消えた王女 第11章 美味い料理で男は動く

第11章 美味い料理で男は動く


 厨房の中では大きな鍋がぐつぐついって良い香りを漂わせている。

 エルミーラ王女は木の匙でスープをすくって味見をしてからうなずくと、今度は側のオーブンの火加減を調べた。もう十分に温まっているようだ。

「ポーカ! 生地を」

「はいっ!」

 王女がそう言うと、厨房の反対側の隅で鳥の羽をむしっていた少年がはじかれるように立ち上がって、パン生地を入れたトレーを持ってきた。

「そこに置いといて」

「はいっ!」

 王女は革の手袋をはめるとトレーをオーブンに入れて扉を閉じた。

 これで一段落だ―――後は焼き上がるを待つだけだ。

 王女はふうっと息を吐くと、テーブルの横の椅子に腰を下ろした。それから彼女は厨房の中をぼうっと見回した。

 ここに囚われの身になってからもう三週間近くになる。おかげで最初はゴミ溜めかとも思われたこの厨房も随分使いやすく整理されている。

 鍋や調理道具は綺麗に磨かれているし、食材も調味料もそろっている。薪も外に十分に積まれている。この調子ならこのままここで冬を越すことだってできそうな勢いだ。

 王女はここまで片づけることができてある意味満足だった。だがそれを素直に喜ぶわけにはいかなかった。

 王女はため息をついた。

《これがみんな盗品じゃなければね……》

 彼女を連れて来た連中はやはりこのあたりを荒らす盗賊の一グループだった。だから当然のことながらこのアジトにある物は原則全て盗賊行為を行って入手してきた物なのだ。

《これって……窃盗の幇助にはならないわよね》

 そう思って王女は苦笑いをする。

 それにしてもどうすればいいのだろう? いつまでもこうしているわけにはいかないのは確かなのだが、具体的にどうすればいいか見当もつかない。

 そんなことを考えていると、ポーカと呼ばれた少年が王女の方をちらちら見ながら何か言いたそうな素振りなのに気がついた。

 王女は少年に言った。

「いいわよ。持ってらっしゃい。でもちゃんんと手を洗ってね」

「はいっ!」

 少年は満面の笑みを浮かべると厨房から出て行って、しばらくすると一冊の本を持って帰ってきた。

「昨日はどこまで読んだっけ?」

「ブラッグが遺跡の地下に潜っていったとこまでです」

「じゃあ、そこから読んでご覧なさい」

「はいっ!」

 少年は本を開くと声を出して一生懸命読み始めた。

 そんなポーカの姿を眺めながら、王女はあの日のことを思い出していた。



 あの雨の街道で気を失ってしまった後、次に彼女が気づいたのがこの小屋のベッドの中だった。

 窓からは明るい光が射し込んでいる。

《ここはいったいどこ?》

 王女はぼうっとして部屋の中を見回した。

 頭がはっきりしない。自分は生きているのだろうか?

 体を動かそうとすると、足がずきっと痛んだ。傷むということはまだ死んでいないようだが―――それにしてもここはどこだ?

 王女は体を起こす。

 ひどくだるいが何とか動くことはできそうだ。

 それから建物の中を見回した―――あまり上等な建物とは言えない。荒削りの板で作られた小屋の中のようだ。ベッドも同様で王女が少し身動きするとぎしぎしいう。

 こんな感じの建物を前に見たことがあったが―――たしか田舎の開拓地に行ったとき、こんな小屋に住んでいた人と会ったことがある。

 でもどうして彼女がそんなところで寝ているのだ?

 王女は一体何が起こったのか思いだそうと努力した。そしてやっと昨夜起こったことを思いだした。

《じゃあ、あたしを捕まえたのは?》

 彼女を見つけたのはどんな奴らだっただろうか? 確かかなり柄の悪そうな奴らだったような気がするが……

 王女は慌てて自分の体を調べた。

 今着ているのは―――これは何だ? 男物のシャツか? それに気づいた王女は慌てて立ち上がったが―――途端に立ちくらみがしてまたベッドに倒れ込む。

 暗闇から視界が戻ったところでもう一度ゆっくりと体を起こして、もう一度何かされていないか調べてみた。

 だが特に何もされた形跡はないようだ。

 ただ―――あのとき彼女は間違いなく泥だらけだったのだが、今はなぜか十分清潔だ。

 髪の毛はまだばりばりしているが、少なくとも誰かが体を拭いてくれたのは間違いない―――そう思った瞬間、王女はかっと顔が熱くなった。

 そのとき隣の部屋から話し声が聞こえてきた。

 王女はそっと立ち上がると扉に耳を押しつけると、男達がこんな事を話していた。

「って、お前本当か? そんな馬鹿な話があるわけねえだろ?」

「あんだと? 嘘なんかついてねえぞ。指輪の紋章は、ありゃ確かにフォレスの紋章だ」

「じゃあ何か? あの女がさらわれた王女だって言うのか?」

「そうかもしれないって言ってるだけだろ?」

「そんなバカなことが……」

 王女ははっとして手を見た。まさか指輪が取られたのでは?―――だが指輪はちゃんと嵌まっていた。王女は安堵したが―――それでは一体どうすればいいのだろうか?

「それにさあ、あの服、よく見たら滅茶苦茶高いぞ。その辺の女が着れる服じゃねえ」

「まじかよ」

「また信用しねえのか? 親父が仕立屋だったこと、お前だって知ってるだろ?」

「いや、そりゃそうだけどよ……」

 どうも正体はほとんどバレバレ状態だ。ごまかすとしたらどういう説明があり得るだろう?

 フォレスの紋章の付いた指輪に超高級な衣装。偽物と言い張ろうとすればそれをどうしたか説明しなければならないが―――いったいどんな説明がある?

 本物の王女からもらったとでも言うか? だがどんな理由で王女がそんな物をくれるというのだ? 服だけならまだしも指輪まで渡すはずがない。だとすれば奪ったことにするしか―――余計悪いことになりそうな気がする。

 ならばもう開き直ってしまうしかない。彼女が本物の王女だと知ったら彼らはどうするだろうか?

