第4章 フェデレ屋敷
その夜、アウラは少し緊張した面持ちでヴィニエーラの四輪馬車を操っていた。
今走っているのはグリシーナの郊外だ。空にはかなり厚い雲がかかっている。夕方までは雨も降っていた。こんな暗い晩に馬車を進めるのはなかなか神経がいる。
だが彼女が緊張していたのはそのせいだけではなかった―――というのは、今日の乗客がレジェだったからだ。
彼女はプリマの中でも特に気むずかしく、この間乗せたときもちょっと馬車が揺れただけだったのに、酔いそうになったの何だのと散々文句を言われたのだ。
アウラがヴィニエーラにやって来てからそろそろ一年が経過しようとしていた。
その間に部屋無し遊女達とはほぼ全員と“親密な”仲になっていた―――だがその反面、レジェなどのトッププリマ達とはまだ事務的な会話以外はしたことがない。
プリマ達は部屋無し娘達の間で最近アウラが人気なのをもちろん知ってはいたが、そのことについては誰も気にもかけていなかった。部屋無し達が誰を好こうと関係のないことだし、それ以前に彼女たちはひどく忙しかったので、そもそもそんなことを気にしている余裕などなかったのだ。
またアウラの方からも彼女たちに対して特にアピールする必要はなかった。
アウラはただ淡々と自分の役割を果たしていれば良かった。彼女たちにとってアウラは空気のような存在だった。
そんな彼女たちと一番接触しなければならない機会といえば、今回のように彼女たちを馬車で送迎するときだった。
郭から出てしまったら、嫌でも直に話す必要が出てくる。
そんなわけでアウラは、今日は文句を言われないようにと、ゆっくり着実に馬車を進めていた。
「フェデレ公の屋敷ってあそこを左だったっけ?」
アウラは馬車の中に声をかける。
窓からエステアというレジェ付きの小娘が首を出して答える。
「はい。そうです。あそこを曲がって下さい」
この間まではハスミンがレジェ付きだったのだが、彼女が水揚げして遊女に昇格したため、その後はこのエステアがこの役割を担っている。
彼女ももちろんヴィニエーラにスカウトされただけあって、なかなか愛くるしい顔立ちだ。今はまだ発展途上というところだが、成長したら素晴らしい美人になりそうだ。
そんな彼女の言う通りにその道を曲がってしばらく行くと、遠くに明かりの灯った大きな建物が見えてきた。
「あれ?」
「そうです」
今日彼女たちがここに来た理由は、レジェがこのフェデレ公の屋敷に呼び出されたためだった。
フェデレ公はシルヴェスト王国の高官で、その子息がレジェを指名したのだ。
遊女達は通常は郭の中で客が来るのを待っているのだが、時々こうやって“お呼ばれ”で出て行くこともある。
このお呼ばれには大きく二つのパターンあった。
一つは屋敷で大きな晩餐会を開くような場合だ。
晩餐といってもガルサ・ブランカ城でするような上品な物ばかりではない。男ばかりが集まって少しばかり羽目を外したいような晩餐もよくある。
そんなときにはホステスとしてヴィニエーラなどの高級遊郭から娘達が呼び出されるようなことはよくあった。その場合には主に部屋無し遊女達が大挙して参加する、郭側としては大イベントになる。
もう一つのパターンとしては、貴族などが遊女個人を指名して自分の屋敷で一晩親密にしたい場合だ。
なぜ貴族かというと、ヴィニエーラのような高給遊郭から遊女を呼び出すのは、自分から出向くよりも遥かに高い費用がかかる上、よほど信頼されている客でないと受け付けてさえもらえないからだ。
それだけに、特にプリマクラスの遊女を呼び出せるということは、貴族や金持ち達の間でも大きなステータスであった。
そんなお呼ばれに同行して行き帰りの警護をするのも、夜番の役目の一つだった。
それはいつもはウィーギルかサモンの役目だったのだが、今日はあいにく両名とも手が離せなかったのでアウラが代わりに来ることになったのである。
その話が出るとアウラは奮ってその任を受けた。
何しろこの一年、ほとんど郭の中で生活していた。それで退屈していたわけではないのだが、やはりたまには外気にあたりたくなってくる―――何しろ以前とまるで正反対なのだ。賞金稼ぎをしていた頃は天気がいいときはほとんど野宿で、部屋で寝ることの方が少なかったのだが……
また、最近アウラは馬車の操り方を教えてもらっていたので、その腕を試したくて仕方なかったというのもあった。
直接馬に乗ったり小さな二輪馬車を扱うのと違って、ヴィニエーラの四輪馬車は大きく、しかも二頭立てだ。最初は道を曲がることさえ上手くできなかった。
だが慣れてくるとこんな大きな物が自在に動かせるようになってくる。
実際、以前にレジェを乗せたときは今から思っても下手くそだった。それから何度か練習してずっと腕が上がっていたのを見てもらいたくもあったのだ。
そうこうするうちに彼女たちはフェデレ邸の正門前に到着した。
馬車を止めると門番が出てくる。
アウラは彼に向かって言った。
「ヴィニエーラよりレジェ姐様をお連れしました」
その口上を聞くと門番が黙って道を開ける。
アウラは軽く会釈すると屋敷の奥に馬車を走らせた。
かなり広い屋敷だ。玄関に到着するまでかなりの距離を走らせなければならない。
玄関前に着くと今度は屋敷の侍従が一人待ちかまえていた。アウラは御者台から降りるとその侍従の方に行った。
「ヴィニエーラより参りました」
「よくぞ、いらっしゃいました」
そう言って侍従は深々と頭を下げたが、その態度は妙に慇懃無礼な感じでアウラはあまりいい気分がしなかった。
だがそんなことにいちいち突っかかるわけにもいかない。
彼女は黙って馬車に戻ると扉を開ける。するとエステアが降りてきてさっと中に手を差し伸べた。
その手を取ってレジェが優雅な身のこなしで馬車から降りて来る。
彼女のこんな振る舞いはプリマの中でも一流だ。
アウラはレジェのそんな姿を見ると何か誇らしい気分になった。
レジェは真っ直ぐ進んで行くと、侍従に軽く会釈をする。侍従はそれに対しても慇懃に挨拶すると玄関の扉を開ける。レジェがそれをくぐるとエステアが黙ってその後に続いた。
その間、アウラは馬車の屋根上の荷台からレジェ用のトランクを下ろしていた。
いつもながらこればかりはちょっとばかり閉口だ―――たった一晩の泊まりなのにどうしてこんなに重くなるほどの物が必要になるのだ?
