賞金稼ぎは楽じゃない 第1章 二人の旅立ち

賞金稼ぎは楽じゃない


第1章 二人の旅立ち


 直接のきっかけは今から一週間ほど前、アイフィロス王国の都ラーヴルの一角にある宿屋の一室で起こった。

 その日フィンは窓からラーヴルの町並みを眺めながら物思いに耽っていた。

 アウラはちょっと使いに行っていて今は留守だ。この何ヶ月間かはほぼずっと二人一緒だったので、こんな風に一人でぼうっとするのは久しぶりだ。

 そのせいか、以前だったら別段気にもならなかったのに、今回はなぜかぽっかりと間が空いてしまったようで妙に落ち着かなかった。

《あいつまだ帰ってこないのか?》

 預けていた物を取りに行っただけなのだが、こんなに時間がかかる物なのだろうか?

 だからといって別に心配なわけでもなかった。少なくとも悪い奴に襲われてどうこうなんて事はあり得ない。どうせまた鍛冶屋小路で引っかかっているのだろう。

 フィンはふっと一人笑うと、また窓の外を眺めた。

 緑に覆われた美しい町並みだ。遠くにはラーヴル城の尖塔が見える。その光景はフィンの心に何となく染みいる物があった。

 それはここが珍しい場所だからではない。ここにはアウラとまだ出会う前にしばらく滞在したことがあったから、町その物は見慣れている。

 だがそのときにはこんな風にこの町並みを眺めることがあるとは思ってもいなかった。

《全く……先が読めないってのはこのことだよな……》

 フィンにとってもアウラにとっても人生を賭けた大勝負だったあの“セロの戦い”から一年半。

 あれからはもう何が何だか分からないうちに過ぎてしまっていた。

 それまでなら、明日も今日と同じように過ぎていくのだと思っていて何の支障もなかった。二人とも自分の明日について深く考えたことさえなかった。

 それは、何の因果か二人でフォレスにたどり着いた後も大差なかった。

 確かにフィンがアイザック王に、アウラがエルミーラ王女に仕えるようになると、二人の生活は一変してしまったのだが―――それでもやはり、明日は今日の延長だと考えて何ら差し支えはなかったのだ。

 そんな二人が本当に心配だった事項といえば、それはお互いのことについてだけだった。

 だが、あれから何かが変わり始めた。

 事件そのものは何とか解決できたし、二人の間の問題にも決着がついた。これで案ずることは何もなくなった、またいつもの日常が戻ってくる……

 そのときはそう思えたのだが―――それは始まりでしかなかったのだ。



 最初の大誤算は、凱旋式が終わった途端にエルミーラ王女がベラに行ってしまったことだ。

 もちろん王女が行くのならアウラも付いていく。

 あの事件は結果的に、アウラが王女の側を離れてしまったことがきっかけだった。彼女はそのことに心底責任を感じていた。だから行くなと言っても聞き入れてくれるわけがない。

《まったく……いきなり半年も行っちゃうんだもんなあ……》

 少なくとも冬の間はアウラとじっくりと親交を暖められると思っていたのに、いきなりの肩すかしを食らってしまったのだ。

 そんな調子で悶々と冬越しした後、王女達がフォレスに戻ってきたのは五月にもなってからだ。それでやっと落ち着けると思いきや、今度はフィンの方がやたらに忙しくなってしまう。

 彼は今やアイザック王の相談役として重要な会議には大抵出席を求められるようになっていた。もちろんまだ若輩者ではあるから、基本的には会議に出て聞いているだけで良かったのだが―――それでもフォレスの機密事項を聞いてしまう立場にある。

 それだけでも緊張して疲れてしまうのだが、アイザック王は会議の途中に良くふっとフィンに意見を求めることがあった。

 もちろん王は“答え”を求めているのではなかった。

 しかしフィンが何も言えなければ王の期待を裏切ってしまうことになる。だがそんな質問に準備しておくには、会議の議題についてよく分かっていなければならないし、必要ならば調査もしておかねばならない。

 そのため重要な会議があると、前の晩は夜遅くまで調べ物をしなければならないことも多かった―――すなわちそれはアウラの相手をしてやれないということを意味していた。

《それがなくても打ち合わせとか、東の戦線の視察とかいろいろあったし……》

 またアウラはアウラで同様に多忙な生活を送っていた。

 エルミーラ王女はフォレスに戻ってからも王の補佐という役割でいろいろ精力的に動き回っていた。そうなれば当然アウラも側に控えていなければならない。

 またあのリモンという侍女が薙刀の腕を上げて、驚くことに親衛隊のメンバーになってしまったのだが、そんな彼女の訓練もアウラにしかできない役割だ。

 そして王女の例の“息抜き”のときはなおさらだ。そのような場所で王女を守れるのはほぼアウラしかおらず、そんな日は当然一晩中戻って来られない。

《そのあたりってガリーナが来て何とかなったのかな?》

 実はその頃は王女もいろいろあってご休息には行けていなかったのだが、フィンはそういうことに気づく余裕もなかった。

 ―――ともかくこのような生活が続いていくうちに、フィンとアウラは段々心配になってきた。

 エルミーラ王女もフィンもまだ半人前である。それでこれだけ忙しいのだ。

 だとしたら王女が王位を継承し、フィンやアウラにもっと責任が増えてきたとしたら一体どういう事になるのだ? もはや二人の共通の時間なんて物理的に存在し得ないのでは?