《そんな心配してもしょうがないわよね!》

 心を決めると王女は何度か深呼吸をしてから、おもむろに部屋の扉をばたんと開いた。

 その音に驚いたように男達が一斉に振り返る。

 部屋の中には男が六人いる。みんな結構若い男だ。一人はほとんど少年と言っていい。

 開いた扉の向こうに立っている王女に向かってリーダーとおぼしき男が言った。

「あんた……気づいたのか?」

 心なしか声が震えているようだ。それに気づいた王女は何とかなるかもしれないと感じた。

《ここが勝負よ!》

 そう思うと王女はつとめて平静を装いながら言った。

「ええ。私を助けて下さったのはあなた方ですか?」

 エルミーラ王女は盗賊達をぐるっと眺めながら、一人一人の目を見つめていった。

 男達はどぎまぎした様子で目を逸らす。いい傾向だ。

「あ、ああ。あんたがあそこに倒れてたから……」

 リーダーの男がどもりながら答えた。王女はその男に微笑みかけた。

「ありがとう。あなたの名前は?」

「あ、あ……」

 男は明らかに赤くなって口ごもる。それを見て王女は言った。

「あ、そうですね。まず私から自己紹介した方がよろしいでしょうね。私の名前はフィリア・エルミーラ・ノル・フォレスと申します。お見知りおき下さい」

 それを聞いて男達は仰天した。

 もちろん様々な証拠から彼らも彼女がそうなのではないかと想像はしていたのだろうが、実際にそうだと言われるのとは話が別だ。

 男達はしばらく絶句していた後、やっと一人が答えた。

「う、嘘だろ? どうして王女様があんな所に?」

 王女はその男を見つめた。

「私をフォレスからここまでさらったて来たのは、フラン領主のプリムスです。私はその男の手下にさらわれてフランまで連れてこられました。でもそこから運良く逃げ出すことができたので、ロムルース様を頼ってハビタルに行く途中だったのです」

 そんな話は男達の理解の範疇を越えていたようだ。

 男達はしばらく絶句した挙げ句、一人が少々ピントはずれな問いをする。

「でも……それならどうしてあんな夜に?」

「昼間に歩いてたら追っ手に見つかってしまいませんか?」

 男達は顔を見合わせた。

 王女は内心恐怖心でいっぱいだった。だがここで弱気になったらいけない!

 彼女は精一杯毅然と振る舞った。

「ともかくあそこで助けて頂いて本当に感謝しております。慣れない旅のためほとんど行き倒れる寸前でしたので。それでお聞きしたいのですが、あなた方はいったいどういう方々でしょうか?」

 それを聞いてリーダーらしい男が、慌てたように姿勢を正した。

「え、あの、お、俺はバーボといいますです。こいつらは俺の仲間で、左から順番にオプス、スペキオ、フークス、アストラル。それにこのチビがポーカっていいます」

 最後に紹介された少年はチビといわれて明らかにむっとした顔だったが、何も言わずに黙っていた。

 王女はもう一度男達をよく観察した。

 みんな若い。最年長に見えるバーボでも王女より二~三歳上ぐらいか。それ以外は王女と同い年ぐらいか少し下で、ポーカに至ってはまだ十四~五歳ぐらいだ。

「そうでしたの。皆さん本当にありがとうございます」

 王女はそう言ってまた一人一人に礼をした。これは掛け値なしの感謝の気持ちだ。あそこで拾ってもらえなければ本当に野垂れ死んでいたかもしれないのだ。

 その礼に対して男達もぎくしゃくと礼を返してくる―――こういった反応を見るにつけ、この男達はそんなに悪い奴らではないように思えてきた。

 それに今の展開で場は完全に王女のペースになっている。まだ油断はできないが、王女は少し緊張を解いた。同時に王女はひどく空腹なことに気が付いた。考えてみれば四日ほどまともに物を食べていない。

 そこで王女は言った。

「それでいきなりなんですが、ちょっと何か食べるものを頂けないでしょうか? この何日かまともに食べられなかったんです」

 それを聞くと男の一人が弾かれたように立ち上がり、別な部屋に入っていった。しばらくして男はパンとスープの入った皿をを持って来る。

「ありがとう」

 王女はその男に微笑みかけた。

「え? あ、はい……」

 男は顔を赤くしながら食事をテーブルに置いた。それから最年少の少年に向かって言った。

「おい、そこ空けろよ」

 椅子は人数分しかない。少年はそれに気づいたらしく慌てて立ち上がった。

「ありがとう」

 王女はそう少年に言うと空いた席に腰を下ろしてみんなの前で食べ始めた。普通ならこんな場合緊張して味など分かりそうもないものだが―――その食事ははっきり言って不味かった。

 パンは固くなっており、スープも冷めている上に味も変で、入っていた野菜は生煮えだった。普段なら絶対に口にしたくないような代物だ。だがそれでも今の彼女にとっては何にも代え難かった。

 王女が食事している間、男達は黙って彼女を見つめていた。彼女もその視線は気になったのだが敢えて無視をした。

 そんな気まずい食事でも食べてしまえば力がわいてくる。そして人心地つくと王女は男達の顔を再び見回してから言った。

「ごちそうさまでした。まるで生き返ったような気分ですわ。ありがとうございます」

 男達はそれを聞いてまた慌てたように頭を下げる。

 それから王女はバーボの顔を見ながら尋ねた。

「で、ちょっとお訊きしたいんですが、よろしいでしょうか?」

「は、はあ」

 バーボが困ったようにうなずく。

「まずお尋ねしますが、ここはいったいどこでしょうか?」

 それを聞いてバーボは小さな声で答える。

「俺達のアジト……です」

 いや、そういうことを聞いているのではない。王女はバーボににっこり笑いかけた。

「それは分かっております。そうではなくて、ここがベラのどこかを知りたいんです。ここからハビタルまでどのくらいかかりますか?」

 その問いに対してバーボはしばらく目を泳がせてから答えた。

「それは、教えられねえ……ません」

 まあそうかもしれない。一応彼らだって盗賊のはしくれなら、アジトの位置は知られない方がいいに決まっている。訊き方が悪かったのだろう。そこで王女は尋ねた。

「それでは誰か私をハビタルまで送っていっては下さいませんか? 私はどうしてもハビタルまで行かなければならないんです」

 男達は再び顔を見合わせた。バーボが言う。

「それは……だめです」

「もちろんただとは言いませんわ。連れて行って頂ければ相当の報酬をお約束いたしますわ」

 男達はまた互いに顔を見合わせた。

 だが王女もそうは言った物の少し不安だった。手元には一銭もない。男達が手付けを寄越せと言ってきたらどうしようか? この指輪を渡すわけにはいかないし―――王女がそんなことを心配しながらバーボの顔を見ると、彼は黙って首を振った。

「やっぱ止めときます」

 その返事に王女は驚いた。どうしてこんな奴らが報酬に釣られないのだ?

「止めとくって、いったいどうして?」

 王女は驚きのあまり、ついアウラなどの身内に使っている口調で尋ね返した。

 バーボはそれには気づかずあらぬ方向を見ながら答えた。

「ゼオンの連中とかベイラーの連中がうようよしてんでさ。見つかったら何されるか」

「ゼオン? ベイラー? それって誰ですの?」

 王女の問いにバーボは小声で答える。

「盗賊でさ」

 それを聞いてまた王女はのけぞった。

「あなた達も盗賊じゃないの?」

 それを聞いて男達はまた顔を見合わせた。

 それからバーボが恐る恐るという感じで答える。

「あの、その、あいつらの方が強くって……」

 なんだかどっと疲れがわき上がってきた。

 要するにこいつらはヘタレなのだ。このあたりの盗賊集団の中でも最下層レベルの奴らなのだろう。多分街道の旅人から小銭を巻き上げる程度のケチな奴らなのだ。ここはまさに一攫千金の大チャンスなのに、他の盗賊団に会うのが怖くて手が出せないとそういうわけなのだ……

 王女は大きなため息をついた。

 さて、だとすればどうすればいいのだろう? 体力がついたらさっさと出て行くのがいいのだろうか?

