき、まるでそれが今生の別れだというような、ひどい不安に襲われた。

 これはいったい何なんだろうか? やはり無理をしてでも止めるべきだったのだろうか? いや、そんなことは不可能だ。彼女はフィンを愛するのと同時に王女に対しても大きな尊敬を抱いている。さらには彼女は責任感が強い。そんな彼女をつなぎ止めておくことなどできるわけがない。

《絶対帰って来るさ! あいつが死ぬわけないだろ? 大体あいつをどうやったらやっつけられるって言うんだ? それこそ軍隊でも投入しなきゃ無理だろ?》

 フィンはそう思って笑おうとした。だが出てきたのはかすれたような声だけだった。

 無理をしても仕方がない。フィンは諦めて大きなため息をついた。そして心を決めたのだ。もうこんな思いはしたくない。彼女と約束を交わそう。これからの人生をずっと一緒に過ごそうという約束を。

 確かに彼らの間には今、少々のトラブルはある。それが片づいてからとか考えて先送りしてきたのだが、もしかしたらそれが悪かったのかもしれない。

《じゃあどうすれば……》

 そのために彼は何をしなければならないのだろう? そのときフィンはこの地方で夫婦の契りに使われる“合わせ指輪”のことを思い出した。

 結婚を誓い合った二人が指輪を交わす習慣は都にもあったが、この旧界ではその指輪が随分変わっているという話だった。聞くとその合わせ指輪は単体ではただの彫刻がなされた指輪なのだが、男性用と女性用を組み合わせると花とか動物といったものになるというのだ。

《そうだ! これがいい!》

 彼女が帰ってくるまでにこの指輪を作っておいてやればどうだろう? いいかもしれない!

 ベラに行ったときにメイからガルサ・ブランカにはいろいろと腕のいい職人がいるという話を聞かされた。彼女の興味は主に馬車関係だったが、それだけでなく優れた刀剣や指輪などの工芸品を作る職人も多いことも話していた。

 そうだ。それがいい! 今日までは忙しかったが、状況もそろそろ一段落しそうだ。明日か明後日ぐらいには少し暇もできるかもしれない。行って見てきてみるか?

 フィンがそんなことを思いながら眠りにつこうと努力しているときだった。

 扉がいきなりノックされた。

「誰だ?」

 フィンがそうつぶやいて体を起こすと再び扉がノックされる。

 フィンはガウンを着るとベッドから降りて扉を開けた。そこには若い兵士が立っている。

「ル・ウーダ様。アイザック様がお呼びです」

「ああ? こんな時間に?」

「大変緊急なお話だそうです」

 兵士の顔は真剣だ。いったい何が起こったのだ? フィンは慌てて服を着替えると兵士の後に従った。



 王の居室には、またいつもの重要人物達が集まっている。

「どうされたのです?」

 王の顔は青ざめている。またそこに集まっていたグラヴィス、コルンバン、ロパスといった城の要人達も半ば引きつったような表情だ。どう見てもただごとではない。ということは何か不幸な知らせでもあったのだろうか?

「まさかエルミーラ様に何か……」

 そう言ってフィンが人々の顔を見回していると、王がひどく疲れたような声で言った。

「いや違う。今さっきベラから書状が届いたのだ」

「はい?」

「その書状にはとんでもないことが書かれておる」

 そう言った王の顔は何かひどく困惑しているように見える。

 いったいどういうことなのだろう? 状況を見ればその書状に何か重大なことが書かれていたことは分かるが―――そのためにフィンをたたき起こす必要があるのだろうか? 確かに彼は最近は色々な会議に出席してそれなりに発言もしてきたが……

 そのときフィンの瞼にアウラの顔が浮かび上がった。もしかしてあちらで彼女たちに何かトラブルがあったのか? だったらフィンが呼び出されてもおかしくないが……

 フィンは顔から血の気が退いた。

「まさか、アウラが何か向こうで?」

 だがそれを聞いて王はすぐに首を振った。

「違う。二人からの連絡はまだない」

「それではいったい……?」

 その問いには誰も答えてくれず、ただ重苦しい沈黙だけが広がった。いったい何なんだ?

