第10章 セロの戦い
高い岩峰の上でフィンは腹這いになって下を窺っていた。
横にはガルガラスが同様にして腹這いになっている。
下ではベラ軍が行列になって進軍中だ。今ちょうど六つ目の一団が通り過ぎた所だ。
「あれで十八かよ……奴らまじだな」
そうつぶやいたガルガラスの声はかなり緊張しているようだった。
「でもまあ、予想通りだけどな」
フィンも小声で答えた。こうなることは最初から計画の内だったとはいえ、実際に来られてみると不安になってくる。
二人が数えていたのはベラ軍の中に混じっている豪華な輿の数だった。それが今のところ十八個あったということだ。すなわちベラの一級魔導師が現在十八名前線に集結しつつあるということだ。
ガルンバ将軍の出現後魔導師の地位がかなり下がっている今でも、一級魔導師一人は数百名の兵士に匹敵すると言われている。それは実際に多くの戦いで証明されている事実だ。
―――ということは魔導師十八名とはそれだけで一万の軍勢に匹敵するということだ。
それに加えてベラは都と並ぶ魔導師の本場である。当然のことながら自国用に最もレベルの高い魔導師を確保しているはずだ。そのことを加味すれば、実質数万の軍勢に匹敵するかもしれない。二人が緊張するのも当然であろう。
「セロの方は大丈夫かな……」
フィンは思わずつぶやいた。だがそれを聞いてガルガラスが鼻で笑った。
「ネブロス様は大丈夫に決まってるぜ」
「いや、もちろんそうだろうけどね」
セロの渡しとはこの街道の重要拠点である。
街道はそれまではエストラテ川の右岸を通っているのだが、ここで川を渡って左岸に至る。この場所はちょっとした盆地になっていて、かなりの数の軍勢が駐留可能だ。
だがその手前は切り立った岸壁沿いの悪路で、戻ろうと思ったらかなりの距離を戻らなければならない。
フォレス軍の戦略としては、当然この拠点で敵をくい止めることが重要である。ここを突破されると、次は国境まで戻らなければならない。
もちろんそのことはベラも予想済みのはずだ。そうでなければ、彼らはここで立ち往生する羽目になる。そうなればフィンの作戦を実行するまでもなく大勝利だ。
だからさすがに相手もそのぐらいは考えているようだった。
その証拠は前面に集結した魔導師の数だ。
事前の報告ではベラ軍はそういう魔導師を二十数名引き連れてきているという話だ。
だとするとその大部分がこうして前線に集結しているわけだ。ベラにとっては当然の作戦だろう。
セロは何としても突破しなければならないからだ。そのためには可能な限り戦力を前面に集中して一気に叩くのが最善だ。
《こういうときは魔導軍って便利だよな……》
フィンは思った。こんな狭い土地では、大軍を集中させることはできない。
だが魔導師十八名なら全然問題はない。
フォレスにも当然魔道軍はあるのだが、その大部分はアイザック王と共に、東部のエクシーレ戦線に参加していた。ネブロス率いるセロの防衛線には、僅か四名の魔導師しか配置されていないのだ。彼らが本当に壊滅してしまったら終わりなのだが……
そんな考えを見透かしたのか、ガルガラスが言った。
「うちの魔道軍だって捨てたもんじゃないですぜ。旦那」
フィンはうなずいた。その話は何度も聞かされてはいる。何しろフォレスはベラの盟友である。エクシーレという同じ敵を共有してきた歴史もある。そのためフォレスに出仕してくる魔導師はベラのトップクラスの実力者揃いだったのだ。
だから相手がベラであっても個々の魔導師の力量で劣ることはない。以前フィンが魔道軍のキャンプ地に入り込んでしまったときあれほどの大騒ぎになったのはそういった背景もあったのだ。
だがもちろんこれからの戦いではそもそも数が違いすぎる。果たしてネブロス達はうまくやってくれるだろうか? 彼らが致命的な損害を被ってしまったら元も子もないが……
フィンは首を振った。今そんなことを考えてももう遅い。彼らを信頼するしかないのだ。ガルガラスもそのことに関しては全く疑っていないようだった。確かにネブロスは何かこう人を引きつける魅力を持っている。それに彼らは四年前のエクシーレ戦でも同様な戦いを勝ってきているのだ。
こんなときに全く疑いもなく他人を信頼できる彼らは掛け値なしに凄いと思った。
《アサンシオンで会ったときはどういう奴らかと……》
そう思ってフィンは吹き出しそうになった。
今から考えてみればあのときの彼らはちょっと可哀想だった―――なにしろ兵士の給料ではそう簡単にアサンシオンで遊ぶわけにはいかないのだから。彼らはなけなしの金を集めてあの日あそこに行っていたのだ。そこで少しばかり羽目を外しすぎたのは確かに彼らの責任だったが、アウラもあそこまでやる必要はなかった―――ような気がしないでもない……
今回の作戦を考えついたのも、あのベラ派遣の際に彼らと仲良くなれて、昔の話を色々聞けたことが大きい。
もちろん彼らの最大の自慢話は四年前のエクシーレ戦の話だ。
四年前のエクシーレの侵入についてフィンはそれまでいつもの小競り合いだと思っていた。それをガルガラス達が大げさに喋っているのだと。だが実際はかなり危険な状況だったのだ。
戦いの最初こそいつも小競り合いから始まった。だが今回の挑発はエクシーレ側が周到に準備していたものだったのだ。
それに乗った前線の警備隊が迂闊に傷つけたのは要人の身内だったのだ。それを理由にエクシーレ側は無茶な要求をしてきて、フォレス側が拒否するやエクシーレ軍の一部隊が国境を越えて侵攻してきたのである。