 ならばアウラには警護の任を引退してもらって、フィンと結婚するしかないのだが……


 結婚だって⁈


 彼女がお屋敷の奥方として収まっている姿なんて、全く想像が付かなかった。

 だが、いつまでも城内に間借りしているわけにもいかない。いずれは、それもかなり近い将来どこかに屋敷を構えて移り住む必要があるし、そういった話も既にある。

 そのような場所にアウラを押し込めておくというのは―――捕まえた小鳥を籠に入れて飼っているようなものではないか? 野鳥は大空を羽ばたいているときこそが美しいというのに……

 そんな調子で夏も終わりに近づき、不安が焦りになりかけていたある日、フィンはアイザック王から招喚を受けたのだ。


 ―――彼が王の居室に来てみるとそこにはエルミーラ王女の姿もあった。

 彼女の後ろには当然のようにアウラが控えていたが、フィンが微笑みかけても何故か無視されてしまった。

 だがそれを追及している暇はない。王がフィンに話し始めたのだ。

「良く来たな。さあそこに座ってくれ」

 フィンは慌てて礼をすると言われた通りに腰を下ろす。それから王に尋ねた。

「今日は一体どのようなご用なのでしょうか?」

 こんな風に呼び出されるような理由が思いつかない。

 しかもエルミーラ王女までがいるというのは、いったい何なのだろう? 最近アウラが何かしでかしたという話も聞かないし……

 アイザック王はフィンの問いを聞いてにっこりと微笑んだ。

「うむ。それなんだがな」

 フィンは少し嫌な予感がした。

 アイザック王がこんな言い方をするときは大抵腹に一物ある時だ。

 しかもエルミーラ王女も何か妙に取り澄ました顔をしている。

 彼らとのつき合いはもう結構になる。こんなときには絶対何かを仕掛けて来るのは間違いない……

 そんなフィンを焦らすように、王は中原地帯の情勢について話し始めた。

「……ル・ウーダ殿もご存じの通り、中原ではレイモンが不気味な沈黙を保っておる。それを取り巻く小国同盟もとりあえずは機能してはいるが、そろそろだいぶガタがきておるな」

「はい。あれからまだ大きな動きはありませんね」

「ああ。だがいつ動いてもおかしくはないな?」

 それから王は最近平原でレイモンの軍が配置転換したという報告に関して話し始めた。

 フィンは黙って聞いていたが、これは先日の会議でも出てきた内容だ。その場に彼もいたし、どうしてここで蒸し返すのだろう?

「……とまあ、ここまではル・ウーダ殿もご存じの内容だ」

「はい」

 どうやらここからが本題らしい。

「で、ちょっとル・ウーダ殿にお頼みしたいのだが……」

 ほら来た! フィンは身を乗り出した。

「はい。どのようなことでしょうか?」

「ああ。そういうわけなのでな、ル・ウーダ殿に中原の情勢を実際に見てきてもらおうかと思うのだよ」

 ………………

 …………

 ……

 なんだって?

 それから恐る恐る訊き返す。

「は? 私がですか?」

 王は当然というようにうなずいた。

「えっとすみません。すなわち私が中原まで行って見てくるということでしょうか?」

「ああ。そうだ。ル・ウーダ殿ご自身に見てきてもらいたいのだ」

「えっと、あの……」

 いきなりの事にフィンは混乱した。それを横目に王は話し続ける。

「前にも言った通りル・ウーダ殿にはフォレスの外交も担当して頂こうかと思っているところだ。そのためには様々な国に関する見聞を広めておかなければならないだろう? もちろんここにいても色々な情報は集まってくる。だが人から聞くのと自分の目で見てくるのでは全然異なっているものだ」

「はい。その通りですが……中原といってもかなり広いですし……」

「そうだな。結構期間は必要であろうな。最低小国連合の各国とレイモンは見てこなければならないだろうから、そうだな、一年ぐらいは見ておかねばならんだろうな」

 王は平然と言った。

 フィンはちょっと気が遠くなってきた。

 一年だって?!

《じゃあ……一年間アウラと離ればなれになってしまうのか?》

 フィンは慌てて王と王女の顔を見たが―――王はからかっている様子ではない。

 ならばこれは国家の任務ではないか? そこまで王はフィンを信頼してくれているのか? だとすれば―――アウラとちょっと逢えなくなることを気にしてなんていられないだろう?

 でもちょっと?

 ちょっと――― 一年の間?

 ………………

 フィンは横目でアウラの表情を見た―――だが彼女は無表情だ。事の重大さに気づいていないのだろうか?