 王がやっと重い口を開いた。

「まずはこれを見て欲しい。それからそこに書かれていることを読んでも、決して取り乱したりしないでほしい。といってもかなり難しいことだとは思うがな」

 王はフィンに一通の封筒を手渡した。

 フィンは立ち上がってそれを受け取るとまずよく観察してみる。立派な封筒だ。ベラの紋章が金箔を象眼して入れられている。間違いなくベラからの正式な書簡のようだ。

 フィンはまた人々の顔を見るが―――みんな彼をじっと見つめている。いったいこれに何が書かれているというのだろう? 取り乱すなっていったい?

 フィンがそれを開くと、そこにはこう記されていた。

親愛なるアイザック殿へ

 今日は大変残念な報告をしなければならない。

 アイザック殿もご存じの通り、現在我々は大きな混乱の中にいる。エルミーラ王女誘拐に端を発し、フォレス国内の混乱はもとより、先日はもう少しでベラとエクシーレで衝突を起こすところだった。この戦いは直前で回避できたが未だ混乱は収まるばかりか、ますますその度を深めようとしている。

 そこで私はその混乱の元凶を取り除かねばならないと信ずるに至った。アイザック殿には残念かも知れぬが、その元凶とはガルサ・ブランカ城内に滞在している、ル・ウーダ・フィナルフィンなる男である。

 その男は白銀の都より邪悪な意志を秘めてやってきたのだ。その男はエクシーレとベラの滅亡を望んでいるのだ。私は速やかにその男を排除することを提案したい。ただそれには断固とした処置が必要だ。生かしておいては再び火種となるのは必定である。

 従って、早々にその男を処刑するのが良いと思われる。そうすれば事態は急速に快方に向かうことであろう。その男によってわがベラ首長国は既に甚大な被害を被っている。そのままにしておけばフォレスも同様の運命となるだろう。

 もしもアイザック殿がその男を放置されるのであれば、私はベラという国を守るために、あらゆる手段を採らざるを得ないであろう。

 良き返答をお待ちしている。

あなたの友 ドゥクス・ロムルース・ノル・ベラ

 最初それはまるで人ごとのような感じだった。

 ロムルースはまた訳の分からないことを書いている。エクシーレと衝突って、そりゃお前が勝手にやったことだろう? なのに―――なに? 大体どうして今度の騒ぎの元凶が俺なんだ? ふざけるんじゃないぞ! 断固とした処置って、お前一体何が言いたい? 処刑だと? 処刑っていったい何の刑だよ? 俺が一体何をしたというのだ? 処刑って……

 ………………

 …………

 ……

 処刑?

 フィンは真っ青になって顔を上げた。

 一同が沈痛な表情で彼を見つめている。王はフィンの顔をじっと見つめて言った。

「ル・ウーダ殿。そういうことなのだ。ロムルース殿はなぜか知らぬが、ル・ウーダ殿の処刑を要求してきておるのだ」

 血の気が退いていく音が聞こえたような気がした。フィンはいきなり膝ががくっとして、そのまま椅子にがっくりと座り込んだ。横に座っていたロパスが支えてくれなければそのまま床にぶっ倒れていたかもしれない。

「は、はあ……?」

 フィンはぽかんと口を開けて、一同の顔を見回した。頭の中が真っ白だ。

 だから、だから、だからいったい……

「ちょ、ちょっと待って下さい! 私がどうして……」

 フィンはやっとそう叫ぶことができた。彼は焦点の合わない眼で周囲の人々の顔を見回した。彼らは相変わらずじっと彼の顔を見つめている。

 次いで心の中に急に恐怖が沸き上がってきた。まさかアイザック王はその手紙の通りに彼を処刑しようとしているのか? まさか彼を殺そうと思っているとか?

「んなバカな! こんなことでたらめに決まってるじゃないですか! どうして私がそんなことをしなければならないんです? 大体……」

 そもそもつい先日にあれだけの苦労をしてフレーノ卿の無実を晴らしたのだって、とどのつまりはお前のためじゃないかーっ!