フォレス側は対応に窮した。もちろん本格的に迎撃することは可能だ。だがそうすればもはや全面的な戦争となってしまうだろう。エクシーレ側がそのつもりなのはもはや明白だった。
通常ならばこういう場合ベラに助けを求めれば良かった。ベラが北から牽制すればエクシーレとしてもそれに対応せざるを得ないからだ。
だがちょうどその頃ベラは前国長のグレンデルとその息子レクトールの死去によって混乱していた。もちろんエクシーレ側はそこも計算していたに違いない。
ともかく戦えばその後は泥沼となるのは目に見えている。誰もがもはやそうする他はないと信じかけたときに出てきたのがナーザだったのだ。
『戦えば泥沼になるというのであれば、戦わなければよろしいのです』
そう言って彼女は中隊を率いて侵入軍に“お帰り頂いた”のだ。
―――彼らはまず侵入してきたエクシーレ軍をアビオンの橋という所で待ち伏せた。
橋はフォレス軍が焼き落としたのでエクシーレ軍は簡単には突破できない。更に別働隊が後方に回り込み、崖を崩してエクシーレ軍を閉じこめたのだ。
だがそのままではエクシーレ軍も必死に突破をはかろうとするだろう。実際彼らはそうしようとした。そこにたまたま行き当たって運悪く捕虜にされた猟師の母子がいたのだ。
エクシーレ軍の指揮官は母親を人質にとって、息子の方から“裏道”情報を聞き出すことに成功する。それが使えれば罠の中で足掻くよりもスマートに逆襲できるに違いない。エクシーレの指揮官はそう考えたのだが、彼らがそれに導かれて行き着いたのはフォレス全軍のど真ん中だった。
泡を食った指揮官はもはやこれまでと玉砕しようとした。だがその彼を取り押さえたのが人質になっていた“猟師の母親”だったのだ。
ここまで鮮やかに決められてはもはや彼らもすごすごと引き返すしかなかった。もちろんその母親とはナーザで、息子の方はネブロスだった―――
この話はベラ行きのときには耳にたこができるぐらい聞かされていたが、そのときは話半分だと思っていた。だがここに来てガルガラスや他の兵士達を見るにつけて、そんなに誇張はなかったのだと確信が持てていた。
「……にしてもナーザさん達はどうしてるかな」
フィンはついそう口にしていた。それを聞いてガルガラスが即座に答える。
「あのお方がどうかなるはずないでしょ? それにあの女も付いてるんでしょ?」
「ああ、まあな」
ガルガラスは根っからの兵士で、体格もフィンより一回り大きい。その彼がナーザやアウラを怖がっているのを見ると何となく滑稽な感じがした。
だが彼らの話が本当ならナーザは不意をついたとはいえ、敵軍の指揮官を取り押さえたという。彼女は以前アウラにはハッタリで勝ったとか何とか言っていた気がするが、本当なんだろうか? もしかしたらアウラより強かったりするのだろうか?―――だとすると何だかもう化け物じみているような気もするが、一体どうやったらあんな人になれるのだろうか?
それよりも今は彼女たちの使命のことが気になる。
あれからもう三週間は経ったのに、彼女たちの消息はない―――いや、この状況になればもはや連絡の取りようがないから仕方ないのだが、彼女たちはいま何をしているのだろうか?
《馬鹿野郎! 俺が信じてやらなくてどうする?》
彼女たちは彼女たち、ネブロス達はネブロス達の使命を果たすべく頑張っているのだ。
いま彼にできることは自分のするべきことを行うことだ。
―――そう思ってフィンは空を見上げた。
陽はもうかなり西に傾いている。ベラの前のキャンプ地からこのセロまではかなり距離がある。兵士達は強行軍で疲れているだろう。そこも狙い目だった。暗くなってしまったら戦いはできないから、彼らとしては特に短期決戦が必要だ。
そのとき上流の方から鬨の声が聞こえてきた。下を行くベラの隊列に動揺の色が走る。
「ああ? もう始まったか? ちょっと早くないか?」
「仕方ねえだろ?」
フィンはうなずいた。全てが完璧に計画通り行くなどということがあるはずもない。
「じゃあ降りよう」
二人はそのまま後ろに這って、下から見えないところまで来て立ち上がった。
「行くよ。捕まってろよ」
「ああ……」
フィンはガルガラスの肩を抱くとそのまま岩峰から飛び降りた。ガルガラスがうっと声を上げる。
もちろん二人に危険はない。ゆっくりと着地した所には仲間が控えていた。
「おもしろかっただろ?」
フィンはまだ少し青ざめているガルガラスに向かってにやっと笑った。
「確かにあんたが来て便利だったな」
こういう場所で行動する際にはどうしても険しい岩壁を上り下りすることが発生する。ここにいる者はエクシーレ戦では敵軍の後ろに回り込んで退路を断った別働隊に属していた者がほとんどだ。当然そのような技術を身につけている者ばかりだったのだが、フィンがいたおかげで遙かにその効率が良くなっていた。
「魔法使いっていうのは、ふんぞり返ってがんがんぶっ放してるだけかと思ってたぜ」
「俺は落ちこぼれだったからね」
フィンは苦笑いした。
《もっと早くこれを覚えていればな……》
フィンは遙か昔に暗い森を逃げまどったときのことを思いだしていた。
あのときもっと上手にこの技が使えれば、あんな危険な目には遭わなくて済んだのに―――まあ、結果オーライだったとはいえ……
二人はしばらく黙り込んだ。フィンは心臓がどくんどくん脈打ってきたのを感じた。さすがに緊張する……
その瞬間、見張りの兵士が言った。
「合図です」
全員がさっと緊張する。
さあ始まりだ!