 そのときだ。今度はエルミーラ王女が口を挟んだ。

「でもお父様、フォレスにとっては中原だけでなく、エクシーレやベラといった旧界も重要ですわね。ル・ウーダ様は都出身ですからこちらの方も見て頂いた方がよろしくありません?」

「え?」

 呆然として王女の顔を見るが、彼女も大まじめな表情だ。

 フィンは王に目を戻す。

《ちょっと待ってくれよ……エクシーレとベラって、二国とはいっても結構広い地域だぞ? そこまで含めたら一年どころか、二年くらいはかかっちゃうんじゃ?》

 フィンはさすがに王もそれは拒否するだろうと思ったのだが―――予想に反して王はうなずいた。

「うむ。それもそうだな」

 フィンは慌てた。

「えっと、あの、大変興味深いお話です。私もまだ色々見てみたい物もありますし、その、旅をするのは結構好きですし、でもそのさすがに二年ともなりますといろいろ費用もかかりますし……」

 だが王はあっさりと答える。

「うむ? ル・ウーダ殿が費用の心配はなさらなくても良いぞ。中原の生の情報にはそれだけの価値があるからな。それにシルヴェストのアラン殿や、サルトスのハグワール殿にはこちらから支援してもらえるように連絡しておくことにする。何かあっても頼れるようにな」