 だがこいつらも恐れる別な盗賊が出るという。ここにいたら取りあえずは安全そうだ。この調子じゃこいつらに彼女を襲うほどの度胸はなさそうだし―――だが出て行って別な奴らに捕まったらどうなる? 今度こそ本当に何をされるか分からない……

 だが何としても連絡は取らなければならない。考えてみれば連絡だけなら本人が行かなくともいい。そこで王女はバーボに尋ねた。

「それでしたら手紙を届けて頂くというのはどうでしょうか?」

 だがそれを聞いても男達はうんと言わなかった。

「どうしてでしょう? これなら私を連れて行くのよりもずっと簡単でしょう?」

「あんな所に行ったら……捕まっちまう」

 彼女は少しむっとして男達の顔を見回す。どう見ても大悪党の面構えではない。

《そんなことだからナメられるのよっ!》

 王女は説教したくなったがさすがにやめておいた。迂闊なことを言って逆ギレされても困る。こうなったら仕方ない。

「それでは道を教えて頂けますか? それさえ分かれば一人で行けますから」

 こいつらがあてにできないとなれば、後は一人で行くしかない。体力を回復させて食料を分けてもらえれば何とかなるだろう。

 だがそれを聞いてまた男達は首を振った。

「どうしてでしょうか? あなた方には迷惑はかけませんわ」

「だって危ないし……」

「危なくても行かなければならないんです」

 王女はそう言って乗り出してバーボの顔を見つめた。バーボは目を逸らしてあさっての方を向いて答えた。

「もし俺たちのことが知れたら……王女様をさらったって思われたら……」

 なるほど。そういう心配をしていたのか。

「そんなことあるわけないでしょう! それでしたら心配ありません。ハビタルについてもあなた方のことは決して口外しないようにしますわ」

 だがそれにも関わらず男達は顔を見合わせるばかりで首を縦には振らない。

 そしてついに彼女はキレた。

「じゃああたしをどうしたいのよ!」

 王女は立ち上がってテーブルをどんと叩く。男達は悲鳴のような声を上げて体を退く。それを見て王女は更に畳みかけた。

「もしかしてあそこで言ってたみたいに、あたしをどっかに売る気? だからここに置いときたいの?」

 王女の剣幕にバーボが悲鳴のような声で答えた。

「しません! そんなことはしません!」

 王女はバーボの顔をじっと睨む。

「嘘、じゃないわよね?」

「も、もちろんです!」

 バーボは真っ青だ。そうだろう。もしそんなことがばれたら、それこそ全員確実に首が飛ぶ。今までの調子からこの男達にそんな度胸がありそうもないことは王女にも分かっていた。

「それじゃ、ずっとここにいろ、とそうおっしゃるわけでしょうか?」

 王女は冷たい声でそう尋ねた。

「え、あの、とにかくまだ決めてなくて……すみません」

 すみませんって―――王女は怒るのも馬鹿らしくなってきた。

 彼女は大きくため息をついてもう一度椅子に座りなおすと考えた。

 ともかくここならばとりあえずは安全だ。あのまま旅を続けていたら彼女は確実にどこかで行き倒れていたに違いない。

 同じくここを抜け出したとしても同じだろう。ならばここでしばらく方策を考えるのもいいかもしれない。出て行くにしてももっと準備をしてからでないと同じ目にあいそうだ。

 ただ、回りが見知らぬ男ばかりという意味ではちょっと不安はある。だが今の調子なら王女に手を出す勇気がある奴もいないだろう。

 だとすれば少なくとももう何日かここに留まっても悪くはなさそうだ……

 そう思った途端にどっと疲れがわいてきた。

 無理もない。この四日間飲まず食わずで森の中を歩いていたのだ。一晩寝てスープを飲んだぐらいで回復するはずがない。

 そこで王女は男達に向かって言った。

「じゃあ、どうするか決まったら教えてね」

 もう馬鹿らしくなったので他人行儀な喋り方はなしだ。

「え? は、はい……」

「それとあっちの部屋はあたしが使っててもいいのね?」

「え? はい」

「じゃあもう少し寝てるから。歩き通しでくたくたなの。夕食になったら教えてね」

「あ、はい……」

 そして王女は立ち上がって呆気にとられている男達を尻目に、元の部屋に戻ってドアを閉めた。

 それから再びベッドに潜り込む。

《いったいどうしてくれようかしら?》

 あそこではああ言ったものの、さすがにもう一人で出ていく気はしなかった。彼女はこの何日かの旅で十分懲りていた。今の調子では出て行ったところでまたどこかで破綻してしまうに違いない。

《あそこで舟から落ちなければ……》

 返す返すもあの出来事が残念だが―――済んだことをくよくよしても仕方がない。取りあえずこうやってまだ生きていられるのだ。この先どうなるか相当に不透明だとはいっても。

 それではこれからどうすればいいのだろうか?

 とにかく何としてもハビタルか、もしくはフォレスとコンタクトを取らねばならないが―――今の話ではそれはかなり望み薄だ。

 などとくよくよ考えても仕方ない。今は疲れを癒やすことの方が先決だ。体力が戻ればまた何かいい考えも浮かぶかもしれない。

 そう思ってエルミーラ王女は目を閉じると、すぐにまた深い眠りに落ちていった。


 それから何日かは王女は部屋の中でごろごろして過ごした。といっても閉じこめられていたわけではなく、疲れが抜けていなかったので単にほとんど寝ていたのだ。

 だが疲れが取れてくるとその生活は途轍もなく退屈になった。

 最初王女はアジトの中に何があるか見て回ったが、単なる森の農家のようで大した物は何もない。もちろん本などがあるはずもない。

 アジトの外に何かあるかと思って出てみれば、そこは四方が森に囲まれた小さな空き地で、どちらを向いても同じような景色が広がっているだけだ。

 また盗賊達は大抵誰かがその辺にいたが、王女を恐れているように遠巻きにして、自分たちからはよっぽどの用がない限り近づいてこようとしない。無理矢理捕まえて何か話をしようとしても、共通の話題は何もなかった。

 彼らに政治の話などをしても通じるはずもなく、それどころか彼らは現在のベラがどういう情勢になっているかさえよく知らなかった。ベラがエクシーレに攻めていったことに関しては王女の方が詳しかったぐらいだ。

 だとすれば残る楽しみは、三度の食事と寝ることしかない。

 だが寝るのはともかくとして、食事の不味さには閉口した。

 何しろここにいるのは男ばかりだ。一番下っ端のポーカが炊事当番をさせられているのだが、彼の作った食事はお世辞にもおいしいとはいえなかった。

 そして三日目、スープの中に虫が入っているのを見つけて王女はついにキレた。

「ちょっと! いい加減にしてよ! 何よ! これ!」

 それを見つけたときまだ口をつけていなかったにも関わらず、王女は吐きそうになった。だがそれを堪えて王女はスープの中から虫を取りだすとバーボに投げつける。

 バーボは情けない声を上げると平身低頭して謝り始めた。

 それからすさまじい顔でポーカを睨み付ける。ポーカは真っ青になって既に涙を流している。他の盗賊達はただおろおろしている―――そんな彼らを見て王女は、もう怒りを通り越してあきれ果てていた。

