第9章 トラップ大発動!
グリシーナの墓地は夕闇に包まれ始めた。
墓地の中央にある広場の脇のベンチに座って、フィンは来るべき時を待ちかまえていた。
《またここでやるとはな……》
ここはグリシーナに最初に来たとき、例の賞金稼ぎ達と一戦交えたまさにその場所だが―――同じ場所で今度は最後の大勝負をやろうとしている。
だが今回は前回とは違って大船に乗ったような気楽さがあった。
フィンはゆっくりと周囲を見回した。
墓地はちょっとした谷間にあって、明るい林の中にたくさんの墓石が立ち並んでいる。
時々その墓石の陰でちらっと動く物が見える。親衛隊の兵士達だ―――そう。今回は二人だけではなく、周囲をアラン王の親衛隊が固めてくれているのだ!
これならば相手がどう出ようとまず間違いなど起こるはずがない。
―――これも全てアウラが例の剣を持ってきてくれたお陰だった。あれがなければどうなっていたことか……
《二人……とか、洒落になってないよなあ……》
フィンとアウラだけで内通者の一味と対決とか……
確かに彼女と一緒ならそう簡単にはやられなという自信はあった。だが今回の場合、単に敵をやっつければいいというわけではないのだ。上手くしないと、単にフィン達がシルヴェストの高官を殺害したという事にもなりかねない。
だが今はもうそんな心配はない。近くにはアラン王の親衛隊が十名近く潜んでいる。
何が起こったって証人としては全く十分だった。
―――そんなことを考えていると、墓守がやって来て広場の周囲の燈火を点けていった。
墓守はその作業をしながらちらっとフィンの方を見たが、ぺこっと頭を下げただけでそのまま通り過ぎて行った。
彼にもこれからここでちょっとした捕り物が行われることは伝えている。もちろんそんなややこしいことには関わらないのがいいと思っているのだろう。全くその通りだが……
ともかくやるべき事はやった。
後は奴らが来るのを待つだけだ。
「それにしても……あいつ、まだか?」
そうつぶやいてフィンは周囲を見回した。
アウラがあたりの下見をしてくるとか言って周囲を歩き回り始めたのだ―――見るとちょっと離れた所で誰かと話している。
まだ時間はありそうなのでフィンはそちらの方に行ってみた。
アウラが話していたのは壮年の目つきが鋭いがっしりした男で、王宮の親衛隊の制服をぴしっと着ている。
彼は親衛隊長のベルヴァという男だった。
フィンが近づいてくるのが見えると、男は軽く頭を下げた。フィンもうなずくと尋ねた。
「何かありましたか?」
「いえ、特に。ただ隊員達も少々緊張しておりましてな。アウラ様に緊張をほぐせと言われました」
「あたしが急に行ったら隠れてた人達、びっくりして抜きそうになって」
「そりゃお前が急に現れたら誰だってびっくりするだろうが?」
彼女はその気になったらほとんど物音を立てずに動くことができる。
ガルサ・ブランカ城でいじめられていた頃は、良くそうやって背中に虫とかを入れられたものだ。
だがそれ以前にこんな状態では緊張するのが普通だ。
《大体、レイモンとの内通者を捕らえようとしてるんだぞ?》
こそ泥なんかとは訳が違う。はっきり言って呑気なのは彼女だけなのだが……
まあそんな所がアウラらしいと言えばそれまでだが……
「すみません。ベルヴァ隊長」
「いえ、こちらこそ」
隊長は再びフィンとアウラに軽く礼をする。
それからフィンはアウラと共に広場のベンチに戻った。
「下見はどうだったんだ? 何かあったか?」
アウラは首を振る。
「ううん。でも結構落ち葉とかがあって滑りやすいかも。木の根とかもあっちこっち出てるし」
「そうか」
これまではほぼつつがなく計画は進行しているが、ここからが最終段階なのだ。
今回の作戦では彼女に暴れてもらう予定はなかった。
だがもちろんどんな突発事態が起こるかは分からないので、戦場になるかもしれない場所を調べておくのは理にはかなっていた。
《そんなことになってもらっちゃ困るんだがな……》