 フィンがそうまくし立てようとしたところを王が厳しい声で押しとどめた。

「落ち着きたまえ! ル・ウーダ殿!」

 フィンは慌てて言葉を飲み込んだ。

「慌てるでない。誰がそのような戯言を信じるものか! だがなぜだか知らぬがロムルース殿は今回の一件はル・ウーダ殿が仕組んだと信じておられるのだ」

 王は一同の顔を見渡した。

「ただ……わしらはル・ウーダ殿のことをもうよく知っておるからそんなことは考えもしなかったが、そうでなければそういう邪推をする馬鹿がいてもおかしくはない」

 王はなるべく冷静に喋ろうとしていたようだが、その言葉の端々からは内心の怒りが見え隠れしていた。それを聞いてフィンは少し落ち着いてきた。

 王がこれを怒っていてくれるということは、とりあえずは味方なのだ。

 ともかくフィンは弁明しようとした。

「あの、だとしてもいったい何の根拠があってそんなことを言うんです! 他国からの客人なんてどこの宮廷にだっているでしょう? 疑おうと思ったら誰でも疑えます!」

 フィンも何とか落ち着いて話そうとは思ったがついつい声が大きくなってしまう。それを聞いて王が言った。

「その通りだ。でたらめだな」

「だったらどうしてロムルース様はこんな事を言い出したのでしょうか?」

「おそらくティベリウスに吹き込まれたのだ」

 フィンは口を開けたまま声にならない声を挙げた。ティベリウスといえばエクシーレの王だ。いったいどういうことなのだ?

 そして王はグラヴィスに目配せした。将軍は軽く礼をすると口を開いた。

「先日のベラのエクシーレ侵攻に関してはフォレスにとっても重大事なため、こちらよりも現地に間者を放っておりました。ちなみにこのことについては既に数日前に報告を受けていたのですが、まさかそれが本当になるとは考えられなかったのでル・ウーダ殿にはお知らせしていなかったのですが……それはともかく彼らからの報告によれば、大体あそこで次のようなことが起こったと思われます」

 そう言ってグラヴィスは話し始めた。


 ―――それはフィンが王女が自分で出ていった可能性に気づき、それが確認されてアウラとナーザが旅立つ一週間ほど前のことだった。

 そのときロムルースは全軍を率いてエクシーレの国境を越えていた。ベラ軍とエクシーレ軍はヘンドラー平地の中央にあるストラ村郊外で対峙していた。ベラ軍は村の外に陣を敷き村にはエクシーレ軍が立て籠もっている。

「モルスコ! 敵の様子はどうだ!」

 ベラ軍の陣屋の中でロムルースが脇に控えているモルスコ将軍に言った。

「特に動きはございません」

「焦らす気か? だったら一気に蹴散らしてやる!」

「お待ち下さい。これは罠かも知れません」

「相手はたった二千だぞ!」

「だからこそです。ティベリウス王は戦上手で知られております。むやみに攻め込むのは危険です」

 実際その通りだった。三十年前の戦いでベラに勝利を収めたのはまだ若かったティベリウス王自身であり、老将軍達は皆その時の苦い記憶を持っていた。

 そのうえ今回ベラは一万二千の軍勢でエクシーレに侵攻したというのに、ティベリウスは僅か二千騎で出撃してきて、それから一戦も交えずに目の前のストラ村に籠もってしまったのだ。常識で考えたらあり得ない話だ。ならばモルスコでなくとも敵が何か計略を仕組んでいると考えることだろう。