同時に近くの崖の上からがらがらと何か落ちる音がした。途端にベラ軍から悲鳴が上がる。
「行くぜ!」
ガルガラスの声と共に、全員が一糸乱れずに立ち上がる。彼らはそのまま一気に森から抜け出した。
「落石だ! 逃げなきゃ死ぬぞ!」
「危ねえ! 逃げろ!」
「どけ! 貴様!」
「何だ? 敵襲か?」
彼らはそんな風に口々に叫びながら駈け回ったり、適当に兵士を突き飛ばしたりしはじめた。ベラの兵士達は大混乱に陥った。
それを見てフィンはガルガラスと共に反対側に走り始めた。道は大きく曲がっていて向こうは見えない。だがその先に後続の軍勢がいるはずだ。
果たして道を曲がると向こうから騒ぎを聞いた軍勢が駆けてくるのが見えた。
ガルガラスが大声で叫ぶ。
「大変です! 大変です」
「なんだと? 敵襲か?」
先頭を走ってきた下士官風の男が叫び返した。
「はい、いっぱい……」
そう言ってガルガラスは後ろを指さした。
「わかった! 進め!」
下士官はそのまま走っていった。その後ろ姿にガルガラスが小声で言った。
「いっぱい石が落ちたんですが」
フィンは彼と顔を見合わせてにやっと笑った。
ベラ軍にはかなりの一般徴募兵が混じっている。彼らの服装はまちまちなので、フィン達が服装で見破られる心配はなかった。
フィン達が後続軍と共に再び元の場所に戻ると、そこでは既に大乱戦になっている。
―――とはいってもすべてベラ軍同士の同士討ちだ。少し慌てた様子の下士官がよく状況を確かめもせずに突っ込んでいったせいで、更に混乱が深まったようだ。
「馬鹿者! 敵などいない! 同士討ちはやめろ!」
下士官の叫びで、やっと混乱は収まってきた。
だがそのとき後方から伝令がやってくる。
「ヴィエロ隊長! き、奇襲です。隊列後方に敵が現れました!」
「何だと? 戻れ! 戻れ!」
そう言って下士官は再び後ろに向かって走った。兵士達は何だかよく分からないという感じで、またその後に続く。
それを見てフィンとガルガラスは顔を見合わせた。彼らの他にもあちこちに味方が紛れ込んでいるのが見える。どうやらうまくいったようだ。
もちろん後方の騒ぎも今のと同じだ。ヴィエロ隊長はそこでまた存在しない敵と戦っている味方を収めなければならないだろう。
そうこうしているうちに、前の方から伝令が触れ回りながらやってきた。
「セロを突破したぞ! 奴らは敗走したぞ!」
あたりからうおーっという歓声が起こる。フィン達もそれに適当に調子を合わせた。
「ああ、今晩は寝られないかと思ったぜ」
近くのベラ兵士がさも安心したという顔で言う。そうだろう。このあたりはベラへの街道でももっともきつい所だ。今日ここに来るまでに彼らは相当な強行軍を強いられたはずだ。こんな所で追い返されたりしたらたまらないだろう。
「さあ! 行くぞ!」
そのかけ声と共にあたりの兵士達が足取りも軽く歩き始める。
フィンはそれに混じって歩きながらますます緊張してくる。
本当に大丈夫だろうか?
だがもう後には退けない。
《さあ、なるようになれだ!》
このあたりからセロに至るまで、最後の登りで道は急勾配になる。回りの兵士達が喘ぎ始める。彼らはこれまでも重い荷物を担いで長い距離を歩いてきたせいで疲労困憊している。いい傾向だ。今晩はぐっすり眠ってくれることだろう。
歩いていくうちに右手に大きな滝が見えてきた。あの滝の上がセロの渡しだ。
兵士の間からもう一息だ、がんばれといった声が上がる。最後の急坂を登り切ると、それまでV字型に切り立っていた谷底が急に広がった。この先はしばらく緩やかで川幅も広がる。
ちょっとした森を抜けると目の前に広い河原が広がった。通常なら川には橋がかかっているのだが、今はフォレス軍に焼き落とされて燃え残った橋桁だけが残っている。だが兵士達はそんな物には目もくれない。
「おー! 着いたぞ!」
あたりから歓声が聞こえる。だがほぼそれと同時に陽が落ちてきた。兵士達は大慌てで野営の支度を始めた。
ベラ軍は大軍勢だ。後続が後から後からやってくる。あちらこちらで場所の取り合いで悶着が始まった。
フィンとガルガラスは何か物を運ぶふりをしながら、あちらこちらを見回った。
「大方予想通りだな」
フィンがつぶやく。
「ああ。全然なってねえな」
ガルガラスが小声で返事する。これがもっと統制のとれた軍隊だったらその中に紛れ込むのはかなり大変なことだっただろう。だがこれなら安心して身を隠すことができる。
もちろんフィンはこういう状況をあらかじめ予想していたからこそこういう計画を立てたのだ。
二人は野営地の中央付近にやってきた。そこには特に立派で大きなテントが三つ張られていた。周囲には魔導師用の輿が置かれている。
「あそこだな?」
「ああ。一つについて六人ってわけだ」
二人がそんなことを小声で話しながらそこを通り過ぎようとしたときだった。
「おい! お前ら!」
二人はびくっとして振り返った。若い兵士が一人こちらを見ている。士官ではないようだが、ベラ軍の制服を着用している。どうやら壁役兵士のようだ。
壁役は大切な魔導師を守るための兵士だ。さすがに素性の分からないような者は使えない。正規軍の中のエリートがその任務に当たるのが普通だ。
「へ? なんでしょう?」
ガルガラスがとぼけたように言う。
「ここはお前達の来るところではない」
「あ、どうもすんませんです。あの、ヴィエロ様のキャンプはどちらでしょうね?」
「そんなこと俺が知るか! あっちで聞け!」
「あ、はい」
二人は胸をなで下ろしながらその場を立ち去った。
「おーお。偉そうに。ガキが」
ガルガラスがつぶやく。
「確かに結構若い奴だったな。それで壁役なのか?」
「どっかのコネでしょ。壁役を勤めれば箔が付きますからね」
「なるほどな」
そういった調子で二人は野営地のあちこちを見回った。各地でだいたい設営は終わっている。セロ盆地は時ならぬキャンプ村になった。
だがそれに入りきらない兵士達も大勢いた。そういう兵士達はみな徴募兵で、彼ら用のテントが間に合わなかったのか、最初からその気がなかったのかは知らないが、皆たき火の回りを囲むように防水布にくるまっている。
話には聞いていたが、ベラの一般兵の待遇の悪さは想像以上だった。
《これじゃやる気が出ないよな……》
もう冬は近い。あたりは相当冷え込んで来ている。相当体力があってもあれではきついだろう。雨が降ってきたりしたらいったいどうする気なのだ?