「ああ、でしたらよろしいのですが……」

「では受けてもらえるかな?」

 王はにこにこ笑いながら返答を迫る。

 フィンは何かまずい理由を必死に考えようとしたが、当然ながら思いつくはずもない。

 ―――というか、この旅自体は実際に願ってもない話であるのだ。

 王の言った通り、実際にこの目で中原を見ておくのとおかないのでは天地の差がある。フィン自身もいつか機会があれば各国を実際に見てきたいと思っていたのだ。

 フィンはまたちらっとアウラを見る。

 だがアウラは下を向いてこちらを見ようともしない。

 どうしようか?―――ここでアウラに行っていいのかと尋ねたい所だが、王の目前だ。

 大体アウラがだめだと言ったからといって、王命を拒否する理由になりようがない。

 フィンは半ば諦めてうなずいた。

「はい。承知しました……」

 だがフィンの態度が煮え切らないことに気づいたのか、王が尋ねた。

「ん? 何か心配事でもあるのかな?」

「いや、その」

 言うか? いや、言えるはずがない―――アウラと離ればなれになるのが嫌だから行けないなどと……

 大体アウラの方は嫌とも言わずにああしてベラまで行ってきたではないか? 今度はフィンの番というだけだ―――フィンは何とかそうして自分を納得させようとした。

 そのときまたエルミーラ王女が口を挟む。

「お父様。ル・ウーダ様はもしかして道中危険なことに会わないかどうか心配なさってるのでは?」

 それを聞いて王も何か芝居がかった様子でうなずきながら言った。

「おお。そういえばそうだな。ならば護衛の者が必要になるかな?」

「え? まあ、その」

「だとするとガルガラスが良いかな?」

 王女は答えた。

「え? でも彼は大隊長として東の国境警備に赴任しているのではありませんか?」

「おお、そうであったな。でも長い旅路だ。気心の知れているものでないとな?」

「そうですわね。それではル・ウーダ様。アウラなどは如何でしょうか?」

 フィンはもうどうにでもしてくれという気持ちで二人の会話を聞いていたので、王女にいきなり問われて椅子から転がり落ちそうになった。

「え? で、でもそれでしたら王女様の警護は……」

「最近リモンも良くやってくれますし、ガリーナもいますからそちらの方は何とかなりますわ」

 それを聞いた王が言う。

「だがその前に本人の意志は確かめておかねばな」

 王女はにっこりと笑った。

「そうね。アウラ。どうする?」

 王女の問いにアウラは待ってましたとばかりに答える。

「行きます!」

「だそうですが、ル・ウーダ様、如何でしょうか?」

 そのときになってやっとフィンは、王と王女は最初っからそのつもりだったことに気がついた。

「ね、願ってもございません。光栄です」

「それでしたらこちらとしても残念ですが、しばらくアウラをル・ウーダ様にお貸し致しますわ」

 フィンは返す言葉もなく黙って礼をするのみだった。

 それから顔を上げてアウラを見ると―――彼女も苦笑いを浮かべながらフィンに手を振った。どうも彼女もこの芝居に強制的に参加させられていたらしい。

《はあ……もう……》

 そんな二人を見て王がにやにや笑いながらうなずいた。

「だが忘れてもらっては困るぞ? これは公務だということをな。彼女と二人だからといってあまり羽目を外してもらってはな」

「は、はい」

 フィンと、今度はアウラも一緒に真っ赤になってうなずいた―――


 と、まあ、こういった経緯で二人の“視察旅行”が始まった。

 後から聞いた所では、これを発案したのはエルミーラ王女だったらしい。彼女もまたアウラがフィンになかなか逢えずに悶々としていることに気づいていたのだ。

 これが普通の侍女であれば代わりはいくらでもいるから、さっさと後任を見つけて嫁がせてしまえばいい。

 だがアウラはある意味、比類なき存在だった。

 薙刀の腕もそうだったが、それ以上に彼女の“勘”が非常に重宝されていたのだ。

 というのは彼女はいつか王女警護の任に就くためのテスト時に見せたように、不審な挙動をする者を見分けるのに非常に長けていたのだ。

 ベラに行った際に王女は当地の反王女派に二度!も襲撃されたのだが、最初のときはアウラが真っ先に見つけていたために、刺客が動いた瞬間もう取り押さえられていたという。

《二回目のときはメイが大変だったみたいだけど……》

 何でもサルトスの王女様に彼女が主賓として招かれた川遊びだったそうだが……

《なんかすごい人と知り合いになってるよなあ……》

 今回の視察でサルトスに寄ったときには、イービス王女とアスリーナという魔法使いの人によろしくお伝え下さいと頼まれたりもしているが……

 彼女と一緒にハビタルに行ったのはもう一昨年になる。あれ以来彼女とはあまり話す機会はないのだが、今では王女の秘書官としてずいぶん頑張っているらしい。

 ―――そんな感慨はともかく、そんなわけで少なくとも昨年の時点ではベラの、特に田舎の地域ではまだまだ彼女の悪い噂を信じている者も多かった。

 王女はそんな危険な地域にも平気で出かけて行ったのだが、それができたのもひとえにアウラが一緒にいたからだ。

 彼女は王女からそれだけの信頼を勝ち得ていたのである。

 またアウラ自身もそれが半ば生き甲斐となっていた。

 これは彼女の持って生まれた能力を最大限に生かせる職であったからだ―――そしてそういう状況だったからこそ、敢えて王女は今度の視察旅行を計画してくれたのだ。

 それはすなわち、二人に二年ほど休暇をあげるから、それが終わったら一生こき使われなさい! という意思表示である。しかも休暇の間も遊ぶばかりじゃなくて、各地を回って色々勉強して来なさいということでもあって……

《ま、タダで行かせてもらえるわけはないんだけどな……》

 そう考えるとこれは果たして良い取引なのかどうか分からなかった。

 だからといって、フィンもアウラも怒る気にはなれなかった。

 なぜならエルミーラ王女にはもうそんな休暇などあり得ないことを、彼らもよく知っていたからだ。

 フィンもアウラも、そんな彼女のためならば残り人生を捧げてもいいという気持ちになっていた。

 また今のうちならば状況も切迫していないからこんな余裕もあるが、これがもし中原で動乱が起こった後となれば、もはやそんな機会は永久にやってこないだろう。

 だから今はこの幸運を最大限に利用するしかない。その後のことはその後だ!―――ということで、昨年の夏の終わりに二人はガルサ・ブランカを旅発ったのである。



 出立がその時期とするならば、まず問題になるのが冬越しをどうするかだった。

 低地ならともかく、山がちな国で冬に移動するのは厳しい。

 そこでまず秋から初冬にかけてエクシーレ王国内を視察して、それからベラに行って王女一行と合流してその視察に同行し、翌年の春に山を越えて中原へ行くスケジュールになっていた。

 エクシーレを通ってベラに行く過程はほぼ問題なかった。

 ここはフォレスとは代々国としては仲が悪い所だが、そこに住む民衆にとっては基本的に関係のないことだった。

 そもそもフォレスを通じた交易がなければエクシーレの人々は生活していけない。だから紛争の収まっているときなら誰でも普通に旅行できた。実際国境の関所でフィンがフォレスから来たと言っても特に何も言われなかった。

 ここに足を踏み入れてみて、フィンは自分の目で見ることの価値を本当に実感した。

 フィンにとってエクシーレ王国は初めての土地だ。

 ここは古い歴史を持ち、都や中原、フォレスやベラといった国ともずいぶん違った文化を持っている。

 実際、白銀の都にもベラ首長国にも与さない唯一の国であったのだから。

 そういった知識ならばフィンもかなりあったのだが、その土地を歩いてみて初めて、書物からは伝わらない空気という物が感じられるものだ。

 例えば内陸の国エクシーレは半ば砂漠に近い乾燥した国土で、領内に大きな湖もない。エストラテ川下流の喜びの海近辺は別だが、ここは長年ベラとエクシーレの間を行ったり来たりしている地域だ。そのためエクシーレの人々は海という物に非常に大きなあこがれと恐れを持っている、と物の本には書いてあった。

 だが実際に来てみると、人々は別段そんなことは気にもしていないようだった。

 だがその反面フィンが驚いたのは、白銀の都に対する感情だった。

 彼の聞いた伝説では、エクシーレ人の祖先は七つの家族を引き連れて西に渡っていった大聖に『置いて行かれた』のだとされていた。だからフィンはエクシーレの人々はさぞや都のことを嫌っているだろうと思っていたのだが、実際はなぜかその逆だった。

 フィンが話を聞いた村人は、せっかく大聖が山の向こうの肥沃な地を約束してくれたのに、グズグズして行かなかったのが悪いのだと言って、自分の祖先の方を責めていたぐらいだ。

 多分彼らにとってリアルなのは目前の敵ベラであって、遥か彼方の山中にある白銀の都は伝説の存在に等しかったのだろう。

 そんな感じでエクシーレ国内の旅はなかなかに有意義だったのだが、これがベラに来るとがらっと雰囲気が変わってしまった。

《いやもう、何かいきなり大変なことになってるし……》

 エクシーレの旅はまさにアウラとの新婚旅行といった風情だった。

 実は彼らが出立してすぐ、ベラとエクシーレの歴史的な和平会談が行われるなど、政治的な大激動状態に突入していたのだが―――フィン達は全くそんなことは知らずに呑気に旅をしていたからだ。

《ナーザさん、黙ってるんだもんな……》

 フォレスからエクシーレに向かうとすぐに首都グラースに着く。そこに使節として来ていたナーザと出会えて少し話ができたのだが、彼女は『今回はいい報せを持って帰れそうだから』などと言いつつその内容は教えてくれなかったのだ。

《ま、気を使ってくれたんだろうけど……》

 確かにそんな話が持ち上がってるなんて分かったら、おちおち旅などしてられなかっただろうが―――結局彼らがその話を聞いたのは会談が終わった後、エクシーレのとある村の宿屋のうわさ話でだった。