 だがロムルースはエルミーラのことで頭がいっぱいだった。

「だったらどうするというのだ!」

 彼はいらいらした調子で尋ねた。

「もう少し様子を見るのがいいかと」

「時間がないと言っておろうが! 新月は明後日なのだぞ!」

 ロムルースは吠えた。モルスコは白髪頭を振って何か答えようとした。

 そのときだ。慌てた様子の兵士がやってきて報告した。

「殿下! 敵の前面にティベリウス王が現れました」

「なに?」

 ロムルースは陣屋から飛び出した。白馬に乗った堂々とした老人が、たった一騎でこちらに近づいてくるのが見える。

「ロムルース殿! 聞こえておるか?」

 草原にティベリウス王の声が響く。遙か彼方にいるというのにその声はここまではっきりと届いてきた。ティベリウスは再び叫んだ。

「ロムルース殿! 貴公に話がある!」

「なんだと?」

 ロムルースはかっとして飛びだそうとした。

「殿下、おやめ下さい。罠やもしれません」

 モルスコが慌てて止めた。

「やかましい!」

 ロムルースはモルスコを払いのけようとした。その時三度ティベリウスの声が響いた。

「ロムルース殿! どうして出てこられぬ? この老人が恐ろしいか?」

「ほざけ!」

 ロムルースはモルスコの制止を振り切って自分の馬に飛び乗ると、陣の前に出た。

「俺は逃げも隠れもせんぞ!」

 ロムルースは叫んだ。

「ならばここまで来てはもらえぬか? 不安ならば供の者を連れてきても良いぞ!」

「ふざけるな!」

 ロムルースはそのまま駆けだした。

 両軍の兵士が見守る中、二人は向き合った。

「さあ、来てやったぞ!」

「なかなか勇敢じゃな。見直したぞ」

 そう言ってティベリウスはにやっと笑った。

 ティベリウスは生粋の武人である。もう相当の年齢ではあるが筋骨は隆々としており、その辺の兵士なら片手でひねりつぶせそうだ。

「それで何の用がある?」

「貴公に少しばかり話があってな。ただちょっと話し合いをするには馬上というのは適さぬな」

 そう言うとティベリウスは馬から下りた。それからどすんと地面に座り込むと、それをぽかんと見ているロムルースに言う。

「貴公もこちらに来られぬか?」

 ロムルースはそうするいわれは無かったのだが、気づいたら言うとおりに馬から下りて、ティベリウスの前に座っていた。

「まずは一杯いかがかな?」

 そう言ってティベリウスは腰から酒筒を取った。その口を開けるとティベリウスは一口飲んでからロムルースに差し出す。

 ロムルースは黙って受け取ると、筒の酒を飲んだ。

 その酒はとてつもなく強烈な酒だった。ロムルースはむせた。

「おっと、お口に合わなかったか?」

 ティベリウスは笑った。ロムルースは黙ってティベリウスをにらみつけた。

「まあ人の好みはそれぞれじゃ。今度はもっと軽い酒を持ってくることにしよう」

 ロムルースはむっとした顔でティベリウスを睨んだ。

「で、そろそろお話とやらを聞きたい物だな」

「ふん。ならば話そうか。まずロムルース殿は、いったいなぜこのようなことをしておるのだ? ご存じの通りここは現在は我が国の領土だ。そこにそんな軍勢を連れてやってきておられるのだ。まず理由を聞きたいのは当然だとは思わぬか?」

 それを聞いてロムルースは真っ赤になった。

「決まっているだろう! エルミーラをいったいどうした!」

 するとティベリウスはくっと笑って首を振った。

「どうもしておらぬぞ。そもそもエルミーラ姫の誘拐には、我が国は全く関知しておらぬのだからな」

「今更とぼける気か?」

「とぼけてなどおらんわ。どうもロムルース殿はとんでもない勘違いをされておるようじゃ」

「なんだと?」

 ロムルースは怒って剣に手をかけて体を乗り出した。そこにティベリウスがまたあの酒筒を差し出す。

「まずは少し落ち着いて話を聞いてもらいたいのだがな」

 ロムルースは黙ってそれを受け取って飲んだ。今度は気をつけて飲んだのでむせることはなかった。それを見てまたティベリウスはにやっと笑って話し始めた。

「聞くところによると、ロムルース殿はわしが若返りたいと願っていると、そうお考えのようじゃな?」

 ロムルースはうっと言葉に詰まる。

「確かに歳をとれば若い頃が懐かしくなってくるものじゃ。もしそのようなことができるのであれば、わしもそうしたいと思うわ」

 ロムルースはそう言うティベリウスをにらんだ。

「エクシーレにはそういう方法があると聞いたぞ」

「ふん。確かにそういう言い伝えはある。だが貴公はそのような迷信を信じておられるのかな?」

「何だと? 今更ごまかす気か?」

「誰もごまかしてなどおらんわ。本心を言ったまでじゃ。大体どこの国王がそんな迷信のために他国の王女をさらうと思うのじゃ? 確かに我が国とフォレスは代々不仲ではあるが、じゃからといってそこの王女をさらって何とする?」