 そのときには王女はもう確信していた。彼らは小物中の小物なのだ。

 こいつらは一応名前だけは盗賊団と称しているが、大仕事など一度もやったことがなく、できることといえば道行く旅人を脅して小銭を巻き上げるか、こそ泥や小屋荒らしをするのが関の山なのだ。大体夜中に彼らがあんな所を歩いていたのも、避難小屋で寝ている旅人の荷物から財布を抜き取ってきた帰りなのだ。

 だからそんな彼らが王女を持て余すのも当然だった。

 なぜなら“エルミーラ王女”の人質としての値打ちは計り知れない。しかしそれを盾に何かしようとしたら、それ相応のリスクが発生する。

 旅人をおどかすぐらいならば捕まっても少々鞭で打たれる程度で済むだろう。だがもし彼女の身代金を得ようとして失敗でもしようものなら、確実に死刑は間違いない。そもそも彼女を保護してハビタルに連れて行くだけで多額の報酬が期待できるというのに、彼らはそれさえもびびっているのだ。

 謝り続けるバーボを見て王女は力が抜けてきた。情けないったらありゃしない。そして王女は冷ややかに言った。

「もういいわ。明日から食事はあたしが作ります。いいわね?」

 それを聞いて盗賊達は色を失った。

「ええ? そ、そんなことを王女様なんかに……」

「虫入りスープを出す方がもっと失礼でしょ! それともあんたの村ではこれが普通の料理なの?」

「いえ、あの、その、すみません。でも……」

「なによ?」

 そう言って王女はバーボの顔を睨み付ける。もちろん彼にそれに反論できるだけの度胸はない。

「わ、わかりました」

 ―――といったようなことがきっかけで、結局王女はアジトの盗賊の世話をすることになってしまったのだったが……



 そんなことを思い起こしながら王女がふっと顔を上げる。

 少しうとうとしてしまったようだ。あたりにはパンが焼けるときのよい香りが漂っている。

「あ? やっちゃったかしら?」

 王女は慌ててオーブンを確かめた。大丈夫だ。ちょうどいい具合に焼けている。最初は何回か失敗して黒こげにしてしまったからそろそろ火を落とさなければ。

 王女は急いで火を掻き出して横の竈に移した。後は余熱で上手く焼けてくれるはずだ。

 それから再び元の椅子に腰掛けるとふうっと満足そうにため息をついた。

《それにしてもグルナに色々教わっといて本当に助かったわ》

 王女は今度は最初に彼女と出会った頃を思い出した。グルナに教わっていなければそもそもこんなことは何一つできなかったに違いない。


 ―――グルナがやってきたのはロンディーネ事件の後、一ヶ月くらいしてからだった。

 あの後、当然のことながら王女はしばらく謹慎となった。それ自身は別に仕方なかったのだが、困ったのは侍女が誰もいなくなってしまったことだった。

 それも仕方のないことだろう。手を出されるのが嫌だと思った侍女がまず暇乞いし、更に残った者も色仕掛けで王女に取り入ろうとしていると言われないために止めていった。

 彼女の側にいるのはナーザだけになった。だが彼女は王女の身の回りの世話などしてくれなかった。彼女は『私はアイザック様にエルミーラ様の教育係には任ぜられましたが、侍女として仕えよとは命ぜられておりません』と冷たく言い放った。

 そしてそれならどうすればいいのかと問う王女に対して、やってくれる人がいないのであれば後は自分でするしかないと答えたのだ。

 そのときの王女は何も言い返せる立場になかった。

『分かったわよ! みんな一人でやればいいんでしょ?』

 彼女は仕方なく、半分は意地で身の回りのことを自分でしようとしてみたのだが、それは想像以上に大変なことだった。

 何しろそれまでの彼女は全てが人任せ状態だった。何か欲しくなれば手近の誰かに言えばいいし、飽きたら放り出しておけば誰かが片づけてくれる。着る服にしても気に入らなければ別の物を取って来させればいいし、決まった時間に食事を取る必要もなかった。

 だがそういうことをしてくれる人がいなくなった途端に、王女の生活はとんでもなく不便になった。

 まず普段何気なく使っていた日用品の在処がわからなかった。そのたびに広いフロアをあちこちと探し回るのだがそれだけでくたびれてしまう。

 また着替える度にクローゼットの中の服は減っていき、代わりに汚れた服の山ができていく。

 食事も決まった時間に取りに行かなければ食べられないし、ちょっとお茶が飲みたくなってもどうしようもない。

 誰かに尋ねようにも王女専用フロアには彼女以外は誰もいないし、そこから出ても王女の姿を見るなりみんなそそくさと消えてしまうのだ……

 そんなこんなで二週間もすると、王女の部屋の中はゴミの山のようになってしまった。

 それを片づけようにもどう片づけていいかさえわからないし、どうやったらそんなことになったのかも思い出せない。

 ナーザは毎日王女に会いに来てくれたが、そういった状況に関しては何一つ気にも留めていない風だった。彼女はいつも体の具合は悪くないかとかそういうことを訊いた後、さっさと帰ってしまうのだ。

 王女はその後一人残されて、ゴミためになった部屋の中でぽつんと過ごす日々だった。

 そしてついに王女はそのことに関して文句を言った。するとナーザは答えた。

『まあここにお住みになっていたエルミーラ様にお分かりにならなければ、新参の私にはもっと分かりませんわ。でもいつまでもこうしているわけにも参りませんし、それではもっと小さいところに引っ越されてはどうでしょう?』

 そしてナーザは庭の離宮があまり使われていないので、そこに引っ越そうと提案したのだった。確かにそこならば宮殿内より随分狭い。いいも悪いもなく王女はそこに引っ越した。

 だがそこに引っ越したからといって状況が大きく改善されるわけではない。

 細かい物は自分で置き場所を決めたから分からなくなることはなくなったが、食事にしても着る物にしても部屋の整頓にしても勝手の分からないことだらけだ。

 そしてしばらく彼女は我慢した挙げ句、ついに一人ではもうできそうもないから、誰か世話してくれる人はいないかとナーザに泣きついたのだ。

 するとナーザはまるで当たり前のように答えた。

『そうですわね。そういうことであれば一人心当たりがありますわ』

 彼女がそれからすぐに連れてきたのがグルナだった。

 その手際の良さに王女もナーザがずっと前から準備していたことに気が付いた。王女は当然食ってかかった。だがナーザはしれっと『エルミーラ様が必要だと言われませんでしたので』などとと答える。王女はもっと何か言いたかったがともかく現状の改善の方が先だ。

 彼女は怒りを押し殺してナーザが連れてきた娘を見た。

 その娘は新参のようで王女がそれまで見たことのない娘だった。

 だがその時のグルナの表情は今でも忘れられない―――まるで怒っているような顔で彼女をじっと睨んでいるのだ。

 そんな顔で見られると落ち着かない。王女はナーザに何故彼女が怒っているのか尋ねてみた。するとナーザはグルナは親の決めた結婚相手が嫌で逃げ出してきたので、王女付きを命ぜられても嫌とは言えなかったのだと答えた。