そんなアウラを見ても侍従は手伝おうともせずに、冷ややかに見ているだけだ。かといって客先で屋敷の使用人に命令できる立場でもない。
アウラは何とかトランクを下ろすと侍従の前まで持っていった。
「これをお願いします」
「はい。承知しました」
侍従はそうは言いながらも、嫌々なのが丸見えな態度でそれを奥に運んでいった。
《何よ。あれ……》
アウラはそれを見送ると再び馬車の御者台に上った。
厩舎は左に回った所だと聞いているが……
馬車を走らせて屋敷の角を曲がると程なく厩舎が見えてきた。アウラはその側に馬車を止める。
その音を聞いて中から小屋番が出てきた。
「馬、つないでいい?」
馬車を御していたのがアウラだと分かって小屋番はちょっと目を見張った。
「ああ? ウィーギルはどうしたい?」
「ベルジュへ行ってる」
「ふうん」
それを聞くと小屋番はそれ以上は何も訊かずに部屋に戻ってしまった。
前のときはアウラが女だと分かって色々問いつめられて閉口したのだが、こんな風に無視されるのもちょっと拍子抜けだ―――まあ寄ってこられるよりはずっとましだが……
アウラは馬を小屋に入れて飼い葉を与え終えると、再び馬車の屋根に上って横になった。 これから朝まで結構暇になるが、こうして待っているより他にすることはない。
愛用の薙刀も持ってきてはいるが―――ここでそれを振り回すのはさすがにまずいだろう。
だが待っているうちに体が冷えてきた。
もうそろそろ秋だ。この時間には結構空気が冷たくなってくる。このままだと風邪を引いてしまうかもしれない。毛布を出してきた方がいいだろうか? 確か中に積んであったはずだが―――そんなことを考えていたときだった。
「お姉様、お姉様」
下から呼ぶ声がする。
アウラが馬車の上から首を出すと、エステアが立っていた。
「え? どうしてここに? 上にいなくていいの?」
「ちょっとだけ代わってもらったんです。ここは寒くありません? 上に来ませんか?」
「え? あたしが行っていいの?」
アウラは少し驚いた。夜番はこうやって厩で待っているのが普通だったからだ。
「グーラさんがいいって言ったんです。それに上はあたしだけだし。構いませんわ」
「グーラさん?」
「ここのメイド長さんです」
そういう人がいいというのならいいのだろう。実際ここは本気で寒い。
アウラは寒いのは嫌いだった。そこで彼女はエステアに付いて屋敷に入っていった。
《へえ!》
中に入ったときには、うっかり声を上げてしまわないように努力しなければならなかった。
彼女たちは裏口から入ったのだが、そんな裏廊下でさえ豪華な絨毯が敷き詰められている。
やがて広い玄関ホールに出ると―――ヴィニエーラとは別な意味で豪華絢爛だった。
壁には様々なタペストリが飾られ、あちこちに立派な彫像が置いてある。
ヴィニエーラにも彫像はあるが、ここのは鎧を着た戦士とかトーガを纏った若い男とかそういったモチーフの物ばかりだ。床の絨毯も単に見栄えが華やかなだけでなく、足触りも全然違う……
「フェデレ公ってお金持ちなんだね」
アウラはエステアに小声で言った。
「王様の昔からのお友達だったらしいですよ」
「へえ……」
そんな会話を交わしながら二人が中央の階段を上がっていくと、上から妙に薄着をした若い男が降りてきた。
男はすれ違いざまに二人をじろっと見るとつぶやいた。
「そっか。レジェちゃんが来てるんだ……」
それからくっくっくと声を出して笑う。
アウラは振り向いてその男を見た。
だが男は振り返りもせずにそのまま行ってしまった。
「なに? あれ」
アウラはちょっと腹が立った。だがエステアはアウラの手を引っ張って言った。
「放っときましょう」
「??」
まごついているアウラに対してエステアが囁く。
「ディレクトスから来てるツバメです」
「ええ?」
その言葉の意味はアウラにも理解できた。
ツバメだ?
どうして男娼がこんな所をうろうろしているのだ?