 ロムルースは口ごもった。

「それにじゃ。仮にその言い伝えが本当だったとしてもじゃ。わしがエルミーラ姫をさらう理由にはならんじゃろう?」

「なに?」

 混乱しているロムルースを見て、ティベリウスはにやっと笑った。

「貴公も聞いているじゃろう? その言い伝えでは、必要なのは処女の生き血じゃとな?」

「ああ」

「ならば、少なくともあの姫では役に立つまいが?」

「な、なんだと?」

「郭などに堂々と出入りするような淫乱な娘を生け贄にしても、黒き女王が喜ばれるはずはあるまい?」

 ロムルースは真っ赤になった。

「何か言うことがござるかな?」

 ロムルースはしばらく口をぱくぱくさせていたが、やっとの事でこう言った。

「う、嘘だ! エルミーラはそんな女ではない!」

「ほう? そうなのか? じゃがそんな話は初耳じゃな。わしはこの耳であのナーザという女傑からも聞いたし、アイザック本人の書簡でもそれは否定されておらなかったぞ?」

 ロムルースは全く何も言い返せなかった。それは全くの事実だったからだ。

 それを見てティベリウスは笑い出した。

「これでおわかりかな? 我が国があの王女をさらう理由など全くないことが」

 ロムルースは答えられなかった。

「とすればロムルース殿。もはや貴公にはここにおられる理由は全くないことになるな?」

 それを聞いてロムルースははっと顔を上げた。ティベリウスと目があった。ティベリウスはロムルースの目をじっと睨みながら言った。

「それともこうして軍を率いてやってきたのは別な理由がおありかな? 例えばこのヘンドラーの地を再び取り戻したいとか?」

「いや、そういうわけでは……」

 ロムルースは目をそらしながら言った。だがティベリウスはそのまま続けて言った。

「もしそうじゃとすれば、わしもここで一戦交えるしかない。だがそうすると大喜びする者が別にいるぞ」

「なに?」

 ロムルースは驚いて顔を上げた。

「まだお気づきではないかな? ここでわしと貴公が戦ったら、誰が得をするのかということをな」

 さすがにロムルースもティベリウスの言わんとすべきことは理解できた。

「なに? いったい誰が?」

「決まっておるだろう? フォレスのアイザック殿だ」

「まさか! アイザック殿が、そんなはずはない!」

「もちろんわしも軽々しく人を疑うのは良くないと知っておるがな。だが考えても見るのじゃ。この戦いにどういう意味があるのじゃ? エクシーレにとってもベラにとっても良いことなど一つもないとは思わぬか? 両軍が戦えば間違いなくこのヘンドラーの地は真っ赤に血で染まり、両軍とも疲弊してしまうのは間違いないであろう? そうなった我々を見て、フォレスのアイザックがどう思うであろうな?」

 ロムルースは唇を噛んだ。

「わしは貴公らの力を知っておる。だからもし本気で戦うのであればエクシーレの全軍を挙げて戦うしかないじゃろう。だとすればグラースはどうなる? がら空きになってしまうじゃろう? もしそうならフォレス軍でも我が国の首都を落とすことは可能だとは思わぬか? 強力な軍隊を潰し合わせておいて、自分はほとんど手を汚さずに一番おいしいところを持っていけるのじゃ。こんないい話はないのではないかな?」

 ロムルースも言われたことは理解できた。

「ア、アイザック殿はそのようなお方ではない!」

「そうか? 貴公はどの程度アイザック殿のことを知っておられる? わしは今まで野心を持たぬ領主などに会ったことはない。アイザック殿に全く野心がないと信じるのならそれでも良いが、その根拠はいったい何なのじゃ?」