 さすがにフィンは仰天したがもはやどうすることもできず、王女達と合流したときに詳しく話を聞こうと思うしかなかった。

 そんな調子でベラ領に入ったのだが、すると今度はアウローラという場所で行われた御前試合の話で持ちきりなのだ。

 もちろん剣術試合というだけでアウラは興味津々なのだが、それ以上にフォレスから金髪の女薙刀使いが参加していたという話にはフィンも心底驚いた。

 それはどう考えたってリモンしかあり得ず、実際そうだったのだが、そんな彼女が一回戦負けしたという話を聞いたアウラは「そんなことならもっとちゃんと教えとけば良かった!」とそちらの方で頭が一杯になってしまったのである。

 そして年末にハビタルでエルミーラ王女の一行と合流すると、彼女はもう全力でリモンとガリーナを鍛え始めた。

《昼間はいないし、夜も疲れててすぐ寝ちゃうし……》

 おかげでまたフィンはかなり寂しい日常を過ごす羽目になったのだが……

《でも、王女様の方はマジ大変だったもんなあ……》

 これまでフィンは王女とはそこまで近しくなかったのだが、ここで初めてベラでの王女の行動を目の当たりにしたのだった。

 ベラは冬でも雪があまり積もらないので国内の移動はほぼ自由にできる。といっても冬は冬だ。特に朝晩の冷え込みは半端ではない。そんな中、王女は国長のロムルースを引き連れては精力的に国内を回っていた。

 ハビタルでの新年の宴が終わるやいなや、王女は即座に北方の視察を開始した。

 そこでは王女の他にメイやグルナ、リモン、コルネ、それにロパスなどのフィンとも馴染みのフォレス人達に再会できて、まるでフォレス王宮の出張所のような雰囲気だった。だからプライベートで集まっているようなときはガルサ・ブランカ城の雰囲気とほとんど変わらなかった。


 だが視察旅行の方はそれなりに深刻だった。

 その旅行でまず分かったことは、フィンの想像以上にベラ国内が荒れていたことだ。

 ベラはエクシーレに比べてずっと肥沃な場所なのだが、場合によっては先日通ってきたエクシーレ国内の方が遥かに豊かに見えたぐらいだ。

 ベラの内部事情ががたがたなことは様々な報告から既に明らかだったのだが、その現状を聞くのと実際に見るのとでは大違いだった。

 エルミーラ王女はそのことに心底心を痛めていた。

 フィンはあの誘拐騒ぎ以来、王女がことある事にベラの内情を憂えていたのを聞いて内心ちょっと度が過ぎるのでは? とも思っていたのだが、ここに来てみてまさにその通りだと納得したのである。

 そして王女の国内視察は逆にベラ各地に様々な影響を及ぼしつつあった。

 王女一行は行く先々で大歓迎を受けていた。

 もちろんベラの国長と隣国フォレスの王女の一行である。粗相があってはならないのは当然だが、それ以上に彼女は人々に期待されていたのだ。

 それは王女自身にとっても少し意外だったようだ。

 何しろ前回は “あんな事件の元凶となったフォレスの少し変な王女” に二度も襲撃が行われたのだ。だから今回も最初はかなり警戒していたそうなのだが―――今年はなぜかどこでも打って変わっての大歓迎だった。

 その理由はまず、そもそもベラの反王女派は別に王女が憎かったからそうしていたわけではなく、フォレスの反王女派に扇動されていただけだったからだ。彼らにとっては現在の窮状が問題で、その原因が王女だと吹きこまれて信じてしまっただけだったのだ。