アウラはエステアに理由を訊こうかとも思ったが、彼女はむっとしたような表情でアウラの手を引いて歩き続ける。
そのまま二人は二階の大きなホールにやってきた。
ここも豪華に飾り付けられており、周囲には幾つも扉がある。エステアはその端の方の小さな扉を開けた。
そこは侍女達の控え室のようで、中は比較的質素な造りだったが、それでもヴィニエーラの部屋より広い。
控え室の奥に一人中年のメイドが座っていて、二人が来たのに気づいて顔を上げた。
「その人がアウラさん?」
「はい。そうです。グーラさん」
メイド長はアウラを上から下までじろじろ見てから一言「そう……」と言って腰を上げた。
「じゃあ後はここを頼むわよ」
「はい」
エステアはグーラに礼をする。アウラも慌ててエステアに習う。
それに対してグーラも軽く返礼するとそのまま出て行ってしまった。
控え室にはアウラとエステアだけが残された。
その状況にアウラはちょっと驚いた。
「他の人はいないの?」
それを聞いてエステアが答える。
「ここはいつもそうなの。あっちの部屋には何人かいるけど入れてくれなくて。でもウィーギルさんとかは呼べないし……」
それはちょっと意外だった。
アウラは今までお呼ばれには何度か行っているが、小娘には各屋敷に馴染みのメイドが大抵一人か二人はいて、控えている間は彼女たちと一緒に暇を潰している。だから普通夜番などが出る幕はないのだが……
アウラは部屋の中を見回した。
がらんとしている。
こんな所で一人夜明かしするとなれば、アウラでも呼んで来たくなるのは間違いないだろう。
「あたし達だけにして大丈夫なのかしら」
「さあ。でもいいって言ったし」
彼女たちは一応部外者なのだが、見張っていなくていいのだろうか?
だがあのメイド長がそう言ったのならいいのだろう―――もちろんヴィニエーラの名誉を傷つけるような行為をするつもりはまったくなかったが。
それ以上アウラは深くは考えないことにした。
二人はしばらく黙り込んだ。
ひどく静かだ。
こんなに静かなのは久しぶりだ。
ヴィニエーラは昼も夜も何らかの物音や声で溢れていたが―――貴族の屋敷とはどこもこんな物なのだろうか?
「レジェはいま隣?」
アウラはエステアに尋ねる。
「はい」
―――にしては静かだ。
こういう部屋にいたら、嫌でも様々な物音がこぼれ聞こえてきてしまう物なのだが……
ここの子息はそんなに礼儀正しいのだろうか?
「いつもこんなに静かなの?」
「……はい」
エステアは何故か目を逸らす。何を隠しているのだろうか?
だが問いただす理由もない。そこでアウラは適当に話題を変えた。
「ヴィニエーラはいつもうるさいのにね。そういえば昨日の晩の騒ぎは聞こえてた?」
「え? はい。でも詳しくは……」
アウラはにっこり笑った。知らないのなら結構暇が潰せそうだ。
そこでアウラは話し始めた。
「カテリーナの所のお客さんのね、奥さんが怒鳴り込んできたのよ?」
「まあ! そうなんですか?」
エステアの目が輝く。小娘達はみんなこういう話が大好きだ。
「カテリーナのお客さんね、えっと確かジャーベスさんとかいったけど」
「あ! 知ってます。あのちょっと禿げた人ですよね?」
「うん。そう」
「それで?」
「それがねえ、一段落してカテリーナはちょっと出てたの。そこを奥さんに見つかっちゃったんだって」
「それでそれで?」
「奥さんもうカンカンでねえ、それでカテリーナの服をひっぺがすと代わりに着て中に入って行っちゃったのよ」
「ええぇ?」
「そしたら旦那がね、それが奥さんだって気づかなくて、奥さんのお尻をなでながら『カテリーナ、おまえのアソコは最高だ』とかなんとか……」
「あははは!」
エステアはつい大きな声を出して笑い出してしまった。
アウラが慌ててエステアの口を押さえて、隣室に続く扉を指さす。
もちろんエステアにもその意味は分かった。
二人は黙って隣室に続く扉を見つめる。その向こうではフェデレ公の子息とレジェがそろそろいい所のはずだ。そんな雰囲気を小娘の喚声でぶち壊させるわけにはいかない。
彼女たちは何かあったらすぐに飛び出して行けるように準備しておかなければならないが、同時に相手に聞き耳を立てていることを気取られても良くない。なかなか難しい立場なのだ。
しかし隣室は相変わらずしんとしている。こんな事をしたら、特に相手がレジェなら本気で怒鳴り込んで来そうなのだが―――アウラはちょっと心配になってきた。
アウラは声を潜めて尋ねた。
「あっちの部屋、ランプの油とか見てきたほうがよくない?」
「え? どうしてですか?」
「静かすぎない?」
「いつもこうだから大丈夫だと思いますが」
また彼女は少しうつむいて答える。
「そうなんだ……」
アウラは不思議に思った。隣では一体何をしているのだろう?
普通に二人で絡んでいればそれなりの物音が聞こえてくるはずだ。それとも男の方がレジェに声を出させないようにしているのだろうか?
客の中には遊女にそういったことを求める者もいた。声を出せずに我慢する顔が可愛いとか何とか―――ここの子息もそういった趣味なのだろうか? まさかわざわざ呼び出しておいて何もしていないわけはないだろうが……
だがここではエステアの方がずっと場慣れしている。
彼女はレジェに付いて何度もここに来ているのだ。年齢的にはアウラの方が上だが、ここは彼女の判断に任せたほうがいい。
二人はまた声を潜めて雑談を続けた。
そのうちいい加減話のネタが尽きてきた。これがハスミンだったらいくらでも不思議なくらいに話し続けることができるのだが、エステアはそこまでお喋りではなかった。
話が途切れてふっと静寂が場を支配する。
アウラはつっと立ち上がって窓辺に行った。
外は深夜だ。夜明けにはまだ間がある。
だが先ほどまでは曇っていた空は晴れてきていて、雲間からは月が顔を出している。
「外、晴れてきたね」
アウラがそう言った瞬間だ。隣の部屋で何か口論が始まったのだ。
それからがたーんと大きな音がしたかと思うと―――レジェの金切り声が聞こえてきた。
アウラとエステアは立ち上がって顔を見合わせた。
こういう場合一体どうしたらいいのだ? 呼び出されもしないのに行ってしまっていいのだろうか?