「フォレスは長年のベラの盟友だ! こちらに相談もなくそんなことをするはずがない!」

「ほう。だが気が変わることもあるかもしれぬぞ」

「ア、アイザック殿はそのようなお方ではない!」

 それを聞いてティベリウスはふふっと笑った。

「では誰かにそそのかされているとしたら?」

「なに?」

「聞くところによると、妙な男が王宮内をうろうろしているそうじゃな?」

 それを聞いてロムルースは息を呑んだ。

「たしか白銀の都から来た男だと聞いたが」

「……あの男か!」

 途端にロムルースの頭はフィンのことで一杯になった。あの男がエルミーラの許婚だという! そんな話は断じて許せん! そんなロムルースの顔を見てティベリウスが畳みかけた。

「白銀の都がどういうところか存じておろう? あそこならばエクシーレやベラの衰退を望んだ所で別におかしくはないじゃろう?」

「そんなことは……そんなことは……」

「ともかくそういうことでロムルース殿。少なくともわしらがここで戦う理由がないことは、同意して頂けるかな?」

 ロムルースは歯を食いしばったが、やがてうなずいた。

「では早々に引き上げてもらいたいものじゃな。それならばわしも貴公が国境を越えたことは無かったものと考えることもできるじゃろう」

「……申し訳ない……」

「良いわ。わしは貴公を責める気はない。憎むべきは他におるじゃろう?」

 そう言うとティベリウスはがばっと立ち上がって自分の馬に乗って立ち去った。

 ロムルースはしばらく呆然とそれを見送っていたが、慌てても自陣に引き返してきた。

 戻ってきたロムルースを将軍達が取り巻いた。

「いかがでした?」

「退くぞ!」

「え?」

「ベラに戻る!」

「は!」

 将軍達は言葉つきは神妙だったが内心は大喜びの風であった。だがその喜びはロムルースの次の言葉で粉々に打ち砕かれた。

「今回の事件はあのル・ウーダという男の陰謀であったことが判明した。ベラに戻ったらまずその対策を立てなければならない」

 将軍達は驚いて顔を見合わせた。それからモルスコ将軍が慌てて言った。

「ル・ウーダ殿がですか?」

「そうだ! 奴が今回の事件の黒幕だったのだ!」

「ちょっとお待ち下さい。いったい何の根拠があって……」

 だがロムルースはもうモルスコの言葉など聞いてはいなかった。彼はまくしたてた。

「今回の騒ぎは都がベラとエクシーレを滅ぼすために仕組んだ罠なのだ! 奴らは我々の共倒れを狙っていたのだ! そんなことが許せると思うか? 戻ったら目に物見せてくれる!」

「お待ち下さい! いったいどうなさるおつもりです!」

「アイザック殿の目を覚まさせてやるのだ! あの男は危険だ。あいつだけは生かしてはおけんとな!」

 ベラの将軍達はもしかしたら今よりもっとややこしい事態になりそうなことに気がついた。彼らは互いに顔を見合わせてため息をついた。

 こうしてベラではさらなる混乱が始まろうとしていた―――


 グラヴィスの報告を聞いてフィンは絶句していた。ひどすぎる。いくら何でもひどすぎる! 無理も道理もあったものではない!

「あ、あの、何といいますか、これはもう……」

 フィンはとにかく弁明しようと思ったが、言葉が出てこない。そんなフィンを見て王が言った。

「ル・ウーダ殿。それ以上言う必要はない。貴公を疑っている者などここにはおらぬ。それにしてもロムルース殿は……わしも少し困っておったが、長としてはあまりにも未熟すぎるな」

 そう言って王はため息をついた。それを聞いてグラヴィスが言った。

「それにしても側近は誰も止めようとはしなかったのか?」

 その問いにコルンバンが答えた。

「ロムルース様の側近に黒幕がいるなら止めないのではないでしょうか?」

「確かに……」

 そしてまた場は重い沈黙に支配された。

 その間フィンは混乱する頭で何とか状況を把握しようとした。エルミーラ王女はどうやらベラに連れ出された可能性が高い。これほどのことを仕掛けるためにはやはり国家が背後にいると考える方が分かりやすい。だとすればコルンバンの言ったとおりロムルースの側近クラスにそういうことを企んだ奴がいてもおかしくはない。ならばそいつは騒ぎを煽りこそすれ、収めようとは思わないだろう……