フィン達がそういったたき火の側を通りすぎようとしたとき、次のような光景が目に入った。
―――喧嘩か何かが起こったらしく、兵士の一人が仲間に取り押さえられている。相手の男はふてくされたように後ろを向いている。取り押さえられた男がわめいている。
「てめえ俺が何したってんだ? ぶっ殺すぞ! ああ? 何とかいえよ! この糞野郎!」
だが相手の男は後ろを向いたままだ。彼に対して兵士を取り押さえている男の一人が言った。
「おい。お前も謝れよ。そりゃさ、両親がガルサ・ブランカにいるんじゃ暗くもなるだろうけどさ」
それを聞いて取り押さえられていた男が驚いた。
「ああ? こいつあっち出身なのか?」
「お前知らなかったのか? お前だってそんな目にあったら陰気にもなるだろ?」
「……馬鹿野郎! それはそれ、これはこれだ! てめえ、甘えるんじゃないぞ! 俺だってなあ、ガルサ・ブランカには恋人がいるんだ!」
それを聞いて別な誰かが茶々を入れた。
「それってまさかアサンシオンの彼女じゃないだろうな?」
「あんだと? てめえぶっ殺す!」
「まあまあ」
そのあと士官がやってきたので喧嘩はうやむやになったのだが―――
フィンはそんな兵士達がかわいそうになってきた。
彼らは家族からは引き離され目的も定かでない戦いのためにこんな所で防水布にくるまっているのだ。そのうえベラとフォレスの間はフリーパスに近いので住民もよく行き来している。喧嘩していた兵士のように親族や恋人が互いの国に分かれて住んでいる者も結構多いのだ。
フィンは振り返ってさっきの立派なテント群を見つめた。徴募兵と魔導師や壁役兵士達の待遇の違いは甚だしい物がある。
《あの中にいる奴らは、このことが分かってるのか?》
フィンは去年の冬に散々ガルンバ将軍の戦略と戦術に関して研究していた時のことを思いだした。
―――ガルンバ将軍が勝てた理由、それは煎じ詰めれば彼が兵士達の気持ちを一番理解していたからに他ならない。彼は味方だけでなく敵の兵士の気持ちも良く理解していた。
敵の軍勢は結局こんな調子だったのだ。
戦争には一般兵が絶対に必要だ。例えば都市の占領などを行うためにはそれなりの人数が必ず必要になる。にもかかわらず魔導師を重用するあまり一般兵達は常にないがしろにされてきた。壁役兵士はその中ではまだましな方だとも言える。だがそれも程度問題だ。
ガルンバ将軍はそんな自軍兵士の気持ちを理解して彼らにふさわしい待遇を与えた。
それは兵士達に将軍を信頼する心を生む―――だから兵士達は“水をかぶって突っ込め!”という将軍の指示に迷わず従ったのだ。
もし彼らがそこでためらったとしたらどうなっただろう?
魔導師の炎を馬鹿にしてはいけない。いつぞやフィンが駐屯地に迷い込んだときに見た魔導師の光球を思い出して欲しい。
クォイオの戦いのときは“火の雨”だったため威力は拡散していた。だがそれでも少々の水などすぐ乾いてしまっただろう。そうならなかった理由は、彼らが将軍を信じて迷わず一直線に突進したため、そうなる前に敵陣に到達できたからなのだ。
同様に敵軍の一般兵の士気がもっと高かったらどうだっただろう?
彼らは死力を尽くして突撃を止めようとしたはずだ。そこで時間がもう少し稼げれば魔道軍は逆襲に成功していたはずだ。
だがガルンバ将軍はそうはならないことを知っていた。
だからこそ、あのような作戦を敢行できたのだ―――
フィンはこの簡単なようで全然簡単でない結論に達したとき一種の感動を覚えた。
魔法が役に立たないのではない。ウィルガ軍が魔法を重んじるばかりに軍のバランスを欠いてしまったことが、あのような結果を招いた最大の理由なのだ。
それをナーザに言ったとき彼女は笑って答えた。
『そうね。彼らが魔道軍と通常軍を正しく運用していればあんな結果にはならなかったでしょうね』
それからずっとフィンはどうやったら魔道軍と通常軍をバランスよく運用できるかということを考え続けていた。
それは突き詰めれば魔道軍と通常軍が互いにその利点と欠点をはっきりと認識し、いかに補完し合うかという問題になる。
そしてそれを逆に考えれば、敵を攻める場合にはどこをどう攻めればいいのかということにもつながってくる。ベラ軍は明らかにそういう意味でバランスを欠いているのだ。
《それがこんなに早く役に立つとは……》
もしナーザとの出会いがなければフィンはこんな作戦など思いつかなかったに違いない。そしてガルガラス達との出会いがなければ、こんな作戦が実行できるなどとは思わなかったに違いなかった。
《とはいってもなあ……》
魔導師の端くれとして、彼はやや複雑な気持ちだった。
《グリムール様とかは来てないだろうけど……》
真実審判師が前線に出てくることはまずない。またあの若いフェリエが来ることもないだろう。
先日のベラへの旅で、フィンは多くの人と会っていた。そこの人々は間違いなくすばらしい人たちだった。そんな人々と直接戦うことになってしまったら、こんな平穏な気持ちではいられなかったに違いない。
だがそうばかりも言っていられない。この戦いには文字通りフィン自身の命がかかっているのだから。
《国の長が道を見誤ったとき……》
エルミーラ王女はその結果がどうなるか知っている。だがロムルース! お前はどうなんだ?