だがこの声の様子は尋常ではない。
アウラがエステアにうなずくと彼女もこくりとうなずき返し、二人は扉を開けて隣室に飛びこんでいった。
「レジェ姐さま、どうなされました?」
エステアがそう尋ねている間に、アウラは何か棒状の物はないか捜していた。さすがにこんな所に薙刀を持ち込むわけにはいかない。
飛びこんできたエステアにレジェが言う。
「エステア! 帰るわよ」
「ええ? でも?」
エステアがレジェと子息の顔を互いに見比べる。
「レジェ、どうしたというんだ?」
そう言いながらフェデレ公の子息はレジェの両肩に手を置いたのだが―――レジェはその手を振り払った。
「パルティール! あんたこそあたしをどうしたいわけ?」
エステアはそんなレジェの様子に手で口を覆って凍り付いた。彼女は完全にぶち切れている。でなければこんな言葉遣い、許されるはずがない。
「一体何が不満なんだ?」
「不満も不満。不満だらけよ! 大体こんな所に呼び出しておいて、あたしに手もつけずに横で寝てるだけって、どういうおつもり?」
パルティールが目を逸らしながら答える。
「それは……婚礼を終えるまでは君に手をつけたくないからだ」
それを聞いたレジェが吹き出した。
「ご冗談を! どこの姫君と間違えてらっしゃるんですの? バカ言わないでよ? 他人の手あかで汚れた女に触りたくないだけでしょ?」
「いい加減にしろ!」
「何がいい加減なのよ? これでもあなたのためを思って言ってるのよ。それとも本当のことを言っていいのかしら?」
「何だと? 言って見ろ!」
レジェはぎろっとパルティールを睨んだ。
「ふうん。じゃあ言うわ。女を見て勃ちもしないのに婚礼って……一体どうやってやるのよ?」
当然のことながらパルティールは真っ赤になった。
「レジェ!」
そう言いながら体をわなわな震わせているが―――レジェは冷たく言い放った。
「ああ、そうね。ディレクトスの彼が手伝ってくれるのね。じゃあ初夜のときも種をつける間だけ彼がしごいてくれるのかしら?」
「レジェェェェ!」
パルティールはそう叫んで手を振り挙げた。
レジェがあっと言って顔を覆ったが―――パルティールに殴られることはなかった。
振り上げた彼の肘がモップの柄に絡め取られて、それ以上動かせなかったからだ。
―――もちろんアウラの仕業だ。
驚いてパルティールが振り返ると、アウラが言った。
「すみません、レジェ姐が何か不始末を?」
「何だ? お前は?」
「ヴィニエーラの夜番のアウラと申します」
それを聞いたパルティールとレジェが同時に叫んだ。
「お前には関係ない!」
「アウラ! そんな奴叩きのめしておやり!」
「え? でも」
いかなレジェの頼みといっても、これはさすがにまずいのではなかろうか?
ヴィニエーラでも客を叩きのめすのはタンディのときのような、娘に直接的な危害が加えられそうな場合のみだ。
「ふざけるな! この淫売め!」
当然ながらパルティールはそれを聞いて激昂した。
アウラはともかく彼とレジェの間に割って入る。
「えっと、あの……」
こんな場合ヴィニエーラならこうやって抑えていれば良かった。そのうち姉御かウィーギルあたりがやって来て場を納めてくれるのだが―――ここではそれは期待できなかった。
《えっと……どうしよう?》
そのとき部屋の外がざわめいた。
それから扉がばたんと開くと―――かなり年配の痩せた男が入ってきたのだ。
男は部屋の中をじろっと見回す。
髪は薄くなっており、頬はこけて目の下には隈ができている。
だがその眼光には決して侮れない迫力があった。
彼がこの屋敷の主、フェデレ公だった。
「何を騒いでおる」
男はややかすれ気味の声で言った。
「いえ、父上……この女が……」
パルティールは一挙に醒めてしまっているようだ。今は顔が蒼くなっている。
そんな彼を見ながらフェデレ公は言った。
「お前が彼女を選んだのではないのか?」
「ですが……」
パルティールは何か言いたげだったが、フェデレ公にぎろっと睨まれてそれ以上何も言えなくなった。
それからフェデレ公はレジェの方を向くと……
「外で待っておれ」
そう言って出口を顎で指す。
レジェは歯を食いしばったが、黙って頭を下げると部屋を出て行った。
アウラとエステアは慌ててその後を追った。
部屋の外でレジェは怒りで体を震わせていた。アウラもエステアもどう言っていいか分からない。騒ぎを聞きつけて屋敷の他の使用人達も集まってきたが、みな顔を見合わせながら部屋の奥を覗き込むばかりだ。
ドアは開け放たれたままだったので、フェデレ公が子息に何か言っている様子が見えるが、何を言っているかまでは聞こえない。
しばらくすると公は外に出てきて、集まっていた使用人達を見渡した。
侍従達ははそれを見て慌てて礼をする。
それに釣られてアウラ達も頭を下げた。
それからフェデレ公はレジェの前までやってきて言った。
「すまんが今日はもう帰れ」
「はい」
そう言ってレジェが礼をすると、フェデレ公はそのまま踵を返すとすたすたと行ってしまった。侍従達はその後ろ姿を見ながらまた互いに顔を見合わせる。
それからぼそぼそと何か言いながらその場を離れていった。
やがてあたりは再び静まりかえり、レジェとアウラ、それにエステアだけが残された。
「で、どうしてあなたがいるの?」
「えっと、その……呼ばれて……」
そう答えてアウラはちらりとエステアの顔を見る。