 そのときフィンは急に気になった。

《アイザック王は結局どうする気なんだ? 》

 この手紙にはフィンを処刑しなければ、ロムルースはあらゆる手段を使うと書いてある。あらゆる手段とは? もちろんその意味するところは明白だ。そうしなければベラは実力行使も辞さないということだ。ということは―――フォレスとベラの戦争になるということだが……

《戦争だって?》

 そんなことになったらフォレスの国民に多大な犠牲が生ずる。というより大国のベラが本気で攻めてきたら、フォレスそのものがなくなってしまうかもしれない―――論外だ!

 だとすれば―――もしフィンの首一つで済むのであれば……

 途端に背筋に冷たい物が走った。

《俺の首一つで済むなら?》

 そう思った途端に、また膝が勝手にがくがく震え始める。

 そんなわけにはいかない! ならばともかく生き延びる方法を考えねば!

 逃げるか? だが、部屋の入り口には兵士が待ちかまえている。フィンは窓を見た。あそこをぶち破れば何とかなるか? 以前軍事施設に間違って入り込んだときよりはずっと脱出しやすそうだが―――だがもしそうやって逃げ切ったとしても後はどうなる? 彼がいなくなったらベラは諦めるだろうか? いやそんな保証は全くない。だとしたら結局フォレスとベラの戦争になってしまう。彼には関係のないことだと考えることはできるだろうが―――だがアウラは?

 もしアウラが戻ってきたら彼のことの何と思うだろうか? アウラはエルミーラ王女のために今、命を張っているのではないのか?

 途端にフィンの中に勇気が沸いてきた。アウラ一人に頑張らせてどうする? だとしてもどうすればいい?

 フィンは必死で考えた。ここに座していても何もできない。ともかくロムルースを誰かが説得するしかないだろう。説得?

 そしてフィンは叫んだ。

「ア、アイザック様! 私がベラに行きます!」

 一同が驚いた表情でフィンの顔を見た。

「何を言い出す?」

 王は訝しそうな顔でフィンを見つめた。

「私も命は惜しいです。確かに私の首を切れば戦争は回避できるでしょうが、さすがにそれは困ります。ですから私がベラに行って直接ロムルース様にお会いして説得して参ります。そうすればあるいは……」

 そう言うフィンの言葉をアイザック王は途中で遮った。

「早とちりは止すのだ。ル・ウーダ殿。誰が君の首を切ると言った?」

「え? でもそうしないとロムルース様はあらゆる手段を使うと……もし本気ならフォレスとベラの戦争になってしまいます!」

 そう言ったフィンに対して、王は静かに答えた。

「ああ、そうだ」

 あまりにもあっさりと王が言ったので、フィンは返す言葉がなかった。

「あの、ですからそれを回避するためには……」

「本当にそれでこの事態を収めることができるのであれば、わしはそうするかもしれん。だがそれが単なる無駄手間である以上、そのようなことはするつもりはない」

「え?」

「もう少し冷静になりたまえ。といってもル・ウーダ殿の立場ではなかなか大変だとは思うがな」

 王はそう言ってフィンの肩に手をかけた。

「もしベラに行くのであれば、わしが行った方が遙かに効果的だとは思わぬか? ロムルース殿を説得するのであれば貴公よりわしの方がいいだろう?」

「は、はい……」

 フィンはうなずいた。

「だが今となってはそれはあまりにも危険すぎる。なぜなら今回の事件の背後にはベラの高官が関わっている可能性が高いと思われるからだ。奴らの狙いが何かは分からぬが、そういうところにわしがのこのこ行って罠にはめられたりしたらそれこそフォレスは終わりだ」

「はい……」

「だが貴公が行った所でロムルース殿が聞く耳を持っているとは思えぬ。多分次の日には機甲馬に踏みつぶされているのが落ちだ。犬死にしに行くようなものだ。同様に他の誰が行っても同じことだ。唯一それができそうな者と言えばあ奴だったが……あ奴は今不在だ」