《何かエクセドル家が裏で手を引いてたみたいだけど……》

 そして王女が行った“魔法”の噂が広まるにつれて、こんどはそれが逆になるのである。


 ―――その話を聞いたのはとある地方の領主の館の中で、ロムルースなども含めてみんなで歓談しているときだった。

 話しているうちに話題がそちらの方に行くと、王女が笑いながら言った。

「そうなのよ。去年は大変だったんだから。ふしだらな王女なんかうちの村に入れない! なんてところがあったりして」

「そんな所があったんですか?」

 アウラから話は聞いていたが、実際に聞くとやはり信じられない。

 フィンの問いに王女は答える。

「そうなのよ。それでルースが怒っちゃって、村を焼き払うとか言い出すし」

 それを聞いたロムルースがむすっとした顔で言う。

「その話をいちいち蒸し返すな!」

 放っておくとまた喧嘩になりそうなので、フィンは王女に尋ねた。

「でも魔法って一体全体何なんです? 村にかける魔法なんて聞いたことありませんよ?」

 それを聞いた王女がまじめな顔になった。

「そうなの。何だか私もびっくりしてるのよ。瓢箪から駒って感じで。もしかしたら本当に魔法だったのかもって」

 フィンが訳が分からないという顔をしているので、王女が笑いながら言った。

「もしあたしがあそこですっ転んでいなければ、あんな事にはならなかったわ」

「すっ転んだ?」

 相変わらず何が言いたいか分からない。すると王女がいきなり言った。

「そうよ。痛かったのよ。見る?」

 王女はいきなりスカートの裾をまくって脛を露わにした。ロムルースが慌てて叫ぶ。

「こ、こら! ミーラ! なんてことを!」

 だが目を逸らす暇もない。フィンは王女の脛に残った大きな傷跡と、それと共にエルミーラ王女の素足を見てしまった。フィンは慌てて言った。

「うわ、ど、どうしたんですか?」

 王女は平然と答えた。

「さらわれて逃げてたときね、あの街道を歩いていて躓いて転んじゃったのよ。そのときできた傷なんだけど。でも頭を割らなくて良かったわ」

「そうなんですか。でもそれが魔法に関係あるんですか?」

 すると王女が悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「いえね、あの後ベラに戻って最初にクレアス村に行ったのよ。ちょっと借りがあったんで返さなきゃってね。そうしたらそこで例の盗賊達が牢屋に入れられてるのを見てね、ちょっと可哀想になったのよ。あの人たちそんなに悪い奴らじゃなかったし。ポーカなんかはただの子供だったし……でも盗賊は盗賊だし。そのときこの傷のことを思い出してね、そうだ。あいつらに罰として道の修復をさせてやろうって思ったのよ」

「はあ」

 フィンは曖昧にうなずいた。話がよく見えないのだが……

「でもあいつらだけじゃ数が足りなかったんで、ルースを焚きつけてあの辺の盗賊をみんな狩り出して、あのあたりの街道を全部直させたの」

「はあ……」

「そうしたら、何とフラン織りの売り上げが倍にもなったのよ? おかげであの辺の村は今大忙しなの。これが魔法の正体なの」

「え? あ!」

 フィンは一瞬意味が分からず絶句した。

 だがしばらく考えるうちに理由が分かってきた。

 街道が整備されてしかも治安まで良くなれば商人がやって来やすくなるだろう。

 元々フラン織りは高級な布地として珍重されていた。きっちり供給さえできればどんどん売れていくのだ。今までは悪い街道や盗賊のせいで市場に物を出せなかったのだ。

「だから全然魔法なんかじゃないんだけど」

「でもそれって下手な魔法よりずっと凄いですよね」

「ありがとう。でもおかげで今年は魔法を望んでる人たちが一杯陳情に来ちゃって……でもね、大抵の地域にはそれなりの産品があるし、街道の悪さはどこも似たようなもんだから、もしかしてベラ全土で道を良くしたら全体がもっと良くなるような気もしてるの」

 というような話だったのだ―――


 そんなわけで王女の国内旅行は単なる視察に留まらず、半ばベラの立て直しの旅とも言える物になりつつあった。

 もちろんそれが本当に可能になったのはロムルースが同行しているからである。王女に比べて何だか少し影が薄いが、彼こそがこの国の最高権力者である。

 だがその彼はこれ以上なく王女の尻に敷かれていた。その有様はフィンからみても少し可哀想と思えるぐらいなのだが、本人は結構幸せそうだ。

 なので視察旅行で実際に命令を下すのは当然ながらロムルースだ。

 そのために彼自身の評判もまた徐々に回復しつつあったのだ。

《いや、マジあいつ滅茶苦茶だったからなあ……》

 脳裏にあのフレーノ卿の事件のことがフラッシュバックするが……

 それはともかく、これはこれでまた微妙な問題を孕んでいるわけで―――一国の最高責任者がよその国の王女の言いなりになっているのは如何なものだろうか? とりあえず今は王女がベラの国益になる行動を取っているからいいのだが、もしそうでなければ大変なことになるのだが……

《まあ、ともかく今は上手く回ってるわけで……》

 少々不安はあるにしても、とりあえず良しとしておくべきなのだろう。


 ―――そんなわけで千客万来の王女一行だったのだが、訪ねて来る客はエルミーラ王女目当てだけではなかった。実はアウラに会いにやってくる客も相当数いたのである。

 フィンもいい加減忘れがちになるのだが、血はつながっていないとはいえアウラはベラのガルブレスの養女であり、形式上はロムルースと同じフェレントム家の一員なのだ。

 ガルブレスはベラを出奔したとはいえ、その技は今でも語りぐさにされるほどの剣豪であり、ベラの誇りでもあった。アウラはその彼の技を間違いなく受け継いでいる。しかも先年の王女救出の際には大きな功績を上げている。

 だからアウラがお披露目されたときに来られなかったような地方在住の遠い親戚などが、この機会にとやってくるのだ。

 そんな場合にはアウラが大変な目に会う。

 ベラ風の作法とかはすぐに覚えられるのだが、地方の話やフェレントム一族のことなどを話されてもちんぷんかんぷんなのだ。

 だが、よく分からなくともおとなしく話は聞いていなければならない。彼女は上手いこと話を誘導して話題を変えるような技は持たなかったので、会見が終わった後はいつもぐったりしていた。

 それだけならまだいいのだが、実はアウラの存在自体がまたベラにとって微妙だった。

 何しろ彼女はガルブレスの養女だ。ガルブレスはロムルースの伯父であり、彼が位を返上しなければベラの国長となっていた男だ。

 そしてベラの長の継承ルールだと、もし彼女が長の血族の誰かと結婚して男子を産んだとしたら、その子には長の継承権が生じるのだ―――しかもその順位はかなり高く、ロムルースの息子の次だったりする。