降りかかる火の粉は払わざるを得ないのだ……
やがてフィンとガルガラスは野営地隅にあるたき火の側にやってきた。
そこには一般徴募兵のふりをしてたき火を囲んでいる彼らの仲間がいる。徴募兵達は一応どこかの部隊に属しているのだが、ここではめいめいが適当に場所を見つけて火を囲んでいるので、その境目はぐちゃぐちゃだ。だから彼らが混じっていてもみんなよその部隊の兵士だと思っているのだ。
「遅かったっすね」
兵士の一人が小声で言う。
「道に迷っちまったんだよ。やっと分かったけどな。で、飯は?」
兵士の一人が二人にパンを差し出す。ガルガラスはそれをかじりながら適当な世間話を始めた。
だがそれを話しながらガルガラスはもてあそぶようにして小石を三つ手に取ると、三角形に置いた。その回りに別な小石を配置していく。
他の兵士達も適当に話しながら、そこから目を離さない。
「……というわけだ」
配置が終わるとガルガラスは話をやめて一同の顔を見た。みんな黙ってうなずく。細かいことはともかく今のところほぼ計画どおりの展開だ。それを確認するとガルガラスは言った。
「じゃ、また明日な」
そのまま彼は横になった。
見張りの者を残して他のメンバーもめいめい横になっていく。
フィンはガルガラスの方を振り返った。もう少し聞いておきたいこともある。だが彼はもう寝息をたてている。フィンは驚嘆した。とんでもない神経だ。彼らは敵陣の真ん中に潜入しているのだ。それだというのに……
だがすぐフィンは悟った。作戦は明朝未明だ。そんなときに寝不足でへまをしては、元も子もない。寝られるときに寝る。そうでなければやっていけない。
フィンもそれに習おうとしたが、さすがに寒さと緊張でなかなか寝付けなかった。そしてやっと寝付けた後も眠りは浅く、昔よく見た悪夢がフィンを襲った。
―――またあの真っ暗な森の中だ。
フィンは一生懸命走ろうとしていた。腰の傷からはどくどくと血が流れている。足下が覚束ない。気ばかりは焦るが足が付いてこない。全力で走っているはずなのに何故か一歩も進んでいないような気がする。
振り返ると背後にはたくさんの篝火が見えている。あれにだけは追いつかれるわけにはいかない。
《守ってやらなければ!》
フィンは心の中でひたすらそれだけを考えていた。
彼の手はしっかりともう一本の小さな柔らかな手を握りしめている。
《彼女だけは守ってやらなければ!》
後ろからもう一つの息づかいが聞こえてくる。ひどく苦しそうだ。
『ファラ! がんばるんだ』
フィンは叫んだ。その叫びに後ろから声がする。
『あたしだったら大丈夫だから。フィン。先行って』
フィンは驚いて振り返る。アウラが跪いている。胸の傷がぱっくりと割れて血がだらだらと流れ落ちている。
途端にフィンは背筋が凍るような恐怖を覚えた。
『だめだ! お前を置いてけるわけがない!』
だがアウラは悲しそうな目で彼を見つめるだけだ。
『おい! 何の冗談だ? お前がやられるわけないだろ!』
そう言いながらフィンはなに理不尽なことを言っているんだと思った。
それはともかくアウラの胸の傷をどうにかしなければ。このままでは彼女は死んでしまう。
だがそのためには―――そのためには彼女の服を脱がさなければ―――そんな状況なのにフィンは躊躇している。
《そうしないと彼女が死んでしまう。だから脱がせないと……》
フィンは何度もそう思って自分を奮い立たせた。だがなぜか妙な罪悪感がそれを妨げてしまう。こんなことをしていると彼女は死んでしまう! でも彼女を脱がせるなんて―――裸にするなんて―――
「うわ!」
フィンはびくっとして体を浮かせた。それからあたりを見回す。たき火はほとんど消えていてあたりは真っ暗だ。
《くそ! 夢か……なんて夢見やがる!》
その時横から声がした。
「旦那。大丈夫ですかい?」
ガルガラスだ。フィンは慌ててそちらを向いた。暗くてよく分からないが、ガルガラスがこっちを見ているようだ。
「大丈夫だ。ちょっとやな夢を見て」
「そうですかい? 緊張するとよくそういった夢を見ますぜ。それはそうと行けますか?」
フィンは慌てて体を起こした。
「もちろんだ」
メンバーの大部分は既に行ってしまったようだ。一斉にここを離れると怪しまれるかもしれないので、少人数で分かれて行くという手はずになっている。今後互いの連絡はほとんど取れない。フィンは少し心配になった。
だがガルガラスには全くそんな様子は見えない。彼は部下を信頼しきっているのだ。
フィンは立ち上がった。睡眠時間は少ないとはいえ、昨日の疲れは十分に抜けている。それを見てガルガラスも立ち上がった。
「じゃ先行くぜ」
ガルガラスが残っている男に小声で言う。男は黙ってうなずいた。
フィンとガルガラスは黙って魔導師のテント群に向かった。
みんな寝静まっている。たまに歩哨がいるが、眠たさをこらえるために単にその辺を歩き回っているだけのようだ。二人はちょっと物陰に隠れるだけで簡単にやり過ごすことができた。
それ以降ほとんど障害もなく二人は魔導師のテントの側に到着した。
二人はかがんで様子を窺う。テントの周囲にはまだ篝火が焚かれている。さすがにここにはもうすこしまともな様子の歩哨が三名いるのが見える。
二人はしばらくそこで待った。フィンはこういうことには慣れていなかったのでかなりじりじりしたが、ガルガラスは平然としている。戦場で役に立つ男とはこういう男のことを言うのだろう。
《もし横にいるのがアウラだったらどうなるだろう?》
彼女も待つのは結構平気みたいだが、こんな一糸乱れぬ行動ができるだろうか? 多分無理だろう。彼女は根っからの一匹狼っぽい―――フィンがそんなことを考えていたときだった。
ちょっと変わった虫の声が聞こえた。
《合図だ!》
二人は顔を見合わせるとうなずきあった。ガルガラスがばっと立ち上がると、歩哨の一人に突進する。フィンもすぐさまその後を追った。
「あ?」
歩哨が慌てて剣を抜こうとする。だがそのときにはガルガラスに一刀両断にされていた。
同じ事は他の歩哨にも起こっていた。合図と同時に四方から奇襲部隊が襲いかかったのだ。
見事だ。まだ気づかれていない!