「それはそうですが……」

「ル・ウーダ殿。貴公はこれが単なる言いがかりであるということは分かるであろう? 貴公はたまたまここにやってきて滞在していただけなのだからな。なのに相手は名指しで君を指名してきた。それが何故かといえば、君の存在が便利だったからだ。このあたりは都出身者というだけで反感を買うこともある土地柄だからな」

 フィンは言葉に詰まった。確かにそうだ。だとすれば……

「でしたら、私を処刑しても終わらないと?」

「そうだ。わしが言われるがままに君の首をはねた所で、この陰謀を企てている者は別な理由を次々にでっち上げて来るだろうな。その者にとってはとにかくベラとフォレスを、もしくはエクシーレまで含めて戦わせることが目的なのであろう」

 王はそこで少し言葉を切ると、続けた。

「もしかしたら先日のフレーノ卿の件も、根は同じだったのかもしれんな」

 あの事件が⁈

 だが―――考えてみれば確かに付合する! もしあのときのフィンの想像が当たっていれば、あれはロムルースやフレーノ卿個人を狙ったものではなく、ベラという国そのものを弱体化させるべく仕組まれた一手と言えるわけで……

「しかし……ということは……」

 再びフィンは血の気が退いた。グラヴィス将軍もロパスもコルンバンも陰鬱な表情で下を向いている。フィンは王を見た。王もフィンを見返した。それから静かに言った。

「そうだ……どうやら戦いは避けられそうもなくなったということだ」

 フィンは愕然とした。こんなことになるなんて……

「最後の望みの綱は、ナーザ殿とアウラだな……彼女たちがあ奴を発見し、その背後にいる者の正体を暴いてくれれば、あるいは……」

 王の顔は苦渋に満ちていた。

「だがそれだけに全てを賭けるわけにはいかぬ。わしは彼女たちが失敗したときのことも考えねばならん」

 彼女たちが失敗⁈

 その言葉はフィンの心に突き刺さった。それだけは絶対考えたくなかった言葉。

 だが冷静に考えればむしろ成功の確率の方が低いのではないだろうか?

 フィンは目を閉じて首を振った。

「貴公にこんなことを言いたくはないのだが……ナーザ殿はあのように大変切れるお人だし、アウラの腕が確かなのも間違いない。わしは彼女たちがうまくやってくれると信じているが……だがそれに頼り切るわけにもいかないことは理解してもらえるな?」

「はい」

 フィンは小声でうなずいた。

「そういうわけでル・ウーダ殿。今この危急の時に、わしは貴公を失いたくはないのだよ。貴公は少なくとも一つ大変に役立つ提言をしてくれたな? 貴公がミーラの国外脱出法を示唆してくれたおかげで、今あの二人に希望を託しておられるのだ。それがなかったらわしらは希望と呼べる物を何一つ持ってはおらなかったのだからな。これは感謝してし尽くせるものではない。先日のベラでのご活躍についてもそうだ。だからわしは貴公の首は、その肩の上にあった方が遙かに有用だと思っておるのだ」

 そういって王は笑った。

 フィンは体中から力が抜けていくのを感じた。気づいたらフィンは王の前に平伏していた。

「ありがとうございます。本当に何と言っていいか……とにかくこのル・ウーダ・フィナルフィン、全力をもってアイザック様のお力となることをお誓い申し上げます」

 それを見て苦笑いしながら王がフィンの肩を持って立ち上がらせる。

「こらこら、ル・ウーダ殿。そのような大げさなことはやめるのだ」

「あ、その、申し訳ありません……」

 それから一同は今後の対策について、朝方まで会議を続けた。

 フィンが再び自室に戻ったときには、もう東の空が明るくなりかけていた。

 それにしてもアウラと別れるとき妙に嫌な予感がしていたのだが、それがこんな形で的中するとは……

「アウラ……」

 フィンはそうつぶやくと、ベッドに倒れ込んでそのまま泥のように眠りについた。