本当なら夜番がこんな屋敷の奥に来ているはずがないのだ。レジェが怒り出したらどうしようか? アウラは心配になったが、彼女はそれ以上は何も訊かなかった。
「そう。じゃあ帰るわよ」
「あ、それじゃ馬車回します」
アウラは慌てて厩まで駆け戻って、寝ていた馬を叩き起こして馬車につながなければならなかった。馬も可哀想だが仕方ない。
おかげで正面玄関に馬車を回せたのは、それから随分経ってからだった。
「遅かったわね!」
レジェが待ちくたびれたという顔で言う。
「ごめんなさい。馬が寝ぼけてて」
レジェもそれに対してはあまり文句は言えないようだった。
実際夜明けまでまだ二時間以上ある。アウラは重いトランクを馬車に引き上げると、レジェとエステアが乗り込むのを確かめて馬車を発進させた。
それからしばらくは誰も口をきかなかった。
空は今では雲はほとんどなく、月明かりで道がよく見えるようになっていた。この調子なら帰り道ははかどりそうだ―――そんなことを考えながらフェデレ屋敷への分かれ道まで来たときだ。
「そこ、左に曲がって」
馬車の中からいきなりレジェの声がする。それを聞いたエステアが言う。
「え? でも反対ですよ?」
「いいのよ。わかった? アウラ」
「でもこんな時間に……」
左に行ったらもっと人気のない郊外に行ってしまうのだが―――しかしレジェは言った。
「何か出てきたらあんたがぶった斬ればいいのよ。それが商売だったんでしょ?」
「………………」
そんな商売とはちょっと違うのだが―――それ以上言っても無駄そうなので、彼女は仕方なく言われた通りに馬車を走らせた。
しばらく走ってからアウラは尋ねた。
「えっと、どこまで行くの?」
「アビエスの丘」
レジェがぽつりと答える。
「それってどこ?」
「もうちょっと行ったら右手に見えてくるわ。てっぺんに木が三本生えてるの」
「あ、あそこね」
その場所なら見覚えがあった。
グリシーナの郊外で、葡萄畑の中にこんもりと盛り上がった丘だ。彼女の言うとおりに頂に三本の目立つ木が生えている。
アウラはアビエスの丘の中腹まで馬車を走らせた。馬車道はそこで行き止まりだ。
「えっと、ここまでなんだけど?」
「降りるわよ」
そう言ってレジェはエステアを待たずにさっさと馬車から降りてしまった。
慌ててエステアとアウラが馬車を降りる。
「どこ行くの?」
「うるさいわね。黙って付いてくればいいのよ」
こうなったらレジェは頑固だ。アウラは諦めてエステアと一緒にレジェの後を追った。
レジェはそのまま真っ直ぐ丘を登っていく。
月が出ていて足下はうっすらと見えるが、あんなスピードだと躓いたりしないだろうか? そんなことを思っていると―――果たしてレジェは黒い石に躓いて転びそうになった。
アウラが慌てて横から支える。
「もっとゆっくり歩いた方が……」
レジェはぎろっとアウラを睨んだが、何も言わずに少しゆっくり目に歩き出す。
しばらくして三人は丘の頂につくと、アウラは歓声をあげそうになった。
ここの空は物凄く広い。地上は真っ暗だが頭上には満天の星が輝いている。
レジェは腰を下ろそうとして草が濡れているのに気が付いた。
「エステア。何か敷くもの持ってきて」
「ええ? は、はい」
アウラが何か言う前にエステアは馬車の所まで駆け下りていった。あそこを往復するのは結構きつそうなのだが……
しばらくしてはあはあと息を切らしながらエステアが戻ってくる。
「ありがとう」
レジェは敷物を受け取ると自分で草の上に敷いて、すとんと腰を下ろした。
アウラとエステアが横で呆然と立ちつくしていると、レジェは言った。
「何してるのよ。座りなさいよ」
そう言って彼女の両側を叩く。
そこで二人はレジェを挟むように腰を下ろした。
三人はそれからしばらく黙って天の川を眺めていた。
やがてその沈黙にエステアがいたたまれなくなったようだ。
「あの」
「なによ?」
エステアはレジェに何か尋ねようとしたが、レジェはとりつく島もない。
「……なんでもないです」
エステアはそう言って黙り込んでしまう―――だがそれはレジェが話し出すきっかけになったらしい。
それからしばらくしてレジェはふっと笑い出すと―――それから吐き捨てるように言った。
「バカみたい! 何考えてんだか……」
次いでぷるぷると首を振りはじめる。
アウラとエステアは訳が分からず、ただ彼女を見つめるのみだ。
それからレジェがぽつりと言った。
「あたし……貧乏が嫌いだったわ」
それからレジェは、彼女が生まれた村のことを話し始めた。
彼女が生まれたのはシルヴェスト東部山間の名もない村だった。山がちな地形のせいで耕地は少なく人々は貧しい生活をしていた。
彼女の両親は典型的な貧乏人の子だくさんで、レジェはたくさんの兄弟姉妹の中に埋もれて育った。
「でもあたしは人より綺麗に生まれたのよ。それだけは分かってたわ。でもあの村にいたらぼろぼろになるだけ。お母さんだって若い頃は綺麗だったっていってたけど……今じゃ見る影もないから。あの村にいたらあたしもすぐにあんな風になっちゃうって思った……だからあたし、ここに来たの。人買いがやってきたから自分で売り込んだのよ? 両親には内緒で……それで怒られるかと思ったら全然違うの。はいそうですかみたいな……」
レジェは唇を噛んだ。
それから誰かを睨み付けるかのような表情で言った。