フィンの立場としては、いくら彼女が強いからといって、あまりそんな汚れ仕事を任せるのには抵抗があった―――かといって自分でやるのも当然嫌だし、無理でもある。
だからそうならないよう常々努力してきたつもりなのだが、何故だかいつもこんな調子になってしまうのだ。
フィンは苦笑いしながら考えた。
《でも少なくとも今回は大丈夫だろ?》
アウラが持ってきてくれたブルガードの短剣は、絶大な威力を発揮してくれた。
これのお陰でフィンは秘密裏にアラン王の親衛隊と連絡を取ることができた。待ち合わせの場所を書いた手紙をそれで封印して送っただけなのだが……
ともかく今回の彼らは敵に接触して自白を引き出すことさえできればよかった。後は親衛隊がよしなにしてくれるだろう。
それだけでなく親衛隊の人達には非常に良くしてもらってもいた。
接触後はグリシーナにある秘密のアジトに紹介されて、そこでこの日まで安全に隠れることができた。
計画の細々とした所は彼らがみんなやってくれた。
《まあ、初めて会ったときは結構緊張したけど……》
もし親衛隊が敵の手に落ちていることがあれば、やって来るのは敵の暗殺隊だからだ。
ただ奴らは親衛隊員を二名も殺している。さすがに味方をあんな風に殺すことはしないだろう―――というより、もし彼らが敵ならブルガート達に寝首をかかせた方が確実だ。
すなわち親衛隊その物が敵のことはほぼあり得なかった。
ただ隊員に敵のスパイが紛れている可能性はあるが―――ともかく最初の接触時が最大の勝負だった。
フィンは待ち合わせ場所にグリシーナの丘の中腹にある高級な料理店を指定していた。
そこはバラノス氏に紹介してもらった店で、商談などをするのに適した個室があって、その窓からはグリシーナの夜景がよく見える。
それはとりもなおさず、まずいことになったらいつでも逃げられるということでもある。
―――待ち合わせ場所にやって来たのはベルヴァ隊長自身だった。
そのときフィン達は最大限の緊張下にあった。
彼らは窓を背にした席に座り、いつでも飛び出せるよう準備をしていた。
ベルヴァは入って来るなり立ったまま二人に尋ねた。
「ル・ウーダ様、アウラ様、これは一体どうしたわけなのです?」
フィン達は彼のことはあまりよく覚えていなかったが、彼の方は二人をよく覚えていたようだ。
フィンはじっとベルヴァの顔を見てから答える。
「手紙に記したことはお読みになりましたか?」
ベルヴァは黙ってうなずいた。
「だとすればそういうことです」
それを聞いてベルヴァは首をかしげながら言う。
「にわかにはなかなか信じがたい話なのですが……」
彼がそう思うのも当然だ。何しろ話が大きすぎる。
「それはそうだと思いますが、こちらは証拠品まで押さえてあります。今日はその現物を持ってきておりますが……」
そう言ってからフィンは言葉を切った。
さてここからが正念場だ。
フィンはベルヴァの目を見ながら慎重に言った。
「それを渡して斬られてしまったらちょっと困るんですが」
ベルヴァがフィンを見返す。
「私をお疑いですか?」
フィンはうなずいた。
「とりあえず今のところは、ということですが……もちろん私達が慎重にならなければならない理由はご理解頂けると思うのですが?」
ベルヴァはふっと笑う。
「しかし、こういった場合の潔白の証明は難しいものですな?」
それを聞いてフィンは微笑むと答えた。
「そうなんですよ。なので約束して頂けませんか? そういうことはしないって」
ベルヴァの目が丸くなる。
そんな答えはあまり予期していなかったようだ。
「……それはたやすいことですが、それで疑いは晴れるのでしょうか?」
不思議そうなベルヴァにフィンは笑いながら言った。
「そういうわけではありませんが、ただこれからお渡しする現物ですが、見て頂ければ分かりますが、それが私の捏造でないと証明するのも結構難しいんですよ」
ベルヴァは一瞬ぽかんとしたが、次いで笑い出した。
「ははは。なるほど。それなら私が敵でもすぐにはあなた方を斬れませんな。では私を信用して手紙を見せて頂けますかな?」