 王女は何かそういう弱みを握るようなやり方はあまり気が進まなかったが、王女のお付きを希望した娘が他に誰もいなかったと聞いては仕方がなかった―――こうしてその日からグルナが離宮に住み込みで王女の世話をしてくれることになった。

 こういった家事に関してはグルナは恐ろしく手際がよかった。

 王女がいくら頑張っても片づかなかったところが、あっという間に綺麗になってしまう。それを見て王女は自分の無力さを思い知った。

 今の彼女はもう“王女”ではない。そのことを知っている今、彼女はグルナだけに仕事をさせるのにひどく罪悪感を覚えるようになっていた。

 ナーザは彼女がアイザック王の跡を継ぐためには色々勉強せねばならないと言った。

 だが未だに何も教えてくれようとはしないし、どうすればいいかと訊いても自分で考えろと答えるばかりだ。中途半端に時間が空いてしまうとますます気ばかり焦ってくる。

 そこでグルナに王女は家事を手伝おうと申し出たのだった。

 それを聞いたグルナは仰天した。当然だ。王女はここの主人でグルナは侍従だ。その主人が侍従の仕事を手伝おうと言い出したのだから……

 そこで王女はグルナに自分の決意のことを初めて話したのだ。

 なぜそんな決意をしたか説明するためには結局ロンディーネ事件の詳細を話さざるを得なかった。話しながら王女はそんなことを話して理解してもらえるかどうか心配になった。彼女は呆れて逃げ出してしまうのではないだろうか?

 だが話を聞き終えたグルナはしばらくぽかんとした表情で王女を見つめるばかりだ。それから彼女は『申し訳ありませんでした。王女様』と言って跪き、王女の手を取ると自分の頬に押し当てたのだ。

 そのとき初めて王女はグルナの手の感触を知った。それまでの彼女は王女には決して体を触れようとはしなかったからだ。水仕事等で少し荒れている。だがそれはロンディーネの手を思い出させた。

 王女はどう反応していいかよく分からなかった。このままグルナを抱きしめてしまいたかったが、そんなことをしたらまた誤解されてしまうかも知れない。

 そんなことを考えているとグルナははっと驚いたように顔を上げ、ちょっと赤くなった。それから照れ隠しのように言った。

『それでは何から始めましょうか?』

 こうして王女はグルナから様々な家事のやり方を教わった。

 最初のうちは勝手が分からないことも多かったが、ちゃんと教わってみれば別段難しいことではない。そしてグルナが料理上手なことが判明すると、王女はグルナと二人で自炊するような生活になってしまった。

 それまでは食事のときは城の厨房から取り寄せていたのだが、離れからはかなりの距離があった上、城内では嫌な噂も聞こえてきたのであまり足を踏み入れたくなかったからだ―――


 ともかくこんな訳でエルミーラ王女は、王女という身分らしからぬ庶民風な料理の腕前を身につけていたのだ。そしてそのことはこのアジトの食生活にそれこそ地獄から天国へ変わるぐらいの変化をもたらした。

 王女が食事を作ると宣言した次の日、実際に彼女が作ったシチューを口にしてみて盗賊達は目を丸くして絶句した。

「どうしたのよ? 何か変?」

 盗賊達が何も言わないので王女は心配になって自分の分も食べてみた。まともな調味料がなかったので塩だけの味付けだったが、十分に煮込んであるのでよいスープは出ている。決して不味いとは思えないが―――もちろんそうではなく、盗賊達は感激のあまり言葉が出なかったのだ。

 次の瞬間盗賊達はみな無言でがつがつとシチューを食べ始めた。それはかなり多めに作っていたはずなのにあっという間に鍋は空になってしまった。

 彼らは食べ終わった後で初めてそこに王女がいたことに気づいたかのようだった。にこにこ笑いながら盗賊達を見ている王女に気づくと、今度は盗賊達は泡を食ったように礼を言い始める。王女は苦笑しながら言った。

「分かった。分かったわ。頭を下げるのはもういいから。それよりせめて胡椒ぐらい買ってきてもらえる? そのほか色々足りない物があるんだけど」

 それを聞いてバーボが答える。

「何がご入り用なんで?」

「え? 調味料が色々足りないし、せっかく小麦粉とかはあるのにイーストがないし。それにできれば着替えも欲しいし……」

 男達は顔を見合わせてから互いにうなずいた。

「えっと、いるのは胡椒とイースト、着替えですかい?」

 それを聞いて王女は男達が買い出しに行く気になったのだと勘違いした。

「一杯あるからメモするわ。何か紙はないかしら?」

 だが男達は首を振る。

「すみません。ここには字の読める奴はいないんでさ」

 王女はうっと言って言葉に詰まった。まずいことを言ってしまったか?

 だが盗賊達は全然気にしていないようだ。

「まあごめんなさい……それじゃどうしましょう?」

「順番に言って下さい。みんな覚えていきますから。ずっとこうしてましたし」

「そ、そうなの?」

 王女はともかくアジトに不足していた日用品を次々に挙げていった。それを覚えた男達は意気揚々と出かけていた。

 そしてその日の晩、王女は男達の持ち帰った品を前に頭を抱えていた。

 当然のことながら男達がまともな買い物をしてきたわけがなかった。確かに彼女が頼んだ物はみんな忘れずに持ってきていたが、なぜかそれ以外の物まで大量にあった。

 着替えは一着でいいと言ったのになぜか両腕で抱えきれないほどあるし、さらにはたくさんの本まであった。

 これを全部買ったとすればかなりの金額になるはずだが―――もちろんこれがすべて盗品であることは明らかだ。

 そのとききっちりと釘を刺しておけばよかったのかもしれない―――だが彼女は今囚われの身だ。彼らを間違って怒らせてしまったら為す術はないのは確かだ。

 それに彼らは初めての大仕事の成功に子供のようにはしゃぎ回っていた。そんな彼らを見て何となく言いそびれてしまったのだが……

 そんなこんなでうやむやの三週間が過ぎてしまったのである。


 ―――王女がふっと我に返ると、まだアジトの厨房だ。側では相変わらずポーカが本を読んでいる。

「すると……わがはいの……うしろ……から……がしゃがしゃ……いう……おとが……きこえて……きた。やつらが……おって……くるの……だ。これは……ひじようじたい……あの、ひじようじたいって何ですか」

「ああ、非常事態ね? ええと、そうね、大変なことになってしまって、普通のことをしてたんではもはやどうしようもなくなったような時のことをいうのよ」

「あ、そうなんですか。わかりました。ひじようじたい……だ。このまま……では……」

 王女はそんなポーカを見て微笑んだ―――と言いつつ、実は彼女自身が非常事態にあるのだが……

 それはともかくこのポーカが字を勉強する態度は微笑ましくなるほど一生懸命だ。王女はこんなことになるなどとは夢にも思っていなかった。

 バーボ達が大仕事を終えた次の日、王女は仕方なく彼らが持ち帰ってきた本を眺めていた。

 それはその辺の村にありがちな簡単な物語とか料理のレシピの本とかそういった物ばかりだった。

 だが暇を潰すにはそれでもないより遥かにましだ。そこで王女はその本を片端から読み始めた。

 するとそこにポーカがやってきてうろうろし始めたのだ。彼は最近では盗賊の下っ端から王女専用の小間使いと化していた。

「なあに?」

「いえ、なんでもないです」

 多分何かを言いつけて欲しいのだろう。だがとりたてて今何かして欲しいということもなかった。

 そこで王女は何の気なしに頼んだ。

「じゃあそこの東方旅行記、取って」

 それを聞いても少年は困ったように王女を見つめるだけだ。すぐ王女は思い出した。彼らは字が読めないのだ!