ならばこれからがフィンの出番だ。
フィンはそのままテントの一つに駆け寄ると、手を前にかざす。
ずどんという音と共に、テントが潰れた。中からわめき声が聞こえたがそれは無視して、即座に次のテントに向かって同じく魔法をぶっ放す。
その間にガルガラスは他の兵士達と共に、テントの下でもぞもぞ動き回っている魔導師達に剣を突き立てていく。潰れたテントの下から絶叫が上がる。
フィンはテントを潰し終えると、また元に戻って今度は火を放っていった。
あちこちから魔導師達のわめき声が響きわたる。
その騒ぎを聞いてさすがに寝ていた兵士達が起きてきた。しかしそのときはもう奇襲部隊の目的はほぼ達成されていた。
三つのテントは全てぺしゃんこになって炎を上げている。
それを確かめるとガルガラスがわめいた。
「夜襲だ! 夜襲だ!」
それと共に奇襲部隊はさっと撤退を始める。
騒ぎを聞いて他の兵士達も起きてくる。だがあたりはまだ真っ暗だ。彼らは赤々と燃えている魔導師のテントを見て度を失った。
「夜襲だ! みんな起きろ!」
フィン達はそう叫びながら陣内を突っ走った。
陣内は大混乱に陥った。中には同士討ちを始める者までがいる。
フィン達はその混乱に乗じて簡単にベラの陣地から抜け出すことができた。
あらかじめ示し合わせておいた野営地の外の森で、作戦に参加した者は全員が再会できた。軽い怪我をしている者が数名いるだけだ。
「よっしゃあ!」
最後のメンバーがやってくると、ガルガラスが嬉しそうに叫ぶ。それと共に一同は大声で笑い出した。こんなにうまく行くなんて!
その頃には夜は白々と明け始めていた。それと同時に混乱したベラ軍はさらに恐ろしい物を目にすることになる。
野営地の向こう側に敗走したはずのフォレス軍が勢揃いしているのだ!
「後の仕上げはネブロス様に任すか!」
彼らは敗走したふりをして一時撤退し、夜陰にまぎれてこっそりとあそこまで戻ってきていたのだ。それを見てフィンは舌を巻いた。
《さすがネブロス様の部隊だ……》
夜間にそういった行動を行うのは難しいはずなのに……
同時に角笛が鳴り響き大きな歓声が沸き起こった。
続いてフォレス軍内に大きな火の玉が生まれると、それがそのままベラの陣地を襲う。ベラの兵士が逃げまどう。そんな魔導師の攻撃がしばらく続いた後、今度は一般兵が突撃を開始する。
それから先は戦いらしい戦いにさえならなかった。
勝敗は最初から決まっていた。数勘定だけはまだ互角だ。だが不意を突かれた上に肝心の魔導師をほとんど失ってしまったベラ軍は、なすすべなく敗走するしかなかった。
「じゃあ祝杯といきましょうか?」
それを見た兵士の一人が小さな革袋に入った酒を差し出す。
「おい! おめえこんな物を持ってきてたのか?」
「当然じゃないですか!」
奇襲部隊の面々はその酒を回しのみした。ほんの一口づつだったが、こんなにおいしい酒は初めてだ。その味に酔いながら、フィンは思った。
魔導師は確かに強力だ。また一人で何百人分の働きができるということは、非常に小回りが利くという意味もでもある。しかし彼らもまた人間なのだ。フィンはアウラに魔法をぶっ放してしまったときのことを思いだしていた。
安全に守られているところから大魔法をぶっ放している場合には、魔導師はとてつもなく強力だ。だがあんな混戦になると魔導師ははっきり言って徴募兵にさえ劣るのだ。
ベラ軍の最大の間違いは、大切な魔導師達をこんな一カ所に集中させてしまったことだ。せめて陣内でも分散させておけばまだ結果は異なったかもしれない。
ともかくベラ軍は、フィンの思惑にみごとはまってくれたというわけだ……
だが、燃え上がる炎を見てフィンは何だか怖くなってきた。
この作戦はフィンが考えて上奏したものだ。机上で考えているときは一種のパズルを解いているようなもので、むしろ楽しくさえあった。だがそれが実現する様をみていると―――何と言っていいのか非常に複雑な気分だ。
実際、彼の魔法で何人か焼け死んだかもしれない。彼自身も死地をくぐってきたから、命のやりとりとはこういうものだと言ってしまえばそれまでだ。だが少なくともそれを素直に喜ぶわけにもいかない。彼らに恨みがあったわけではないし、こんなことさえなければ知り合いになれていたかもしれないのだ……
だが同時にフィンは敵を倒したとき、心の底である種の快感を感じていたことにも気づいていた。
《おい!》
それに気づいた瞬間フィンは恐ろしくなった。
世の中には人の命を奪うことで快楽を得る人種がいるというが―――彼自身は決してそんな存在にはなりたくなかった。これはゲームなんかじゃないのだ。あの兵士達は一人一人が生きた人間なのだ。
彼はフォレスに両親がいるというベラの兵士のことを思いだしていた。その男はこの戦いでどうなったのだろう? ガルサ・ブランカの両親はこのことを知っているのだろうか?
だがそれでもしアウラが失われてしまったとしたらどうだろう? フィンはベラ軍を全て焼き尽くしたとしても後悔しないかもしれない。
《いや、だから……》
この気持ち―――どう扱ったらいいのだろうか?
フィンがそんなことを考えていると、ガルガラスがどすんとフィンの背中を叩いた。彼は酒の入った革袋を差し出しながら言った。
「ほら、まだ残ってるぜ。飲みな!」
「え? なんでだ?」
「何言ってやがるんだ! あんたがいなかったらこの勝ちはなかったってことは、みんな知ってるぜ!」
フィンは驚いてみんなを見回した。兵士達は皆フィンを見て笑っている。もちろん冷やかしの笑いなどではない。心からフィンの偉業を褒め称える笑みだ。
「今はこんなもんしかないけどな」
フィンは背中がぞくっとした。
その言葉が何だかひどく嬉しかった。
人からの信頼を受けるというのがこんなに喜ばしい物だっただろうか?