そこでフィンは懐から手紙を出して見せた。
ベルヴァはその手紙を慎重に調べてから文面を読み、それからフィンに戻す。
「同じ事が書かれていますな」
「そうですね。短い手紙ですから」
そう言いながらフィンはアウラを見た。
彼女はこっそりハンドサインでNOと返す―――ということは、ベルヴァがその手紙を見た際に、彼女にも何ら変わった素振りは見つけられなかったということだ。
なぜなら―――彼に本物だと言って渡した手紙は、実はフィンがでっち上げた偽物だったからだ。
それを見てもし偽物と気づいて何らかの反応をしてしまったら―――彼は敵確定だ。手紙の真偽が分かるのは敵だけだからだ。
しかしベルヴァ隊長はこれを見て反応しなかった―――ということは彼が敵ではないか、もしくはそれを一目見た瞬間にフィンの意図を察して、フィンにもアウラにも全く気づかれずに芝居を打ったということだが……
自分はともかくアウラまで欺くのはかなり難しいはずだ。
《ベルヴァ隊長はどうやら信頼できそうだ……》
フィンは大きく安堵の息を吐いた。
「さて、こんな立ち話も何ですから、まずは再会を祝して乾杯しませんか?」
隊長は黙って席に座ると、ワインのグラスを取り上げて乾杯した。
「アラン様のために」
杯を干すとまずフィンは気になっていたことを尋ねてみた。
「ところでお訊きしたいのですが、私たちが襲われた話、城には伝わっていましたか?」
ベルヴァは首を振った。
「いえ。ワイン街道で落石があって通行不可になったという話は報告されていますが、それで誰か死んだとか言う話はありませんでしたな。我々はル・ウーダ様一行はロタにいるものとばかり考えておりました」
「そうですか……ではブルガードさん達は……」
ベルヴァは沈痛な表情で首を振る。
「彼らの死体は見つかっていません。馬車の残骸も片づけられてしまったようで、そこにはありませんでした。ただよく調べれば細かい破片などが出てきて、ル・ウーダ様のおっしゃったことに間違いはないでしょう」
「そうでしたか……」
素早い対応だ。どうやら信じてもらえているようだ。
「ともかくあれはお返しします」
フィンはアウラに目配せした。
アウラはうなずいてブルガードの短剣を取り出す。それを愛おしそうに撫でると、ベルヴァ隊長に差し出した。
隊長は黙ってそれを受け取って、じっと見つめる。
「感謝しております。ル・ウーダ様。ブルガードは私が見込んだ男でした。責任感があって。いずれは隊を任そうかとも思っていた矢先に……」
隊長の目にうっすらと涙がにじんでいる。
それを見てフィンももらい泣きしそうになった。
確かにいい奴だった。短い間だったが彼らとの旅は楽しかった―――だが今は彼の追憶に耽ってばかりはいられない。
「それでアラン様はこのことに関しては?」
フィンが尋ねるとベルヴァはうなずいた。
「はい。由々しき事態だと。それでル・ウーダ様の計画を全面的にバックアップせよとの仰せです」
「ありがとうございます。この手紙だけでは不十分ですし。でも上手く行けば内通者をあぶり出すことができます」
「我々もこいつらだけは許してはおけませんから」
そして彼らは細かい計画の打ち合わせを始めた―――
こうして親衛隊とコンタクトが取れた所で、フィン達にとっての事件は終わったような物だった。後はもう彼らに任せておいてもいいくらいだ。
だが内通者をおびき出す所まではフィンとアウラは自分の手でやりたかった。
ここまで彼らを追いつめてくれた敵の親玉の顔を、一目見てやりたかったからだ。
《本当にフェデレ公なのかな?》
状況証拠はかなりある。
だが本当に彼が黒幕かどうかは、関係者がおびき出されてやってくるかどうかでしか分からない。
ベルヴァ隊長も実際首をかしげていた。
確かにフェデレ公の男色趣味はあまり誉められたものではないにしても、彼の手腕と王への忠誠心は誰もが認めていたからだ。
だからこそ迂闊な行動はできず、動かぬ証拠が必要だった。