「あ、ごめん。そこの黄色い表紙の本ね」

 ポーカはにっこり笑ってその本を取ってくる。それを渡しながら王女に言った。

「これ……何が書いてあるんですか?」

「え? これ? 東方旅行記、知らない?」

「知りません」

 この本はかなり有名な本で、王女は小さい頃から何度も読んでよく知っている本だ。だがポーカ達には縁のない話だったのだろう。

 そこで王女は言った。

「えっとあなた、大破砕帯は知ってる?」

 大破砕帯とは東の果てとも呼ばれている地域だ。

 ベラやエクシーレの東の方は砂漠のような乾燥地帯になっていくが、それを越えた先にあるのがこの大破砕帯だ。

 その名の通りそこは大地が凄い力で引きちぎられたようになっていて、深い亀裂と高い崖がが幾重にも入り組んでいる。その上その土地の岩は非常に脆くて、とてもじゃないがそれを越えて行くことなど不可能だと言われている。

「聞いたことあります。ずっと東の方にそんな所があるって」

「そう。この本はね、その果てを越えて向こうに行ったブラッグって人の話なの」

「果ての向こうに行けるんですか?」

「さあ。この人は行ったって言ってるけど。でも本当のところはよく分からないわ。大体大破砕帯を越えるときには飛空機っていう空を飛ぶ車みたいな物に乗ったとか言うし、果ての向こうでは四つ足で喋る動物と会ったとか、もうとんでもないことばかり書いてるから」

 それを聞いたポーカは目を丸くした。

「本当なんですか? 他にはどんなことが書いてるんですか?」

「そうねえ。昔に読んだんで細かいことは忘れちゃったわ……」

 そこまで言って、王女はふっとこの少年に文字を教えてみたらどうだろう? と思いついたのだ。これは結構な暇つぶしになるのでは? そこで彼女は言った。

「じゃああたしが読み方を教えてあげるから、あなた自分で読んでみる?」

「え?」

 少年はぽかんとして王女を見る。

「読み方なんて実は全然難しくないのよ。文字っていうのはたった二十六種類しかないんだから。それさえ覚えれば何とかなるわ」

 そう聞いてもポーカはにわかには信じられないといった顔だ。本を読むなんて事は限られたエリートにしか許されない行為だと思っているのだろう。

 それからおずおずと少年は言った。

「本当に僕にできますか?」

「もちろんよ」

 といったような経緯で王女は彼に読み書きを教えることになったのだが……

「そこで……わがはいは……はらを……きめて……ひくうきの……ればー……を……ひいた。するとどうだろう。その……とたん……ひくうきは……ふわっと……うき……あがったでは……ないか……」

 横では相変わらずポーカが声を出しながら東方旅行記を読み続けている。

 王女はそんなポーカを眺めて微笑んだ。彼はこの二週間でここまで読めるようになっている。

《やればできるのよね》

 そう王女は思った。

 だがもし彼がこのようにして王女と出会わなかったら、果たしてどうだっただろう? 今後文字が読めるようになる可能性があっただろうか?

 今の状況だとそれはかなり望み薄に思われた。これがフォレスであればアイザック王の方針で小さな村でも学校がある。だから大抵の子は取りあえずは字が読めた。だがこのベラではそういった常識は通用しないらしい。

 それだけでなく村人達の生活に関しても、フォレスとは随分異なっているようだった。

 今ではこのバーボを首領とするこの盗賊団に関しても大体のことが分かっていた。

 彼らはここでは結成してからまだ半年も経っていない新参だ。メンバーは全て僻地の村で食い詰めた若者達だった。

 聞くところによると税金が重すぎて貧乏な農家は最低限食っていくのがやっとなのだという。その上盗賊などもよく出てきて村を荒らしていく。だからそういった農家の次男坊や三男坊達は仕事を求めてハビタルに出て行くしかなかった。

 だがそこでもそんなに簡単に職にありつけるわけではない。ハビタルの周辺にはそんな奴らがたむろしているスラム街もある。そこにずっと埋没してしまうこともあれば、そこから盗賊になって戻ってくることもある―――彼らは後者の方だった。

 王女は今ではこの盗賊団に少し同情していた。

 もちろん彼らのやっていることは明らかに間違ってはいるのだが―――だがあのバーボにしても目の前のポーカにしても、食い詰めさえしなければごく普通に生活できていたのではないのか?

 それまで彼女は盗賊など問答無用で処罰してしまえばいいと思ってきた。

 だが彼らをよく知ってしまった今、彼らが盗賊行為を働いたからといっていきなり処刑してしまっていいのか分からなくなってきていた。もし彼女がそういった盗賊を裁かねばならなくなったとき、どう答えを出せばいいのだろう?

《いったいロムルースはこのことを知ってるのかしら?》

 ベラの国長という立場からすれば知っていなければならないはずの問題だ。

 だが彼が実際に知っているかどうかは非常に怪しい。同時に王女は自分の立場としても少し心配になっていた。

 彼女は今までいろいろ勉強してきたつもりだったが、ベラがこんな風になっていることは知らなかった。

 ならば実はフォレスだって同じようなことになっていないとも限らないのでは?

 そう思った途端に王女は自分の責任を感じて気が重くなってきた。

 もし彼女がベラの国長だとすれば一体何をすればいいのだろうか? これが王女であればそんなことは考える必要はなかった。

 だが彼女はそれを考えてなおかつ答えを出さなければならないのだ。

《本当に王様って大変ね……》

 そのことは十分に分かっていたつもりだったのだが……

 王女はため息をついた。

「あの、王女様、なにかお加減でも……」

 見るとポーカが心配そうに彼女の顔を見つめている。よっぽど鬱な表情をしていたのだろう。王女はポーカに微笑みかけた。

「いえ、何でもないのよ。それよりそろそろパンが焼けたみたいね。お皿を出してちょうだい」

「はいっ!」

 オーブンから焼きたてのパンを取り出して皿にのせていると、その匂いをかぎつけたのか別の若い盗賊がやってきてまた後ろの方でうろうろし始めた。

「何? フークス」

「え? いえ、その、な、何か手伝うことはないですか?」

「ああ、それじゃ全員分のお皿を食堂に運んでくれない?」

「わかりました!」

 フークスは嬉々として皿やその他の食器を運び始める。そんな姿を見て王女は心の中でため息をついた。

《まったく……》

 もしこんな状況でなければかなり幸せな光景だと言えるだろう。グルナに色々教わりながら暮らした離れでの何ヶ月かはまさにこんな感じだった。

 そのときはグルナの後ろでうろうろしていたのが王女自身だったのだが……

 だがいつまでもこの調子でいるわけにはいかない。どうにかしてハビタルかガルサ・ブランカに連絡をつけなければならない。

 しかし一体どうすればいいのだろうか?