 アウラに会いに来る者にはそういったことを狙ってるんじゃないかと思える者も結構いた。下手を撃つとアウラはベラの権力闘争に巻き込まれる恐れもあるのだ。

 だが今のところアウラはフィンと一緒になることがほぼ確定しているため大きな問題にはなっていなかった。

 というのは、もし本当にアウラがガルブレスの血のつながった娘だったとしたら、彼女の息子には自動的に継承権ができていたのだが、養女だったために部外者と結婚してしまえば継承権はなくなるからだ。すなわちフィンと結婚するのが確定的である以上は、長の位の継承騒動ともほぼ無関係でいられるのだ。

 だが逆にもしそうでなくなってしまった場合、例えばフィンとアウラが喧嘩別れでもしようものなら国家的な大事になってしまうのだ―――などという話を聞いたときには、フィンは冷や汗たらたらだった。

《あはは。ま、ともかく当分はないと思うけど……そんなこと……》

 と思いつつも、ふっと心に影がよぎる。

《そういえば……もうあんまり聞いてこないけど……》

 彼女は知っていた。

 彼の心の中にはもう一人“ファラ”という存在があることを……

 フィンは首をふる。

《だから、もう終わったことだし……》

 過去に囚われていても仕方がない。これから先、彼はアウラとともに歩んでいくのだ。そう決めたのではないか?

 だからいつも確かめたかった。彼女の存在を確実に―――まあ要するに抱きしめたかったわけだが……

《あの日もそうだったよなあ……》

 ちょっとそんな気分になってアウラを探していたら、何か遠くにまた特訓に行っちゃってて……

 そう。そんな調子で二人の間がまた微妙なことになるかと思った矢先である。

 とある“大事件”が勃発したため、そんな些細な問題は全て吹っ飛んでしまったのであった。


 ―――事は一行がガルザという村に滞在中に起こった。

 そこで王女が突然、ひどい嘔吐をして寝込んでしまったのだ。命に関わるような様子ではなかったのだが、ロムルースが前日に食べた変わった味のパイが原因だなどと言いだしたせいで険悪なことになりかかっていた。

 ところがすぐにその病気というのが、ご懐妊だったことが判明するのである。

《もうちょっとあり得ないんだけど……》

 その後の騒ぎはもう傍で見ていても気の毒だった。

 グルナやメイなどの王女のお付き達はもう上へ下へのてんてこ舞いだ。

 もちろんもう視察どころではない。王女は継続を主張したが、当然ロムルースはここぞとばかり強権を発動して、一行はハビタルに戻ることになる。さすがに王女も今度ばかりは逆らえず、こうしてベラ北部の視察は中途半端に終わってしまったのであるが―――問題はそれだけに留まらなかった。

 エルミーラ王女とはただの貴人ではない。やがてはフォレスの王位を継承することになっている女性なのだ。結婚もしていないのにそんな彼女に子供ができてしまったというのだから……

 しかもその子供の父親は誰の目にも明らかだった。

《というかもう、二人して『あ、あのときの?』みたいなこと言ってたし……》

 だがベラとしてはこの子供を認知するかどうかは大問題になる。

 何しろその子がもし男子なら、ベラの長の継承権とフォレスの継承権を両方持つことになってしまうのだから―――控えめに言って国家間の大スキャンダルである。

《しかもその挙げ句に……》

 いま思いだしてもため息が出てくるが―――何しろ王女とロムルースがいつ情を通じたかというと、何と和平会談の夜の宴に、王女が遊女の格好で忍び込んだからなのだという。

 そして一時はそのとき相手をうっかりセヴェルス王子と取り違えたのでは? なんて疑惑までが生じたりして……

《あのときアウラがいて本当に良かったよな……》

 そんなこんなで王女の周りはもう阿鼻叫喚といった大騒動になってしまったのだが、その元凶の王女本人はは涼しい顔だった。何しろ彼女は最初からそのつもりでベラに行っていたのだから……

 その後フィンも王女から直接その動機を聞いたのだが……

《無茶するよなあ、王女様も……》

 確かに誰かと結婚してしまった後ではこんなことは絶対無理だろうが―――確かに考え得る可能性の一つとは言えるが、でもそれを本当に実行してしまうとは……

 今現在はフィンの仕える相手はアイザック王だが、やがてエルミーラ王女が女王に即位した暁にはこのお方が主君になるわけで……

 あはははは!

《そんな先のことを今から考えてもしょうがないよね⁈》

 ともかくそのおかげで逆にフィンとアウラの周辺が静かになったのは幸いだった。王女もロムルースももはや彼らに構っている暇などなくなってしまったからだ。

 この問題に関してフィンは何も口出しできる立場になかった。

 また王女がご懐妊ということが公表されて水上庭園の離宮で暮らすようになると、護衛が必要な局面も極端に減ってしまった。アウラに対する謁見依頼も、ちょっとこういう状況なのでと言えばおおむねお断りできた。