それにはあの手紙ではなく、フィンがあの卵に忍ばせたもう一通の手紙の役割の方が重要だった。それにはこう書いてあった。
お得な商談があります。次の満月の日の夕刻、ミトロ広場の塔の下でお待ち下さい。その際分かりやすいように何か赤い物をお持ち願います。ラッキーワードはカナリアです。
なお定員はお二人までとさせて頂きます。
無名の友より
たとえ手紙を突きつけたとしても、相手が知らぬと言い通せばそれまでだ。
だが例の卵に忍ばせた上記の手紙を見てやって来て、本物を買い戻そうとしたならば、もはや言い逃れはできないだろう。
そしてこの手紙をすり替えた者が金目当てだと思ってくれたなら、関係者がやってきて取引に応じる可能性は高い。
その瞬間を親衛隊に目撃してもらう事こそが今回の作戦の肝だった。
《さて、どんな奴が来るかな?》
黒幕本人が来るかどうかはともかく、少なくとも内通者組織の重要人物が来るのは間違いないだろう。使いっ走りにできる使命ではない。
フィンがそんなことを考えていると、遠くから馬の早駆けの足音が聞こえてきた。
見ると墓地の入り口から兵士が一人入ってくる。兵士はフィンの側まで来て報告した。
「広場を出ました。馬に乗って二人来ます」
フィンは大きく深呼吸すると兵士に礼を言った。
「ありがとう」
兵士も礼を返すと、そのまま墓地の奥に行く。隊長に報告に行ったのだろう。
どうやら本気でかかったらしい。
彼はミトロ広場に何か赤い物を持ってやって来たのだ。すると子供がやってきて、好きな小鳥は何かと訊いてくる。男がカナリアだと答えれば、子供は手紙を渡す。その手紙には今すぐ墓地まで来いと書かれている。
《そして奴らは広場を出たか……》
あそこからここまでは馬ならば十分くらいか。
さて、最後のクライマックスだ。
墓地はしんと静まりかえった。
フィンはアウラの顔を見た。
「そろそろ本番だな」
「うん」
アウラは笑っているとも怒っているともいえないような表情で、墓地の入り口を見つめている。
これから来る奴は彼女にとっては最も憎むべき敵だった。
ヴィニエーラ時代のアウラは幸せだった。
それはハスミンと戯れるアウラの姿を見たことで、ほとんど確信できていた。
もしあの事件がなければ彼女はずっとあそこで幸せに暮らして行けたのだ。
そして受けた傷のことも徐々に忘れていけたに違いない……
奴らはその幸せを粉々にうち砕いてしまったのだ。
《でもそれがなかったら……》
そう。そうなればフィンがアウラと出会うこともなかった。
二人の人生は交わることなく、互いを知ることもなく別々の道を歩んでいったことだろう。
だが今、アウラがフィンの横にいるのがまるで当たり前になっていた。
側に座るアウラと肩が触れ合っているが―――これはもう自分の手足があるのと同様に、存在するのが当然といった感触になっていた。
彼女無しの生活なんて―――まるで大昔のようだ。互いに好きになってからも結構すれ違いが多かったというのに……
そう考えると、これからやってくる奴のお陰でフィンはアウラと出会えたとも言えるわけだ。
《ある意味恩人か?》
そう思ってフィンはふっと笑った。
「ん?」
「いや、何でもない」
さすがに冗談でもこればっかりは言えない。
運命というのは何がどう転ぶか全く分からないというだけで……
そして、時がきた。
墓地の入り口から馬の蹄の音が聞こえてきた。
フィンはアウラと顔を見合わせると、立ち上がって敵が来るのを待った。
やがて墓地の門から馬に乗った二人の男が入ってきた。
両者ともこの暑いのにすっぽりと顔が隠れるようなローブを羽織っている。
男たちはすぐに広場の奥に立っているフィンとアウラを見つけた。
それに気づくと二人は馬を止めて、すっと地面に降り立った。
その瞬間、アウラがフィンの腕をぎゅっと握る。心なしかその手が震えているのだが……
「ん?」
アウラが後ろの男を指さすと……
「あいつ、エレバスよ」
………………
…………
……
「な?」
フィンはがんと頭を殴られたような気がした。
《エレバスだって?》
あの金貨五十枚の?