 彼らは王女のために“大仕事”をしたせいで、前よりはかなり自信を持ち始めている。だが彼ら以外の盗賊を恐れているのは相変わらずだ。

 フォレスの面々は彼女がこんな所にいるなんて夢にも思っていないに違いない。とにかく脱出するなり連絡をつけるなりしないことには永久にこのままのような気がしてくる。

 だが脱出行のことを考えると気が重かった。王女はひしひしと自分の力のなさを痛感していた。だとすれば残る方法は……

《いっそのことあたしがボスになってやろうかしら?》

 この際開き直ってこの男達を指揮してみたらどうだろう? 盗賊団のボスというのはちょっと魅力的な稼業だ。今の状況なら彼女が本気で煽れば彼らは付いて来るかもしれない。

 だが―――彼らは腕っ節という意味でも少し頼りない。他の盗賊団とタメを張るには正面からの喧嘩では分が悪いかも……

《何考えてるのよ!》

 自分の考えていることに気づいて王女は苦笑しながら首を振る。いけないいけない。一国の王女が盗賊を率いて他国を荒らし回ったなんていったら、それこそ国際問題だ。何か完全に本末転倒した状態になってしまう……

 だがこんな生活がずっと続いてしまったらどうだろう?

 そんなことになったら―――彼女はいつかキレて本気でそういうことを実行してしまうかもしれない。そんなことになったら……

 だから、そうならないように方策を考えなければならないのだ!

 そのときフークスがもどってきて言った。

「他にすることはないですか?」

「大体終わりね。みんなはどこ?」

「外にいます」

「じゃあ呼んできて」

「わかりました!」

 出て行くフークスを見送ると、王女は再度あたりを見回した。

 取りあえず夕食の準備はOKだ。後はシチューを食堂に運んでいくだけ―――そう思ったときだ。 表の方がなにやら騒がしくなる。

「どうしたのよ?」

 王女がポーカに尋ねるが、彼も肩をすくめた。

「見てきます」

 そう言ってポーカは出ていった。

 王女も気になったので、手を休めて表の騒ぎに耳を傾けた。

 なにやら怒声が聞こえる。

「なんだ? てめえは! 一人で来やがったのか?」

 バーボの声だ。なんだろう? 喧嘩か?

 彼らは力のありあまった若い男達なので、つまらないことでよく喧嘩は起こっていた。最初はそれに驚いていた王女も、すぐに付き合うだけ馬鹿らしいと分かっていた。

 だが今回は少し様子が違うようだ。あの言い方だと外部から誰かが喧嘩を売りに来たのだろうか?

 だがそれに対する答えを聞いた瞬間―――王女は自分の耳を疑った。


「だったらどうだって言うのよ?」


 それは女の声だった―――しかもとんでもなく聞き覚えのある声だ!

 王女は弾かれたように立ち上がった。

「なめやがって! たたんじまえ!」

 続いてバーボのわめき声が聞こえる。

《いけない!》

 王女はそのまま隣の部屋に駆け込んだ。ポーカが驚いて振り向く。

「だめよ!」

「え?」

「みんな死ぬわ! 早く止めて!」

「え?」

 ポーカは状況が理解できずぽかんとしている。

 王女は少年を押しのけるとそのまま表に飛び出した。同時に盗賊達の悲鳴が聞こえる。

「やめて! みんな!」

 王女は叫んだ―――だが少し遅かったようだ。

 彼女が目にしたのはまさに想像通りの状況だった。

 アジトの前庭の中央付近にアウラが立っている。手にはあの薙刀が握られている。

 彼女は何人かの盗賊に取り囲まれているが、ほとんどは既に地面に倒れたり膝をついてうずくまっている。そのうち一人が手を押さえてのたうち回っている。見ると手首から先がない!

 立っている男達もそれを見て完全に逃げ腰だ。

 王女の叫び声を聞いてアウラが振り返った。

「ミーラ!」

 飛び出してきた王女を見て、アウラの顔に喜びの表情が走る。

「てめえ! 何しやがる!」

 その隙に盗賊の一人が斬りかかろうとした。だがアウラはその方をろくろく見もせずに、薙刀を振った。その刃が男の剣をはじき飛ばすと、次の瞬間切っ先が男の喉元にぴたりと合わされている。