 おかげでそれ以降、春になるまで二人でゆっくりと過ごすことができたのである。

《あは。それに……》

 何でか知らないがメイがパサデラからの手紙を持ってきたりするし……

《いや、あの夜はアウラと三人で何だかすごいことになっちゃったけど……》

 けふんけふん。


 ―――そんな調子で雪解けの季節がやって来た。

 フィン達は出立の準備を始めた。このときまでは彼らは、一度フォレスに戻ってからパロマ峠を越えて中原に行くつもりだった。

 だがここで唐突に王女から、フィブラ峠を越えて行かないかと提案されたのだ。


 ―――王女の提案に対してフィンが答えた。

「どうしてですか? あの道はほとんど使われてないんじゃないですか?」

「ええ。そうなの。だからどんな感じか見てきて欲しいのよ。あなた方なら少々悪路でも問題ないでしょ」

 二人がフォレスにやってきた時の顛末は王女もよく知っている。だが別にあれは望んでやった旅ではないのだが……

「それはそうですが、でも峠の高さはパロマ峠に劣らないですし、天候が悪化したら大変なんですが……」

 それを聞いて王女はちょっと考え込んだ。

「うーん。無理そうだったらいいんだけど」

「理由をもうちょっとお聞かせ願えますか?」

 フィンも王女が何故こんな事を言い出したのかに興味があった。

 そこで王女が答えた。

「実はね、あの道を改装できないかって思ってるの」

「ええ? どうしてわざわざ?」

「ほら、街道が通ると沿線が結構潤うでしょ? フランより奥って凄く貧しいのよ。でもあの道が良くなればあの辺ももっと豊かになりそうじゃない」

 フィンは目を丸くした。王女はそんなことを考えていたのか?

 だがそれってそう簡単にいく話なのだろうか?

「そうですが……でもあの先はアイフィロス王国ですよね。あそことはあまり交易もないからやっぱりそんなに人は通らないんじゃないですか?」

「もちろんそうね。今は」

「今は?」

 訊き返したフィンに対して、王女は真剣なまなざしで尋ねた。

「ねえ、ル・ウーダ様。例えばフラン織りって都やラーヴルのご婦人とかが見てどうでしょう?」

「ええ? まあ、あれならどこに出しても恥ずかしくないと思いますが」

 それは掛け値なしに真実だ。服のデザインはともかくあの生地は間違いなく極上だ。

「だとすればあちらで売っても売れるって事ですよね?」

「ええ? まあそうかも知れませんが……でもいきなり都に持ってくなんて無理ですし、アイフィロスだって、あそこは都とつながりが強いんで結構ベラを敵視してますし……」

 王女はうなずいたが、続けて問い返した。

「でもほら、お父様だっていつまでも今の構図ではだめだっておっしゃいましたわ。都とベラが敵対ばかりしていたんじゃだめだって。ル・ウーダ様にそのために働いて欲しいって。そうして国交ができれば交易もできるようになりませんか?」

 フィンは驚いて手を振った。

「え、確かにそんな話もありますが……いつになるか分かりませんよ?」

 だが王女は引き下がらない。

「それはそうですが、今からそうなったときの準備を始めていても悪くはないんじゃないでしょうか? それに交易だけ先に始めても構いませんよね? 例えばグラテスとかで積み替えてしまえば見かけ上は問題ないはずですし。でもそうなったらフィブラ峠越えに直で荷を運びたくなるんじゃないでしょうか?」

 それを聞いてフィンは反論ができなかった。

 いや、ケチを付けようと思えばいくらでも付けられる話だ。だが王女の先を見通して予め手を打っておこうとする姿勢を見て、何だか感服してしまったのだ。

 だがちょっと引っかかる点もあった。

「なるほど……でもあの道で交易が始まったりしたら、フォレスを通る商人が減ってしまったりしませんか?」

 王女がちょっと口ごもる。

 フォレス王国はベラやエクシーレから中央平原に至る交易路の要衝に位置する。今のフォレスの繁栄はひとえにそのことにかかっていると言っていい。

 だが新しい経路ができたりしたらそちらに人々が流れていってしまうのでは? そうなったらフォレスは寂れてしまうのでは?

 だが王女は首を振った。

「……それも考えたんですが、どうなのかしら? そもそも今アイフィロス方面への交易はあまりないですわね。今の主力はシルヴェスト方面に行ってますが、そちらに行きたければやっぱり今のルートがいいと思いますし、もしエクシーレからアイフィロスへの交易が新たに増えてもそれはやっぱりフォレスを通ることになる思いますし……だったら結局フォレスを通る総量も増えるんじゃないかと……まあ皮算用なんですが」

 王女は笑った。

 聞いたフィンは内心びっくりした。彼は今までこんな事は考えたこともなかったからだ。

 だが言われてみれば、決してでたらめな話でもないと感じた。

 そんなわけでフィンは王女の提案をうけることにした。

 これだけの理由があれば断るわけにはいかないし、それに行ったことのない所の方が面白そうでもあったからだ―――


 こうしてフィンとアウラは四月になると満を持してフィブラ峠に向かった。

 だがその峠越えは予想以上に難航した。

 一応ベラからアイフィロスに向かう正街道だというのに、ほとんどただの登山道だ。馬車なんてもってのほかで、馬でも厳しいようなところがたくさんある。

 もちろん山に入ってしまったら宿屋などはなく、途中の避難小屋も荒れ果てていた。

 しかもベラの低地ではもう春だったが山の上はまだ冬だ。

 峠直下の屋根の壊れた小屋で吹雪に吹き込められたときなどには、本気で遭難するかと思ったのだから―――だが今回はアウラに『暖まった石を入れとくといいわよ』など言われずに済んだのは大いなる進歩ではあったわけだが……


 ―――かようなささやかなトラブルはあったにしても、こうして二人は無事にアイフィロス王国の首都ラーヴルにたどり着くことができた。五月の初頭のことである。

 フィン達がラーヴルに来ていたのはまずはそういう経緯だったのだが……