マジか? 本気で奴らの手先だったのか?
フィンは目をこらして男を観察した。
顔はローブのフードで隠れて見えないが、体格は確かにあのとき見たエレバスのような気もする。フィンには確かな判断はできなかったが、アウラには分かるのだ。
彼女は奴の身のこなしを見て確信したのだ。こんな場合のアウラの判断に間違いはない。
《うっかりしていた……》
その他のごたごたがありすぎて奴のことは忘れていた。確かにその可能性はゼロではなかったのに……
と、そのとき前の男がフードを上げて顔を見せた。
その男には間違いなく見覚えがある。フェデレ公だ!
しばらくは誰も口を開かなかった。それからフィンが言う。
「フェデレ公……本当に貴方でしたか」
それを聞いたフェデレ公も答える。
「何と……あなた方だったか」
フェデレ公は驚きを隠していなかった。
「一体何者が、とは思っておったのだが……一体どうやってあれを無傷で切り抜けた?」
「まあいろいろと運がいいことがあったんですよ」
フィンは首を振りながら答える。
それを見てフェデレ公がふっと笑う。
「なるほど。まあいいだろう。それで売りたい物とは?」
「これですよ」
フィンは懐から紙片を取りだした。
「見てみますか?」
「ああ」
フィンはフェデレ公との中間の位置まで歩いて行くと、地面の石の上にその紙片を置いた。
それから後戻りすると今度はフェデレ公が紙片を取りに来る。
だが戻ってからその紙片を見るなりフェデレ公は言った。
「これは偽物ではないか?」
フィンはうなずいた。
「そうです。でも書かれてることは本物に書かれていたのと同じ内容ですよ?」
「なるほど。用心深いことだな。で、本物はどこにある?」
「まあ、然るべき所にと言っておきましょう」
フェデレ公はじっとフィンを見る。
「で、何が目的だ? ル・ウーダ殿である以上、金というわけではあるまい?」
「まあ確かにそうです。まず何で貴方がそのようなことをしているのか知りたいですね」
フェデレ公は眉をひそめる。
「そんなことを聞いてどうする」
「アウラの親友だったレジェや、ブルガード伍長といった人達がなぜ死ななければならなかったのか、その理由を知りたいんですよ」
だがフェデレ公は即座に首を振る。
「教えるわけにはいかないな」
「いきなり交渉決裂ですか?」
「だとすればどうする?」
フェデレ公は再びじっとフィンを見つめる。フィンは答えた。
「当然この情報が然るべきルートで然るべき人に知らされることになります」
「然るべき人とは? 例えばアラン様とかか?」
フィンはうなずいた。
「まあ、そうですね。そのための準備は整っています」
だがその途端フェデレ公は大きな声で笑い出したのだ。
「ははははは! なるほど! ならば仕方ないようだ」
そう言うなり彼は横の男に目配せした。
それと共に男もローブを脱ぎ捨てる。今度はフィンにも確実に分かった。エレバスだ! あのもじゃもじゃ頭に髭面、忘れようがないが―――フィンは慌てた。
「ちょっと! どういうつもりなんです? これは?」
「お分かりにならないか?」
「あんたも破滅することになるんだが、いいのか?」
だがフェデレ公はそれには答えず、エレバスに目配せする。
エレバスは不敵な笑みを浮かべると数歩前に出て……
「つまらん仕事だと思って来てみれば、何とこんな美味しい話だったとはな」
そう言ってにやっと笑う。
《ちょっと待て》
フィンは頭の中が真っ白だった。
何故だ? 何でこんな展開になってるんだ?