「だから絶対成功してやるって思ってたわ。来たからにはうんと金持ちを捕まえて、村の奴らを見返してやろうって……そのためには何でもしたわ」
レジェはそう言ってしばらく黙り込み、それから囁くような声で最後の科白を再び繰り返した。
「そう……何でもしたわ……」
レジェは下を向いて黙り込んだ。
だがすぐに彼女は再び顔を上げるとアウラの顔を見て言った。
「そしてやっと夢が叶ったんだから……フェデレ公ってシルヴェストでも三指に入る名門だし。しかも後妻とか妾とかじゃなくてちゃんとした妻にしたいって。こんないい話ある?」
アウラはうなずいた。
だがその様子を見てレジェはふっと笑うと、皮肉っぽい声で言った。
「ふうん。アウラ、じゃあ訊くけど、あなたなら金持ちだけど愛してくれてない人と、あたしを愛してくれてるけど貧乏な人ならどっちがいいの?」
いきなり難しいことを問われてアウラは目を白黒させた。そんなことは今まで考えたこともなかったが……
「さあ、どうなのよ?」
そこでアウラは正直に答えた。
「貧乏じゃない方がいいかも……」
レジェはふっと鼻で笑う。
「みんな口ではそう言うのよ? 愛があれば辛い生活でも耐えられるのなんだのって……でもそんなのが何の腹の足しになるって言うの?」
「え? だから、あの、貧乏じゃない方がいいって言ったんだけど……」
「え?」
レジェは驚いてアウラの顔を穴が空くほど見つめた―――確かにアウラはそう言っていたのだ。
「だって貧しい所って生活大変だし……」
今度はレジェは怒り始めた。
「あんたねえ、本気? あたしはマジなのよ? こんなときに冗談とか言ったら怒るわよ?」
「嘘じゃないんだけど……男に愛されるのってそんなにいいの? よく分からないんだけど」
それを聞いたレジェは、まじまじとアウラの顔を見た。
「あんた……本当に女の子しかだめなの?」
「別にそうじゃないと思うけど……でもあれ以来男が近づくとこれが痛くって」
アウラは自分の胸を指さした。
「………………」
レジェもアウラの胸の傷の事は知っていた。
アウラは今までそれを付けられたときのことを詳しく話したことはなかったが、遊女達はアウラの様子から薄々どんなことをされたかは気づいていた。
彼女ももちろん他の遊女からそれは聞いていただろう。
レジェはしばらくぽかんとアウラの顔を見つめた後、また吹き出した。
「何やってるのかしら。バッカみたい!」
レジェはがっくりとうつむいた。それから横目でアウラの顔を見ると言った。
「何であんたなんか連れてきたのかしら」
「ごめんなさい……」
「いちいち謝らないでよ!」
「………………」
アウラはもう何と言っていいのか全く分からなかった。何を言っても怒られそうだ……
「あー、もう。いらいらする! あいつもそうだしあんたもそう。ああ、どうしてあたしがこんな目にあわなきゃならないのよ!」
そう言うと今度はレジェは顔を埋めて泣き出した。
しばらくレジェの小さな嗚咽が続く。
アウラがどうしたものかと考えていると―――さーっと冷たい風が吹き抜けていった。
レジェがぎゅっと体をすくませる。今は一番寒い時間だ。見るとレジェのむき出しのふくらはぎに鳥肌が立っている。アウラは彼女の体に毛布をかけてやった。
その瞬間、レジェは顔を上げると涙声で言った。
「あんたも、パルティールもユーリスも、みんな大嫌いよ!」
普通ならびっくりする所だが、アウラはそんな風に娘達の言葉と態度が裏腹なのはよく見知っていた。
アウラはレジェの背中を撫でてやりながら、ついうっかり尋ねてしまった。
「ユーリスって?」
レジェが今度は本気で怒った顔をあげる。
「貧乏人よ!」
「ごめん……」
アウラは何だかよく分からなかったがともかく謝った。
それからは三人は言葉を交わさず黙って夜空を見上げていた。
やがて東の空が明るくなってくる。
「帰りましょ」
レジェがいきなり立ち上がるとつかつか歩き始める。アウラとエステアはまた慌ててその後を追った。
彼女の後を追いながらエステアがアウラの肘をつつく。
「お姉様」
「うん?」
アウラがふり返るとエステアは小声でアウラに言った。
「ユーリスさんって、レジェ姐を前ここに連れてきたことがあるんです」
「ええ? そうなんだ」
だがそれはレジェに聞こえてしまった。彼女は振り返るとエステアを睨んだ。
「エステア! 何勝手に喋ってるの?」
「うわ! ごめんなさい。でもみんな知ってるし」
レジェは戻ってくるとエステアの両ほっぺをつまんで引き延ばした。
「だ・か・ら何よ? あんたいつも一言多いのよ!」
「ふ、ふみまへん」
彼女が泣き出す前にレジェは手を離すと、またつかつかと馬車の方に行ってしまった。
「だいじょうぶ?」
アウラはエステアに声を掛けるが……
「ふぁい」
そうは言いつつも涙目だ。
彼女の頬にはまだレジェの指の跡がついていて、可愛らしい顔が台無しだ。
アウラは慰めてやりたかったが、そんなことをしていたらまた怒られそうだ。
二人はレジェの後を追った。
三人がヴィニエーラに帰り着いたときにはもう完全に日が昇って、明るくなっていた。彼女達の生活時間帯の上ではそろそろ寝る時刻だ。
アウラはレジェ達を降ろすと馬車を車庫に入れて、自分の部屋に戻ろうとした。
そのときまたエステアがやってきた。
「お姉様、あの……」
「なに?」
何か忘れたのだろうか? それともまたレジェにいじめられたのだろうか?