「ありがとう」
フィンは残った酒を飲み干した。
「おのれ! ネブロス!」
ロムルースはそう何度も叫びながら、本陣内をぐるぐると歩き回っていた。
ベラの将軍達は青ざめた顔でそれを見守りながらも声をかける者はいない。
それも当然だった。何しろ彼らはここで戦いが起こるとさえ思っていなかったのだから。
今回のフォレス戦に投入されたベラの軍勢は、それだけでフォレス全軍と互角の規模だった。その上ベラは魔道の本場だ。フォレスの魔道軍の質は高かったとはいえ、魔道軍の規模から言えば圧倒的に有利だった。その上ベラの動きに呼応してエクシーレまでが動き出したというのだ。
このような状況ではフォレス側は、フィンを差し出してベラと和睦の道を選ぶしか選択肢はないはずだった―――何しろ本来は両国にとっては共通の敵エクシーレの動きの方が遥かに重要な問題なのだ。ここでフォレスがエクシーレの手に落ちてしまったら逆にベラの方が首根っこを押さえられたような格好になってしまう。だからベラ側としてはフォレスはベラとの和解を持ちかけてくるとそう考えていたのだ。
だがふたを開けてみたらどうだ?
フォレスはフィンを渡すどころか徹底抗戦を宣言してきたのだ。
しかも舐めたことにはベラ軍を迎え撃つのは僅か千五百の軍団だ。
それを見てベラ軍はフォレスが何か裏取引を持ちかけてくるのかとも考えた。何しろその程度の軍勢などベラの圧倒的な力の前には瞬時に粉砕できる。だから彼らはアイザック王がこちら側の防衛を端から諦めたのだと思ったのだ。
なのにどうだ⁈
圧倒的有利だったはずの軍勢が、その僅か千五百のフォレス軍に惨敗を喫してしまったのだ。
特に痛かったのはその戦いで一級魔導師の大部分が使い物にならなくなってしまったことだ。
セロの渡しを一挙に突破すべく集中した十八名のうち戦死が一名、重傷が十名、残りも無傷な者はいなかった。それ以上に残った彼らは精神的ショックが大きく、まともに魔法が使えない状態になっていた。
それを見て後方にいた控えの魔導師までが動揺していた。
魔導師の魔法は術者の精神的要因が大きく影響する。今の状態ではベラ軍は手足をもがれたようなものなのだ。
「今奴らはどうしている?」
ロムルースは振り返るとグリア将軍に言った。
「は。セロの渡しに仮砦を築いて、防衛に専念している模様ですが」
「くそ! 今度は持久戦か?」
「はい。このままでは完全な冬が到来してしまいます。ここは軍を退いて態勢を立て直された方が……」
「ふざけるな! ここまでやられておめおめ引き下がれるか! 残りの者を集めて一気に突破すればいいだろう!」
それを聞いてグリア将軍は首を振った。
「お館様。ちょっとそれは困難です。フォレス側は特に防衛に適した魔導師を連れてきているようです。最初の攻撃の際に味方十二名の一斉攻撃を彼らは耐え忍びましたが、ご存じの通り今すぐ前線に出せる魔導師はあと五名ほどしか残ってはおりません。これでは奴らの魔道陣を突破することは叶いません。後方から呼び寄せるのはもうしばらくかかります」
それを聞いてロムルースは口をぱくぱくさせて何か言いたげだったが、やがてぎろっとグリア将軍を睨むと口を閉じた。
場を沈黙が支配した。
将軍達はちらちらと互いの顔を見合わせるが何も言わない。再びロムルースが吠えた。
「お前達! その頭に脳味噌は入っているのか? 何か策はないのか!」
だが将軍達は皆うつむいたまま顔を上げない。
「モルスコ! 何か言うことはないのか? 今回の作戦はお前が考えたんだろうが!」
ロムルースは初老の将軍の前に立ってわめく。
モルスコ将軍は顔を上げた。
「相手はネブロスですぞ。お館様も四年前のことはご存じかと思われますが?」
「だから何だというのだ!」
「ですからこのような地形では、大軍は動きが取れませぬ。頼みの魔道軍もあの有様では、敵に雪が降るまで粘られてしまうのは必定かと」
「そんなことは分かっている! だからそれを打開する方法を考えよと言っているのだ!」
「私も……グリア殿と同じ考えでございます。一度兵をお引きなさるのが最善かと……」
それを聞いてロムルースは真っ赤になった。
「この……役立たずどもめ!」
ロムルースは周囲を見回した。だが面と向かって何か言おうという者はいない。ロムルースは完全に頭に血が上っている。この状況では何を言っても無駄だとみんな知っていた。
ロムルースはますますいきりたった。
「よかろう! 軍を退いてやる! そしてハビタルに戻ったら、お前達みんな死刑だ!」
それを聞いて一同は驚愕した。モルスコが言う。
「一体何を言い出されるのです!」
「お前らのような能なしを飼っておくほどベラは豊かではない! 粉々にして畑に撒いてやった方がよっぽどベラのためになる!」
面と向かって言われたモルスコは真っ赤になってぶるぶる震えた。
将軍達にとっては当然のことだろう。数を頼んでろくろく準備もせずに行った侵攻だ。そもそもその理由さえ不確かだ。はっきり言ってここまで言われる筋合いはない。
「なんだ! その目は! よし、わかった! それではお前を真っ先に機甲馬で踏みつぶしてやる!」
「お館様! どうかお考え直しを……」
モルスコは地面に手をついた。
「今更命乞いか? 見苦しいぞ!」
「私の命などどうなっても構いませぬ! しかしベラの事を考えれば、今ここで軍を退くのが得策でございます!」
それを聞いてロムルースは真っ赤になった。そしていきなり剣を抜いてモルスコに斬りつけようとした。
「おやめ下さい!」
それをすんでの所でグリア将軍が止めた。
「離せ! グリア!」
「ロムルース様!」
グリア将軍の声には悲壮な響きがった。
そのときだ。
「ロムルース様。無駄なことはおやめになった方がよろしいかと思いますよ」