フェデレ公は何でこんな暴挙に出てるんだ。こんなことしたって何もいいことはないはずだが?
あの偽手紙を見た時点で、フェデレ公はたとえフィン達をここで殺したとしても、本物が別ルートで王に届けられる筋書きになっていると分かったはずだ。
だとすればここでフィン達と戦う意味はもうない。
やるとしたならさっさと逃げるくらいな物のはずだが?
もちろん八方破れになっているとも考えられる。
だがフェデレ公もエレバスもそんな自暴自棄になっているようにも見えない。
《どうするよ?》
だが親衛隊は出てこない。
この状況を驚いて見守っているのだろうか。
彼らも多分エレバスは知っているだろうし、奴相手だと親衛隊の手練れでも危険だが―――そんなことも言ってられないはずだが……
フィンは周囲を見回す。だが動きはない。
《もう少しこっちで時間を稼げってことか?》
多分そうに違いない。
そこでフィンはアウラを見た。
念のためのはずのあの下見が、いきなり役に立っているのだが……
「大丈夫か?」
フィンは囁いた。それに対してアウラはちょっと考えてから答えた。
「うーん……五分って所?」
五分だって? フィンはコケそうになった。
《こいつは……なんて正直なんだ?》
というか、それって五十パーセントの確率で死ぬって事じゃないのか? なのに全然怯えている風でもないし―――いったいどうしてそんな局面でこんなに落ち着いてられるんだ?
だがアウラの表情はもはやいつもの彼女のそれではなかった。
《!》
あの戦いのときに一度見た、戦士としての顔になっている。
アウラは薙刀を抜き放ち―――次いでフィンの耳元で囁いた。
「いざとなったらあれで……」
「え? あれって……後ろからの?」
「うん」
アウラは軽くうなずく。
《あれかよ……》
あれは―――でもこうなったら仕方ない。
フィンは彼女にうなずき返すと、それから頬に軽くキスをした。
アウラがにこっと笑う。
「じゃ」
「ああ……」
何だかすごく立場が反対な気もするが―――だがこの場合は仕方がない。
ここは彼女に任せるしかないのだ。
まあ、たとえ相手がエレバスだろうが、アウラがそんなすぐにやられるとは思えない。そうやってある程度時間稼いでくれたら、親衛隊が何とかしてくれるに違いない。
フィンはそう思うしかない―――その間にアウラが数歩前に出た。
それに合わせてエレバスも前に出てくる。
二人は広場の中央付近で黙って睨み合った。
それから―――まるで時が止まったかのように、二人ともぴたりと動きを止める。
そのままじりじりと時間が経過していくが―――そこで業を煮やしたフェデレ公が言った。
「エレバス。何をしている? さっさとやれ!」
「やかましい。あんたの目は節穴か?」
「何だと?」
それからフェデレ公はアウラを見て、もう一度何かを言おうとしたが、結局口には出さなかった。
彼には目の前の娘がそれほど危険な存在とは思えなかったのだろう。
間違いなくそれが普通の感覚だ。
誰が見たってアウラじゃエレバスの相手ではないと思うはずだ。
だが彼はまたエレバスの強さも知っているはずだ。
その彼が危険な相手と言うのであれば彼を信じるしかない―――そう思ったに違いない。
《それにしても……フェデレ公にあんな口の利き方をするなんて……》
エレバスは単なる雇われとは違うのだろうか?―――まあこの状況ではどうでもいいことだが……
先に動いたのはアウラだった。
彼女はふっと手にしていた薙刀を構え直す。
その構えは前回の対決で最後に彼女が構えた構え、すなわち下段で刃を上に向けたあまり見たことのない構えだ。
それを見たエレバスの口元に笑みが浮かぶと―――彼も構えを変えた。
前回同様中段斜めの構えだ。
《続きをやるつもりか?》
あのときはここでエレバスが剣を引いたので両者無事に終わった。
そこから続きをやるということは?―――この先、もうどちらかが傷つくか倒れることになるということじゃないのか?
フィンは背筋が冷たくなってきた。
だとすれば、早めに例の技を使ってみるしかないのか?