だがエステアの答えはどちらでもなかった。
「あの、レジェ姐がお姉様に来てくれって言ってます」
「ええ?」
今度は一体なんだろうか? 帰りがけに特にまずいことをした記憶はないのだが……
でも待たせたらまた機嫌が悪くなるだろう。
「わかったわ」
そこでアウラはレジェの部屋に向かった。
「アウラです」
ノックをしながらそう名乗ると、中からレジェの声がする。
「入って」
特に怒っている風でもない。
アウラは訝しみながら、怖々とレジェの部屋に足を踏み入れた。
夜番の業務上、この八角御殿の廊下は日に何度も通り過ぎるが、レジェを含むプリマ達の部屋にはほとんど入ったことがなかった。
《うわあ……》
アウラは入り口を抜けた所で立ちつくしていた。その部屋の光景に少々圧倒されてしまっていたのだ。
レジェの部屋はあらゆるところが真っ白で繊細なレース編みで飾られていた。
壁面の飾りも、ソファーやテーブルの覆いもそうだ。
レースにはきらきら輝くガラスのビーズが編み込まれていて、蝋燭の光を受けてきらきら輝いている。
このレースは全てレジェが自ら編んだものだった。
「どうしたのよ。座りなさいよ」
目を丸くして部屋の中を見ているアウラにレジェが手招きした。アウラは慌ててレジェの横に腰を下ろす。
部屋付き遊女の部屋は、入った所にこの応接間、その奥に寝室と浴室の計三部屋でできている。
個々の部屋は決して広くはないが、その内部はこのように自分の好きな内装することができる。これを手に入れるために彼女たちは、それこそ血のにじむような努力を重ねるのだ。
ここはヴィニエーラに限らず、あらゆる遊女達の一つの目標地点だった。
「どう? この部屋」
いまだに声のでないアウラに、レジェが少々誇らしそうに言った。
「いい部屋ね」
「それだけ?」
「レースがとっても綺麗。蜘蛛の巣みたいで」
レジェは一瞬ぽかんとしてから、いきなり笑い始める。
「ここに来てそんなこと言ったのはあなたが初めてだわ!」
《え?》
アウラはここに来るまではよく森の中で野宿などをして暮らしていた。すると実際に、朝露でたわんだ蜘蛛の網が、朝日を受けて宝石のようにきらきら輝いているのをよく目にしたものだが―――それはとても美しかった。
だから決してけなすつもりで言ったのではなかったのだが―――そういった美的感覚はあまり一般的ではなかったようだ。
それに気づいてアウラは慌てて謝った。
「ご、ごめんなさい……」
だがレジェは怒らなかった。
「蜘蛛の巣ね……それじゃあたしは女郎蜘蛛ね。あの蜘蛛、綺麗だから好きなのよ?」
「え? そうなの?」
今まで蜘蛛が好きだなんて言う女の子に出会ったことがなかったので、アウラは少々驚いた。彼女自身は別に他の虫と同じで好きでも嫌いでもなかったのだが……
そんなことを考えているとレジェがぽつっと言った。
「……にしても、今日はあんたが人気のあるわけ、よく分かったわ」
「え?」
驚いてアウラはレジェを見る。
レジェはアウラの顔を見つめると言った。
「どうしてそんなにあなた優しいの?」
いきなりそんなことを問われても、答えようがない。
アウラは口ごもった。
「何でって言われても……」
「あんなに強いのに、もっと威張ってみたら?」
「え?」
アウラは今までそんな風に考えてみたことがなかった。
確かに男達の間では威張れるかもしれない。男共はなぜか他人より自分が強いかどうかにひどくこだわるのだ。
だが、彼女にとって薙刀を振るって戦えば勝てるというのは、もはや自明なことだった。
大人が子供相手に喧嘩で勝てるからといって、威張ったりはしないものなのだが?―――それにここでは強いことよりも美しいことの方に意味がある。
だがそちら方面では戦いにすらならなかった。
頭を抱えてしまったアウラを見てレジェが笑った。
「そんな風だから残花連中がみんな頼っちゃうのね?」
「えええ?」
「あんなに強いのに全然怖くないし、落ち込んでたら慰めてくれるし」
頼られている?―――確かにその通りだ。
だが、アウラにとってそれは自分では納得できていないことだった。だからアウラはつい本音を漏らしてしまった。
「別に……それが役割だし……」
そう言ってしまって、あっと口に手を当てる。
「役割……ね」
レジェがにやにや笑いながらアウラの顔を見た。
「黙ってて! それ」
アウラは真っ青になって懇願した。
だがそんなアウラを見てレジェは不思議そうな顔になった。
「どうして? みんな知ってるのに」
「え?」
ぽかんとアウラが問い返すと、レジェが答えた。
「ウィーギルがいじめて、あんたが慰めるんでしょ? 誰だって気づいてるわよ!」
気づいてる? みんな? じゃあ、それじゃあ……
「ならどうして……」
しどろもどろのアウラを見て、レジェがおかしそうに笑った。
「あのねえ、分かってる? ここじゃみんな嘘つきじゃないとやってられないのよ?」
「………………」
言葉のでないアウラにレジェは話し始める。
「郭なんてのはね、みんな嘘でできてるの……ああ、嘘って言うのも響きが悪いわね。そうね。夢ね。夢。そっちの方がいいわ。ここは夢の楽園なのよ。一晩だけのね……」
レジェは自分の部屋の中を見回した。
「郭には理想の女がいるのよ。あたし達はね、お客の求める理想の女になってあげるの。お金をもらって一晩だけね。朝が来るまでは。陽の光が射しこんできたらそんな娘は煙になって消えちゃうのよ。もうどこにもいなくなるの。だからここには窓がないの……」
そう語るレジェの顔に蝋燭の光が揺らぐ。
「そして、次の夜には違った人の違った理想の女になるのよ。違った男を同じように見つめて、あなたがいいの、あなたが欲しいのって囁いてるのよ。そしてね、馬鹿以外はお客だってそのことを知ってるのよ。だから上手くいってるの。夢は……覚めるものなんだから……」