やたらに落ち着いた声がする。一同がその方を見ると―――そう言ったのはプリムスだった。
「なんだと?」
ロムルースが睨むが、彼は涼しい顔で答えた。
「モルスコ殿を踏みつぶすのに機甲馬を使うなど、無駄だというのです」
「なんだと? 貴様も私を愚弄する気か?」
ロムルースがプリムスに詰め寄るが、彼は全くおびえた様子はない。
「どうせならば敵兵を踏みつぶさせた方が、よっぽど良いのではないですか?」
「なんだと?」
一瞬彼らはプリムスが何を言いたいのかよく分からなかった。それからロムルースは馬鹿にされたと思って更に激昂した。
「ふざけるな! 貴様、敵兵にハビタルまで行って機甲馬の足の下に寝転がれとでも言うのか?」
他の将軍達もよく分からないという顔でプリムスを見る。
「まさか! そんなこと無理に決まっています。そうではなくて、機甲馬の方にやってきてもらうのですよ」
「なに?」
ロムルースと将軍達はぽかんとしてプリムスを見つめた。何しろ機甲馬は足を上げることしかできないはずなのだから。
「そんなことができるのか?」
「機甲馬が元々どこから手に入ったのかはご存じでしょう? かつてはエクシーレ軍には機甲馬部隊があったのです。あの機甲馬はベラ魔道軍がそれを打ち破ったときの戦利品でしたね?」
「だが……どうやって動かすと言うのだ?」
「これで動かせるのですよ」
そう言ってプリムスは小さな箱のような物を取りだした。それを見てロムルースが蒼くなった。
「なぜそれを持ってきている!」
それはベラの長の家に代々伝わる機甲馬の足を動かす装置だった。本来ならば長以外は触っては行けないはずの物だ。
だがプリムスは悪びれずに言う。
「必要になるかもしれないと思いまして。私がかつて西方にいたときに、砂漠の中に残された古い遺跡があったことは、いつかお話ししたと思いますが。そこで私は機甲馬はちゃんと歩くことができ、それどころかそれ以上の力を持っていることを知ったのです。機甲馬はこの箱により自由に操作できるのです。しかも側にいる必要さえありません。遙か離れた所からでも動かせます。ですからここに呼び寄せることもできるわけです」
しばらくロムルースは目を丸くしてプリムスを見つめていた。他の将軍達も同様だった。それからロムルースが尋ねる。
「機甲馬のさらなる力だと? それは一体どんな力だ?」
それを聞いてプリムスは首を振った。
「それは私も実際には見たことがないので分かりませんが、何でも離れた所にいる敵を瞬時に倒せるとか」
「それは弓のようなものなのか?」
「いえ、すさまじい光を発して、敵を一瞬で倒すと言われております」
それを聞いてロムルースが笑った。
「ははは! なんと! あの木偶がそんなに使える物だったとは! だがどうしてそれをもっと早く言わなかった?」
「ベラの魔道軍があれば、そのような物は必要ないかと思いまして」
プリムスはにやっと笑いながら答える。
「……ともかく動かせるのだな?」
「やってみないと分かりませんが……」
「すぐやれ!」
それを聞いたモルスコが口を挟む。
「お館様! このような得体の知れない物をいきなり使うのはどうかと思われますが……」
だがロムルースはモルスコを睨みつけた。
「なに? だったらお前はもっと良い策があるとでも言うのか?」
「いえ、そういうわけでは……しかし急いてはなりませぬ! プリムス殿。この機甲馬に秘められたさらなる力とは、味方にも被害を及ぼすようなものでは?」
プリムスは少し首をかしげながら答える。
「機甲馬は相当賢いので敵味方の区別はちゃんとつくそうですが……」
「つくそうだ? そんな曖昧な情報で……」
だがモルスコの言葉をロムルースが遮った。
「もういい! 黙れ! プリムス! 機甲馬を呼び寄せよ」
「でもお館様!」
ロムルースは恐ろしい顔でモルスコを睨んだ。
「黙れ!」
モルスコは唇を噛んで黙り込んだ。それを見てプリムスは手にした装置をなにやらいじり始めた。
それからしばらくして彼は言った。
「これで明日までには機甲馬がやってくるはずです」
それを聞いたロムルースは笑った。
「ふははは! ネブロスめ、今度こそ目に物見せてくれる!」
彼はそのまま高笑いしながら出て行った。
あとにはぽかんとした表情の将軍達が残された。
しばらく彼らは呆然としていたが―――やがてグリア将軍がプリムスに詰め寄った。
「プリムス殿! 一体これは?」
だがプリムスはため息をつくと答えた。
「もし私がこうしなければ、あなたはどうなさっておりましたか?」
グリアはうっと声を詰まらせる。プリムスは小声で言った。
「もしやあそこでお館様を、身を呈してでもお止めなさろうとは考えていませんでしたか?」
グリアは歯を食いしばって体を震わせるだけだ。
「こんなことであなたを失ったら、ベラはどういうことになりますか? 私とて好きこのんでこんなことをしたかったわけではないのです」
グリア将軍はしばらく歯を食いしばってプリムスを見ていたが―――やがてがっくりとうなだれた。
「すまぬ。プリムス殿……」
「いえ、それには及びません。ここにいる者は全てベラという国を愛している点は同じです。この危急の時にそれぞれ何をなすべきか、それが一番問題なのではありませんか?」
それを聞いたモルスコ将軍が答えた。
「そうだ。我々はベラの臣民なのだ。今ここで争っても仕方がない。ともかく、プリムス殿。わしはまだ心配なのだが、機甲馬を戦闘に使ったりして本当に大丈夫なのだろうか?」
「ああ、それで大切なことを忘れかけておりました。戦闘に参加させるのは正規兵だけにして下さい」
「それはどうしてだ?」
「徴募兵だと敵味方の区別がつきませんから」
そして将軍達はプリムスを中心に、機甲馬が来たときの作戦を立て始めた。