だが―――次の瞬間アウラが横に回り込むように動き出したのだ。
あの技は彼女の真後ろ立っていないと使えないのだが―――まだ手を出すなと言うことなのか?
アウラの動きに合わせてエレバスもまた回り込む。
二人は六十度ほど回った所でまた停止して睨み合う。
次いでアウラがつつっと間合いを詰め始めた―――と思った瞬間、途中から一気に加速して薙刀を薙ぎ上げる。
だがエレバスもそれを躱すと横に回り込んで反撃を加えるが―――今度はアウラがそれをぎりぎりで躱す。
二人はそれからめまぐるしく動き始めた。
アウラの薙刀とエレバスの剣が二人の間で激しく交錯し始める。
それなのに二人の刃はほとんどぶつからず、接触したときにもカキーンとぶつかるのではなく、しゅっとこすれあうような音を立てる。
フィンの目には何がどうなっているやらさっぱりだ。
それからぱっと二人が飛び離れる。
二人とも大きく肩で息をついている。
よく分からなかったが二人とも息をしている暇さえなかったのかもしれない……
《どうなるんだよ? これ?》
見るとフェデレ公も唖然とした表情で二人の戦いを見つめていた。そりゃそうだ―――誰だってこんな物を見せられてはそうなるに決まっている。
と、そのときまたアウラが横に回り込み始めた。
エレバスもそれにあわせて回り込むが―――アウラが丁度フィンとエレバスの間に割り込む位置で止まったのだ。そして足下を確かめるように軽くとんとんと地面を踏み直す。
《やる気かよ?》
それはあらかじめ決めておいた合図だった。
こうなったらフィンも腹を決めるしかない。アウラの命がかかっているのだから……
アウラはまたさっきと同じ構えをとった。
エレバスも同じだ。
同時にフィンも黙って精神を集中する。
次いでアウラがまたつつっと間合いを詰め始めて―――同様に一気に踏み込んだ。
《行けーっ!》
同時にフィンはアウラの真後ろから衝撃の魔法をぶっ放した。
この距離ではダメージなどほとんど与えられない―――だがその魔法は踏み込んで加速したアウラに、もう一段階の加速を与える効果があった。
これも今回の旅の間にでっち上げていた合体技だった。
確かどこかの川縁でアウラを魔法で放り上げて遊んでいたら彼女が言い出したのだ。
もちろん二人ともおもしろ半分だったのだが―――それを今こうして使うときが来るなど、想像もしていなかった。
だがそれは無駄ではなかった。
「うおっ!」
エレバスが声を上げてのけぞり、後ろに飛んで逃げようとするが―――時すでに遅く、その体をアウラの刃が捉えていた!
《やったか?》
だが次の瞬間、アウラもバランスを崩してよろめいた。
それをエレバスが見逃すはずがなかった―――素早く体勢を立て直すと、横殴りの剣がアウラを襲う。
アウラは薙刀の軸でそれを受け止め、その勢いを利用して後方に飛び離れた。
フィンはエレバスを見る。
確かに奴に一太刀入れている。
奴の肩口にかなりの傷が見えるが……
《浅かったか?》
その切り口からかなりの血はにじんでいるが、エレバスは全く堪えているようには見えない。
「今のは面白かったな?」
エレバスはにやにや笑いながら言う。
だがアウラも似たような物だった。
「傷ついちゃったじゃない。高かったのよ? これ」
彼女は傷ついた薙刀の柄を見せた。
何なんだろう? こいつらは……
《っていうか、ラーヴルで柄を替えてなきゃ……》
あそこで真っ二つにされてたってことか⁈
フィンは一瞬気が遠くなったが……
《いや、あの柄だから敢えてあんな避け方をしたんで……》
前の木の柄だったら別な避け方をしてたに違いない。そうだ。そうに決まってるじゃないか! あはは!