夢は、覚めるものなんだから―――そう言ったレジェは何かちょっと寂しそうだった。
「でもね、夢ってのは必要なの。要らない物だったらお客がわざわざ高いお金を払って来てくれるわけないわ。女のアソコが欲しいだけなら、もっと安い所がいっぱいあるし。単に突っ込みたきゃ別にあれで構わないから……あたし達があいつらと違うのは……そうよ、お客に夢を見せてやれるところなの……」
アウラは黙ってうなずいた。
レジェの言うことは今ひとつよく分からなかったが、彼女がいま真剣に話していることだけは分かる。
「それだったら……あたし達が見る夢があったっていいんじゃない?」
「え? うん」
アウラはうなずいた。
遊女達はみんなそれなりの夢を持っている。究極の夢はどこかの貴族の奥方などに収まれることだが……
「タンディがお菓子屋さんを開きたいみたいな?」
レジェはまたふっと笑う。
「そんな夢じゃないのよ」
「え?」
「そんな叶うか叶わないか分からないような夢の話じゃないの。大体あなた、何でお客がお金を出すか分かってる? あの人達は一晩の間“確実に”見られる夢を見に来るのよ? どうしてかって? 簡単よ。あの人達だって同じような夢を持ってるの。出世したいとか、手柄を立てたいとか何とか……」
アウラは曖昧にうなずいた。
「でもそれって叶うか叶わないか分からない、本物の夢でしょ? そんな夢なんて結局のところは叶わないの。分かるでしょ? だから夢なんだから……」
「………………」
「だからあたし達の与えてあげられる夢が必要になるの。これはたった一晩の、しかも有料の夢だけど……でも確実に見ることができる夢だから……」
そう言ってレジェはアウラの肩に手をかけた。
「それでね、あたし達だってそんな夢を見たくなるときがあるのよ?」
レジェはアウラの顔を正面から見据えた。
「ここに来る子は、みんな玉の輿に乗る事を夢見てやってくるわ。よしんばそれが無理でも、お金を貯めて、それこそお菓子屋さんを開いたりとか。でもみんながそうできるわけじゃないわよね?」
「え? まあ……」
それは確かにそうだが―――アウラが口を濁しているのでレジェが尋ねる。
「カナリ、どうなったか知ってる?」
「え? いえ」
彼女のことを考えると胸が痛んだ。
あのあと彼女は結局ヴィニエーラから落ちることになってしまったのだ。アウラは彼女の行く先を知らなかった。
「あたしも知らないわ。でも同情はしないわ。それはあの子自身のせいだから。あたしだって今はこうしてるけど、いつあの子と同じになるかなんて分からないし……毎日一人で寝る時はずっと不安だったわ。最近前ほどには肌の張りがなくなってきたし、衰えた遊女がどうなるかなんて、あなただって知ってるでしょ?」
アウラは黙ってうなずいた。
たとえプリマでも衰えて客を取れなくなったら、部屋を明け渡さなければならない。そうなればまた部屋無し生活に逆戻りだ。
だが大抵のプリマはそんなことは誇りが許さなかった。
そして彼女たちは一人で出て行く道を選ぶのだ。
その後の彼女たちの消息は風の噂でしか入ってこない。
上手くいっているという話もあれば、悲惨な境遇に落ちているという話もある。だがいずれにしてもそこにかつての栄光は微塵もない。
「だから気持ちは分かるのよ。何か確実なものが欲しいって気持ちが。とりあえず今晩だけでいいから、この不安を紛らわせたいって……」
そう言ってレジェは少し言葉を切った。
「あたしが村娘だった頃はね、そんなときは妄想に耽ったものよ。白馬に乗って王子様がやってきて、あたしを見初めてくれるの。王子様があの貧乏な村からあたしを救い出してくれるのって……でもさすがに今はそんなことは思わないわ。ここにはもっとふさわしい人がいるんだから」
そしてレジェはアウラの髪を撫でながら言った。
「そう。とっても強くて、とっても優しくて、とってもお上手なお姉様がいるじゃない?」
「え? あの、その……」
そう言われて何故だか知らないがアウラは顔が熱くなった。
「そういうわけでね、とっても強くて、優しいことは分かったんだけど、最後の奴がどうなのか教えてくれない?」
「え?」
こんな風に迫られたのはさすがに初めてだった。
まごついているアウラを前に、レジェはいきなり立ち上がると着ていた衣を脱ぎ捨てた。
「どう? あたしは?」
素晴らしい肢体だ。なめらかな肌。豊かな胸。くびれた腰―――多くの遊女達の裸を見慣れているアウラから見ても、ほぼ完璧と言える姿だ。
「綺麗……」
アウラはただ一言、そうとしか言えなかった。
レジェが微笑んだ。
「ありがとう。あなたが言ってくれると本当にそんな気がするわ」
「だって本当だから……」
「いいのよ。さあ、あなたも脱いで」
そういってレジェはアウラの服を脱がせにかかる。
だがアウラはその手を押さえて言った。
「え? でも厩から戻ったばかりだし」
レジェはまた吹き出した。
「そうね。じゃあ一緒にお風呂に入りましょうよ」
「う、うん……」
二人は彼女の部屋の専用の風呂に入り、それからレジェの豪華なベッドの上で戯れあった。
やがてレジェは何度も絶頂に達した挙げ句、疲れ果てて眠ってしまった。
その寝顔はひどく安らかに見えた―――そんな彼女を見ながらアウラは思った。
《あたしが、彼女たちの夢なの? あたしが夢見てるんじゃなくって?》
未だに実感が湧かなかったのだが、レジェは今、素晴らしいことを教えてくれたのだ。
アウラはここにいたいと望んでいたのだが、ここのみんなもアウラにいて欲しいと望んでいたのだ。
―――そう。アウラはここにいてもいいのだ。