 それを見た盗賊達は、本気で恐怖を感じたようだ。

「アウラ! もうやめて!」

 王女は叫んだ。

「え?」

 アウラに驚きの表情が浮かぶ。王女はそのままアウラに駆け寄った。それから盗賊達に向かって振り返る。

「あんた達もやめなさい! かなう相手じゃないわ!」

 盗賊達はおびえた表情で後ずさった。中にはへたり込んだ者もいる。それから王女は振り返ってアウラを抱きしめた。

「アウラ! 来てくれたのね?」

「ミーラ!」

 二人はそのまま抱擁しあった。盗賊達はそのときなら逃げようと思えば逃げられたかもしれなかったが、体がすくんで何もできない様子だった。

 と、後ろからまた聞き慣れた声がする。

「アウラ! エルミーラ様は中にはいないわ」

 そう言いながら出てきたのは、ポーカの首根っこを掴んだナーザだ。彼女にアウラが叫ぶ。

「こっちよ!」

「ナーザ!」

「エルミーラ様!」

 王女とアウラを認めてナーザが駆け寄ってきて二人を同時に抱きしめた。

「無事だったのですね? 何もされませんでしたか?」

「ええ。大丈夫よ」

 それを聞いてナーザは心底ほっとしたような顔をした。

 それから彼女は盗賊達の方を振り返って、冷たい声で尋ねる。

「あなた達がエルミーラ様をさらったの?」

 盗賊達はおびえて声も出ない。それを見て王女が言った。

「だめ! 彼らが助けてくれたの。悪い人達じゃないのよ……まあその盗賊だけど」

「え?」

 ナーザとアウラが驚いて王女の顔をのぞき込む。

「だってこいつら、あなたをさらったんでしょ?」

 アウラが言った。

「それはそうなんだけど」

「じゃあ成敗しなきゃ」

 そう言ってアウラは薙刀を構え直す。

「た、助けてくれ!」

 バーボが情けない声で叫んだ。

 王女は慌ててアウラの薙刀を押さえた。

「そこまですることはないのよ。それより早くアストラルの血を止めなきゃ。死んじゃうわ」

 王女は手首から先を失って呻いている盗賊の側に駆け寄った。

 あたりは血まみれだ。王女はそれを見て少し気分が悪くなった。アウラが慌てて王女に肩を貸す。

 それを見て仕方ないといったようすでナーザがアストラルの側に寄った。見ると手首から先がすっぱりと綺麗に無くなっている。

 それを見てナーザは盗賊達に言った。

「あなた方、何か縛る物は持ってません?」

 だが男達は完全に腰を抜かしている。

 ナーザはふっとため息をついて、自分のハンカチを取り出して男の手首を縛った。

「取りあえずこうやって動かさないこと。いいですね?」

 アストラルは黙ってうなずくだけだ。

 それが終わるとアウラとナーザはよく分からないという表情で王女を見た。

 その疑問を感じて王女は答えた。

「まあ、とにかく話は中でゆっくりしましょ。ちょうど食事もできた所だし」

 それを聞いたナーザが言った。

「そういえば中には食事ができていましたが……あれはエルミーラ様が?」

「食事? じゃあミーラがこいつらに作らされてたの?」

 再びアウラがバーボを睨んで薙刀を向けた。バーボはまた真っ青になる。

「違うのよ! とにかく中に! 話はそこでね」

 王女は二人を引っ張ってアジトの方に押しやった。それからバーボ達に向かって叫ぶ。

「ちょっと! あんた達いつまで腰を抜かしてるの? さっさと来なさい!」

 その声に慌てて男達がよろよろと立ち上がる。

 ナーザとアウラは目を丸くしてその姿を見つめていた。


 彼らがアジトに入ると三人は残りの怪我人の手当をした。

 幸いにも男達はアウラに適当にあしらわれただけだったので、命に関わるような傷を受けた者はいなかった。

 彼らはある意味ど素人だったことが幸いしたのだ。もし彼らがもう少し手練れの盗賊だったら間違いなく命を絶たれていたことだろう。だが、彼らのあまりにも低いレベルにアウラは少し戸惑っていた。おかげで王女が出てくるのが間に合ったのである。

 怪我人の手当が終わると、王女とアウラ、そしてナーザは再度抱擁し合って再会を喜んだ。

「ともかく座ってちょうだい。お腹減ってない?」

 その言葉を聞いてアウラはふんふんと鼻を鳴らした。

 アジトの中にはシチューと焼きたてのパンの香りが充満している。途端に彼女は空腹を感じたようだ。

「うん。実はぺこぺこ。朝からずっと物が喉通らなくて」

「ナーザもどう?」

「ええ。頂きます」

 それはナーザも同様だった。

 彼女たちはその日はほとんど食べる間も惜しんでアジトの探索を続けていたのだ。

 二人は王女の作ったシチューとパンを食べ始めた。一口食べるなりアウラが言った。

「おいしい! ミーラってこんなの作れたんだ!」

「あら? 言ってなかった?」

「昔グルナと一緒に自炊してたってことは聞いたけど……」

「エルミーラ様、腕は落ちていませんね」

「あらそう?」

 三人がそんな会話をしながら食事をしている間、盗賊達は蛇に睨まれた小鼠のように部屋の隅で固まっていた。

 彼らも食事の分け前はもらったのだが、恐ろしさでろくろく喉を通らないようだ。

 だが王女は嬉しさで胸一杯だった。彼女は尋ねた。

「それでどうやってここが分かったの?」

 それを聞いてアウラが答えた。

「クレアスに変な盗賊が現れたって聞いたから。女物の服とか本とかを盗っていったとかで。それでこのあたりの猟師に聞いてそいつらの居場所を探してたの」

「ああ! そんなとこから分かっちゃったのね?」

「うん。でもエルヴールの滝で舟がバラバラになってたときはもうどうしようかと思ったんだから」

「へ?」

 王女はアウラの言っていることがすぐには分からなかった。

 ぽかんとしている王女に向かってアウラが続けた。

「追っ手を撒くために舟から降りたんでしょ?」

 王女は恐る恐る尋ねた。

「えっと……なに? あの下流にそんな滝があったの?」

「うん。凄い滝だったのよ。おかげでバラガスの奴はそこでミーラが死んだと思って諦めてたんだから。どうやったらあんな作戦思いつけるの?」

 それを聞いて王女は背筋がぞっとした。それではもしあそこで舟から落ちなければ……

「あは、あはははは! そうね。凄かったでしょ」

 だがアウラはともかく、ナーザは訝しげな表情だ。どうやら態度が不自然なことに気づいたらしい。王女は慌ててごまかした。

「それにしてもよくあたしがベラにいるって分かったわね?」

 それを聞いてアウラとナーザが顔を見合わせた。

 王女はその理由が分からなかったが、ともかく今までの経緯を順次話そうとした。

 今回のことは、西の塔から抜け出してアサンシオンに行ったときに匹敵する大冒険だ。それにこのベラの現状についてはいろいろ考えることもある……

 だがナーザが暗い顔でそれを止める。

「あまり時間がないの。そういう話は旅をしながらにしましょう」

「ええ? 旅って今から? 今日は泊まっていったら?」

 もう外は暗くなってきている。夜の旅が剣呑なことは王女は身を以て体験済みだ。

 だがナーザが言った。

「いえ。事は急を要するのです」

 その表情は冗談を言っているとは思えなかった。

「一体どうしたというの?」

 その問いにナーザは手短に、現在フォレスとベラが戦争状態あることを話した。

 王女の喜びは一瞬でどこかに消し飛んでしまった。

「ええええ? ルースが、フォレスを?」

「そうなんです。多分誰かに騙されてるんだと思うのですが」

 王女は目の前が真っ暗になった。それから思わず立ち上がって叫んでいた。

「何なのよ! あのバカ!」

 ベラがエクシーレに攻め込んだという話を聞いて、それだけで王女は心配して眠れない夜を何度も過ごしたぐらいだ。ここに来てからもそのことは片時も心を離れたことはない。

 だが数日前、ベラ軍がエクシーレから撤退したという話を聞いたばかりだ。だからそちらの方は片づいたとばかり思っていたのだが……

「そういうわけですので、とにかく急いで戻らなくては」

「もちろんよ!」

 こんな状況ではもはや悠長に寝てなどいられない。王女は残りのシチューを大急ぎで掻き込むと、大慌てで旅支度を始めた。

 支度が整うと王女がバーボに言った。

「表の馬、一頭もらってくけどいい?」

「え? は、はい」

 バーボがうなずく。それから王女はナーザに言った。

「ごめんなさい。ちょっと小銭持ってる? 銀貨でいいんだけど」

「え? ありますが?」

 ナーザは王女に銀貨を渡した。それを受け取ると王女はポーカに話しかけた。

「それからポーカ」

「え?」

 ポーカが慌てて顔を上げる。王女はポーカに銀貨を握らせた。

「これはあの本の代金。お店に払ってきなさいね。それから読み書きの練習はずっと続けなさい。いつか絶対役立つわ」

 王女がポーカに微笑みかけると、少年は感激のあまりしばらく声が出なかった。

「あ、ありがとうございます!」

 それから王女は盗賊達全員を見渡して宣告した。

「最後に忠告しておくけど、あんた達こんなことさっさとやめた方がいいわよ。全然向いてないから。アウラが優しかったからよかったけど、次は命がないわよ」

 男達は返す言葉もなくうつむくばかりだ。

「あ、それから盗ってきた服とか、元の所に返しておいてね。でももう売り物にはならないかもしれないわね……それじゃ、後であたしが代金を払いに来るからって言っといて」

「でも、しかし……」

「何か、文句があるの?!」

「い、いえ……」

 王女は目を白黒させているバーボに微笑んだ。

「どうもありがとう! でも結構楽しかったわよ!」

「……」

 呆然としている男達を残して、三人はアジトを後にした。