………………
ともかく、フィンとアウラの合体技は効果がなかったわけではないが、奴を仕留めるまでにはいかなかったわけだ……
《とすると……?》
ネタがばれた以上、もう引っかかってはくれないだろう。
《とすると……》
この場でフィンにできるとすれば、例の炎の魔法だが―――目標はあんな遠くで、しかもあれだけ激しく動いているのだ。どうしようもない。
《じゃあ、どうすればいいんだ? というか、親衛隊は⁈》
フィンがそう思った瞬間だった。
遠くからぱちぱちぱちという拍手の音が聞こえてきたのだ。
振り向くと―――やってきたのはなんとアラン王本人だった!
王が拍手しながら近づいて来る。
「アラン……様?」
フェデレ公もその姿には驚いたようだ。そう言った口が開いたままだ。
アラン王は親衛隊と共に広場までやってくると言った。
「二人とも。そこまでだ。いいな?」
最後の言葉はフェデレ公に向かってだった。公はしばらくぽかんとしてからそれに気づき、慌ててエレバスに言う。
「控えろ!」
「ああ?」
エレバスも良く状況が分かっていないようだ。
「いいから控えろ」
フェデレ公のほとんどヒステリックな言葉を聞いて、エレバスは拗ねたような顔をして剣を納めるとアウラに向かって言った。
「続きはまたみたいだな」
「そうね」
アウラもうなずくが―――当然状況は彼ら以上に分かっていないようすだ。
それはもちろんフィンも同様だった。
《ってか、どうしてアラン様がここに?》
そんな話は全く聞いていないのだが……?
すると王が笑いながら言った。
「いや、またとない見物であったのでな。止めるのが遅れてしまった。すまんな」
「は、はい……」
ちょっと、こっちは命がけだったんだぞ! と突っ込みたかったが―――何しろ相手は王だ。フィンは黙って頭を下げた。
次いでアラン王は厳しい顔になるとフェデレ公を睨む。
「それにしてもフェデレ。お前には失望したぞ」
「し、しかし、アラン様」
フェデレ公はしどろもどろだ。そんな彼をアラン王は一喝した。
「黙れ! このざまは一体なんだ? お前のためにどれほど厄介なことになったか分からぬのか?」
そうだ。こいつのせいで一体どれほど厄介な目にあったことだろう……
《ってあれ?》
王の科白が何だか妙にぴんと来ないのだが―――フェデレ公に対して怒っているのはいいとして、この場合なら『この裏切り者め!』とか言うべきなんじゃ?
その瞬間だ。アウラがあっと声を上げた。
「ん?」
フィンが驚いて振り返ると―――目に入ったのは、彼の首筋にぴたりと突きつけられている抜き身の剣だった。
「え?」
そうしていたのは親衛隊長のベルヴァだ。
「あ、あの?」
「申し訳ない。ル・ウーダ殿」
ベルヴァが済まなそうな顔で言った。
「え?」
フィンは言葉が出ない。
「ちょっと!」
アウラが薙刀を構える。
だが彼女に向かって王が言った。
「すまんな。アウラ殿。その薙刀をこちらに頂けないだろうか?」
アウラは王を睨んだ。王はアウラの目を見据えると言った。
「お二人の命は保証する。だから薙刀を預けてもらえないだろうか?」
アウラは一瞬気圧されたようだが、ぐっと唇を噛むと答えた。
「嘘ついてないってどうして分かるのよ?」
すると王はフィンに言った。
「ル・ウーダ殿には分かるであろう? もしお二人の命を奪うつもりであれば、今までいくらでも機会があったということは?」
フィンは目を見張った。
《確かに……アラン様が敵だったとすれば、それこそいくらでも機会なんてあったよな?》
ということは―――今すぐ彼が二人を殺そうとしているわけではないのは確かだろうが……
だが―――獲物は見事に罠に落ちたのだ。
それを知ってフィンは大きく溜息をつくとアウラに言った。
「アウラ。それ渡して」
「でも」
アウラが歯を食いしばる。だがフィンは黙って首を振る。
彼女はそれを見てうなだれると、薙刀を鞘に収めて親衛隊の一人に手渡した。
「それでは申し訳ありませんが……」
ベルヴァ隊長はそう言って二人に目隠しをすると、どこかに導き始めた。